天台宗

朝倉山真禅院 公式サイト

〒503-2124
岐阜県不破郡垂井町宮代2006
0584-22-2212

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朝倉山真禅院略縁起

江戸時代の南宮山之図


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写真提供 : 浅野写真事務所 浅野一範氏

 真禅院(しんぜんいん)は、山号を朝倉山(あさくらさん)と称し、美濃国一宮の南宮大社の元 神宮寺注:1)です。地元の方には朝倉寺・朝倉観音とも言われています。
寺伝によれば天平11年2月(739年)に行基菩薩により創建(1280年前)されました。その後、2回の移転と寺名変更を経て現在に至ります。
開基の行基菩薩は自ら本尊阿弥陀如来の尊像を彫刻され、象背山(ぞうはいさん)宮処寺(ぐうしょじ)と名付けられ、本州阿弥陀如来四十八願霊殺の第三十四番札所と定められました。(所在位置:国道21号線御所野交差点西側JR東海道本線とJR東海道新幹線にはさまれた一帯といわれています)
その翌年天平12年12月2日(740年)には聖武天皇が不破頓宮より宮処寺に行幸されています。(続日本紀・日本紀略)


 その後、延暦12年(793年)(注:1)に桓武天皇の勅命により天台宗の開祖比叡山延暦寺の最澄(伝教大師)によって、南宮大社と両部習合(注:1)され現在の南宮大社地に移転し、寺号を宮処寺から神宮寺注:1)と改められ、天台宗の寺院となりました。(1回目の移転・寺名変更))
 その功徳は、天慶2年(939年)の平将門叛乱の時、朱雀天皇の勅令により平将門調伏祈願のため延暦寺僧明達阿闍梨(注:2)助修僧二十人と共に天慶3年(940年)正月24日不断四天王の秘法を修したところ結願の時、平将門首級到着で、その功能を御嘉賞(かしょう)になり法躰殿(注:4)の勅額と寺社領を下賜されました。(扶桑略記・帝王編年紀・元享釈書)この時、十禅師社を造営し(大津日吉山王十禅師を勧請)弟子十人を社僧としました。(十坊設置 注:5

 ついで後冷泉天皇の康平2年正月(1059年)には、安部貞任追討の御祈願ありその霊験により法性大菩薩の勅額及び寺社領を賜わりました。
 このような霊験により篤い信仰を得ましたが、文亀元年4月(1501年)の火災で諸堂社灰燼となりましたが、時の美濃守護土岐政房により十年後の永正8年(1511年)復旧に着手する事となりました。

 くだって天正17年11月16日(1589年)豊臣秀吉より供田として百六十石、寺社堪忍(生活費)分として二百石の朱印を下され、慶長14年10月20日には徳川家康より四百五石の朱印状となりました。
 慶長5年9月(1600年)には、関ケ原合戦によって諸堂社は兵火にかかり烏有(うゆう)に帰しました。(注:6
 後に、南宮権現執行利生院永純(現橋本氏)が東叡山寛永寺住職慈眼大師天海大僧正(徳川幕府の政務に参与)に再建を嘆願し、徳川三代将軍家光により金7000両を支給され、岡田将監造営奉行(注 : 7)のもとようやく造営の運びとなり、寛永19年(1642年)9月11日に再興されました。(注 : 7)

 再興された神宮寺は、南宮大社の拝殿等と回廊で「本地堂」及び「護摩堂」(勅使殿)等が対をなしてつながって配置されていました。このように神社施設と仏教施設がつながった事例はなく、大変珍しい形式でした。(江戸時代の南宮山之図)

 明治初年(1868年)神仏判然の令(神仏習合廃止)が明治政府により発令されました。この発令により日本国中に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、当時南宮大社神宮寺の執行(注:8)であった真禅院の秀覚法印が、22堂塔坊舎を10堂塔舎に統廃合し、信仰篤い宮代村の方々の四年間にわたる絶大なる奉仕作業により現在の地に移転してきました。(注:9)
しかし「神宮寺」の寺名を引き続き名のることができず、移転当時に執行であった秀覚法印の自坊名「真禅院」(注:10)へと改め現在に至っています。(2回目の移転・寺名変更))
宮処寺」から「神宮寺」へとなり、現在「真禅院」として、神宮寺本尊並びに一山の各堂坊の本尊および諸堂・什物等、約1300年の法統および歴史を受け継ぎお守りしています。

山主敬白 

 
 (参考文献)
 ・岐阜県史
 ・濃飛両国通史
 ・新撰美濃志
 ・不破郡史
 ・垂井町史 ・新修垂井町史 ・垂井の文化財
 ・名城大学理工学部「南宮神社建造物総合調査報告1971」
 ・岐阜県指定文化財調査報告書 等
 ・佛教大辞典


注:1 ・延暦12年(793年)に天台宗の開祖比叡山延暦寺最澄(伝教大師)が来山され宮処寺と南宮大社を両部習合されたのち、自ら薬師如来像を彫られ薬師堂を建立されました。
 
・両部習合(りょうぶしゅうごう)→神仏習合・神仏混淆(しんぶつこんこう)
 神と仏とを調和させ同一視する思想。奈良時代に起源をもつ。
・神宮寺(じんぐうじ)→神仏集合思想にもとづき神社に建てられた寺院。

※神宮寺
  ◎「神宮寺」について

象背山神宮寺に「神宮寺」という建物はありません。
「神宮寺」は南宮大社境内の本地堂はじめ山上山下のお堂及び寺院22堂塔坊舎全体を統合して出来ており、その全体を指して「神宮寺」と総称していました。

明治の神仏分離移転後の「真禅院」も同じで、元「神宮寺」の本地堂・三重塔・鐘楼および宝珠院等の堂塔坊舎を統合して出来ており、全お堂を総称て「真禅院」といいます。
ちなみに現在の「庫裡」は南宮十坊の「真禅院」であった建物です。

上記の理由により
当寺院所有の古文書には「神宮寺」名の古文書は少なく、南宮十坊の「真禅院」「利生院」「円乗院」など神宮寺執行等の役職寺院名で書かれています。
ちなみに擬宝珠の銘は
本地堂は「太神宮寺」護摩堂は「北神宮寺」三重塔は「南神宮寺」でした。
山号は「宮処寺」時代と同じ「象背山(ぞうはいさん)」を引き継いでいます。


○擬宝珠の銘等
太神宮寺の銘  濃州南宮社の銘 寛永十九年の銘 南神宮寺の石碑
濃州→美濃国の別名
注:2
明達(みょうたつ)阿闍梨(あじゃり)
877年−955年 天台宗 字は直仁 蓮華院と號す 摂津の人。
比叡山尊意に師事、朝廷の勅により承平7年(937年)住吉神宮寺で藤原純友の調伏を、天慶3年(940年)1月24日には勅により美濃南神宮寺にて四天王法を修して平将門を降し、内供奉十禅師(注:3)となり、天暦9年(955年)寂す。
(続日本紀・帝王編年紀・元享釈書)(佛教辞典 平楽寺書店)
注:3 内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)
宮中で天皇の安穏祈願などの役割をになう僧職。
722年(宝亀3年)初めておかれ、定員は10名。
平安時代以降は、天台宗・真言宗の両宗から高僧を選んだ。
注:4 法躰(ほったい)殿(でん)
ここでいう「法躰殿」は本尊である阿弥陀如来をお祀りしているお堂をさします。
現「本地堂」は、室町時代「法躰殿」とも称していました。
注:5 十坊(南宮十坊)天慶3年(940年)
(村内)利生院・真禅院・十如院・円乗院・常林院・元上院・知足院・威徳院の8院
(山上)千手院・宝珠院の2院
山上の千手院と宝珠院はこの時から社僧が住むことが出来る規模のものであった
十坊を設置されたことにより神宮寺は「一山(いっさん)」形式になりました。
注:6 慶長5年(1600年)9月15日(新暦10月21日)関ヶ原合戦時、南宮山には西軍の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親ら27,900人が陣取っていました。
関ヶ原合戦後の9月18日(17日の説有り)に安国寺恵瓊の残党により、火をかけられ南宮大社及び神宮寺の諸堂社は、烏有に帰しました。
注:7 寛永17年(1640年)9月19日に起工し、2ケ年を要し寛永19年9月11日に再建されました。
造営は、幕府大工頭木原杢助(もくすけ)が各種殿堂の仕様書・木割帳・絵図面等を作り、京都・江戸等より寺社建築に経験ある者を集め、幕府工事の一環として行われました。
幕府大工頭木原杢助は、起工に先立ち商工業者・諸職人を集めて見積・入札を行い、入札を行った職種は、大工をはじめとして木引・手伝・鍛冶・檜皮師・瓦師・石工・塗師・飾師・彩色・畳師・指物師・材木商などです。
三重塔のみは京都の石材商 久保権兵衛の一括請負であった。(日本初の請負工事)
寛永19年(1642年)9月11日に再興され、翌9月12日に遷宮式が執行された。春日局が徳川家光の代参で来ています。
三重塔だけは1年後の寛永20年(1643年)7月に落成。

(造営費 金7000両)
 三重塔  1111両1分1朱  (日本初の請負工事)
 本地堂  403両3分3朱  
 護摩堂・勅使殿  335両3分1朱  
 鐘撞堂  82両3分  
 閻魔堂  37両2分1朱  
 釈迦堂  51両2分2朱  
 本  社  611両0分1朱  
 二  宮  157両0分2朱  
 三  宮  157両0分2朱  
 四  宮  83両0分2朱  
 五  宮  83両0分2朱  
 七王子社  44両0分0朱  
 拝殿 ・幣殿  358両3分3朱  
 廻  廊  365両0分3朱  
 高舞殿  204両0分1朱  
 楼  門  514両2分1朱  
 神宝・仏像等  313両1分2朱  他

造営奉行 岡田将監(しょうげん)
   (参考文献:垂井の文化財第37集 岡田将監善政の功績 広瀬祐氏著)
    岡田将監善政(よしまさ)出生地京都の柳図子
    美濃代官 濃江勢三国幕領惣奉行
    寛永16年(1631年)多賀大社造営奉行
    寛永19年(1642年)南宮大社造営奉行
    万治元年 (1658年)伊勢神宮造営奉行
    万治2年 (1659年)従五位下
    万治3年 (1660年)幕府勘定奉行

注:8 執行(しぎょう)→寺社で行事・諸務等を行う僧の中の上首(最上位の者・首座)
         一山を代表する僧
注:9 寺院移転にともなう、宮代村の方々の奉仕作業は、山の切り開き整地作業から始まり、南宮山全体の二十二堂坊舎の解体作業(山上にも堂有:詳しくは南宮山之図参照)、解体した資材の搬送、建立作業等すべて行われ、幼子までが瓦一枚を背負い南宮大社から一キロメートル離れた現在の地まで何往復もして運んでいただき、村人総出で行われたそうです。
この様な宮代村の方々の絶大なる奉仕作業により、わずか四年間という短い期間で円満移転完成することが出来ました。(当時の宮代村は300軒程でした)
日本国中に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、当寺院の様な、円満な神仏分離事例は全国でも稀だそうです。
これも信仰篤い宮代村の方々のおかげです。感謝合掌
注:10 江戸時代の「真禅院」
江戸時代の絵図等には、真禅院を「公院」と表記されています。


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