親鸞・蓮如連座御影像

      文字はほとんど消えているが上部に
     
       本願名号正定業至心信楽願以因成等覚正大涅槃
       必至滅土願成就如来正意興出正唯説弥陀本願海

      の讃と聖人絵像右上部に      本願寺聖人親鸞
      上人寿像(生前の絵像)左部に   釈蓮如
     
      と書かれ、裏書は

        文明五年十月廿一日
           濃州安八郡草道島西圓寺常什物也
                            釈蓮如         とある。
                     
真宗大谷派 得生山 西圓寺
  本尊 阿弥陀如来
  宗祖  親鸞聖人

銅像建立に寄せて

 15世紀さびさびとした本願寺に多大な
足跡を残し、念仏の教えをひろめられ、
教団の確立をされた蓮如上人は、寺伝に
よると文明年間21日間当山にご滞在にな
ったという。その時直接ご教化を受けた
人々の喜びと賑わいはいかばかりであっ
たろうか。
 20世紀最後の年、ご遠忌を厳修するに
あたり、往時を偲びそのご遺徳を顕彰す
るとともに、この法要に遇い得た喜びの
中で、信心の相続に挙足一歩して21世紀
へのあゆみのあかしとなることを念じ、
茲に建立したことである。 合掌
      (写真右 立て札より)



西圓寺のご案内






所在地 由緒・沿革 蓮如上人と西圓寺
教如上人と四時太鼓 『禁制』の古文書






所在地
   
   岐阜県大垣市草道島町
        JR大垣駅より車で20分
        養老鉄道 東赤坂駅下車徒歩15分 




     
















 由緒・沿革

 西圓寺はその昔西美濃を訪れた当時47歳の最澄(後の伝教大師)が創建した天台宗の寺院で
あった。(弘仁2年 嵯峨天皇 西暦811年)

 蒙古襲来の余韻がまだ冷めやらぬ永仁3年(1295年)本願寺3世覚如上人が関東より京都に戻
られる途中、西圓寺住職 如信は親鸞聖人の説かれた念仏の教えに深くうなづき、天台宗から浄土
真宗へ改宗したのである。(嘉歴2年 後醍醐天皇 西暦1327年)

 その後、島御坊として寺勢を伸ばした西圓寺は美濃の国で急速に台頭した斉藤道三と結び、天
文年間、和議の後禁制を発給させ、さらに堀を整備させた。さらに関ヶ原合戦の際には東軍 池田
輝政、西軍 石田三成らの禁制を受けた。

 また関ヶ原合戦後、徳川の時代を迎えて、本願寺は東西に分派することとなる。その際西圓寺は
大きな役目を担うのであるが、それは教如上人と四時太鼓の項に記すこととする。

 江戸の安定期を迎えるころ、当時まで西美濃触頭(ふれがしら)としてその地位を不動のものとし
てきたが、故あってその職を平尾御坊に譲ることとなる。

 寛政12年(1800年)火災により堂宇を消失するが再建して現在に至る。
 現在は浄土真宗に改宗してから、24世となる。




蓮如上人と西圓寺



 文明3年(1471年)、西圓寺住職 賢俊のとき、本願寺中興の祖第8世蓮如上人(このとき57歳)が、西圓寺に21日間滞在された。そのころ京の都は応仁の乱の真っ只中であり、10年以上も続く戦乱で荒廃しきっていた。

 滞在中、蓮如上人が自らの手で植えられた菩提樹(今の樹は3代目)と、そこに腰掛けられながら教えを説かれたという苔生した腰掛け石は、混迷の現代を生きるわれわれに今尚教えを説くが如くである。

  その後賢俊は蓮如上人が越州吉崎に戻られるおりにお供をし、さらに2年間お給仕を勤めた。国元へ戻るとき上人から『親鸞・蓮如連座御影像』(写真右)をいただいている。かつては上人のご命日、3月25日を御満座とする三日間御開帳されていたが、現在は毎年修正会おかけし、西圓寺の法宝物として保管されている。

      




















 
                                      









                                 
 教如上人と四時太鼓
 関ヶ原合戦が今まさに勃発しようとする慶長年間、徳川家康と石田三成がしのぎを削って睨みあ
っていた頃である。徳川方に加担していた教如上人(本願寺12世、後の東本願寺開基)は関東で
家康に接見するが、その後京都への帰り道、長良川墨俣の渡し付近で三成方の厳しい警戒にさら
されることになった。安八郡森部の光顕寺に逃げ込み、九死に一生を得た教如上人は、土手組
称する門信徒たちに護られながら、追っ手を逃れ、ようやく命からがら西圓寺に身を隠した。
 
  西圓寺に逃れたもののすぐに石田方に知られ、教如上人は春日谷より救出に来た信徒たちに
守られ、ボロ衣に蓑をまとい池田山の間道へと向かった。一方、時の西圓寺住職 賢秀は教如上
人と瓜二つであったことから、上人の僧衣をまとい、身代わりとなって中仙道を西に向かって京を目
指す形をとり、現在の野上(関が原付近)で西軍に捕らえられ命を落としている。
  そのとき出立を告げるために打たれたのが大太鼓であった。その故事に基づいて打ち鳴らされ
たふれ太鼓が「西圓寺の四時太鼓」と呼ばれ、爾来その音が親しまれている。 

 そうして教如上人は池田山を抜けて無事に京都に帰り着いた。後に関ヶ原合戦で勝利を収めた家
康は、功があった教如上人のために現在の東本願寺の土地を寄進し、大伽藍の建立を見るのであ
る。
  ちなみに、本願寺11世 顕如上人(教如上人の父)の時、秀吉から寄進された土地に建てられ
たのが現在の西本願寺であり、教如上人の腹違いの弟、准如上人が後を継いだ。






         
 『禁制』の古文書
 織田信長が登場し始める永禄年間(室町時代末期)、美濃の多芸一揆が起きた時、石山本願寺
から事情を聴取する書状がしばしば届けられた。
 本願寺から西圓寺に書状が送られたのは、当時西圓寺が西美濃地方の中心的位置を占める寺
院であり、美濃坊主衆の支配頭をつとめていたからである。そのため戦国時代以後の古文書も数
多く所蔵されている。
 その中には斉藤道三からの本領安堵の書状、羽柴筑前守秀吉からの竹木伐採の禁制や軍勢
による乱暴狼藉・放火を戒める書状がある。
 また関ヶ原合戦の際に東軍の池田輝政(後に姫路城を築き播磨守となる)が発給した判物や西
軍の石田三成(治部少輔)、小西行長(摂津守)、島津義弘(兵庫守)、宇喜多秀家(備前守・権中
納言)連署の禁制もある。
 
     


禁制って?
 古文書の形式のひとつで、禁止する事柄を人々に知らせ、戦国時代に多く発行された。戦いによ
る村の被害を避けるため、寺社などが軍隊の通過や戦闘に先立って、武将に保護を求めて禁制を
申請した。
 軍勢の乱暴狼藉を厳しく戒めるもの、竹や樹木の伐採を禁ずるもの、放火を禁ずるもの、また仮
にそういうことがあった場合には厳しく処罰をするという約束を有力寺院等に送った。
 おそらく西圓寺は、寺を護るため東西両軍に働きかけたと思われる。一方、東西両軍にとっても、
真宗門徒に大きな支配力を持った西圓寺を味方につける狙いがあったと考えられる。また、斉藤道
三以来の安堵があったことも見逃すことは出来ない。