『彼の理由 彼女の理由』



 ――将来の夢は?

 不意にそう聞かれた。

 しばらく考えてみたが、何一つ思い浮かばない自分がいた。

 頭の中をどれだけ探しても、夢などかけらも見つけることが出来なかった。

 一体、いつからだろう?

 夢を――見なくなったのは。

 一体、いつからだろう?

 未来に――望みを抱かなくなったのは。

 一体、いつからだろう?

 未来の自分の姿を――思い浮かべることをしなくなったのは……。


一.

「どうしたのだ、先輩?」
 横から声がかかり、我に返る。
「いや、なんでもねーよ」
 特に何かを考えていた訳ではない。ただ、なんとなくぼんやりと取り留めのない思考に耽っていただけだ。
「先輩。悩み事があるなら、遠慮しないで言ってくれていいのだぞ?」
 隣を歩く小柄な女の子が、少し心配そうな顔で俺を見上げてくる。
「本当に違うからよ。ちょっとぼーっとしてただけだから、心配すんな」
 女の子が「そうか」と言いながら、ほっと息を吐く。その姿を横目で見ながら、少し後ろめたい気持ちになる。
 この小柄な女の子の名前は沙條由佳利(さじょう ゆかり)。俺の一つ下で高一の女の子だ。
 その彼女に、俺は先月告白された。
 それからというもの、俺は校門前で待つ由佳利と一緒に帰るのが日課となっている。
 とは言え、俺達は付き合っている訳ではない。
 なぜなら、俺は由佳利の告白を断ったのだから。
 由佳利が気に入らなかった訳ではない。
 由佳利は正直かわいいと思うし、性格についても一部おかしな所があるものの、素直ないい娘だと思う。
 それでも俺は由佳利の告白を断った。
 理由は簡単。
 今の俺には、誰とも付き合うつもりがないからだ。
 愛だの恋だのと騒いで、傷つけ、傷つけられ……そういうものが耐えられないくらいに俺は嫌だった。
 だから、由佳利にも正直にそう告げた。
 だが、それでも由佳利は全く怯まなかった。
 俺の言葉を受け止めた上で、由佳利は俺の目をしっかりと見据えたまま、こう言った。

 大丈夫だ。たとえ自分がどれだけ傷ついても、私は先輩は傷つけないから――と。

 その日から、由佳利は毎日こうして校門の前で俺を待つようになり、俺を見つけると、横に並んで一緒に帰るようになった。
 二、三日はほとんど無視していた。
 下手に希望を抱かせても傷つけるだけだと思ったからだ。
 だが、しばらくすると、俺の方が折れた。
 無視し続けるのもかわいそうに思えてきて、つい、二言、三言、言葉を返してしまった。
 日が経つと共に返す言葉は増えていき、終いにはこうして普通に会話をするようになってしまったのだ。
 だからといって、考えを変えてしまった訳ではない。恋愛で自分が傷つくのは嫌だし、由佳利を傷つけるのもまた嫌だった。
 それなのに、俺はずるずるとこの関係を続けている。
 やめてくれ、という一言が言えないでいる。
 由佳利と過ごす時間が、あまりに居心地がいいからだ。
 由佳利はけして俺の愛情を無理に引き出そうとはしない。
 普通に俺に接し、普通に俺を受け入れてくれる。
 そんな由佳利に、俺は甘えているのかもしれない。
 由佳利に申し訳なく思うと共に、無性に自分が情けなかった。
「先輩?」
 名を呼ばれて、俺は思考を閉じた。
「本当にどうしたのだ? 悩み事なら私に任せてくれ。それがたとえ性的な悩みであったとしても、全力で当たる覚悟はあるからな」
 由佳利が真顔で言う。
「いや、たとえそんな悩みがあったとしても、お前には相談しねーから、そのアホな覚悟は捨てておけ」
 ため息を吐く。由佳利は基本的に素直でいい娘なのだが――このように、一部、明らかにおかしい所があるのだ。
「いや、恥ずかしがる必要はないぞ。先輩がどんな性病をもっていたとしても受け入れる覚悟が私にはあるから大丈夫だ」
 再びため息を吐く。
「性病なんてもってねーから安心しとけ」
「そうか……それは残念だな」
 一体何が残念なのかよく分からないが、聞くのが怖いからやめておこう。
「ところで、先輩。一つ頼みがあるのだが、聞いてくれるか?」
 突然、由佳利がそう言った。
 どうやら、下ネタ話は終わりのようだ。
「内容にもよるけど、何だ?」
「私の胸を揉んでくれないか?」
 終わってなかった。
「拒否する」
 俺のにべもない返答を受け、由佳利が眉根を寄せる。
「言い方が悪かったみたいだな。こう……私の乳房をエロく揉みしだいてはくれまいか?」
「断固拒否する」
 即答した。
 由佳利が深くため息を吐く。
「つれないな、先輩。先輩に想いを寄せるかわいい後輩が、恥ずかしいのを我慢して頼んでいるというのに」
 前半部分は俺も同意してもいい。確かにこいつはかわいいと思うし、応えることができなくて申し訳ないが、俺に想いを寄せてくれているというのも、正直なところ嬉しくはある。だが――
「おまえは、俺の女子に対する幻想を木っ端みじんに打ち砕くのが目的なのか? というか、俺の認識が間違ってるのか? 世の中の女というのは、恥じらいながら、路上で男に胸を揉むように要求するのが普通なのか?」
 そんな女ばかりの世の中はすごく嫌だ。
「そうか……すまない、先輩。私の配慮が足りなかったようだ。私も女としてもう少し恥じらいをもった言動を心掛けねばいけなかった」
 由佳利が小さく頭を下げる。
 どうやら、分かってもらえたようだ。
「では、先輩。こう……私のやわらかな双丘をその大きな手の平でやさしく包み込んでもらえないだろうか? ちなみに、若干乱暴めに動かしてもらえると私としては嬉しいと思うのだが」
 全然分かっていなかった。
「お前は一回、恥じらいという言葉を辞書で調べてこい!」
「いや、そうは言うがな、先輩。やはり、胸を揉むように要求するというのは、どう言い換えても、恥じらいというのが出にくいと思うのだ」
 由佳利が難しい顔で俺を見上げながら言う。
「いや、表現がどうのとか言う前に、その要求自体をどうにかしようと思え!」
「それは無理だ。死んだ父と母の遺言で、常に正直に生きなさいと言われたからな。いくら先輩の頼みとは言え、自分の欲望をごまかすことはできない」
 由佳利が毅然とした態度で断言した。
「いや、そこはごまかさないと、死んだ両親も悲しむぞ?」
「…………」
 いきなり由佳利が下を向いて黙り込んだ。
「どうした?」
「いや……いま、急に思い出したんだが、私は定期的に胸を揉んでもらわないと死ぬ病に罹っているんだ。ここはひとつ、かわいい後輩の命を助けると思ってだな」
 由佳利が僅かに眉根を寄せ、苦しそうな演技をしながら両手を自分の顔の前で合わせる。
「そんな病があってたまるか! てか、正直に生きろっていうご両親の遺言はどうした!」
「何を言っているんだ、先輩。私の両親は共に健在だぞ?」
「なあ……ちょっと殴っていいか?」
 由佳利の俺に対する想いは本物だ。それくらいのことは俺にだって分かる。だが――それでも時々思うことがある。

 俺はこいつに遊ばれているんじゃないか――と。


二.

 十二月に入り、めっきり寒くなる日が増えた。
 今日一日の全ての授業を終えたにもかかわらず、俺はまだ二年七組の教室にいた。早く帰りたいとは思うが、担任の大橋が教壇に立って熱弁を振るっているのでそういうわけにもいかない。
「僕は君達に、人の気持ちを考えることのできる人間になってもらいたい! 平気で人を傷つけるような人間になってもらいたくないんです!」
 大橋の大きな声が教室にこだまする。
 議題に上がっているのは、いじめ。
 このクラスでいじめが行われているということが、大橋の耳に入ってしまったらしいのだ。いつもは機械みたいに淡々と授業を進めていくイメージしかもっていなかった担任が熱く語りかけている様を、ほとんどの生徒が少し引き気味な視線で見つめていた。
 無論、俺も自分のクラスの出来事なので、いじめがあることは知っている。それほど陰湿なものではないが、ある一人の男子生徒を、他の三人の男子生徒がちょくちょくからかっては遊んでいた。無論、陰湿じゃないと感じるのは俺の主観であって、当事者にとっては耐え難い苦痛だったのかもしれないが。その男子生徒は、大橋の熱弁を視線を伏せたまま聞き入っていたが、時々、少し顔を上げては、自身をいじめている生徒達の顔をちらちらと窺うように見ていた。大橋は名前こそ出さなかったが、自分たちのことを言っているのだということは本人たちが一番よく分かっているのだろう。いじめをしていた生徒たちは、大橋の視線が外れるたびに、ターゲットである男子生徒を「おまえのせいだ」と言わんばかりの視線で睨みつけていた。それらの視線と目が合うたびに、その男子生徒が、さっと目を伏せる。
 大橋の言うことは正しい。だが、正しいからと言って、その言い分を皆が素直に聞く訳ではない。特にこういう類いの人間は、正論を吐かれると、とかく反抗心を持つものだ。おそらく、いじめは治まらないだろう。どころか、当事者たちのこの様子を見ると、これを契機にもっとエスカレートする可能性の方が高い。老熟した教師であれば、そういうことも考慮してうまく治めてくれるのだろうが、大橋はまだ若い教師だから仕方がないのかもしれない。これから経験を積み、そう言ったことも学んでいくのだろう。
 まあ、どちらにしても俺には関係無いことだ。俺はいじめに参加するつもりもないし、ましてやいじめられることを素直に受け入れるほどおとなしい性格でもない。クラスの中でいじめがあろうとなかろうと、所詮、対岸の火事の出来事にすぎない。よって、俺にとっての今この場での最大の問題は、いつになったら帰宅できるのかという一点に尽きるのだ。
 窓から外の景色を見る。
 校庭の隅に植えられた何本かの広葉樹たちは、全ての葉を散らした寒々しい姿をさらしていた。
(大丈夫かな、あいつ……)
 校門は校庭とは反対方向にあるので、残念ながらこの場所からは見えない。だが、由佳利のことだ。俺の帰宅が遅いからといって、一人で帰るようなことはしないだろう。きっと――この寒空の下、由佳利は自分を振った男を待ちつづけているはずだ。
 由佳利は、一体どんな気持ちで俺のことを待っているのだろう。
 由佳利の気持ちがよく分からない。
 このままなし崩し的に付き合うようになるのでは、と期待しているのだろうか。それとも――恋人でなくとも、今の関係を続けられるなら、それでいいと割り切っているのだろうか。
 分からない。
 どちらにしても、由佳利の好意が本物であることには変わりない。
 このまま、由佳利と共有する時間を積み重ねて行けば、その好意の分だけ由佳利自身が傷つく結果に終わる。
 それを考えると――心が痛む。
 由佳利を傷つけたくない。
 自分が傷つくのも嫌だが、今はそれ以上に、由佳利を傷つけることのほうが嫌だった。告白から僅か一カ月。短い帰宅時間を共有しただけだが、それでも由佳利の真っ直ぐな気持ちは十分すぎるほど伝わってきた。その純粋な心に取り返しのつかないような傷を与えてしまうことが、たまらなく怖い。
 今ならばまだ取り返しがつく。全く傷つけないなんて事は無理だろうが、たとえ恨まれるようなことになったとしても、すっぱりと縁を切るように由佳利に言い渡せば、由佳利の心の傷は最小限で済むのだ。
 それなのに――。
 自分がこんなに情けない男だとは思わなかった。
 由佳利が傷つくことが分かっているのに、由佳利の一途な想いをいいことに現状を黙認している。
 自分自身に激しい嫌悪を抱く。
 なのに――。
(まだ待ってるかな、あいつ……)
 それでもなお、由佳利との関係を断ち切れない自分がいる。
 無論、いつまでもこのままでいようなどとは思っているわけじゃない。
 ずっとこのまま――などと虫のいい考えを抱いているわけじゃない。
 ただ、できるならば、もう少しだけ、このままの関係を続けていたかった。
 それが偽らざる俺の本音だ。
 本当に――情けない。
 結局のところ、俺は由佳利の心より、自分の居場所を優先させているのだ。
 だが、どれだけ由佳利に依存したとしても、決定的な傷を残す前に身を引かなくてはならない。
 どんなに由佳利のことを大事に思っても――俺は由佳利を好きになることだけはできないのだから。


「遅かったな、先輩」
 いつもより遅れること三十分、大橋の長い熱弁から解放された俺は、ようやく校門にたどり着いた。
「悪いな。寒いのに待たせちまって……ちょっと担任の長話があってよ」
 素直に謝ったが、由佳利は気分を害したふうでもなく、小さく首を横に振った。
「気にしないでくれ。先輩が悪い訳じゃない。私が勝手に先輩を待っているだけなのだからな」
 由佳利の言葉に、俺は少し申し訳ない気持ちになりながら、首に巻いた厚手のマフラーを外し、由佳利の首に巻き付けた。
「……あったかいな。それに、先輩の匂いがするぞ」
 由佳利がマフラーに手を当てながら、クンクンと鼻を動かす。
「わりぃ……汗臭かったか?」
 自分自身、それほど体臭はきつくない方だとは思うのだが、女の子はそういう匂いに敏感なのかもしれない。
「いや、別に臭いという訳ではないから安心してくれ。というか、むしろすばらしい匂いだから安心してくれ」
 そう言うと、由佳利はマフラーに鼻を押し付けて、思いきり吸い込んだ。
「いや、むしろお前のことが安心できない。というか、返せ!」
 由佳利の首からマフラーを取ろうと手を伸ばすと、由佳利がサッと身を引いた。
「悪いが先輩、すー、これはもう、すー、私のものだ!」
 由佳利がマフラーの匂いを思いきり吸い込みながら叫んだ。
「いや、貸しただけだし……そもそも、マフラーは匂いを嗅ぐもんじゃねえだろうが……」
 呆れ声の俺の言葉を無視して、由佳利がなおも匂いを嗅ぎつづける。と、由佳利の動きがいきなりピタリと止まった。
「どうしよう、先輩……」
 由佳利がようやくマフラーから鼻をはずし、僅かに潤んだ瞳で俺を見上げてきた。
「少しばかり……興奮してきたのだが……」
 速攻でマフラーを剥ぎ取った。
「残念だ。もう少しで……」
 もう少しでいったいどうなっていたのか分からないが、ろくな答えが返ってこないことは確実なので聞き流すことにして、俺は由佳利から奪い返したマフラーを首に巻き付け直した。由佳利じゃないが、ふんわりと由佳利の髪の匂いが移っていて、少しドキッとした。
「どうしたのだ、先輩?」
 由佳利が俺の顔を覗き込むように見つめてきた。
 いきなり近づいてきた由佳利の顔に、鼓動がさらに加速していく。
「風邪でもひいたのか?」
 さらに顔を近づけてくる由佳利に「そうみたいだ」と答えながら、顔を背ける。
「そうか……ならば、良い治療法があるから、ぜひ試してほしいのだが――」
「こめかみに梅干しとか、首にネギとか言うのは勘弁してくれよ」
 ドキドキする心臓を必死に宥めながら、由佳利の方に顔を戻す。
「いや、そういう民間療法ではなくてな。これをやれば確実に元気になるんだ」
 由佳利が真剣な顔でそう言った。
 どうやら、真面目に心配してくれているらしい。
「点滴とか、そういう大袈裟なのも勘弁だぞ?」
 俺の言葉に、由佳利が分かってるとばかりにひとつ頷いた。
「大丈夫だ。すごく簡単だからな」
 そんなに簡単で、かつ確実に元気が出る治療法などあるのだろうか。考えてみたが、全く思いつかなかった。
「そんなすごい治療法があるなら、ぜひとも教えて欲しいが……」
 そもそも、風邪というのは恥ずかしさをごまかすための方便なので、どんな治療法も本当は無意味なのだが、少しばかり興味がわいてきた。
「これは本当に効くから、是非ともやってみてくれ。まずはネギを買ってきてだな――」
「ちょっと待て。ネギを首に巻くのはだめだってさっき言ったはずだぞ?」
「誰も首に巻くとは言ってないぞ。話は最後まで聞くものだ」
 俺の抗議に、由佳利が心外だと言わんばかりの表情を浮かべた。
 だとしたら、ネギをいったいどう使うのだろう。
 首に巻くんじゃないとしたら――生姜湯のように、手を加えて薬湯のように用いるのだろうか?
 考えを巡らす俺に、由佳利が胸を張りながら答えた。
「買ってきたネギを――挿す。以上だ。簡単だろう?」
 どこに、とは聞かなかった。
「お前はそれで俺が元気になると本気で思ってんのか? というか、お前は風邪引くたびにそんなことしてんのかよ!」
「何を言っているのだ、先輩。こんなもので風邪が治るはずがないだろう」
 俺の突っ込みに、由佳利が眉根を寄せながらそう言った。
「……いや、俺の記憶が確かなら、必ず元気になる治療法と、お前が言ったはずなんだが」
「その通りだが、どうかしたのか?」
 由佳利が不思議そうに首を傾げる。
「どうかしたのかじゃねえだろ! 何で元気になるのに風邪が治んねーんだよ!」
 というか、その治療法に効果を期待するのは間違いだろう。
「ああ、そうか。少しばかり誤解があるようだな」
 由佳利がポンと手を打ちながら言う。
「もう一度分かりやすく説明するとだな。まずネギを買ってきて、それを先輩のお尻に挿し込む。するとだな――」
「するとだな――?」
「私が元気になる」
 由佳利が何の衒いもなくそう言い切った。
「ちょっとまて! 何でお前が元気になるんだよ!」
 というか、俺の風邪はどこに行ったんだ?
「無論、興奮するからだ」
 断言しやがった。
「ちなみに挿す役は私が買って出るから安心してくれ」
 それで何をどう安心すればいいのか教えてくれ。
「ふふふ、先輩のお尻にネギを挿せる日が来ようとは思わなかったが、人生はどこに幸運が転がっているか分からんものだな」
 お前の幸福の基準は間違いだ。そう心の中で突っ込みをいれながら、疲れたため息を吐き出す。
「ん? どうしたのだ、先輩。ため息など吐いて。心配事があるなら相談に乗るぞ?」
 主にお前の頭が心配だ。心の中でそう呟きながら再度ため息を吐く。
「なんて言うか……お前って悩み事とかなくて幸せそうだよな……」
 俺の独白のような呟きに、由佳利が僅かに眉を顰めた。
「失敬だな、先輩。私にも悩み事くらいはあるぞ。まあ、それでも――」
 俺からは見えないだけで、由佳利もなにか悩みを抱えているのだろうか。
「先輩の隣にいられれば私は幸せなのだがな」
 媚を売るでもなく、自身を哀れむでもないその純粋な言葉に、俺は嬉しさと罪悪感とを感じ、何も言葉を返せなくなった。
 悩みがないはずがないのだ。
 俺自身が由佳利にとって悩みにならないはずがないのだから。
 他の悩みがあるのかどうかは分からないが、最低でも一つ、由佳利は悩みを抱えている。
「そんな顔をしないでくれ、先輩」
 いきなり黙り込んだ俺を見て、何を考えているのか察したのだろう。由佳利が俺の頬にそっと手を当ててきた。
「さっきも言ったように、私は幸せだ。だから、先輩には礼を言いたいくらいなのだ」
 由佳利が俺を見つめたまま、小さくほほ笑む。
「先輩。隣にあることを許してくれて……ありがとう」
 由佳利の言葉に、頬に添えられた由佳利の温かな手に、胸が締め付けられる思いがして、思わず由佳利の小さな体を抱き締めた。
「わりぃ……」
 そんな言葉しか言えない自分が情けなかった。
「気にするなと言っているのに……まったく、先輩は優しいな」
 由佳利が呆れたように小さく息を吐きながら、俺の胸に自分の額をくっつけてきた。
「あったかいな……」
 由佳利が嬉しそうに呟きながら俺の背に手を回す。
「わりぃ……」
 俺は抱き締めた腕の力を少しだけ強めながら、もう一度謝罪の言葉を口にした。


三.

「どこかおかしなところは?」
 カルテを目で追いながら、橋本というネームの付いた小太りの医師が尋ねる。
「特にどこも……」
 俺の回答を聞いて、橋本医師のどこか愛嬌のある目がカルテを追い、そこにミミズののたくったような不思議な文字を記していく。
「では、聴診器を当てるからね」
 橋本医師の指示に従い、シャツを捲り上げながら、机の上に置かれたカルテに視線を向けた。。
 カルテにかかれた名前は沢村雅彦(さわむら まさひこ)。俺の名前だ。目の前のカルテのファイルはかなりの厚さになっていた。俺の記憶が確かなら、このファイルで四冊目だったはずだ。この分なら、五冊目に突入する日もそう遠くないようだ。そして、その五冊目が――最後のファイルになるだろう。
「もう、いいよ」
 橋本医師が聴診器を外し、再びカルテに何かを記入する。
「今のところ問題はないけど……やはり気は変わらないかな?」
 カルテに伸びた手を止めずに、橋本医師が問いかける。
「はい」
 しっかりとそう返事を返すと、橋本医師が小さくため息を吐いた。
「わかったよ。でも、何か少しでも異常があればすぐにこっちに来るんだよ。それから――」
 橋本医師が、処方箋の紙に薬名を記しながら、毎度おなじみの言葉を口にした。

「くれぐれも――過度な運動はしないこと。いいね?」


「先輩?」
 会計を済ませ、薬が出来上がるのを待合所の椅子に座って待っていると、不意に後ろからそう呼びかけられた。
 驚いて後ろを振り返ると、そこには私服姿の由佳利が立っていた。
「やはり先輩だ。こんなところでどうかしたのか?」
 俺と同じように、由佳利もまた少し驚いた様子だった。
「お前こそ……何でこんなところにいるんだ?」
 俺の問いかけに、由佳利が憮然としてため息を吐いた。
「先輩。今日の帰り、言ったはずだぞ? 友人が入院しているから、帰った後その見舞いに行くと」
 そう言えば、そんな話をしていた気がする。
「そうか……わりぃ。で、その友達は?」
「ああ、盲腸でな。もう、手術も終わったし、来週には退院するらしい。それで、ちょっと見せてもらったのだが――本当に剃っていたぞ」
 由佳利がニヤリと笑う。
「なかなかかわいい娘でな。どうだ、先輩。何なら、もう一度行って、先輩にも見せてくれるように頼み込んでみるが?」
「結構だ。て言うか、病人にアホなことさせんな」
 由佳利も由佳利だが、自分の下半身をさらけ出すその友人というのもどうなのだろうかと思う。
「それより、先輩はどうしてここにいるのだ?」
 由佳利が最初の質問を繰り返す。
「風邪だよ。帰り言ってただろ?」
 俺がそう答えると、由佳利がひどく驚いた顔をした。
「本当に風邪だったのか……」
 どうやら、由佳利は俺の嘘を見抜いていたらしい。嘘と分かった上で、俺をからかっていたようだ。
「すまない、先輩。てっきり冗談だと思っていたから……本当にすまない」
 由佳利がそう言って頭を下げる。
「いや、そこまで謝んなくてもいーからよ。あれが冗談だと分かってむしろほっとした」
「そうか。それならいいのだが……でも、大丈夫なのか?」
 由佳利が俺の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「そんなにたいしたことねーみてーだから、心配すんなよ」
 由佳利を心配させないように、軽い口調で言う。だが、由佳利の心配はまだ晴れないようで、じっと俺の顔を見つめたまま、右手を伸ばしてきた。 
「おい、何を――」
「いいから、じっとしててくれ」
 由佳利の小さな手の平が、俺の額に触れる。
 恥ずかしさに払いのけようかとも思ったが、由佳利があまりに真剣な顔をしているので、言われるままじっと動かずに、目だけを逸らした。
「熱は……ないみたいだな」
 由佳利の手が離れる。
「言っただろ。たいしたことないって……」
 恥ずかしさの余韻から、目を逸らしたまま少しぶっきらぼうに言う。
「うむ。だが、気を付けてくれ。たかが風邪だが、風邪は万病の元と言うくらいだからな。しっかり薬を飲んで、温かくして寝てくれ。もしも看病がいるようなら、私でよければいつでも駆けつけるから、気兼ねせずに連絡をいれてくれ」
 由佳利がそう言いながら、ポケットから携帯を取り出して見せた。
 一応、由佳利と一緒に帰るようになってから、携帯の番号は交換してある。ただそれは、夜中に長話をするためではなく、不意に急用ができて、一緒に帰ることができたくなった時のための連絡手段として交換したに過ぎない。由佳利もその辺はわきまえているようで、今まで由佳利から俺の携帯に電話がかかってきたことは一度もない。
「気持ちだけ貰っとく。でも、本当に大丈夫だからな」
 俺がそう言うと、由佳利が素直に「分かった」と言いながら携帯をしまった。
「ところで、見舞いは一人で来たのか?」
 普通、クラスメイトの見舞いと言えば連れ立って行きそうなものだが、由佳利はどうも一人で来ているようだった。
「いや、本当はクラスのみんなと一緒に来るはずだったのだが、少し遅れたのでな、私だけ後から来たのだ」
「そうか。わりぃ……」
 遅れた原因は俺だ。俺を待っていたせいで由佳利は遅れ、一人で見舞いに行くはめになったらしい。
「いや、先輩のせいじゃない。待っていたのは私の勝手だ。一人で先に帰るという選択肢もあったのだからな。それで先輩を責めるのはお門違いだろう。それに、一人で来たからこそ、こうして偶然先輩に会えたのだ。先輩には感謝しているよ」
 そう言いながら、由佳利が本当に嬉しそうに笑う。その笑顔に、嬉しさと申し訳なさが同時に込み上げ、どう言葉を返していいのか分からなくなってしまった。と、そこに助け舟を出すように、受付が俺の名を呼んだ。
「先輩の名だ。私が取って来てやるから待っていてくれ」
 由佳利がそう言って、受付に向かって歩きだそうとした。慌てて由佳利の手を掴み、その場に止どまらせる。
「いや、薬くらい自分で取りに行けるからよ。それより、ちょっと待っててくれ。薬貰ったら送って行ってやるから」
 俺が早口にそう言うと、由佳利は少し眉根を寄せながら俺を見つめて来たが、ただ「分かった」とだけ言ってくれた。
 受付が再び俺の名を呼ぶ。
「ちょっと待っててくれ」
 俺は由佳利にそう告げると、すぐに受付に向かい、そこで三つの小さな薬袋を受け取った。それらをコートの内ポケットに隠すように仕舞い込む。
 これだけはどうしても由佳利に見せる訳には行かない。
 薬名だけなら由佳利には分からないかもしれない。だが、生憎、袋にはしっかりと受診した科の名前が記されている。さすがにこれを見たら、由佳利も俺が風邪ではないことに気づくだろう。
 風邪を引いているのに――循環器科にかかるバカは居ないだろうから。

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