『彼の理由 彼女の理由』


七.

 激痛に、胸を押さえながら膝をつく。
 息が苦しい。
 必死に肺に酸素を送り込もうと精一杯空気を吸い込むが、俺の周りだけ空気が無くなってしまったかのように、一向に息苦しさが治まらない。
 体が傾ぐ。
 そのままコンクリートの地面に倒れ込むと、必死に全身に力をいれて、どうにか仰向けに寝転んだ。
「沢村君!」
 中島が駆け寄って来る。
「だい……じょうぶだ……」
 なんとかそう答えながら、学生服の内ポケットに手を突っ込んで、アルミのシートで包装された薬を取り出した。
 どうやら、さっきのは無理な運動だったらしい。
 むかつくくらいに正直な自分の体に嫌気がさしながら、シートを破り、中の錠剤を二錠、手の平に乗せる。

 ――大丈夫。いつものことだ。

 恐怖に飲まれそうになる心にそう言い聞かせながら、錠剤を口に運ぼうとした。だが、さっきの八嶋たちとの激しい運動が祟ってか、手が震えて錠剤を取り落としてしまった。
「くそ……」
 落とした錠剤を拾おうと手を伸ばそうとしたら、再び胸に激痛が走った。
 やばい。
 意識が飛びそうになる。
 落ちた薬を諦め、もう一度内ポケットの薬を取り出そうと思ったが、腕に力が入らなかった。

 ――これで、終わりなのか……。

 由佳利の顔が頭に浮かぶ。
 こんな不良品の男のわがままにつき合わせて、傷つける結果に終わってしまった。
 胸が苦しい。
 心臓の発作の痛みに負けないくらいに胸が締め付けられる。
「わりぃ……ゆか……り……」
 こんな陳腐な謝罪の言葉しか浮かばない自分がさらに情けなくて涙が出そうになった。
 こんなことになるなら、もっと早くに由佳利を拒絶するべきだった。
 胸に走る強烈な痛みと、深い懺悔の気持ちが駆け巡る中、意識を落ちそうになる。
「沢村君! 口開けて!」
 中島の声。
 どうにか口を開け舌を持ち上げると、すぐに舌の裏側に小さな固まりが二つ落とされた。舌を下ろし、舌裏に落とされた二つの錠剤を挟み込む。
(大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ)
 息苦しさに必死に耐えながら、何度も自分にそう言い聞かせる。
「先生呼んで来るよ!」
 叫ぶようにそう言って、中島が立ち上がろうとする。
「いい。……呼ばなくて……いいから……」
 必死に叫んだつもりだったが、口から出たのは自分でも情けなくなるほどか細い声だった。中島が立ち上がったままの姿勢でしばらく俺を観察した後、また俺の傍らにしゃがみこんだ。
「わかったよ。でも、ほんとに大丈夫?」
 意外と冷静な中島の様子に少し驚きながら、俺は中島に小さく頷いて見せた。中島の好意はありがたいが、ここで騒ぎになるのは御免だった。この学校で、俺の病気のことを知っているのは教師だけだ。同情や哀れみなんか欲しくはない。そう思い、今までずっとばれないようにと気を付けて過ごして来た。その苦労をこんなところで無駄に終わらせたくはないし、なにより、由佳利に気づかれることだけは避けたいと思った。由佳利との関係が崩れてしまうのは絶対に嫌だった。
(駄目な奴だな……)
 ついさっきまで由佳利を拒絶するべきだったと思っていたのに、もうこれだ。
(どれだけ情けない男なんだよ、俺は……)
 苦しみの中、自嘲的な笑みが漏れる。
 だが、それでも頭に浮かぶのは、由佳利の顔ばかりだった。


 しばらく横になったままじっとしていると、薬が効いてきたのか、随分と体が楽になってきた。
「もう……大丈夫だ……」
 俺の傍らに座り、不安そうに覗き込んでいる中島にそう告げる。
「本当に大丈夫?」
 心配そうに問う中島に再度「大丈夫だ」と言いながら、体を起こす。
「保健室……行く?」
 中島の問いかけに首を横に振って答える。
 もう発作は治まったのだ。保健室に行ったところで、してもらうことは一つもない。それよりも――
「中島……今のことは見なかったことにしてくれないか?」
 中島さえ黙っていてくれれば、俺はいままで通り生活することができる。たとえ、それがわずかな時間だったとしても、俺にとってそれは、かけがえのない大切な時間だ。
「うん……わかったよ」
 中島の返答に安堵の息を漏らす。
「ねえ、沢村君。さっきのって……心臓の薬だよね?」
 中島がそう聞いてきた。
 一瞬、ごまかすべきか迷ったが、俺はしばしの沈黙の後、「ああ」と答えた。
「やっぱり。お爺ちゃんが発作の時、同じ薬飲んでたから」
 どうやら、中島の祖父も心臓に病を抱えているらしい。その祖父の発作の様子を見ていたから、中島は慌てる事なく俺に薬を飲ませることができたのだろう。
「心臓……悪いの?」
 心配そうに聞いてくる中島に、俺は小さく首を横に振って見せる。
「時々こうやって発作が起きるけどな……たいしたことはないんだ。でも、病気持ちって目で見られるのは御免だから、皆には黙っておいてほしい」
 中島が安堵するように「よかった……」と小さく呟いた。胸がチクリと痛む。
「とにかく助かった。ありがとな」
 中島にそう言いながら立ち上がる。
「あ、ちょっと待って……」
 そのまま立ち去ろうとしたら、中島に引き留められた。
「ん? どうした?」
 中島の方に振り返ると、中島が俺の視線から逃れるように視線を下に落とした。そんな中島の様子にため息がこぼれたが、今度は苛立ちを感じることはなかった。発作が起きたお陰で、胸の中のもやもやが吹き飛んだお陰だろう。
「用があるなら言ってくれ。ないなら、もう行くぞ?」
 俺がそう言うと、中島が慌てたように顔を上げた。だが、俺と目が合うとすぐにまた視線を下げてしまう。
「怖がんなくてもいい。俺は別にお前を取って食ったりしないからな」
 苦笑とともにそう言うと、中島が「ごめん……」と言いつつ、少し恥ずかしそうに顔を上げた。
「謝んなよ。別に怒ってる訳じゃねーんだし」
 俺の言葉を受け、中島が再び「ごめん……」と繰り返す。
「もういいって。それより、なんか用があるなら言ってくれ。さっきの礼もあるし、俺にできることならやってやるぞ?」
 中島のおどおどした様子から、八嶋たちの復讐を恐れているのだろうかと思ってそう聞いたのだが、中島はふるふると首を横に振った。
「ううん。沢村君になにかしてほしい訳じゃないんだ……。ただ、沢村君の……絵を描かせてほしくて……」
 中島が上目づかいで俺を見ながら、恐る恐るといった様子で俺にそう言った。
「俺の絵? そんなもん描いてどうすんだ?」
 中島は美術部に所属していて、過去に何だったかのコンクールに入賞したことがあるほどに絵がうまい。だから、絵を描くこと自体には別に驚かないのだが、その題材に俺を選ぶというのがいまいちよく分からない。
「ごめん。迷惑……だよね……」
 消え入りそうな声で中島がそう言ったので、すぐにそうではないと否定した。中島にはさっきの借りもあるし、そんなことくらいで礼ができるというなら俺の方には何の問題もない。
「別にいいけどよ。ただ、俺なんか描いて面白いのかなって思ってさ」
 俺がそう言うと、中島が俺の顔を見ながら恥ずかしそうに口を開いた。
「あのね……こんなこと言うと沢村君に怒られるかもしれないけど……さっきの沢村君の顔……すごく良かったから……」
 中島の言葉に、思わず眉を顰める。
「あ、違うよ。そういうのじゃなくて、題材としてすごく良かったって意味だから」
 俺の表情から、何を考えているのかに気づいたのだろう。中島が慌てて否定した。
「わりぃ。そういう趣味かと思っちまった」
 ほっと安堵の息を吐きながらそう言うと、中島が恥ずかしそうに笑った。
「僕、こういう性格だから、そういう目で見られることが多いけど、違うから」
 中島の笑いに釣られるように俺も笑う。
「いいぜ。別に描いても」
 少し気恥ずかしいが、悪い気はしなかった。
「本当!? ありがとう! 出来上がったら沢村君に一番に見せるからね!」
 無邪気に喜ぶ中島の姿に、先程までのおどおどした様子は微塵もない。そのことを意外に思いながら、俺は笑顔でもう一度中島に頷いて見せた。


八.

「どうしたのだ、先輩!」
 校門で待っていた由佳利が、俺の顔を見るなりひどく驚いた顔でそう聞いてきた。
「いや、たいしたことねーよ。大丈夫だから心配すんな」
 あまり心配させまいと軽い調子でそう言ったが、由佳利は真剣な顔で俺をじっと見つめたまま、小さな手をそっと伸ばしてきた。由佳利の指先が、俺の左頬の痣に触れる。少し痛みを感じたが、少し腫れて熱を持った頬に、由佳利の指が冷たく感じられて心地よかった。
「喧嘩か?」
 嘘を許さない由佳利の眼差しに、俺が「ああ」と返事をすると、由佳利の瞳に激しい怒りの感情が浮かんだ。由佳利が俺の頬からゆっくりと手を離し、その手をぐっと握り締める。
「誰にやられたんだ! 言ってくれ、先輩! 私が仇を取ってくるから!」
 由佳利が激情のまま、まくし立てるように叫ぶ。
 由佳利には悪いとは思ったが、小さな体で拳を握り締め、今すぐにでも殴り掛かりに行きそうなその姿に、俺は思わず笑ってしまった。実際に由佳利に詰め寄られたら、八嶋はどんな反応を示すだろうか。そんなことを考え、さらにおかしくなる。
「何を笑っているのだ、先輩! 先輩は悔しくないのか? 私は悔しい! 先輩をこんなに傷つけられて黙っていられるものか!」
 あくまで真剣な由佳利に、悪いと思いつつもまた笑ってしまった。
「笑っている場合ではないと言っているだろう!」
 由佳利がジロリと俺を睨むので、仕方なく笑みを引っ込める。
「いや、わりぃ。でも、相手のほうが俺よりかなりひどいことになってるんだ」
 あの後、教室に戻ったら、八嶋と下里の姿がなかった。一人残っていた久保田に事情を聞くと、八嶋は病院に行くために、下里はその付き添いとして早退したと答えた。まあ、確実に鼻が折れていただろうから、当然と言えば当然だが。
 さすがにやり過ぎたと今は反省している。
「だから勘弁してやってくれ。この上、お前にまでやられたら、そいつが死ぬかもしれん」
 俺がそう言うと、由佳利が仕方なくと言った様子で、握った拳を解いた。
「先輩がそこまで言うのなら仕方がない。だが、本当に大丈夫なのか?」
 由佳利が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。由佳利の顔が間近に迫ってきて、俺は思わず顔を背けた。
「しつけーよ。ったく、大丈夫だって言ってるだろ?」
 気恥ずかしさもあって少しぶっきらぼうな物言いになったものの、本音は嬉しくて仕方がなかった。
 一度死を眼前に突き付けられたことで、こうして由佳利と一緒に過ごす時間が、俺にとってどれほど大きな存在になっているのか、改めて思い知らされた。
「でも、心配かけて悪かったな……」
 自然とそんな言葉が口をついて出た。
「気にしないでくれと言っただろう。私が勝手に先輩のことを心配しているだけだ。先輩が悪い訳ではない」
 由佳利のいつもと同じ物言いに、やはり嬉しさが込み上げる。
 だめだと思いつつも自制が効かなかった。
「そう言うなよ。お詫びと言っちゃ何だが、俺ん家寄ってくか?」
 言ってしまった後で、やはり後悔が胸を駆け巡る。
 これは今まで以上に由佳利との距離を近づける行為だ。距離が近くなればなるほど、別れを告げる時に由佳利の傷を広げ、そして俺の苦しみを大きくする。
 それが分かっていても我慢が出来なかった。
 もっと多くの時間を由佳利と一緒に過ごしたい。たとえ一分、一秒でもいい。由佳利の心と触れ合っていたいという想いが心の底から湧き上がってくる。
「先輩……いまなんと言ったのだ?」
 由佳利がキョトンとした顔で俺に尋ねる。
「いや、だから俺ん家来ないかって。もちろん、無理にとは言わないけどよ……」
 俺の言葉を聞いた由佳利が、しばらく呆然とした後、ゆっくりと生唾を飲み込んだ。
「つまりそれは、先輩の家に私がお邪魔するということだな?」
 由佳利の問いに「ああ」と頷いて見せる。
「そうか……そうなのか。では聞くが、家にお邪魔した後、先輩の部屋に上がり込んだりとか言うことも……可能なのか?」
 再び由佳利が問う。なぜか知らないが、心なしか興奮しているようにも見える。
「まあ、そのつもりだ。でも、別段面白いものは置いてないぞ?」
「そうか……そうなのだな!」
 俺の話などまったく耳に入ってないかのように、一人納得した様子の由佳利が、興奮したように叫ぶ。
「つまり、これは私といかがわしいことをしたいという先輩からのお誘いと理解して良いと言うことだ!」
 由佳利がビシッと俺を指さしながら力強く断言した。
「ふふふふふふふ。任せておけ、先輩。こんなこともあろうかと、私は常日頃から先輩のことをいかがわしい目で見ているからな」
 こいつ、いつもそんな目で俺を見てやがったのか。
「どうしたのだ、先輩。急に黙り込んで。もしかして感激で声も出ないのか?」
「んな訳ねーだろ。てか、いかがわしい目で俺を見るんじゃねえ」
 俺が眉間にしわを寄せながらにそう言うと、由佳利が「むう」と唇を結んだ。
「そうか。先輩は嫌だったのか。それはすまなかった」
 由佳利が素直に頭を下げる。
「では次からはふしだらな目で見るように心掛けるから安心してくれ」
 先程とどこがどう変わったのか教えてほしい。
「ん? これも嫌なのか?」
 当たり前だ。
「では仕方がない。これからは先輩のことをいやらしい――ではなく」
 由佳利も少しは成長したのか、俺に咎められる前に自分の間違いに気付いてくれたらしい。
「ひどくいやらしい視線で、なめ回すように先輩のことを見つめ続けるから安心してくれ」
 一ミリも成長していなかった。とういうか、むしろ退化している気がするのはなぜだろう。
「なんだ。これも嫌なのか。仕方がない、それでは――」
「いや、もういいから……」
 由佳利の言葉を遮るように言って、ため息をひとつこぼす。
「どうしたのだ、先輩。ため息などついて。これからいかがわしい行為をしようというのだ。もっと気分を盛り上げてもらわねば私も困るのだが……」
 頼むから一生困っていてくれ。
「おまえの期待に添えなくて悪いがな。家には俺の母親が在宅中だ」
「私は一向に構わんぞ?」
 お前が構わなくても俺が構う。
「とにかく、いかがわしいことはしない。茶菓子くらいは出すから、普通に遊びに来ないか、という誘いだ」
 俺が疲れた声でそう言うと、由佳利が心底残念そうな顔で肩を落とした。
「どうしてなのだ、先輩? もしかして私に性的魅力がないとでも言うつもりなのか?」
「性的魅力とか言うんじゃねえ!」
 まったく、俺の方こそなんでこいつはそっち方面にしか物事を考えられないのか問いたいくらいだ。
「確かに私は体も小さいし、起伏に乏しい体つきをしているとは思う。だがな、それならそれで楽しむ方法というのはいくらでもあるのだぞ? だからお願いだ、先輩……」
 由佳利が俺の言葉など全く無視で、真摯な眼差しで俺を見つめながら顔の前で両手を合わせる。そして――。

「私に欲情してくれ」

 恥ずかしさなど微塵も見せずにそう言い切った。
 俺は大きなため息を吐き出した後、静かに由佳利に背を向けると、何も言わずに自宅に向けて足を進めることにした。


九.

「お邪魔します」
 礼儀正しく頭を下げながら、由香利が玄関をくぐる。
「いいから早く上がれよ」
 一足先に靴を脱いだ俺は、由香利にそう言いながら居間の方に目を向けた。すると、由香利の声に気付いたのだろう、母さんが襖を開けてひょこりと顔を出した。
「あら、雅彦がお客さん連れてくるなんて珍しいわね。それも、こんなにかわいらしいお嬢さんを」
 ニヤニヤと笑いながら、母さんが玄関までやってくる。
「あら? 雅彦……その顔……」
 母さんが俺の顔の痣に気付いて、眉を曇らせながらじっと覗き込んできた。
「ちょっと……階段で転んじゃってさ。でも、たいしたことないから」
 動揺が面に出ないでないように注意しながらそう言うと、母さんは少し疑わしそうな顔をしたが、「気を付けなさいよ」と言うにとどめて由香利の方に目を戻した。
「はじめまして、お母上。沙條由香利と申します。先輩にはいつもお世話になっております。不束者ですがよしなにお付き合いくださいますようお願い致します」
 由香利が深々と頭を下げながら挨拶の口上を述べる。
「あらあら、まるで嫁入りの挨拶みたいだわね。ふふふ、由香利ちゃんね。話はいつも雅彦から聞いてるわよ。こちらこそ雅彦がお世話になってるみたいで。これからもよろしくしてあげてね」
 母さんにそう言われ、由香利が会釈を返した後、俺の方をジロリと睨む。
「先輩……母上に何を言ったのだ?」
「別におかしなことは言っちゃいねーよ」
「そうよ。可愛くて、とても良い娘だって、いつも雅彦が――」
「母さん! もう挨拶はいいから! 由香利、行くぞ!」
 強引に由香利の手を引っ張る。
「ま、待ってくれ、先輩。まだ母上との話が――」
「んなのいいから行くぞ!」
 由香利の抵抗を無視して、俺は由香利の小さな手をしっかりと掴んだまま、足早に二階にある自分の部屋へと向かう。
 背後から母さんの「雅彦。若いって良いわね」というとても嬉しそうな声がかかったが、俺は当然ながら無視することにした。


「ほう。ここが先輩の部屋か……」
 由香利が部屋に入るなり、キョロキョロと視線を動かしながら感慨深そうにそう言った。
「何もなくて期待外れかもしんねーけど、勘弁してくれよな」
 座布団などといったものはないので、とりあえずベッドに座るように由香利に促す。
「ふむ。このベッドに先輩が寝ているのだな。どれどれ」
 由香利は学生カバンをベッドの脇に立て掛けると、ゆっくりとベッドに腰を下ろし、それからコテンと体を横に倒した。
「ほほう。なかなか良い寝心地だな」
 由香利がベッドの上で、ゴロゴロと左右に転がる。
「うむ。転がり具合もなかなか」
 転がるのをやめたと思ったら、今度は寝転んだまま器用に跳びはね始めた。
「ほうほう。強度も申し分ないな」
 由佳利が最後に一際高く跳び上がった後、ちょこんとベッドの上に正座する。
「先輩。ベッドの方は大丈夫だ。よって……さあ」
 由香利がそう言いながら、俺に向かって手を伸した。
「さあ……じゃねーよ!」
 差し出された手を叩き落とすと、ため息を吐きながら床に腰を下ろす。
「いいではないか、先輩。減るものではないし、一度くらいいかがわしい行為をしようではないか」
「さらっと危険なこと言ってんじゃねーよ。ったく、いい加減そこから離れねーと、強制的に追い出すからな?」
 再度ため息を吐き出す俺を見ながら、由香利がベッドの上からくすくすと笑う。
「いや、すまない先輩。もう言わないから勘弁してくれ」
 由香利が正座を崩し、普通にベッドに腰掛け直した。
「悪気はないのだが……先輩があまりにも可愛くてな。本当にすまない」
 由香利がベッドに腰掛けたまま、ペコリと頭を下げた。
「可愛いって……お前バカにしてるだろ?」
 呆れぎみにそう言った俺に、だが、由香利は笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「バカになどしていない。私は本当に先輩を可愛いと思っている」
 どうも嘘を言っている風ではない由香利に、俺は恥ずかしさを覚えて、由香利の屈託のない笑みから顔を逸らした。すると、それを面白がってか、再び由香利がくすくすと笑う。
 急に自分の行動が幼く思えて、余計に恥ずかしくなってきた。
 由香利をちらりと見る。
 俺と目が合うと、由香利がやわらかな笑みを浮かべた。
「くそっ、ほんとにバカにしやがってよ……」
 火照った顔でそう呟きながらも、俺は胸のドキドキがさらに高鳴るのを抑えることができなかった。


「おじゃましました」
 由佳利が玄関で見送る母さんに、来た時と同じように深々と頭を下げる。
「由佳利ちゃん。また来てね」
 母さんが軽く手を振りながら笑顔で見送る母さんに、「行ってくるよ」と言いながら俺も由佳利と一緒に外に出る。
「別に送ってくれなくてもいいのだぞ?」
 由佳利が俺を気遣うようにそう言った。だが、あれから茶菓子を持って来た母さんまでもが加わり、いろんな話に花を咲かせていたせいで、すっかり辺りは暗くなってしまった。引き留めたのは俺なのだから、ここで由佳利一人を帰すのはあまりに無責任だろう。
「気にするなよ。寄ってけって言ったのは俺だし、それに、こうして夜道を歩くのは嫌いじゃないしな」
 無論、嘘だ。俺は夜道を歩くのが好きなのではなく、由佳利と一緒に歩く夜道が好きなのだ。
 由佳利と一緒に街灯の疎らに点いた住宅地を歩いて行く。
「なあ、先輩」
 ふと由佳利が呟くように俺の名を呼んだ。
「ん、なんだ?」
 由佳利の方に顔を向ける。すると、由佳利は少し寂しそうな笑顔を浮かべていた。
「良い母上だな……」
 そのまま由佳利が星空に目を向ける。
 そう言えば、以前由佳利に、母親の方は訳あって別の場所で暮らしていると聞いたことがある。あまり他人の家庭の事情に首を突っ込むべきではないと思い、詳しいことは聞かなかったが、やはり寂しいのだろう。
 由佳利の寂しそうな横顔に、何と答えれば良いのか分からず、俺は黙って由佳利の手を握ることにした。
「どうしたのだ、先輩?」
 由佳利が星空から目を戻し、不思議そうに握られた手を見つめる。
「なんとなく、だよ」
 少しぶっきらぼうに答えながら、それでも握った手を離さずに歩く。
「まったく……先輩は優しいな」
 苦笑交じりに由佳利が言う。
「でも、ありがとう。私は先輩のそういう優しいところが大好きだ」
 あまりにストレートな由佳利の気持ちに、思わずドキッとしてしまう。
「時に先輩」
 由佳利が真剣な眼差しで俺を見つめていた。思わずその瞳に気圧される。
「な、なんだよ……」
「『やさしい』と『やらしい』は似ているな。だから、似ているついでに『やさしい先輩』から『やらしい先輩』に進化を図ってみてはどうだろう?」
「くそっ、ちょっとでもおまえの言葉にドキッとした俺が間違いだったよ! てか、それはぜってー進化とは言わねーだろ!」
 思わず叫ぶようにそう言った後、自分の失言に気付いたがもう遅かった。
「何だ、先輩……私の言葉にドキッとしたのか?」
 由佳利が俺の顔を楽しそうに覗き込みながら問う。
「い、いや、ちょっとだよ! ちょっとだけだ!」
 恥ずかしさに怒鳴りつけるようにそう答えると、由佳利がくすくすと笑った。
「笑うなよ」
 子供みたいに不機嫌な顔で由佳利を睨みつける。
「いや、すまない。だが……そんな先輩も大好きだ」
 心から嬉しそうな笑みを浮かべながら由佳利がそう言った。


「由佳利ちゃん、いい子ね……」
 由佳利を家まで送り届けた後、家に戻ると、母さんが玄関先で俺を出迎えながらポツリとそう漏らした。
「まあ、ちょっとおかしなところはあるけどな」
 笑いながらそう言ったが、母さんはじっと俺を見つめたまま少し悲しそうな顔をしていた。
「ねえ、雅彦……本当にこのままで良いの?」
 幾度となく繰り返されてきた問い。
 以前の俺なら迷う事なく答えられただろうが、今は少し心が揺らぐ。だが――それでも答えを変えるつもりはなかった。
「お金のことは本当に心配しなくても――」
「いいよ。このままでいいんだ……」
 母さんの言葉を遮るように言ってから、ふう、と息を吐く。
「母さん、ごめん。でも、十パーセントなんて確率じゃ無理だと思う……。それだったら、たとえあと半年でも母さんと――」
 その先の言葉が続けられずに黙り込む。
「でも、由佳利ちゃんは……悲しむわよ」
 俺の心の内を読み取ったかのような母さんの言葉に、俺は小さく「うん」と頷いた。


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