「里山倶楽部」創刊への思い

文献に初めて「里山」という言葉が現われるのは江戸時代。尾張藩が「木曽五材木方」という文書。それによれば「里山」とは、「村里家居近き山」と定義されているそうです。(ウィキペディア「里山」の項参照)

 子どもの頃、親に連れられて裏山の畑に行きました。畑の真ん中には桐の木が生えていて、木の根元には苺の苗が植えられていたように思います。両親が畑仕事をしている間、私はそばで遊んでいました。また秋になるとマツタケを採りに山に入りました。散り積もった松葉の下からわずかに頭を出しているマツタケを、子どもの目で探すのは一苦労。少しずつ手で抑えながらふっくらとしているところを見つけ、松葉をそっとはがしてマツタケを見つけた時の喜びはたとえようがありませんでした。
 

 祖母や両親は山に入るとき、セタと呼ばれる背負子(しょいこ)を背負って行きました。セタに山で拾った薪や小枝をくくりつけるのです。当時はマキでお風呂を沸かすのは当たり前でしたから、薪を産出する里山は、貴重な場所でした。セタいっぱいに薪をくくりつけ、立てなくなった両親の手を引っ張って起こしたのは、一度や二度ではありません。 山のあちこちには炭焼きの窯があり、冬になると炭を焼く煙が漂っていました。それは里山の冬の風物詩でもありました。                                                                 

 農山村で暮らす人々にとって、その昔、里山はとても身近な存在でした。薪を拾ったり、山菜や季節の山の幸をいただいたり、人々は自然の恵みに感謝しながら暮らしてきました。ところが高度経済成長とともに人々の暮らしは大きく変わり、里山は次第に顧みられなくなりました。人の手が入らなくなった里山は荒れ果てて、その生態系も崩壊しつつあります。


 
これまで私はそうした故郷の実態を、ただ傍観しているだけでした。かつて私たちが通った里山の道は、猿や鹿、猪達の通り道になり、蛭だらけになってしまいました。子ども達は山に入った事すらありません。

 
山仕事をする人達も高齢化して、炭焼きの窯を見かける事もなくなりました。時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、これではいつか故郷はなくなってしまう。そんな危機感を感じるようになりました。それなら、私は私にできることをやろうと思ったのです。それが「里山倶楽部」の創刊でした。


 2011年〜 西南濃の農山村とまちをつなぐ地域情報誌
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幻の創刊号
 「里山倶楽部」を発刊する前に、手づくりの創刊号をつくって親しい人や知り合いの方々に配りました。言うなればプレ創刊号です。
拙い手づくりの冊子ではありますが。これがなければ「里山倶楽部」が生まれる事はありませんでした。

【コンテンツ】

表紙 上石津から眺める養老山脈最高峰の笙ヶ岳と梅林
コンテンツ
どこ吹く風 里山いま昔。子どもの頃の思い出や現在の思いも含め、「里山倶楽部」創刊に至った経緯を語る。
伊深からのたより 佐野綾目さん(美濃加茂市伊深町在住。佐野一彦・えんね夫妻の二女。両親の意志を継ぎ、伊深の里で暮らしながら、日本の明日を考える。毎月「伊深親子文庫」だよりとともに、エッセイ「浮世往来」が届く。
上石津通信 危機に瀕している里山。昔と変わらないように見える上石津だが、人々の暮らしの変化とともに植生も変わり獣害のひどさには目を覆うばかりとなっている。危機はひたひたと静かに忍び寄る。
西美濃イベント情報・
編集後記
西濃各地のイベント情報(平成23年のもの)と編集に際しての自分の思い。