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長編小説のページ・2(五話から八話)

◆第五話  旅立ち!◆

地獄を嫌い、自分自身を傷つけて倒れたキラを救ってくれたのは洞窟に住む、奇妙な老婆であった。地獄では自分以外は全て敵。油断した者が殺されてしまうという恐ろしい世界だと聞いていたのに、何の関わりもないキラたちを救ってくれる者がいた。
もしかしたら、地獄もさ程悪い場所ではないのかも知れないと二人は思い始めていた。老婆はキラの傷を癒してくれた後、栄養をつけるためと言って、食事を用意してくれた。一刻も早く父に会わなくてはと先を急いでいた二人は久しぶりのご馳走を堪能することができた。

 「お婆ちゃん、ご馳走様。」
 「もういいのかい?おかわりはまだたくさんあるよ。」
 「うん、もうお腹が一杯だよ。」 キラはニッコリと笑顔を見せて、一杯になったお腹をさすった。

 「でも、このミルフの実は食べれるだろう。とっても甘くておいしいんだよ。」そう言って老婆は透き通った緑色の果物をテーブルの上に置いた。
 「うわーっ、きれいな色!」
 「本当だねえ。ちょっと食べるのが惜しいくらいだよ。」
 「ほっほっほっほーっ!遠慮しないでお食べ。ほっぺが落ちる程美味しいよ。」
 「本当だ、すっごくおいしい!」 キラが満面の笑みを浮かべる。ナナも目を細めていた。

 「あっ、そうだナナ。卵は?あの翼竜の。」 不意に思い出し、キラが訊ねる。
 「食べちゃったよ。ほら、さっきのタマゴ焼。」
 「ええーっ?そんな酷い!あれは竜のママから預かった大事な卵だったのにーっ!」 青ざめたキラが絶叫する。そして、吐き出そうと指を咽に突っ込もうとした。

 「うおっほっほっほっほっほーっ!嬢ちゃん、弟をからかうのはおよしよ。」
 「えっ?」 驚いて振り返るキラ。老婆もナナも笑っていた。そして、姉の腕の中には卵がある。からかわれたのだ。駆け寄り卵を奪い取るように取り上げると、愛おしそうに頬ずりをした。

 「よかった、無事だったんだ……。」 二人の女はそんなキラを微笑みながら見つめていた。本当に心優しい少年。見ているだけで幸せな気分にさせてくれる。
 「……本当に生き写しだよ……。あの子に……。」 小さくため息をつくと、老婆は何気なく洞窟の出口の方を見た。重くどんよりとした空が見える。その空の彼方に何か黒いシミのような点が近づいてくるのが見えた。

 「あれは、まさか……?」 急に老婆の表情が硬くなった。黒い点は見る間に大きくなって行く。
 「あんたたち、早くお逃げ。」
 「えっ?」 突然の老婆の言葉に唖然となる二人。一体何が起こったのか?

 「あれはサーザの手の者だよ。あんたたちの父親の敵だ。見つかったら危険だ。早くお逃げ!」
 「サーザ?パパの敵?どういうこと?婆さんは誰?」

 ナナが質問を浴びせる。一体、何が起こっていると言うのか?さっぱり理解できない。それに、彼らの父とはどう言う関わりがあると言うのだろうか?聞きたいことは山程あった。

 「今は説明している暇はないんだ。とにかく、ここを離れて。お願いだよ、アモンの子供たち!」
 「やっぱり、パパを知っているの?お婆ちゃんは誰?パパとはどういう関係なの?」
 キラも老婆に詰め寄る。だが、老婆は上空から迫っている敵が気になるのか、無理矢理彼らを奥へとおしやる。奥には、隠し扉があり、そこからは崖の反対側へ出られるようになっていた。

 「さあ、早くお行き!闇牢獄はこの先だよ。気をつけて行くんだよ。」
 「おばあちゃん?」
 「いいから、お行き!それから、むやみに魔力を使うんじゃあないよ。あんたたちの魔力は、悪魔のものとは違う。魔力を使えば、あんたたちの居場所が敵に知れてしまう。だから、滅多なことでは魔力を使ったらいけないよ。」
 「おばあちゃん……」
 「気をつけて行くんだよ!」

 彼らを外へ押し出すと、老婆は扉を閉じた。すると、もう何処へ扉があったのか判らない。ただの岩肌のように変化してしまった。
 「ナナ、あのお婆ちゃん?」
 「判らないよ。でも、急ごう。とにかく、パパに早く会わないと。」
 「うん。」 二人は何度も扉のあったところを振り帰りながら立ち去って行く。だが、扉は二度と開くことはなかった。

 空に現れた漆黒の翼竜は次第に大きくなって行く。そして、洞窟のある崖の真上までくると、疾風を巻き起こしながら地上へと降り立った。竜の背には、数名の悪魔戦士が載っている。彼らの表情は陰険で敵意に溢れていた。
 「お婆、出てこい!そこにいるのは判っておる。さっさと出てこないのなら」
 戦士の一人が竜の首筋を剣の柄でしたたか叩く。すると、竜の口が大きく開かれた。

 ゴゴゴゴゴーッ! 途端、火炎が飛び出す。炎の長い舌が洞窟の入り口を嘗めるように動く。戦士たちはニヤニヤしながらそれを見学していた。が、その笑いもすぐに凍りつく。炎が中心から真っ二つに割れたのである。やがて中から現れる老婆。炎はまるで老婆を恐れてでもいるかのように、左右に分かれて行く。

 「出たな、お婆。」
 戦士たちに緊張が走り、身構える。だが、老婆は平然と空中を歩き、炎を吐く竜の頭上へと降り立った。
 「婆、アモンの子供たちがきておるであろう?出せ!さもなくば……」

 シューッ!

 「うわーっ!」 言葉が終わらない間に老婆の杖から閃光が迸り出た。光は矢となり、戦士の心臓を貫く。絶叫が起こり、灰と化した。
 「言葉には気をつけるんだね。老いたとはいえ、王宮づきの乳母、ゾーラに対して無礼であろう。他に死にたい者は名乗り出るがよい。」
 威厳のある声音で宣言すると、ジロリと男たちをねめつけた。

 「乳母殿、失礼いたした。無礼の段はお許しを。」
 恐らくは戦士の長であろうと思われる男が恭しく礼を取る。老婆はフンと鼻を鳴らした。
 「実は乳母殿、裏切り者アモンが闇牢獄に幽閉されているのはご存じでありましょう。そやつの罪は、天使と契った罪。そして、呪われた子を生んだ罪でありまする。」

 長はジッと顔を見つめ、相手の反応を見る。だが、老婆の皺だらけの顔からは何の表情も読みとれなかった。
 「呪われた子らは、人間界に追放され、二度と地獄へとは戻ってはならぬと厳命されました。」
 「それは、違うな。『悪魔のような人間を見つけよ。さすれば、悪魔と認め、地獄に棲むことを許してやる。』と魔王ブラス様はおっしゃられたのじゃ。」 憮然と訂正するゾーラ。だが、長は無視して言葉を続けた。

 「その追放されたはずの魔天使姉弟が地獄に舞い戻っておるとサーザ様がおっしゃられたのだ。乳母殿、まさか匿ってはおられませぬか?」
 じっと老婆の顔を見つめる。しかし、表情は微動たりともしなかった。

 「しらぬわ!何故、そのような罪人を匿わねばならぬのじゃ?」
 「それは、アモンを養育されたのが乳母殿であります故。」
 「ふん、あのような愚かしい悪魔……。せっかく我が子同様にお育てしたと言うに、よりにもよって天使などと情を通じるとは……。王宮の乳母としての最大の汚点じゃ。その名も聞きたくはないわ!」 ゾーラは吐き捨てるように言うと、先程灰にした戦士の残骸に杖を向ける。すると、灰は舞い上がり渦を巻く。そして、元の戦士に戻った。

 「……そうでありまするか……。では乳母殿、もしも魔天使姉弟が立ち寄るようなことがありますれば、連絡を頼み申しまする。」
 「あい判った。しかし何故、魔天使姉弟が地獄にきたと?」
 「それは、気を感じたのでありまする。サーザ様が、こちらの方角に悪魔とは異なる大きな力を感じると申されました。さらに、姉弟を見張っておりました者の報告で、二人が消えたと……。それらの事実を考え合わせますると、彼らが地獄に舞い戻ったのではないかとサーザ様がおっしゃられたのであります。」
 「見張っておっただと。邪魔していたの間違いではないのか?」
 「はあ?」
 「まあよいわ!それならば気をつけておこうぞ」
 「よろしくお願い申し上げまする。」

 戦士たちは恭しく礼をする。老婆は肩をそびやかし、ゆっくりと洞窟へと戻って行った。姿が見えなくなると、戦士たちは舌打ちをして互いの顔を見合わせる。そして、翼竜と共に飛び去って行った。やがて訪れる静寂。洞窟の中では老乳母ゾーラが鋭い視線で外の様子を探っていたが、悪魔戦士の気配が遠ざかって行くのを確認すると、ため息をつく。そして、キラたちが残して行った服を愛おしげに胸に抱いた。

 「アモン様、あなたのお子たちは立派に成長なされておられまする。きっと、無事に闇牢獄に参られるでありましょう。そして……」 急に言葉が途切れる。抱いている服を掴む手に力がこもった。スッと目を細め、用心深く杖を拾い上げる。そして、何も無い空間に向かって光の矢が杖から放たれた。

 「出ておいで、そこに隠れているのは判っているよ。」 厳しい視線を何もない空間に向ける。すると、歪みが生じ、徐々に人の姿が浮かび上がってくる。派手な衣装に朱のマントには色とりどりの宝石がちりばめられて眩しい程であった。細面の顔長い黒髪を後ろに流している。一見すると、見ほれる程の美男子であるが、蛇を思わせるような三白眼と、残酷そうな笑みを浮かべた唇が彼を危険な男であることを示していた。

 「やはり、魔天使姉弟はここへきたのだな?」 低く冷たい声音で問う。だが、老婆は何も答えない。
 「奴らは何処だ?」 更に問う。だが、ゾーラは沈黙したままである。冷たい緊張が洞窟内に充満した。一触即発、どちらが先に攻撃をしかけるか?互いの呼吸をうかがっていた。

 「まあいい。どうせ行き先は判っておる。アモンの捕らえられている闇牢獄であろう。」
 「……」 嘲笑が男の顔に浮かぶ。皺だらけの老婆の顔は無表情のままであった。

 「サーザよ、いつまでも魔王様を騙し続けられると思うでないぞ。」
 「何のことだ?」 笑みが消え、目を細める。一気に緊張が高まった。老婆は杖を構え、ジッとサーザをにらみつける。

 「アモン様を『天と地の狭間』におびき出し、天使と出会うように仕向けたであろう。そして、生まれ出た子を『呪われし子』と噂を流した。更に、疑心暗鬼になられた魔王様をそそのかして、アモン様を捕らえさせ、子供たちを人間界へと追放させたのじゃ。」

 「ふん、魔天使が呪われし者と言うは、伝承にも残されておるわ。『光と闇を纏いし者、現れし時、天と地の境は崩壊し、天は闇に閉ざされ、地は光に溢るる。』つまり、あやつらは破滅の天使、天地を破壊する者たちなのだ。」
 「果たしてそうかな?その秘文の一説が、天界地獄界の破滅を現しておるとどうして言える?もしかすると、天界と地獄界の和合を現しておるやも知れぬぞ。」

 「天界と地獄界の和合だと?お婆、ボケたか?天界と地獄界は天地創造の時代より敵同士、和合など戯言にすぎぬわ!」 サーザはさもおかしげに大笑いをしながら消えて行く。ゾーラは無表情のまま突っ立っていた。

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◆第六話  幼竜誕生!◆

地獄の中央にそびえ立つ妖帝山、その頂上には漆黒の魔王宮が異彩を放っている。建物の中央の玉座には渋面の魔王ブラスが座していた。目の前には先程、地獄の外れに生じた悪魔ではない者の力について大臣が報告を告げている。
調査にでかけた者たちの報告によると、地獄狼に襲われ殺された翼竜と、狼たちの無惨な死骸の山があったと言う。爆発的な力の放出を示していると思われた。かなりの力を持った者の仕業に違いない。地獄にそのような力を持った者たちは多い。だが、その場に残留した力は悪魔のものとは異なっていた。悪魔の使う闇の力とは異なる光の力。だが、天使が地獄に侵入してきたとは考えられない。高貴で潔癖な天使は闇の力を汚らわしいものとして忌み嫌う。それに、闇の力が満ちている地獄会で光の力を源とする天使があのような爆発的な力を示せるとは思えなかった。

 「もしや、神が地獄にお出ましになられたのではありますまいか?」

 大臣が不安げに問う。しかし、魔王は黙したまま答えない。重苦しい沈黙が周囲の空気を凍らせていた。深く物思いに沈み込んでいた魔王の目がぎらりと光る。と、その時、玉座の脇に歪みが生じた。やがて姿を現す青年戦士。

 「ルークか?」
 「はっ。」 膝をつき、礼をとる戦士。親衛隊長ルークである。 「何事じゃ?」

 許しも乞わず突然現れた、親衛隊長に詰問する。大臣のもたらした報告で不機嫌な処へ、この無礼である。益々表情が険しく変化した。

 「実は、サーザ様の動きが不穏なのであります。何か良からぬことを企んでおられるやも知れぬと、ご報告に。」
 「サーザの?一体何を?」
 「判りませぬ。しかし、サーザ様の手の者らしき者共に襲撃されました。恐らくは、玉座を狙っての企みかと。」
 「ふん、やつめ、アモンを陥れただけでは物足りぬとみえる。わしの命でも狙おうと言うのか?」
 「いえ……まさかそこまでは……。恐らく狙いは、アモン様のお命かと……」
 「アモンの命?闇牢獄に押し込めただけでは不満だと言うのか?」

 「はっ、サーザ様にとって、アモン様は憎き敵。その上、玉座を得るための目の上のたんこぶでございます。例え、今は牢獄に繋がれておられようと、第一王位継承者でございます。いつなんどき、アモン様が立たれぬとは言えませぬ。それに、呪われし子を生んだと噂されようと、アモン様を慕う者たちは多くございます。それ故、サーザ様はアモン様が怖いのでありましょう。」

 「うむ……」 ブラスは腕組みをして目を閉じた。 「大臣」 不意に目を開いた魔王が大臣を呼ぶ。彼は驚いて顔を上げた。
 「先程の侵入者のことだが、アモンの子供たちではあるまいか?」
 「アモン様の子供たちですと?!まさか、人間界から舞い戻ってきたと言われるのですか?」 驚きのあまり大臣は驚愕の声を上げる。ルークは何のことか理解できずにポカンとブラスの顔を見つめていた。

 「実はルーク殿、地獄の外れで膨大な力を関知しましたのです。直ちに調査させましたところ、何と悪魔の発する力とは異なる力が残留しておったのです。悪魔の使う闇の力ではなく、光の力が……」

 大臣の言葉を聞いて、呆然と魔王を振り向く。ブラスは渋い顔でうなずいた。

 「たしかに、天使と悪魔の血を受け継いだ魔天使ならば、地獄においても、力を振るうことは可能でしょうが……。現在、魔天使姉弟は人間界に追放されておるはずでは……。」
 「舞い戻ってきたのかも知れぬ。」
 「まさか……?魔王様が大いなる慈悲を以て『悪魔に最も近い人間を見つければ悪魔と認め、地獄に棲むことを許してやる』と裁断をくだされたと言うのに、勝手に戻って参ったと言われるのですか?何と、恩知らずの子供たちでありましょうや……」

 ルークが呆れたように言った。

 「だがあり得ぬことではありませぬぞ。強大な力を持つとは言え、二人はいまだ幼い子供であります。父親が恋しくなって、地獄へ侵入してきたのかも知れませぬ。」

 大臣がしたり顔で答える。

 「それならばよいのだが……。魔天使の力に目をつけた奴らに利用されているのであれば、問題であるぞ。」
 「魔天使の力に目をつけた者に?もしや、サーザ様に?」
 「うむ」

 ブラスは小さくうなずく。途端、顔色を変える大臣と親衛隊長。もしも強大な力を内在させる魔天使がよからぬことを企む者たちに利用されれば、

 「光と闇を纏いし者、現れ師時、天と地の境は崩壊し、天は闇に閉ざされ、地は光に溢るる。」

 の、地獄界に伝わる叙情詩が実現してしまうかも知れないのである。魔天使の力は、魔王であるブラスにでさえ計り知れないものがあった。アモンの教育によって力を抑えているとはいえ、いつ爆発するか判らぬ危険で不安定な存在なのだ。そのために、地上界へ追放したと言ってもよい。表面は、サーザの進言を取り入れたように見せかけてはいた。

しかし、真意は他にあったのだ。魔天使たちが自分たちの力を完全にコントロールできるようになるまで、彼らの存在を悪意を持つ連中から隠蔽し、利用されないようにする。そのために、光と闇の力が抑制されてしまう人間界へと行かせたのであった。それなのに……舞い戻ってきたのか?苦悩の色が魔王の表情に現れていた。

 「もしも……」

 口重に大臣がしゃべり始める。ブラスは視線を向けた。

 「もしも、呪われし子、魔天使が地獄に侵入してきたとすれば、魔王様の命令を無視したことになりまする。これは重要な罪と言わざるをえませぬ。直ちに抹殺すべきでしょう。」

 大臣はブラスを見つめる。不安定な爆弾を放っておくわけにはいかない。それに、地獄の支配者である魔王ブラスの裁断を無視した罪もある。どちらにせよ放っておくわけにはいかなかった。

 「……」

 だが、地獄の支配者は沈黙したまま答えようとはしなかった。何を躊躇っているのか、表情には苦渋が満ちている。

 「魔王様、私に任せてはもらえませんか?」

 不意に親衛隊長が口を開く。何事かと視線を向けた。

 「実は、こちらへ参る時、奇妙な少年に出会ったのです。『ぼくのパパが何処にいるか知らない?名前はアモンって言うんだ。』と訪ねられたのであります。五才ぐらいの、黒猫を抱いた可愛い少年でございました。その時はまさかと思いましたが、もしや、その子がアモン様のお子ではと?」
 「……キラだ……。それに、黒猫と言うのは、ナナに違いない。やはり、地獄へきておったのか……。しかし、何故、わしを裏切るようなことを?あのまま人間界におれば、いつかは許してやろうと考えておったと言うに。馬鹿者が!」

 魔王の顔に怒りが現れる。同時に、緊張が走り、王宮中にいた全ての物が恐れをなして物陰へと隠れた。静まり返った室内を荒々しく歩き回るブラスを親衛隊長ルークは冷静に見つめていた。

 「行き先は判っております。闇牢獄でありましょう。父を捜しておりました故。間違いなくそちらへ向かったものと思われます。私にお任せくだされば、捕らえ、人間界へ追い返してみせましょう。」
 「殺さずにか?」
 「はい。多少傷つけることになるやも知れませんが……」
 「判った、頼む。しかし、もしも敵の手に渡るようであれば……」
 「抹殺しても?」
 「しかたあるまい。」
 「承知」

 ルークは一礼すると、現れた時と同様、空間を歪め、消えて行った。

 「ルーク、頼むぞ。」

 魔王は玉座に腰を下ろすと、静かに目を閉じた。


 その頃、キラとナナはひたすら地獄の最下層に向かって走り続けていた。老乳母、ゾーラにもらった服は実にピッタリと身体に纏い、快適である。特にブーツは、ゴツゴツとした地面に傷つけられることもない。いやむしろ、荒々しい地面を滑るような滑らかさで走ることができた。それ故に彼らの進行はかなり早いスピードに変わっていた。

 「ナナ、ちょっと待って。」

 後ろから走っていたキラが不意に言う。足を止め、振り返ると、座り込んで何やら服の中を覗き込んでいる。首をかしげ、近づいた。まさかまた、傷口が開いたのではなかろうか?

 「どうしたんだい?まさか、また……?」
 「違うよ。今、こいつが動いたんだよ。」

 そう言いながら、懐から卵を取り出す。あの翼竜から預かった卵である。

 「あんた、これ生まれるんだよ。ほら、ヒビが入ってる。」
 「えっ?生まれるの?」
 「ああ、もうすぐだよ。」
 「そっかーっ、生まれるのか……。」

 キラは嬉しそうに卵に頬ずりをする。ヒビは見る間に広がって行く。そして、ポコッと殻が弾けた。

 「ミュー」

 続いて穴から幼体の翼竜が顔を出す。ツルツルの皮膚を持った大きな頭、その中央には大きな緑色の目がクルクルと落ち着き無く動いている。背中にはまだしわくちゃの翼がちょこんと生えていた。ぎこちなく手足を動かし、殻から出ようともがく。そして、コロリと転がった卵からジタバタと這い出すと、大きく背伸びをした。大気に触れると、しわくちゃの翼が徐々に伸びて行き、立派な翼へと変化した。ツルツルの肌も、大気に触れた途端、淡い黄色から、緑色へと変化する。幼竜は始めて見る外の世界を不安そうに見回す。やがて目に飛び込む自分を見つめる顔を発見して、その胸へ飛び込んで行った。

 「ミューミュー」

 竜はキラの懐へ飛び込むと、甘えるような声を出した。

 「ふふ、そいつ、あんたを親だと思ったようだね。」

 ナナが目を細めて苦笑した。

 「えへへ、こいつ可愛いなあ。」

 キラは腕の中でチョロチョロと動き回る幼竜の頭を撫でてやった。赤い舌で顔や手足を舐めるに任せ、嬉しそうに笑っている。

 「その子の名前を考えないといけないよ。いつまでも、こいつじゃあ可哀想だからね。」
 「名前は考えてるよ。チビさ。」
 「チビって……。あんたねえ、こいつは翼竜の子供なんだよ。すぐにあんたよりも大きくなっちまうんだ。」
 「そうか……。じゃあ、ツル兵衛は?ほら、こいつの皮膚、ツルツルだろう?」
 「皮膚がツルツルなのは、生まれて三日ぐらいだよ。すぐに硬い鱗に変わるんだよ。ったく、ろくな名前を思いつかないんだから……」

 ナナは呆れて腰に手を当てて、弟を見つめる。

 「エリオス」

  不意に頭の中へ声が響く。キラは驚いて辺りを見回すが、ナナ以外に誰も姿も見えなかった。

 「どうかしたのかい?」

 妙にそわそわしている弟に不信を抱いたナナが尋ねる。

 「今、誰かがエリオスって言ったんだ。ナナじゃないよね?」
 「はん?あんた、何言ってんの?」

 呆れたようにキラを見つめる。だが、彼はそんなこと貴にも止めない様子で、相変わらずキョロキョロと辺りを見回していた。

 「まさか、お前じゃないよねえ?」

 ふと気づいて、幼竜に問う。だが、竜はキョトンと見つめ返すだけであった。

 「何馬鹿なことを言っているんだよ。竜がしゃべるはずないだろう。」
 「……そうだけど……」

 キラはいまだ何か不服そうであったが、何も言わなかった。

 「そんなことより、エリオスってのは良い名だよ。そいつにピッタリだ。」
 「うん、そうだね。よーし、お前はエリオスだ。いいか、エ・リ・オ・スだぞ。エリオス。」
 「ミュー」

 エリオスはチョロチョロとキラの肩に駆け上がると、ヘロペロと顔を舐め回した。

 「うふふ、エリオス、くすぐったいよ。やめなよ。」

 目を細め、竜の頭を撫でる。柔らかな舌の感触がなんとも気持ちがいい。

 「これをやりな。そうすれば、エリオスは、もうあんたからしか餌を食べなくなる。」

 ナナが干し肉を差し出す。それを受け取り、竜の子の目の前にちらつかせた。エリオスは二、三度鼻をひくひくさせて匂っていたが、パクリと食いついた。

 「おいしい?」
 「ミュー!」

 エリオスは満足げに舌なめずりをする。

 「じゃあ、出発しようか。」
 「うん」

 二人は再び走り始める。目的地はまだ遠い。遙か地獄の最下層。闇牢獄だ。一刻も早く父に会い、天国で待っている瀕死の母を助けなくてはならないのだ。


 魔王宮に隣接する暗黒宮では、魔王ブラスの甥であり、アモンに次ぐ王位継承者であるサーザがいらいらと部屋の中を歩き回っていた。第一継承者である従兄弟を策略によって見事に陥れ、王位はほぼ確実に彼のものになったはずである。だが、落ち着かなかった。アモンが生きている限り、油断はできない。天使と交わり、忌まわしき魔天使を生んだと弾劾し、闇牢獄に閉じこめたと言うのに……心は安ずるどころか、益々不安にかられた。

原因は判っている。アモンの子供たちだ。光と闇の二つの力を秘めた存在。如何なる力を持っているのか計り知れない。もしも、彼らがアモンと出会い、その力を父の復讐へと向けたら……。魔界一の勇者と呼ばれたアモン、そして計り知れない力を持った魔天使姉弟。彼らが反撃に転じれば……。

 「うーっ」

 サーザはブルッと身体を振るわせた。凍てつくような恐怖で胃の腑が締め付けられるように痛む。早く、姉弟を始末しなくては。なんとしても、父親に会わせることはできない。彼らがアモンに出会う前に殺してしまおう。

 「ゴールズ!」

 決心が固まると、サーザは腹心の部下の名を読んだ。直ちに巨躯が目の前に現れる。漆黒の鎧に逞しいい身体を包んだ、双角の戦士であった。銀の頭髪、黄色く光る双眼と額に閉じられた第三のめ。長く鋭い二つの牙が見る者に畏怖を与えずにはおかなかった。

 「お呼びでありましょうか?」

 平服したまま戦士が問う。サーザは口の端で皮肉な笑みを浮かべたまま部下を見た。この男ならば、間違いなく姉弟を殺してくれるに違いない。アモンに勝るとも劣らぬ戦士ゴールズならば、二人の子供など一ひねりりであろう。如何に魔天使といえど、いまだ己の本当の力に目覚めぬ子供だ。巨躯の戦士の手で締め上げれば、頭など林檎を砕くよりも簡単に潰されてしまうであろう。

 「ゴールズよ、アモンの子供たちが地獄へ舞い戻った。悪魔と天使の血を受け継ぐ忌み子である。奴らは地獄界に仇なす呪われし者共だ。直ちに見つけ出し、抹殺せよ。」
 「はあ……?」

 驚きの目で主人を見つめる。アモンの子供たちの噂は聞いている。一人は十二、三才の小娘、もう一人は五才ぐらいの幼児だ。そんな幼い子供を始末するのに、自分のような戦士を選ぶとは……。

 「不服か?たかが、子供二人を始末するなど、一流の戦士のすることではないと?そのような使命、己の名が汚れると思うてか?」
 「恐れながら。」

 ゴールズは深く頭を垂れる。

 「ならば、殺す必要はない。生きたまま連れて戻れ。それならば不満はあるまい。」
 「はっ。それならば。」

 戦士は安堵の表情に変わった。子供を連れて戻るだけならば、戦士としての名誉は傷つくことはない。そのような命令は容易いことであった。

 「ならば、早々に使命を果たせ!」
 「承知。」

 戦士の姿は、現れた時と同様瞬時にかき消える。そして、次の瞬間、窓の外を最下層に向かって飛ぶ、翼竜の姿がある。もちろん、その背には戦士ゴールずの姿があった。

 「ふむ……。ゴールズめ、戦士の名誉など気にしおって……。」

 飛び去って行く翼竜の後ろ姿を忌々しげに見つめる。戦士ではないサーザにとって、戦士の名誉など無駄なことにしか思えないのだ。地獄で生き残るには、策略を巡らせ、敵を失墜させることが当然なのだ。敵の弱みを捕らえ、そこを攻撃する。将来、手強い敵になりそうな者は、そうなる前に始末する。相手が弱い間に殺す。弱き者に情けをかけて、後々に遺恨を残してはならない。戦士の名誉などくそ食らえだ。

 「シュール!」

 サーザはもう一人の腹心の名を呼んだ。

 「私ならばここに。」

 背後から声がする。頭を巡らせ、柱の蔭へ視線を向けた。と、一人の男が現れる。ゴールズに比べると、格段に体格の劣る男であった。長身ではあるが、細い体躯、長い手足、白銀の髪は腰まで伸びている。切れ長の瞳の奥では薄紫の光彩が光っていた。恐らく美男の部類には入るのであろう顔には酷薄な笑みが浮かんでいた。

 「失礼ながらお話は全てお聞きしておりました。」

 女性を思わせる夕がな仕草で礼を取る。サーザは満足げにうなずいた。油断のならない男ではあるが、この男の方がはるかに理解ができる。策略を巡らせ、敵をとことん追い詰める。敵が苦悩すればする程、喜びは大きい。特に謀略を重ね、信じていた人間に裏切られたと知った時の恨みと憎しみに満ちた顔を見るのが、この上もない快楽でああると公言するシュールは、サーザと同種の悪魔であった。

 「では命ずる。」
 「判っておりまする。ゴールズ殿では心許ない。私に魔天使姉弟を始末するようにと、でございましょう。」
 「うむ。」

 サーザはニヤリと笑ってうなずく。抜け目のない男であるが、彼を満足させた。この男ならば、ありとあらゆる手を使ってでも、魔天使たちを追い詰めるであろう。

 魔王ブラスの思惑と、宿敵サーザの陰謀。何も知らぬ兄弟は、ただ地獄の最下層へと足を進めていた。

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◆第七話  毒蜘蛛ドクランテス!◆

最下層に近づくにつれ、地獄界の空は暗く、のしかかるように重い暗雲が垂れ込めてくるようであった。大気も湿気を含み、身体にまとわりついてくる。足下には奇妙な蔓状の草が生えて、行く手を遮ろうとしていた。ナナが、老乳母ゾーラからもらった服のベルトに仕込まれていたナイフで蔓を薙払いながら道を造って行く。その後から、翼竜の子、エリオスを肩に載せたキラが続いていた。
魔力を使えば簡単なのであろうが、無闇に使うことは躊躇われる。彼らの力は闇と光両方の力であるため、追放の身である彼らが使えば、すぐに地獄の者たちに存在を気づかれてしまう。そうなれば、追い詰められ、父に会うことが困難になってしまうのだ。瀕死の重傷の母を助けるため、一刻も早く父に会わなくてはならない彼らにとっては、それは望ましいことではない。それ故、苦しくとも手で蔓草をを薙払いながら進まなくてはならなかったのだ。

 「ミューッ!」

 不意にエリオスが鳴き声を上げる。チラリと横目で見ると、何かに怯えているかのように身体を緊張させていた。

 「どうかしたのかい?」

 ナナが急に立ち止まった弟を訝しげに振り返る。

 「うん……」 生返事で答えが換えってきた。心ここにあらずと言った風である。きょろきょろと辺りを見回し、落ち着きがない。

 ガサッ!

 横の蔓草が大きく揺らぎ、何かが飛び出してきた。ハッと身構える。途端、そいつの腕がナナの首筋に襲いかかった。ギラリと光る鎌状の手だ。細い女の子の首など、一振りで断ち切られてしまうに違いない。

 「ナナ!」

 キラの絶叫が草地に轟く。

 「はあーっ!」

 鎌が首を断ち切らんとした瞬間、ナナが気合いと共にナイフで受け止めた。だが、勢いがついていた相手の鎌に跳ね飛ばされ、草むらに転がる。少女の身体は仰向けに倒れた。敵は獲物を逃すまいと、身体を蔓草の中から大きく現す。巨大な鎌を持ったカマキリのような化け物であった。三角形の頭部には赤く光る複眼が光っている。口の両側からは三日月状の牙が左右に動いていた。

 「キキキキキーッ!」

 鳴き声とも、悲鳴ともつかない声を発し、カマキリは巨大な鎌をナナに向かって振り下ろす。それをかろうじて逃れる。だが、攻撃は容赦なく続けられた。

 「ナナ!」

 姉の危機を察したキラが、懐から白い羽を取り出した。母の風切り羽だ。羽は手に握られた途端、七色に輝く剣へと変化する。いまだ敵を倒すために使ったことはなかったが、何としても姉を助けたい。必死の思いで剣を振りかぶった。

 「キラ、逃げな!こいつは手強いよ!」

 攻撃を避けながら、やっと立ち上がったナナが叫ぶ。しかし、彼女も、鎌を避けるのが精一杯だ。巨大な体に似合わず、カマキリの動きは鋭い。一閃ごとに追い詰められて行くようであった。

 「ナナを殺させるもんかーっ!」

 だが、キラの耳には入らなかった。剣をカマキリの胴に突き立てる。堅い甲をものともせず、刃は深くめり込んだ。ドロリとした青い体液が流れ出す。

 「キイイイイーッ!」

 カマキリの絶叫が起こる。続いて、ナナに向かっていた鎌の方向がキラに向かって振り下ろされた。剣で鎌を受け止めようと振り上げる。鎌と剣が激突した。弟が跳ね飛ばされるのを予想したナナが目を伏せる。

 「グエエエーッ!」

 絶叫が起こる。思わず顔を上げたナナの目に飛び込んだのは、呆然と立ち尽くすキラの姿と、片方の鎌を失ったカマキリの姿であった。ナナがナイフで受け止めた時には、堅い鎌に弾き飛ばされたと言うのに……。逆にカマキリの鎌が断ち切られていたのである。

 「キイイイーッ!」

 片腕を失ったカマキリは怒りに燃え、もう片方の鎌を少年に向かって振り下ろす。我に返ったキラがそれを受け止める。サラリと音も立てず鎌が断ち切れた。何と言う切れ味の剣であろうか?ナナは唖然と立ち尽くしていた。両方の鎌を失ったカマキリはバランスを崩して、地面に倒れる。

 「ミューッ!」

 エリオスがキラの肩を離れ、カマキリに近づいて行く。ギラリと光る目が小竜をにらむ。だが、臆することなく駆け寄ると、首筋に噛みついた。ガリガリと堅い甲を噛み砕く音がしたと思うと、ポロリと頭が地面に落ちた。

 「ミューッ!」

 幼竜は誇らしげにキラを見つめる。共同の敵を倒して、誉めてくれと言いたげであった。

 「馬鹿、エリオス!何も殺すことなんて……」

 キラが思わず怒鳴る。だが、ナナがそれを制正した。

 「こんな地獄で、武器を失ったんだ。殺してやった方が慈悲だよ。どうせ、あたいたちが殺さなくても、他の獣にやられるんだ。」
 「……」

 ナナにたしなめられ、キラはうなずいた。下手な同情は苦しみを長引かせるだけなのだ。悲しくとも、それが地獄の掟であった。

 「ごめんよ、エリオス。よくやった」

 誉められると思っていたのに、叱られてションボリしていたエリオスに優しく手をさしのべる。ビクリと身体を振るわせた幼竜は、クルリと背を向けて草むらの中へと駆け込んだ。

 「あっ、待てよ。エリオス、ぼくが悪かったって!」

 慌てて追いかけるが、竜の足は早く、見る間に見失ってしまう。一体何処へ?キョロキョロと辺りを見回した。しかし、背の高い草の海の中へ隠れてしまって姿が全く見えない。

 「エリオス、出ておいで。もう怒ってなんかいないからーっ!」

 大声で草むらに向かって叫ぶ。だが、返事はない。

 「ごめんよ、せっかく手伝ってくれたのに、怒ったりして。ぼくが悪かったよ。出てきてよーっ!」

 しかし、やはり返事はなかった。相手は生まれたばかりの幼竜なのに、怒鳴ったりしたから……。もしかしたら、もう戻ってこないかも知れない。そう思うと、居ても立ってもいられなくなって、夢中で草むらの中を探し回った。あんな幼い竜の赤ん坊一匹、地獄で生きて行けるはずない。瀕死の母竜に頼まれた大切な預かりものなのに、もしものことがあったら……。不安が心の中でドンドンと大きくなって行った。

 「キラ、もう諦めなよ。そんなことより、早くパパに会いに行かなくてはいけないんだよ。それに、あいつは赤ん坊とは言え、翼竜の子だ、そんなに簡単にやられはしないさ。ほら、さっきだって、カマキリの首を噛み切ったじゃないか。大丈夫、あいつは一人でも生きて行けるよ。」
 「そんなーっ、エリオスはいまだ赤ちゃんなんだよ。一人で生きて行けるわけないじゃないかーっ!」

 慰めようと肩に置いたナナの手を振りほどくと、キラは再び草むらの中を探し始めた。剣で草を薙ぎ払い、無茶苦茶に進む。断ち切られた草が宙を舞う。その中を猛然とキラは進んだ。

 「ミュー」

 不意にエリオスの鳴き声が聞こえた。何処だ?キラは立ち止まり、声のした方角を確かめる。

 「ミューッ!」

 再び、エリオスの鳴き声。だが、今度のは絶叫に近かった。思わず、その方向へと駆け出す。母竜から預かった卵から生まれた、赤ん坊なのに……。何かあったら……

 「エリオスーッ!」

 無我夢中で草を薙ぎ払い、駆け出す。足下に絡みつく蔓草が煩わしく、行く手を妨げる。焦る気持ちがかえって足を絡ませたのか、勢い余っ転んでしまう。

 「エリオスーッ!」

 叫びながら跳ね起きる。その時、何かが頭上を駆け抜けた。思わずそちらへ視線を投げる。白い大きな羽が目に飛び込んできた。鳥?いや、その羽は薄く、大きい。まるで蝶の羽のようであった。四枚の羽の中央にはほっそりとした姿態の美しい女性の姿。黄金に輝く長い髪、大きく紅の瞳、真珠色の唇。薄い絹のような布に隠された胸の谷間には青く輝く宝飾の首飾りが光っていた。

 「妖精?」

 キラが呆然と見つめる。それは、初めて見る妖精の姿であった。

 「助けてください。」

 妖精が蚊の鳴くような小さな声で言った。顔は恐怖に怯え、手足は小刻みに震えている。

 「ミューッ!」

 続いてエリオスが飛び出してきた。まさか、エリオスが妖精を襲ったのか?

 ザザザザザーッ!

 が、次の瞬間、何かが草むらから姿を現した。また、カマキリだろうか?キラは剣を構え直す。時を同じくして、巨大な毛むくじゃらの前脚が襲ってきた。何だ?思わず飛び退く。刹那、今までキラが立っていた場所へ落ちてくる。危機一髪であった。冷や汗が背筋を流れる。

 シュルルルルーッ!

 だが、安心するのはいまだ早かった。透明に近い白い糸が上空から襲ってきたのである。粘つく糸が少年の左腕に絡む。慌てて断ち切ろうと腕を振るが、細いにも関わらず、振り切ることができなかった。剣で断ち切らなくては。手に力を込め、剣を振り上げる。しかし、そこへ次の糸が絡みついた。左右の腕を絡め取られ、身動きができない。焦る気持ちが事態を悪い方へと向かわせた。じたばたともがく間に、糸が体中に巻きついて行くのである。

 「キラ!」

 追いついてきたナナが叫び声をあげた。もうほとんどがんじがらめになっている。早く糸を断ち切らなくては。ナイフを振りかざし、飛ぶ。落ちて行く勢いで、数本を断ち切った。着地し、間髪を入れず、残りの糸を切断する。途端、束縛を逃れたキラが地面に転がった。弟を庇い、敵をにらみつける。上空に巨大な顔が見えた。真っ黒な剛毛に包まれた顔面、黄色い目玉が獲物をねらって光っていた。胴からは八本の足が生えている。蜘蛛か?似てはいるが、巨大過ぎる。それに、糸は奴の口から吐き出されていた。 「何て化け物

なのよーっ!?」 ナナが思わずつぶやいた。

 「ドクランテスです。草原で最も貪欲な生き物。見つけた獲物を吐き出す糸でがんじがらめにして、生き血を吸う化け物なんです。」

 空中に浮かんでいた妖精が言う。

 「ドクランテス?ぴったりの名前ね。であなたは?」

 用心深く巨大蜘蛛をにらみながら、ナナが訊く。その間にも、吐き出された糸が手足に絡みつこうとするのを、ナイフで払っていた。しかし、全ての糸を避けることは不可能である。徐々に動きを封じられて行った。

 「ナナ、伏せて!」

 ようやく、剣で糸を断ち切り、束縛から逃れ出たキラが叫ぶ。思わず振り返ると、印を結び、魔力を発動させようとしていた。

 「キラ、だめ!魔力を使うと、あたいたちがここにいることが知れてしまう。」
 「でも……」

 一瞬、躊躇うキラ。しかし、他に何か方法があると言うのか?焦りが少年の顔に浮かぶ。

 「ドクランテすの急所は眉間の中央です。あそこを剣でさせば……」

 二人の逡巡を悟った妖精が蜘蛛の額を指さす。

 「ああーっ!」 途端、妖精の存在を煩わしく感じた蜘蛛の糸が襲う。妖精は糸にからめ取られ、地面へと落下した。

 「大丈夫?」 駆け寄ったキラが糸を切断して、妖精に訪ねた。が、間近で彼女の顔を見た少年の顔が驚きに凍り付く。

 「ママ……?」 遠くで見た時は気づかなかったが、紅の瞳を除くと、なんと彼らの母にそっくりであった。

  「キラ、気をつけな!蜘蛛はあんたたちを狙っているよ。」

 ナナの声に思わず振り返る。刹那、無数の糸が頭上から降り注いだ。キラは咄嗟に妖精を庇い剣を振るう。糸の雨は、剣を一閃するごとに淡雪のように消えて行く。七色の光が渦を巻き、夢幻の美しさを作り出していた。妖精は恐怖も忘れて、少年の剣の舞を見つめている。

 「キーッ!」 いくら糸を吐きかけても一向にらちがあかない。苛立ったドクランテスが怒りの叫び声を上げて巨大な節足を振り下ろしてきた。真っ黒な剛毛の生えた手が少年の小さな身体を跳ね飛ばそうとする。それを剣で受け止めようと構えた。蜘蛛の手が剣に触れた途端、サラリと切断した。ドロリとした体液が断面から吹き出し、グラリと化け物の身体が崩れる。

 「すっ、凄い……」 背後にいた妖精が驚嘆の声を上げる。先ほどのカマキリとの闘いで剣の切れ味を体験していたキラ自信も、あまりの切れ味に一瞬、呆然となった。しかし、油断はできない。脚を切られた蜘蛛は怒り狂い、猛然と向かってきた。糸を滅茶苦茶に吐き、残った七本の脚で踏み潰そうと突進してくる。巨大な口を開き、飲み込もうと迫る。左右に動く半月様の牙がカチカチと打ち鳴らされ、覆い被さってきた。

 「キラーッ!」 ナナがナイフを投げる。それは銀色の閃光を残し、一直線に怪物の複眼に突き刺さった。ドロリとした半透明の液体が流れ出る。蜘蛛は仰け反り、今自分を襲った相手を残された複眼でにらみつけた。ざわざわと黒い剛毛が逆立ち、憎しみをはらんだ臭い息が口から吐き出される。

 「カーッ!」 と、何かを吐き出した。思わず避けるナナ。

 ジューッ!

 地面から強い刺激臭と共に白い煙が上がった。今までナナが立っていた場所である。蜘蛛が吐き出したのは、強い酸を含んだ唾液だったのだ。

 「カーッ!カーッ!カーッ!」

 次々に吐き出される唾液が地面を黒く焦がして行く。ナナは辛うじて直撃を避けてはいたが、飛沫が肩や腕の露出した場所にかかり、小さな火傷を作っていた。手強い敵。魔力を使うしかないかも知れない。ナナの脳裏に、つい弱気な考えが浮かぶ。

 「ミューッ!」 不意にエリオスの鳴き声が聞こえた。何ごとか起こったのだろうか?気になる、しかし、巨大蜘蛛に間髪を入れず攻撃されては、そちらを見ることもできない。

 「ナナ、遠くへ飛んでーっ!」

 続いてキラの声。何事だ?しかし、声は上から聞こえたような……?降り注ぐ唾液の雨を避けながら、ナナは上を振り仰いだ。

 「なっ……?」 空中に弟の姿を発見して、ナナは凝然と立ち尽くした。何と、幼竜であるエリオスの足に片手でつかまり、キラが空をヨロヨロと飛んでいたのである。いくらエリオスが翼竜だとは言え、まだ生まれたばかりの赤ん坊なのだ。恐らくは、自分自身が飛ぶだけで精一杯のはずなのに、懸命に少年を抱えて飛んでいたのである。

 「何って馬鹿なことを?そんな格好でフラフラ飛んでいたら、蜘蛛の格好の餌食じゃないのよーっ!」

 ナナが絶叫する。だが、キラは全く頓着せずに化け物の頭の上へと飛んで行く。

 「あっ!」 握っていたキラの手がエリオスの足から離れた。手が滑ったのか?小さな身体は一直線に蜘蛛の頭へと落下して行く。ぐるりと巨大な頭が上を見た。口を大きく開き、少年を待ちかまえる。もうだめ!ナナは思わず目を閉じた。

 「キエエエーッ!」

 化け物蜘蛛の叫び声。それは獲物を得た勝利の雄叫びか?恐る恐る目を開く。そこには無惨に引き裂かれたキラの死体が……

 「キラ……」 目を開いたナナが息を呑んだ。

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◆第八話  風の妖精!◆

 化け物蜘蛛は自分の目をナイフで貫いたナナに激怒した。糸を吐き、強酸の唾液で焼き尽くそうと迫ってくる。かろうじて逃れてはいるが、いつ敵に倒されるか……。何としても姉を助けなければ。キラは剣を持ち直し、敵の動きを見つめていた。だが、敵の急所は額の中央。如何にしてあそこへ剣を打ち立てるか……?
 「ミューッ!」 不意に、頭上でエリオスの声。驚いて振り仰ぐと、翼竜の姿がそこにあった。まだ生まれて間もない幼竜であるが、懸命に空を飛んでいる。

 「エリオス、飛べるようになったのか……」

 驚きが少年の顔に浮かぶ。まだ生まれて二日と経っていないと言うのに、もう空を飛べるようになっているとは……。やはり、地獄のような危魔境で生き残るためには、このように早い成長を遂げなくては生きては行けないと言うことなのかも知れない。エリオスは何か言いたげに頭上を盛んに回っていた。何が言いたいのか、すぐには理解できなかった。

 「ミューッ!ミューッ!」

 再びもどかしげに竜が鳴く。そして、自分の足に掴まれといわんばかりに、目の前でバタつかせていた。

 「まさか、お前、ぼくを空に引き上げると言うのか?」
 「ミューッ!」
 「無理だよ。だって、お前はまだ赤ん坊じゃないか。自分一人が飛ぶのだってやっとのくせに、ぼくを引き上げるなんて……」
 「ミューッ!」

 エリオスが不服下に鳴く。自分だって、一人前に役立つんだぞと言っているようだ。

 「よしっ、判った。ぼくをあいつの上へ連れてって。」

 キラは片手で剣を掴み、片手でエリオスの足を掴んだ。翼竜は懸命に翼をバタつかせる。しかし、なかなか浮かび上がることができない。やはり、幼竜では無理なのか?諦めて手を離そうとした瞬間、フワリと身体が宙に浮いた。それは飛ぶと言うよりは、やっと浮かんでいるだけと言った状態であった。ともすれば、ガクンと落ちそうになる。それを懸命の羽ばたきで持ち直す。フラフラと宙を飛び、やっと蜘蛛の頭の真上にたどりつく。

 「ナナ、遠くへ飛んで!」

 キラが叫ぶ。蜘蛛の攻撃を避けて逃げまどっていたナナが視線を向けた。

 「何て馬鹿なことを……」 驚愕が姉の顔に浮かんだ。だが、キラには勝算があった。敵の急所は額の中央。この高さまで上がることができれば、そこを狙うことが可能だ。十分に高さを得たと思った瞬間、エリオスの足から手を離した。落下が始まる。剣を逆手に持ち替え、思いっきり振り上げる。

 「化け物め、覚悟しろ!」

 グングンと迫る巨大な顔、ギョロリと無事な方の複眼がキラをにらんだ。小うるさい小僧がとでも言うように顔を上げた。まさに、敵の眉間がガラ空きになる。絶好のチャンスだ。キラは思いっきり剣を叩きつけた。

 「キエエーッ!」 怪物の絶叫が迸り出る。眉間に突き立てられた剣に掴まっているキラは更に深く突き立てようと、力を込めた。ズブリとめり込んだ剣の感触。蜘蛛は苦痛のため、頭を強く左右に振る。キラは振り落とされまいと、必死に剣にしがみついた。傷口から緑色の体液が流れ出て、剣を持っている手が滑りそうになる。それを懸命にこらえ、更に深く押し込めた。

 「ガーッ!」 蜘蛛の口からも緑色の液体が吐き出され、頭がガクンと地上に落ちる。衝撃で眉間に突き立てられていた剣が抜けた。

 「うわあーっ!」

 小さな少年の身体は勢い余って空中へと投げ出される。そして、ドサリと蔓の海へと落下した。

 「キラ?」 ナナが慌てて駆け寄る。

 「痛っ……」

 だが、キラは顔を顰めながらも、一人で立ち上がった。

 「もう、馬鹿!何て無茶をするのよーっ!」

 無事な姿を見て、思わず涙ぐんでしまう。それを腕で荒っぽく拭うと、小さな身体を抱きしめる。自分の半分ぐらいしかない背の高さなのに、どこにあんな勇気が潜められているのだろう。本当に心配ばかりかけるやんちゃな弟……。でも、大切な弟……。

 「あれっ、ナナ、泣いてるの?」
 「ばっ、馬鹿ーっ!誰があんたのために涙なんか流すかよーっ!目にゴミが入っただけだよ。」

 プイと横を向き、荒々しくキラの身体を突き放そうとする。だが、ギュッと抱きついたまま彼は離れなかった。まるで子猫のように頭を擦りつける。

 「うっとうしいわねえ、離れなよ。」
 「ナナ……ぼく、疲れたのかなあ、眠い……よ……」

 邪険に振り払おうとする手が止まり、弟の顔を見つめる。何て幸せそうな顔。瞼を閉じ、うとうとと居眠りを初めていた。そう言えば、先を急ぐあまり、ろくに休息もとらずにいた。その疲れが出たのかも知れない。ナナはため息をつき、ゆっくりと少年の身体を膝に乗せた。

 ガサッ! 不意に、脇の草が揺らいだ。まさか、まだ蜘蛛が?思わず身構えた。だが、現れたのは白い蝶の羽を背負った妖精であった。先ほど、化け蜘蛛から守ってやった礼を言いにきたのであろう。が、その顔を見て息を呑んだ。中央に輝く紅の瞳を除いて、母、フレアにうり二つなのだ。動揺が走り、ナナの動きを停止させてしまった。

 「その子を!」
 「えっ?」

 油断していたナナの膝の上から、妖精がキラの身体を抱き上げた。一体何を?唖然と相手を見つめる。だが、妖精はキラを抱いたまま空中へと舞い上がった。

 「あんた、キラをどうする気だい?お返し!この恩知らず!」

 ナナが怒鳴る。しかし、何も応えず、飛び去って行く。そこまできた時、初めて気づく。地獄には父、アモンを快く思わない敵が存在するのだ。妖精は、そんな敵の回し者だったのだ。

 「エリオス、キラを追いかけるんだよ!」
 「ミューッ!」

 翼竜が懸命に翼を羽ばたかせて追跡を開始した。ナナも、地上を駆け、後を追う。だが、ドンドんと引き離されて行った。こんな地獄で離ればなれになってしまえば、二度と会えなくなってしまうかも知れない。それに、今の彼らには使命がある。一刻も早く父を闇牢獄から救いだし、母を助けなくてはならないのだ。何と言う迂闊。いくら母に似ていたからと言って、地獄の住人に気を許すなんて……。後悔と口惜しさで頭の中が一杯になった。しかし、キラを抱いた妖精の姿はドンドンと小さくなって行く。このままでは、見失ってしまう。

 「こうなったら、しかたがないわ。」

 ナナは舌打ちをすると、自身の姿をコウモリへと変じる。できれば魔力を使いたくはなかったのだが、キラの身の方が心配だ。悠長に地上を走って追いかけている場合ではなかった。

 キラを連れ去った妖精は高く舞い上がると、下界を見回す。大きく広がる蔓草の原、遠くには黒い岩肌を露出させた岩山が高い塀のように立ちふさがっていた。あの山を越えた所が闇牢獄の存在する地獄の最下層であった。だが、そんな山々には目もくれず、せわしげに視線を彷徨わせている。やがて、草原の一部に目を留めた。上空からはよく判らないが、何やら煌めいている。彼女は口元に笑みを浮かべた。

 「待ちなさい、あんた。キラをお返し!」

 不意に声がする。コウモリに返信したナナが追いついてきたのである。妖精はチラリと一瞥した。だが、何も応えず急降下して行く。逃げる気か?ナナも続いて急降下する。グングンと地上が迫ってくる。妖精は先ほど視線が捕らえた煌めきへと落下して行くようだ。近づくにつれ、それが草原の中に流れる小川だと言うことが判ってきた。一体何をする気なのであろう?

 バシャーッ! 水飛沫が上がり、キラもろとも妖精が小川に飛び込んだ。

 「キラーッ!?」 水面で停正したナナが叫ぶ。二人の姿はあぶくの中へ消えてしまっている。まさか、そのまま沈んでしまったのか?水に潜って探すべきか、このまま浮かび上がってくるのを待つべきか……。ナナは一瞬迷った。が、待つ程もなく、水飛沫が上がって妖精の頭が水面に浮かぶ。キラも腕に抱かれたままだ。

 「一体何の真似だよ?!早く弟を……」

 バシャーッ! ナナが怒鳴ろうとした。だが、言葉が終わらない間に、妖精に水をかぶせられる。

 「なっ、何を……」
 「早く、あなたも身体を洗いなさい。さもないと、この子みたいに眠り込んでしまうわよ。」
 「え?」

 ナナが目を大きく見開いて、妖精を見る。

 「ドクランテスの体液は猛毒なのよ。グズグズしていたら、身体が痺れて眠ってしまい、最後には死んでしまうのよ。知らないの?あなたも、ドクランテスの体液が付着してるわ。早く洗いなさい!」
 「はっ、はい!」

 強い口調で命ずる妖精の言葉に、ナナは思わず従っていた。肩や腕、足に付着している緑色の液体を懸命に水で洗い始める。妖精はそれを一別すると、自分は腕の中でグッタリとなっている少年の顔や頭を水で流し始めた。


 暗雲の中を最下層に向かって飛ぶ翼竜の背で、双角の戦士はピクリと眉を動かせた。今、かすかではあるが、魔の物ではない、何か異質な力を感じたのである。もしや、これがサーザの言っていた魔天使の力なのかも知れない。闇の物とも、光の物とも異なる、異質な力であった。

 「ユリシーズ、降りろ。この当たりだ。」

 魔戦士、ゴールズは翼竜に命令し、地上へと向かわせた。以外に早く見つけることができるかも知れない。サーザは殺せと命じたが、捕らえるだけでもよいと言った。早々に魔天使姉弟を捕らえ、任務を終わらせたかった。

 「呪われし者たち」 とは言え、まだ子供。簡単な使命である。だが気分は晴れない。例え彼が殺さずとも、サーザの前に連れて行けば、子供たちの運命は知れている。そんな役割は、戦士としての彼には耐え難いものであった。強い戦士が相手であれば、例え殺されようと、何の悔いもない。しかし、相手は子供。手柄になろうと、サーザに誉められようと、自尊心が許さないのだ。

 「だがやらねばなるまい。主の命令だからな。」

 唇を噛み、戦士はつぶやいた。眼下には一杯に広がる蔓草の草原がある。その何処かに子供たちは隠れているのであろう。額に閉じている第三の眼をカッと見開き、草原を見渡した。

 朦朧とした意識の中、キラは夢を見ていた。美しい花園の中、フワフワと飛ぶように走っている。なんて気持ちがいいのだろう。暖かくて、いい香が漂っていた。美しい蝶や小鳥たちが舞遊ぶ、そこはまるで天国のようであった。

 「ああっ、天国ならば、ママがいるはず。」

 キラは知らず知らずに母の姿を探し求めていた。

 「ママ、ママ、ママ……」

 大声で母の名を呼び、花園の中を走り回る。きれいな花びらが宙を舞い、七色の虹を作った。そして、虹の向こう側に人の姿。あれは誰?黄金の髪、純白の翼を背負った美しい女性が静かにうつむいていた。

 「ママ?」 キラが叫ぶ。彼女はゆっくりと顔を上げ、少年の呼びかけに応えた。伏せられていた瞼が押し上げられると、エメラルド・グリンの美しい瞳が現れた。間違いない、母だ。キラの顔が喜びに輝く。母の顔にも微笑みが浮かんだ。走る!走る!走る。優雅に舞っていた蝶や小鳥が驚いて飛び立のを無視して、一直線に母の懐へと飛び込んで行った。

 「ママ、ママ、会いたかった……」

 しっかりと胸に抱きつき、顔を埋める。暖かな母の温もり。忘れていた、柔らかな感触。涙が自然にこぼれてくる。やっと会えた。もう離れない。

 「ママ……」 優しい手が頭を撫でてくれた。ママなんだ。これが母の胸……。キラはうっとりと瞼を押し上げる。

 「やっと気がついたのね?」

 にっこりと母が微笑んだ。やっぱり、母だ。夢ではなかった。

 「ママ!」 キラは甘えるように母の胸に顔を埋めた。しっかりとした現実感のある感触だ。夢ではない。何処がどうなったのかは判らない。でも今、母に抱かれているのだ。

 「うふふ、坊や、よかった。毒消しが利いたのね。」

 細められていた目が大きく開き、紅の瞳が現れる。

 「えっ?」 顔を上げたキラが身体を堅くする。この人は誰?母、フレアにそっくりだが、瞳の色が異なっている。そう言えば、何処となく雰囲気も違う。

 「やれやれ、やっとお目覚めかい?」

 背後で姉の声。驚いて振り返ると、裸の姉が座っていた。そして、改めて、自分を抱いている女性を見ると、やはり裸であった。

 「あのー……?」
 「私はシルフィー、風の妖精。残念だけれど、坊やのママじゃないわ。」

 母にそっくりの女性が苦笑しながら言った。

 「シルフィー?風の妖精?」

 いまだぼんやりとしている頭で思い出そうとする。行方不明委なったエリオスを探していて、現れた妖精。続いて出てきたエリオス。そして、巨大な蜘蛛の化け物。そうだ、あいつを倒した後、眠くなって……。

 「あんた、蜘蛛の毒にやられたんだよ。それをシルフィーが水であんたの身体を洗い、毒消しを呑ませて助けてくれたんだ。あたいも、危うくやられてしまう処だったよ。シルフィーがいなかったら、二人とも眠ったまま、あの世行きだったんだよ。それに、毒でやられて、冷え切った身体をずっと暖めててくれたんだ。よく礼を言うんだよ。」
 「お礼だなんて……。私も危ないところを助けてもらったんだし、お互いさまですわ。」

 にっこりと微笑む風の妖精。優しい笑顔を見ていると、益々母にそっくりだった。

 「あ……ありがとう」
 「ママじゃなくてごめんね」
 「ううん、でも、お蔭でママの夢を見ることができたよ。」

 キラもにっこりと微笑んだ。そして、自分も服を着ていないことに気づく。

 「服は水に濡れたから、干してあるよ。もう乾いているかな?」

 ナナが立ち上がり、木の枝にかけてある三人の服を確かめる。白い絹のような服はシルフィーのものだ。ななは触れてみて、乾いているのを確かめると、彼女に投げてよこす。次に小さな黒い服を手に取る。これはキラのものだ。それも、乾いていた。

 「ほれ、あんたの服も乾いてるよ。早く着な。」

 最後に自分の服を確かめると、さっさと着始める。シルフィーはいまだ毒気が残って手足が思い通り動かせず、もたもたとしているキラの服を着せてやった後、自分の服を着始めた。

 「坊や、いまだ毒気が残っているみたいね。いいわ、私が抱いて行って上げるわ。」
 「えっ?行くって、何処へ?」
 「シルフィーの村だよ。あんたに呑ませた毒消しは十分じゃなくてね、村に行って、分けてもらうんだよ。」
 「ぼくは大丈夫だよ。すぐに出発しないと、ママが……」
 「だめだめ、あなたたち、地獄の最下層に行くんでしょう。だったら、十分に体力をつけておかないと、魔竜山は越えられないわよ。なにしろ、あそこは地獄一の難所だし……竜王が棲んでいるから、そんな病み上がりの状態では無理よ。」
 「どうしてそれを……?」

 キラは思わずシルフィーを見つめる。何故、彼らが地獄の最下層へ行くことを知っているのだ?

 「あたいが教えたんだよ。ママを助けるため、地獄の最下層にいるパパに会いに行くって。」

 ナナが代わりに答えた。何処まで話したかは判らないが、自分たちのことをシルフィーに言ったらしい。

 「あなたたち、パパやママと離ればなれになってしまったんですってね。可哀想に、いまだこんなに小さいのに、ママが恋しいでしょうに……」

 風の妖精はキラの小さな身体を強く抱きしめる。目にはうっすらと涙が滲んでいた。

 「ママ……」 キラは母にうり二つの妖精の胸に顔を埋めて小さな声でつぶやいた。まるで本当の母に抱かれているようだ。もしも、彼女が本物の母ならば、どんなに幸せだっただろう……。

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