生年月日 |
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1976/05/30 |
身長/体重 |
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174/68 |
ポジション |
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MF |
経 歴 |
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柏イーグルス ⇒ 緑苑小学校 ⇒ 緑陽中学校 ⇒ 岐阜工業高校 ⇒ JFL西濃運輸 ⇒ JFL大分トリニティ ⇒ J2大分トリニータ ⇒ J1大分トリニータ ⇒ J2FC岐阜 ⇒ J1大分トリニータ
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☆ 小学生時代(柏イーグルス→緑苑小学校)
僕は小学校1年生からサッカーを始めました。サッカーをやろうと思ったきっかけは
キャプテン翼ですね。1年生の時は千葉の柏に住んでいたんです。そこでイーグルスというクラブチームに入っていて、ミニコートで6対6のゲームをやっていた記憶があります。4年生で岐阜の各務原市に引っ越して小学校の少年団に入りました。その少年団は出来てまだ2年目の少年団だったので、強いとか弱いとかそんなレベルではありませんでした。全国大会の予選で、県大会に行ったことはなかったように思います。
☆ 中学生時代(緑陽中学校)
各務原市では強い中学校でした。県で春夏と優勝して。ただ、全中(全国中学校サッカー大会)は東海地区を勝ち上がらなければいけないので、出られませんでした。やはり静岡のレベルが違いましたからね。緑陽中は緑苑小ともうひとつの小学校の出身者が入ってくる中学で、両方の小学校ともサッカーがそんなに強くなかったので、それが県で優勝できるまでになったのですから、指導者の方が良かったんだと思います。ただ、あんまり覚えていないんですけどね。(笑)選抜にも僕らの中学校からはキーパー以外誰も選出されませんでした。
☆ 高校への進学
もともと僕も岐阜工業高校に行きたいなと思っていたら、推薦の話をもらいました。推薦を受けますって話をしてから、グランパスのユースを受けたんです。そうしたら合格しちゃったんですね。迷ったんですけど、ユースは第一期生でこれからってこともあって、岐阜工業に行くことに決めました。
☆ 高校生時代(岐阜工業高校)
今、思うと、そうでもないんですけど、高校生の当時は朝練とかもあったり、走らされたりもしたし、きついなあと思いながらやっていました。インターハイと選手権と国体には2年、3年と出場して、3年の時に全日本ユースに出ました。岐阜では強かったんですが、全国に出ると1回戦で負けてしまうようなチームでしたね。選抜は、岐阜内ではひっかかるんですが、東海選抜なので、静岡や三重が出てくるともうだめでした。(笑)
3年生の時に、アマチュアだから仕事はあるけれど、JFLの西濃運輸サッカー部に来ないかと誘われました。僕はプロを目指していたので、1チームPJMフューチャーズの練習に参加したんです。ただ、サッカー部の先生から、まだプロはよくわからない部分があるし、西濃運輸だったら一生食べていけるし、JFLだけどサッカーも続けられるぞってアドバイスを受けて。だったら、西濃運輸に行こうかなって思いなおして、入ることにしました。
☆ 西濃運輸サッカー部時代
西濃運輸では、午前中は荷物の受付の仕事をして業者さんに受け渡しをしたりしていました。お歳暮とかお中元の時期には仕分けの仕事を手伝ったりして。午後からはサッカーの練習をしたんですが、3ヶ所くらいある練習場を転々として練習していました。僕もまだ若かったので、とにかく試合に出てアピールすることしか考えていませんでした。ところが、1997年のシーズンが始まる前に「今年限りで廃部になるから」と言われたんですね。驚きましたけど、受け入れざるを得ませんでしたよね。1年間の猶予はありましたけど、話がなかったら、とりあえず会社に残ろうと考えて。そうしたら、夏ぐらいだったですかね。大分トリニティから「プロでやる気があるか聞いてもらえるか」という連絡をチームが受けたんです。もちろんプロでやりたい気持ちはありましたけど、話を聞いてみないとわからないじゃないですか。そう話したら、具体的な条件が出てきたんです。あとは練習参加をしてみて、雰囲気とかを確かめて。練習では同じJFL同士でしたし、西濃運輸とレベル的にもそんなに変わらなかったんですね。大分はそれまでも人の入れ替わりが激しいチームだったんです。毎年10人くらいの選手が入れ替わっていたんです。自分もだめだったらこうなるんだなって思ったけど、やってみる価値はあると考えて、思い切ってチャレンジすることにしました。
☆ 大分トリニータ ― プロになれた一番のポイントは?
タイミングかな。実力だけじゃないと思うんですよ。あの時の大分の状態や戦力の強化ポイントに僕がうまくあったということや、西濃運輸が廃部になったこと、その時に僕が常に試合に出ていたこと。またPJMに入っていたらどうなっていたかわからないですし。実力半分、タイミングが半分。そう思います。