父へ

あなたが逝った瞬間、私は泣きませんでした。
悲しいとか寂しいとか、そういう感情は生まれず
ただそこには『無』があるだけでした。

「そこに存在する事が当たり前」と思っていたモノが
次の瞬間には失われる。

その時、そこにあるのは

『無』

でした。


私がまだ幼い頃
私はなんとなく「あなたとは別の人種なのだろう」と思っていました。
あなたは感情を決して表に出す人ではありませんでした。

無表情で無口。

思いきり笑う事はなく、思いきり泣く事もなく、思いきり息子を叱る事もなく。
家庭の事は母親に任せきりで、
仕事だけが生き甲斐だと言わんばかりの人生。

私はあなたのような大人にはなりたくないと強く思っていました。

しかし、今の私はあなたにそっくりのようです。

何故か悪い気はしないのです。
むしろ、心のどこかで喜んでいる自分がいます。

あなたの足の1本が失われた日。それはちょうど私の誕生日でした。
あなたはベットの上で痛みをこらえながら、
今は無き自分の左足の感覚を覚えながら、
私に
「おめでとう」
と言ってくれましたね。

私はその時、
「うん」
としか言えませんでした。

しかし、私はあなたの『芯の強さ』を感じました。
あなたの『真の強さ』を受け取りました。

私の隣で涙をこらえる母親にそっと笑いかけていたあなたの表情は、
私が初めて見る、あなたの飛び切りの笑顔でした。


残り、もう1本の足も失われ、
手の指の本数が少なくなっても、あなたは言います。

『たとえ、達磨になっても生きてやるよ……』

ベットの上で寝たきりになり、
誰かの手を借りなければ何もできなくなっても、
あなたは言います。

『俺を甘く見るなよ…!』

何本もの管を体中に繋がれても、
あなたは言います。

『おシャレだろう……?』


いつのまにか私よりも小さくなってしまったあなた。
昔とは違い、涙もろくなってしまったあなた。
木の枝のように痩せ細ってしまったあなた。

しかし、その力強い言葉達に
私は超える事の出来ない『壁』を感じたのです。
そして、その『壁』は私の中で
高く高くそびえ建っているのです。


あなたは逝きました…。


母の叫びが聞こえていましたか?
兄の願いは届かなかったのですか?
私の手の温もりは伝わっていましたか?

長く苦しい闘いでした。その闘いが終わったのです。




きっとあなたは『勝負』に負けたと思っている事でしょう。
悔しい事でしょう。

でも、悔しいのは私も同じです。

私は、もう出来ないのです。

あなたと酒を酌み交わす事も。
あなたを車に乗せて私の運転でドライヴに出かける事も。
あなたと共にくわえ煙草で通りを歩く事も。
あなたと殴り合いの喧嘩をする事も。

…悔しいのです。

結局、あなたには腕相撲で一度も勝てないまま…。
もう、勝負する事もないのです。

…悔しくて仕方ないのです。


しかし、あなたと共に過ごした日々の思い出は
決して忘れる事はありません。

私はあなたとキャッチボールをしましたね。
私はあなたと釣り堀へ行きましたね。
私はあなたの背中におんぶされて、運動会に参加しましたね。
私はあなたと動物園へ行きましたね。

私はあなたとセミ採りへ行きましたね。
その時、あなたは言いました。

『セミはな、長〜い事、土の中で生活して、ほんで地上に出てきよる。
そして、思いきり鳴くんや…命ある限り鳴き続けるんや…』


幼い頃の私には深い意味は分かりませんでした。

でも、今は分かります。

あなたは私にたくさんの事を教えてくれたのですね。

その命が絶えるその瞬間まで…。


あなたが負けたと思っている『勝負』
その『勝負』はまだ終わってはいないのです。
あなたは負けたわけではないのです。

私がその『勝負』を引き継ぎます。

あなたが果たせなかった事を私が引き継ぎます。

あなたが愛した人を守ります。
あなたがこの世に残した大切な人を尊敬します。


あなたは私の前から姿を消してもなお、
私の中に大きな『存在感』を残して逝きました。
その『存在感』は私の中での大きな『壁』です。
私はその『壁』を登り続けます。
頂上が見えなくても登り続けます。

それはあなたが残した
私への最期の
『愛情』なのですね……


あなたが着ていた煙草臭いスーツの匂いも…
あなたが私の顔にジョリジョリと擦り寄せた、
あのヒゲの感覚も…
私の仲間の『死』に涙してくれた事も…
私に「大人になったら何になりたいんや?」と聞いた時に見せた
幸せそうな苦笑いも…

私は決して忘れません。

私の生き様をそこから安心して見ていてください。

私はあなたの『息子』なのですから…
私はあなたの自慢の『息子』なのですから…

永遠にあなたは私の『父』なのです。
永遠にあなたは私の
『プライド』なのです。


……あなたの『壁』を登り続けます……

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