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長編小説 ホローアップ

●ホロー アップ 全10話 文:林 克之

ホローアップ・目次

第一話 メール デビュー

第二話 闇にとけて

第三話 真夜中の死闘

第四話 パンプキンパイ

第五話 世界一のパピーウォーカー

第六話 ベストセラーをめざせ

第七話 ごくろうさまでございます

第八話 恋のライバル

第九話 プチ ボランティア

第十話 星の光の中で

 

◆第一話 メール デビュー◆


 アパートのドアをあけると、たたきに大きなスニーカーがみえた。
「あら、達也、きてたんだ」
 赤山紀子は口もとに微笑をうかべると、右手で前髪をなぜた。これが彼女のくせなのだ。
 6畳の和室のテレビの前に沢田達也の大きな体が横たわっている。
「あらら、よく寝ちゃって。いつからきてんの、こいつ」
 腕時計をみると、もう8時をまわっている。
「なんか達也と約束してたっけな。ま、いいか」
 紀子はバッグをテーブルの上に置くと、達也のそばまで行き、真上から顔をの ぞきこんだ。
「それにしても、よく寝てるわね。よだれなんかたらしちゃって。こんな顔見ち ゃうと、こいつとのつきあいもそろそろ終わりかな」
 紀子はもう一度前髪をなぜる。

 その時、バッグの中の携帯電話が鳴った。
 紀子は足音を立てないように、ちょっと小走りにバッグをあけた。
「はい、赤山です」
「こんばんは。上杉です」
 はにかんだような若い男の声がした。
「上杉?あれ?上杉くん?上杉純一くん?」
「はい、そうです。そのぶんだとまだメール読んでくれてませんね」
「えっ?メール」
「昨日メール出したんですよ」
「ああ、パソコンのほうね」
 紀子は部屋のすみに置いてあるデスクトップパソコンをちらっと見た。
「ごめーん。最近いそがしくてパソコンあんまり開いてないの」
「そうか。携帯のメールのほうがよかったのか」
 純一はガッカリした声で言った。
「そんなことないよ。長い話なんか、パソコンのほうがいいし。そうか。上杉く んもパソコン始めたんだ」
「はい。やっとメール出せるようになって。それでうれしくて赤山さんのところ へ出しちゃいました」
「ありがと。でも、わたしのアドレス、どうやって調べたの?」
「あはは、それは企業秘密」

「ま、いいわ。後でしっかり読ませてもらって、返事書くから」
 紀子はちょっと苦笑しながら、今度は左手で髪をなぜた。つやつやと光る長い 髪だった。
「実はいま、Y駅の前なんですけど」
「えッ、そんな近くにいるの?」
「はい。もしよかったら、お茶でもいかがですか?」
「それはいいけど」
 紀子は達也のほうをちらっと見た。いまにも鼻ちょうちんを出しそうなほど よく眠っている。
「ほんとですか。うれしいなあ」
 純一のはずむような声がかえってきた。
「じゃあ、今から行くから、そこで待ってて。5分もかからないと思うから」
「わかりました」
「それにしても、上杉くんってけっこう大胆ね。年上の美人を強引に誘いだす なんて」
 紀子は苦笑しながら言った。
「なんか、嫌われちゃいそう」
 純一がちょっと気弱にこたえる。
「そんなことないよ。レッキーのようすも見たいし。上杉くんと会うのも久し ぶりだし」
「よかった。じゃあ、待ってます」
 電話は切れた。

「あの子、携帯の番号まで調べて。こりゃ油断ならんぞ」
 紀子はまた苦笑して、出かける用意をはじめた。
 靴をはき、ドアをあけようとした時、背中から眠そうな達也の声が呼び止め た。
「なんだ、また出かけるのかよ」
「あら、起きたの?」
 振り返ると、達也はゴソゴソと上体を起し、両手をあげてのびをしている。
「2時間も待ってたんだぞ。きょうは土曜日だし、なんか食いに行こうかなって」
「ごめんごめん。すぐ帰ってくるから、もうちょっと寝てて」
「どれくらい」
「ううん。3、40分かな」
「なにしに行くのさ」
 紀子は達也のほうに向き直って、ちょっと小首をかしげた。
「3ヶ月くらい前に卒業したユーザーさんから電話があったのよ。近くまで来てる から会いたいって」
「盲導犬の訓練士ってそんなことまですんの?」
 達也はちょっと顔をしかめて言った。
「べつに仕事ってわけじゃないのよ。レッキーっていうんだけど、わたしが名前 つけたの。すぐ帰ってくるから待ってて。ごめん」
「わかったよ。じゃあ、お詫びの印にチュッてしてくれ」
 達也は半身を起こしたままで、口をとがらせて顔をぐいっと伸ばした。
「バカ」
 紀子は笑いながら音をたててドアを閉めた。

 土曜の夜だというのに店の中には ほとんど客はいなかった。
 赤山紀子と上杉純一は、一番奥の席に向かい合ってすわるとコーヒーを 注文した。
「ほんと、久しぶり。どう、レッキーは。まじめに仕事してる?」
 紀子はテーブルの下にやさしい視線をそそぎながら言った。
 純一の足元には真っ黒なラブラドール犬が 丸くなっておとなしく待機して いた。
「ええ、すっごくがんばってくれてますよ。おかげでずいぶん行動範囲も広がり ました」
「そういえば、今もY駅まで一人で来たのよね?」
 紀子はテーブルの上のおしぼりを取りながら、純一の顔を見た。
「もちろん。ぼくのアパートN駅の近くなんです」
 純一は水の入ったコップを右手で探しながらこたえる。
「N駅か。電車で30分くらいよね。へえ、けっこう近くに住んでたんだ」
「そうなんですよ、実は僕も驚いちゃって。紀子さんの住所聞いた時は」
「誰に聞いたの?」
 紀子の目がキラッと一瞬ひかる。

「あ、いえ。これは企業秘密で」
 純一があわてて口に手をあてた。
「ま、いいわ。一人で住んでるの?」
 紀子はコップを純一の手に、うながしながら聞いた。
「あ、どうも。 ええ、一人です。両親はいなかへ帰って来いって言うんですけど。大学だけ は卒業したいと思って」
 純一はコップと一緒にさりげなく紀子の手にふれながらこたえた。
「大学、もう行ってんの?」
「いえ、まだ。来年の春から行こうと思ってます」
「何回生だっけ?」
「こんど4年です」
「そうかあ。でもたいへんでしょ、一人ぐらし」
 紀子は前髪をさっとなぜあげる。
「そうでもないですよ。友達やボランティアの人がいろいろ手伝ってくれるから」
 ウエイトレスがコーヒーを運んできた。

「あら?これって盲導犬ですよね?わあ、感激!わたし見るのはじめて」
 テーブルの下のレッキーに気づくと、若いウエイトレスはかん高い声をあげた。
「さわっちゃダメなんですよね?」
 ウエイトレスは悲しそうな目で紀子に聞いた。
「あ、少しくらいならいいですよ」
 純一がすかさず答える。
「ええ、いいんですか?わあ、うれしい。キャア」
 彼女はレッキーの横にしゃがみこみ、ねそべっている黒びかりの頭をなぜた。
「ミルクと砂糖、どうする?」
 紀子はそんなウエイトレスを無視して純一にたずねる。
「あ、いりません。ブラックで」
 純一は両手でコーヒーカップをさぐった。
「パソコンも始めたのね?」
 紀子もコーヒーを口に運びながら、純一の顔をもう一度マジマジと見る。
おとなしめの茶髪。ほっそりとしたあご。色白の顔。ジャニーズ系というのが ぴったりのかわいい男の子。
この子、いくつだっけ。たしか、23か4だったな、たしか。
それにしても、いま見てきたばかりの寝顔とは、えらい違いだと紀子は思った。

「ええ、なんとか。点字も少しは読めるようになりましたよ。」
「へえ、すごいな。がんばってるんだ」
 紀子は何度もうなずきながら純一を見つめる。
「いつまでも落ち込んでいられないし」
 純一は ちょっと照れくさそうに頭に右手をもっていく。
「でも、すごいよ。だって事故からまだ2年も経ってないでしょ」
「1年と7ヶ月です」
「もう怪我のほうはいいの?」
「ええ。目以外はすっかり」
「そうか」
 紀子は大きくうなずきコーヒーカップを置いた。
「ねえ、あなた。そろそろいいんじゃない?」
 レッキーをなぜ続けるウエイトレスに紀子の視線がうつる。
 レッキーはいつのまにか立ちあがり、シッポをブンブン振りまわしながら彼女 の顔をなめまわしていた。
「あ、どうもすいません。じゃあ、ワンちゃん、またね。がんばってね」
 ウエイトレスはあわてて立ち上がり、丁寧におじぎするとテーブルを離れた。

「ところで純一くん。会ったばかりで悪いんだけど、友達待たせてんのよ。 だからあんまりゆっくりできないの」
「ええ、そうなんですか。いっしょにお酒でも飲みに行きたかったのに」
 純一はさも残念そうな顔をしてみせた。
「だって急に電話してくるんだもの」
「そうですよね。じゃあ、今度。また会ってくださいますか?」
「いいわよ。レッキーにも会いたいし」
 紀子はにっこりと笑ってうなずいた。
「よかった。ストーカー扱いされちゃうかと心配してた」
「純一くんみたいにかわいいストーカーなんていないわよ」
 純一は恥ずかしそうに笑ってみせた。
「ちゃんとY駅まで送るから。気をつけて帰ってね」
 テーブルの下ではレッキーがウエイトレスの行ったほうをむいたまま、まだ シッポを振り続けていた。
「こら!レッキー!純一くんをしっかり誘導しなきゃダメよ!」
 紀子の声にレッキーはビクンと体を痙攣させた。

「ねえ、どうしたらいいと思う?」
 テーブルに両手で頬杖をついたまま 赤山紀子は目の前で生ビールをガブガブ 飲んでいる沢田達也に問いかけた。
「え?どうするって何を?」
 一瞬間を置いて、達也はポカンとした顔で口からジョッキを離した。
「何がって、メールよメール!」
 紀子はイライラした声で達也をにらんだ。
「ああ、あのメールか。ほっときゃいいんじゃないの」
 達也は皿の上の焼き鳥に手をのばしながら、あっさりと答えた。
「だって別れ際に必ず返事書くって言っちゃったんだもん」
 紀子は思わず大きなため息をついた。
 上杉純一を見送って部屋に戻ると、達也は二度目の熟睡に入っていた。
「やれやれ。ま、プリプリしながら待たれてるよりはましか」
 そうつぶやきながら紀子はパソコンのスイッチを入れた。
 たしかに純一からのメールは届いていた。
 件名は「メールデビュー」となっていた。
 そして本文には
「好きです。つきあってください。」
とだけ書いてあった。

「困っちゃったなあ」
 紀子はもう一度ため息をついた。  二人はいま、アパートの近くの居酒屋にいた。もう0時近いというのに店は けっこう賑わっていた。
「だから ほっときゃいいんだって」
 カラになったジョッキを高くさしあげて、おかわりを注文するついでのように 達也が繰り返す。
「だからそういうわけにはいかないんだってば。彼ってけっこうナイーブそうな 感じなんだもん」
「だったらどうすんだよ?いっそ その坊やとつきあうか?」
 達也が最後の焼き鳥をふりまわしながら、ハハハと笑う。
「もう、ちゃかさないでよ。なんとか彼を傷つけない いい方法ない?」
「ないない。だいたいその坊や、お前の同情かおうってんじゃないのか?」
「達也!」
 紀子が両のこぶしでテーブルをたたいた。その音があまりに大きかったので、 一瞬店じゅうが静まり返った。

「お、おい。ムキになんなよ。冗談にきまってるだろ」
 達也が赤い顔を一気に青くした。
「まじめな話、なにもしないほうがいいと思うよ、おれは」
 紀子のほうへ顔を突き出し、真剣な顔をつくって答える。
「そうかなあ。それですむかなあ」
 紀子は腕組みをして考え込んだ。
「それにしても、彼にわたしのアドレスなんか教えたの、誰だろ?」
「さあな。訓練所の誰かじゃないの。それより紀子も飲めよ。むずかしいこと は明日ゆっくり考えりゃいいさ」
 達也が紀子の前の手つかずのジョッキを指さした。
「そうね、飲もうか」
 そうつぶやくと紀子はジョッキを一気にあけた。

月曜日の朝。
 紀子が訓練所の駐車場に車を止めると、むこうから鶴田幸一が訓練中の犬を つれて歩いてくるのが見えた。
 彼女はいそいでクルマをおりると鶴田にむかって走った。
「お、ノリちゃん。おはよう」
 鶴田は紀子の姿をみとめると、軽く左手をあげたが、すぐに彼女の形相に 気づき、そのまま固まってしまった。
「ちょっとツルちゃん。あなた、わたしのアドレスなんかを上杉純一くんに 教えたでしょ!」
 紀子はいきなり鶴田の襟首を 力いっぱいしめあげた。
「え?え?な、なんのこと?」
「とぼけるんじゃねえ!きのう一日考えたんだから。そんなことするのツルちゃん しかいないでしょうが!」
「グ、グエ!!く、くるしい」
「さあ、正直に白状しなさい!」
「あっ、ノリちゃん。うしろうしろ」
「ごまかしてもだめよ。さあ、言いなさい」
 紀子の肩を誰かがうしろからポンとたたいた。
「なによ!邪魔しないで!」
 ふりむくとそこに所長の中島のぼるがたっていた。

「おはよう」
「おはようございます。所長」
 やっと襟首が自由になった鶴田がのどをさすりながら 作り笑顔であいさつ する。
「二人とも朝から元気だねえ」
 中島は右手の人差し指であごをポリポリかいた。
「お、おはようございます」
 紀子は小さな声でこたえた。
「ちょうどよかった。赤山くん。君に頼みたいことがあるんだ」
「え?な、なんですか」
 彼女は中嶋の顔を見た。
「実は上杉純一くんが駅の階段から落ちてケガをしたらしいんだ」
「えっ!」

 思いもよらぬ中島の言葉に、紀子の心臓は止まりそうになった。
「いつ?いつですか?まさか土曜日?」
「いや、日曜日。昨日の夜の8時ごろらしい」
 彼女はちょっとホッとした。
「で、ケガはどんな具合なんですか?入院してるんですか?」
「詳しいことはわからないんだ。でも入院はしてないようだ。落ちた後、友達 に支えられてなんとか歩いて帰ったそうだから。 居合わせた駅員さんが心配して訓練所に連絡してくれたんだ。 盲導犬といっしょだったから、たぶんここの 卒業生だろうって」
 中島はポケットからタバコをとりだすと口にくわえた。
「悪いんだけど、君。ようすを見に行ってきてくれないか」
「え?」
「レッキーはたしか君の担当だっただろ」
「は、はい。わかりました」
 紀子はうつむいて小声でこたえた。
 気がつくと鶴田の姿はどこかへ消えていた。

午前中に雑用をすませ、軽い朝食をとると、赤山紀子は上杉純一のアパート に向かった。住所は訓練所に登録されている。
 彼女の心は重かった。
 メールのこと。レッキーの失錯?のこと。
 一時間ほどで、迷うこともなくそのアパートについた。
 三階建てのまだ新しそうなアパートだった。純一の部屋は二階の一番奥だった。
彼女は重い足どりで階段をのぼった。
 ドアの前で大きく深呼吸してからチャイムをおす。
「はい、どなたですか」
 純一の声がかえってきた。
「訓練士の赤山です」
 緊張した声で彼女はこたえた。
「ああ、赤山さん。来てくれたんですか。どうぞどうぞ、カギあいてますから」
 うれしそうな純一の声。
「お邪魔します」
 こわごわとドアをあける。

 すぐに純一の姿がみえた。
 6畳のフローリングに置かれた簡易な応接セットのソファーに彼はすわっていた。
右足には包帯がまかれている。
 どこからかレッキーがシッポをふりまわしながらとんできた。
「こらレッキー!あんたしくじったわね!」
 紀子の険しい顔に、レッキーのシッポがさがる。
「レッキーのせいじゃないんですよ。ぼくが酔っ払って足を踏み外しちゃったんです。 ケガもちょっとした捻挫なんですよ。それより、どうぞ。おあがりください」
 純一が頭をかきながら紀子を誘いいれる。
「そうなの?ほんとにケガ、たいしたことないの?」
「ほんとです。ぜんぜんだいじょうぶ。それよりどうぞ、どうぞ」
 純一に再びうながされ、紀子は「それじゃ」と言いながら靴をぬいだ。
 気がつくと小さな女物の靴がそこにあった。

「メール届いてました?」
 純一が明るく聞いた。
「あ、ええ。届いてたわよ」
 紀子はドギマギしながら答える。
「まあ、ジュンちゃんったら、その人にもメール出したの?」
 台所らしい部屋から小柄な女の子が顔を出した。
「あら、お友達が来てたの」
 紀子はしげしげと彼女を見た。か細くて小柄で、いかにも「かわいい」女の 子だった。年は20くらいだろうか。
「田村美奈子って言います。はじめまして」
 美奈子はペコリと頭をさげる。そのしぐさがまたかわいい。
「赤山です。盲導犬訓練士の赤山紀子です」
 紀子もかわいぶってペコリと頭をさげてみたが美奈子ほどはかわいくできなか った。
「あなたが赤山さんですか。いつもジュンちゃんが話してるんですよ。訓練所に はすっごい美人の訓練士さんがいるんだって」
「よけいなこと言ってないで、コーヒーでも入れてこいよ」
 純一が不機嫌そうに言う。
「はーい。赤山さん、どうぞここにすわってください」
 美奈子は純一の前のソファーを指さすと、台所に消えた。

「大学の後輩?」  すすめられた場所に腰をおろしながら紀子は純一に尋ねた。
「ええ、まあ」
 純一はあいまいにこたえる。
「わたしたち同棲してるんです。もう3年になるかなあ。ね、ジュンちゃん」
 美奈子が顔だけのぞかせて、明るくこたえる。
「へえ、そうなんだ」
 紀子は動揺をおさえながら、感心したような言いかたをした。
「ええ、まあ。そんなとこです」
 純一は頭をポリポリかきむしる。
「ジュンちゃんったらメールができるようになったのがうれしくて、いろんな人 にメールだしまくったんですよ。赤山さんとこにはどんなメールいったんですか?」
 トレイにコーヒーカップを三つのせてもどってきた美奈子は、それをテーブル の上におくと、チョコンと純一の横にすわった。そしてニコニコしながら紀子を みた。
「ええ、まあ。ちょっとしたあいさつね」
 紀子は顔をゆがませながら答えた。
「とにかくちゃんと届いててよかった。返信がないもんだから、しくじったの かなって心配してたんです。ハハハ」
 純一は悪びれた様子もなく、楽しそうに笑った。そして美奈子のほうに体を むけると
「美奈子。この赤山さんは厳しいんで有名なんだぞ」
と訓練所でのエピソードを話しはじめた。
 紀子は目の前でベッタリと体を寄せ合って笑いあう二人をただボヤッと見ていた。
 トコトコとレッキーがやってきて、紀子の顔をペロリとなめた。
 いつしか二人の笑い声にまじって沢田達也の高笑いが、紀子の耳には聞こえて くるのだった。

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◆第二話 闇にとけて◆

「こんにちは、前田さん。アイフレンズの赤山です。いらっしゃいますか」
 ドアホンに顔を近づけ赤山紀子は元気に声をかけた。
 しばらく応答はなかった。留守かなと帰ろうとした時、前田俊之のちょっとく ぐもった声がドアホンからもどってきた。
「はい、どなたですか?」
「赤山です。アイフレンズの」
「ああ、赤山さん」
「突然すいません。近くまで来たもんで。シンシアのようすが見たくなっちゃっ て」
「ちょっとまってください。すぐカギあけますから」
 しばらくするとドアが開き、俊之が顔を出した。大きなマスクをしている。
「あら、前田さん。かぜでもひいたんですか?」
「ええ、まあ。さ、どうぞお入りください」
 俊之はくぐもった声でこたえた。その後ろから茶色のラブラドール犬がシッポ をふりまわして自分の存在をアピールする。
「よ、シンシア。元気してた?」
 紀子はシンシアの頭をちょんとつつくと玄関に入った。
 そこは治療室になっていた。

「へえ、りっぱにやってるんだ。すごいな」
「中古の家を改装したんです。さ、どうぞ。奥に和室がありますから、そこへ」
 俊之が先にたってあるきだした。紀子があとに続く。そのあとをシンシアが うれしそうにシッポをふりながらついてくる。
 6畳の和室には小さな座卓が置いてあった。
 座布団をすすめられ紀子はひざを折った。
「コーヒーでも入れてきます」
「あ、いいですいいです。おかまいなく。ちょっと寄ってみただけですから」
「ははは、一人暮らしだから大した おかまいもできませんよ。コーヒーくらい 飲んでってください」
 俊之が立ち上がるとシンシアが足もとにからみついた。
「シンシア!ツー ザ ベッド!」
 俊之の命令にシンシアはシブシブあるきだし、部屋のすみにしいてある毛布の 上に丸くなった。
「すぐ入れてきます。インスタントですけど」
 俊之は慣れた足どりで台所に消えた。

 前田俊之、31歳、先天性の全盲、独身。
 盲学校を卒業して病院の理学療法科に勤務していたが一年前に治療院を開業し た。盲導犬シンシアとの生活は4年目になる。
 紀子が部屋のようすをキョロキョロ見回していると、俊之がコーヒーカップ を二つ持って戻ってきた。
「すいません。いただきます」
 紀子は姿勢を正してすわり直した。
「シンシア、最近どうですか?」
「しっかり仕事してくれてますよ。いまはここで仕事してるから通勤の必要はな いんだけど。スーパーへ買い物に行ったりとか」
「そうですか。お仕事のほうは?」
「ぼくの仕事ですか?ははは、さっぱりです。まあ、なんとか食べられる程度か な」
「そうですか」
 紀子は俊之のマスクをジロジロと見ながら、思い切って聞いた。

「前田さん、ケンカなさったんですか?誰かと」
「えっ?」
「だって左眼のふちが黒くなってますもん。誰かに殴られたんでしょ」
「はは、やっぱりバレましたか」
 俊之は照れくさそうにマスクをはずした。右の唇がはれていた。
「じつは後輩に殴られちゃって」
「まあ!」
「はは、ぼくが悪かったんです」
 俊之は右手で頭をかいた。
「それにしたって」
 紀子は左手で前髪をかきあげた。
「じつはちょっとドジやっちゃって。いま落ち込んでるんです」
「なにがあったんですか?」
 紀子はグイと体をのりだした。
「そうだなあ。赤山さんに聞いてもらおうかなあ」
「どうぞどうぞ。わたし口が堅いんで有名なんですよ。なんでも話してみてく ださい。きっと少しは楽になりますよ」
 紀子はもう一度、今度は右手で前髪をなぜわけた。
 俊之はしばらく考えあぐねていたが、姿勢を正しなおすと、うつむきかげんに 話しはじめた。



 三日前の夜のことだった。
 前田俊之と西野亮(さとる)は小さな居酒屋で飲んでいた。
 サトルは21歳。盲学校理療専攻科の3年生。俊之とは10歳の年齢差があったが、 彼を先輩と慕いよく遊びにきていた。
 久しぶりに飲んだので二人は大いに盛り上がった。
「ぼくも盲導犬ほしくなっちゃったなあ」
 俊之の足もとで丸くなっているシンシアを見ながらサトルが言った。
「サトルはけっこう見えてるんだろ」
「0,04くらいかな。でも、いつまでもつか」
「見えなくなったらまた相談しろ。けど訓練は厳しいぞお。めっぽうきつい訓 練士がいるんだ」
 俊之がビールをすすめながらおどかす。
「前に聞きましたよ。でも、その人スッゴイ美人なんでしょ」
「らしい。でも胸は小さい」
「え?先輩さわったんですか?」
「バカ。聞いたんだよ。鶴田さんって訓練士から」
「今度あわせてくださいよ。ぼくが確かめますから。すいません。ビールもう 一本!」
 7本目のビールがとどくと、サトルがきりだした。

「ところで先輩。この前学校に宮崎さんきてましたよ」
「宮崎って、宮崎聡子か?」
「ええ」
「ふうん、なにしに?」
 俊之はさも興味なさそうにさりげなく聞いた。
「山本先生に会いにきたみたいです」
「山本か。あいつ教頭になってるらしいな」
「宮崎さん、山本先生の紹介で見合いしたらしいんです。知ってました?先輩?」
「ああ、うわさはな」
 俊之はビールをグイと飲みほした。
「どう思います?」
 サトルはビールをつぎながら俊之の顔をさぐった。
「どうって?」
「宮崎さんの結婚」
「結婚するのか」
「よくわかりませんけど、山本先生、熱心にすすめてるみたいですよ」
「聡子ちゃんがいいなら、それもいいんじゃないの?」
「ホントにいいんですか先輩」
 サトルもコップのビールをあけると自分でつぎたした。
「だって先輩と宮崎さん、つきあってたんでしょ」
 俊之はコップにちょっと口をつけると苦い顔をした。
「昔の話さ。学生ん時。卒業してからもちょっと続いたけど。最近はほと んど会ってないよ」
「そうか。僕は先輩と宮崎さん、お似合いだと思ってたんですけどね」  サトルは残念そうにいう。

「宮崎さんの見合いの相手、50のオッサンらしいですよ」
「48だよ。10人くらい使ってマッサージ治療院を経営してる」
「あれ?先輩くわしいですね」
「うわさだよ。うわさで聞いたの」
 俊之はカラになったコップをつきだしながら言った。
「あっ、すいません。それにしても、どう考えても似合わないですよ。そんなオ ッサン」
 サトルはあわててビールをつぎながら、くやしそうにいった。
「いい人らしいぞ。障がい者の問題にもいろいろかかわってるらしい。本人はけっ こう見えてるみたいだし」
「だって聡子さんって、本が好きで、センスよくて。なにもそんな年寄りのとこ ろにいかなくったって。僕は先輩が一番いいと思うんだけどなあ」
「結婚ってそんなカード合わせみたいにはいかないよ。現実なんだから。学生の 時の付き合いとは違うよ」
 俊之は一気にビールを空けた。頭の中が熱くなるのを感じた。
「わかってます。わかってるつもりです。だから言うんです。このままじゃ聡子 さんがかわいそうな気がして。だって、まわりに説得されて結婚しちゃうみたい で」
「彼女がそう言ったのか?」
「いいえ。僕はそんなに親しくはないです。何度かあって話しただけですから。 ただ、そんな気がするんです」
「おまえなんかになにがわかる!」
 俊之は思わず大きな声でどなってしまった。
 サトルは口を結んで黙り込んだ。
 しばらく沈黙がつづいた。
「よし!行こう!」
 突然俊之が立ち上がった。
「え?どこへ?」
 サトルは驚いて俊之を見上げた。
「宮崎聡子のとこだよ」
「で、でも、もう9時過ぎてますよ」
「ちょっと話するだけだ」
「ぼく、宮崎さんの住んでるとこなんて知りませんよ」
「ここからならなんとか歩いていける距離だ。さあ、いくぞ」
 俊之はフラフラとよろめきながらも、右手でともづなをひいた。
 シンシハはバネ仕掛けのようにパッと立ち上がった。
「シンシア!ツー ザ ドア!」

 ポカンとすわったままのサトルをよそに、俊之はユラユラと歩きはじめた。
 前田俊之と西野サトルはユラユラと夜の町を歩きつづけた。二人とも相当 に酔いがまわっていたが、以外に早足でドンドン歩いた。もちろんシンシアも一緒 だった。シンシアは心配そうに俊之の顔をチラチラと見ながらも「ライト」 「レフト」の命令に従い二人を先導した。
 俊之が宮崎聡子のアパートを訪ねたのはもう何年も前のことだった。しかし、 地図はしっかりと頭の中に刻まれていた。サトルにまわりのようすを説明させ ながら、何かにせかされるように大胆に足を進めた。
 途中、通り合わせた人に二度ほど道を確かめたが、40分ほどで目的のアパ ートにたどりついた。
 大通りをずいぶん入ったさみしい場所にそのアパートはあった。相当に古い 二階建てのアパート。
 聡子が勤めている病院が寮がわりに使っているので、住んでいるのはほとんど が病院関係者だった。聡子はその一室に同僚の女性と二人で住んでいた。
「先輩、やっぱりやめましょうよ。もう遅いですし」
 二階へあがる階段を前に、サトルは俊之の腕をひっぱった。
「5分で済む。ここまで来て今さら帰れるか」
 俊之はサトルの手をふりはらい、シンシアに命じてドンドンと階段を昇って いく。
「しょうがないなあ。先輩出来上がっちゃってるなあ」
 サトルは苦い顔をしながら重い足どりで俊之の跡に続いた。

 出かけているのか、寝てしまったのか、それとも空き部屋なのか、どの部屋か らも明かりはもれていなかった。
「よし!ここだここだ!おーい聡子いるかー」
 一番奥のドアの前につくと、俊之はいきなりドンドンと叩きだした。
「先輩!やめてください!ここも電気ついてませんよ。留守みたいですよ。帰りましょうよ!」
 サトルがあわててとめたが、俊之はまったく耳にはいらないようにドアノブを ガチャガチャまわした。
「おーい聡子。前田だ!前田!あれ?カギ、あいてるぞ」
 ドアはいとも簡単に開いた。
「まったく無用心なやつだな。へんな奴がきたらどうするんだ。おい、サトル、 入れ入れ!」
 俊之はシンシアと一緒にさっさと部屋の中へはいっていく。
「先輩、ダメですよ!留守なんだから」
「留守なら留守で、中で待ってようぜ」
「そんなあ」
 サトルを無視して俊之はもう靴をぬいであがりこんだようだ。
 しかしサトルはとても入る気にはなれなかった。
「先輩!先輩!やっぱり帰りましょうよ。まずいですよ、こんなの」
 何度も声をかけたが、もう俊之の返事はかえってこなかった。すっかりすわり こんでしまったらしい。

 彼はあきらめて、とりあえずドアを閉めた。
 カギをかけずに出かけたのなら、すぐに帰ってくるだろう。近くのコンビニに でも行ってるのかもしれない。とにかく聡子さんの顔を見れば先輩も納得するだ ろう。ややこしい話にならないうちに今夜はひっぱってかえろう。先輩は相当酔ってるから。
 サトルはドアの前で聡子の帰りをまつことにした。しかし彼女はなかなか帰っ てこなかった。
 彼は手持ちぶたさになって、廊下を行ったり来たり歩いた。静かなアパー トだなと思った。イライラしながら何度も廊下を往復した。
 何十回目かで聡子の部屋の前に戻ってくると、中からかすかに話し声がもれ てくるのに気づいた。
 男と女の話声だった。それは母親が小さな子供をあやしているようにも聞こえ る。
 サトルの顔から血の気がひいた。聡子さんは中にいたんだ。
 どうしたらいいのかわからなくなった。
「先輩!先輩!帰りましょう!」
 サトルはカラカラのノドをしぼるようにとにかく声をかけてみた。
「西野くん?西野くんなの?」
 聡子の声がかえってきた。サトルは何もいえずに立っていた。

 しばらくしてドアがひらいた。パジャマの上になにかひっかけただけの姿で、 聡子が顔をこわばらせながら出てきた。
「前田くん、なんだかすごく酔ってるみたい。つれて帰ってやって」
 不自然に明るい声で聡子はいった。
 奥の部屋から俊之がフラフラと歩いてくる。ズボンのベルトを締め直しな がら。
 サトルの顔はカーッと熱くなった。なにがなんだかもうわからない。
「すいません。すいません。さあ、先輩帰りましょう!」
 俊之の腕を乱暴につかむと部屋から引っ張り出した。
「すいません。すいません。すいません」
 聡子に何度も頭をさげると、サトルは俊之を引きずるようにしてその場を離 れた。まるで逃げるように。二人のあとをともづなをズルズル引きずりながらシ ンシアが追いかけた。

 サトルは怒りに全身を震わせながら早足で歩いた。なにが起こったのかさ っぱり整理がつかなかったが、とにかく無性に腹が立った。
 やっと100メートルほどアパートから離れた時、我慢できなくなったサトルは 足を止めると俊之につかみかかった。
「なんなんだよこりゃ!」
 俊之は何も答えなかった。
「なんとか言えよ!こういうのがあんたのやり方かよ」
 サトルは思わず右のこぶしをかためた。
「殴れ」
 俊之がポツリといった。
 サトルは俊之の顔にらみつけたまま、じっと動かなかった。
「殴れ!」
 もう一度俊之は言った。
「チクショウ!」
 サトルは大声で叫ぶと俊之の顔を力一杯、殴りつけた。
 俊之はグラッとよろめいたが必死に踏みとどまった。
「もっと殴れ!」
「チクショウ!チクショウ!おまえなんか最低だ!」
 サトルは唸るような声をあげながら何度も何度も殴った。彼の声はもう涙 声だった。

「うるさいわね、酔っ払い!警察よぶわよ!」
 どこの家からか、甲高い中年女性の怒鳴り声が聞こえた。
 サトルはハアハアと荒い息を吐きながらブルブル全身を震わせながら俊之 をにらみつけた。
 そしてサッと背を向けると、真っ暗な夜の町に駆け去っていった。  俊之は歯をくいしばって立っていたが、 やがて全身の力が抜けるように、ヘ タヘタとその場にすわりこんでしまった。
 それまでどこにいたのか、シンシアがともづなを引きずりながら俊之のそばに やってきた。手をのばして頭をなぜると、シンシアは震えていた。
「ごめんな。ごめんな。ごめんな」
 俊之は大声で叫びたい衝動にかられた。歯をくいしばった。口の中に鉄臭い 味がひろがる。シンシアを力いっぱい抱きしめた。
 深い深い闇の中で、俊之とシンシアはそのままずっと動かずに、やがてひっそ りと沈んでいった。



「ねえ、どう思う?」
 テーブルに両手で頬杖をついたまま赤山紀子は目の前の沢田達也を見なが ら尋ねた。
 達也は大盛りのラーメンのどんぶりに顔を突っ込むようにして食べていたが、 紀子の声にめんどくさそうに顔をあげた。
「どう思うって?」
「ちゃんと話聞いてた?」
「聞いてた聞いてた」
 紀子の厳しい視線に達也は姿勢を正した。
「それで、けっきょくその前田ってヤツ、やっちゃったのか?」
 達也の露骨な言い方に顔をしかめながら紀子が答える。
「それが、お酒飲み過ぎちゃっててぜんぜんダメだったみたいなの」
「なんじゃそりゃ。だらしねえヤツだなあ」
 達也はさもあきれたという顔をして見せた。
「ん?ちょっと待てよ。そんなことまでその前田って男、ペラペラしゃべったわ け?それとも」
 達也が紀子の顔をのぞきこむように見る。紀子はしばらく黙っていたが、開き直った ように答えた。
「わたしがしつこく聞き出したのよ。だって大事なポイントだもん」
「いい根性してるよ、紀子は。ふつう聞けないよ、そこまで突っ込んで」  達也が妙に感心する。

「そんなことより、どう思う?前田さん、すごく悩んでるの?」
「いいんじゃないの。よく似た話、ちょいちょい聞くよ。酔っ払って女の部屋に 忍び込んだなんてのは。女が訴えないんなら、たいして気にすることないんじ ゃないの」
「まじめに考えてよ!」
「あら?まじめに答えたつもりなんだけど。 それより紀子、こんな話オレなんかに漏らしていいのか」
「いいのよ。達也は「部外者」なんだから」
「部外者で悪かったな。とにかくオレはそんなに深刻に考えることないって言い たいの」
 達也はムッとして、もう一度ラーメンを食べ始めた。
「そうはいかないのよ。目の悪い人って気まじめな人が多いの。とくに男と女の 問題となると。ウブというか、免疫がないというか」
「それって偏見じゃないの?」
 達也は口をモゴモゴさせながら反論する。
「専門家としての率直な意見よ」
「おや?紀子ちゃんは犬の専門家だと思ってた」
「茶化さないでよ。とにかく前田さん、すごく落ち込んでるのよ。聡子さんや サトルって子を取り返しがつかないほど傷つけちゃったんじゃないかって。 とくに聡子さんのこと。前 田さん、彼女のこと、いまでも好きなのね。ねえ?達也はどう思う?」

「なにが?」  達也は食べ終わったどんぶりをテーブルにドンと置いた。
「わたしのカンだと聡子さんも前田さんのことまだ思ってるはずなのよ」
「だったら結婚すりゃいいじゃないか。すいませーん。ビールください。それと、 ギョーザ二人前!」
「こんな深刻な話ききながら、よく食べられるわね」
 紀子はコップの水をあきれながら飲んだ。彼女はなにも注文していなかった。
「だから、そんな深刻な話じゃないって。二人が好き同士ならもっと話は簡単 だ。結婚しちゃえば めでたしめでたしだろ」
「世の中の人がみんな達也みたいに単純だったら、きっと自殺者なんてゼロね」
 紀子は大きなため息をついてみせた。
「なんだよ。目の見えない人同士の結婚だってあるんだろ」
 達也は不服そうに口をとがらせる。
「そりゃ、いるわよ。わたしだって何組かのご夫婦知ってるわよ。 でもその人たちだって結婚決める時にはずいぶん悩んだと思うの。 前田さん、いま自信ないのよ。仕事も順調とは言えないみたいだし。 それに彼女のほうもいろいろ事情もあるだろうし。 好きだから、はい結婚ってわけにわいかないでしょ」
「結婚で悩むのはなにも目の悪い人だけじゃないさ。
あなたはどうなの?赤山紀子さん。あなた、その聡子って人と同じくらいのお年 でしょうに」
 達也は届いたビールをコップにつぎながら、ちょっと上目づかいに紀子を見 た。
「わたし?結婚?冗談。 わたしは今のとこ仕事で精一杯。それに赤山紀子さんはまだ「20代」で すから」
 紀子は右手でハエをはらうようにしながら答える。
「そう言うと思ったよ。 ま、とにかくその二人、十分過ぎるほどの大人なんだから、オレたちが口を挟む ことじゃないと思うよ」
 達也はビールをグイと飲んだ。
「わたし、聡子って人に会ってみようかな」
 紀子の言葉に達也は飲みかけたビールをプッとはきだした。



「こんばんは。宮崎聡子さん?ですよね」
 白杖をあやつりながらゆっくりと歩いてくる女性にかけよると、赤山紀子は息を はずませながら声をかけた。
「赤山さん?赤山紀子さん?」
「はい、赤山です。すいません。突然呼び出したりして。驚いたでしょう」
「いいえ、今夜はとくに予定もなかったので。でも少し驚いちゃったかな」
 聡子は人なつっこい笑顔でこたえた。フワッとしたセミロングの髪が印象的 な女性だった。顔だちも上品で、明るい色の口紅がよく似合った。だがその両目 は静かにとじられていた。
 近くの喫茶店に入ると紀子はコーヒーを、聡子はアイスティーを注文した。
 あらためて挨拶しあった後、紀子は言葉を選びながら、前田が先日の醜 態を悔い悩んでいること、謝りの電話を入れたくてもその勇気さえ出せない こと、紀子に告白したあとそのことを悔いよけい落ち込んでしまったことなどを 熱心に話した。
 黙って聞いていた聡子がクスクス笑い出したので紀子は驚いた。

「ごめんなさい。 前田くん、まじめだから、ほんとにしおれちゃってるんだろうなって思ったらな んだかおかしくなっちゃって」
 聡子は咳払いをして笑い飛ばすと話し始めた。
「あの日、わたし気分が悪くて早くから寝ちゃったんです。その間に同じ部屋 の子、遊びに出ちゃったみたい。カギもかけずに。
だから前田君が入ってきたの、わたしぜんぜん気がつかなくって。人の気配 で目をさました時は死ぬほどビックリしちゃった。
でも、すぐ前田君だってわかりました。だって彼ったら、枕もとに正座して 「聡子ちゃん、聡子ちゃん」って小声でつぶやき続けてたんですよ。まるで お経みたいに」
 聡子はまたクスッとわらった。そしてアイスティーを一口飲んだ。
「前田君の言うとおり、わたしたちホントになんにもなかったんですよ。だっ て彼、すごく酔ってて。ただ、一緒のお布団に入ってお話しただけ・・・ あら、わたしったら」
 聡子は自分の言葉に顔を赤くした。紀子も思わずクスッと笑ってしまった。
「わたし、高校二年の時まで少し見えてたんです。でも網膜剥離おこしちゃ って。すごくショックだったな、やっぱり。
そのときうちのお父さん、初めてわたしの前で声出して泣いたんですよ。わた しが「もう死にたい」って言ったから」
 聡子は苦笑した。ストローでグラスの中の氷をカラカラとならした。
「前田君、わたしのこと、一生懸命励ましてくれたんです。病院にも来てく れたし。家にも。
学校へ行けるようになると、毎日わたしの教室にやってきて、一生懸命笑わせ ようとして。やさしい人なんです、彼」

 紀子はコーヒーカップを持ちながら大きくうなずいた。そして少し迷ったが 口を開いた。
「好きなんですね、今でも。前田さんのこと」
 聡子はちょっと首をかしげて考えたが、やがてまっすぐ紀子に顔をむけるとキ ッパリと言った。
「わたし、結婚するんです」
 紀子は一瞬息をのんだ。
「決めたんですか。お見合い」
「まだ返事はしてないんです。
でも、竹下さん。あ、わたしの見合いの相手です。わたしのことすごく気に入って くれたらしくて。
両親もすごく喜んで。しっかりしたいい人だって。
山本先生も、あの人ならまちがいないって。 だからわたし」
 聡子はもう一度氷をカラカラならした。
「そうですか」
 紀子は小さくこたえた。
「わたし、もうすぐ30なんですよ」
 聡子は残りのアイスティーを一気に飲みほした。
「彼に伝えてください。わたし、ぜんぜん大丈夫だからって」
 彼女は顔をあげ、明るく言った。
「わかりました」
 紀子は短く答えると、コーヒーを飲みほした。
「わたしも盲導犬もらおうかな」
 突然の聡子の言葉に紀子はおどろいて彼女の顔を凝視した。
「だって、盲導犬と一緒なら、胸をはってグングン歩けそうだもの」
 聡子は笑ってみせた。とても魅力的な笑顔だった。
「わかりました。聡子さんにピッタリのワンちゃんを用意しておきますから。で も、わたしの指導、厳しいですよ」
「その時は、どうぞお手柔らかに」
 二人は声を出して笑った。
 笑いすぎて紀子の目には涙がにじんだ。



 次の日から紀子は多忙を極めることとなった。いつもの日常業務に加え、 5つのイベントの企画運営にかかわらなければならなかった。調子よく受けてしま ったことを彼女はすっかり忘れていた。沢田達也に会う時間さえ取れないほど 忙しい毎日が続いた。
 聡子と会ったことを彼女は結局前田俊之に話すことができなかった。二人のこ とは気にかかったが、忙しさに飲み込まれてしまうほどキリキリ舞いの毎日 だった。
 あっという間に一ヶ月が過ぎ去っていた。
 その日、紀子は部屋に入ると、たまったメールを整理しようとパソコンのス イッチを入れた。
 コーヒーを飲みながらマウスを操作する紀子の目に前田俊之からのメールが 飛び込んできた。
 件名は「ご報告」となっていた。

「赤山さん、こんばんは。
あなたに言われたとおり、勇気をふりしぼって彼女に電話しました。
そして謝りました。
話しているうちに、一度会おうということになって。
ぼくたちは久しぶりにちゃんと会って、いろんなこと話しました。
そして僕たちは結婚することになりました。
今日のことです。
とりあえずご報告します。
ありがとうございました」


 紀子はコーヒーカップ置くと、返信の画面を開いた。
 キーボードに乗せた右手の人差し指が少し震えているのに気がつくと、彼女 はひとり、テレ笑いをしてしまうのだった。

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◆第三話 真夜中の死闘◆

「わあ!すごい!すごいごちそう!おいしそう!」
 テーブルの上に並べられた料理を見て、赤山紀子は思わず手をたたいて喜びの声をあげた。
 特大のポークチャップは、まだジュウジュウと音をたてている。コーンスープにフライドポテト、冷たく冷やした色鮮やかな野菜サラダ。
「大したものないんですけど、どうぞ食べてってください」
 北山早苗はフライパンを洗いながら、恥ずかしそうに答える。
「わたしのためにわざわざ用意してくれたんじゃないですか?」
 いすに腰をおろしながら紀子は申し訳なさそうに早苗を見た。
「そんなことないんですよ。お肉はいただきものだし。遠慮なくどうぞ」
 早苗はタオルで手を拭きながら、振り向いて笑った。
「ねえママ もう食べていい?」
 5才になったばかりの一人娘の美穂が、待ち切れない様子でナイフとフォークをカチャカチャ鳴らす。
「ノー!お行儀悪いわよ 美穂!」
 早苗は反射的に娘を叱った。
「ワハハ、美穂にノーはないだろ、早苗」
 夫の北山健二がワインのビンを抱えて、笑いながらキッチンに入ってきた。
「あら?わたし、そんなこと言った?」
 早苗は右手を口にあてて、しまったという顔をする。
「言った言った。なあ美穂」
「うん、よく言われるよ」
 美穂の言葉に紀子は声を殺して笑った。

「赤山さん、今日は電車なんでしょ?どうです、一杯」
 健二は椅子に座ると慣れた手つきでワインを開けると紀子に勧めた。
「わあ、ワインですか。どうしようかなあ。弱いなあ。じゃ、一杯だけいただきます」
 紀子は目の前に置かれたワイングラスを取ると、健二の差し出したビンの口に合わせた。
「さあ、食べよう食べよう。いただきます」
「いただきます」
「わあい、お肉だお肉だ。久しぶり」
「コラ 美穂」
 賑やかな夕食が始まった。
「ところで、どうです。ポエのほうは?」
 健二がワインを飲みながら紀子にたずねる。
「ポエ?ああ、ポエムのことですか」
 紀子は大きな肉をナイフで切りながら笑った。
「ハハ、そうです。ポエムってどうも言いにくくて。で、どうなんです?拾い食い、直りますか?」
「大丈夫ですよ。きょう二時間、バッチリしごいときましたから。きっともうしないと思います」
「そうですか。ウンチにドングリが入ってたんで、わたしもうビックリしちゃって。あら、ごめんなさい。お食事中に」
 早苗はあわてて口を押さえる。
「でも、前のフラッグの時はこんなことなかったんですよ。わたしショックで。やっぱりポエムってオーストラリアの人に育てられたからなのかしら」
 早苗は心配そうな顔をして紀子に尋ねた。
「前の犬と比べちゃダメだよ、早苗。ポエはポエなんだから。たいした問題じゃないさ。ちゃんと仕事してると思うよ、僕は」
 健二が紀子の代わりに答えた。

「それに、もしかして美穂が隠れて食べ物をやってるんじゃないか?」
「わたし そんなことしないもん!」
 健二の言葉に美穂が口をモグモグさせながら、ムキになって反論する。
「しばらく様子を見て、もしまだやるようだったらまた連絡ください。わたし、来ますから」
 紀子はクスクス笑いながら言った。
「すいません。お忙しいでしょうに」
 早苗が言う。
「いいんですよ。こんなおいしい料理いただけるのならいつでも。あ、これは冗談」
「ハハハ、こんなものでよかったらいつでもどうぞ。どうです、もう一杯」
 健二がワインのビンを紀子に向ける。
「あ、すいません。でも、まだ入ってますから。それにしても、このお肉おいしいですね。豚肉?ですよね?」
「ハハハ、わかりますか。これ、実は「イノブタ」なんですよ。けっこういけるでしょう」
 健二が愉快そうに笑う。
「イノブタ?」
「ええ。きのうぼくの実家から送ってきたんです。豚とイノシシのあいのこ」
「へえ?でもほんと、おいしいです。なんとも言えない噛み応えがあって。あっ!ご主人、つぎますつぎます」
 紀子は健二が自分でワインをつごうとしているのを見て、あわてて立ち上がった。
「あんまり飲ませちゃだめですよ。この人お酒弱いんです」
 早苗がちょっと顔をゆがめる。
「ハハハ、好きなわりには弱いんですよ 実は」

「まあまあ」
 紀子は健二の横に行くと空のグラスにワインをそそいだ。
「ところで旦那さんは盲導犬、どうなんですか?」
「僕ですか?僕はやっぱり杖一本のほうが身軽でいいかな」
 つがれたワインを口に運びながら健二が笑う。
「この人、一人でどこへでも行っちゃうんですよ。動物的カンっていうのかしら。わたしは犬がないとだめだな、やっぱり」
 早苗がつけ加える。
「へえ、すごいですね。そうそう、ポエムも実はハーフなんですよ。ラブラドールとゴールデンの」
 紀子は感心しながら健二の顔を見た。
「そうかそうか。ハーフは優秀なんだよ。イノブタもおいしいし。ポエだって。ま、まだ二ヶ月ほどなんだからあせることないさ。ポエはかわいいし。な、美穂」
「うん。わたしポエム大好き!」
 美穂が大きな声で答えた。
「いい家族。ポエムも幸せね」
 となりの居間に置かれた犬用のベッドにグッタリと寝そべっている茶色の盲導犬に、紀子はそっと声をかけた。



 それから数日後のこと。
 突然、紀子の部屋の電話が鳴った。
 彼女はふとんの中でそろそろ楽しい夢の開幕の時間を迎えようとしていたが、パッとおきあがると、首の後ろをポンポンと叩いてから急いで受話器を取った。
「すいません、こんな時間に。北山です」
「あら、北山さんのご主人」
 チラッと時計をみると、もう11時をずいぶん廻っている。
「いえ。まだ起きてましたから。なにかあったんですか?」
「すいません。実はポエが帰ってこないんです」
 健二は オドオドしたように話す。
「えっ!ポエム、脱走しちゃったんですか?」
「いや、あの。すいません。ちょっと動転してるもので。実は早苗も一緒に。どうやら家出したみたいで…」
「えー!!!?」
 紀子は自分の出した声の大きさに驚き、あわてて口を押さえた。

「いったい何があったわけ?」
 不機嫌そのものの顔でハンドルをにぎる沢田達也が不機嫌な声で聞いた。
「ごめんごめん。もう寝てた?」
 赤山紀子は助手席から達也の顔を覗き込むようにしながら聞いた。
「まあな。もうちょっとでいい夢見れそうだった」
「だって、こんな遅くに わたし一人で出かけるわけにいかないでしょ。それとも達也、わたしがどうなってもいいって言うの?」
 いつまでも達也が不機嫌そうにしているので、今度は紀子が怒り出した。
「わかった、わかった。だから一体なにがあったのかって聞いてるの。教えて、紀子ちゃん」
 達也は必死でつくり笑顔を見せる。
「だから北山さんの奥さん、家出しちゃったらしいのよ」
「なんで?この前あった時、すごく仲のいい夫婦だって話してた人たちだろ?」
「なんだかケンカしちゃったらしいのよ」
「だから、どうして」
「あっ!達也!この信号、右!」
 紀子の指示に達也はあわててハンドルを切った。

「北山さんのご主人ってマッサージのお仕事してるのよ」
「うんうん」
「今日、7時すぎに飛び込みで仕事が入ったんですって。いつもはだいたいが電話で予約らしいんだけど。ちょうど空いてたし、何度か来たことあ る人だったんで、北山さん、受けたらしいの」
「うんうん」
「いろんな世間話しているうちに、その人が言い出したらしいの。ここへくる前に、仕事でT町のほうにいたんだけど、そこで奥さんを見たって」
「ふんふん」
「北山さん、あれ?って思ったらしいの。だってその日、奥さん、盲導犬の関係の集まりでI町へ出かけたはずだったんですって」
「T町とI町じゃ、ぜんぜん方向が違うな、確かに」
「だから北山さん、うちの女房 何してましたって聞いたらしいの。そしたらその人、奥さん若い男の人と楽しそうに話しながら歩いてたって。奥 さん、美人だから気をつけたほうがいいんじゃないのって」
「余計なこと言うヤツだな」
「北山さんのご主人、気にはなったけど、それ以上はそのこと聞かなかったらしいの。その人が帰ってから、ご主人、なんだか落ち着かなくなっ て、お酒飲んだらしいの。奥さんが帰ってきた頃には もうベロベロ」
「奥さん、何時ごろ帰って来たんだ?」
「9時半過ぎだって。おい、今ごろまでどこへ行ってたんだって」
「奥さん、なんて?」
「I町のレストランで盲導犬仲間と会食だって言ったでしょって。ご主人、ウソつけってからんじゃったらしいの。初めはうるさそうに適当に聞い てた奥さん、我慢できなくなったらしくて、とうとう口ゲンカ」
「最悪って感じ」
「それで奥さん、ポエムと一緒に出ていっちゃったらしいのよ」
「あらら」
「ご主人、すぐに帰ってくると思ったらしいんだけど、一時間経っても帰ってこないし。そのうち酔いも醒めてきて」
「それでお前んとこに電話してきたわけか?」
「ずいぶん迷ったらしいんだけど、どうしていいか分からなくなって…。あっ!つぎ左!」
 達也はあきれたようにハンドルをきる。
「警察に連絡したほうが いいんじゃないの?」
「北山さんもそう言ったんだけど、すぐ行くからわたしが行くまで待っててって…」
「なんでお前が行かなきゃならないんだよ」
「だって電話がかかってきたんだもの」
 紀子は右手で前髪をかきあげた。その横顔を達也はやれやれという表情でながめた。

 北山の家に着いたのは もう午前1時前だった。
 玄関の前で健二がオロオロしながら立っていた。
「北山さん、奥さんはまだ?」
「あっ、赤山さん。ほんとにすいません。まだなんです…」
 酔いはすっかり醒めているらしい。
「美穂ちゃんは?」
「9時過ぎから二階で寝てます」
「そうですか。とにかく探してみます。きっと迷子になってるんだと思うんです」
「ぼくも一緒に行きます」
「北山さんは家で待っててください。探してる間に奥さん帰ってくるかもしれませんし」
「でも…」
「大丈夫です。助手をつれてきましたから」
 紀子のことばに達也は一瞬ムッとしたが
「助手の沢田です」
とさわやかな声で健二にあいさつした。

「さて、どうする?」
 沢田達也は赤山紀子にたずねた。
「北山さんの奥さん、きっと道に迷っちゃったんだと思うのよ。そんなに遠くまでは行ってないと思うの。とにかくそのへんを探してみましょ」
「じゃあ、歩きのほうがいいな。このへん狭い道も多そうだから」
「二手にわかれる?」
「だめだ。この時間だし、へんなのがウロウロしてるかもしれない。ところでその奥さん美人なのか?」
「なかなかだと思う。スタイルもいいし」
「そうか。とにかく急いで見つけなきゃ」
 二人は顔をこわばらせながら走り出した。
「北山さーん」
 周りはいわゆる住宅街である。ほとんどの家の明かりは消えていた。
「北山さーん、いませんか」
 二人は周りを気にしながら、ギリギリと思う大声で呼びながら早足で歩いた。
「ポエム、どこなのー!」
「おい、犬の名前呼んでいいのか。たしかダメだっていってたぞ、テレビで…」
「こんな時はいいのよ!」
 紀子はイライラして達也の顔をにらみつけた。
 しばらくそのあたりをグルグル探しまわったが、早苗の姿はどこにもなかった。
それどころかネコ一匹歩いていない。
「いないわねえ」
 紀子はため息をついて立ち止まった。
「おい紀子。ここから駅まで遠いのか?」
「え?」
「北山さん、今日会ったって言う盲導犬の仲間の所へ行ってないかな?」
「あ、そうか。駅ならここから10分くらい。ホローアップで何度か一緒に歩いたから知ってる」
「よし、行ってみよう」

 二人は駅に向かって走り出した。
 時間の遅いせいなのか、駅の周辺の店もほとんど閉まっていた。
 最終の電車はとっくに終わったらしく、駅は薄暗く静かだった。駅員の姿を見つけると二人は息を切らせて走り寄った。
「すいません。盲導犬連れた女性見ませんでしたか?」
「ああ、北山さんの奥さんね。見たよ」
 あっさりと答える駅員に二人の顔がほころんだ。
「いつです?いつ見ました?」
「9時過ぎだったかな。どこかへ出かけてたみたいで」
 二人の顔は失望にゆがむ。
「そのあとは?10時すぎくらいに」
 紀子は駅員に掴みかかる勢いで聞いた。
「み、見てないよ。あの奥さん、そんな遅い時間に利用することないもの。犬連れてるから見逃すこともないし」
「そうですか、どうも」
 紀子と達也は肩をおとして駅を出た。

「どうする?」
 紀子が沢田をすがるようにみる。
「何軒か店が開いてただろ。とにかくそこで聞いてみよう。だめでもともと」
 達也が先に立って歩き出した。
 まずはスナック。ドアをあけると客は一人もいなかった。
「いらっしゃい」
 中年の女性が愛想よく顔を出す。
「あの、すいません。盲導犬連れた女の人、来ませんでした?」
「なんだ、客じゃないの」
 ママは露骨にいやな顔をしたがポンと手をたたくと
「盲導犬を連れたって、北山さんとこの奥さんのこと?旦那さんなら時々来るけど、奥さんは来たことないわよ。もちろんうちは盲導犬オッケーだ けどさ」
「あ、ありがとうございました」
 二人はドアを閉め、また走り出した。
 何軒かの店を覗いてまわったが、早苗はどこにもいなかった。
「だめね、やっぱり」
 紀子はため息をついた。
「それにしても北川さんて有名なんだな。どの店でも知ってたもんな」
「盲導犬は まだ少ないから目立つのよ」
 紀子は疲れた顔でバッグから携帯電話を取り出した。
「もしもし、赤川です。奥さんからなにか連絡ありましたか?」
「いえ、まだなにも」
 健二の沈んだ声が返ってきた。
「やっぱり警察に連絡したほうがいいですかね?」
 紀子は腕時計を見た。もうすぐ2時になる。彼女は迷ったが
「もう少し探してみます。また連絡しますからそれまでは」
「わかりました」
 電話をきると、また二人は走り始めた。



 10分ほど走りまわっただろうか。いくつめかの曲がり角をを曲がったとき、紀子が叫んだ。
「あっ!見て!あそこ!」
 10メートルほど離れた道路わきに、犬を連れた女性の姿が見えた。
 頼りない街頭の下に浮かび上がった姿は、まぎれもなく北山早苗だった。  しかし彼女は一人ではなかった。彼女を取り巻くように5つの影が立っていたのだ。
目をこらして見るとそれは5人の男だった。そしてその頭は5人が5人とも違う色をしていた。
「!!!!!」
 達也が言葉にならない雄叫びをあげて全速力で走った。
「ウオオオー!」
 大声で叫びながら沢田達也は北山早苗の目の前に立っていた金髪男に体当たりした。
 不意を喰らった男は、2メートル吹っ飛んだ。
「な、なんだてめえ、いきなりなにしやがる!」
 緑頭の男が血相を変えて身構える。
「うるせえ、このクズ野郎!」
 達也はすばやく体制を立て直すと緑頭の胸倉をつかんだ。
 突然なにが起こったのか理解できない早苗は「キャー!キャー!」と悲鳴をあげる。
その彼女の腕を、達也の後を追いかけてきた紀子が引っ張る。

「北山さん、逃げるのよ!早く!」
「あっ!赤山さん?どうしてここに?」
「そんなことよりさあ!ポエムもグズグズするな!」
 紀子は力まかせに早苗の腕をひっぱり、急いでその場を避難する。ポエムがオロオロとついてくる。
 達也が紀子たちに気をとられた瞬間、緑頭の右パンチが彼の顎をとらえた。
達也は「ウッ!」とうめき、三歩後退した。
「ふざけんな!」
 緑頭がかさにかかって左のこぶしを振るう。
 達也はそれを右手で受け止めると。素早く体を回転させた。見事な体落としが決まった。
 一方、紀子と早苗はその間に足をもつれさせるようにしながらも、男たちから離れた。
「大丈夫、もう大丈夫よ!北山さん!達也ってすごく強いの。柔道三段、空手は一級」
 紀子は息を切らせながら早苗の肩をだいた。早苗はきょとんとした顔をする。
 達也のことが気になって、紀子は後ろを振り返った。
 達也は黄色と青の頭をした男二人にはさまれていた。

「この野郎!」
 黄色がいきなり襲いかかった。達也は素早く右の足払いを放った。
「ウアッ!」
 黄色はもんどりうって倒れた。
「くそ!」
 青が身構えた。金髪も立ち上がり達也の背後にまわった。
「やめとけ」
 すこし離れて立っていた赤い頭の男が仲間に声をかけた。このチームのリーダーらしい。
「そいつ、なかなか強そうだ。売られたケンカだ。オレが相手する」
 赤頭がゆっくりと達也に近づく。黄色と金髪は静かに後ろに引いた。
「柔道か。おもしれえ」
 赤頭は真っ黒のシャツをぬぎすてた。それほどの大男ではないが、鍛え込まれた筋肉美があらわになった。
「空手か。空手ならオレもできるぜ」
 達也は拳を固め、構え直した。
「シュッ」
 赤頭の口から奇妙な音が発せられると、カミソリのような右のローキックが達也の左膝を襲う。
 達也は間一髪でそれをかわした。

「こいつ強い」
 達也の額からドッと汗が流れた。派手な大技ではなく、必殺のローキックを放ってきた男に底知れぬ恐怖をおぼえた。除けられたのは単なるまぐ れに思えた。
「紀子!逃げろ!」
 達也は紀子に向かって叫んだ。今まで聞いたことのない切羽つまった声だった。
 しかし、あまりの緊張感に紀子は逆に金縛りになった。
「ほら、よそ見すんなよ」
 赤頭がニヤニヤわらいながら二発目を放つ。達也は大きく後ろに跳んだ。
「ハハ、逃げるのは上手みたいだな」
 赤頭がジリジリと追ってくる。
 気がつくと達也は背中にブロックべいを背負っていた。
「シュッ」
 赤頭の左足が飛ぶ。達也は右に体を捨ててころがった。
 赤頭の靴がブロックべいにめりこんだ。男は思わず顔をゆがめた。
 その瞬間を逃さず、達也はバネのように飛び起き、男にくらいついた。
 二人はからみあってたおれた。あっという間もなく達也は男の左腕を決めていた。腕ひしぎ逆十字。
「やった」  達也がそう思った次の瞬間、男の右足が信じられない角度から彼の顔めがけて飛んできた。
 達也は目を大きく見開いたまま男の腕を放して横にころがった。

 赤頭がゆっくりと立ち上がる。
達也も立ち上がった。鼻に手をやると血が出ていた。
 「ウオオオ!!」
 達也は獣のような声を発すると身を低くして、両手で頭をカバーする姿勢のまま男に向かって突っ込んだ。
 赤頭は一瞬ひるんだが、すぐに右の拳を放った。左足を痛めたらしく、やむなくパンチに切り換えたのだ。
「うあ!」
 赤頭の短い声もろとも、彼の体は宙に舞った。
 突っ込んでから逆に後ろに身を捨てる。動物的ともいえる達也の動き。ともえ投げが見事に決まった。
 赤頭はドスンと背中から地面に叩きつけられた。
「グッ」
 思わずうめき声をもらしたが、達也が立ち上がり彼のほうを向いた時には男はゆっくりと立ち上がってきた。
 達也はハアハアと肩で息をした。
 赤頭はペッとつばをはいた。それはうっすらと赤かった。
 二人は間合いをとったままにらみあった。
 息のつまるような緊張感が周囲を支配した。
 その時、だれかが達也の肩をポンポンとたたいた。
 達也はギョッとして振り返った。そこに紀子が立っていた。
「ご苦労さん、達也。でも、その子たち悪い子じゃないんだって!」
 紀子の言葉に達也は、ただあんぐりと口を開けた。
「ほんとなんです。ほんとに、ほんとにあの人たち、いい人だったんです」
 北山早苗は力を込めて訴えた。もう4度めだった。
「案外そうかもね。だって私が事情を説明したら、あの5人あっさりと手を引いてくれたもの。あそこまでいっちゃうと、こりゃダメかなって思ったんだけど」  赤山紀子が何度もうなずいてみせた。
「そうだな。今どき珍らしい「ほんものの硬派」だったのかもな」
 達也がアゴをポリポリかきながら相槌を打つ。



「なんにしても無事でよかった。さあ、どうぞどうぞ。なんでも頼んでください」
 北山健二が上機嫌でメニューをふりまわす。
「わーいパパ、なに食べてもいいの?」
 娘の美穂が眠そうな様子もなくはしゃいだ。
 紀子たちは深夜営業のファミレスのテーブルを囲んでいた。午前3時になろうかとしているのに広い店内はけっこう席が詰まっていた。  紀子の言うとおり、あの5人の若者はあっさりと了解してくれた。
「おばさん、気をつけなよ。このへんも夜は物騒だから」
 別れ際に金髪男が早苗に向かって言った。
「オッサン、またな」
 赤毛男は達也の肩をポンとたたいた。達也はムッとした顔になった。「オッサン」と言われたのが気に入らなかったらしい。
 紀子と達也は男たちと別れると、早苗を家まで連れ帰った。健二は泣きそうな顔をして喜んだ。
 帰ろうとする紀子たちを健二は引き止めた。
「このまま帰られたんじゃ、僕の気がすまない。国道沿いに朝まで開いてる店があるんです。ぜひ何かおごらせてください」
「わーい、行こう行こう」
 いつのまにか起き出してきた美穂が、手を叩きながら大喜びしてピョンピョン跳ねる。

「わたし、あんまり腹が立ったもんだから。それで近くのラーメン屋でビール飲んじゃった。そこで一時間ほど座ってたんだけど、そろそろ帰らな いと心配するかなって。お店を出てしばらく歩いた時、いきなり犬が飛び出してきて。ワンワン吠えながら」
 早苗がコップの水をのみながら話す。
「まあ、野良犬?それとも放し飼い?それで方向が判らなくなっちゃったんですね」
 紀子が顔をしかめながら、早苗に問い掛ける。
「ええ。ポエムはわりと平気だったんですけど、わたしが動転しちゃって。必死に追い払ってたら家の方向が判らなくなっちゃって。なんとかなる かと歩き出したんですけど、歩けば歩くほど判らなくなって。だれかに聞こうにも誰にも出会わないし。どれくらい歩いたかしら。もう泣きそうに なっちゃって。その時あの人たちが声をかけてくれたんです。「おばさん、どうしたの?」って」
「なるほど」
「わたしが事情を説明したら家まで送ってやろうって。わたし涙が出るほど嬉しかった。そしたらそこへいきなり」
「わけのわからない男がいきなり乱入してきたってわけね」
 紀子がおかしそうに達也をちらっとみる。
「お、おいおい。そりゃねえだろ」
 達也がプッとふくれた。
「ごめんごめん。かっこよかったわよ達也。久しぶりに会心の ともえ投げ見せてもらったし」
 達也は苦笑をうかべながら健二に尋ねた。
「そうそう、奥さんの浮気疑惑。もう晴れたんですか?」
「もうかんべんしてくださいよ、沢田さん」
 健二は頭をかいた。
「わたしならいつでも潔白を証明できるわよ!」
「わかったって。もうゆるしてくれよ」
 早苗の言葉をかわすように健二は首をすくめる。
「それにしてもその患者さん、なんでそんなまぎらわしいこと言ったのかな?」
 達也が首をかしげる。
「わたし思うんだけど、その人北山さんと誰かを間違えたんじゃないかな。盲導犬を連れた誰かと。T町のほうにも女性のユーザーさん、何人かい るし。周りの人から見ると犬連れてる人はみんな同じに見えるみたい。それほど盲導犬の印象って強いのよ」
 紀子がうんうんと頷きながら答える。
「そう言えばわたし、知らない人から「この間Sデパートでお買い物してましたね」って言われたことある。わたし、Sデパートになんか行ったこ とないのに」
「そうかあ。じゃあ犬に負けないように人間のほうもなにか印象残さなきゃな。奥さん、髪の毛染めたらどうです?赤とか緑とか。そしたら間違え られないと思うけど」
「達也ったら!」
 紀子が達也をにらみつける。健二と早苗は笑いだした。それにつられて美穂も笑った。
「グー」
 どこからかおかしな音が聞こえてきた。
「達也!」
 紀子が達也をまたにらむ。
「オ、オレじゃないオレじゃない」
 達也はあわてて両手をふりまわした。
「グー」
 また聞こえた。
「あら?」
 紀子が音を追いかけてテーブルの下に目をやると…。
 ポエムが大の字になってイビキをかいているのだった。

 

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