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長編小説 デュオの青い虹

文:カメ仙人

デュオの青い虹 目次

序章  許されざる愛!

第二章  プロテウスの涙!

第四章  引き裂かれた二人!

第六章  消えたフェリオ!

第八章  紅蓮の鉱山!

第十章  ライヤに忍び寄る魔手!

最終章  勝利への讃歌!

第一章 宇宙(そら)に架ける虹

第三章  ルビー色の秘密

第五章  離れ行く心

第七章  断たれた希望!

第九章  革命への足音!

第十一章  炎の玉座!

 


デュオの青い虹・主な登場人物

フェリオ本小説の主人公。デュオ人の少年14歳、デュオ人特有の青い髪だが、エメラルド色のの瞳を持つ少年。瞳の色がエメラルド色であることは、タルク(赤蛙)の瞼をかぶせることで誤魔化していた。神の山、と呼ばれるカルディア山で父に拾われたという出生の秘密がある
ライヤフェリオと同じくデュオ人の少女。善神アルディオンの神子となるが、常に人々を騙していると言う懊悩に苦しむ。
アスラン・ウッズマン元デュオ総督。ライヤをアルディオンの神子に仕立て上げ、デュオを独立させる。金髪碧眼の美青年である。その残忍さで「黄金の悪魔」と呼ばれている
キヨネ山本地球人に誘拐されたライヤを助け出そうとしたフェリオに同情し、共にアルカディアに乗り込む、謎の地球人の女性
モルグ一見悪人面の地球人。キヨネと共にフェリオを助けてくれる怪しげなオッサン
ドルトイ司令ウッズマンの腹心の部下。有能で法律の専門家
ゲリオール・ウッズマンウッズマンの父親。連邦議員で議会の実力者
ダストルウッズマンの腹心の部下、周囲との景色にカメレオンのように身体の色を変化させる能力がある。緑色のタイツのようなピッタリとした服を着た、小男である。目が異様に大きくて額が狭い、鼻はなく口が大きい、珍妙な面相をしていて、平伏している姿は、正にガマガエルそのものだ
ブレイン銀河パトロール辺境支部の隊長。かつて彼の娘がウッズマンの陰謀によって殺されたと信じている
ジュリアブレインの一人娘。五年前に謎の自殺を遂げた。黒人で、大学の生徒総代となるはずだった
フィリヤライヤの母親。実は継母
クルトライヤの弟
オルトライヤの父。実は叔父
リーナライヤの本当の母親オルトの姉
キースデュオの寒村の村長
マームデュオ人のライヤの侍女。ウッズマンに助けられ、彼こそがデュオの救世主だと信じている
ミーシャマームのいなくなった後にライヤの侍女となった娘。ライヤよりも二つ年下の12歳
シルビアフェリオの育ての母
ガルス楽園の監視人。同じデュオ人を虐待しても平気な冷血漢。特にフェリオには残酷に接している
ダンカルディア山に作られた鉱山の監視長。巨漢で身長は約2メートル
ドルベ爺さんフェリオと同じ鉱山で働かされている年寄り。六十歳ぐらい




◆序章  許されざる愛!◆


 地球と月の間にある衛星軌道上に、銀色に輝く浮島のような人工衛星都市プロメテウス。その大きさはほぼ大都市、東京の半分にも匹敵すると言う。

中に暮らす人々の数は一百万人。そのほとんどが銀河連邦軍に関わる人間たちであった。防衛校と呼ばれるプロメテウスの学園施設には、保育園から大学まで揃っており、地球にある都市となんら変わることがない。ただ異なっているのは、大学を卒業した者の大部分が銀河連邦軍、もしくは銀河連邦政府の要人となることが決定していることであろう。そんなエリート大学の卒業生総代となれば、将来は保証されていると言っても過言ではなかった。そして、今年の総代に決定したのは、プロメテウス始まって以来、初めての女性、それも黒人の女生徒であった。彼女の成績は抜群であり、常に第二位に甘んじていた金髪碧眼の青年の追従を許さない成績であったのだから、何処からも文句の出ようがないはずであった。

 「アスラン、本当にいいの?」

 輝く漆色の肌の女子大生、ジュリア・ブレインが心配そうに目の前の金髪碧眼の恋人を見つめた。彼の父親、ゲリオール・ウッズマンは銀河連邦議会の上院議長であり、プロメテウスでは絶大な権力を維持している。それは彼がこの衛星都市の産業の半分を所持していることに起因していた。

 「もちろんさ、ジュリア意外に誰が卒業生総代にふさわしいって言うんだ?」

 金髪の青年はエメラルド色の瞳でニッコリと微笑んだ。大学のトップとセコンドの恋人は密やかに愛し合っていた。生徒総代に選ばれたジュリア・ブレインはアクアマリンの瞳を持つ、漆黒の滑らかな肌、バランスの取れた痩身ではあるが、野生の黒豹のような精悍さを持つ美しい女性である。相手もまた、美の女神が最大の愛情を込めて作り上げたような美青年で、背中まで伸ばした黄金の巻き毛は女性ですら思わずため息をつく美しさであり、深い湖を想像させるエメラルド色の瞳は優しさと知性に溢れていた。

そして、そのような美しい面立ちをしているにも関わらず、女性的には決して見えないのは、鍛えぬかれたとは言えないまでも、無駄のないバランスの取れた長身のお蔭であろう。アスランは白く細い指でジュリアの顎をそっと包むように持ち上げ、自分の唇をその上に重ねた。二つの身体は、互いに離れることを恐れるかのように強く抱き合う。とくとくと脈打つ心臓の鼓動が互いの存在を確かなものに感じさせた。青年が噂とは異なり、淫らな女性関係とは縁が遠いと感じさせる不器用な口づけであった。しかし、女性の方もまた、汚れを知らぬ乙女のように唇を震わせつつも、男の愛に応えようとしていた。



 ゲリオール・ウッズマンの居住施設は連邦議会の宿舎の中でも最上級区域に位置している。それは彼が議員の間でも有力なメンバーであることを示していた。一際広大なスペースを有し、豪奢な造形で、他の居住ブロックを貧弱なものに見せていた。その駐車スペースにリムジンが音もなく滑り込んだ。運転手が素早く降車し、主のためにドアを開けると、傲慢な態度の初老の男が降車した。酷薄そうな薄い唇は不快げに堅く結ばれている。そして荒々しく玄関をくぐり抜けた。

 「お帰り、父さ……?」

 父の帰宅を知って自室から出てきたアスランが言葉を詰まらせる。父の表情があまりにも厳しかったからである。

 「アスラン」
 「はい?」

 名を呼ばれ、思わず身構えた。こんな時の父はかなり怒っている。しかし、一体何を? 不安が顔色に出る。

 「卒業生総代だが……」

 いかにも不愉快だというようにゲリオールが口を歪める。アスランがビクッと頬を痙攣させた。ついに耳に入ったらしい。

 「何の冗談か、今年は黒い女が勤めるそうだな?!」
 「……」

 口元には笑みを浮かべてはいるが、ゲリオールの瞳には恐ろしいほどの怒りが爛々と滾っていた。アスランは思わず逃げ出したい衝動を懸命にこらえ、父親の顔を凝視する。が、それが気に入らなかったのか、いきなり平手が頬を襲った。

 「この世で最も優秀な生物は地球人だ! そして、その地球人の中でも、吾がゲルマン族は最も美しく、優れた頭脳を持っていなくてはならないのだ! カラードなどに主席を奪われるなど決してあってはならない!」

 激烈な怒りにかられ、ゲリオールの拳が息子の身体に矢のように乱れ飛んだ。口の中が裂け、鮮血が口端から糸を引いて流れ落ちる。しかし、父の怒りは収まらない。血を見たことによって更に逆上し、拳を息子に向かって叩きつけてくる。頭を庇い、身体を丸くしてジッと暴力に耐えた。と、長身の男が二人の間に割って入ってきた。

 「ご主人様、お止めください! このままではアスラン様が死んでしまいます!」

 ゲリオールの怒声に驚いてかけつけてきた秘書のドルトイであった。

 「退け! このような腑抜けな男など息子ではないわ! 黒人女などに主席を取られる愚か者など死ねばよいのじゃ!」

 怒りは邪魔に入った秘書に向けられる。ドルトイは懸命に腕で主の拳をさけながら、宥めようとした。

 「アスラン様は決して腑抜けなどではございません! それに、愚か者でも。防衛大次席は立派な成績です。優秀な血を継承しておられればこその見事な頭脳の証です!」
 「やかましい! 貴様、主に対して諫言するか?!」

 怒りの矛先が仲裁に入った秘書に向かう。血走った目でゲリオールはドルトイを殴り始めた。

 「ドルトイ……」
 「アスラン様、はっ、早くお部屋に……」

 必死で主の暴力を受け止めながら、ドルトイは小声でアスランにささやく。しかし、なかなか逃げようとはしない。

 「アスラン様、早く!」

 焦れたドルトイが強く叱咤するのを聞いて、心を残しながら自室へと逃れて行った。背後では父の怒声と、激しく打ち据えられる拳の音が聞こえていた。秘書はあれだけ撃たれているにも関らず悲鳴一つもあげてはいない。もしも一言でも声をあげれば、アスランが心配して戻ってくるのではないかと慮ってのことであったのであろう。

 「ドルトイ……すまない……」

 アスランはきつく目を閉じると、自室の中へ閉じこもった。何事も常にゲルマンがトップにいなければ収まらない父。彼にとって二位や三位が誰であろうと関係ない。ただ、トップにゲルマン種がいないという事実が耐えがたい汚点なのであった。ゲルマンよりも優れた者が他からは出てはならないのだ。まして、黒人女など、許されざる冒涜としか考えてはいない。ゲルマン、それも優秀な家系に生まれ育った男子だけが全てを統べる資格があるのだと信じて止まない人間。それがアスランの父、ゲリオール・ウッズマンであった。



 防衛校の寮は大学に隣接したグラウンドの端に設けられている。アスランのようにプロメテウスの住人ではなく、地球や他の殖民惑星から留学してきた学生たちのほとんどが、この寮に寄宿していた。ジュリアもこの寮の一室から大学に通う寮生であった。もうすぐ卒業して行く彼女であったが、寮生たちは別れるのが辛いとみえて、片付けをしようとすると、次から次へと顔を出してくれ、なかなか捗らずにいた。

 「ジュリア! 入ってもいいですかー?」

 今も彼女の所属していたボランティアグループの後輩に引継ぎを終え、ヤレヤレと再び荷造りを始めようとしたところへ、法律クラブの後輩が入ってきた。

 「もう入ってるじゃないの。どうしたのキヨネ? あなた、怖い顔をしてるわよ」

 いつもは穏やかな後輩が憤然としているのを訝しげに見上げる。キヨネ山本、東洋系の美しい顔立ちをした女の子で、絹のような長い黒髪と、切れ長の輝くような黒曜石の瞳が印象的な娘である。その黒曜石の瞳が怒りのため、一層輝いて、神秘的な美しさを醸し出している。

 「ジュリアーッ! 私、口惜しい! 本当に、絶対、許さない、あいつら!」
 「なっ? 何なの? 何を……?」
 いきなりしがみついてきた後輩にジュリアは目を白黒させる。観れば、黒曜石の瞳が悔し涙に潤んでいる。滅多に弱気を見せないキヨネの狼狽振りに当惑した。本当に何があったというのだろうか? 

 「あいつら、あいつらよ!」
 「はあー……?」

 あいつらと言われても、誰のことか理解できないジュリアであった。

 「ウッズマンの取り巻き連中よ! あいつら、自分たちのリーダーが卒業生総代になれない腹いせに、ジュリアが生徒総代になれたのは……」
 「えっ?」

 と途中まで言いかけてキヨネは沈黙した。それから先のことはあまりにも侮辱的で、とても本人の前では言葉にできなかったのである。

 「……私が学長に身体を売ったからだっていうんでしょう?」
 「ジュリア!」

 苦笑交じりにジュリアが代わりに言う。そんな中傷など怖くもなんともない。そんなことに一々目くじらを立てていたら、下劣な連中と同レベルの口争いに巻き込まれるだけだ。自分自身にやましいことがない限り、何も畏れることはないのだ。

 「キヨネはそんな誹謗中傷を信じるの?」
 「じょ、冗談じゃないわ! そんなありもしないこと、誰が信じるものですか!」

 カッと怒りに瞳を燃え上がらせ、キヨネが叫ぶ。ジュリアはおかしそうにクックッと笑いをこらえていた。本当に純粋で素直な娘(こ)」。ジュリアはそんな東洋人の後輩が妹のように愛しく思えた。
 「私はね、キヨネとアスランさえ私を信じてくれたら大丈夫なの。あなたたち二人が私の心の支えなのよ」
 「ジュリア! 私は何があっても信じています。でも、あいつは……」

 ふとキヨネは暗い瞳になる。あいつ、アスラン・ウッズマンは信用できない。彼の父親はゲリオール・ウッズマン、銀河連邦議会の実力者。そして人工衛星都市プロメテウス一の資産家であり、金髪碧眼のゲルマン族だけがこの世で最も優秀な人類だと信じて止まない男である。そんな男の息子がジュリアの心を占領している。とても彼が本気で黒人のジュリアを愛しているとは信じられなかった。きっと、何か企んでいるに違いない。もしかしたら、彼女を騙し、生徒総代の栄誉を横取りするつもりかも知れない。




 激烈な父の怒りをかってしまったアスランは、自室でグッと唇を噛んで耐えていた。どうやら玄関の騒ぎは収まったようだ。しかし、これで終わるわけではない。きっと卒業式が終了するまで、父の怒りは噴出し続けるだろう。

 「アスラン様、おけがの具合はいかがです? 入ってもよろしいですか?」

 足音がドアの前で止まり、ノック音にアスランが顔を上げた。この声はドルトイ。先ほど二人の間に割って入って助けてくれた秘書である。

 「やはり、お顔にけがをしておられる。待ってください、今から手当てをいたします」

 主に折檻された御曹子の顔を覗き込み、ドルトイが心配げに顔を曇らせる。そして、手にしていた薬箱から消毒液で傷口を洗浄し、ガーゼで押さえた。

 「ドルトイ、お前もけがをしてるじゃないか。オレなんか放っといて自分の手当てをすればいいのに……」
 「わたくしは大丈夫です。けがには慣れておりますし、アスラン様のような美男子ではござりませんので、少々けがをしても大したことはございません」

 ドルトイはフッと笑みを浮かべると、薬箱をポンと閉じた。

 「それにしても、父さんはどうして判らないんだ。ゲルマンの男だけが人間じゃないんだ。黒人だって、東洋人だって同じ人間なのに、ゲルマンの男だけが優秀な人類だと思い込んでいる。ジュリアは女性で、黒人だけれど、とても優秀な人なんだ。誰よりも気高く、きれいな女性で、オレなんかよりはるかに優れた人なのに……」
 「アスラン様……」

 熱心にジュリアのことを語るアスランをドルトイは呆然と見つめていた。まさか、この方は、主が最も忌み嫌う黒人の女性を愛しているのかと。

 「ジュリアはね、ドルトイ、凄いんだよ。惑星デュオって知ってるだろう? 数年前に発見された地球そっくりの惑星だよ。その星にはオレたちと同じような人類が住んでいる。しかし、彼らの文化レベルは地球人に比べてはるかに劣っている。そのため、次々と移民して行った地球人に土地を奪われ、騙されて鉱山で奴隷のように働かされ、女子供は誘拐され、奴隷市で売買されている。本当に酷い状況らしいんだ。彼女は大学を卒業した後、宇宙省に入って、デュオに駐在し、デュオを独立させて、地球人の侵略から彼らを解放するって目標を持っているんだ。オレにもそれを手伝って欲しいって。オレ、感動したよ。それを聞いて、恥ずかしかった。オレって自分のことしか考えてなかった。デュオなんて遠い星のことなんか全く気にも留めてなかったのに、彼女は……」

 熱く語るアスランをドルトイは冷めた目で見つめている。しかし、全く気づいていないのか、語る言葉はますます熱くなって行った。

 「デュオ人の中から指導者を選び、独立させる。でも遅れた文明を持つ彼らには、すぐには地球人たちの侵攻には耐えられないはずだ。だから、政治がちゃんと整うまで支えてやるんだ。そうしたら、デュオも……」

 ドルトイの耳は、アスランの言葉を素通りして行く。デュオとはゲリオール議員が力を入れて侵略を進めている惑星である。今、アスランが語っていることは、その計画を妨害するような行動なのであった。

 「アスラン様、その話は、どうか他人にはなさらないようお願いいたします。もし、ウッズマン様のご子息がそのような企てに加担なされていると知れたら、大変なことになってしまいます。きっと、アスラン様にとってよくないことが起きるに違い有りません」
 「よくないこと? 父さんに叱られるってこと? だったら、オレはそんなこと……」
 「いえ……そうではなくて……」

 ふっとドルトイが口篭もる。それを肯定したのだとアスランは確信した。父、ゲリオールは息子が黒人女性とつき合っていることを知れば激怒するに違いない。そして、別れさそうと暴力を振るうかも知れないとドルトイは心配しているのだ。

 「ドルトイ、オレは大丈夫だ。いくら父さんに殴られたって、平気だ。きっと、父さんにジュリアのよさを理解させてやるよ」

 ドルトイは複雑な表情で金髪の令息を見つめた。彼は勘違いしている。本当に心配なのは、そんなことではない。しかし、今それを意見するわけにはいかない。この純真な若君は、黒人の女性に夢中になっている。この状況で説明しても反感を買うだけに違いない。ドルトイはため息をついて部屋から出て行った。




 ジュリアはすっかりウッズマンを信頼している。しかし、キヨネにはどうしても彼女のように信じきることができなかった。あの嫌らしい噂を流していたのは、あいつの取り巻きの連中だ。ジュリアが生徒総代を勝取るため、学園長に身を任せただなんて、そんな卑劣な噂、思い出すだけでも腹立たしかった。

 「おーっ、恥知らずの女の仲間がいたぞ!」
 「なんですって?!」

 きっと声の主をにらみつけた。思った通り、ウッズマンの取り巻きの連中である。彼らは腰をくねらせ、嫌らしいポーズで挑発していた。なんという憎らしい連中なのだろうか。キヨネの瞳がカッと怒りに燃え上がる。そしてつかつかと最前列の男の眼前で立ち止まった。

 「よーっキヨネ! お前も学園長に身体を売ってるのか? どうだ、オイラにも売っちゃあくれねえか?」
 「このーっ、恥知らずはどっちよ!」

 言うが早いか、キヨネの平手が飛んでいた。ザワッと空気が緊張する。

 「この女(あま)! よくもやりやがったな!」

 頬を真っ赤に腫らした男の目が怒りに燃え上がる。だが、キヨネは平然とにらみ返していた。

 「やったわよ。それでどうするっての? 殴るの? 女を? それが誇り高いゲルマンの男のやり方だって自慢する気? 大したものだわねえ本当に立派な民族だこと。弱い女を誹謗中傷し、暴力を振るう。立派過ぎて笑っちゃうわ! ほほほほほ!」

 サッと男たちをねめつけ、嫣然と微笑んだ。顔色を変える男たちの中で一人だけ冷徹な表情をしている者がいた。ウッズマンである。

 「ルード、お前の負けだ。キヨネに謝罪するんだな」
 「アッ、アスラン……」

 冷たい声音で命じられた男は、意外という顔で振り向く。

 「ゲルマンの男はレディに対して最も紳士的な民だ。どんな理由があろうとも、レディを怒らせてはならないのだ。例え相手が劣等種族の女であろうともな」
 「劣等種族……」

 キヨネの眉がピクンと跳ね上がる。だが、金髪の令息は聞こえぬふりをしているのか、無視して仲間に語りかける。

 「とにかくキヨネはレディなんだよ」
 「この暴力女がレディ?」

 嘲弄を含んだ視線をキヨネに向ける。ウッズマンも感情のない視線で見つめていた。

 「キヨネ、悪かったな。仲間が失礼なことを言った」

 アスランは軽く会釈をすると、仲間を引き連れて去って行く。キヨネは唇を堅く噛み締めて後姿をにらみつけていた。

 「あんたが一番失礼なんだよ、ウッズマン。何が劣等民族の女よ!」

 何が紳士だ。紳士が嫌らしい噂を流して優秀な女性を誹謗中傷するものか。影でこそこそと卑怯な真似をするものか。絶対に許せない連中だと思った。




 後もう少しで卒業式。生徒総代としてのスピーチを考えなくてはならない。ジュリアは、研究室を借り、アスランと相談しながら文面を考えていた。やはり、学園長と教授たちへの感謝のことばは必要であろう。そして、来賓への気配りもなくてはならないだろうし、後輩たちへのメッセージも盛り込まなくてはならない。だが、スピーチが長くなり過ぎると、ただでさえ退屈な卒業式がますます退屈になってしまう。二人であっちを削ったり、こっちを付け足したり文面を練り上げて行く。大変だが、恋人と共になす作業は楽しいものであった。

 「ねえ、こんなものでいいわよねえ、アスラン。本日はお日柄もよく……」
 「待てよ、それじゃあ結婚式のスピーチだよ!」
 「そっ、そう? じゃあ、これなら……」

 二人は額をくっつけて草案を練る。共に学んだ大学の思い出がそれぞれの脳裏に浮かんでは消える。胸をときめかせて入学した春。偶然中庭でぶっつかり互いの本を間違えてしまい、それがきっかけとなって知り合った、あの日。初めてのデート、真面目な二人のデートは常に図書館であった。海辺のキャンプでも、触れ合ったのは互いの手だけ。勉学には秀才の二人であったが、恋愛には全くの劣等性であった。そんな思い出が次々と蘇り、しばしば二人の作業を中断させた。スピーチの中に盛り込みたいそんな思い出であったが、秘密にしたい思い出もある。

 「ねえ、キヨネに劣等民族って言ったの? 凄く怒ってたわよ」
 「えっ? キヨネが言ったのか? そうか……怒ってた……だろうな……」

 アスランは思わず苦笑した。今の表情は仲間と一緒にいた時のような冷たさは微塵もない。こんな顔はジュリア意外には絶対に見せないものであった。本当に童のような無防備な笑顔だ。

 「どうもキヨネみたいなはねっ返りの女の子を見るとからかいたくなってしまうんだ。それに、あの時は仲間が一緒にいたからなあ。あいつらの前では君たちのような肌の色が異なる人種と仲良くしているところを見せられなくて……。悪いとは思ったんだが……」

 辛そうに瞳を伏せるアスランをジュリアは複雑な表情で見つめる。彼は自分たち有色人種に対して優越感など持ってはいないと思う。しかし、親兄弟、友人たちには、いかにも自分たちだけが優れた人類だと思っているようにみせなくてはならない。その葛藤が逆に彼を罪悪感の虜にしている。だから、二人きりの時は真摯であろうと勤めているのだろう。彼の努力は認める。

 「でも、そんな使い分け……しなくてはならないの? 私と愛し合ったことを後悔してるの? 私のような黒い肌の女と恋人でいることを恥じているの?」
 「ジュリア……」

 驚愕の瞳がアクアマリンの瞳を凝視する。ジュリアはそんなアスランの戸惑いを悲しげに見返す。どんなに愛していると言われても、親兄弟や友人には胸を張って紹介できない相手。決して結ばれない愛なのかも知れない。ふと、そんなことを考えてしまう。

 「ごめん、ジュリア。オレ、まだ親の世話になってる身分だから、親には逆らえないんだ。父はゲルマンだけが人間だと思っているような人間だし……。オレが君とつきあっていることを知ったら、大学にも通えなくなってしまうかも知れない。だから、もう少し待ってて。卒業して宇宙省に配属されたら、きっと……」
 「判ってるわ。アスランが誰よりも誠実だって。でも、時々不安になるの。いつかは棄てられてしまうんじゃないかって」
 「ジュリア、そんなことはない! オレは絶対に君を裏切ったりしない。信じてくれ!」

 ハッと恋人の手を握り、懸命に訴える金髪の青年。ジュリアは、その手をしっかりと握り返していた。こんな真摯な眼差しを疑うことはできない。信じたいと心から思った。




 複雑な思いを胸に秘めたまま、アスランは研究室を出た。あの会話以後、気まずくなった雰囲気に決着をつけたかったのかも知れない。不意にジュリアが草案はほとんどできあがったから、残りは一人でやると言い出した。アスランも、そのまま居続けるのが気詰まりで先に帰宅することにしたのである。それにしても、ジュリアの言葉はきつかった。堂々と恋人だと言えない自分はなんて卑怯者なのだろう。胸を張って父に紹介することができない自分は本当に臆病だ。

 「うん?」

 チラッと何かが動いたような気がして、廊下の向こうを見る。が、気のせいだったのか、暗くなった廊下に人影はなかった。アスランはふっとため息をつくと、立ち去って行った。やがて廊下に静寂が訪れる。と、スルスルと音もなく反対側の研究室のドアが開いた。現れたのは長身の男であった、彼はチラとアスランの立ち去った方向に視線を向け、暫く思案するように目を閉じる。そして、瞼を押し上げて、前方のドアを見つめた。やがて、意を決死てドアに歩み寄る。

 「誰? アスラン? 何か忘れ物……?」

 不意に開いたドアをジュリアは何気なく振り向いた。もしかして、彼が戻ってきたのだと思ったからである。入ってきたのはアスランではなかった。見知らぬ長身の男だ。しかし、泥棒などという者でないことは、きっちりとしたスーツを着こなしていることで判る。どう見ても、重役の秘書か、公務員という風情であった。一瞬、身構えたジュリアは、警戒を緩めず、相手を真正面から見つめる。

 「始めまして、ジュリアさんですね?」

 男は顔に営業用の笑みを浮かべ近づいてくる。ジュリアは相手を見つめたまま、素早く逃げ場を捜した。しかし、いずれの出口も男が邪魔な位置にある。では、何か武器になる物は? 

 「そのように警戒されずとも、何もしませんよ、ジュリアさん。わたくしはドルトイ、ウッズマン議員の秘書です」
 「ウッズマン議員の? じゃあ、アスランの?」

 驚いて相手の顔を見つめる。端正な顔立ち、目には知的な輝きのある三十代の男であった。ホッとしたのと同時に、アスランの父親の秘書が何のためにここへきたのかと位疑惑が頭を擡げた。

 「アスラン様から身を引いてください」
 「えっ?」

 不意打ちを食らって、ジュリアは大きく目を見開いた。アスランとはたった今、別れたばかりである。まさか、先ほどの言葉を気に病んで、父親の秘書を介して別れようというのだろうか? いや、そんなはずはない。彼の性格であったら、自分自身の口からそう言うに違いない。それならば何故? そんなことは考えるまでもないことだ。父親の差し金に間違いはない。

 「お断りします。そんなことは、私たち二人の問題です。あなたにとやかく言われる筋合いではありません。別れたいのなら、アスラン自身から聞きます」

 背筋を伸ばし、ジッとアクアマリンの瞳を相手に向けたまま、ジュリアは凛とした声音で答えた。

 「アスラン様の言われた通りの女性だ。賢く、立派です。権力にも畏れることなく立ち向かう勇気も持っておられる」

 申し出を断られたことに怒るでもなく、ドルトイは坦々と言葉をつむぐ。その落ち着いた男の様子に、ジュリアは背筋が凍るような冷たさを感じた。

 「では、これならばどうです?」
 「何?」

 ドルトイは一旦懐に手を差し入れた。もしかして銃? 警戒に身体を硬くしたジュリアの目の前に差し出された手には、一枚の紙が握られていた。何気に見ると、それは小切手であった。額面には8桁の数字が書き込まれている。

 「一千万クレジットです。これだけあれば宇宙船でも、なんでも買えます」
 「その金をやるから、アスランと別れろという意味?」

 男は黙って頭を軽く下げる。

 「残念だけれど、お金で人の心を変えることはできないわ」

 ジュリアは決然と相手の顔を見つめた。秘書は、だがしかし、全く動ずる様子は見せない。小切手を差し出したまま、冷然と見返している。

 「ジュリアさんは宇宙省に入ることをお望みだそうですね。そして、虐げられているデュオの人々を救ってあげるのが夢だとか?」

 ジュリアは何が言いたいのかと、息を詰めて相手をにらむ。しかし、冷たい能面の表情でドルトイは言葉を続けた。

 「ウッズマン議員は長年連邦議会を努められ、あらゆる機関に権力を行使することがおできになります。もしも望まれるのなら、ジュリアさんを卒業後、直ちに宇宙省移民局に配属させ、デュオ総督の座にお迎えすることも可能です。もちろん、その逆も……」

 沈黙が室内に充満した。もしも、言うことを聞かなければ、彼女の夢も希望も永久に断つことができるのだぞと、言外に脅しているのである。

 「では、改めて、これをお受け取りいただけますね?」

 蒼ざめた相手に、秘書は再び小切手を差し出す。その顔には、相手が必ず受け取るであろうという確信が見えていた。そして実際、ジュリアは小切手を受け取った。にやりとドルトイの唇がつりあがる。

 「ウッズマン議員に伝えて。お金や地位でつられる人間ばかりじゃないって!」

 小切手を散り散りに破くと、ジュリアは凛然と言い放った。




 自宅に戻っても、アスランの気持ちは少しも晴れなかった。堂々と恋人を周囲に告げられない己の弱さが苦しかった。何もかも棄てて、ジュリアを選べない軟弱な自分。それに比べ、ジュリアの強さは眩しいほどだ。決して裕福な家庭に育った娘ではない。確か、彼女の父親は一介の銀河パトロールだという。
二級航宙士、月方面の責任者だったはずである。人種差別の少ない銀河パトロールであるからこそ、こくじんの彼にもそこまで上がってくることができたに違いない。一度も会ったことはないが、厳格で真面目な人らしい。そんな父親に育てられたせいか、ジュリアも正義感の強い、しかし本当の優しさを知る女性であるのであろう。どんなにか、彼女のようにありたいと思ったことか。

 「アスラン」

 不意にノックもなしに父、ゲリオールが入ってくる。驚いて顔を挙げると、侮蔑のこもった視線がそこにあった。

 「黒人女とは別れろ」
 「えっ?」

 突然の宣告に唖然と父を見つめる。

 「噂を聞いた。どんなに優秀な女であろうと、色着きの人間の血をウッズマン家に入れることはならん。判ったな!」

 それだけを言うと、ゲリオールは出て行こうとする。

 「待って! ジュリアは本当に素晴らしい女性なんだ! 一度会ったら父さんだって……」
 「……」

 後姿に向かって訴えたが、何の反応もなかった。

 「オレは絶対に別れないからね! 例え、ウッズマン家を棄てても、ジュリアと結婚する!」
 「馬鹿者!」

 ゲリオールの瞳が憤怒で燃えあがる。しかし、アスランも負けてはいなかった。全身に力をため、エメラルド色の瞳でにらみ返していた。

 「貴様という奴は、おめおめと黒人女などに主席を奪われただけでなく、心まで腐り果てたのか?! 許さん! 絶対に黒人女との結婚は許さん!」
 「許してもらわなくてもいい! オレは家を出て行く! オレはウッズマン家と縁を切る。そして、ジュリアとデュオへ行くんだ!」

 叫ぶなり、アスランは室を飛び出していた。もう何も考えられない。ジュリアだけが大切なのだ。親も家もいらない。ジュリアさえいればいい。他に必要なものは何もなかった。

 「馬鹿者が。たかが女に狂いおって……」

 ゲリオールは忌々しげに拳で壁を叩く。あれほど従順だった息子であったものが、反抗するとは。しかし、このまま放置しておくこともできない。このような醜聞でウッズマン家の名を汚すことは、彼のプライドが許さなかった。

 「ダストル! ダストルはおらぬか?!」

 怒号が室の空気を振るわせる。

 「へへへ、あっしはここにいますぜ」

 応えと共に、室の一部にモヤモヤと黒い靄のような物が現れ、やがて人の姿へと変貌した。ピッタリとした緑のタイツような物を全身に身に着けた、極端に目玉の大きい、額のない珍妙な面相をした男だ。地面に這いつくばっている姿は蝦蟇蛙そのものである。

 「話は聞いていたな? 邪魔者は消せ!」
 「ぐぇへへへ、ありがてえ! 久しぶりの女の獲物だ。十分にいたぶってから殺してやりますよ」

 カエル男は嫌らしい笑みを浮かべ、長い舌でペロリと唇を舐めた。

 「それはならん。自殺に見せかけろ」
 「へっ? 自殺? そいつはつまんねえ……」
 「判ったら、文句を言わず、さっさと行け! アスランに先んじるのだ」
 「へへーっ!」

 ダストルはピョコンと跳ね上がると、室の大気に溶け込むように姿を消した。ゲリオールはフンと鼻を鳴らすと、憤然と歩み去って行った。




 なんという強情な娘であろうか。大金を示し、身分もない、コネもない有色人種の女性にとって、これ以上ないという条件をあっさりと一蹴するとは。さすがはウッズマン家の令息が夢中になるだけのことはある。ただ者ではなかった。だが、だからといって引き下がるわけには行かない。この後の指示を受けようと主に連絡したのだが、もういい、返ってこいと命じられ、ドルトイは大学から出ようとしていた。

 「ドルトイ!」

 校舎を出た途端、名前を呼ばれ、立ち尽くす。目の前から物凄い勢いで駆けてくる金髪の青年を見たからである。

 「アスラン様?」

 思わずその名を叫んでいた。アスランの目は異様に血走り、唇は堅く結ばれている。何事かが起こったような血相であった。

 「お前が父さんに密告したのか? オレが黒人女とつきあっているって!」
 「アスラン様? 何をおっしゃっておられるのですか? わたくしは何も……」
 「じゃあ、ここで何をしている? なんでお前が大学にいる?」
 「それは……」

 一瞬、ドルトイは逡巡した。本当のことを言うべきかどうか。

 「ジュリアさんにアスラン様と別れてくれるように頼みにきました。お父上に知られる前に分かれていただきたくて……。でも、そのご様子では、知れてしまわれたのですね?」
 「ああっ、知れてしまった。だから、オレはジュリアを迎えにきたのだ。二人でデュオに逃げるために!」
 「かけ落ちする気ですか? そんなことお父上がお許しには……」
 「だから、逃げるんだ! 許してもらえないのなら、逃げるしかないだろう?」
 「いけません! そんなこと絶対になりません! アスラン様は、大切なウッズマン家の後継ぎです。勝手に家を出ることはなりません! 止めてください!」

 「うるさい! お前に何が判る? オレは愛した女性を泣かせることは絶対にしたくない! 許されない愛なんてこの世には存在しない。愛し合っている者同志が結ばれて当然なのだ。お前なんかに判るものか!」
 「わたくしには判ります。許されない恋はしてはならないのです。そうしないと、どちらも傷つきます。いえ、それだけでなく、もっと恐ろしい結果を招いてしまうのです」
 「恐ろしい結果? 愛する者を失うよりも恐ろしいことなのか? オレにはジュリアなしの人生なんか考えられない。彼女と結ばれないのなら、死んだ方がましだ!」

 アスランの瞳がカッと燃えあがる。もはや恋人のことしか頭にはない。無理矢理引き離される恐怖が、美貌の青年を狂わせていた。ドルトイは、そんな若者を苦しげに見つめていた。

 「わたくしもかつて許されない恋をしたことがありました」
 「なっ……?」

 意外な告白に、アスランが思わず固まった。こんな仕事一筋のような男が禁断の恋? まさか……? 

 ドルトイの目がふっと遠くを見つめる。あれは、何年前になるのだろうか?


序章  許されざる愛!  ---了---

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◆第一章  宇宙(そら)に架ける虹◆

 シューシューというバズー(赤毛熊)の荒い息が頭上から迫ってくる。すでに片目は傷つき、隻眼の獣の怒りは頂点に達していた。立ちあがれば三メートルを越すというデュオの猛獣は、己よりも小さい人間を初めは舐めてかかっていた。しかし、相手の動きは素早く、彼の予想を大きく上回っていた。

「行くぞ!」

 バズーが鋭い爪で切り裂こうと腕を振り下ろす。その攻撃を紙一重差で避け、人間の大剣が喉笛を貫く。激痛が獣の視界を奪い、断末魔の苦しみから、両の前足を乱暴に振り回した。その爪の一変が人間の肩を抉る。

「うわーっ!」

 悲鳴と共に地面に転がる人間の男。ザックリと裂けた肩口からは猛烈な勢いで鮮血が噴出していた。

「グオーッ!」

 喉に大剣を突き立てたまま、バズーが吼える。一瞬、凍りつく男。カッと見開かれた隻眼が倒れた男をにらみつけた。憤怒に満ちた牙がギラリと太陽の光を反射する。続いて迫る巨大な顔。逃げなくては、牙に引き裂かれてしまう。しかし、肩に受けた傷のため、素早く動くことができない。そこへ巨大な口が男の上に降ってきた。覆い被さる猛獣の体躯。

「オルト!?」

 周囲を取り囲んでいた男たちが恐怖の叫びをあげる。だが、ピクリとも動かない巨獣の身体に押し潰された男。まさかと、顔を見合わせる男たち。と、その時、グラリとバズーの上体が動いた。ハッと視線を向けると、鮮血に塗れた腕が獣の下から現れる。ゴクリと唾を飲む一同は、ユックリと起き上がってくる逞しい青年の姿を目にしていた。

「オレはやったぞ!これでオレも大人の仲間入りだぞーっ!」

 バズーの喉に突き立てられていた大剣を高々と振り上げオルトが堂々と宣言した。途端、男たちの中から歓声があがる。デュオの男の成人式、バズーを単独で倒すという儀式を無事通り抜けた若き戦士の姿がそこにあった。

「凄いぞ、オルト。こいつは今までで最高のバズーだ。さすがはオルトだ。早く、首を善神アルディオンに捧げるんだ」

 若き村長(むらおさ)、キースが誇らしげに命ずると、オルトは大剣で猛獣の首を切り離し、両手で太陽に向かって高く捧げた。

「バンザイ!オルト!」
「新しい勇者の誕生だ!」
「善神アルディオンに栄光あれ!」

 周囲を囲む村人たちから歓呼の声があがる。オルト、十六歳の成人の儀は無事に終了した。村人たちは、ただちに仕留められた赤毛熊を解体し、宴の準備を始める。本日の英雄オルトは男たちに囲まれ、酒と食い物を散々勧められた。

「オルト、おめでとう」

 いい加減酔っ払ったオルトの肩を軽く触れる者がいた。見ると姉、リーナであった。彼女も弟の成人が誇らしげである。手に持っていた酒瓶から杯に酒を注ぐ。オルトはニッと微笑みかけ、一気に飲み干してみせた。
「おーっ!オルト、いいぞ!美人の姉さんに酒をついでもらって!羨ましいぞ!」

 ワッと野次が飛び、姉弟して顔を赤らめた。




 宴も終了し、男たちが眠りにつくと、リーナは、オルトが倒したバズーの毛皮を大事になめし始めた。これは弟が始めて仕留めた大切な記念の品、リーナは心を込めて衣服に仕立ててやるつもりであった。川原できれいに血を洗い流し、なめしていく。清水でたんぱく質や脂肪を洗い流すと、黒油を刷り込んでやるのだ。簡単に見えて、かなりの重労働である。しかし、大切なたった一人の弟のため、リーナは額に汗をかきながら、作業を進めていた。

「頑張っているね」
「えっ?」

 不意に背後から声をかけられ、驚いて振り向く。にこやかに微笑む碧眼の青年が立っていた。彼は金色の髪をクシャッとかきながら、オズオズと花束を差し出す。リーナは、相手が顔見知りの地球人だと判ると、ルビー色の瞳を輝かせて立ち上がった。

「ジョン、きてくれたの?今日は弟の成人の儀式の日だから無理かと思ってたのに……」
「ああ、オレもリーナに会うのは無理かと思ってたんだけど、もしかしたら、ここにくるんじゃないかと思って待っていたんだ」

 照れ臭そうにジョンがはにかむ。会えるかどうか判らないのに、待っていてくれた人。リーナは彼のそんな優しさが嬉しくて、思わず胸に飛び込んでいた。

「リーナの弟に合わせてくれ。正式にオレとの仲を認めてもらいたいんだ」
「ジョン……」

 真摯な瞳で見つめてくる男の視線を思わず避けてしまう。村人の地球人に対する反感は日増しに激しくなっている。彼らに甘い言葉で誘われ、鉱山に働きに出た男たちは一人も帰ってはこない。それに、彼らは“人間狩り”と称してデュオの若い娘たちを誘拐し、弄んだ。散々なぶりものにした挙句、ゴミのように山中に捨てる。悪鬼のような連中であった。しかし、彼らの圧倒的な武器の強さのため、なすすべがないため、憎しみは日増しに強まっていたのだ。そんな地球人の中にも、ジョンのような優しい人間がいる。リーナは彼を心から信頼していた。だが、それを弟や他の村人に判ってもらうことは困難だったのだ。

「もう少し待って……」
「……そう……」

 彼女の反応は多少は予想していた。しかし、彼の落胆はかなりのものであった。

「リーナ、もしもオレが地球人であることを止めたら、結婚してくれるかい?」
「ジョン?!」

 驚いて恋人の顔を見る。彼の表情は真剣そのものであった。地球人を棄てる。それは意外な申し出でであった。地球人は、デュオに町を作り、デュオ人とは比べ物にならないような贅沢な生活をしている。それを棄てて、こんな不自由で、不便なデュオ人の世界に飛び込んでくるというのだ。それほどまでに愛されているのかと思うと、リーナの胸は幸せで一杯になった。

「ああっ、ジョン、愛してる」
「オレもだリーナ。宇宙で一番愛している」

 月明かりの下、若い二人の男女は強く抱きあう。誰にも渡したくない。一時も離れていることが苦痛でしかたがない。だからこの一時の逢瀬が何よりも大切な時間であった。互いの唇を奪い合い、身体を密着させる。娘の柔らかな身体と男の硬い肉体が幾度も重なり合った。




 昨晩の逢瀬の名残を身体に感じつつリーナは弟のため、朝餉の準備に取り掛かった。ジョンは、明日の夕刻、弟に会いにくると約束してくれた。正式に二人の仲を認めてもらうためだ。明日になるのは、彼が自分の上司にデュオ人の娘であるリーナと結婚したいがため、離れることを許可してもらわなくてはならないからだということであった。許可が下り次第、すぐに戻ってくると言った。オルトがどのような反応を示すか怖かった。しかし、誠実な彼のことをきっと理解してくれると思う。必ず彼の真摯な人間性は村人たちにも判ってもらえるはずだ。だが、本当に大丈夫だろうか?小さな不安に思わず自分の下腹部に手を当てる。そこには小さな悪魔の種が宿っていた。それは日増しに大きくなって行くようだ。それを彼は許してくれるだろうか?

「姉さん、めしはまだ?」

 思わず自分の下腹部に当てていた手を払いのけ、振り返る。そこには、まだ眠気の去らない顔の弟がクシャクシャと青い髪を掻き毟りながら佇んでいた。昨日成人したというのに、そんなところは幼い時と全く変わりがない。大きな子供。リーナはそんな弟を見て、思わず苦笑した。

「オルト、朝ご飯のしたくはまだよ。そんな寝惚け顔でうろついていたら、せっかく成人を認められたのがだめになっちゃいますよ」
「へへーんだ!そんなことあるもんか!オレは立派にバズーを倒した勇者だぞ。キース村長も、村始まって以来の大物だって誉めてくれたんだ。もうオレは誰にも遠慮しなくていい大人なんだ。今度はオレが村長に恩を返す番だ。昨日のバズーは最初の礼だ」

 誇らしげに胸を張るオルト。それをリーナは頼もしそうに見つめた。姉弟の両親は十年前に事故で死んでしまっていて、幼い二人は路頭にまよってしまった。そんな二人に手を差し伸べてくれたのが村長のキースであった。多くはないが食べ物を分けてくれたり、何かと世話を焼いてくれた。お蔭で、細々とではあったが、生き伸びることができた。下種な大人たちは、村長がリーナを愛人にするために面倒をみてやっているのだと噂した。しかし、当時十才そこそこの少女に懸想するような人間ではないことは、二人が一番良く知っていた。

キースの告白によれば、彼らの両親とは親友だったという。だから彼らの忘れ形見を見守る義務があるのだということであった。生活の決して楽ではないデュオの寒村で他人の子供の面倒を見ることは決して楽なことではなかったはずである。しかし、キースは本当に当たり前のようによくしてくれた。言葉には出さないが、二人は村長に心から感謝していた。そして、昨日の成人の儀式。誰よりも大物を倒したことは、キースには何よりもの返礼だと思っていた。

「明日、会って欲しい人がいるの」
「はあん?会って欲しい人?」

 オルトがキョトンとした顔で姉を見る。リーナは頬を赤らめうつむいていた。それっきり、会話は途切れてしまった。リーナは黙ったまま朝餉のしたくにもどり、オルトはジッとその後姿を見つめていた。



 地球人の作り上げた開拓基地、アルカディア。その中央に聳え立つ総督府の塔の最上階にデュオ総督の執務室がある。ジョンはドアの前に立ち、大きく深呼吸をした。今から退職願いを出すのだ。理由はデュオ人の娘との結婚のため。宇宙省役人の地位も、地球人であることも捨て、デュオに骨を埋めるつもりであった。思い切ってドアをノックし、入室する。目の前には重厚な大理石でできた執務机に座った若い総督が左右二人の護衛官に守られている。

「どうした事務官?」

 まだ四十才にはならないであろう総督が鋭い視線を向けると、ジョンはすくみ上がる。正統ゲルマンの血を継承していることを誇りにしている上司の紺碧の瞳ににらまれると、ジョンはいつも己がどうしようもなく卑小な人間に思えてくる。そして、いても立ってもいられなくなり、その場から逃げ出したくなる。そんな怖気を懸命に抑え、やっと口を開いた。

「総督、私を事務官から罷免してください」

 拳を硬く握り締め、上ずった声で奏上する。どんな応えが返ってくるかと、硬く眼を閉じた。だがすぐには何の返答もない。恐る恐る眼を開くと、総督の刺すような紺碧の瞳があった。

「それは何の冗談かね?」

 氷のように冷たい声音が室に陰々と響いた。

「総督、これは冗談なんかじゃありません!私は本気なのです。どうか私を自由にしてください」

 ジョンの声は執務室の空気の中へ吸い込まれるように消えた。硬く強張った冷機が室内に充満し、身じろぎすらする者はいない。ただ、ひたすら沈黙が覆い被さってくるようであった。

「あの娘だな?」

 ビクンとジョンの身体が痙攣した。何もかも知られている。辞職した後、リーナと結婚するつもりであることは、とっくにお見通しだったのだ。

「事務官、宇宙省の人間としての未来を全て捨てるつもりか?せっかく私が眼をかけて、異例の出世をさせてやったというのに、私を裏切るつもりなのか?」
「そっ……そんなつもりは……」
「黙れ!貴様、蛮族の娘などに腑抜けにされおって、それでも我がゲルマンの血を継ぐ男か?!薄まっておるとはいえ、ゲルマンの者だと思えばこそ、目をかけてやっていたと言うのに!ますます、ゲルマンの血を薄めようとは何事だ!それもこともあろうかデュオの蛮族と!」
「総督、デュオは地球に比べ、文明的には遅れてはいますが、決して野蛮ではありません。それどころか素晴らしい精神を持っています。自然を愛し、慈しむ、気高い人々です」
「ジョン・ドルトイ事務官、どうやら貴様はデュオの風土病にやられたらしいな」
「えっ?」

 一瞬、ジョンは上司が何を言いたいのか理解できなかった。デュオの風土病?そんなものがあったのか?ポカンと立ち尽くしていた。

「お前たち、事務官を隔離病棟に収監しろ。奴は重症患者だ」

 命令と同時に、護衛官が動いた。呆気に取られているジョンは両脇から支えられるように拘束され、引きずられるように室から連れ出された。

「総督、私は病ではありません!お願いです、私を自由にしてください!総督!ゲリオール・ウッズマン総督ーッ!」

 ジョンの悲痛な叫びは虚しく室外に消えて行った。ウッズマン総督は不快げに大理石の机を拳で二度、三度叩く。ゲルマン至上主義の彼にとって、ゲルマン以外の人種は人間ではない。蛮族の娘など弄ぶものであり、本気で結婚しようなど、狂気の沙汰としか思えなかった。それに、あの娘は、かつて人間狩りと称して捕らえ、散々弄んだ相手であった。いい加減玩具にして飽きたので、捨ててくるようにとジョンに命令したのだが、それが失敗だったようだ。こともあろうか、娘に同情し、愛し合うようになるとは……

「馬鹿者が!」

 ゲリオールは忌々しげに葉巻に火をつけ、思いっきり煙を吸い込んだ。あんな蛮族の娘、どうしてもジョンがあきらめ切れないというのならば、始末することも考えなくてはならないだろう。まったく愚かしいことであった。



 ああっ、またあの夢だ。ジョンの優しさに包まれていたお蔭で忘れていた悪夢。草原を逃げるリーナ。その後ろを残忍な笑みを浮かべ、追いかけてくる悪魔。金髪碧眼の地球人、デュオ総督ゲリオール・ウッズマン。悪魔は必死で逃げる娘をまるで猫が鼠をいたぶるかのように、ジワジワと追い詰め、傷つける。スタンガンを仕込んだ杖がリーナの首筋に触れた。途端、雷撃を受けたように身体が仰け反る。ニヤリと恍惚の笑みを浮かべたゲリオールのてがリーナの腕を掴んだ。逃れようと必死にもがく。だが、抵抗は虚しく乱暴に押し倒された。無残に引き裂かれる衣服。おぞましくまさぐる手の感触に総毛立つ。悪鬼が死肉を貪るように唇に、首筋に、胸に牙を立てた。恐怖の悲鳴が喉元で押しつぶされ、喘鳴のようなかすれ声しか出てこない。やがて、悪魔は怒張した物を誇らしげに見せつけた。

「いやあーっ!止めてーッ!」

 絶叫と共にリーナは跳ね起きた。呼吸は荒く、肩を上下させる。そして、ギュッと毛布を抱きしめた。今も生々しく残る手の感触。なんとおぞましく、吐き気をもよおす感触であろうか。眼は恐怖に慄き、唇は紫色に変色していた。

「ジョン、助けて……」

 抱きしめた毛布に向かってリーナは哀願した。彼しか慰めてくれる人はいない。あの恐怖の事件は弟にも話してはいない。あんなこと、女として誰にも語ることはできない。でも……。ふと自分の下腹部に手を当てる。痩身であるため、目立たぬが、かなり大きく育ってきていた。あの事件からもう七ヶ月。もはやどうすることもできない状態だ。このことを知っているのは、あの事件の後、家の近くまで送り届けてくれたジョンだけである。彼は、そんな彼女を悪魔の種ごと愛してくれると誓ってくれた。いや、悪魔の種などと呼んではいけないとさえ言ってくれた。

「子供には罪がない。リーナの産む子供なら、自分の子供だ。それに、その子は虹なんだ よ。それも宇宙(そら)にかかる大きな虹だ。きっと、デュオと地球を結ぶ大きな架け橋になるに違いない」

 とさえ言ってくれた。だから、信じようと思った。彼なら、きっと二人共幸せにしてくれる。きっと……。



 総督に無理やり拘束されてしまったジョンは、檻のような病室に押し込められてしまい、外に出ることはおろか、連絡を取ることも許されなかった。懸命に出してくれるように懇願したが、何の反応も得られない。定時になると食事を運んでくる職員に取次ぎを頼もうとしても、全く取り合ってくれなかった。恐らく、総督の命令が行き届いているのであろう。

「リーナ……」

 約束した日になっても、自由にはしてくれそうもない。きっと心配しているに違いない。だが、どうしようもなかった。逃げ出そうにも、窓には鉄格子がはめられているし、ドアも頑丈な鋼鉄製だった。それに、廊下には二人が常に監視している。とても逃げ出せる状況ではない。

「きっと心配しているだろうなあ……」

 脳裏に、リーナの壊れそうに細い肩が浮かぶ。あの時、ゲリオールに無残に陵辱された彼女は、傷ついた小鳥のようであった。辱めを受けて、おめおめと生きてはいられないと、崖から身を躍らせようとした。それを必死で止めさせ、生きるように説得した。泣きじゃくる幼女のようだったリーナ。あまりにも痛々しくて、抱きしめようとした。だが、男に乱暴されたばかりの女性には、触れてくる男の手は全てが悪魔の手に見えていたらしい。触れた瞬間、彼女は悲鳴と共に、腕を跳ね除けた。迂闊だったと反省し、一生懸命に謝った。そんな彼の誠実さが判ったのか、少しずつ心を開いてくれるようになった。

「リーナ、愛してる」

 知り合って五ヶ月後、彼はやっと告白した。リーナも恥ずかしげではあったが、素直にうなずいてくれた。そんな幸せな時間は、恐ろしい事実に無残に壊されてしまう。リーナは身ごもっていたのだ。それも、悪魔の子を。ゲリオール・ウッズマンに襲われた時の子である。さすがのジョンもそれを知らされた時は身体が凍りついてしまった。彼の上司、デュオ総督、ウッズマンの子がリーナの腹に……。まさに悪夢であった。誰も望まぬ悪魔の子供。だが堕ろすにはもう遅すぎた。再び、死神の鎌がリーナの首を狙って振り下ろされようとしていた。

「こんな悪魔の子、殺してやりたい!あんな奴の子を産むぐらいなら、死んでしまいたい!」

 半狂乱に暴れるリーナをジョンは懸命に押さえつけた。死のうと河に身を投げようとする彼女を抱きしめ、叫ぶ。

「君の子供を悪魔と呼んではいけない。オレは君の子供なら君と同じように愛せる!だから、死にたいなんて言うな!」

 本気だった。例え悪魔のような男の子供であっても、リーナの産む子供なら、自分の子供として慈しみ、育てることができる。決して後悔はしないと誓える。必死に訴える彼の心をやっと信じ、生きると言ってくれた時、本当に嬉しかった。必ず子供と共に彼女を幸せにしたいと心に誓った。それなのに……やっと彼女の弟に婚約者として紹介してもらうことになったというのに……。動けないとは……。もう約束の時間は過ぎてしまった。きっと心配しているに違いない。もしかしたら、この期に及んで心変わりしたと思ったかも知れない。こんなに心はリーナで一杯なのに、伝えることができないことが堪らなく口惜しかった。

「リーナ!リーナ!リーナ!」

 ジョンは堪らなくなって頭を壁に打ちつけた。ゴツゴツと額が割れ、血が噴出してきても、止めることなく打ちつけ続けた。




 約束の川原で、リーナは待ち続ける。ただ一人と決めた愛しい人を。太陽が中天から地平線へと落ちて行く。約束の時は過ぎても、彼は姿を現わさない。一体どうしたというのだろう?もしかしたら……。リーナは思わず自分の下腹部に手を置いた。途端、中の胎児がピクンと動いた。まるで母親の気持ちを察したかのように、ジタバタと内側から存在を主張する。

「ジョン、どうしてきてくれないの……」

 来ない男への苛立ちが不安に変化した。もしかしたら何かトラブルに巻き込まれてしまったのだろうか?そんなことになったら……どうしたらいい?不安で、ふあんで、堪らなくジョンに抱きしめてもらいたかった。大丈夫だよと、優しく口づけをして欲しかった。

「姉さん、いい加減にしなよ。何時間こんなところに立っているつもりなんだよ?」

 不意に背後から声がした。驚いて振り返ると、腕組みをしたオルトがジッとにらみつけるように立っている。どうやらずっと姉を見張っていたようだ。

「一体、誰を待っている?今日、オレに紹介したいって何者なんだよ?」

 ルビー色の瞳でジッと見つめてくる。しかし、リーナには答えられなかった。愛した男が地球人だなんて、とても言えない。それも、今日結婚の許しを受けにくると言ったにも関らず、やってこない相手だ。彼女は信じることができる。でも、オルトは彼のことを知らない。きっと、いい加減な男だと罵るに違いない。もしかしたら、騙されているのだと思うかも知れない。だが、そんなはずはない。ジョンは必ずくる。どんなことをしたって、きてくれるはずだ。

「姉さんが待っているのは、腹の子の父親なんだろう?」
「オルト?!」

 いきなり核心を突く問いだった。リーナは驚愕のあまり、蒼ざめる。どうして判った。誰にも告げず、密かに苦しんでいた衝撃の事実。まさか、弟に感づかれているとは夢にも思わなかった。

「隠したってだめだ。弟のオレには判ってる。姉さんは妊娠している。そうだろう?」

 口惜しそうに唇を噛むオルト。その顔をリーナは呆然と見つめる。懸命に隠していたつもりだった。しかし、同じ家に住む弟の目は誤魔化すことができなかった。

「一体、相手は誰なんだよ?まさか、噂通り、村長(むらおさ)キースか?」
「……」

 答えられない。どうしても本当のことは弟にも言えない。まさか、地球人の“人間狩り”に捕まり、強引に犯された時の子供だなんて、口が裂けても言うことができなかった。そんなこと、他人に知られれば、子供が可哀想だ。一生“悪魔の子”と呼ばれ続ける。そんな哀れな運命を背負わせることはできない。例え地球人との混血だと知れることがあっても、けだもののような男の子供であることだけは秘密にしなくてはならない。 黙り込んでしまった姉を、オルトは苛立った目でニラミつける。

「もう少し待って。彼に会ってもらってから話すから」
「彼に会ってからって、こねえじゃねえか!姉さんは棄てられたんだ。弄ぶだけ弄んで、子供ができたら棄てる。いい加減な男じゃ……」

 そこまで言った時、リーナの平手が飛んだ。唖然となるオルト。今まで、どんなに悪戯をしても決して手を上げることのなかった姉。その姉が自分の頬を打った。信じられない思いで姉を見つめる。

「彼はそんな人じゃない!何も知りもしないで、勝手な想像で悪く言わないで!」
「姉さん……」

 呆然と立ち尽くす弟を残し、リーナは駆け出した。腹立たしいのは、彼をオルトが悪く言ったからじゃない。ほんの少しだけ、オルトの言うことが正しいのかも知れないと思ったことであった。彼を、ジョンを信じたい。でも、約束の日にこなかったのは何故?それも、こんなに大事な日に。もしかしたら、この期に及んで嫌になったのだろうか?やはり、あんな悪魔のような男の子を身ごもってしまったような女とは結婚できないと考えたのではないだろうか?いや、ジョンはそんな人間じゃない。何度も死のうとしたリーナを懸命に助けてくれた、あの瞳は真剣だった。決して、騙している男の瞳ではなかった。

「ああっ、ジョン!ジョン!ジョン!どうして……?」

 弟の前では決して見せなかった涙が溢れてくる。止めようとしても止まらない悲痛な涙。裏切られた?棄てられた?騙された?弄ばれた?違う!違う!違うーっ!リーナの嗚咽は河の流れの中に消えて行った。




 二日経っても、三日経っても、一週間が過ぎても、ジョンは現れなかった。彼を信じようとしていた心が挫けそうになる。決して裏切るような人間ではないと思う反面、もしかしたらという悪魔のささやきに耳をかしてしまいそうになる。オルトは、あれ以来何も聞こうとはしない。ただ責めるような瞳を向けてくるだけであった。苦しい胸の内を誰かに訴えたい。しかし、相談できる母はもういない。こんな時、早くに亡くなってしまった両親が恨めしく思う。どうして自分たちだけこんな苦しい思いをしなくてはいけない?わずか十やそこらでこの世に残された幼い姉弟。懸命に互いを支え合い、やっと生きてきた。そんな弟も成人の儀式を無事通り抜け、これから幸せになれると思ったのに……。あの事件さえなかったら……。知らず下腹部に手が行く。すると、応えるかのように胎児が動く。なんと呪われた子供だろう。愛はなく、恨みと憎しみだけで産まれる子。そんな子供でも、ジョンが励ましてくれたから、産む勇気が持てた。でも、彼は姿を消してしまった。あの日以来、全く会いにきてくれない。あんなに約束したのに。必ず幸せにしてくれると誓ってくれたのに。どうして?心変わりしてしまったというのか?

「リーナ」

 不安と期待の入り混じった気持ちで約束の川原にやってきたリーナは、不意に呼び止められた。待ちに待ったジョンがきてくれた?思わず笑顔で振り向く。が、笑顔はすぐに失望に変わる。

「村長……」

 それは彼らを陰から支えてくれている村長、キースであった。村長という重責を負っている男ではあったが、まだ年端若い三十代前半である。

「まだ男が忘れられないのか?」
「どうしてそれを……?」

 いきなり尋ねられ、リーナは蒼白になる。誰も知らないはずだと思っていた。ジョンとの仲は誰にも秘密にしていた。それなのに何故、キースは知っているのだ?

「オルトに聞いた。妊娠しているそうだな。相手は誰だ?棄てられたというのは本当か?」
「……」

 単刀直入に聞いてくる。なんという不躾さだ。リーナの顔が、怒りのために朱に染まった。だが、キースは意に介した様子はなく、まっすぐに見つめている。

「ほっといて!あなたには関係ないわ!」
「関係ないことはない。私は村長だ。もしも、村人の中に女を弄ぶだけ弄んで、飽きたら棄ててしまうような不心得者がいるとしたら許せない。村長として、粛清する義務がある」

 怒ったように手首を掴み、迫ってくる。リーナは逃れようと身を捩ったが、力強い男の手から逃れることはできない。

「さあ、言うんだ、相手の名は?アリか?マークスか?ドルンか?」

 次々に出される村の若者の名。だが、リーナは顔を背けたまま沈黙していた。相手は村人ではない。彼らが忌み嫌う地球人なのだ。とてもそのことだけは口にすることはできない。

「村長、どうか許してください!」

 目を合わせず、必死に懇願する。しかし、キースは容赦しない。執拗に相手の名を聞きだそうとしていた。相手の名を知ることは、村長としての義務だという。では、相手が地球人だったらどうするつもりだろう?アルカディアに乗り込んで抗議してくれるというのか?いや、それよりも“人間狩り”で酷いことをした悪魔、ウッズマン総督をやっつけてくれるというのか?そんなことできるわけない。地球人の科学力はデュオよりもはるかに発達していて、武器も比べ物にならないほど強力なのだ。たとえ村人全員で襲撃しても、たちどころに全滅させられてしまうだろう。そんなことが判っていて、できるはずがない。

「リーナ、言え!子供の父親は誰だ?言えないような相手なのか?」

 思わず心臓に刃を突き立てられたような気がした。その通りだ。決して口にできないような相手なのだ。そう思うと悲しくて、辛くて、切なくて、思わず涙がこぼれてきた。

「リーナ……?」

 厳しい顔つきであったキースの表情が当惑に変わる。泣かせてしまった。まだ十才になるかならずで両親を失った姉弟。特に姉のリーナは健気で、可愛くて、愛しくて……知らず知らずの間に二人の面倒をみてやっていた。それが噂になり、若い村長は幼い少女に懸想していると言われた。だが、それは決して不愉快なことではなかった。半分はその通りであったからである。もちろん、彼女が子供の頃は、妹のように思っていた。だが、歳を経て美しくなって行く少女を、いつの間にか異性として見るようになっていた。だが、そのまま迫ったのでは、村長という立場を利用して、女性をものにしようとしているように思われてしまう。それは、男としてプライドが許さない。ただの男と女としてつきあいたかった。そう思い始めてから二年、なかなか思いを告げることができずにいた。村長という仕事に忙殺されて、遅れをとってしまったというのは言い分けにしかならない。バズー(赤毛熊)やエルフォン(斑竜)と戦うのならば、ためらううことのない彼であったが、片想いの女性に告白するのは、恐ろしく勇気のいることであったのだ。それに、相手は十才以上も年下の娘。とてもではないが、デートに誘うのですらためらってしまっていた。

「村長、子供は私一人で育てます!ご心配にはいりません。お願いです、手を離してください」

 涙に光る瞳を向け、キッパリとリーナは言った。それは、決別の言葉でもあった。今日まで保護者のように慈しんでくれた恩人に、これ以上の援助は不要だという意味も含んでいる。キースにもそれが理解できたのか、手首を掴んでいる手を力なく離した。ずっとよくしてくれた人に対して、すまないとは思った。でも、何もかも真実を話してどうなるというのだろう?相手が地球人と判って、戦うにしても、知らぬ顔をするにしても、キースの心は傷つくに違いない。戦えば、負けるに決まっているし、真実を知って何もできないことは、村長として、男として誇りを失わせてしまうに違いない。だったら、傷つくのは自分だけでいい。何処の誰の子とも判らないような子供を産んだ女。ふしだらな娘。そう呼ばれるのを耐えればいいのだ。

「村長、さよなら」

 別れを告げると、リーナは背筋をピンと伸ばし、決然と歩みだしていた。この先、どのような苦難があろうと耐えてみせる。この腹の子のためにも、強くならなくてはならない。決心を固めたリーナの顔はすでに母親のものであった。




 ジョンが戻ってこないまま2ヶ月が過ぎた。リーナの腹の子は順調に育っている。もはや自分一人で育てる決心はついていた。たとえ、望まぬ相手の子供だとしても、半分は血を分けた子供なのだ。どんなに苦しくても最後まで育てるつもりであった。弟のオルトはそれについて何も言わない。村長のキースも、アレ以来家に近づこうともしなかった。恐らく、あまりにも頑なな彼女に愛想をつかしてしまったのだろう。それもしかたのないことだと思っている。

「サーカスだ!サーカスがやってきたぞ!」

 河原にたたずむリーナの耳に、村の子供たちの歓声が遠く聞こえる。いつの間にか収穫の時期にきていたのだ。いつもこの時期になるとやってくるサーカス団。去年までは彼女も楽しみに待っていたものであったが、今年はそんなことすっかり忘れてしまっていた。子供たちの走って行く方向に視線を向けると、見事に飾り立てられた巨大なエルフォン(斑竜)を先頭にバズー(赤毛熊)に乗った派手なコスチュームに身を包んだ人々が近づいてくるのが見えた。先頭のエルフォンの背に乗っているピエロが走りながら追いかけてくる子供たちに向かって紙に包んだ菓子を投げ与えている。そういえば、数年前までの彼女たち姉弟も、あの菓子を目当てにサーカスを追いかけたものであった。あの頃に戻れたら……。ふとそう思って目を伏せる。

「やあ、きれいなお嬢さん!あんたにもお菓子を上げるよ!元気を出して!」

 不意に頭上から声がしたと思ったら、ポンと何かが手の中に落ちてきた。見上げると、エルフォンに乗ったピエロがにこやかに微笑んでいるのが目に飛び込んできた。視線が合うと、彼はピョンと陽気に逆立ちをする。途端、子供たちの間から歓声と拍手が上がった。リーナも知らず笑顔になる。

「そうそう、きれいなお嬢さんには笑顔が一番!一番!」

 もう一度元のように竜の背に立つと、ピエロは大仰な礼をする。子供たちはヤンヤの喝采を浴びせ、周囲で踊っていた。リーナが軽く会釈をかえすと、ピエロはエルフォンを前進させ、去って行った。サーカスの一行は、いつものように川原の広い場所にテントを張り始めた。

「あらっ?」

 一行が動物たちを木に縛り、テントを張るのを何気に見つめていたリーナの目が、先ほどのピエロを捕らえた。いや、彼というよりも、彼に近づいて行く男に目を奪われたのである。髪の色は黒、瞳は茶、あきらかにデュオ人ではない。地球人なのである。その地球人が本当に親しげにピエロに話し掛けている。それは彼女にとって本当に不思議な光景であった。彼女が知っている地球人とは、ゲリオールのように人を人とも思わない連中であった。ジョンは優しかったけれど、彼女以外のデュオ人と親しげに話をするところを見たことがない。むしろ、デュオ人と親しくなるのを避けているようにさえ感じていた。だが、目の前にいる地球人は、全く違和感なくデュオ人に溶け込んでいた。

「ねえ、あんたも妊娠してんだろう?」

 不意に声をかけられ、リーナは飛び上がった。振り返ると、彼女と同じぐらいの歳の女性が、これもまた大きなおなかを抱えて微笑んでいた。

「驚かせた?ごめんなさい、あたいはミリー。サーカスでブランコ乗りをしてるの。あたいも、もうすぐ子供が産まれるから、同じように大きなお腹をしてるあんたが他人には思えなくて、声をかけちゃったの」

 ミリーはクスクスと楽しそうに自分の大きなお腹をポンポンと軽く叩いて見せた。なんて羨ましい。子供が産まれることを素直に喜べるなんて……。思わずリーナはため息をつく。

「あらあら、どうしちゃったの?そんなに悲しそうな顔をして。あんたの子供が産まれてくるっていうのに、そんな顔をしちゃあ、赤ちゃんが悲しむよ」

 ミリーは元気を出せとばかりにリーナの背中をたたいた。そうだった。子供のために強くなるんだと心に決めていたのだった。他人を羨んだりしてはいけない。この子を守ってやれるのは母親の自分だけ。もっとしっかりしなくては。そう思い直すと、顔を上げ、笑顔を作る。

「そうそう、笑顔が一番!母親になるんだ、クヨクヨしてたらだめだめ!あたいだって、悩みはあるけど、子供のため、頑張っちゃうんだから!」

 ミリーは豪快に笑うと、ピエロと地球人の会話に割り込んで行く。残されたリーナも踵を返し、自分の家へと戻って行った。




 翌日から、むらはサーカスの話題で持ちきりになった。楽しみの少ない村人たちにとって、収穫の終わったこの時期にくるサーカスの見世物は、何よりの娯楽であり、見世物の合間に吟遊詩人の語る近隣の町や村の様子も重要な情報源なのである。

「姉さん、明日、サーカスに行ってみようか?」

 姉の妊娠を知って以来、あまり口をきいてくれなくなっていたオルトが突然言った。リーナは驚いて、ポカンと弟の顔を見つめる。

「いっ……いやなら無理には……」

 ぶっきらぼうにそっぽを向くオルト。これはてれている時の表情だ。仲直りしたくて焦れている時にやってきたサーカスをきっかけに、仲直りをしようという意思表示なのだと判った。

「いやなんかじゃないわ。もちろん、喜んでお供させていただきますわ王子さま!」

 リーナはパッと抱きつくと、満面の笑みで答えた。これで何もかもうまく行く。たった一人の弟と、気まずい雰囲気でいるのは堪らない苦痛であった。だが、そんな悩みもなくなった。弟さえ理解してくれたのなら、百人力だ。必ず子供を無事に育て上げてやる。新たなる力を得て、リーナは心が軽くなるのを感じていた。そんな姉を、オルトも目を細めて見つめている。この世でたった二人の姉弟、互いを大切に思う気持ちは同じなのであった。



 リーナに会いたい。病だと断定され、軟禁されてしまったジョンは、鉄格子のはまった窓越しに、デュオの景色を見つめていた。色々と策を講じて脱出を試みもしたのだが、全ては徒労に終わってしまった。思ったよりも見張りは厳重で、例えドアの前の突破できたとしても、その先へは逃れられないように丈夫な鉄の扉が立ちはだかっていたのだ。

「どうして私を自由にしてくれない?」

 ジョンは口惜しく自問自答した。だが答えは判りきっていた。彼は知りすぎているのだ。ゲリオール・ウッズマンは連邦の派遣した総督であると共に、木星麻薬シンジケートの幹部でもあるのだ。総督府の役員の中でその事実を知っている者は数少ない。ジョンはそんな数少ないゲリオール直属の部下の一人なのであった。だからゲリオールはジョンに執着する。恋人を作り、離れて行くことは許しがたい裏切りなのだ。たとえジョンにその気がないとしても、真実が漏れることを決して許さないのだ。

「フィルが逃げたらしい」
「ああっ、知ってる。デュオ人の女と駆け落ちをしたんだってな。ったく馬鹿な奴だよなあ。せっかく総督に認められてエリートコースを歩いていたっていうのに、それを全部棒に振るとはなあ……」

 ドアの外で見張りたちがボソボソと話をしている声が耳に入った。ジョンはギクリとして耳をそばだてた。フィルというのは数少ない総督の正体を知っている仲間の一人だ。あの男もデュオの女性を愛してしまったのか……。恐らく逃げたのは、正直にゲリオールに報告して捕らえられた、自分のことを知って、脱走したのに違いない。まともな方法では決して結ばれることは不可能だ。それなら、二人で逃げよう。そう判断したのだろう。

「オレは馬鹿だ。どうしてリーナを連れて逃げなかったのだろう。総督に許してもらってからなんて悠長なことを考えて、みすみすチャンスを逃してしまった。リーナ、許してくれ……」

 フィルが羨ましかった。好きな女と手に手を取って幸せの天地へと逃れた仲間。きっと彼なら幸せになってくれるに違いない。どうか、彼だけでも好きな女と添い遂げて欲しいと願った。



 久しぶりの弟とのデートにリーナの心は弾んでいた。並んで歩くと、いつの間にかオルトの背丈は姉をはるかにしのいでいる。それに肩幅も広く、腕も凄く逞しくなっていた。数年前までは姉であるリーナよりも小さく華奢だった。だが今の弟は、まるで保護者のように姉を庇いながら歩いている。その発見はリーナには嬉しくもあり、一抹の寂しさをも感じさせた。

「リーナ」

 サーカスのテントに入ろうとしたリーナを呼び止める声がして、何気に振り向く。そして、相手を見て愕然となった。あの夜、仲違いをして別れてしまった村長のキースであった。一瞬、呼吸を止めるリーナ。その身体をオルトが前へと押し出す。

「こっ、こんにちは村長」
「村長は止してくれ。キースでいい」

 引き攣った顔で立ち尽くすリーナを村人たちが興味深げにチラチラと見ながらテントの中へ入って行く。この場から逃げ出したい。しかし、リーナの身体は背後からオルトに捕まれ動けない。不意にキースの腕がリーナの腕と絡まる。途端、オルトの手が肩から離れた。

「じゃあな」

 片目をつぶり、さっさと一人だけテントの中に入って行くオルト。計られた?サーカスに誘ったのはこういうことだったのか?キースと二人にするため、オルトは姉をサーカスに誘ったのだ。

「オレたちも入ろう。グズグズしてたら始まってしまう」

 強引に引かれるまま中へ入って行く。どう反応したらいいのか判らず、リーナはただ無言だった。キースはドンドンと前の方へと歩いて行き、最前列の席の中央に空いている二つの椅子に座った。きっと彼は村長の力を使って確保していたのだ。リーナも黙って隣の席に座る。胸がドキドキしてきた。心はジョンだけのものであるはずだった。だが、ぶっきらぼうで、無愛想なキースの思いやりが心にしみる。

「ご来場の皆様、ただ今より、ショーの始まりでございます!」

 中央の舞台でピエロが大声で口上を告げる。途端、会場の会話がピタリと止んだ。視線が集中するのを見計らい、大仰に一礼したピエロの身体が、不意に空中に浮かび上がる。あっと驚く観衆の目が釘付けになった。と、灯りが点り、テントの中が明るくなる。同時に巨大なエルフォンの姿が浮かび出た。空中に浮かんだと見えたのは、ピエロの上着をエルフォンが加え、持ち上げたのであった。驚いたようにジタバタと暴れるピエロのひょうきんな姿に観衆は爆笑した。リーナも思わず笑っていた。

その時、そっとキースの手が重なってきた。ドキンと心臓が跳ねる。だが、どうしても払い除けることができない。心が動揺して、どうしたらいいのか判らない。不意に気づいてしまった。決してキースが嫌いではないことを。ジョンに申し訳ない。彼がいるにも関わらず、違う男に心が傾斜している。ずっと傍にいたのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。両親を失った時、励ましてくれた人。親がいないため、仲間外れにされていた姉弟を庇ってくれた人。誰とも解からない男の子を妊娠した時の怒った顔。いつまでも迎えにこない相手を聞き出し、粛清すると言った彼。父親のない子にならないようにと心配してくれていたのだ。なんで今になって気がつく?そんなことに気づかなければよかった。

「さーて、お次は、バズーの曲芸!そーれ!ラインダンスだよーっ!」

 ピエロの号令に合わせて、十匹のバズーがラインダンスを踊る。そのおかしさに観客の笑い声がテント内にコダマする。熊たちは胴に比べ短い脚を上げ、音楽に合わせて全身を揺すらせる。後ろを向くと、プリンプリンとお尻を振る姿は、なんとも愛嬌があった。

「楽しんでいる?」
「えっ、ええ……」

 ポツンと問われ、恥ずかしそうにうなずく。




 同じ頃、テントの裏ではミリーが大きなお腹を抱えて、動物たちに餌を与えていた。エルフォンには鳥の肉を。バズーには木の実や魚を。ラビ(兎)には草を。順番に与えて行く。

「ミリー、手伝おうか?」

 タップリと肉の詰まったバケツを持ち上げようとしたミリーの手からバケツが消えた。ハッと顔を上げると、黒髪、茶目の地球人がいた。彼はニッコリと微笑むと、スタスタとエルフォンの檻に近づいて行く。そして、バラッと餌をエルフォンに向かって投げた。竜はクンクンと鼻を二、三度鳴らすと、喰らい始めた。

「フィル、ありがとう。助かるわ」

 嬉しそうに微笑むミリー。男も同じように笑っていた。そして、ふと思いついたように女を抱きしめる。

「もう、だめよフィル。動物たちに餌をやるのが先だわ」
「オレだって飢えてんだぜ。もうミリーが欲しくて、欲しくて、死にそうなんだから……」

 フィルは女の返事も待たず、唇を重ねる。ミリーの手からバケツが落ちる。バケツはガラガラと音を立てて転がって行ったが、二人は見向きもしなかった。ただ、互いの身体を抱きしめ、束の間の逢瀬に身を任せていた。

「ミリー、愛してる」 「本当にいいの?本当に家族も仕事も地球も棄てても後悔しない?」
「後悔しない。そんなものに未練を持って、ミリーと別れたら後悔する」
「フィル……」
「ミリー……」

 抱き合う二人。動物たちはそんな人間には目もくれず、もくもくと餌をついばんでいる。エルフォンは肉の塊を、バズーは木の実と生魚を、そしてラビは木の葉……と、不意に小さな草食動物の大きな耳がピンと立った。そして、警戒するように大きな金色の瞳を忙しく動かす。

「ぐえっへへへ、お二人さん、お熱いねえ!」
「なっ?」
「誰?」

 突如聞こえた声に、二人は思わず身体を離す。恐々と周囲を見回す。しかし、彼らと動物たち意外動く物は見えない。気のせいだったのだろうか?

「グルルルル」
「ガーッ!」
「キキキーッ!」

 動物たちが一斉に警戒の叫びを発し始めた。やはり何かいる。フィルは、しっかりとミリーの手を握り締め、庇うように背後に隠した。

「ぐえっへへへ!何処をみている?こっち!こっち!」

 からかうような声があちこちから聞こえてくる。フィルは忙しく視線を動かすが、相手を見つけることができない。

「フィル、あそこ!」

 背後にいたミリーが右手を示す。つられて見たフィルは見た。空中に現れた黒いもやもや。やがてそれは人型に実態化する。額のない、異様に目の大きな男がピッタリとした緑のタイツのような服を着て立っていた。もし、地面に這いつくばっていれば巨大なヒキガエルに見えたことであろう。

「きっ、貴様、ダストル!何をしにきた?!」

 フィルがミリーを背後に庇いながら、相手をにらみつけた。目の前に現れたのはダストル、総督、ゲリオール・ウッズマンの腹心の部下、闇に紛れて隠密行動を取る男であった。総督に逆らう者、邪魔になる者を密かに抹殺するのが役目だと言われている。そんな男が何故?いや、その答えは一つしかない。総督の意向を無視してデュオ人と駆け落ちした部下を始末しにきたのだ。

「ミリー、逃げろ!」
「フィル?」
「こいつは総督の放った刺客だ!オレを狙っている。お前は逃げろ!」
「そんな……」
「早く行け!そして、ダンに知らせるんだ!」
「ぐえっへへへ、そうはさせるかーっ!女も殺せとの命令だ!」

 カエル男がクワッと口を開き、舌が伸びて女の細い首に巻きつこうとする。それをフィルが素手で掴んだ。ヌルッとする不気味な感触に、思わず身震いするが、手を離してはならない。吐き気をこらえ、両手で強く引っ張る。意表を突かれたダストルが前のめりに倒れそうになった。それを見て、フィルが手を離し、膝をカエル男の顔面に突き上げる。

「ぐぇっ!」

 ダストルがカエルの潰されたような声を上げてひっくり返った。

「よしっ、逃げるぞ!」

 ミリーの手を引き、フィルが駆け出す。チラと背後を振り返ると、カエル男は顔を抑えて唸っていた。




 ショーも一段落し、ピエロは楽屋にもどると、水を飲もうと水差しに手を伸ばした。と不意に外に通じるドアが勢いよく開く。驚いて顔を向けると、血相を変えたフィルとミリーが飛び込んできた。一体何事?問おうとした口がポカンとなる。二人の背後からカエルのような珍妙な顔をした男が鼻血を流しながら追いかけてきたのだ。

「ダン、あいつは刺客だ!オレを殺しにきた総督の部下だ!」
「何?」

 途端、ピエロの泣き笑いの顔が緊張する。同時にカエル男がフィルに向かって跳躍した。手には短剣が握られている。ピエロは咄嗟に手にしていた水差しを投げつける。

「ぐぇっ!」

 水差しがダストルの顔面に当たり、手元が狂う。短剣はフィルの肩口を少し傷つけただけで、虚しく空を切った。転がる刺客に向かって、ピエロが踊りかかる。手にはいつの間に掴んだのか、大剣が握られていた。

「死ね!」

 大剣がカエルの頭部に振り下ろされる。だが、ダストルの動きも素早い。落ちてくる大剣を短剣が受け止めた。ガチンと鋭い火花が散る。ふたつの剣はギリギリと互いに押し合う。だが、力は互角か、ピクリとも動かなかった。二人の額に汗が浮かぶ。大剣と短剣では大きい方が有利なはずなのだが、カエル男の短剣は全く遅れを取ってはいない。それどころかジリジリと押しているようでさえあった。

「畜生!このタルク(赤蛙)野郎!」

 果敢にも、ミリーが傍にあった椅子を刺客に向かって投げつける。不意を突かれたダストルがギャッと跳ね飛んだ。そこへ、ピエロの大剣が突き出される。それを慌てて避けたカエル男が忌々しげに舌打ちした。

「邪魔が入った。止めを刺せなかったのは残念だが、どうせお前は最後だ。オレの短剣には猛毒が塗ってある。役目は終わった。じゃあな!」
「何?」

 愕然となるピエロとミリー。が、次の瞬間、二人はフィルを見た。苦痛に歪む顔と紫色に腫れ上がった傷口が目に飛び込んでくる。猛毒が短剣にぬってあったと言うのは嘘ではなかった。慌てて近寄るミリーとピエロ。だが、フィルの呼吸はすでに止まりかけていた。
「フィル!フィル!ヒルーッ!」

 悲痛な絶叫が楽屋にこだまする。グッタリとなった男の身体をミリーが懸命に揺さぶるが、全く反応がない。

「おのれーっ!」

 怒号を発し、ピエロが大剣を掴んだまま突進する。だが、カエル男はせせら笑いを残し、黒いもやもやへと変化し、姿を消してしまった。目標を失ったピエロはキョロキョロと視線を動かして敵を探す。しかし、何処にも気配すら感じることはできなかった。すでに逃げ去ってしまったらしい。

「フィル!フィル!フィル!」

 ミリーが、呼吸を止めてしまった男の身体を抱きしめ号泣している。ピエロはそれを悲痛な表情で見つめていた。地球という異なる星からきた男を愛し、幸せになろうとしただけなのに。愛の結晶である子供を授かり、幸せの絶頂にあった二人だったのに……。何故、こんなことにならなくてはならない。激しい怒りでピエロは唇を血が滲むほど噛みしめていた。

「火だ!テントから火が出てるぞ!」
「何だと?!」

 突然起こった悲鳴と絶叫に、ピエロが我に返る。

「畜生!あのカエル野郎、行きがけの駄賃に火を点けやがったな!」

 もくもくと上がる煙は普段火の気のない場所から出ている。間違いなく、ダストルの仕業だ。ピエロのダンは、てきぱきと一般の団員に指示し、観客を外に誘導させる。同時に、動物使いたちに、危険な猛獣を落ち着かせるように命じた。炎と煙でエルフォンは興奮し、バズーも檻を破る勢いで暴れていた。それを猛獣使いたちは数人がかりで落ち着かせる。

 突然、沸き起こった悲鳴と叫喚。サーカスを見物していたリーナは思わず隣のキースを見た。逃げ惑う人々が四方にある出口へと殺到する。われ先に押し寄せる群衆が倒れた老人を踏みにじり、親にはぐれた子供が泣き叫ぶ。煙がテント内に充満し、益々人々の興奮を煽って行く。取り残された形のリーナとキースの周囲からは人の姿は消えていた。だが、煙と炎は着実に近づいてくる。

「リーナ、あっちだ。あっちの方が人が少ない」

 立ち上がったキースがリーナの手を取る。慌てて立ち上がると、グイグイと力強く引かれて行く。

「たっ、助けてくれ……」

 倒れた老人が助けを求めて手をのばしてくる。キースはしかたなく助け起してやった。もう炎はすぐそこまで迫っている。二人は老人を急かせ、出口へと走った。

「つっ……」

 不意に下腹部に痛みが走った。しかし、逃げる速度を落とすわけには行かない。必死で痛みをこらえ、走り続ける。狭い出口に殺到する人々の数が徐々に流れて行く。その中へキースと共に飛び込んだ。押し合う人々に押され、痛みは益々激しくなって行く。

「お願い、お腹を押さないで!子供がいるのよ!」

 必死で叫ぶが、恐怖で麻痺している群集には届かない。だめだ、赤ちゃんが死んでしまうと思った瞬間、誰かが庇うように押し包んでくれた。すっと身体が楽になる。一体誰?顔を上げた瞳が逞しい男の顔を捕らえた。キースだ。彼が群集に飲み込まれたリーナを庇ってくれているのだ。思わず顔が赤らむ。しかし、流れは怒涛のように二人を流して行く。それは何十分とも、何時間とも感じる長い時間に思えた。

 観衆を逃がしつつ、危険な獣をテントから離れた川原に誘導する。炎を嫌う野性の動物たちであったが、訓練されていたお蔭で、見知った動物使いの顔を見た途端、落ち着きを取り戻し、人間たちよりも整然と逃がすことができたのは不幸中の幸いだった。

「ダン、ミリーはどうした?わしの娘は何処だ?」

 観客もほとんど脱出させ、ホッと一息ついた時、サーカス団長、ドルベが心配げに尋ねた。思わずハッとなる。火事の知らせに、我を忘れて飛び出したが、あの時、ミリーは殺されたフィルの遺骸を抱いたままだった。彼女はあれからどうしたのだろう?てっきり一人で逃げたものと思っていた。

「ミリー、まさかあのまま?」

 ふと嫌な予感がして、ダンは駆け出した。ドルベも一緒だ。もし、あのままなら、楽屋にいるはずだ。駆けつけた時、炎は楽屋を包んでいた。

「ミリーッ!ミリーッ!」

 必死で呼んでみる。しかし、中からは何の返事も返ってこない。無事に逃げたのだろうか?きっと混乱の最中、何処かへ逃げ延びているに違いない。他を捜してみようと、引き返し始めた。

「……ダン……」

 ビクッと足を止める。いま、確かに誰かが自分の名を呼んだ。それも女の声だ。

「だ……団長……父さ……」
「ミリーの声だ!娘は楽屋の中にいる!」

 ドルベが大声で怒鳴った。ダンもそれを確信する。ミリーは中だ。咄嗟に目の前にあったバケツの水をかぶり、炎の中へと飛び込んで行った。熱い!中は燃え盛る炎と、吹き上がる黒煙で何も見えない。勘でミリーのいるであろう場所へと突き進む。しかし、焼け落ちた柱や燃えるテントの布が邪魔で思うようには進めなかった。そんなに広い楽屋ではないはずなのだが、はるか彼方の密林を彷徨ってでもいるような気分に襲われる。

「ミリー!ミリー!何処だ?」

 煙で涙と鼻汁で一杯になりながら、ダンが叫ぶ。早くしなければ、彼自身も炎と煙にやられてしまう。気分は焦るばかりであった。

「ダン、こっち。柱が倒れてきて、抜け出せないのよ」

 すぐそばでミリーの声がした。直ちにそちらに足探りで近づく。と、何か柔らかい物が爪先に当たった。

「ミリーか?」

 しゃがんで女の身体を確かめる。間違いない、ミリーだ。熱風がピエロの帽子を吹き飛ばす。パッと現れる青髪。しかし、そんなことは気にも留めず、ミリーの背中にのしかかっている柱を力任せに押しのけた。

「ミリー、歩けるか?」
「だめ、足も挫いてるの」
「よしっ、オレの肩に掴まれ!」

 ミリーに肩を貸し、ダンは歩き始める。途端、今までミリーが倒れていた場所に燃え盛る炎の柱が崩れ落ちた。危機一髪、危ないところであった。身重のミリーを庇いつつ、ダンは出口へと急ぐ。炎の舌が手足、顔を舐めようと伸びてくる。入る時にかぶった水も、すでに熱気で乾燥しきっていた。衣服のあちこちがちりちりと炎を上げ初めている。

「ダン、こっちだ!早くしろ!」

 出口でドルベが叫んでいた。お蔭で迷うことなく出口へと到着することができた。二人して外に転がり出る。途端、大量の水が浴びせられた。衣服や髪の毛を焦がしていた炎がジュッと音を立てて消えた。

「ダン、ありがとうよ!お前は娘の命の恩人だ」

 ミリーの身体をそっと地面に下ろしたダンの手をドルベが強く握る。ピエロの化粧は、炎と浴びせられた水でほとんど取れかかっていたが、安堵の表情は見ることができた。

「痛い!痛いわ!」

 不意に、ミリーが苦痛の叫びを上げる。

「どうした、傷が痛むのか?もしかして、倒れた柱で肋骨でも折れたのか?」

 ドルベが、驚いて娘に駆け寄った。しかし、違うと被りを振っていル。えっ、と戸惑った顔になる。

「産まれるの!赤ちゃんが産まれそうなのよ!」

 一瞬、呆然となる。そして、弾かれたように飛び上がった。

「産まれる?!陣痛か?!」
「産婆を呼べ!」
「いや、運んだ方が早い!」
「産婆の家は何処だ?」

 人々は口々に喚きながら右往左往する。そこへ、団員が籠を持って走ってきた。ダンとドルベは協力し、ミリーを籠に乗せた。続いて、数人の男が籠を持ち上げ、産婆の家へと駆け出して行った。

「あまり揺らすな!」
「痛ーッ!痛い!」
「ミリー、頑張れ!もうすぐだ!もう産婆の家に着くぞ!」
「ミリー!ミリー!」

 一難去って、また一難。やっとの思いで炎の中から脱出したと安心した途端、ミリーが産気づいた。なんという日であろう。あまりにもめまぐるしく変化する状況に、ダンとドルベは息も絶え絶えであった。




 やっとの思いで、テントから脱出したリーナは、ヘナヘナと地面に座り込んだ。あの状況で無事逃げ出せたのは、キースのお蔭だ。

「ありがとう、村長」
「キースと読んでくれって言ったはずだ」

 ぶっきらぼうにキースは答えた。弟と同じような照れた表情がおかしくて、思わず苦笑した。

「姉さん、無事だった?よかった!心配したんだ!」

 何か言おうと口を開きかけた時、群集の中からオルトが飛び出してくるのが見えた。よかった、弟も無事だった。ホッとため息をついた途端、鋭い痛みが下腹部に走った。先ほどから少しずつ起こっていた痛みであったが、今度の痛みは今まで以上の激烈さである。

「痛い!痛い!痛いーッ!」

 思わずお腹をを押さえてうずくまるリーナ。

「どうしたリーナ?何処かケガをしたのか?」
「判らない。急にお腹が痛み出したのよ!痛い!痛いわ!」

 額から脂汗を流しながら、リーナは苦痛を訴える。

「あんた、そりゃ陣痛だよ!そんなお腹をして走ったりしたから、陣痛が始まっちまったんだ」
「陣痛?」
「そうだよ、子供が産まれるんだよ!早く産婆のところに運ぶんだ!」

 呆然と立ち尽くす男二人を中年女が支持して、リーナを運ばせる。キースは眼に入った戸板を外させ、リーナの身体をその上に乗せた。見物人の中から男二人が進み出て、戸板を運ぶ手伝いをしてくれた。急ごしらえの担架が道路を走る。向かうは産婆の家。陣痛の痛みは数分おきに襲ってくる。リーナは必死で痛みをこらえていた。




 普段のんびりとしている産婆の家は、不意に現れた二組の妊婦のお蔭で、おおわらわであった。二人とも陣痛は最終段階にきており、いつ赤ん坊が飛び出てもおかしくない状態である。村でたった一人の産婆、アルマ婆は額に汗をかきながら、奮戦していた。妊婦と共にやってきた男たちはまるで役に立たない。うろうろ、おろおろするばかりで邪魔になるだけである。

「男共は外に出ておくれ!邪魔だよ!」

 ついに切れたアルマに怒鳴られ、男たちはしかたなく分娩室から追い出されてしまった。だが、どの顔も落ちつかなげで、ドアの前でまるで腹ペコのバズーのようにウロウロするばかりである。

「痛い!痛い!」
「痛い!痛い!」

 分娩室の中は、二人の母親が交互に悲鳴を上げている。

「ええーい!うるさいよ、あんたたち!あんたらの赤ん坊の方が苦しいんだ!しっかりしな!ほれっ、リーナ、あんたの子供はもう頭が見えてる。もうすぐだよ、もうすぐ!」
「痛い!ああーっ、もうだめーっ!」

 ミリーが絶叫する。チラと婆が眼をやると、こちらも赤ん坊が頭を出し始めていた。

「ひえええーっ、わしは長年産婆をやってるが、こんな忙しい眼に遭わされたのは初めてじゃよ!」

 悲鳴を上げつつ、アルマはてきぱきと赤子を取り出して行く。まず、リーナの子を取り上げ、次いでミリーの子だ。吐き出された胎盤を始末し、へその緒を切って、赤子を毛布に包んだ時は、もうヘトヘトであった。

「あんたら、子供に産湯を頼む」

 分娩室から二人の赤子を抱いたアルマは、うろうろおろおろしていた男たちに命令した。普段の二倍の仕事をこなした婆には、もう力は残っていなかったのである。

「どっちがどっちの子だ?」

 二人共、新生児特有の猿顔で、全く見分けがつかない。

「そんなのどっちでもいいだろう。さっさと洗ってやんな!どうせ男の子と女の子だ。間違えようがない!もう、あたしゃあ疲れちまったよ」

 産婆は言うが早いか、椅子にもたれて眠り込んでしまった。

「やれやれ……」

 男たちは顔を見合わせて、肩をすくめた。

「うへっ、ちっちゃい!」

 オルトが赤ん坊を覗き込んで歓声を上げた。二人共、まだ固く目を閉じたまま泣き続けていた。

「よしっ、こっちの子をわしが洗ってやろう」

 ドルベが片方を取り上げ、たらいで赤子を洗い始めた。

「じゃあ、オレはこっちだな。えへっ、こいつ、女の子だぜ」

 オルトがチラと確かめると、笑みをこぼした。




 出産の苦しみから解放されたリーナとミリーは、寝台のうえでグッタリと眼を閉じていた。苦しかったけれど、充実した瞬間だった。スポンと弾けるように飛び出した途端、大声で泣き出した我が子。新しい生命の誕生の瞬間は素晴らしいものであった。思わず感動の涙がこぼれていた。

「リーナさんって言ったわね。あたいたち、母親になったんだねえ」
「本当、私はまだ信じられない気分だわ。私がお母さんだなんて」
「あたいだって信じられないよ。こんなあたいが、地球人の子供を産むなんてさ」
「えっ?地球人の子供?」
「あはは、驚いた?あの子の父親は地球人なんだよ。ほれ、あんたも見ただろう?黒髪で茶目の地球人。もう死んじまったけど……」
「ええっ?あの人の?でも、死んだって?どういうこと?」
「タルク(赤蛙)みたいな顔をした化け物に殺されてしまったんだよ、ついさっき……。いつかはこうなるんじゃないかと予感はあったんだけどねえ……。実際に殺されちまうと、やっぱり辛いよ……」

 ふと暗い表情になるミリーを、リーナは複雑な表情で見つめていた。どう慰めていいのか判らない。子供が無事に産まれておめでとうって言う事態なのに、その父親が亡くなったばかりだなんて……

「あたいだって悩みはあるんだ」

 と言っていたのは、このことだったのか。命を狙われているような男を愛してしまった。自分だけが不幸だと思っていたことが恥ずかしくなってくる。リーナには、まだジョンがいる。たとえ本当の子供ではないとはいえ、大切な子供だと言ってくれたジョンはまだ生きている。このまま会えないとしても、生きてさえいれば、いつかまた出会うことができるのだ。愛する者が生きている。それがどんなに幸せなことか、苦しみの中で子供を産み落とした今、それを痛いほど感じていた。

「ミリーさん、私も……」

 同じように地球人を愛し、愛した人のではないけれど、地球人の子供を身篭ったんです。そう言おうとして、口を開きかけた。

「なっ、なんだ貴様は?赤ん坊をどうするつもりだ?!」

 だが、ことばになる前に、ドアの外からの怒声に遮られてしまった。何事だろう?リーナとミリーは互いの顔を見合わせる。



 ドルベは、産まれたばかりの男の赤子を産湯につけてやっていた。今にも壊れそうな小さな手足、まだ首も据わっていない危なっかしい生き物。本当に愛らしい赤子であった。きっと、こっちが孫に違いない。爺はらしくなく目を細めた。静かに湯につけ、用心深く身体を清めてやる。と、不意に瞼が開き、瞳が現れた。まだ見えない目で、自分を慈しんでくれている者を見ようとする。

「へへ!やあ坊主、わしが爺ちゃんだぞ」

 赤子に向かって微笑みかけるが、ふと視線を止めた。何か違和感があるのだ。肌の色はデュオ人にしては白い方だろう。髪の色も、きれいな青色であった。だが、瞳の色が……。

「碧の瞳……」

 赤子の瞳の色は、深い湖のような美しいエメラルド色であったのだ。母親の瞳の色はデュオ人特有のルビーのような紅、父親は地球人で茶色の瞳をしていた。地球人は色々な色の瞳や髪の色をした者がたくさんいる。だから、たとえ茶色の瞳の父親からでも、碧眼の子供が生まれることもあるのだろう。

「そうか、やっぱりお前は、地球人の血をひいているんだなあ……」

 そっと赤ん坊につぶやく。赤子は小さな手をしっかりと握り締め、大きな産声を上げていた。

「ぐぇっへへへ!その子がフィルの子だな?」

 突如、不気味な声が耳元で聞こえた。ハッとドルベは赤子を抱きしめる。

「どうした団長?」

 異変に気づいたダンが、そっと大剣に手をかける。キースとオルトは何が起こったのかと、ポカンとしていた。

「その子はもらった!」
「なっ?「

 不意に手の中の赤子が引き寄せられるように、空中に浮かんだ。ドルベは慌てて、取りもどそうと手を伸ばす。だが、子供の身体は、まるで逃げ水のように逃げて行く。

「団長、奴だ!ミリーの亭主を殺したタルク野郎だ!気をつけろ!」
「フィルを殺した奴か?」

 サッとドルベの顔色が変わる。大事な娘婿を殺した刺客が、今度は孫を誘拐しようとしているのだ。

「くそっ、孫を返せ!婿のように殺させはせんぞ!」

 怒りに任せて、赤子に飛びつこうとする。だが、ヒョイヒョイと避けられてしまう。なんてすばしっこい!歯噛みする老人を、赤子はからかってでもいるように空中をジグザグと飛び回っていた。

「赤ちゃん?あたいの赤ちゃんが空中に?」

 ドルベの怒声を聞きつけ、飛び込んできたミリーが空中に浮かんでいる赤子を見て眼を大きく見開いた。一体これは何ごと?

「ミリー、気をつけろ!奴だ!あのタルク野郎だ!あいつは、子供の命まで取るつもりだ。
「なっ……なんですって?そんなことさせない!させるもんですか!」

 かっと怒りに顔を紅潮させたミリーが赤子に向かって飛び込んで行った。

「やめろミリー!奴は猛毒を塗った短剣を持っているんだぞ!」

 ダンが慌てて止めようと飛び出す。だが、遅かった。手が子供に触れようとした瞬間、何も見えない空間がキラリと閃いた。次の瞬間、短剣がミリーの喉笛に突き刺さっていた。

「ミリー!」

 絶叫がドルベの口から迸り出た。グラリと倒れて行く身体をダンが支える。だが、すでにミリーの息は止まっている。

「おのれーっ!」

 怒気を込めたドルベの拳が赤子の背後の空間に向かって放たれた。だが、虚しく通り抜けてしまう。本体はそこにはいない。では何処だ?ミリーの骸を下ろしたダンが鋭い視線で室内を探る。

「そこだ!」

 気合と共に大剣が空中を薙いだ。手応えがあった。ポタポタと空中から鮮血が滴り落ちる。

「くっ、油断したぜ……」

 口惜しげな男の声が、空中から漏れる。ダンが第二撃を放つ。が、それは虚しく空を切るだけであった。

「ああっ、赤ん坊がーっ!」

 ミリーに続いて飛び出してきたリーナが絶叫する。ハッとする一同の視線から赤ん坊の姿が、もやもやの黒い霧へと変化し、やがて消えてしまったのである。

「畜生!何処だ?」
「わしの孫を返せーッ!」

 ダンとドルベが狂ったように室内を見回す。しかし、求める愛らしい姿は何処にもなかった。まさか、表に?ダンとオルトが外に飛び出し、ドルベとキースが詳しく室内を捜索した。しかし、どちらも赤ん坊を見つけることができなかった。

「ああっ、ミリーさん……可哀想に……。苦しい思いをして子供を産んだのに……。愛する人を失ったばかりか、子供もさらわれ、自分も殺されてしまうなんて……」

 リーナがそっとミリーの手を胸のところに組ませてやる。そして、冥府の神、ブラスに祈った。どうか安らかに眠れますようにと。

「リーナ、オレたちの娘は大丈夫だ。ほら、こんなに元気だ」

 祈りを終えた、リーナが立ち上がると、キースが女の赤ん坊を差し出した。すっかりきれいに洗われた赤ん坊は大きなルビー色の瞳でリーナを見つめている。なんて愛らしい娘。しっかりと握られた手を盛んに動かし、生まれて初めて感じた大気を体中で受け止めているようであった。愛する人との間にできた娘ではない。だが、半分は自分の血を持った娘。絶対に幸せにしてやろう。そう心に誓うリーナであった。

「何だよ、この惨状は?!一体何ごとがあったって言うんだい?」

 突如、大気を引き裂く老婆の叫び。リーナとキースが同時に振り向くと、眠りから覚めたアルマ婆が腰を抜かさんばかりの表情で立っていた。すっかり疲れていたとはいえ、あの大騒ぎの最中も眠っていたとは、さすがは三百人もの赤子を取り上げたという豪傑だけのことはあった。

「あああああーっ!こりゃさっき赤子を産んだばかりのサーカスの娘じゃないか?!一体誰がこんな酷いことをしたんだい?」

 すっかり狼狽した産婆が喚きまくる。

「産婆さん、せっかく取り上げてくれたのに……ミリーは殺され、孫もさらわれてしもうた……。せっかく男の子が産まれて後継ぎができたと思うておったのに……」

「男の子?」

 ふとアルマが奇妙な顔をする。だが、誰もそんなささいな変化には気づきもしなかった。目の前で起こった殺人事件、そして誘拐。誰もが心を乱していた。

「団長、赤ん坊は……」

 手ぶらで戻ってきたダンが申し訳なさそうに報告する。ドルベは辛そうに目を伏せた。フィルやミリーを平然と殺した相手だ、きっと赤子などとっくに殺されてしまったに違いない。言葉にできない怒りと悲しみが、年老いたサーカス団長を絶望の淵に落とし込んでいた。婿も、娘も、孫さえも無残に殺されてしまった。この怒りを何処にぶっつけたらいいのだ。

「畜生!地球人めーっ!いつか、いつか、この恨みをはらしてやる!覚えているがいい、悪心ドードの使いめ、きっと善神アルディオンの名において成敗してやる!」

 ドルベが絶叫する。ダンは黙って唇を噛み締めていた。リーナは沈黙したまま我が子を抱きしめ、キースはそんな母子をそっと後ろから抱く。アルマ婆は、何か考え事をするように、腕組みをしたままジッと目を閉じていた。




 人気のない森の枝葉が風もないのにサヤサヤと揺れる。それも、まるで見えない獣か何かが走り抜けてでもいるかのような不自然さであった。そして、それは森を抜けたところでピタリと止まる。やがて空中に現れる黒いもやもや。それは徐々に色を増し、ついには人型を現わした。額がない、目が異様に大きな、全身にピッタリとした緑色のタイツを着た男、ダストルであった。腕には、産まれたばかりの男の赤ん坊が抱かれている。産婆の家から連れ去られた新生児であった。

「ちっ、しくじったぜ。まさか、闇雲に振り回す大剣に切られるとはな」

 カエル男は舌打ちしながら、ザックリと切られた左の上腕を忌々しげに見つめた。簡単に止血した腕が血行不良のため、紫色に変色している。このままでは腕が腐って落ちる。早く、手当てをしてやらねばならない。子供の始末はその後でいいだろう。ダストルは、赤ん坊を地面に降ろすと、袖をまくり上げ、縛っている紐を解いた。途端、血行が戻り、ジワッとした痺れたような痛みが起こる。それを唇を噛んで耐える。腰のポーチから救急薬剤を取り出し、手当てを始めた。シュッと傷口に向かってスプレーしてやると、痛みが嘘のように消え、出血が瞬く間に止まる。やがて、ブクブクと傷口が泡立ち始め、しだいに固まって行く。しばらくそのまま放置しておくと、すっかり傷は癒えてしまった。

「ふー……」

 完全に癒えてしまった腕を二、三度と振り回し、調子がいいのを確かめると、ダストルはため息をついた。次は楽しい幼児の虐殺だけだ。残忍な笑みを浮かべ、地面を見下ろす。

「いない?」

 驚いて周囲を見回す。生まれたばかりの新生児が自分で歩いて逃げるはずがない。まさか追っ手が連れ戻ったと言うのか?いや、そんなはずはない。いくら傷の手当てをするのに夢中だったといっても、人間が近づけば気づくはずだ。足音も立てず、姿も見せず、獲物に近づくなどという技は、カメレオンのように体表の色を変化させて、姿を消すことのできるダストル、彼ぐらいのものである。では、一体誰が?

「ン?」

 一瞬、何かが動いたような気がして、顔を向ける。刹那、黒い物が弾丸のように向こうへと駆け抜けて行った。ガウル(黒狼)だ。チラッとしか見えなかったが、確かに何かを口にくわえていた。小さなウサギのような生き物?いや、間違いない。あれは赤ん坊だった。

「畜生ーッ!」

 残酷な楽しみを奪われたカエル男が地団太を踏む。取り戻すために追いかけるか?一瞬、ダストルは逡巡した。だが、ふいに思い直す。あのまま放っておいても、血に飢えたデュオの狼に食い殺されるに違いない。あたまの中で無残に食いちぎられる新生児の姿を想像して、ニヤリと残忍な笑みを浮かべた。

「ぐぇっへっへっへっへっ!後は任せたぜ、黒い死神さんよ!」

 哄笑を残し、ダストルは姿を消した。聞こえるのは、子供を亡くした母狼の悲しい遠吠えだけであった。




 フィルが殺された。そのニュースは、病室に監禁されていたジョンの耳にも届いていた。表向きはデュオ人の娘と駆け落ちした息子に怒った家族に殺されたのだとされていた。だが、そんなことを信じる者は誰もいない。ゲリオール・ウッズマン総督の命令で、何者かが抹殺したのだ。噂では、フィルだけでなく、彼の愛した娘も、生まれたばかりの赤ん坊さえも殺されてしまったとのことであった。血も涙もない冷酷な支配者。それがウッズマン総督なのだと、ジョンは思い知らされた。もしも、このまま総督の意向を無視し、頑強にリーナとの結婚を推し進めようとすれば、彼とてフィルと同じように抹殺されてしまうかも知れない。いや、そんなことはどうでもよかった。心配なのは、ただ一つ。リーナの身の安全だけであった。

 それに、ゲリオールはまだ知らないが、リーナの腹の中にはゲリオールの子供がやどっている。もしも、その事実を知ったら……。あの男は、己の実の子といえど、劣等種の血が混じった子を認めるはずがない。認めるどころか、そのような子供がいることを屈辱と感じ、抹殺しようとするに違いない。なんとしてもゲリオールの注意をリーナから引き離さなくてはならない。しばらく思案した後、ジョンは監視に向かって叫んでいた。

「総督を呼んでくれ。私が間違っていた。下等なデュオの娘などと本気で愛し合うなど愚かなことだった。あたまを冷やしてよく考えたら、自分の愚かさが身にしみて判った」

 リーナへの思いを断ち切り、絶叫した。デュオ人への罵倒を口にする度、何かが崩れて行く。本音を心の奥深くに押しやり、身勝手で傲慢な地球人が表に出てくる。人種偏重主義者の仮面がジョン・ドルトイの全身を押し包んで行った。




 古の神都のあったと言われる、禁断の山、カルディア山。デュオの人々は神の怒りを恐れ、近づこうとはしない恐れ山である。だが、ここに一人、道に迷い足を踏み入れてしまった男がいた。狩りに夢中になり、バズー(赤毛熊)を追いかけて、うっかり山に入ってしまったのである。やっとの思いでバズーを倒し、我に返った時、自分が恐るべき神の領域に踏み込んでいたことに気づき、恐れ慄いて、せっかく仕留めた獲物を善神アルディオンに捧げ、逃げようとした。

 駆け出そうとした足がふと止まる。今、聞こえたのは赤ん坊の泣き声のように思える。まさか、こんな聖域に赤ん坊がいるはずがない。そうは思いつつ、声のした方へ視線を向けた。

「やっ……やっぱり赤ん坊だ……。しかし、どうして?」

 戸惑いながらも赤ん坊を抱き上げた。本当に小さな、まだ生まれたばかりという感じの男の子であった。

「よしよし、良い子だ、泣くんじゃない。ほれっ、何もねえが、オレの水筒の水を飲め」

 水筒の口を近づけてやると、赤ん坊はゴクゴクと水を飲み始めた。親に見捨てられた子供であろうが、懸命に生きようとしている姿は感動的でさえあった。

「よーし、坊主、今日からはオレの息子だ。良い子に育つんだぞ!」
「あーあー!うーうー!」

 男の言葉が判ったのか、赤ん坊は大きく手足を動かした。そして、パッチリと大きな眼を見開く。男は一瞬絶句した。なんと碧の瞳であった。デュオ人の瞳は皆ルビーのような紅である。それが碧眼とは……。

「はっ?」

 不意に、何物かの気配を感じて振り返る。と、樹木の陰に何か大きな黒い獣の姿があった。思わず警戒して身構える。ジッとにらみ合う男と獣。不意に獣がユラリと立ち上がり、近づいてきた。それは巨大なガウル(黒狼)であった。狼は視線を男に向けたままジッと見つめている。その瞳の色は赤ん坊と同じ碧色であった。

「まさか、こいつはお前の息子だっていうんじゃないだろうな?」

 あまりにも真剣な眼差しに、思わず問うていた。だが、狼は何も答えない。男がそのまま見つめていると、狼がチョコンと頭を下げるような仕草を見せた。

「子供をよろしくってか?判ってるさ、この子はオレの息子として立派に育ててやるぜ」

 思わずそう言っていた。狼はそれを聞くと、もう一度頭を下げる仕草を見せ、身を翻して森の中へと消えて行った。

「不思議なこともあるもんだ……。そういえば、ガウルは善心アルディオンの御使いだと呼ばれている。もしかしたら、アルディオンが子供を亡くしたばかりのオレたち夫婦を哀れんで授けてくれたのかも知れない」

 男は、無邪気に親指をしゃぶっている赤ん坊をしみじみと見つめた。きっと、この子は選ばれた子供に違いない。もしかしたら、デュオの救い主になるかも知れない。大切に育てようと男は思った。

「よーし、坊主、今すぐに家に連れて帰ってやるぞ!そうしたら、オレの嫁が乳を飲ませてくれるぞ。一昨日、赤ん坊を亡くしたばかりだから、まだ乳は出るはずだ」

 男は赤ん坊をしっかりと胸に抱くと、急ぎ足で戻って行く。その後ろ姿をガウルが静かに見送っていた。



第一章  宇宙(そら)にかける虹  ---了---


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