御 文

五帖目

原 文 現代語訳
第一  原文と現代語訳   
第八通  それ、五劫思惟(ごこうしゆい)の本願というも、兆載(ちょうさい)永劫(ようごう)の修行というも、ただ我等一切(いっさい)衆生(しゅじょう)をあながちにたすけ給(たま)わんがための方便に、阿弥陀如来後身労ありて、南無阿弥陀仏という本願をたてましまして、まよいの衆生の、一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚(しょうがく)とらじとちかい給いて、南無阿弥陀仏となりまします。これすなわち我等がやすく極楽に往生すべきいわれなりとしるべし。されば、「南無阿弥陀仏」の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆえに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏の我等をたすけたまえるこころなり。このゆえに「南無」の二字は、衆生の、弥陀如来にむかいたてまつりて、後生たすけたまえともうすこころなるべし。かように弥陀をたのむ人を、もらさずすくいたまうこころこそ、「阿弥陀仏」の四字(しじ)のこころにてありけりとおもうべきものなり。これによりて、いかなる十悪・五逆・五障・三従(さんしょう)の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら、後生たすけたまえとたのまん人をば、たとえば十人もあれ、百人もあれ、みなことごとく、もらさずたすけたまうべし。このおもむきを、うたがいなく信ぜん輩(ともがら)は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 現代語訳
第十六通  それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)のよそおいをうしないぬるときは、六親(ろくしん)眷属(けんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更(さら)にその甲斐(かい)あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々(なかなか)おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかいなれば、たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。  現代語訳

(浅井成海監修『蓮如の手紙 お文・ご文章現代語訳』より)


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