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こちらレッキー探偵事務所 文:林 克之
こちらレッキー探偵事務所・目次
◆第一話 名探偵の初仕事 1◆
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テーブルの上で携帯電話が鳴った。 ソファーでくつろいでいた林田克己は慌てて吸いかけのタバコを揉み消し、手探りで電話を取った。 「はい。林田です」 「林田探偵事務所ですよね」 若い男の声だった。 「えっ?あっ、そうですそうです」 「お願いしたいことがあるんですが」 林田の顔が困惑にゆがむ。 「ど、どう言うお話でしょうか」 「電話ではちょっと」 「な、なるほど。しかし、こちらもけっこう忙しいのでね。一応だいたいの内容を聞かせてもらって、それからこちらへ来てもらわないと。」 「姉を連れ戻したいんです」 「う、うちは謎解きが専門なんですよ。残念だけど、そう言うのはちょっとね。どこか他を探してください。それじゃ」 林田は電話を切ろうとしたが、男が懸命に食い下がる。 「お願いします。あなた、柔道三段なんでしょ」 「ええ。まあ」 「それに、医学的な知識もあると、チラシに書いてありました」 「ええ、一応」 「ピッタリなんです。あなた以外に適任は見つからない」 「そ、そう言われても」 「とにかく、会ってください。いま6時だから、ええっと。9時ごろに伺います。Nマンションの305号室ですよね。」 「ちょ、ちょっと待ってください。こちらにもいろいろ都合が」 「それじゃ、9時に。ああ、私は中村と言います」 「ちょっと。ちょっと待ってください。もしもし、もしもし」 電話は切れた。 「やれやれ」 林田は大きなため息をつくと、ソファーに深くもたれた。そして、手探りでタバコを取ると、ライターで火をつけた。 「ま、なるようになるか。ここにくれば向こうから断るだろうよ。それより腹減ったな。晩めしにするか。なあ、レッキー」 林田の足もとで静かにうずくまっていたまっ黒なラブラドール レドリバーが、突然元気いっぱいに立ち上がった。どうやら来客らしい。 「先生います?私です。植山です」 壁のドアホンからはねるような若い女性の声が流れた。 「おお、まいちゃんか。カギ開いてるよ。入って入って」 林田はソファーでタバコをふかしたまま、玄関に向かって応える。 ドアの開く音がした。しばらくすると植山まいがスーパーの袋を両手にぶら下げてリビングに入ってきた。 「先生、夕ご飯まだでしょ。一緒に食べましょ。材料仕入れてきたから」 「お、助かるなあ。今から作ろうかなって思ってたんだ」 「どうせレンジでチンでしょ。私に任しといて。ビックリするの作るから。よ、レッキー、久しぶり。台所借りますよ」 黒犬に右手で挨拶すると、まいは袋を下げたまま、さっさとキッチンに向かう。 「仕事の帰り?」 「ええ、私、今、日勤なんです」 キッチンから水の流れる音が聞こえはじめる。 「相変わらず忙しい?」 「ええ。でも私、いま外科病棟なんですよ」 「へえ、外科へ廻ったの。川村のヤツは元気かい」 「相変わらず患者さんに人気ありますよ。あ、そうそう。川村先生怒ってましたよ。林田のヤツ、ぜんぜん連絡してこないって」 「お互いさまだって言っといてくれ」 林田はソファーに深々と沈み込みながらたばコをふかす。 「川村先生、心配してますよ。先生のこと」 「心配って何が」 「だって、病院辞めてもうずいぶん経ちますもん。お金、大丈夫なんですか。ここの家賃だってけっこう高いんじゃないんですか」 「あいつ、そんなこと言ってるのか。それなら見舞いくらい持って来いって」 「だから、今日のスポンサーは川村先生」 「なるほど。ところで今日のメニューは何」 「ペペロンチーノです」 フライパンの音をガチャガチャさせながらまいが答える。 「そりゃ旨そうだな。ワインでも飲みたいところだな」 「ちゃんと買ってありますよ」 「さすがまいちゃん。怖いほど気が利くねえ。でも、今日は止めとくよ」 「えっ。体の調子でも悪いんですか」 「いや」 林田は新しいタバコを口にくわえながらため息まじりに言った。 「9時に人が来るんだ」 「へえ、女の人ですか。私、帰りましょうか」 「残念ながら男。なんだか仕事の依頼らしい」 「ええ!」 キッチンから皿やコップの砕け散る音が聞こえた。 「インスタントですが、どうぞ」 緊張して座っている中村秀樹の前に、まいがコーヒーカップを置く。 「どうも。いただきます」 「先生も飲みますか」 「いや、僕はいい。あとでワイン飲むから。それより話を聞きましょう。たぶん、聞くだけになると思いますが」 林田はさも落ち着かない様子で、またタバコに火をつける。 「先生、タバコ止めたらどうですか。ちょっと吸い過ぎですよ」 「これしか楽しみがないんだよ」 「あの、失礼ですがこの方は?」 中村秀樹が怪訝そうな顔で、林田の隣に座ったまいを見る。 「あっ、私? 助手の植山です」 まいは姿勢を正して青年の方に向き直った。 「ああ、それで。あなた確かこの間、駅前でチラシ配ってましたよね。私はそのチラシを見て、ここに電話したんです」 「うちは零細企業ですから。彼女のことは気にしないで、どうぞ話してください。こう見えても、けっこう忙しいんです、私」 「あっ、すいません。実はこちらもあまり時間がないんです」 中村秀樹は慌ててコーヒーカップをテーブルの上に戻す。林田もせかせかとタバコを消す。 顔が緊張で青ざめている。。神経質そうな、まだ20代の青年。 「林田さんは総合教団をご存じですか」 「総合教団? ああ、何年か前に芸能人やスポーツ選手が入会したとか言って大騒ぎになった新興宗教のことかな」 「そうです」 「知ってます知ってます、私。愛の儀式とか、いろいろあるんでしょ」 「私の姉はその総合教団の信者なんです」 「へえっ」 まいの目が好奇心に輝く。 「短大の卒業式の次の日、姉は突然姿を消しました」 中村秀樹は切々と語り始めた。 「私たちは必死に探しました。警察にも届けました。でも、見つかりませんでした」 「それはそれは。大変ですねえ。でも、残念ですが、うちは人探しは扱ってないんです」 林田は気の毒そうに言う。。 「半年ほどして、姉から電話があったんです。今総合教団の活動に参加していて忙しいから当分帰れそうもない。落ち着いたら必ず帰るから心配しないでくれって。それだけ言ってすぐに切れました」 「そりゃないわよねえ」 まいが怒ったような声で身を乗り出す。 「それで?」 「教団の本部に電話してみましたが、本人の希望なので居場所は教えられないと」 「なるほど。警察は?」 「信教の自由にかかわることなので、手は出せないって言われました」 「そりゃ困ったな。まったくお手上げだな」 「この十年、私たちは死にものぐるいで探したんです。でもだめでした」 「そうなんですか。気の毒だとは思いますが、うちは謎解き専門で…」 林田はいたたまれないような気持ちになって、とうとう下を向いてしまった。 中村秀樹が勢い込んで続ける。 「一週間前、とうとう姉を見つけたんです」 「えっホントに。そりゃすごい。まさに執念ですね。おめでとうございます」 林田はホッとした顔でテーブルのタバコに手を伸ばした。 「姉と一緒だった女性が一月くらい前に脱会して、その人が連絡をくれたんです」 「そうですか。あとはじっくり家族で話し合うことですね。時間はかかるだろうけど。大丈夫、きっとなんとかなりますよ」 探偵はまるでカウンセラーのような口調で、安心したようにゆっくりとタバコに火をつけた。 「タバコなんか吸ってる場合か!」 中村秀樹がバンとテーブルを叩いて立ち上がった。突然の大声にテーブルの下から黒犬がバッと飛び出す。 「す、すいません、つい興奮してしまって」 「どうしたんですか急に。お姉さんは見つかったんでしょ」 「そ、それが、明日には台湾へ行ってしまうかもしれないんです」 青年はため息を一つつくと、力なくソファーに腰を落した。 「どう言うことですか」 「台湾に総合教団の教祖が住んでいるらしいんです。姉は何かの役に選ばれたらしくて。そう言う情報が昨日入ったんです」 「赤の儀式ね」 まいが大きく頷きながらキッパリと言った。 「何、それ」 「総合教団の秘密儀式の一つですよ。お姉さんは教祖への生贄に選ばれたんだわ、きっと」 「へえ、まいちゃん詳しいんだ」 「それほどでも」 「だから、今日しかないんです。今日姉を連れ戻さなければ。お願いします、林田先生。力を貸してください。お願いします」 テーブルに頭を叩きつけるようにして懇願する。 「ちょっと待ってください。実はですね、私は目が」 「とりあえず20万用意してきました。姉が無事帰ったら、出来るだけのお礼はさせてもらうつもりです。お願いします、お願いします、お願いします」 「だからね、中村さん。私はですね」 「お引き受けします」 まいがキッパリと言うとテーブルの上の封とうに手を伸ばした。 「ありがとうございます。ありがとうございます。林田先生にお引き受けいただければ、これほど心強いことはありません。きっと父も喜びます」 「それじゃ、この契約書に目を通してサインしてもらえますか」 「契約書って。まいちゃん、そんなものいつ作ったの」 「わかりました。ここに名前を書けばいいんですね」 中村秀樹はまいから契約書を奪い取るようにして、さっさとそこにサインをしてしまった。 「さあ、これで契約は成立したわ。先生、がんばりましょう。盲目探偵の初仕事なんだから。なんとしても成功させなきゃ」 まいがすっくと立ち上がった。 「えっ?えっ?盲目??」 「うちは謎解き専門なのに」 頭を抱えてうめくように呟く林田の顔をレッキーが嬉しそうにペロペロ舐めた。
◆2◆ 「そうですか、自動車事故ですか。一年前に。それはお気の毒に」 助手席に座った白髪頭の男、中村栄三はつくづくと言う口調でそう言った。 「で、相手はどんなヤツだったんですか」 「暴走族です。16才で、無免許」 林田の代わりにまいがそう答える。 「そりゃひどい、そりゃ最悪だ。でも林田さん、あなた綺麗な目をしてるから、目がお悪いなんてぜんぜん判りませんよ」 「両目とも義眼なんです」 まいと並んで後部座席に座っている林田が頭をかきながら答える。 「あなた、偉いなあ。私ならとっくに自殺してますよ。それにしても、私感激です。こんな間近で本物の盲導犬が見れるなんて」 栄三はシート越しに振り返り、林田の足元に窮屈そうにうずくまっているレッキーの頭に手を伸ばした。 「あっ、触っちゃいけないんでしたね」 「いいですよ、ちょっとくらい」 「ほんとに。おお、よしよし。お利口お利口。名前は?」 「レッキーです」 「オスですか、メスですか」 「女の子です」 「もう永いんですか」 「一緒に歩き出して、まだ三ヶ月ほどです」 「それにしても綺麗な犬だな。サラサラして、黒光りしてる。やっぱり毎日お風呂へ入れるんですか」 「いえ、ブラッシングだけです。お風呂は2ヶ月に一度くらいかな」 「へえ、そうですか。ご飯は?やっぱりドッグフード?」 「お父さん!」 ずっと黙ったまま運転していた中村秀樹が、耐えかねたように口を開いた。 「どうしたんだ秀樹」 「静かに座っててよ。気が散って運転出来ないよ」 「さっきから、何怒ってんだおまえ」 「仕方ないだろ。詐欺に遭ったような気分なんだから」 「ちょっと。それ、どう言う意味」 外の景色を見ていたまいが大きな声で怒鳴った。 「テレビドラマじゃあるまいし、盲導犬を連れた探偵なんて。詐欺みたいなもんだ」 「あんたがボッとしてるから悪いんじゃないの。こっちには契約書があるのよ。人権委員会に訴えるわよ」 「金返せ!」 「まだ言うか!」 「まあま落ち着いて。まいちゃん、やっぱり無理だよ。僕にはこんな仕事。邪魔になるだけだよ。帰ろ。ね、ね」 「ダメです。私は行きます。こんな事で負けちゃダメよ、先生」 「そんな問題じゃないと思うんだけど」 林田はため息をついた。 「ほら、もうすぐラーメン屋がある。あそこでラーメンでも食べて、タクシー呼んで、帰れ。金はもう諦め、グエッ」 突然後から首を締め上げられた秀樹は、死に物狂いでブレーキを踏んだ。 「いいんですか、ほんとに。息子さんの言うとおり足手まといになるだけですよ」 「いいんです。気にせんでください。恵子のことはもう半分諦めてます。30といえば、十分過ぎるほど大人だ。それより、タバコどうですか」 「あっ、すいません。部屋に忘れてきちゃって。一本いただけますか」 栄三と林田克己は、道路わきの木にもたれて仲良くタバコに火をつけた。 「林田さんはなんで探偵なんか始めたんですか」 「改まって聞かれると、大した理由はないんです」 「まさか、テレビドラマに刺激されてって言うんじゃないでしょうね。ほら、古屋なんとかって言う俳優がやってたヤツ。あれ、面白かったですよね。私かかさず見てました。でも、まさかね」 「ははは、まさか」 林田は力なく笑った。 「事故の前は何されてたんですか」 「病院に勤めてました」 「へえ、事務員か何か」 「ドクターです。心療内科の」 まいが横から口を挟む。 「え!お医者さんですか!こりゃ驚いたな。ほんとですか」 栄三はまじまじと林田の顔を見たが、周りが真っ暗でよく見えない。 「ちょっと、そこの二人。静かにしろよ」 秀樹が怒気を込めて言った。 「ぜんぜん緊張感がないんだから、まったく。お父さん、いま何時」 「えっ?ああ、ダメだ。暗すぎて時計の針が見えない」 「先生。時計、時計」 まいに促され、林田が腕時計のボタンを押す。 「午後 11時 42分 です」 可愛らしい女の子の声が暗闇に響いた。 「へえ、そんなのがあるんだ。私も買おうかな。最近目が悪くなっちゃって」 「いろいろと便利なものがありますよ、今は」 「どんなのがあります?今持ってます?」 「いい加減にしろ」 秀樹の怒鳴り声が深夜の山中に響いた。
◆3◆ 「ねえ、お姉さん、ホントにあの中にいるの?」 「間違いない。絶対にいる」 前方の闇に大きな建物の気配が感じられる。 中村秀樹が唇を噛み締めながらそれを睨みつける。 「どうやって連れ戻すのよ」 道脇の石垣に腰をおろしたマイが、足をブラブラさせながら聞いた。 「0時キッカリに出てくるはずなんだ。毎晩当番が井戸に水を汲みに来るらしい。今日、姉さんが当番で」 「ああ、それってウシトラの儀式ね。教祖の写真に水を備えて2時間祈るんだって。でも、あなたよく調べたわね。そんなことまで」 「言っただろ。一月前に脱会した人が連絡してくれたって。その人、姉さんの短大時代からの親友なんだ。教団でもずっと一緒だったらしい。それより、君こそ詳しいじゃないか」 「ワイドショウのまいって呼んで。、その井戸ってどこにあるの」 「君が今座ってるとこ」 「ああ、これっ」 まいは右手で石垣をポンポンと叩いた。 「さあ、お父さん。そろそろ時間だよ。これが最後のチャンスなんだ」 「判ってる。やれるだけのことはやろう」 中村親子の顔が緊張に引きつった。 「さっきも言ったけど、くれぐれも邪魔だけはしないでくれよな」 「判ってるわよ」 まいがムッとした声で睨み返す。 「さ、先生。向こうへ行ってましょ。こんなとこにいたら、何言われるか。言っとくけど、お金は返さないからね」 「判ってるよ。とっくに諦めたよ。頼むから、サッサとどこかへ消えてくれ」 「何よ、その言い方」 「まあまあ、落ち着いて」 林田が二人の間に割ってはいる。 「まいちゃん、行こう。中村さん、お気をつけて」 「ありがとうございます」 栄三がぺこりと頭を下げる。 「あのう、一つだけお願いがあるんですが」 「なんですか」 秀樹が難しい顔をして林田を睨む。 「すいませんが、タバコを2,3本いただけませんか」 林田の耳にギリギリと言う秀樹の歯ぎしりの音が聞こえた。 「うまくいくといいな。」 「きっと失敗しますよ。あの秀樹って子、イライラし過ぎてるもん」 「そりゃ無理ないさ。それより、一時間も走るとこんな静かなところがあるんだなあ。空気もうまいし、きっと星も綺麗なんだろうな」 「今日は曇ってるから、真っ暗ですよ。先生、タバコ消したら。火事になったらどうするんですか」 林田とまいは、道わきの石に腰を下ろして小声で話した。 「一度聞こうと思ってたんだけど、先生、何で病院辞めちゃったんですか」 「だって仕方ないだろ。目が見えなくなっちゃったんだから」 「カウンセリングなら見えなくたって出来るじゃないですか」 「そりゃそうなんだけどね…」 「先生って、タバコ吸う以外は、患者さんには評判よかったんですよ」 「そりゃどうも。それよりまいちゃん、どこかオシッコ出来ないかな」 林田は話題を変えるようにレッキーの頭を左手でなぜながら言った。 「レッキー、オシッコしてこなかったんですか」 「レッキーもなんだけど、僕も」 「我慢しなさい!」 「シーっ声が大きいよまいちゃん」 まいは慌てて自分の口をふさいだ。 突然、井戸の方向から甲高い女性の悲鳴が上がった。 「いよいよ始まったな」 まいは慌てて立ち上がると井戸のほうを見た。 「私、本物の悲鳴聞いたの初めて。あっ、でもダメ、暗くて全然見えないわ。残念」 「座って待ってようよ」 林田はレッキーの首筋を撫ぜながら、3本目のタバコに火をつけている。レッキーは退屈そうにクンクンと鼻を鳴らす。 「またタバコですか。こんな時に。こんなチャンス滅多にないですよ。ああ、ヤッパリ見えないなあ。暗すぎて何にも見えない」 まいはさも悔しそうに、ピョンピョンと何度も飛び上がる。 「姉さん、帰るんだ。一緒に帰ろう」 「秀樹。あんた、なんてことするの。放しなさい!」 「恵子、帰ろう。お母さんも心配してる。頼むから帰ろう」 「お父さん。こんなことして。いくら親子でも許さないわよ。私許さないわよ。放しなさい、放して!」 闇の彼方から、すさましい親子の格闘が聞こえてくる。 「なんか迫力あるわね」 まいの声は興奮で擦れている。 「あっ、先生大変!誰かがこっちへ走ってくる」 「えっ」 林田は慌ててタバコを揉み消し、ハーネスを握って立ち上がった。 「林田さん、恵子が。恵子がそっちへ逃げました。捕まえて、捕まえてください」 「あいたたた、指を噛み切られた」 中村親子の悲壮な叫びが林田の耳に届いた。 「先生。来た、来た、来た!捕まえて。捕まえて!」 まいが両手を振り回しながら、早口で叫ぶ 「えっ? えっ? えっ?」 次の瞬間、イノシシのような勢いで何かが飛び込んで来たかと思うと、林田はアッと言う間に弾き飛ばされていた。レッキーもろとも。 「あいたたた」 「先生、何やってるの。全く役に立たないわね。待ちなさい。待て! コラ。止まれ!」 まいが慌てて闇の中に走りだした。そしてつまづいた。 「いったあい。なんでこんなところに石なんかあるのよ」 「どうしたまいちゃん。大丈夫か」 「足くじいちゃったみたい。それより先生、早く追いかけて」 「よしわかった。方向はこっちでいいのか」 林田は素早く立ち上がって、ハーネスを握りなおした。レッキーはすでに、スタンバイOKとばかりにシッポを立てている。 「そう、そのまままっすぐ。一本道のはずよ」 「よしレッキー、走るぞ。追いかけるんだ。ストレート ゴー!」 レッキーはゆっくりと歩き出した 「レッキー走れ、走るんだ。ハリー アップ!ハップアップ!」 林田がハーネスをグイグイ前に引くようにして促すと、レッキーは徐々に加速度を増していった。 「よしいいぞ、いいぞ。その調子、その調子!」 「先生、がんばって」 まいの声がもうはるか後ろから聞こえる。 「任しとけ。それレッキー、行け、行け」 まっ暗な道を林田は快調に走りつづけた。ほとんど全速力…をすでに超えていた。 「おいレッキー、タイム、タイム。ちょっと休もう。スピード落とそうよ。心臓…が」 レッキーはまるで野生に帰ったかのように、グングングングン加速度を増す。 「レッキー、ステディー!ステディー!お願い、スピード落として!お願いしまあす!」 林田の声はもうレッキーには聞こえていない。爛々と目を輝かせて全速力で闇の中をひた走る。 「ヒイ、もうだめだあ!死ぬ、死ぬう!」 「きゃあ!」 ドッスーン。 突然、林田の体に衝撃がはしり、目の前で何かが倒れた。 「レッキー、ストップ、ストップ」 ハーネスを引き絞ると、ようやくレッキーは止まった。 ヒイヒイと苦しそうに呼吸しながら、林田は足もとに倒れた物体を手で探ってみる。女が大の字になって気を失っていた。 「あらら、脳しんとうでも起したかな。モシモシ、モシモシ。ゴメンね、大丈夫」 レッキーが申し訳なさそうに中村恵子の顔を舐め回している。 「林田さん、姉さんは。捕まえたんですか」 「あっ、恵子」 中村親子が息せき切って走り寄ってきた。 「気を失ってるだけです。それより秀樹さん、指大丈夫ですか。食いちぎられたとか何とか」 「そうなんです。左手の小指を」 「どれどれ。ああ大丈夫。まだ繋がってるよ。とりあえず応急処置だけ」 林田はズボンのポケットからハンカチをとりだすと、手早く処置した。 「へえ、さすがだなあ。やっぱり」 秀樹は感心しながら、血の滴るハンカチを眺めた。 「こう言うのはホントはまいちゃんの方が上手いんだけど。あれ、そう言えば、まいちゃんどうしたかな」 「あの辺で座り込んでましたけど」 栄三が今来た道を振り返った。闇の彼方に小さな光りが三つ見えた。 「貴様ら、何者だ。シルビア姉妹に何をした!」 光りは大声で怒鳴りながら近づいてくる。 「まずい。騒ぎに気づいて男たちが出てきた」 「きゃあっ。先生。助けて!」 まいの本物の悲鳴が三人の耳をつんざいた。
◆4◆ 「行きましょう、林田さん。お父さん、姉さんの事頼んだよ」 中村秀樹が暗闇の中に走りだした。そのあとを林田が慌てて追いかける。 「クソ、暗くてよく見えないな。やつらライトを消したな」 「まいちゃん、どこだ。声を出せ」 「先生、ここよ。こっちこっち。キャア、あんた、どこ触ってんのよ」 「ギャア!」 男の悲鳴があがった。 「なんだ、どうしたんだ。まいちゃん、無事か」 「林田さん急ぎましょう。と言ってもこれ以上慌てると、真っ暗すぎて」 「私が先にいきましょう」 「えっ?」 秀樹をサッサと追い越して、林田がグングン走っていく。 「林田さん、危ないですよ。無茶だ」 「大丈夫大丈夫。レッキー、ツウ ザ まいちゃんだ。判るか。急げ、急げ」 「先生、気をつけて! 男が二人、そっちへ行ったわよ」 まいの声が前方から聞こえた。あと10メートルほどか。 「いけ! レッキー。わあっ!」 「あいたっ」 ゴツンと鈍い音が下。見えないはずの林田の眼前に星が光った。 「うう、鼻が」 林田の足もとに、男がうずくまっていた。 「ごめんごめん。大丈夫」 レッキーが男の顔をペロペロ舐め上げる。 「このやろう、舐めやがって!」 もう一人の男がいきなり林田に殴りかかる。 「林田さん、危ない」 「グエッ」 カエルのような声があがった。林田の背負い投げが見事に決まった瞬間だった。 「あっ、ついホンキで。大丈夫? 頭、打たなかった」 気絶した男の腕をとって、林田が脈をたしかめる。 「この野郎! ぶっ殺してやる!」 うずくまってうめいていた男が、ポケットからナイフを取り出し、林田の背中目指して突進してきた。 「危ない林田さん。ナイフ。後ろ!」 ドスン! 林田の体が少年のように素早く反応したかと思うと、男の体が5メートル先の地面に叩き付けられていた。 「お見事。今のなんて言う技ですか」 駆け寄ってきた秀樹が息を弾ませながら聞いた。 「山荒らし。幻の必殺技。一度やってみたかったんだ。でもあんなに上手くかかるとは思わなかった。大丈夫かな、あの人」 林田は照れ臭そうに頭を掻いてみせる。 「さあ、急ぎましょう。植山さんを助けに行かなきゃ」 「ああ、そうだった。レッキー、カム」 レッキーが林田の足に鼻をこすりつけてくる。 「行きましょう。ついて来てください」 秀樹が走りだした。そのあとを林田が追う。 「あれ? あれ?」 「どうしたんですか。林田さん」 「レッキーの様子が。まさか。ゲッ、やっぱり」 林田の不安は的中した。レッキーはいきなり立ち止まると、背中を丸くしてその場にうずくまってしまった。 「どうしたんですかいったい」 「すいません、先に行ってください。ウンチです」 「ええっ、ウンチ! 盲導犬でしょ。まったく。すぐ来てくださいよ」 秀樹がブツブツ言いながら走って行った。 「盲導犬だってウンチくらいするよなあ。忙しくて、夜のトイレ、してなかったもんなあ。ごめんごめん、気にしない気にしない。ゆっくりやれ、やれ」 林田はレッキーの横にしゃがんで、排泄中の彼女を励ました。 「よしよし、もういいのか。ついでにオシッコもしとこうか」 「先生、何してるの。中村さん、あっさりやられちゃったわよ。早く助けに来てよ!」 イライラしたようなまいの声が闇の向こうで聞こえた。 「ごめんごめん、まいちゃん。大丈夫か」 「大丈夫じゃないわよ。何モタモタしてるの。私、いま、人質になりかけよ。きゃあっ、あんたどこ、触ってんのよ」 「ギャアッ」 また男の悲鳴があがった。 「ちょっと待ってて。ウンチ取ったら超特急で行くから」 林田はズボンのポケットからおもむろにナイロン袋をとりだした。 「サッサと助けにこんかい!」 「は、はいい!」 カミナリのような怒声に、林田とレッキーは、ピンと姿勢をただした。 「先生。もう一杯コーヒー飲みます?」 「いや、もう止めとくよ。眠れなくなるから」 リビングのソファーにもたれた林田が眠そうな声で答えた。壁の時計は5時13分を示している。 「それよりまいちゃん、足、大丈夫」 「平気ですよ。ちょっと捻っただけみたい。もう大して痛くないし。それより、仕事行く前にアパートへ寄って、服着替えなきゃ。血が一杯付いてるんです」 「えっ? どこか怪我してるの」 林田は驚いて体を起した。 「返り血ですよ。男の腕、思い切り噛み千切ってやったから」 向かい側のソファーに腰を下ろし、三杯目のコーヒーをすすりながら、まいがさらりと言った。 「なるほど。気の毒に」 林田はため息をつくと、タバコに火をつける。 「それより先生。初仕事は大成功でしたね」 「まあね。あの親子にとっては、これからが本当の戦いだとは思うけど」 「カウンセル、してあげたら?」 「僕はもう医者じゃないもの。それに、ああ言うのは家族の絆しか処方箋がないのかもしれない」 「そうなんですか。それより先生、これからも探偵、続けるんですか」 「ああ、他にすることもないしね。ただし、これからは、絶対謎解き専門」 「私、看護婦辞めて先生の助手になろうかな」 「いいよいいよ。仕事あるかどうかわからないし」 林田がタバコにむせながら、慌てて左手を振った。 「それは残念。じゃあ、名前だけでも変えません?」 「名前って」 「だって、林田探偵事務所なんて。だいたい林田克己なんて、名探偵の名前じゃないですよ」 「ほっといてくれ」 林田はまいに聞こえないような小さな声で呟いた。 「ねえねえ、レッキー探偵事務所なんてどうですか」 まいが身を乗り出して言った。 「それこそマンガみたいじゃないか。レッキーだって迷惑さ。なあ、レッキー」 「そんなことないわよね、レッキー。あれ。先生、レッキーがいませんよ」 「えっ、あれ。レッキー。レッキー、カム。カム」 すぐに飛んで来るはずのレッキーの気配は、どこにもなかった。 「あれえ、おかしいなあ。レッキー、レッキー」 まいが立ち上がって。部屋の中を探し始める。 「先生、やっぱりどこにもいませんよ」 「そんなはずないよ。さっきまで、確かにいたんだ。レッキー、レッキー。あれ、やっぱりいないな」 林田もタバコを消して立ち上がる。 「外にでも出ちゃったのかしら」 「玄関は閉まってるだろ。アッ、待てよ。まいちゃん、奥の寝室見て来て」 「寝室、ですか?」 まいは怪訝そうな顔をしながら奥の部屋に向かう。林田はソファーに座りなおすと、新しいタバコを加えた。 「あ、先生。いました、いました。だけど先生、盲導犬ってこんなでいいんですか」 まいの非難のこもった声が寝室から聞こえてきた。 「レッキーだって、疲れたんじゃないの」 林田の脳裏に、ベッドの上で大の字になっていびきをかいているレッキーの姿がくっきりと浮かんだ。 |