黒いハーネス 文:林 克之
黒いハーネス・目次
|
「あーあ、暇だなあ」 石水陽子は椅子の背にもたれながら大きく腕をのばした。ブランドデザインの事務服の胸が大きくせり出す。 「先生、大丈夫ですか?こんなのでやっていけるの?私のお給料、大丈夫?」 彼女は椅子をクルリと回して治療室の一番奥の机の前で大きな本を開いて指で探っている白衣姿の男に問い掛ける。 「え?何か言った?」 「もう、本ばっかり読んで。朝から患者さん一人ですよ。一人。こんなのでいいんですか?」 「ああ、こんなもんよ。開業一年足らずの鍼灸院なんて」 遠山周平は呑気に応じた。 「私は別にいいんですけどね。お給料さえもらえれば。でも、こう退屈だと、ちょっと嫌んなっちゃう」 陽子は頭の後ろで手を組むと両足をブラブラ振った。ミニスカートからこぼれる真っ白な下肢は若々しい。 「本でも読んでなよ」 「本ねえ。先生はさっきから何熱心に読んでるんですか?」 陽子は椅子から立ち上がると、周平の方に近づく。 「何って、治療の本だよ。陽子ちゃんが見ても判らないよ。点字だから」 周平は慌てて本を閉じた。 「タイトルはちゃんと活字でしたよね。どれどれ」 彼女は隠そうとする周平から、無理やり本を取り上げると背表紙を見た。 「きゃあ、何これ?信じらんない!!」 陽子は顔を真っ赤にして、点字本で周平の頭を叩いた。 「そんなに退屈なら、どう?陽子ちゃん。ベッドもあることだし」 「そんなにたくさんいただいてません!」 彼女はプイと横を向く。 その時、受付の電話が鳴った。 「ほらほら電話電話。予約かもよ」 周平にせかされて、陽子は慌てて受け付けに走る。 「はい。遠山鍼灸院です」 彼女の声は見事に事務員のそれだった。 「あ、アイフレンズの…。ちょっとまってください」 陽子は周平の方を振り返ると小声で言った。 「先生。アイフレンズの中島所長さんからですけど…」 「あらら、またお小言かな。陽子ちゃん、奥の部屋に廻して」 周平は椅子から立ち上がると、奥へと続くドアに向かった。 治療室の奥に彼が寝起きしている8畳ほどの部屋があった。周平はドア近くの電話をとった。 「はい、遠山です」 「中島です。ロデオの調子はどう?」 「元気ですよ」 そう応える周平の足元に、真っ黒なラブラドールレドリバーが絡み付いていた。 「アルバイトですか?」 「そう。お願い出来ますか」 周平の問いに中島は静かに言った。 「いくらなの。報酬は?」 「三千万」 「安いなあ」 周平はやれやれといった調子で言った。 「娘の保険金だとさ。依頼者はその母親だ。普通の主婦には大金だよ」 「もういいよ。それ以上聞くと昼飯が不味くなる」 「どうします」 中島は事務的に問い掛ける。 「いつ?」 「今夜」 「あらら、それはまた急な」 「やめますか」 「何時に迎えに来るの?」 「10時に。うちの鶴田が行きます」 「ラジャー」 そういうと周平は受話器を置いた。 「陽子ちゃん!お昼の出前頼んで。僕天津飯!」 ドア越しに声を掛けると、周平は犬の頭を撫ぜる。 「ロデオ、仕事だよ。今日は遅くなるから、今のうちに寝ときな」 ロデオは嬉しそうにシッポを振りたてた。 「いい車じゃん、ツルちゃん。盗んだの」 後部座席のシートに深々と身をうずめて、遠山周平が呑気に言った。 「違いますよ。ちょっと借りてきただけです。朝までには返しますよ。それより先生、これ」 ハンドルを握ったまま鶴田光一は、片手で大きな茶封筒を後ろに投げた。 「何これ?」 「別荘の見取り図です」 「へえ」 周平は封筒を開けて中から厚手の紙を取り出した。 「おお、点字で作ったんだ」 紙の上をなぞると、点字を打つ要領で部屋の間取りが描かれていた。 「うまく出来てるでしょ。5時間かかったんですよ」 「ターゲットはどこに?」 「二階の一番奥にいるはずです。そこは完全防音になってます。また悪さしてるんでしょ」 光一はハンドルを右に切りながら、嫌な顔をした。 「ええと、二階二階。あ、これね」 数枚の点字用紙の中から、二階の見取り図を手探りする。 「なるほど、なるほど。ええと、階段は…」 「玄関ホールを少しまっすぐ進んで右です」 「この家、土足?」 「ええ。洋館造りですから」 「そりゃありがたい。ロデオの足拭く手間が省ける。廊下の素材は?」 「さあ、そこまでは…」 「ま、いいか。あれ?この説明書きは?」 「今回の依頼のあらましが書いてあります」 周平は露骨に顔を歪めた。 「読まなきゃならないの?」 「別にかまいませんよ。ただターゲットは間違わないように。黒岩大二郎。62才。頭はツルツル。がっちりした体格。眉間に傷。これはチンピラ時代にナイフで切られた痕です」 「判ってるよ。僕ってそんなに信用ないの」 「『見て』確かめられませんからね。それにしても、そのユニフォーム、なかなか似合うじゃないですか」 光一はミラーに映る、周平のいでたちを見ながら苦笑した。 黒の上下のウエットスーツ。黒のスニーカー。黒の手袋。濃い色の大きなサングラス。 「趣味悪いよな。中島の野郎。そう思うだろツルちゃん」 「ノーコメント。それより、もうすぐ着きますよ。ロデオのウンチ大丈夫ですか?」 光一はスピードを落として、エンジン音を押さえた。 「家を出る前すませたから大丈夫。それよりツルちゃん。ピッキングセット貸して。忘れてきた」 「一万にまけときますよ。遠山さんのことだから」 「おお、やだやだ。この仕事おわったら僕も足洗お。なあ、ロデオ」 周平の足下でロデオは丸く小さくなっていた。その背中にはすでにハーネスが装着されていた。黒いハーネスが。 「着きましたよ」 鶴田光一は涼しく言った。 「玄関の前?」 遠山周平は顔を突き出して聞く。 「まさか。まっすぐ20メートルほど行けば玄関です。他に家はありませんから…」 「へえへえ。行くかロデオ」 周平は後部ドアを静かに開ける。ロデオがパッと外に飛び出す。 「どれくらいかかります?」 窓ガラスをあけて、光一が首を出す。 「30分くらいかな。ロデオ、ゴー!ツー ザ ドア!」 ロデオは嬉しそうに歩き始める。 「ごゆっくり」 背中から光一の声がかかる。 暫く歩くとロデオが足を止めた。周平は右手を延ばす。手に豪華そうなドアが触れる。 「ちょっと待ってね、ロデオ」 周平はポケットから、小さなドライバーのようなものを取り出すと、鍵穴を探った。 3秒でドアは開いた。 「お邪魔しまーす」 彼は小声でそう言いながらドアを開けて素早く中へ。もちろんロデオも。 別荘の中は静かだった。しかし、何か生臭いようなドンヨリとした空気に満ちていた。 「アップ ツー ステップ」 ロデオが音も立てず歩き始めた。階段に向かって。 「見張りかな?」 階段の下に人間の気配。一人だけだ。 見張りの男は立ったまま居眠りをしていた。無理もない。もう午前1時を過ぎている。 「!!!」 人の気配に見張りが気づき、慌てて身構えた時、黒装束の男がすぐ目の前に立っていた。見張りは反射的にその男に掴みかかった。 音もなく黒い影はユラリと揺れた。 次の瞬間。見張りの鼻は硬い廊下にめり込んでいた。右腕の折れる音と、肋骨の弾ける音が見張りの耳にも聞こえた。 ベトナムンホイップ(ベトナム投げ)。かつてベトナム戦争で米軍兵士がゲリラ相手に用いた殺人格闘技マーシャルアーツの技の一つ。 見張りは声を上げなかったが、骨の折れる音は意外に大きかった。周平の誤算だ。 奥の左右のドアが開いて、5人の男が飛び出してきた。 「な、なんだ!てめえ!」 周平はやれやれという顔をすると、犬の首に巻かれた鎖の首輪を黒いとも綱ごと外した。 「ステイ」 やさしくそう言うと、彼はとも綱をビュンビュンと振り回した。 「くそ!なめやがって!!」 パンチパーマの男がナイフを構えて、周平目がけて突っ込む。 「グェ!」 その男の右頬を、クサリが襲う。いやな音を立てる。 「野郎!!」 三人の男が一斉に襲いかかる。 周平の右足が、シュッと音を立てた。 真ん中の男が、2メートル吹っ飛んだ。 左の男の耳を、鎖が千切った。 右の男が周平の首に両手をかけた。90キロはある大男だ。 男の顔に一瞬、勝利を確信する微笑が浮かんだ。彼の必殺のパターンなのだろう。 次の瞬間、大男の視界から黒い影が消えた。 「ウオォ!!」 大男は雄叫びとともに宙に舞った。そして壁にめり込んだ。 モンキーホイップ。またの名を巴投げ。 リーダー格らしい男が、上着の中に手を突っ込んだ。ロデオがその男に向かって体当たりする。 「なんだ、この犬!くそ!」 その声めがけて周平の鎖が飛んだ。 「グァ!」 男は頭から血を流して倒れた。 耳を落とされた男が、這いながら奥の部屋に逃げていく。 周平は気にする様子もなく 「カム」 と小さく言った。 ロデオが足下に来る。周平が黒いハーネスを握る。二人は音もなく階段に向かう。 二階の一番奥。頑丈そうなドアが待っていた。 遠山周平は右手でドアを探ると苦い顔をした。ポケットから道具を取り出す。 今度は5秒かかった。 「さてと」 周平はしゃがみこむと、ロデオの黒いハーネスをはずした。そして首すじを優しく撫ぜた。 「片付けちまうか」 ロデオがシッポを振り回す。周平は立ち上がった。 「あらよ!」 掛け声とともに右足でドアを蹴る。ドアは勢いよく開いた。 その向こうにパンツ一枚のハゲ男が、両手で拳銃を構えて仁王立ちしていた。 黒い稲妻が、それめがけて飛んだ。 「わあ!」 稲妻は、黒川大二郎の手から拳銃をさらっていった。 周平がゆっくりと前へ進み出る。 「な、何者だてめえ!どこかの組の鉄砲玉か!俺を黒川大二郎と知っててやってるのか!」 黒川は目を吊り上げて睨み付けた。さすがにすごい迫力だった。 「良かった。確かめる手間が省けた」 周平は嬉しそうに答える。 「この青二才めが!!」 黒川はグローブのような手で掴みかかる。 周平はヒョイと受け止める。軽く掴み止めたようなのに、黒川は前にも後ろにも動けなくなった。 「おっさん、この手で何人殺したの?それとも最近は自分の手は汚さないか?」 「ほざくな!!」 黒川の怒声に重なるように、ボキボキという音がした。彼の指の骨が折れる音。 「ググ」 ハゲ頭は左手を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。その頭に周平の右手が乗せられる。 その手は数回頭を撫ぜると、今度は眉間の傷を探しに下りた。 「どうやらご本人みたいね。黒川大二郎さん」 「くそ!ぶっ殺してやる」 黒川は気力を集めて顔を上げ、黒づくめの男を睨んだ。 眉間から離れた右手が拳を固める。中指だけが飛び出したような握り方。そしてその拳はスローモーションのように黒川の鼻の下へ。 コツン。 小さな音がした。 「!!!」 黒川の目が異様なほど大きく見開かれた。声は出さなかった。そのままの姿勢で動きもしない。 中指一本拳による必殺の攻撃は、空手で人中と呼ばれる人体最大のウイークポイントに的確にヒット。 いや、必殺ではない。死ぬことはないのだ。しかしこの攻撃を受けた人間はその地獄のような苦痛に必ず発狂するという。 そして死ぬまでその苦痛と恐怖に耐えねばならないという。 黒川の見開かれた目から正常の色が消えていく。 その時、ロデオが「クーンクーン」と鼻をならして周平を呼んだ。 「どうしたロデオ」 周平はロデオの声に向かって歩く。 大きなベッドが置かれていた。周平は手探りでその上を探る。 「あっ」 黒い影に翳りの色が走る。 ベッドには全裸の女性が縛り付けられていた。いや、女性と言うよりもまだ少女だった。ロデオが周平の左手を鼻先で突付く。 「心配するな。お父さんは勤務中だ」 周平は苦笑いを浮かべる。 「どうやら気を失ってるらしい。良かった。つまらないもの見なくて済んで」 周平は手早く少女の手足を自由にすると、毛布でくるみヒョイと肩に担いだ。 「さあ帰ろう、ロデオ。ハーネス持っておいで。ツルちゃんが待ってるよ」 「ねえ先生。また闇の帝王が誰かに襲われたんだって。これで3人目よ」 石水陽子が珍しく新聞を広げながら言った。 「へえ。なんだか物騒だねえ」 遠山周平はコーヒーをすすりながら応える。 「黒川ってやつ、連続少女誘拐の犯人だったかもしれないんですって。本人は気が狂っちゃってるから判らないみたいだけど」 「ふうん。やくざ同士の内紛かな?」 「違うと思う。だって先生。現場に黒い短い毛が落ちてたって…」 「おいおい、陽子ちゃん。若い娘が口にすることじゃないだろに」 「違うのよ!動物の毛!犬の毛か何かじゃないかって」 陽子は新聞から顔をあげると、ムキになって言った。 その時、受付の電話がなった。 「はい、遠山鍼灸院。あ、赤山さん。ちょっと待って。すぐ代わります」 陽子は意地悪そうな顔で、コードレスの子機を周平に渡す。 「アイフレンズの赤山です」 厳しい声が周平の鼓膜に響く。 「や、やあ。紀子ちゃん。な、何か用かな?」 周平の声は恐怖に震えていた。 「中島所長から、ロデオのブラッシングがよく出来ていないようだって…。遠山さん。マナーは盲導犬ユーザーにとって一番大事なことですよ!」 紀子のムチのような声。 「わ、判りました。以後気をつけますってお伝えください」 「いいえ!今から私が行って指導し直します。いいですね」 「あ、いや、僕は仕事中…」 電話は切れた。 いつの間にかロデオが周平の足下でシッポを振っていた。口には白いハーネスをくわえていた。
黒いハーネス その1 ---了---
|
|
「どうですか。頭の痛み少しは軽くなりましたか?」 白衣姿の男が尋ねた。 「え、ええ…少し…」 ベッドにうつぶせに寝ている女が、小さな声で答える。 「首や肩の張りはどうですか?」 「楽になった…みたい…です」 「針はこれくらいにしておきましょう。軽くマッサージしておきます」 白衣の男はステンレスのワゴンに治療道具を戻してから、女の上半身を揉みほぐし始める。 「…これが一番効きそうね…」 「え?何か?」 「あ、いえ。何も…」 女は黙ってされるがままになった。男の手がお尻やふくらはぎに移っても、もう何も言わなかった。 「今日はこれくらいにしておきましょう」 「あ…ありがとうございました」 ベッドから降りた女は脱衣籠に脱いだ、コートとポシェットを持って入り口の方に歩く。 「3700円いただきます」 事務員らしい若い女がにこやかにそう言った。 「あ、どうも」 ポシェットからサイフを出すと、一万円札を取り出す。 「今度いつ来ればいいですか?」 コートを腕にひっかけた髪の長い女は、白衣姿の方を振り返る。そしてもう一度まじまじと観察する。 身長は175くらいだろうか。年は35くらいか。なかなか引き締まったいい体をしている。顔はまあまあ…。 「え?ああ。そうですね。出来れば週に一度は…」 「判りました。会社が割りと近いので。また来ます。どうもありがとうございました」 女は丁寧に頭を下げると、お釣りを受け取り、そして治療室を出て行った。 「先生、良かったですね。久しぶりの新患ですよ」 女の足音が聞こえなくなってから、石水陽子は嬉しそうに言った。 「まあね」 自分の椅子に腰掛け、遠山周平は気のない返事をかえした。 「また来るかしら、今の人」 「たぶん来るよ」 自信ありげな周平の言葉に、陽子は少し驚いてしまった。 「なんて言う名前だっけ、今の患者さん」 「え?ああ、ええっと…」 陽子は机の上の問診表をみた。 「山口リエさん、28歳」 「仕事は?」 「事務員って書いてますけど」 「ふうん」 そんなはずはなかろうと周平は思った。あの鍛えあげられた足の筋肉。 そして異常に緊張した首筋。彼の知っている限り、あのタイプの人間の職業は…。 「ま、いいか。陽子ちゃん、お昼ごはんの出前頼もう」 「ええ、まだ早くないですかア」 「もう誰も来ないだろう。僕、牛タン定食ね」 「もう、やる気あるんですか!」 陽子は少し怒った顔になって電話の受話器をとった。 山口リエはコートを着直すと、北風の服歩道を歩いた。驚くほどの早足だった。 やがて一軒の喫茶店のドアを開く。 店は空いていた。彼女は広い店内の奥に目をやった。 ヨレヨレのコートを着たままの中年男が新聞紙を広げて座っている。 彼女はツカツカとその男に向かって足を進めた。 「コート脱いだ方が良くありません?外寒いですよ」 「おお、リエちゃん。どうだった?」 男は顔を上げた。50は過ぎているだろうか。髪には白いものが混じっていた。 「どうって。あんまり腕は良くないみたい」 リエはコートを脱いでから、男の向かいの椅子に腰を下ろした。 「そうじゃなくて。体だよ、体」 「ああ、そうですね。針灸師にしてはいい体してましたね」 「そうだろう。怖いほどに鍛え抜かれた体のはずだ」 男は冷め切ったコーヒーを口に運びながら何度も頷いた。 「吉岡さん。いったい何を調べてるんですか?どんな事件にあの『先生』が関係してるって…」 ウエイトレスにコーヒーを注文すると、リエは小声で吉岡刑事に尋ねた。 「ああ、まだ話してなかったな。これだ」 吉岡はコートのポケットから数枚の新聞の切り抜きを掴み出し、それをテーブルの上に並べた。 「ああ、これ。例の『仕置き人事件』じゃないですか」 「そうだ。この二年間でいわゆる闇の帝王たちが6人も襲われた。殺されてはいないが、みな廃人だ」 「見事ですよね。私たちの手の出せなかった大物ばかり…」 吉岡はコックリと頷いた。 「あれえ、まさか吉岡さん、この犯人があの針の先生だとでも…」 リエの言葉に吉岡はまた頷いた。 「まさかあ。あの先生、目が見えないんですよ」 「判ってる。しかし、ヤツが元『シャドウ』のメンバーだとしたら話は別だ」 「なんですか?その『シャドウ』って」 リエは身を乗り出した。その時、ウエイトレスがコーヒーを運んで来た。二人は慌てて口を閉ざした。 「リエちゃんは警視庁に特殊部隊ってのがあるって話聞いたことないか?」 ウエイトレスが行ってしまうと、吉岡がまた話し始めた。 「さあ…。SPみたいなものですか?」 「いや、もっと強力で、もっと凄まじい連中だ。テロや組織犯罪をターゲットに、非合法な事まで踏み込んで隠密に動く」 「へえ、そんなのがあるんですか?」 「いや、単なる噂だ。本当にあるのかどうか、わしには判らない。だが、上層部が躍起になって否定しても消えない噂なんだ。誰が言い出したのか、その連中の事を『シャドウ』と呼ぶようになった」 「遠山周平はその『シャドウ』だったんですか?彼って警察官だったの?」 リエはコーヒーを一口飲むと、興味深々に尋ねた。 「いや、自衛官だ。大学を卒業して陸上自衛隊に入隊している」 吉岡はポケットから、クシャクシャのメモを取り出す。 「遠山の名前が上がったのは『格闘家』の線からだった。仕置き人はかなりの格闘術の使い手のようなんでな。ヤツはその世界はソコソコ有名だったんだよ」 「へえ」 「大学時代は空手の学生チャンピオンだった。ケンカ空手で有名な流派でも一度優勝している。今から7年ほど前、何かの事故で両目を失明して、自衛隊を辞めている。自衛隊時代の彼については良く判らん。どんな事故だったのかも…」 リエは頷きながら、黙って聞いていた。 「やがて彼は盲学校に入り、針などの資格をとった。どこかの治療院でしばらく勤め、一年ほど前に今の治療院を開院した」 吉岡はポケットからたばこを取り出すと、ライターで火をつけた。 「俺がヤツに感心を持ったのは、一番新しい事件が起こった三日後だった」 「ああ、これですね」 リエは切り抜きの一つを指差した。 「それまで何の遺留品も残さなかった犯人が、初めて手掛かりを残していった。黒い毛だ。調べたら犬の毛だと判った」 「そうか。遠山は黒い盲導犬を連れてるんでしたね」 リエが顔を輝かせてそう言うと、吉岡は深く頷いた。 「俺はヤツが散歩してるのを見た。黒い犬。鍛え上げられた体。なぜか『コイツだ』と思った」 「ベテラン刑事のカンですか?だったら犬の毛を照合すればいいんじゃないんですか?」 「上と掛け合ったが、取り合ってくれなかった。『目の見えない人にあんな真似が出来るか』ってどやしつけられた。ま、当然の反応だな。しかし、俺はどうしても諦め切れなかった。一人でヤツの周辺を調べたんだ」 「で、どうなんですか?吉岡さんとしては?やっぱり遠山がホンボシですか?」 「判らん」 「え?」 吉岡の気の抜けるほどの答えに、リエは肩すかしをくわされたようにガックリしてしまった。 「リエちゃん、手伝ってもらえないか。捜査本部の方針は敵対するどこかがプロを雇ったと言うスジだ。だが、俺はどうしてもそうは思えない。殺し屋ならあっさりと撃ち殺してる。あんな手のこんだ芸当はしない。あれは『シャドウ』にしか出来ない芸当だ。もう少し遠山を調べてみたい。だが、俺一人じゃ無理だ。上層部の顔色を見ながら動くのはむずかしい。なんせ俺たちは勤め人だからな」 「判りました。出来るだけの協力はします。面白そうだし」 山口刑事はコックリと大きく頷くと、コーヒーを一気に飲み干した。 「あっ、出てきた…」 山口リエは慌てて建物の影に身を隠した。そうしてから、その必要があるのかどうかが疑問に思えた。相手は「見えない」のだから…。 マンションの正面玄関から真っ黒な犬が出て来た。背中に「白いハーネス」を付けている。 もちろん遠山周平も一緒だった。彼は紺のウインドブレイカーを着込んでいた。 「さあ、ロデオ。トイレが済んだら散歩に行こう」 遠山とロデオは玄関右側の植え込みに向かった。 「けっこう早起きねえ」 リエは腕時計を見た。午前6時42分だった。 彼女がここへ来たのは、6時ちょっと前だった。他の事件の張り込みが一段落したので抜けて来たのだ。当然一睡もしてはいなかった。 「あっ、歩き出した」 リエは眠い目をこすりこすり遠山たちの跡をつけた。目の見えない人間を尾行するのは初めてだった。 「けっこう早足ね…」 遠山とロデオはドンドンと歩いていく。リエは少し離れて歩いたが、時々小走りしないと置いていかれそうになる。 「おはようございます」 「あ、おはようございます」 すれ違った婦人が遠山に声をかける。 「朝のお散歩ですか?」 「ええ。それと、パンを買いに…」 「お気をつけて。ワンちゃんもがんばってね」 婦人はニコニコしながらロデオにも声をかけている。 「盲導犬に声掛けちゃいけないんじゃ…」 リエはふとそんなことを思った。 遠山と別れた婦人がこちらへ歩いてくる。そしてリエの姿を不審そうな目で見た。 「お、おはようございます…」 リエは小声であいさつし、作り笑いをして見せた。 「どうも…」 婦人は軽く会釈をして、サッサと歩いて行ってしまった。 「私…怪しい目つきしてるのかしら…おお、やだやだ。職業病かなあ」 リエはガックリと肩を落とした。そしてハッと思い直して、遠山たちの姿を目で追った。もうずいぶん先を歩いている。 「お仕事お仕事」 リエは冷たくなった両の頬をパンパンと叩いてから、忍び早足で後を追いかけた。 15分ほど歩いて遠山とロデオは「やきたてパンの店」に入った。 リエは店から少し離れたゴミ箱のかげで見ていた。 しばらくすると遠山が大きな袋をかかえて出てきた。 「あんなに買ってどうするのよ。一人暮らしのくせに」 リエは少し怒りの混じった声で呟いた。夕べはコンビニのおにぎりを二個食べたきりだった。 また歩き出した。マンションの方向ではなかった。 「まだ歩く気なの。こっちの身にもなってよ」 リエはもうプリプリしながら尾行を続けた。 「こんなことで何か判るのかなあ」 ふとそんな思いが彼女の足を重くした。 「何言ってるの。刑事の仕事なんてそんなもんじゃないの。無駄に見えることの積み重ねしかないのよ」 彼女はそう自分に言い聞かせながらうつむきかけた顔を上げた。そして、遠山がマンションに帰ったら、とりあえずは中断して、あのパン屋さんでカレーパンを買って食べようと心に決めた。 朝の散歩が終わったのは、一時間歩き回ってからだった。 「特に変わったことなんてなかったなあ…」 リエは公園のベンチに座り、カレーパンを左手に持ったまま、膝の上に置いたノートにとりあえず記録した。 「朝の散歩、約一時間。思ったよりも早足。他の盲導犬はどうなのか」 リエの張り込みは二週間にわたって続いた。むろん他の仕事の合間を見つけてだったが。とりあえずノートにはビッシリと書き込みが出来た。 「ううん、なるほどな…」 そのノートを見ながら、吉岡刑事はうなり声をあげた。何がなるほどなのかとリエは思った。 「特におかしなところはなかったと思います。見えないのにえらいなあとは思いましたが」 リエはミルクティーを一口飲んでから感想を述べた。駅前の喫茶店での「作戦会議」である。 「そうか。そうだろうなあ」 吉岡はたばこを口にくわえて何度もうなずいた。 「吉岡さんの方はどうでしたか。何か判りました?」 「うん…。遠山は金には困ってはいないようだ」 吉岡は煙をフウと吐きながら言った。 「労災年金ももらってるようだし、失明した時に保険金も下りてる。死亡時とほぼ同額を」 「へえ。じゃあ治療院が暇でも『金に困って』という動機ではないわけだ」 吉岡は頷いた。 「それに…」 「え?まだ何か?」 リエは吉岡の顔をマジマジと見た。 「うん…遠山の自衛隊時代の同僚に会うことが出来たんだが…」 「へえ、それで」 「真面目な男だったようだが…とくに目立つというタイプではなかったそうだ。もちろん格闘技だけは、ずば抜けていたようだが…」 「じゃあ、彼が『シャドー』のメンバーだったって言うのは…」 「俺の思い過ごしだったかもしれん」 吉岡は苦笑いをした。 「どうします?これから?」 リエはまた、ミルクティーを飲んだ。 「とりあえず、ホンスジの方に戻ろう、我々も。勝手なことばかりしてると…。済まなかったねリエちゃん。無駄足だったようだ」 「いいえ。いい勉強になりました」 リエはニッコリと笑って見せた。本当にそう思っていた。 「しかし…」 吉岡はまた新しいたばこに火をつけた。 「どうしても気になるんだよなあ…」 ベテラン刑事は名残惜しそうに、リエのノートをテーブルに置いた。 「遠山さん、着きましたよ」 鶴田光一がのんびりした口調で言った。 「え?もう着いたの?ここどこ?」 後部座席で点字本を読んでいた周平は、驚いてキョロキョロした。 「町はずれの廃ビルの前です。何をそんなに一生懸命読んでたんですか?」 「え?ああ、これ?つまらない小説…」 「どうせB級のポルノか何かでしょ」 光一はあっさりとそれを的中させる。タイトルまで言い当てられそうな気がして、周平は慌てて本を閉じた。 「きょ、今日のターゲットは?資料はないの?」 「作るの忘れました。訓練所の仕事が忙しかったもんで」 「困るなあ。そんないい加減な仕事、僕出来ないかも」 周平は何とか優位に立とうと意地の悪いことを言った。 「心配要りませんよ。ちゃんと調べてます。間違いなくあなたのターゲットです」 「だから、どんなヤツ?ヤクザか何か?」 「ヤクザよりタチが悪い。ガキの格好したケダモノどもです」 「子供なのぉ?気が進まないなあ」 「ご説明しましょうか?ヤツらの悪さを」 「あ、いい、いい。僕、怖い話、嫌い。で、そいつらここにいるの?」 「ええ、一階の一番奥の部屋をアジトにしてます。このビル、取り壊しが決まってるんですけど、持ち主の不動産屋が資金難で…」 「何人?」 「10人です」 「えー!?10人もお」 周平は大袈裟に驚いて見せた。 「大した事ないでしょ」 「安すぎるよ。そんな大変な仕事」 「今さら何を…。軽くでいいんです。警察が出来ないような『お仕置き』をね。なんせ相手はまだ子供だ」 「はいはい、判りましたよ。ケチ…」 周平は値上げは無駄だと、やっと諦めた。 「どれくらいかかりますか?」 「さあね。10人もいたんじゃねえ。これ持って来て良かったかな」 周平はポケットから黒いゴルフボールのようなものを取り出した。 「なんですかそれ?」 「昔よく遊んだ『おもちゃ』さ。昨日見つけたんだ」 「なんでもいいですけど、証拠は残さないでくださいよ。この間の毛みたいに」 「判ってるよ。今日はガムテープもちゃんと持って来てるよ。後片付け、手伝ってくれるだろ」 「僕の役目は運転だけです」 光一はキッパリと答えた。 「冷たいなあ。訓練士のクセに。へえへえ。ロデオ、サッサと片付けて、おうちへ帰ろう」 足下で丸くなっていたロデオが、パッと立ち上がった。背中には「黒いハーネス」を付けていた。 「いってらっしゃい」 光一のやさしい声に見送られて、二つの黒い影は崩れそうな廃ビルに吸い込まれて行った。 少しまっすぐに進むと、廊下は左右に分かれた。 「ロデオ、ライト」 周平は小声で命令した。真っ暗な廊下でロデオの目が光った。 やがて、男たちの話声が聞こえてきた。実に下品そうな音だった。 周平はドアの前に立つと、あからさまに嫌そうな顔をしながら耳を押し付け、中の様子を窺った。 「おい、ヤス!食い物と女、調達してこい!」 「ええ?今日はヒロの番じゃねえの」 「俺は酒飲み過ぎでダメダメ」 「ウソ付け!馬鹿みてえに飲むくせに」 「いいから、誰か行ってきてえ。僕、もう我慢出来なあい」 「ギャハハ、どっちがだよ。マサ」 「判ってるくせにい。意地悪う」 「俺は人妻の方がいいぞ。若いのはうるさいばっかで、面白くねえからな」 「勝手な注文言ってんじゃねえ。そんならお前が行って来いや」 「オレ?ダメダメ。力仕事はダメよ」 「ケッ、ゴリラみてえな顔しやがってよ」 「ヒロ、マサ。二人で行けよ。あんまり遅くなると『いい獲物』がなくなっちまうぞ」 「判ったよ。そのかわり俺たちが一番乗りだぞ」 二人の男が立ち上がる気配。ドアに近づいてくる。 周平はドアから耳をはずし、ロデオのハーネスを取った。 「さあ行くよ」 ドアが開いた。 「グアア!」 二人の男は同時にうめいて、同時に部屋の中央まで飛んで戻った。 「な、なんだあ!!」 驚いた他の男たちが、倒れ込んでいる仲間の顔を見た。二人とも鼻がグニャリと曲がっていた。 そこへ黒いボールが飛んで来た。ボールは床に落ちると、ものすごい勢いで白い霧を吹き出しはじめた。 「な、なんだこりゃ!!」 「だ、誰だあ!何者だあ!」 「くそ!ただじゃ済まねえぞ」 男たちの怒号を、白い霧が飲み込んでいった。 たちまち部屋は「白い闇」になった。 「わあ、なんだ。なんか舐めたぞ。オレの顔舐めたぞ」 恐怖の混じった声があがった。その声目がけて黒い風が飛んだ。 「ぎゃあ!!」 悲鳴とともに骨の砕ける音がした。 「ど、どうした。サトル。どうしたあ!!」 その声の方へ黒い風は走る。 「グエエ」 バキバキという音。男の倒れる音。 「窓だ。窓開けろお!!グエエ!」 「わあ、舐められたあ。な、なんなんだいったい!!」 男たちの悲鳴とうめき声。骨のくだける音。 ガシャーン。 ガラスの割れる音がした。冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。 「な、何者だてめえ!!」 「あらら、霧が晴れちゃったのね。まいったなあ」 黒装束の男が頭を掻いて苦笑いしていた。 床には男たちが声も立てず倒れ込んでいる。二人だけを残して。 「てめえ!ぶっ殺してやる!」 ツルツル頭の男…少年なのだろうが…が、サバイバルナイフをかまえた。 「キャア怖あい。何か持ってるのお」 「ふざけるなあ」 ツルツル頭は叫びながら突進してくる。 「ダメだなあ。声だしながらかかってきちゃあ」 黒い男は笑みを浮かべながら、それをかわした。ほんの少し動いただけだったが…。 「こんなオモチャ、僕ちゃんには危ないよ」 「ギャア」 ツルツル頭は叫びながら、握っていたナイフを床に落とした。黒い手袋がその手首を軽く握っていた。 「ほれ」 黒い男がもう一方の手…いや、人差し指一本でその手首を軽くひっかけあげた。 「ヒイ!!」 ツルツル頭は声にならない声を張り上げた。信じられないような苦痛が彼の手首を襲った。男はそれから逃げようと、自ら床に転がった。 「合気道って平和な技だよねえ。すっごく痛いけど相手にケガさせないように出来てる」 黒い男は手首を掴んだままニッコリと笑った。初歩的な合気道の技でさえ、黒い悪魔にかかると『必殺技』になるらしい。 「でも、柔術は違うのよ」 そう言うと、掴んだ手首を捻り上げる。 「ギャア!」 バキッと小気味よい音がした。 「そして空手も」 黒いスニーカーがひらめいた。 「グアア!!」 ツルツル頭の右膝が砕けた。 「放せ!放しやがれ!このクソ犬やろう」 ドアの方から声が聞こえた。 黒いサングラスがその方向に向けられた。もちろん何も見えなかったが。 ドアの前でゴリラ顔の大男が右足を懸命に振り回していた。そのズボンの裾を黒犬が咥えて引っ張っている。 「ズルイなあ。逃げようなんてえ。困るよ、僕」 そう言いながら黒い男は、ゆっくりと近づいていった。 「ウ、ウワアア」 ゴリラ男は恐怖に顔を歪めた。 あっという間にサングラスの顔が、その目の前にきた。 「く、くそう!!」 ゴリラ男が力まかせに足を振り回す。ズボンの破ける音がした。 「ぶ、ぶっ殺してやる!!」 男のグローブのような手が黒い影を捕まえた。 「くたばれえ!」 100キロはあるだろう大男は信じられないような腰のキレで、その技を仕掛けた。柔道の内股だ。見事だった。 「グエ!」 だが宙に舞ったのは大男の方だった。背中から思い切り床に叩きつけられ、息が詰まった。受身など取れなかった。 「ねえきみ、バックドロップってもともとは柔道の技だって知ってる?」 黒いスニーカーが無常に風を切る。 ゴリラ男は声を出さなかった。出せる程度の苦痛ではなかった。 「遅かったじゃないですか」 鶴田光一が不満そうに言った。 「だって、ほら、ちゃんと掃除してきたのよ。それに火の始末も。ストーブが三つもつけっぱなし」 遠山周平は右手にもったナイロン袋を光一に見せた。中には細かく千切ったガムテープが沢山入っていた。 「それくらいしないとね。マナーですから」 「やれやれ、盲導犬ユーザーも苦労が多いよ」 周平は苦笑いしながら後部座席に乗り込んだ。 「殺したりしなかったでしょうね」 「ひどいこと言うなあ。僕がそんな事出来ないこと、知ってるくせに。それに、相手はまだ子供なんだろ」 「こらしめてくれました?」 「うん。でも、大丈夫。二年くらいリハビリすれば、なんとか社会復帰できるはずだ。それにしても、あの仕事であれじゃ安すぎる。なんとかなんない?」 ロデオを足下にダウンさせながら、周平はまた蒸し返す。 「中島所長に直接言ってください」 「あいつケチだからなあ」 白い高級外車は静かに走り出した。 「どうしたの、コースケ?何か見つけたの?」 山口リエはとも綱に引っ張られながら、期待に胸を躍らせた。 彼女は『事件の現場』に来ていた。鑑識からの報告では、特に有力な遺留品は見つからなかったという。 コースケと呼ばれたいかにも賢そうなシェパードは、ビルの玄関の右の方にある雑草の生えたあたりにリエを引っ張って行った。そして地面を忙しなく嗅ぎまわった。 「何?なんなの?」 リエは怪訝な顔で優秀な警察犬の意図を読み取ろうとした。コースケは鼻先を地面に擦り付けるようにクンクンと嗅ぎ続けている。見たところ何も落ちてはいない。 「あ!そうか!!オシッコね!犯人のオシッコね!」 コースケは嬉しそうにシッポを振った。 山口刑事の目がキラリと光った。 「吉岡さんのカンは今まで外れたことないのよ。」 リエはしゃがみ込んで、コースケの頭を撫ぜた。 「きっと炙り出してやる。『どんな手』を使っても、きっと捕まえて見せるわ。きっとよ」 リエは自分の若い全身に、闘志がみなぎってゆくのが判った。
黒いハーネス その2 ---了---
|
|
「それで、どうだったんですか?あの土、何か出ました?」 山口刑事は長い髪を右手でかきあげながら聞いた。 「ああ、出たよ。リエちゃんのいうとおりオシッコが…」 「やっぱり!!」 吉岡刑事の言葉にリエは目を輝かせた。 「しかし、人間のじゃなかった。動物の…たぶん犬のだろうということだ」 吉岡は冷たくなったコーヒーを一口飲むと、またポケットのタバコを探った。 「あの犬のだわ。ロデオとかいう…。ねえ、吉岡さん。犬のオシッコって血液型とかDNAとか判らないんですか?」 「さあ…。判らないこともないんだろうなあ」 吉岡はタバコに火をつけながら気のなさそうな口調で答えた。 「調べてもらってください。私、あの犬のオシッコ採ってきますから。遠山がホンボシだっていう大きな証拠になりますよ」 リエは身を乗り出すようにして吉岡に迫った。 「リエちゃん…。オレは捜査から外されたよ」 「え?」 吉岡は白髪まじりの頭を掻きながら苦い顔をした。 「オレが遠山に目をつけ、例の『黒い毛』を調べさせてくれって言った時、上層部はあからさまに嫌な顔しやがった。そして、今度のオシッコ。今日署長に呼び付けられたよ。『お前、何をウロチョロ嗅ぎ回ってるんだ』って…。組織捜査の時代に『カン』で動くような古いヤツは邪魔になるだけだとさ。もしオレが探ってることが外に漏れたら、『人権屋』に袋叩きにされるとも言われた。オレはこの件ではもう動けない…」 顔を歪めながら悲しそうな目でリエを見た。 「リエちゃんの方はどうだ。今も遠山の所へ治療に通ってるんだろ。何か判ったか?」 彼女は力なく首を振って見せた。 「何も…。石水っていう受け付けの子とは仲良くなりましたけど…」 「そうか…。オレたちだけじゃ無理かもな。時間も力も…。本隊は東南アジア系のプロの殺し屋にターゲットを絞ってるようだ。もしかしたら、そっちのほうが正解なのかもしれん。考えてみりゃマンガみたいな話だよな。盲目の仕置き人なんて…」 吉岡は小さく笑って見せた。 「いいえ。私はますます確信してますよ。絶対!吉岡さんのカンは外れたことないじゃないですか。私、諦めません。私一人でも遠山を 追います。そして必ずシッポを捕まえて見せます!」 リエは勢い込んで吉岡に宣言した。 「そうか。判ったよ。でも無理するなよ。相手は凶暴なヤツかも知れないんだ。それと…もう一つ判ったことがあるんだが…」 「え?な、なんですか?」 「大した事じゃないんだが…。遠山のヤツ、毎週水曜日の夜、電車に乗ってどこかへ出かけるんだ。この二ヶ月間、おそらく毎週。もしかしたら以前からなのかもしれないが」 「どこへ!どこへ出かけるんですか?」 「判らん。尾行しようとは思うんだがなかなか時間がとれなかった」 「水曜日?水曜日って今日じゃないですか」 吉岡は静かに頷いた。 「もうすぐこの前を通る。だから待ち合わせに駅前のこの店を選んだんだ」 リエはテーブルわきの大きな窓をみた。駅に向かう人たちの様子がよく見えた。 「リエちゃんは、今日はどうなの?オレはこれから張り込み。例の『窃盗犯』のヤマ」 「私も、10時には張り込みの応援です」 「そうか。それまでには、ヤツの行き先ぐらいは押さえられるかもしれん」 リエは大きく頷いた。 「吉岡さん。例の少年たちはどうなんですか?何かしゃべりましたか?たとえば犬を見たとか」 「ダメだ。何もしゃべらん。相当怖い目に遭ったらしい。何人かは未だにフラッシュバックがあるらしい。みんな病院で、借りてきたネコになってるよ」 「誰か見てるはずですよね。時間が経てば何か…」 「無理だと思うよ…」 吉岡はまた新しいタバコをくわえた。 「吉岡さん、タバコ辞めたらどうです。体に悪いですよ」 「リエちゃんまで…。娘と嫁さんに言われ続けてるんだから…」 「うちの署でも禁煙になりそうですよ。署内全部」 「えー!!それじゃ転職考えないと…。あっ、来たぞ!ヤツだ!」 吉岡に言われリエが窓を見る。 遠山周平が真っ黒な犬に誘導されて、こちらに歩いてくる。のんびりとした顔で。 「いってきます。ここ、お願いします」 「気をつけてな。相手は『元シャドー』かもしれないんだから」 「それって尾行がバレるかもしれないってことですか?」 コートを着込んだリエが振り返って吉岡の顔を見る。 「大丈夫ですよ。これでも一応プロですから、私も」 「そうだな。しかし、あの犬もただの…いや、考え過ぎかな…」 吉岡の肩越しに窓の向こうを遠山の姿が通り過ぎた。 「いってまいります」 リエは小さく敬礼してから、急ぎ足で入り口に向かった。 黒犬に誘導された男は、人ごみを縫うようにして駅に向かって歩いていく。 リエはコートの襟を立てその5メートル後を歩いた。 やがて男は中央改札に向かうエスカレーターに乗り込む。 「へえ、盲導犬ってエスカレーターに乗れるんだ」 リエはついつい感心してしまった。尾行中だと言うことも忘れて。 遠山は迷うことなく切符の販売機に向かう。小銭を入れるのにちょっとモタモタしたが、どうやら無事に買えたらしい。自動改札に向かう。 リエは駅員のいる改札に行き、チラリと手帳を示した。 若い駅員は一瞬顔をこわばらせたが、すぐに小さく会釈した。さほど珍しいことではなかったからだ。しかし、こんな美人の刑事はやはり珍しい。 電車がホームに到着する。ロデオと遠山が乗り込む。リエは彼らと違うドアから…。 車内はけっこう混んでいた。椅子は満席だった。遠山から少し離れたドアの前で、リエは横目で様子を窺っていた。 「あのう、ここ空いてますけど…」 若い女性が椅子を空けて遠山に勧める。 「あ、いや。大丈夫です。すぐ降りますから」 「でも…。どうぞ…」 「そ、そうですか。それじゃ…」 女性に手を引かれて遠山は空席を埋める。 「かわいいワンちゃんですねえ」 彼女は遠山の前を離れず、彼の足下にうずくまった黒犬をやさしく見つめ続けている。 「ロデオって言うんですよ」 「へえ、いい名前ですね。盲導犬ですよね?触っちゃダメなんですよね…」 「あ、いいですよ。あなたなら」 「え?ほんとですかあ。私、犬大好きなんです」 女性はその場にしゃがみこんでロデオの頭を撫ぜまわした。 「調子いいヤツ…」 リエは窓の外を睨みながら小さく呟いた。 10ほどの駅を通り過ぎた頃、遠山が立ち上がった。 「あ、降りるんだ…」 リエも慌てて身構えた。 ドアが開き遠山が降りる。リエも別のドアから彼を追う。 遠山とロデオは駅を出てドンドンと歩いて行く。 「どこまで行くのかしら…」 リエはそのあとを追いながら、時間が気になり腕時計を見た。もうすぐ8時だ。 「ここからだと9時過ぎには戻らないと…」 リエは少し焦った。せめてどこへ行くのかだけでも確かめたい。前の二人?はどんどん歩いていく。 15分ほど歩いただろうか。やがて犬と男は小さなビルの中に入った。 「やった。突き止めたわ」 リエは彼らがドアの中に消えるのを確かめてから、その建物に走り寄った。 「杉山空手道場??」 ドアの横に木製の看板が架かっていた。空手の道場とは。彼はここで練習をしているのか。 「なんだかガッカリかな…」 リエはドアの前で思案した。どうする?入ってみるか? 「うちに何かご用かな?」 突然背中から声を掛けられ、リエは飛び上がるほど驚いた。振り返ると小さな老人がにこやかに立っていた。周囲に気を配っていたつもりなのに、いつの間に…。 「え、いや、あの…」 「空手に興味がおありなら、どうぞ中へ。見学だけでもけっこうですよ。うちは若い女性が多いんですよ。特に今日は女性ばかりだから。さあ、どうぞ」 老人はサッサとドアを開けた。リエは戸惑いながらも後に続いた。 「エイ!」 「ヤア!」 黄色い掛け声が聞こえた。なるほど女性ばかりらしい。 「さあ、ここで靴を脱いで。その下駄箱に入れてください」 老人はサッサと前に進む。重そうな木製の開き戸を開ける。 「みなさあん。集まって。集まってくださあい!」 キリリとした若い女の声が響いた。バタバタという足音。 「さあどうぞ。ここにお座りなさい」 老人に勧められてリエは道場の隅に座る。 百畳ほどの広さだろうか。そこに30人くらいの若い女性ばかり。 「みなさんお待ちかねの遠山先生の護身術教室ですよ」 若いポニーテールの空手着姿の女の隣に、これも空手着に着替えた遠山周平が立っていた。今まで見たこともない精悍な姿だった。 「孫娘です。鈴華(れいか)と言うんですが、ジャジャ馬で困ります」 リエの横にあぐら座りした老人が目を細めながら言った。リエはコートを脱ぎ、板の間に正座していた。道場の向こうの端にロデオが丸くなっているのが見えた。 「みなさん、こんばんは。今日は先週の復習です。覚えてるかなあ。まず、肘打ち」 「ハーイ」 遠山周平の言葉に生徒たちは元気に答える。 「ええと、誰かやって見せて」 「はいはい、私やるう」 目の大きな少女が手を挙げながら前へ出てくる。 「じゃあユキちゃん。僕のおなかでやってみて」 「はーい」 少女は遠山の前に背中を向けて立った。 「いいかい。いくよ。男が後から襲いかかってきたら」 そう言いながら周平が大きく手をあげて、少女に抱きつこうとする。 「えーい!」 少女は振り向きざま右の肘を周平のみぞおちに。ドスッと音がした。 「そうそう。いいタイミングだ。それでいい」 「わあ、私もやりたあい」 数人の声があがった。 「じゃあ順番にきて」 キャアキャア言いながら次々と前に出てくる。そして周平のみぞおちを肘で突く。 「キャア、先生。エッチイ!」 「ずるうい。まどかったらわざと先生に抱きつかれてえ」 「だってえ。先生、素早いんだもおん。私、防ぎ切れないわ」 「うそつけ!サッサと離れなさいよ!」 これが空手の練習か。リエは思わず苦笑してしまった。 「遠山くんの練習は人気があるんですよ。今日なんかまだ少ないほうかな」 老人がニコニコしながら説明する。 「はいはい。みんな肘打ちはバッチリだ。他のは覚えてる?」 「はーい。膝でキンタマ蹴るやつ!」 「それも練習させてくれるのお?」 「あ、いや、それは…。ほ、ほかに」 「目潰し!3本の指でやるやつ」 「そうだった。人差し指、中指、薬指。みんな覚えてる?」 周平が右の指を3本立ててみせる。 「こうやって下から顔を撫ぜ上げるように。中指で眉間を狙って。こうだ」 「わあ、かっこいい」 生徒たちから拍手が起こる。 「真正面から突いたらダメだよ。簡単に除けられちゃうからね。それと、相手がひるんだら一目散に逃げること。やっつけようなんて思っちゃだめ」 「なあんだあ。つまんなあい。やっつけるワザ教えてくれないんですかア」 「とんでもない。男を甘く見ちゃだめ。イザとなると狼なんだから」 「でも先生、もし逃げられなかったら?たとえば相手が何人もいて」 「ううん、そうだなあ」 周平が腕組みして考え込んだ。 「もし砂や土があったら…大事なところにタップリすり込んじゃえ。そうすれば犯されることはない。男のほうが痛くて出来ないんだ。何もなければ諦めることだな」 「大事なところって?」 「きゃあ!先生、エッチ!!」 生徒たちは大騒ぎとなった。 「はいはい。とにかく危ない所へは行かない事よ。判った、みんな」 レイカがパンパンと手を叩きながら真面目な顔で言った。 「さあ、二人づつ組になって復習して!いいわね」 生徒たちが道場いっぱいに散る。キャアキャアと声を上げながら練習?が始まった。 リエは腕時計を見た。もう9時を過ぎている。 「あ、あの…私、帰ります。時間がないもので」 「そうですか。またおいでなさい。水曜日はいつもこんなだから。気軽に来てみてください」 老人にやさしく見送られて、リエは道場を後にした。 駅に向かう道を歩きながら、リエは小さくため息を漏らした。 「やっぱり違うのかなあ…」 リエが張り込みの先発隊と合流したころ、道場では老人と周平が向かいあっていた。 「どれ、わしも一つ汗を流すかな」 「冗談きついなあ。先生に汗なんかかかせられませんよ、僕なんかじゃ」 「そんなこともないさ。どら、少しはカンが良くなったかな」 老人は無造作に足を進める。スウっと周平の後に廻り、ゲンコツで頭をポカリ。 「あいたあ」 「なんじゃなんじゃ。まだまだこんなもんか」 「だって先生。僕、目が見えないんですよお」 「バカたれ!わしだってさっきから目をつぶっとるわい!この軟弱者!!」 ポカポカと頭をなぐられ、周平は道場じゅうを逃げ回る。 「よし!今日はその腐った根性を叩き直してやる。タップリとな!」 「お、お願いします。でも2時間ほどすると迎えがくるもんで、それまでなんですけど」 「なんじゃ。今日は二人で朝まで飲もうと思っとったのに。つまらんのう」 「すいません。アルバイトなんです」 道場の隅でレイカとロデオが楽しそうにじゃれ合っていた。 「ねえツルちゃん、今日のターゲットはどんなの?」 後部座席で遠山周平がのんびりした声で聞いた。 「そこに封筒が置いてあるでしょ。今回はちゃんと資料作っておきましたよ」 ハンドルを右に切りながら、鶴田光一が答える。 「え?ああ、はいはい。ご苦労さまでございます」 周平は封筒を見つけると、中から点字用紙の束を取り出した。 「ふむふむ。今回は三人か。ふむふむ。へえ、フリーライターと刑事と用心棒?なんかすっごく悪そうな組み合わせだなあ」 「ええ、絵に描いたような悪人どもです。依頼者も3人もいます。けっこういいでしょ、今回のバイト料」 「そうだな。あのシブチンの中島所長にしちゃ大盤振る舞いだな。それだけに、なんか不気味。ねえツルちゃん、なんかあるんじゃないの?」 「ピンポーン!さすがに鋭い!実はそうなんです」 光一が嬉しそうに右手を挙げる。 「遠山さん。その『用心棒』の名前に記憶ありませんか?」 「え?ええと…スォン リー…か。さあ…」 「台湾生まれのプロの用心棒です。10数年前、格闘技界で一躍有名になった天才的なカンフー使いです」 「ああ、思い出した。そう言えばそんなヤツがいた。大きな大会にいきなり出てきていきなり優勝して…。それも圧倒的な強さで。だけどそれきりどこかへ消えちゃったらしいけど」 「闇の世界に飲み込まれちゃったんですよ。どんな事情かは判りませんが。今じゃ超一流の闇の用心棒です。必要なら殺しもやります」 「ロデオ。帰ろうか」 遠山は足下にうずくまるロデオの頭を撫ぜた。 「あと10分ほどで着きます。別荘の見取り図は頭に入りましたか?今ごろは一階のリビングで酒盛りです。女性も3人一緒です。クモの巣に捕まった可愛そうなチョウチョです。どうします?彼女たち?」 「ツルちゃん、別荘の電気止められる?それとハンカチかタオル貸してよ」 「電気は止められます。高いですよ、僕のバイト料」 「ええ!お金取るのお!ボランティアじゃないのお!」 「欲しい専門書があるんです。訓練所に頼んでるんですけど、なかなか買ってくれなくて。なんせうちの所長ケチだから」 「おおヤダヤダ。この仕事で、足洗おうかなあ」 「ハンカチなんかどうするんですか?」 「だって、罪もない女の人、殴ったり蹴ったりできないでしょうに」 「どうするんですか?」 「首締めるの。大丈夫。4、5秒で気を失うから。苦しくないし」 「遠山さん」 光一が真面目な声で言った。 「あなたと知り合いでよかった」 「ねえツルちゃん。前から思ってたんだけど、どうしてバイトの時、ハーネスを黒に変えなきゃいけないの?」 「そのほうがかっこいいでしょう」 「そうかなあ」 「まあ、中島所長の最後の『良心』なんじゃないですか。盲導犬には悪いことはさせられないっていうところかな」 「盲導犬ユーザーも大事にしてっていっといてくれ」 「はいはい。さあ着きましたよ。どれくらいのタイミングで電気消します?」 「そうだなあ。僕が『キャア』って悲鳴あげたら」 周平は首をポキポキと鳴らして降りる準備を始めた。 「おいスォン。そんな難しい顔してないで、こっちへ来て一緒に飲まないか」 フリーライターの山辺が真っ赤な顔をして、リビングの隅に座っている男に声をかけた。 「山辺さん、いいじゃないの。あいつはオレたちとは違うんだよ。プロ中のプロなんだ。酒や女には興味がないんだとさ」 悪徳刑事の西崎が怯えきった娘を無理やり抱き寄せながら、グラスのバーボンをあおった。 「今日はいいのをそろえたじゃないの、山辺さん」 「ワハハ、そうだろう。その子なんかまだ18だぞ。こっちのは30だが、私はこう言うのが趣味でね。スォンには大和撫子を用意したんだが無駄だったかな」 山辺はキツネのような顔を更にイヤらしく歪めながら、隣で怯えている女性の肩を抱いた。 「そっちもオレの好みだ。いらねえんならいただきますよ。それにしても、どんな弱みを掴まえたんです?」 「ワハハ、それは企業秘密だよ。搾っても大した金にはならんからな。暫くは遊ばせてもらうさ」 フリーライターはさも楽しそうに笑った。刑事も意味もなく高笑いする。 広いリビングの真ん中に豪華な応接セットが置かれている。二人の男はそれぞれ女を脇に座らせて酒を飲んでいた。もう一人の女がこわばった顔で水割りの世話をしていた。 部屋の隅で痩せた長身の男が、床に座りこんで黒光りする拳銃の手入れをしていた。 「腹が減ってきたな。何か作ってもらおうか。台所に材料は揃っているはずだ。おい、女たち、何かうまいものを作って来てくれ」 「ええ?みんな行かせちゃうんですかあ。寂しいなあ」 「ワハハ、西崎君、夜は長いよ。それに仕事の話もちょっとしておきたい。そろそろ大口のを掴まえないと、遊んでばかりもいられないからねえ。さあ、行った行った」 三人の女は逃げるように、リビングを出ていった。 「大丈夫かい、山辺さん。あの女たち…」 「ワハハ、心配ないよ。ちゃんと急所は握ってある。三人とも上流社会のお嬢さん育ちだから、しゃれた真似なんか出来んよ。それより、例の話、どうなんだ?金になりそうか?」 山辺はずるそうな目を光らせて、西崎刑事の顔を覗くように見る。 「ううん、もうちょっと時間がかかるかな。なんせ大物だからな。慎重にやらんとこっちが危ない。でも、今度のは儲かりそうですよ」 西崎の方はスッカリ女のほうに気が行ってしまっているようで、いつもは鋭い目つきも好色そのものに変わっていた。 「早いこと頼むよ。そう言う大ネタはヤッパリ国家権力には敵わない。我々のような二流のライターじゃあ、小遣い稼ぎのネタしか掴めんからねえ」 「ご冗談を。山辺さんの情報網は警視庁よりすごいって噂ですよ」 「ワハハ、それは昔のこと。今はあんたに頼りきってるよ。お願いしますよ、ほんと」 山辺は空になった西崎のグラスにバーボンを注いだ。 「キャアア!!」 その時『絹を裂くような悲鳴』がドアの外であがった。 「な、なんだ!」 二人の男は慌てて立ち上がった。 リビングの照明が消えた。部屋は真っ暗になった。 ドアの開く音。何かが飛び込んできた。 「うわあ、なんだ。何かがオレの顔を…。くそ!」 西崎が反射的にピストルを引き抜き、引き金を引いた。 ズドン! けたたましい銃声が部屋中に響き渡る。 「バ、バカ!撃つな。仲間に当たったらどうする!」 「グワア!」 山辺の怒鳴り声に重なるように、西崎の絶叫が…。 「お、おい。西崎。どうした。どうしたんだ」 西崎のいた場所からボキボキと嫌な音が聞こえた。だが、西崎本人はもう声を出さない。 「ヒ、ヒイ!」 今度は山辺の悲鳴があがる。黒い闇がこちらに飛んでくる恐怖に…。 「ギャアアア!」 やがて静かになった。 部屋は恐ろしいほど静かになった。何も聞こえない。 部屋の隅で殺気が湧き起こった。 「大したもんだな。何もする暇がなかった」 ぞっとするほどの冷たい声がした。 「へえ、日本語うまいんだあ」 のんきそうな声。 「お得意さんが多いんでね。しかし、たった今良い金づるをなくしてしまった。また仕事探さないとな」 「ごめんごめん。悪気はなかったんだ」 「いいさ。礼はさせてもらう」 「礼なんていいよ。だって僕、今から君もやっつけなきゃならないの。お仕事のうちに入ってるんだ。ごめんね」 「ふっ」 冷たい笑いが漏れたかと思うと、右手の拳銃が火を噴いた。 周平の耳元でチューンというような音がした。黒い大きなサングラスが吹っ飛んだ。 「わ、びっくりしたあ。いきなり撃たないでよお。これ、借り物なのにい」 「今度はもっとびっくりさせてやろうか」 「こんなに暗いのに、よく見えるねえ」 「フッ、お互い様だろうに」 「さすが、カンフーの天才、スォン リー。僕なんかとは格がちがう」 長身の影がゆらりと揺れた。 「オレのことを知っているのか」 「そりゃもう。格闘技やっててスォンを知らないなんてもぐりだよ」 「フッ。そう褒められちゃあ、銃を使うわけにはいかないな。そらよ、ワンちゃん」 スォンはポイと拳銃を投げ捨てた。ロデオがそれをパクリと受け止める。 「さあ、いってみようか」 スォンの体がピョンピョンと軽く跳ね始める。 「オッケー」 周平も構えた。両足を肩幅に開き、両手は軽く拳を作る。 トントンとダンスステップのような軽快な床音をたてながら、スォンがジリジリと間合いを詰めてくる。周平は動かない。やがてスォンの前進は止まった。その場でトントンと跳ね続ける。 「大した男だ。殺気のかけらも感じさせない構えなのに、このオレがこれ以上間合いを詰められない」 「考え過ぎじゃないの?攻めてみると案外もろいかもよ」 「フッ、その手に乗るか。ヤッパリ銃でやるべきだったな」 床を鳴らす音がトーントーンに変わった。だがまだ攻めては来ない。 「どうしたの?あんまり遅いとこっちから行くよ」 スォンの返事はなかった。トーントーンという音だけが部屋に響いた。 周平の額から汗が滲み出した。彼もまた無言になる。 1分、2分…いやもっと長い沈黙。 耐えかねた周平が両手を大きくクロスさせた。 「クオオオオ」 長い奇妙な声を発した。 「ふん、空手の息吹きか。こけおどしだな」 スォンの声に微かなあせりが…。 「チョオー!!」 おかしな掛け声が宙に舞った。スォンが飛んだのだ。 次の瞬間、周平の体もバネのように跳ねた。 上から攻められては不利だ。だから自分もとぶ。それは直感としかいいようのない判断だった。 「な、なにい」 空中で静止したスォンが驚きとも怒りともつかない声をあげた。 周平の方が高く飛んでいたのだ。 「練習不足じゃないの」 「チイ」 スォンは態勢を整え右の蹴りを放ったが、それは焦り以外の何ものでもなかった。周平は両手で軽くブロックする。バランスを崩したスォンは仰向けで床に落ちる。その上から周平が…。 「あっ」 からまるように床にころがった二つの影。しかし、気がついた時にはスォンの右腕は耳を挟むように伸ばされていた。周平の右腕が彼の首にからみつく。肩と頭で伸ばされたスォンの右腕を固める。 肩固め。柔道の地味な固め技だ。しかし、この技は締め技でもあった。 「グウッ」 寝技はスォンの戦いにはない。特にカンフーではこんな無様なことはない。 彼は何とか反撃しようとした。何とか離れて立ち上がらなければ。しかし、この態勢では有効なキックは放てない。何とか使える左手でパンチを出そうと体を捻った。 「ぐっ」 首の締付けがさらに深くなる。周平が力を強めたわけではない。動けば動くほど絞まるようになっているのだ。 最後の力をこめてスォンが左の拳を周平の頭へ…。 「あいたあ」 周平は子供のような悲鳴をあげた。 スォンの全身から力が抜けた。 周平がゆっくりと立ち上がる。 「異種格闘技の戦いでは、なぜかこの『しめわざ』が効くらしいのよ。僕もテレビで知ったんだけど。やっぱり日々勉強、日々練習」 闇の中に骨の砕ける音が、不気味に響いた。何度も何度も。 「夕べは何時に帰ってきたのかしら」 腫れぼったい瞼をこすりながら、山口リエは呟いた。 目の前をロデオと遠山周平が歩いていく。午前7時ちょっと前。 リエの前を通る時、ロデオが嬉しそうにシッポを振って見せた。 「こんなことしてても無駄かもね…」 リエは立ち止まったままロデオたちを見送った。 むこうから吉岡刑事が走ってくるのが見えた。 「あら、吉岡さん。なんにも変わったことありませんよ。私、帰って寝ます」 「そうじゃないんだリエちゃん。ちょっと耳貸して」 荒い息を整えながら吉岡がリエに耳打ちする。 「え?!」 リエの顔がみるみる緊張でこわばっていく。 「ヤツは…。夕べはどうだったんだ?」 「どう…どうって言われても。私、さっき来たばかりだから…」 「そうか…」 立ち尽くす二人の前を、焼きたてパンの袋を抱えた遠山がのんびりと歩いていく。 ロデオがまたシッポを振って見せた。
黒いハーネス その3 ---了---
|