長編小説のページ1
「グワッ?!」 丸々と太ったネズミを食らい、油断したソレの上空に大きな黒い影が現れた。巨大な翼を持つ双頭の竜だ。ソレは恐怖し、飛び立とうとする。しかし、竜の頭の一つから火炎がほとばしる。見る間にソレは炎に包まれ地上を転がった。動かなくなったソレを竜は食らい始めた。 「ふふ、ゴモラよ、うまいか?」 竜の背から降り立った若い悪魔が満足げに微笑む。漆黒の髪を長くなびかせ、背には一対のコウモリの羽をたたんでいる。そして、腰には戦士の印である長剣を下げていた。 「クー」 竜が甘えるように戦士の頬に触れる。ザラリとした竜の頭皮は主人を傷つけないよう鱗をたたんでいた。 「キエエエーッ!」 上機嫌で主人に頭を擦りつけていた竜の首の一つが突如、奇声を上げる。続いてもう片方の首も神経質そうに鱗を逆立てていた。 「そこか!」 不意に若い戦士の手から稲妻がほとばしり、脇の岩を粉砕した。同時に現れる影が二つ。同じく戦士の姿をしている。 「死ねーっ!」 不意を突いて、右の戦士が剣を振り下ろす。が突然、若者の姿がかき消える。剣は空を切った。驚いて辺りを見回すが、敵の姿は見えない。 「ゲロス、慌てるな。奴は上だ!」 もう一人が剣を抜き上げ、叫ぶ。声に呼応して、見上げる。と、ルークの足が目の前にあった。 「くそーっ!」 仲間を殺され、正気を失った男が剣を敵の心臓目がけて突き出す。鋭い突きだ。通常の戦士ならば一突きで倒されたであろう会心の一撃であった。だが、目の前の敵は並の戦士ではなかった。皮膚に触れようとする一瞬、剣が跳ね返される。躊躇する間もなく、鋭い痛みが左胸に起こった。続いて襲ってくる脱力感。言葉も発することなく地面に倒れ込んでしまった。 「己の腕も省みぬ愚か者が」 剣を一閃させ、付着した血を振り払うと、竜に向かって歩き出す。 「愚かなのは、どちらかな?」 「私の鍛えた筋肉を並のものと同じと思うな!」 冷たい言葉と共に、剣が戦士の心臓を貫く。男は白目を剥き、仰向けに地面に落ちて行った。 「うん?」 双頭の竜の背に乗ろうとした若い悪魔の動きが、何者かの視線を感じて止まる。まだ敵がいるのか?それにしては、殺気を感じない。ゆっくりと視線を転じると、岩影に小さな黒い影が目に入った。 「お前は何者だ?ここで何をしておる?」 少し声を和らげ、尋ねる。が、警戒は緩めない。例え相手が子供の姿をしていようと、油断はできない。地獄では、相手を油断させるために子供に化ける奴はたくさんいる。目の前の子供が、彼を狙っている刺客でないとは限らないのだ。 「はん?」 すっかり毒気を抜かれ、男の子を眺める。少し長めの髪、丸い顔に黒くて大きな瞳。胸に抱いている黒ネコは金色の瞳でジッと見つめている。何とも奇妙な取り合わせであった。 「かつて勇者と呼ばれたアモンならば、闇牢獄に繋がれておるとの噂だが、お前の父親の行方は知らぬ」 冷たく言い放つ。悪魔に優しさなど皆無。子供が困っていようと彼の知ったことではなかった。男の子が危害を加えようとする敵ではないと判ったからには、用はない。先を急ぐのみであった。 「闇牢獄にいるの?それは何処にあるの?」 去ろうとしたルークの耳にキラの問いが飛び込んでくる。 「そうだよ、パパのことだよ。闇牢獄って何処にあるの?遠いの?」 気づくと、キラの姿はそこになかった。すでに地獄の最下層に向かって走り出していたのである。 「そんなことあるはずないか……。考えすぎだよなあ」 一人苦笑すると、竜の背に飛び乗る。竜は翼を上下させ、静かに舞い上がった。 「そうだね、あの人、いい人だったね。地獄に住む人たちって怖い人たちばかりかと思っていたけど、そうでもないんだね」 キラが不服そうに唇を尖らせる。黒ネコは鼻を鳴らすと、視線を飛び去って行く竜へ向ける。そして、ため息を一つついた。 「竜だ。」 キラが小さな声でつぶやく。そこにいたのは傷ついた翼竜であった。何物かにやられたのか、首筋から大量の血液を流している。息は苦しげで、飛び立とうと翼を羽ばたかせようとしていた。だが、それは虚しい努力でしかない。 「可哀想に……。」 キラが竜に近づこうとした。 黒猫が制止するが、少年は構わず近づいて行く。竜は目を怒らせ、逆鱗を逆立てる。 「ガーッ!」 再び、竜が威嚇する。だが、キラはニッコリと笑いかけ、恐れる様子はなかった。そして、一歩ずつ近づいて行く。 「良い子だ。ジッとしててね。今、傷を癒してあげる。」 優しく話しかけると、キラは手を傷口にかざしてやる。柔らかい金色の光が流れ出て、傷口に吸い込まれて行く。光が当たった瞬間、竜がピクリと反応したが、優しく笑いかけられ、おとなしく首を下ろした。暫くすると、勢いよく流れ出していた血が徐々に止まって行った。 「もう大丈夫だよ。血は止まったから、暫くおとなしくしていたら、元気になるよ。」 ナナがペロペロと自分の腕を舐めながらため息をつく。何処までお人好しなんだか……。しかし、そんな弟だから可愛くて仕方がないのも事実であった。 「あっ、卵!そうか、お前ママになるんだ。」 「キラ、行くよ。」 キラが走りながらつぶやく。自分たちの母も、命の源である風切り羽を引き抜き、子供たちを守ろうとしてくれた。そのために、自分は死ぬかも知れないと言うのに……。命をかけて守ろうとしてくれた母をどうしても助けたい。救うためには、キラとナナ、そして、地獄の最下層にある闇牢獄に捕らえられている父の血が必要であった。母を救うため、父を求めて二人の姉弟は地獄に降り立ったのであった。 「キエエエエーッ!」 数十メートル離れた時、背後からの叫び声に振り返った。声の主は先程の竜。周囲を鋭い牙を持った地獄狼に取り囲まれていた。竜は懸命に巨大な翼を動かし、狼を追い払おうとするが、何度跳ね飛ばされようと執拗に攻撃してくる敵の牙のため、少しずつ傷ついて行った。先程、キラに癒してもらった傷口も開き、大量の血液を流している。 「空へ逃げればいいのに、何してるんだよ。」 黒猫が舌打ちをする。 「畜生ーっ!」 キラが大地を蹴って走り出す。ナナも慌てて後を追う。馬鹿なことだとは思う。地獄では、強い物が生き残り、弱い物は、強い物の食料になる。それが、地獄の掟だ。だから、母竜だって、負ければ狼の餌食になってしまうのが自然なのだ。それは判っている。判っているのではあるが、身体が勝手に動いてしまうのだ。 「あっちへ行けーっ!」 キラの掌から光芒が迸り、竜に食らいついている狼の身体を吹き飛ばす。だが、一匹が飛ばされても、違う奴が襲いかかる。 「ガルーッ!」 母竜を守ることに集中していた少年の側面から狼が襲いかかってきた。仲間をやられ、敵の存在に気づいた一匹。牙を剥き出しにし、喉を狙っての跳躍だ。 「ナナ、大丈夫?」 「よくも、ママをーっ!」 キラの瞳が怒りで青く燃え上がる。オーラが地獄の大気をビリビリと緊張させた。狼たちは一斉に少年を見る。 「キャイン!」 「キャイン!」 空気の刃は次々と狼の身体を切り刻み、倒して行く。ある物は、手足を切られ、地面に転がる。また別の物は、腹を割かれ、内臓を撒き散らしながら絶命した。それでも、キラの怒りは収まらず、残りの狼に襲いかかる。 「ママをいじめた奴は許さない。」 両手を逃げて行く狼の群に向ける。炎が赤い竜巻きとなって群の中心を襲った。炎に包まれた狼が死の舞を踊り地上を転がる。肉の焼ける臭いが周辺の大気を覆い尽くした。 「畜生!畜生!」 キラは焼けただれ、黒こげにになった狼の死体へ、なおも執拗に炎を浴びせかける。どうしても、母竜を殺した狼が許せないのだ。肉が完全に灰となっても焼き尽くそうと炎を止めようとはしない。骨さえも炭化し、ボロボロと崩れて行く。 「キラ、もうやめなよ。」 見かねたナナが制止する。だが、逆上したキラの耳には何も聞こえない。両手を大きく振りかぶり、思念エネルギーの固まりをぶっつけようとしていた。怒りのエネルギーの全てを集中し、まだ生きている狼たちを全滅させてしまおうというのだ。しかし、それはあまりにも危険な技であった。そんなエネルギーの放出をすれば、地獄中にキラたちがここにいることを知らせるようなものだ。魔王ブラスに追放された魔天使姉弟が再び地獄に舞い戻ったことが知れては、すぐに討伐の命令が地獄中に布告され、追われることになるのだ。そうなれば、父を見つけるどころか、殺されてしまうかも知れないのだ。 「キラ、止めるんだ!」 人の姿に戻ったナナが弟の身体を抱きしめる。キラは駄々っ子のように腕の中で暴れた。だが、ナナは強く抱きしめる。こんな弟は初めてであった。いつもは優しい少年なのに、今は別人のように荒々しい。一体どうしたと言うのであろうか? 「キラ、落ち着いて!何を苛立っているんだよ?」 小さな両肩を掴み、前後に大きく揺さぶった。ガクガクと少年の頭が前後し、身体の力が抜けて行く。そして、ガックリと膝を折って地面に崩れ落ちた。 「ナナ、ママが、ママが……」 姉を見上げ、涙目で見つめる。 ナナの胸に顔を埋め、泣きじゃくる。いつ死ぬかも知れない母。そんな心配で心が壊れてしまいそうなのであろう。ナナは何も答えず、ただ強く身体を抱きしめてやった。まだ小さな弟は母の温もりが恋しいのだ。無事で天国にいると思っていた時は、ひたすら母に会うために、人を幸せにしようと努力ができた。しかし、母が瀕死の状態にあると聞かされ、居ても立ってもいられなくなったのである。 「大丈夫、ママがあたいたちを残して逝っちゃうわけないよ。きっと、待っててくれる。ママを信じるんだ。希望を捨てたらだめだよ。」 カタッ! 何物かが動く気配に二人は顔を巡らせる。傷つき、ボロボロの身体になった狼がヨロヨロと立ち上がったのだ。足を引きずり、荒い息を吐きながら去って行く。 「あいつ!」 キラが再び手を挙げて攻撃しようとする。まだ憎しみは去らないのだ。 「キャイーンキャイーン!」 不意に動物の甲高い鳴き声がした。驚いて視線を移すと、岩陰から小さな物が飛び出してきた。それは傷ついた狼に駆け寄り、甘えるような鳴き声を出す。狼はペロペロとそれの顔を嘗めてやる。そして、グラリと身体を地面に落とした。 「……子狼……」 青ざめた顔でキラがつぶやく。子狼は倒れた狼の胸に顔を埋めた。狼の発達した乳房をくわえ音を立てて吸っている。 「ナナ、ぼく……」 苦痛に満ちた瞳を姉に向ける。だが、ナナとて如何にしたらよいのか検討もつかない状態であった。 「クエエーッ!」 突如、起こる二つの鳴き声。一体何が?顔を巡らせる二人。視野に飛び込んできたのは、真っ黒な怪鳥の飛び去って行く後ろ姿であった。両脚の鋭い爪の中では、子狼が懸命に逃げようともがいている。 「あいつ、子狼を……」 キラが腕を振り上げる。その手をナナが無言で押しとどめた。驚いて振り向くと、静かに首を横に振り、遠くの崖を指さした。もの問いたげに姉の顔を見つめ、指さす方を凝視する。何か小さな影が二つ三つ岩棚の上に蠢いているのが見えた。鳥はその岩棚の方へと近づいて行く。そして、両足で掴んでいた子狼を落とした。小さな影たちは一斉にむらがる。逃げまどう子狼の身体のあちこちをついばみ、肉を引きちぎった。あっと言う間に内臓をを食い散らし、骨だけにしてしまう。 「惨い……」 キラは強く姉の手を掴んだまま、ジッと動かなくなった母狼を見、母竜を見つめた。どちらも子供のために必死で戦っていた。あの空中で旋回している怪鳥だって、子供のために子狼を捕まえた。皆、それぞれが懸命に生きている。それが弱肉強食の地獄の掟、キラたちが立ち入ることのできない世界なのだ。甘い感傷など地獄では無用な感情なのかも知れない。 「じゃあ行こうか?」 「よかった、無事だったよ」 躯の下から這い出てきた少年の腕には白い卵が抱えられていた。母竜がお礼にと見せてくれた卵である。 呆れて見つめるナナに向かってキラはニッコリと微笑む。そして、大事そうに卵を胸に抱いた。地獄ではあるがままにしておくのが一番だと言ったのに、まだそんなことをしようとしている。本当に懲りない弟である。ナナは肩をすくめ、大きなため息を一つついた。 「キラ、何を隠しているの?」 「どうしたんだい?ママが心配なの?それなら、大天使様が一ヶ月は大丈夫って言っていたじゃないか。まだ時間はあるよ。今からそんなに心配していたらパパに会うまで保たないよ。」 ナナが苦笑しながら言う。しかし、キラは小さく首を横に振った。 首をかしげ、大きな黒い瞳を見つめる。何が言いたいのだろうか?そう言えば、地獄に降りてきて以来、キラのようすがおかしかった。何があっても希望を失わず、にっこりと微笑んでいたのに……。怒って狼の群を全滅させたり、すぐに泣き出したりと感情の起伏が激しくなっている。今だって、涙をボロボロとこぼしている。それに、この激しい衰弱は……尋常とは思えなかった。ナナも多少は疲れを感じていないわけではない。だが、立ち上がれないという程ではない。 「うん?!」 不意にナナの視線が卵に移る。何か赤い物が付着しているのだ。 「キラ!」 ナナの顔色が代わり、無理矢理シャツの裾をめくり上げた。同時に目に飛び込んでくる傷痕。そこからはジワジワと血が滲み出ていた。かつて赤死蝶との闘いの最中、姉を救うために自らの心臓を貫いた時の傷であった。キラに関わった人々の愛の力で癒えたはずだったのに……。それが何故再び傷口を開いてしまったのだろうか?もしかしたら、父に早く会いに行かなくてはならないと無理をし過ぎたのだろうか? 「キラ、ごめんよ。あたいが気づかなくて無理をさせちまったから……」 「突然、傷口が開いたんだ。何故だか判らない。自分で治そうとしたんだけど、治らないんだよ。光を当てても、どうしても血が止まらないんだ……」 しかし、その傷が再び開き、血を流し始めているとは……?一体どうなっているのだろうか?とにかく、ナナは自分の掌を弟の傷口に向かってかざした。柔らかな黄金の光が傷口に向かって照射される。だが、光は傷の直前になると、消えてしまう。まるで何かに飲み込まれたかのように、直前になると、消えてしまうのだ。 ナナは途方に暮れた表情で流れ続ける血を見つめていた。このままでは出血多量で命も危ないかも知れない。早くなんとかしなければならない。だが、こんな地獄で一体どうすれば……。 カタッ! 不意に背後で物音がした。咄嗟に弟の身体を庇い、振り向く。目に飛び込んできたのは、真っ黒な獣。長い牙を剥いて赤く燃える目でにらみつけている。地獄一獰猛と言われる、酷竜である。身長は二メートルと他の竜に比べて小柄ではあるが、凶暴さは他に例を見ない。地獄最大の大きさを誇る土竜でさえ彼らの姿を見ると、土の中へ逃げ出すと言われている凶悪な竜であった。 「まずい時にまずい奴に出会っちまったよ。」 ナナは用心深く身構える。果たして地獄で一番の凶悪な獣に魔力が通じるだろうか? 「クエエエーッ!」 酷竜が吠える。ナナはビクリと身体を凍らせた。今から攻撃してくるぞという威嚇なのだ。竜は真っ赤な口を開き、鋭い牙を見せる。そして、前足を上げ近づいてきた。 「馬鹿!あんたはジっと横になってな。あいつは、あたいに任せておくんだ。」 ナナは振り返らずに怒鳴る。だが、キラはそれを無視して隣に立つ。顔色は益々青ざめていた。 キラが両の掌を竜に向ける。刹那、青い稲妻が走り、竜を襲った。巨体がグラリと揺れ、動きが止まる。続いて火炎が渦を巻いて竜を包んだ。 こんなキラは初めて見た。もしかしたら、傷が癒えないことと関わりがあるのかも知れない。 「……嫌いだ……。地獄なんて……大嫌いだ。……空気も、大地も、獣たちも……みんな嫌いだ……。パパだって……」 しかし、それも限界がきてしまったのであろう。恐らくは、母竜を助けようと狼たちを殺してしまうまでは……。怒りに任せて狼を全滅させてしまった。だが、そんな狼の中にも子を持つ母狼がいたのだ。そしてそのために、子狼は怪鳥の雛の餌になってしまったのだ。それを知って、心優しき少年の心はどれ程傷ついたのか……。 「その子は病気だね。」 突然、背後から声がした。ナナは咄嗟にキラの身体を抱きしめ、振り向く。一体、何者?厳しい視線で声の主を捜した。しかし、目に映るのは、黒焦げになった酷竜の姿だけである。まさか、竜の死骸が?ナナは用心深く身構えた。しかし、何の動きも起こらない。気のせいだったのだろうか? 「キラ……」 弟が身動きしたように感じて、視線を移す。途端、背後に気配を感じて振り返った。 「ったく、酷竜に化けてちょっと脅かしてやろうと思っただけなのに、いきなり攻撃してくるとは無茶な子だねえ。その子はあんたの弟かい?それとも、息子?」 「これは、葛藤のために心が身体を傷つけているんだよ。何か思い当たることはないのかね?」 やはり、母狼を殺してしまったことを後悔していたのだ。あの後、何も言わなかったけれど、深く傷ついていたのだ。心優しい少年であるからこそ、自分自身が許せなかったのであろう。言えば姉が心配する。だから、一人で悩んでいたのだ。言葉に出来ない苦悩が刃となり、傷口を広げていった。ジッと一人で悩んでいたのだろう……。 「あんたって子は……。」 言葉を詰まらせ、強く抱きしめてやった。心臓の鼓動が頼りなげに打っている。こんな小さな身体で、重過ぎる運命に翻弄され疲れきってしまったのだ。たった一つ、小さな望をかなえるため、身も心もボロボロになってしまった弟。哀れで、愛おしくて……。 「こりゃ、このままじゃあ死ぬよ。」 必死に呼びかける。だが、衰弱しきった少年からは何の反応も得られなかった。傍らに立つ老婆は、沈黙したまま姉弟を見つめている。皺の中に隠れた目からは何の感情も読みとることはできなかった。 「かしてごらん。」 不意に老婆がキラの身体をナナから取り上げた。呆気に取られている少女を余所に、懐から小さな袋を取り出し、中身をグッタリとしている少年の口の中へ放り込む。黒いいかにも怪しげな丸薬である。 「キラに何を飲ませた?」 弟の異常に気づいたナナが詰め寄る。だが、老婆は何も答えない。その間にも、キラの苦悶は激しくなって行く。両手で咽を押さえ、荒い息を吐いていた。 「答えろ!弟に何をした?」 激しい剣幕で詰問する。しかし、その間にも、キラは嘔吐し、苦しげに悶えていた。老婆は答えず、少年の背中をさすり、吐瀉物が喉に詰まらないよう顔を下に向けさせている。 不意に振り返ったと思ったら、いきなり命令する。ナナは何か言いかけたが、黙って水を汲みに行く。何が何だか判らないが、傷ついた少年を助けようとしてくれているように見える。あまり自信はないが……。猜疑心と期待の混じり合った複雑な気分で、老婆の指示に従う。水を差し出すと、老婆はそれを自分の口に含み、口移しでキラに飲ませ、吐き出させた。それを数回繰り返すと、徐々に少年の顔に赤味が戻ってきた。呼吸も静かになっている。 「やれやれ、体内に蓄積していた悪い物は全て吐き出させたよ。これで取りあえずの危機は脱したよ。でも、この子が地獄を嫌っている限り、何時再発するか判らないねえ。」 目を閉じ、静かな呼吸を繰り返している弟の寝顔を見つめながら、ナナはため息をつく。地獄を嫌い、自らを嫌って死にそうになった弟をこれからどうしたらよいのか……。このままキラを連れて地獄を旅するのは無理かも知れない。彼だけ、天と地の狭間に戻らせよう。密かにナナは決意していた。父を探すのは自分一人でやるしかない。 「とにかく、あたしの家においで。その子を休ませないといけないからねえ。」 老婆はキラの身体を抱き上げ、歩き始めた。ナナは黙ってついて行く。一体、何者なのであろうか?地獄は油断した者が負ける。そして、地獄での負けは、死を意味する。警戒を緩めないよう気をつけながら黙々と歩いていた。相手はそんなナナの杞憂を知ってか、知らずか悠々と歩いている。 やがて三人の目の前に切り立った崖が現れた。どうするつもりなのだろうか?ナナは心配そうに老婆を見つめる。だが、そんな心配をよそにキラを抱いたまま崖をスタスタと登って行く。それはまるで平地を歩くがごとく崖の斜面に向かって直角に歩いている。老婆の魔力が並々ならぬものであることを如実に語っていた。 ナナには何が何だか理解できなかったが、言われた通り弟の服を脱がせ始める。その間、老婆は何やら準備をしていた。燭台の蝋燭に火を点け、コウモリのミイラと竜の頭を壷に入れて煮込んでいた。そして、最後に色々な宝石で飾られた杖を握ると、振り返る。 「あらっ、パンツまで脱がしちゃったの?上着だけでよかったのに……。」 「まあいいさ、久しぶりに可愛いのを見せてもらったよ。お蔭で十年ほど若返ったねえ。」 「地の深層に隠れし闇の王よ、我が願いを聞き入れたまえ!」 魔法陣だ。驚くべきことに、老婆の呪文によって魔法陣がキラの胸に現れたのであった。詠唱は更に続く。魔法陣の中心から竹の子のように何かがせり上がってきた。それは見る間に大きく育って行く。やがて老婆の詠唱が終わる。少年の胸に現れていた魔法陣も消えた。だが、中心から現れたソレは心臓の上に残されたままであった。 「なんとかうまく行ったよ……」 額に汗を浮かべた老婆が苦しげな息をしながら言った。今の魔法で相当の魔力を使ったのであろう。側にいたナナにもそれが理解できた。呪文の詠唱が続いていた間、そこに集中していた力のため、身動き一つできなかったのだ。どれほどの魔力が必要な魔法であったか、計り知れないものがある。やはり、老婆はただ者ではないのかも知れない。 「あっ?」 杖を下ろした老婆の身体がグラリと揺れた。ナナは慌てて支える。身体が火のように熱い。それに、額だけではなく、全身が汗でビショ濡れになっていた。やはり、相当の体力が消耗してしまっていたのだ。ゆっくりと近くにあった椅子に老婆を座らせた。 「あたしも年かねえ、こんな魔法ぐらいで立てないほど疲れてしまうなんてさ……」 老婆は自嘲気味に笑みを浮かべる。だが、ナナはそうは思わなかった。先程の魔力の集中は凄まじいものがあった。全身の毛が総毛立つような緊迫感が、それを証明しているように思える。 「……それにしても、あんたの弟、普通の子供じゃないね。例え、年老いたとは言え、このあたしを手こずらせるんだから……。本当に不思議な子だよ。闇の力以外に、何かもう一つ力を秘めている。とんでもない子だよ。」 「えっ……」 ナナは思わずギクリとした。闇の力ともう一つの力……。それは、光の力のことであろう。天使と悪魔の間に生まれた彼らには、悪魔の持つ闇の力と、天使の持つ光の力を内在させている。それに気づかれては、彼らが魔天使だと知れてしまう。そうなれば……。 「あんた、その玉を取っておくれ。」 少し落ち着いた老婆がキラの胸の上を指さす。見ると、紺碧に輝く玉が一つ乗っていた。先程現れたのはコレだったのだ。不思議な輝きを持つ玉だ。遠くで見た時は紺碧に見えたのだが、近づいて見ると、紅に見える。更に手に取ると、瞬くように輝きを変化させる。まるで生き物のようだ。 「それは、その子の力を封じた玉だよ。その子はまだ力をコントロールできずにいた。だから、自分自身を嫌ってしまうと、己を傷つけてしまうんだ。だから、その子が自身をコントロールできるようになるまで、力を封じたんだよ。」 老婆は立ち上がり、ナナの掌から玉を取り上げた。そして、奥へと歩き去る。その足下は、まだおぼつかないものがあった。もしかしたら、そのまま玉を持ち去るつもりではないだろうか?ナナの胸に一抹の不安が沸き起こる。もしも、力を封じた玉を失ってしまえば、キラはただの人間の子供と同じである。こんな、敵だらけの地獄では生きては行けなくなってしまう。取り返しに行かなくては。ナナがそう思い当たった時、再び老婆が戻ってきた。手に何か光る輪のような物を持って。 「これをその子の頭にはめてやりな。」 「どうだいカッコイイだろう?あたいからのプレジェントだよ。いつか、この子が本当に力をコントロールできるようになったら、玉は自らの意志で元ある所へ戻って行くよ。しかし、それまでは、この頭環に封じて、必要な時だけ使えるようになっている。ただし、全パワーの十分の一だけどね。この子の力なら、それで十分地獄で生きて行けるだろうさ。ただ……」 老婆が一瞬言葉を止めた。まだ何かあるのか? 「……ナナ……」 大理石の上で眠っていたキラが不意に目を開いた。裸の上半身を起こし、目をしばたたかせながら姉と老婆を見つめている。 「キラ、この婆さんがあんたを助けてくれたんだよ。」 「助けてくれて有り難う、お婆ちゃん。」 ニッコリと微笑むキラ。顔には、倒れる前に見せていた苦悩は微塵も見えない。無理をして抑えているとは思えない純粋な笑みであった。恐らくは老婆の治癒魔法が効果を示しているのであろう。ナナは気づかれないように小さくため息をついた。そして、手に持っていた頭環を弟の頭にかぶせた。 「なんなの?」 自分の頭にかぶせられた物を手で触りながら姉の顔を見る。 「ねえ、外してよ。ぼく、こんなのいらない。」 姉に向かって訴える。しかし、笑っているばかりで外してくれそうにない。それで、助けを求めるように老婆を見た。 ナナが意地悪い顔で言う。老婆も知らぬ顔で笑っていた。キラは懸命に頭環を外そうともがいていたが、やがて諦めてため息をついた。どうやら、ナナも老婆もキラには真実を告げないつもりらしい。地獄を嫌い、自分自身を嫌って自らを傷つけてしまった少年。それを防ぐために、力を封じた玉をはめ込んだ頭環。 彼自身が自らの力を制御できるようになるまでは必要な物である。それを教えたからと言って事態が好転するとは思えない。むしろ、真実を知ることによって、より傷ついてしまうに違いない。キラとはそういう子だった。ナナはそのことを一番良く知っていたから、真実を告げなかったのであった。恐らくは、老婆もそれと気づいて協力してくれたのであろう。 「そんなことより、この服を着な。そんな妙な格好をしていたら、外の世界からきたことが一遍にわかっちまうよ。」 「あんたたち、何処からきたのかは知らないが、不用心にそんな格好で歩いていたら、格好の餌食だよ。なるべく目立たないようにしないといけないよ。目的があるんだろう?こんな地獄の果てへやってきたのは。」 「ほっほっほっほーっ!良く似合っているよ。二人とも、何処から見ても地獄の住人だよ。その服は妖虫の繭の糸を紡いで作った布でできているから、少々のことでは破れたり、燃えたりしないから安心しな。それに、復元力も強いから、布が一片でも残っていれば元に戻る優れ物だ。どうだい、凄いだろう?」 「うん、凄いや!ありがとう、お婆ちゃん。」 キラは、単純に喜んで満面の笑みを浮かべた。だが、ナナにはどうしても理解できない。何故、地獄の住人である老婆が彼らに親切にしてくれるのだ?地獄では、周りは全てが敵のはず。例え、彼らが子供だからと言って、それは変わらない。それなのに、老婆は、初めから何も事情を尋ねることなく助けてくれた。何故なのだろう? 「嬢ちゃん、何か不服そうだねえ。服が気に入らないのかい?」 老婆の瞳が遠くを見つめる。恐らくはその男の子のことを思い出しているのであろう。口物には優しい笑みが浮かんでいた。 老婆はキラの顔をジッと見つめた。そして、不意に小さな身体を抱きしめる。強く、強く……。気づくと深い皺に隠された両眼から熱い涙を流していた。何がどうなっているのか?理由は判らない。しかし、キラは逃げようとはせず、老婆に抱かれたまま身動きしなかった。
尖った奇岩の群、空には暗雲が低くたれ込めている。時折聞こえるのは、怪鳥の叫びか、地獄に棲むと言われる竜の雄たけび?吹き抜ける風は、善意のかけらも感じさせない空虚な大気の流れでしかなかった。動く物はほとんどいない。皆、動くことを恐れているのだ。弱い物は強い物に襲われることを。強い物は、更に強い物を。肌を突き刺すような緊張感に耐えかねた地獄ネズミが岩陰から飛び出す。それを待っていたかのように、空から飛来する物がいた。
「キキーッ!」 危機を察したネズミが再び岩陰に隠れようと駆け出す。だが、敵の鋭い爪に捕らえられてしまった。爪から必死に逃れようともがくが、益々深く食い込んでくる。やがて奇岩の頂上に降り立ったソレは、いたぶるようにネズミの身体をジワジワと引きちぎって行く。先ずは前足を一本ずつ、次に後ろ足を、最後に腹をくちばしで破り、内臓を音を立てて飲み込んで行った。
「よしよし、可愛いやつだ」ポンポンと竜の頭を軽く叩いてやる。ゴモラは目を細め、嬉しげに双の頭を上下させた。
「きたか……」 戦士の表情も厳しいものへと変化する。静寂の中で竜の双つの頭が吐き出す呼吸音だけが空気を乱す。
「さすがは、魔王親衛隊一の戦士と呼ばれたルーク、若年とはいえ、腕は確かなようだ」
戦士の一人が不敵な笑みを浮かべる。
「貴様ら、サーザの手の者か?」 ルークが忌々しげに訊く。だが、二人の男たちは何も答えない。恐らくは答えないことが、推測が正しいことを物語っているのであろう。
「どこだーっ?!」 恐慌に陥った戦士は剣を滅茶苦茶に振り回す。しかし、空を切るのみであった。
「うわあーっ!」 同時に踵が顔面を襲う。もんどり打って転がる戦士。続いて降ってきた剣が首と胴を切り離した。ゴロゴロと地上を転がる頭部が仲間の前で止まり、恨めしげに見つめる。
「何?!」 空気を切り、短剣が若者の心臓を狙って飛ぶ。それは避けようもなく深々と突き刺さった。
「ふふ、甘いな。悪魔は心臓を突き刺さぬ限り死なぬもの。首を切り落としただけで油断するとは、愚かな奴」
先程、切り落とされた首がケケと笑う。胴体はゆっくりと首を拾い上げた。そして、首を元の場所へともどす。傷口は見る間に癒えて行った。
「なっ……?」 敵の心臓に短剣を突き刺し、倒したと油断していた男がギョッとして立ちすくむ。見ると、背中に短剣を突き刺したまま、若者が振り向いた。
「おっ、お前は心臓を刺されても平気なのか?」
まだ信じられぬと言う顔でルークを見る。どんな悪魔であろうと、心臓は急所のはず。それなのに、平然としている若者が信じられないのだ。
「そのままおとなしくしておれば助かったものを。愚かな奴だ」
苦々しげにつぶやくと、剣を収めた。再び竜に向きなおる。背に突き刺さった短剣は、彼の筋肉によって押し出され、地上に乾いた音を立てて落ちた。
「誰だ?出てこい!」 鋭い声で相手を威嚇する。小さな影は、おずおずと出てきた。子供だ。見たこともない奇妙な服を着て、黒ネコを胸に抱いた、五才ぐらいの男の子であった。
「ぼくはキラ。パパを探しているんだ」 にっこりと男の子は微笑む。実に汚れのない可愛らしい笑顔だった。
「父親を探しているのか?まさか今、私が倒した戦士ではあるまいな?」
「違うよ。ぼくのパパはアモン。何処にいるか知らない?早く見つけないと、ママが死んじゃうんだ」 真剣な眼差しでルークを見る。
恐らく、嘘など言ってはいないのであろう。それにしても、父親の名前がアモンとは……。あの地獄一の勇者と呼ばれた悪魔と同じ名である。戦士を志す者は皆、アモンに憧れ、アモンを目指した。だが、天使と交わり、 ”光と闇を纏し者”を生み出した。伝説の地獄の破壊者だ。今や彼の名は、裏切り者の代名詞となっている。
「何を勘違いしておる。私が言ったアモンとは、かつて天使と交わり、災厄の子を生んだ裏切り者のことだ。お前の父親のことではない」 振り返り、言葉を投げつける。
「ずっとむこうの方だが……。私の言っているアモンとは、かつて勇者と呼ばれたアモンのことで……」
「むこうだね。ありがとう、おじさん!」
「あのなー、私はおじさんではない。ルークだ。それに、小僧、何度も言わせるな。地獄の最下層にある闇牢獄にいるアモンは、お前の父親ではない。あそこにいるアモンとは、地獄で最大の罪を犯した男だ。そんな男がお前の父親のはずがないだろう。それに、アモンの子供たちは、魔王ブラス様に人間界に追放されたはずで……」
「ったく、最近の子供は他人の話もろくに聞かんのか……」 ルークは呆れて走り去って行く少年の後ろ姿を見つめていた。
「しかし、あの子供……まさか本当にアモンの……?んな訳ないか……。もし、本当にアモンの息子ならば……」 一度、竜に向き直ったルークであったが、再び気になるのか、少年の走り去った方角を無言で見つめていた。もしも、今の子供が、裏切り者アモンの子ならば、人間界に追放された災厄の子ならば、直ちに殺さなくてはならないのだ。
闇牢獄へ向かっていた少年の頭上を大きな黒い影が通り過ぎて行く。ルークの乗った双頭の竜である。竜は同じように地獄の最下層に向かって飛び去って行った。キラは立ち止まり、竜の後ろ姿を見送る。
「あの悪魔も、地獄の最下層に行くのかねえ?」 脇を走っていた黒ネコが空を見上げながら言った。
「あんた、人って言い方は変だよ。だって、地獄に棲むのは悪魔。だから、あいつも悪魔だよ」
「あっ、そうかあ……。ここは地獄だったんだ」
「あんた、何ノー天気なことを言ってるんだよ。あたいたちはママを助けるために、地獄のパパを探しにきたんじゃないか。忘れたのかい?」
「忘れるわけないだろう。だから、ぼくはパパの居所をあのおじさんに尋ねたんじゃないか」
「それにしても、あの悪魔、いい男だったねえ。何かパパに雰囲気が似てたよ」
「えっ?」 驚いてネコを見る。だが、ネコはそれには気づかず、遠方の空を見つめたままだった。
「じゃあ、先を急ごうか」 言うなり、ネコが全力で走り出した。キラは慌てて後を追う。少年とネコの姿は見る間に小さくなって行った。
キラとナナは荒野を最下層に向かってひたすら走っていた。瀕死の母、フレアを救うため、闇牢獄に繋がれている父を救い出さなくてはならない。彼らに残された時間は少ない。少しでも早く父に会わなくては。そして、母を救わなくてはならないのだ。
「あれっ?」 不意にキラが足を止める。隣を走っていた黒猫の姿のナナが訝しげに振り返った。急いでいるというのに、何故?だが、彼の視線を追って行くと、その理由が理解できた。何か巨大な生き物が横たわっているのだ。
「フーッ!」 その途端、今にも死にそうだった竜が首を擡げ、威嚇してきた。牙を剥き、荒い息を吹きかける。
「キラ、止めな。あいつは、あんたを敵だと思ってるんだよ。傷ついた竜は危険だ、放っておきな。そんな奴より、あたいたちは先を急がないと……」
「竜さん、大丈夫だよ。ぼくは敵じゃない。傷を治して上げたいだけなんだ。だから、側へ行かせてね。」
キラはニッコリと微笑み、話しかける。竜に人の言葉が理解できるものか。ナナは用心深く竜の動きを見守っていた。いざと言う時、助けるつもりなのかも知れない。
「くー!」 手が触れられる程近づいた時、不意に竜が首を落とした。そして、ジッと目を閉じる。邪気のない少年を敵ではないと判断したのか、荒い息を吐きながら動きを見守っている。
「クーッ。」 竜は甘えるような声で応える。やっと、目の前の少年が敵ではないと確信したのであろう。キラは嬉しそうに微笑むと、竜の頭を撫でてやった。
「やれやれ呆れたよ、あんたには……。」
「クーッ!」竜がヨロヨロと立ち上がり、首をしゃくる。何が言いたいのかと、視線を追うと、竜の太い足元に小さな白い玉のような物があった。何なのだろうか?少し身を乗り出して見つめる。
キラが目を輝かせ、竜に問う。竜は僅かにうなずいた。
「そうか、傷を治してやったお礼に卵を見せてくれたんだね。ありがとう。良い子を生むんだよ。」
キラはニッコリと微笑み、竜に手を振る。竜は再び身体を下ろし、卵を守るようにうずくまった。
「うん!」 ナナに急かされ、キラはうなずく。そして、もう一度、竜に手を振った。
「竜だって傷ついても、卵を守ろうとするんだ……。」
「だめなんだよ。あいつ、卵の側を離れられないんだ。」 キラが絶叫する。竜は卵を守るため、狼の群を振り切って空へ逃げられないのだ。血だらけになり、傷つけられても、その場を逃げられないのだ。
「ばかやろーっ!ママをいじめるなーっ!」 次々と襲いかかる狼をキラは容赦なく弾き飛ばす。傷ついた母竜の姿が天国にいる母と重なり合っていたのかも知れない。
「キラ、危ない!」 弟の危機を察知したナナが飛ぶ。狼の牙が少年の細い首を噛み切ろうとする直前、黒猫の鋭い爪が狼の顔面をバリバリとかきむしった。狼はたまらずに地面に転がる。
「あたいは大丈夫だよ。それよりも、あんたこそ気をつけな!」
猫は再び襲ってきた狼の首を羽交締めにする。猫が狼を倒す、奇妙な光景であった。
「クエエエーッ!」 姉に気を取られていたキラの耳に、竜の絶叫が飛び込む。驚いて振り返ると、竜の弱点である左の逆鱗に狼が牙を突き立てていた。激しく溢れ出す血潮が狼の全身を真っ赤に染めている。巨大な母竜は懸命に狼を振りほどこうとしていたが、やがて力尽きドーッと音を立てて地面に倒れた。
「みんな死んじゃえ!」 周囲の空気が竜巻を起こし、無数の風刃が音を立てて狼の群に襲いかかる。
「キラ、あれはあたいたちのママじゃない。あれは竜だよ。あんた、どうかしちゃったのかい?」
「ナナ、ぼく、怖いんだよ。ままが死んじゃうような気がして……」
ナナはしゃがみ込み、目をジッと見つめながら話す。少年はしゃくり上げながらも、小さくうなずいた。
「待ちな!」 ナナが鋭い声で制止する。しかし、キラは止めようとはしない。思念を集中し、呪文を口ずさむ。
「あいつもママだったんだ……」
「子供に乳をやるため、食料にしようと竜を襲ったんだね……」
二人はやるせない気分で母子狼を見つめていた。母竜を襲った狼たちに怒りを感じたキラであったが、怒りに任せて倒した狼にも母がいたとは……。考えも及ばなかった。
「ナナ、ナナ、ぼく、ママを殺しちゃった!どうしたらいいのーっ!?」 涙を溢れさせ姉にしがみつく。もう慰める言葉はない。どう言って慰めても、それは誤魔化しでしかない。ただ強く抱きしめてやるしかなかった。
「キャイーン!」
「でも、ああしなければ雛鳥は死んでしまうんだよ。」
「……判ってる……でも……ぼくが母狼を殺したりしなければ……」
「これが地獄の掟なんだよ。弱い物が強い物に食われる。あたいたちは手を出したらだめなんだ。あるがままにしておく、それが一番なのかも知れない。」
「でも……辛いよ。そんなの……」
「うん」 二人は沈黙したまま歩き出す。あまりにも悲しい世界にきてしまった彼ら。この先、無事に父を見つけ出すことができるのであろうか?多くの不安が彼らの心を重くさせていた。
「そうだ、ナナ、待ってて!」 不意にキラが大声を出した。そして、倒れている母竜へ向かって駆け出す。驚いて後を追うナナ。少年は竜の死骸の下に潜り込んで行く。一体何をする気なのであろうか?
「あんた、それを食う気かい?」
「違うよ、ぼくがママの代わりに育てるんだ」
「えっ?」
地獄に降りてきてから三日目、キラとナナは地獄の最下層にあると言う、闇牢獄へと寝る間も惜しんで進んでいた。しかし、いくら彼らでも不眠不休の前進にも限界がある。次第に二人の進む速度は遅くなり、ついに立ち止まってしまう。特に翼竜の卵を抱えているキラの消耗は激しく、物も言えずに座り込んでいた。顔色は青ざめ、脂汗を流している。ただ疲れていると言うにしては異常に衰弱しているように見える。
「キラ、大丈夫かい?顔色が悪いよ。」
「だっ、大丈夫。少し疲れただけだよ。すぐに元気になるから心配しないで……」
笑ってみせるが、疲労のためか歪んで見える。しっかりと卵を抱きしめ、肩が大きく上下していた。ナナは隣にしゃがみ、弟の目をジッと見つめる。何かがおかしい。弟の中で何かが起こっているようだ。それは、姉としての直感だった。
「べっ……別に……」 視線を避け、うつむく。しかし、動揺は隠せない。何かがあるに違いなかった。ナナはキラの顔を両手で持ち上げ、瞳を凝視する。潤んだ瞳から涙か一つ、また一つとこぼれ落ちて行った。
「違うんだよ……。ママのことは心配なのだけれど……。でも……」
「でも……?」
「あんた、何だよこれ?血じゃないの。」 無理矢理卵を取り上げ驚きの声を上げる。一体何処で?
「まさか?!」 急に何か思いつき、キラのシャツをめくろうとする。だが、抵抗してめくらせようとはしない。
「何を隠している?」 きつい語調で詰問するが、何も答えようとはしなかった。更に訊ねようとして、自分の手が何かベトベトしているのに気づいた。見ると、真っ赤な血で染まっている。
「違う。ナナのせいじゃない。この傷は完全に治っていたんだ。でも……」
キラの表情が暗くなる。何か言うことを躊躇っている。ナナは辛抱強く続きを待っていた。
「傷が治らない?まさか?」 ナナは眉を寄せた。魔天使の彼らは普通の人間とは比べ物にならないぐらい怪我に対する回復力が強い。更に、掌から生命エネルギーそのものである光を当てても治癒しないとは……。そんなことは一度もなかったのに……。いや、一度だけあった。それは、キラが姉を助けるために自らの心臓を貫いた時……。悪魔も天使も心臓そのものをやられては生きてはいけない。その他の部分ならば助かるのだが、心臓だけが唯一の弱点なのだ。それを奇跡的に救ったのは愛の力だった。キラを愛した人々の愛の祈りよって蘇ることができたのだ。
「どういうこと?」
「判らないよ。ぼくが自分でやっても同じなんだ。」
「ナナ、逃げて。あいつは手強いよ。」 背後でキラが立ち上がる気配がする。まだ出血は止まってはいないはずなのに……。
「畜生ーっ!地獄の竜なんかに負けるもんか!」
「どうだ、竜め参ったか!」 キラの顔に凶暴な表情が浮かんだ。ナナはそれを見てゾッとする。なんて顔をしているのだ。これでは天使ではなく、悪魔の顔ではないか。敵を憎み、殺戮を楽しんでいる。
「やっつけたぞ……」
火炎に包まれた竜を見てキラが狂ったように笑う。大口を開け、目がすわっている。ナナは唖然と見つめていた。
「うっ……」 キラは不意に呻き声を上げて地面に倒れ伏す。ナナは慌てて抱き起こした。
「キラ?!」 譫言のように漏らす言葉を聞いて、ナナは凝然となった。地獄が嫌い?空気も大地も嫌い?パパも……。まさかそのような言葉がキラの口から出るとは思ってもいなかった。そう言えば、弟の望は天使となって天国のママと一緒に暮らすことだった。それなのに、ママを助けるためとはいえ、地獄にきてしまったのだ。懸命に明るく振る舞おうと努力していたに違いない。
「あっ!」 黒焦げの竜が光を発していた。驚きのあまりナナは声も立てられない。竜は次第に姿を変貌させて行く。黒い巨体が少しずつ縮み、人の姿を形作ろうとしていた。黒に長衣を纏った老婆のようである。変身が終了すると、ニタリと歯のない口を開いて凄みのある笑みを浮かべた。ナナは緊張して身体が硬直する。だが、相手はそんなことには無頓着に近づいてきた。
「おっ、弟だよ。」 思わず顔を赤くして怒鳴る。いくら何でも、息子とは……。怒鳴ったお蔭で緊張が解け、動きが自由になった。
「そうかい……。」 老婆はそんなことはどうでもいいと言う風にキラの顔を覗き込む。そして、眉間に皺を寄せた。
「えっ、心が身体を傷つけて?まさか……」 思わず老婆の顔を見つめるが、深い皺が刻まれた顔からは何も伺うことはできなかった。ナナはいきなり現れた老婆に対する不信感も忘れ、尋ね返す。
「そうだよ、この子は無意識の間に自分自身を嫌っている。だから、身体が敏感に反応して血を流し始めたんだよ。」
「キラが自分自身を嫌っているって……」
「そんなことさせるもんか!」 思わずナナは怒鳴る。しかし、そんな彼女に為す術があろうはずもなかった。
「キラ、しっかりしな。ママを助けるんだろう?あんたが死んじまったら、だれがママを助けるんだよ。」
「うっ……うぐぐぐぐ……」
丸薬を飲み込んだ途端、キラの顔が苦悶に歪む。身体を弓なりに反らせ、手足を硬直させた。小さな胸が激しく上下し、咽がヒクヒクと痙攣している。歯を食いしばり、半眼を開いて呻き声を上げた。
「あんた、何をしているんだい?早く水を汲んでおいで。この子の口を洗ってやるんだ。さもないと、喉を詰まらせてしまうよ。」
老婆はキラの身体をそっと地面に下ろすと、やっと語り始めた。
「と、とにかくありがとう、弟の命を救ってくれて……。でも、これからどうしたらいいのか……」
敵とも味方とも知れない老婆に連れられ、ナナとキラは崖の中腹に開いた洞窟へと入って行った。中は意外に広く、何かの光で満たされている。ぐるりと見回すと、コウモリのミイラ、竜の頭、角獅子の骨等、怪しげな物が置いてあった。中央には大理石の台と悪魔神像を模した燭台がある。老婆は眠っているキラの身体を大理石の上に寝かせた。
「あんた、この子の服を脱がせな。」
「えっ?」
「この子の精神が二度と自分自身を傷つけないようにするんだよ。判ったら、さっさと脱がせな。」
「はっ、はい……」
老婆は苦笑する。ナナは慌てて弟にパンツを履かせる。
「嬢ちゃん、あんたって見かけによらず慌て者だねえ。」
「だって、服を脱がせろとしか言わないから……」
恨めしげに老婆をにらむ。だが、老婆はくぐもった声で笑っていた。
「そっ、そんなことより、キラを助けてくれるんだろう?早くしてよ。」
「ほいほい!」 老婆は笑いをこらえながら準備を始めた。ナナは憮然と見つめている。もしかしたら、あまり期待はできないかも知れない……。
宝飾の杖を構え、老婆が呪文の詠唱を始める。洞窟内の空気が緊張し、力が寝台の上で眠っているキラに集中する。力は目には見えないが、息苦しい程の圧迫感があった。ナナは息を呑んでそれを見つめる。不意に燭台の蝋燭の炎が揺らめいた。同時に現れる黒い竜巻。それは竜のようにキラの胸の辺りで蜷局を巻き始めた。暫くすると、眠っている少年の胸に何かが浮かび上がる。それは徐々に姿をはっきりとさせてきた。丸い円の中に各種の記号が規則正しく描かれている。
「これは?」 ナナは不信げに輪を見つめた。輪の中央には、先程の玉が埋め込まれている。それは、竜と鳳凰が掘られた見事な頭環であった。
「もしも、力の強い悪魔と闘うことになったら、かなわないだろうけどねえ……。気をつけるんだよ。なるべく闘わないようにね。」
「その時は、あたいが弟を守るよ。」
「ふっ、そうかい……。」 老婆は笑みを浮かべた。一体どういう意味なのだろうか?ナナは気になって尋ねようとした。
「ホホホーッ、やっとお目覚めだね王子様。」 老婆はしわだらけの顔をしわくちゃに歪めて笑いかけた。キラはキョトンとして見つめている。
「えっ?ぼくを?」 驚いて姉の顔を見る。そして、再び老婆を見た。二人とも黙ってうなずく。やがて蘇ってくる意識を失う前の記憶。しかし、何が起こったのか、まるで記憶がなかった。急に苦しくなって地面に倒れたまでは覚えていた。だが、それから後の記憶がないのである。倒れたのは、荒れ地の近くであったはずだが、ここは室内のように見える。いや、室内というよりは、何か暗くて狭い……洞窟の中のようだ。
「婆さんに貰ったんだ。よく似合ってるよキラ。」
「ええーっ?でも、これ邪魔っけだなあ。」 キラは不服そうに口を尖らせる。そして、取ろうとした。だが、どうやっても外れない。
「残念だったね坊や。それは、一度はめると、坊やが大人になるまで外れないんだよ。」
「ええっ?嘘だろーっ!こんなの格好悪いよーっ!外してよーっ!」
「まあ、諦めるんだね。」
「えっ?」 姉弟は驚いて老婆を見た。外の世界からきたと言った……。まさか、彼らが天界と地獄界を崩壊させると予言された運命の子、魔天使姉弟だと知っているのであろうか?それなのに、助けてくれたのか?
「うっ……うん……。」 戸惑いながらうなずく二人。どうやら正体は気づかれていないらしい。受け取った地獄界の服に着替えると、姉弟は互いの顔を見合わせた。実に良く似合っている。ナナは魔女らしく、キラは悪魔らしく見えた。
「服は気に入ってるよ。でも、婆さんに親切にしてもらう理由が判らないんだよ。どうして、あたいたちを助けてくれるんだい?」
「さあ、どうしてだろうねえ?あんたたちを見て、昔可愛がっていた男の子を思い出したせいかも知れないねえ。」
「昔可愛がっていた男の子?」
「ああ、それはそれは可愛らしい坊やだったよ。やんちゃで、散々手こずらせたけど、優しい子だった……。」
「ふーん、その子のこと好きだったんだ」
「ああ、大好きだったよ。可愛くて、愛おしくて、実の子よりも可愛いと思っていたよ。でも……」
「どうかしたの?その子?」
「……まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか。それよりも、もっと顔をよく見せておくれ。」