| 豊臣政権の内部分裂!その時家康の野望が燃え上がる |
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| 豊臣秀吉は慶長3年(1598年)8月18日、伏見にて没した。後継者、秀頼は |
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| 弱冠6才。その秀頼を盛りたてて豊臣家の安泰を図ろうとする石田三成。 |
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| そこに、次期政権を狙う徳川家康がいた。 |
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| 関八州に255万石余を領有し、武力、財力共に豊臣政権随一の実力派大 |
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| 名であった。秀吉は、生前、家康の力を封じ込める為に「五大老五奉行制」を |
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| 定めお互いを牽制させようとした。しかし、秀吉の死後、加藤清正、福島正 |
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| 則ら武勲派と石田三成を中心とする文治派の対立、そこへ正室の北政所と秀 |
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| 頼の生母淀君の対立が加わり、豊臣家を2分しての権力闘争へと進展する。 |
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| 武勲派による三成襲撃が行われようとしたのを機に三成は五奉行の職を解か |
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| れ、居城の佐和山城へ蟄居を余儀なくされた。 |
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| 家康の野望を知る三成 戦略の末に見えたものは・・・ |
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| 当時畿内には、前田利家が死に、三成も蟄居した後で、家康に対抗する勢 |
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| 力がいなくなり、家康は大阪城入りを図る。その上で、豊臣家臣団の切り崩 |
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| しを計画し、縁組や転封、加増を行い多数派工作を進めた。佐和山城にもど |
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| った三成は、軍備増強を進める一方、反家康勢力の結集を密かに進める。そ |
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| の頃、越後から会津へ国替していた上杉景勝は、城の普請や橋、道路の整備 |
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| や軍備の増強に乗り出していた。家康も景勝の行為を謀叛と糾弾して、誓紙 |
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| の提出と上洛を要求したが拒否され、上杉征伐に豊臣家臣団を引き連れ東下 |
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| する。 |
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| 謀略は続く・・・その時、知将は 天下取りを実感する |
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| 三成は、大谷吉継らと図り、三奉行連署による家康の罪状十三ヶ条の檄文 |
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| を諸大名に発した。毛利輝元、宇喜多秀家ら諸大名が大阪に参集した。最初 |
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| に東軍の伏見城を攻略し、伊勢、美濃、北陸の三方面から尾張へ進出して行 |
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| く。その頃、家康は下野(栃木県)小山で三成挙兵の報を聞き、小山評定を |
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| 開いた。その後家康は、江戸城へもどり、陣営固めを画策する。豊臣家臣団 |
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| は、清州城に集結し、岐阜城を攻略。西軍がいる大垣城の北、赤坂岡山に布 |
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| 陣した。合戦前日、家康が着陣し、野戦にもちこむ為佐和山城を攻略し、大 |
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| 阪へ向う命令を出した。この一報に西軍は夜陰に乗じて関ヶ原へ退く。 |
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