嗚呼、哀しきかな、坂本谷(3)
 一旦、下り始めると早い。ここまで踏んできた跡をたどって、飛ぶように下っていくだけだ。何も考えることはない。苦労して前進した距離をあっという間に越えていく。それがなんだか哀しい気がした。
 しばらく下ったところで、僕の踏んだ跡をたどって登ってきた方に会った。こんな日に登る方がいるんだと吃驚したが、考えてみれば自分もそうだった。
 その方は、中年の方で、9時頃から登り始めているという。ということは、僕が4時間かけたところを、1時間半ぐらいで登ってきた計算になる。早いですね、というと、踏んでありましたから、という答え。それにしても早い。どちらまで行くのか聞くと、谷から尾根に出て、尾根伝いに天狗岩の方まで歩きたいとのことだった。こちらが鉄塔の見えるところまで行って引き返してきたことを伝えると、そこから尾根まで後少しだと思いますよ、一緒に行きませんか、と誘われた。その方によれば、尾根まで出れば、雪も少なくなり、登るにしても下るにしてもこの谷よりは歩きやすくなり、後は体力次第でなんとかいけるのではないかとのことだった。もっともと頷いたものの、僕には肝心な体力に自信がない。また、一旦下る方向に変わった気持ちを切り替えるのもしんどい。誘いを断って、そのまま下った。その中年の方は、壺足で登って見えたが、別れた後、果たして天狗岩まで辿り着けたのだろうか。
 下るペースは快調で、あっという間に、谷が二股に出会っているところまで下ってきた。広々したところなので、ここで荷物を下ろし、昼をとりながら大休止することにした。といっても、このまま登り口まで下っても、この分だと後どれほどもかからない感じだ。だけど、昼ぐらいは、せっかく雪の山にいるのだから、その中でとりたい。ということで、荷物を広げた。
 荷物の中から、「飛騨の華」という絞り立て吟醸酒をとりだす。高山土産にと知り合いにもらったものだ。本当は、頂上に着いたら、こいつで乾杯するつもりだった。それが楽しみだったので、もったいない気もしたがここで味見することにした。おいしいお酒だ。これが頂上でだったらなお格別の美味さがあったのだろうなと思うと少し残念な気がした。
 二回目の坂本谷は、このようにして途中敗退という結果に終わった。今から思えば、途中であった中年の方といっしょに登っていっても良かったかもしれないなと思うが、その時は、そこまでの決断力はなかった。しかし、やはり途中で諦めたことは悔しく、翌週のブンゲンは、同じように深雪のラッセルとなったが、2週連続の敗退は避けたい一心で、何とか登り切った。
 僕にとっていずれも印象の悪いままの坂本谷だったが、三回目は敗退した日から約一ヶ月後の3月26日(日)になった。もう雪もないか、悪くても締まって歩きやすくなっているだろうと思った。
 天候は、曇り。いつものように上石津経由で坂本谷の方に向かう。御池岳に近づいて上を見ると、山頂部は雲の中。これでは登ってもおもしろくないかな、また坂本谷に嫌われたかな、と思い、他に登れる山を物色しに、宇賀渓あたりまで行った。しかし、天候的にはあまり代わり映えがしないので、再び坂本谷まで戻ることにした。
 坂本谷の駐車広場についた頃、雲が若干晴れてきた。これはいいかもしれない。見ると、僕の他に、幾つかのグループが登る仕度をしている。それにも後押しされるように8時45分、坂本谷へと入っていった。目標は、坂本谷から白船峠、そして御池岳だ。
 前回、雪のついていた谷は、今回は全く雪は見られず、岩がむき出しにされた谷を登っていく。土石流の影響なのか、かなり大きな岩がごろごろしていた。雪の下になっているときはあまりピンとこなかったがかなり荒れている。しかし、歩きは雪がないだけに快調で、前回のことを思うと、あっという間に二股を越えて行く。先行者はかなりいて、心強い。
 前回と同じように、途中から右側の山腹を歩いた。ただし、今回はよじ登ったわけではなく、そちらに踏み跡が続いていたのだ。やはり荒れた谷を歩き続けるのは困難なのだろう。このあたりから、徐々に雪が出だした。踏み跡もぬかるんでいる。汚れるのがいやだなと思いながら歩いていると、岩の間に黄色く小さなものがあるのに気づいた。福寿草だ。あわててカメラを取り出し、何枚か撮った。雪に囲まれて、まだ花も開ききっていない姿が可憐な感じだった。

つづく