龍神と夜叉姫の伝説に彩られた神秘の池 揖斐川町坂内・夜叉ヶ池(登山口) (やしゃがいけ) 福井県と岐阜県の県境、三国ヶ岳の頂上近くの標高1,099mにある池。村を干ばつから救うため、夜叉姫が池に身を沈めて雨を降らせたという伝説が、泉鏡花の戯曲や映画の題材にもとりあげられ、全国的に有名になりました。登山口から約3km、90分の道のりは花や緑、雄大な風景がすばらしく、池は夏も満々と水をたたえて決して枯れることがなく、神秘的な雰囲気に包まれています。 |
夜叉ヶ池伝説 昔、美濃国神戸に、郡司安八太夫という長者がいました。 ある年、たいへんな日照りがつづいて村人たちが途方に暮れていたとき、太夫はお宮参りの帰りに小さなへびに出会いました。太夫はこのへびに、「雨を降らせてくれれば、どんな願いもかなえよう」と言って帰りましたが、やがて待ちに待った雨が降り出し、田んぼも作物もよみがえりました。ところが喜びも束の間、雨の翌日にへびは山伏姿になって現れ、太夫の3人の娘の内、2番目の娘の夜叉姫を連れて揖斐川をのぼっていってしまいました。太夫は泣きながらつけた紅、おしろい、水鏡にうつった夜叉姫の面影を忘れることができず、何度も夜叉ヶ池を訪れ、龍神となった夜叉姫の姿を偲びました。 その後、日照りがつづくと村人たちは夜叉ヶ池を訪れ、紅、おしろいを捧げるならわしになったと言います。 |
宝暦治水の薩摩義士が植えた松林 海津市海津町・千本松原・治水神社 (せんぼんまつばら・ちすいじんじゃ) 江戸時代の宝暦年間、薩摩藩が幕府の命により行った木曽三川の治水工事は、1年3カ月の間に病死者33名、切腹した者53名をだすなど、非常に困難な事業でした。この事業によりつくられた揖斐川と長良川の背割堤に、工事完了の直後、薩摩藩士が涙とともに植えた松が、約1kmの美しい松並木になっています。工事の全責任をとり切腹した平田靱負を祭神とする治水神社もあり、春と秋に薩摩義士を偲ぶ例大祭が行われます。 |
木曽三川の治水工事 江戸時代の初め、尾張徳川藩が尾張側の堤防の嵩上げを行うと、下流の美濃側は、毎年のように洪水になりました。再三の住民の陳情を受け、1753年、幕府が薩摩藩に命じた治水工事が、今に言う「宝暦治水」です。 その後、幕府は1766年と1820年に、長州藩にも治水工事を命じていますが、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケにより最終的に三川分流が完成するのは、1900年のことです。 |
輪中 西美濃の南部は、木曽・長良・揖斐の3つの大河が合流する低地で、昔から繰り返し洪水に襲われました。そこで、住民たちが共同で堤防を築き、村全体を輪のように堤防で囲んだ「輪中」が発達しました。明治初年には、80を超す輪中があったと言います。 輪中では、家の周囲を掘って盛り土し、少しでも高い場所に家を建てましたが、さらに高く石積みして水屋をつくり、洪水時の避難場所として、生活必需品などを蓄えました。 |
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孝子伝説で有名な日本三名瀑の一つ 養老町・養老の滝 (ようろうのたき) 養老山麓に広がる養老公園の最奥部、巨岩老樹に囲まれた幽邃の地にある滝で、高さ30mから流れ落ちる水は、夏なお肌寒さを感じさせるほどの見事な景観です。孝子伝説で有名ですが、酒に変わったという水は生命を育む若返りの水であり、ときの天皇が「老いを養う水」にちなみ「養老」と改元したと伝えられるほどです。公園一帯には菊水霊泉、神社仏閣のほか、多彩なスポーツ・アウトドア施設が整っています。 |
治水神社 | 治水観音菩薩像 |
<概 要> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雄者の心が交差する… 戦略の時代。 |
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史上最大の合戦が切っておとされた | |||||||
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両軍のすさまじい激戦が展開された | |||||
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毛利隊、長曽我部隊共に動かず | |||||||||
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西軍は総崩れで石田隊、小西隊潰走す | |||
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島津隊、敵中を突破 | |||||||
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ここに天下は大きく徳川へ | |||||||
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