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長編小説 蝋梅(ろうばい)

文:うらら

目次

その1

その3

その5

その7

その2

その4

その6

その8






◆その1◆

 美咲[みさき]は、洗濯物を干しに外に出た。一月の風は暖かい香川とはいえ、さすがに頬に突き刺すように冷たい。美咲は手にしたタオルを干しながら、ふと手を止めた。

(おや、これは蝋梅の香りだわ)

 喜びに心が躍った。急いで洗濯物を置いたまま、治療室の前に植えられた蝋梅の方へと足を進めた。自分の身長より、やや大きくなった蝋梅の枝に両手の指で触れてみた。いつ咲いたのか、枝にはいくつかの花が優しい香りを放って咲いている。

「何だか、懐かしい匂いがすると思ったら、やっぱりあなただったのね。今年もあなたに出会えて嬉しいわ」
 美咲は花に語りかけながらゆっくりと顔を近づけた。

「あなたも寒気に耐えて生きているのよね。これまで、あなたにどれだけ励まされたことやら…」
 美咲の言葉に、触れている指の下で花が頷いたような気がした。

 蝋梅は中国の原産で、日本の梅とは異なるそうだ。十二月の末から、二月にかけて二・三センチほどの小さな花を咲かせる。外側の花弁は黄色、内側のは暗紫色で、蝋細工のような光沢があると庭師が言っていた。確かに花びらに触れると、肌理が細かくて艶やかな感触がある。

 あまり派手な花ではないとのことだが、目の見えない美咲は寒気の中でも甘やかな香りを放って咲く蝋梅が子供の頃から好きであった。そのため正則[まさのり]と結婚をして[かほり治療院]を開業したときにも、記念に庭に蝋梅を植えてもらったのだった。

(ああ、やっぱりとても甘やかで素敵な香りだわ)

 美咲は大きく深呼吸をして、花からそっと顔を離した。蝋梅が咲くと、毎日、一度は花に触れて蝋梅から元気をもらうのが日課である。  美咲は花に触れながら、そっと呟いた。

「もし私の目が角膜が悪いだけで、あの時あの方の目をいただいて見えるようになっていたら、今頃どんな人生を歩んでいたかしら。あなたに心を引かれることも、正則さんとも出会えなかったかもしれないわよね。そう思えば、人の運命なんて分からないものね」
 美咲は子供のときの経験を思い出して、出会いの不思議とありがたさを思った。



 美咲は母親に手を引かれて、電車に乗っていた。まだ単独歩行ができない美咲が出かけるときには、いつも母が側にいた。

「夏休みなのに今日は空いているのか、あまりお客さんの声がしないね」
「そうやねぇ。この車両には二十人くらい乗っているかしらね」
 一宮に住んでいる美咲は母親に連れられて、高松琴平電気鉄道の電車に乗って、瓦町へ母と美咲の洋服を買いに行く途中である。まだ小学六年生の美咲は、目が見えないこともあってそれ程はファッションに興味が無い。それでも、昼食に何か食べさせてもらえるのではとついて来たのだった。
 車掌が仏生山駅が近づいていることをアナウンスしている。

「琴電の電車は走る博物館と言われているんだ。だから、父さんのようにマニアにはとても魅力的なんだよ」
 嬉しそうに銀行員の父が言っていた。都会で使わなくなった電車を購入して走らせているだけに、駅近くになると大きく一揺れしたかと思ったら、歴史を感じさせるように、キーキー、ゴットンと音を立てて止まった。

 時間が午前十時近くになっていてラッシュ時は過ぎていることもあり、仏生山駅からも乗り込む人は少ないようだ。足音が間をおいて中へと進んで行く。まだ全ての車両にクーラーが設置されていない頃だ。開け放された窓から、スピードに合わせるように八月の暑さを含んだ風が美咲の三つ編みの髪をなびかせながら流れ込んでくる。

 発車してから数分してのことである。窓に沿って長椅子がある向かいの席に腰掛けていたと思われる人の足が、美咲の前へと進み出てきた。六十過ぎと思われる女性が、ためらっているような声で話しかけてきた。

「あのう、大変失礼ですが、もしかしてお嬢さんは目がご不自由なのでは…」
 母親が訝かし気な声で答えた。

「はい、そうですが。それが何か?」
「ごめんなさい。突然に変なことをお訊きして。私は三つ向こうの栗林駅で降りますので、急いで話をさせてくださいね」
 そう言ってから、女性は早口で話し出した。

「もし、よろしかったら私の目をお嬢さんに差し上げたいのですが」
 美咲は、女性の言葉に驚いた。

(えっ、私に目をくれるって。目をくれるって言うことはこの人の目をくり抜いて、私の目に入れるっていうことなの!)

 美咲は自分の目をのけて人の目を入れるなどということは、想像さえしたことが無い。それだけに、女性の申し出が嬉しいというよりは、恐怖さえ感じて母親の腕を握り締めた。
 母親も、見知らぬ人からの唐突な申し出に驚いた様子である。母親は一呼吸おいてから答えた。

「ありがとうございます。眼球の移植で治るものでしたら、早くに私の目をこの子にやっています。今、移植ができるのは角膜だけなのです。それに、この子の疾病は角膜では無いのです」
 周囲の人たちも、女性の奇異な申し出が気になるのか、話し込んでいた人の声も止んで、こちらの様子を窺っているようだ。女性は母親の言葉に、声を落として言った。

「そうですか。私はもう六十五年も生きてきて、十分いろんな物を見させてもらいましたし。平均寿命からみても、残された人生はそんなに長くはないと思いますしねぇ。これからの余生は、見えなくても生きていけると思うのです。それよりも、もし私の目をお嬢さんに差し上げることができたら、まだまだ長い人生に光を注いであげることができるのではと思ったのですが……残念です」
 女性は力なくそう言ってから、美咲の手を握り締めた。

「元気でがんばって生きていってね」
 優しい声で励ましてくれてから、気を落としたように重い足音でまた前の席に戻って行った。美咲も母親同様に、知らない人からの突然の言葉に、呆気にとられたまま何も言えずにただ頷くだけであった。しばらくは、今の女性の言葉が心の中で波紋となって広がったが、直ぐに昼食のことが気になってきた。

「ねえ、お母さん、何を食べさせてくれるのよう」
「またお昼ご飯のことが気になってきたの」
 美咲は胸をときめかせて、母親の返事を待っていると、先ほどの女性が声をかけてきた。

「では、私はここで降りますから。これで、失礼をいたします」
 栗林駅で電車が止まると、女性は乗降口へと向かったのか足音が消えていった。母親が、慌てて背中に声をかけた。

「あのう、お名前を」
 返事は無く、すでにホームへと降りた様子である。結局、どこの誰か名前も分からないままであった。
 美咲は、女性が降りてから母親に小声で言った。

「すごい人やねぇ。知らない人に自分の目をあげるって言うのだから。もし私が目を頂戴って言ったら、あの人どうしたのかしら。ほんとうにくれたと思う」
「さあどうかなぁ。なかなか言えないことよね。でも、あの人どうしてあんな事を言ったのかしら。何か余程深い事情でもあるのか、かなり思い詰めたような顔をしてたわねぇ」
 母親はそう言ったまま、何やら考え込んでいるのか黙ってしまった。まだ小学生の美咲には、女性の心情までは想像することができない。

 美咲は生まれながらに光の世界を知らずに、闇の世界ばかりでずっと暮らしていて、これが普通だと思っている。これまであまり視力が出ることなど、想像したことも無い。

(もしも、私の目が角膜だけが悪くって、あの人の角膜をもらって目が見えるようになったら…)

 想像をするにも、見たことが無い世界だけに思い浮かべようが無い。

(目が見えたらいろんな物が見えて便利だと思うけれど、漢字も覚えなくっちゃいけないしなぁ。見えたら見えたで不便なこともたくさんあるような気がするよなぁ)

 闇の世界しか知らない美咲には、今が一番良いような気がした。
 瓦町駅近くになって、母親が溜息混じりにポツリと言った。

「ほんとうに、角膜の移植だけで美咲の目がみえるようになったら、どんなに良いかしらねぇ」
 母親の心の中には、娘の諦めていた光の世界への願いが再び思い起こされて、余計に悲しみを深くしたのかもしれない。
 車掌が瓦町駅に着いたことをアナウンスしている。電車がまたガタンと大きく一揺れして止まった。母親が美咲を誘導して乗降口へと足を進めた。

(そうかぁあ。目が見えたらお母さんの手を借りなくても、自由に一人で歩けるんだ)

 美咲は、やはり光の世界にいる方が便利なのだと思った。そう思えば、何だか自分だけが不便な世界に住んでいて、毎日とても損をしているような気がしてきた。駅を抜けて商店街に行くと、夏祭りが近いこともあって、盆踊りのテーマ曲が賑やかに流れている。

(やはり見えるようになりたいなぁ)

 と思っていた心もどこかへ飛んで、商店街の賑やかな雰囲気に心を奪われていった。

 母親の話では、以後、何度電車に乗ってもあの時の女性には一度も出会うことは無かったそうだ。今、思い起こしてみても、まるで狐に化かされたような話である。そのくらい、奇異な申し出であった。



 あれから、三十年以上の歳月が流れた。美咲の心の中には、あのときの女性が何を思ってあのように声をかけてくれたのか、今でも時折、疑問を持つことがある。

(もし目をくださいと言えば、命の次に大切だとも言える目を、あの女性はほんとうにくださったのだろうか? それにしても、どうしてあのような申し出をされたのか。どんな人生を歩んで来られた人なのだろうか)

 美咲の脳裏に様々な想像がよぎった。手仕事に従事する人なのか、握手をしたときの少しかさついた女性の手のひらの感触が、今も美咲の心に温かさを残している。
 小雪を乗せた一月の風がそよいで、蝋梅の甘い香りが美咲の顔を包み込んだ。

(ああ、今年も元気でこの香りに出会えて幸せだわ。一生の内に出会う人は多いけれど、あそこまで言ってくださる人と出会えたことは幸せよね。きっと余程苦労をして、人生の終焉までに人のために尽くしたいと思って言ってくださったのかもしれない。人間、それぞれにいろんな苦労を抱えているもんね)

 そう考えて、言ってくださった言葉を時折思い出しては、これまでも心の励みにしてきた。
 蝋梅に触れながら当時のことを思い出していると、家の中から正則が声をかけてきた。

「おおい。外にいるんかぁ」
「はあい。ねぇ知っていた。蝋梅が咲いたのよ」
「えっ、そうかぁ。それは気がつかんかったなぁ。じゃあ、また美咲の蝋梅へのお百度参りが始まるんやのぅ」
 正則が大きな声でカラカラと笑った。

「そうよ。だから、また蝋梅に元気をもらっているのよ」
「蝋梅も良いけど、いつまでもそんな所におおると風邪を引くで」
 正則の変らない優しい声を聞きながら、あらためて正則と出会えた幸せを実感した。美咲は蝋梅に心を残しながらも、物干し台の側に置いたままにしていた洗濯籠を持って家に入った。

「ほんとうに、美咲は蝋梅が好きやなぁ。よくまあ、毎年飽きずに花に触れているもんや」
 正則が呆れた声で言った。

「自分でもそう思うわ。でもねぇ、蝋梅に語りかけていると、願い事まで聞いてくれるような気がするの。それに、『私のように強く生きるのですよ』と励ましてくれているように思うのですもの」
 美咲は正則に話をしていると、ここに到るまでの様々な出来事が、その時々の思いを絡ませながら脳裏に蘇ってきた。

 三歳年上の正則と結婚をしたのは、美咲が二十三歳のときだ。互いに全盲のために相手の顔が見えないこともあり、顔の好みは選択できないが、正則とは合唱の趣味が合うことや、穏やかで優しい性格に引かれたのだった。正則とは盲学校で小学部から高等部までずっと一緒に過ごして、兄弟のように接していた。その上、同じ治療院に勤めていたので、結婚をしたとはいえときめくような感動は無かった。

 それでもウェディングドレスを着たときには、これで正則の妻になれたと思うと、女としての平凡な喜びが全身を包み込んだ。美咲はサラリーマン家庭に育ったが、正則は兼業農家の次男である。土地に余裕があることから、結婚の話が決まると舅が言い聞かせるように言った。

「家を建てられるだけの土地はやるけん、二人で力を合わしてローンを返していけよ」
 住居を兼ねた治療院が建てられるだけの宅地を提供してくれた。

 その上、庭造りが好きな舅が美咲のために、それぞれの四季に花が咲く四本の樹を植えてくれた。  美咲は舅が植えてくれた樹の幹を手で触れてみた。沈丁花、梔、金木犀、蝋梅と撫でていくと、どの樹に触れても今にも甘やかな香りがそよいでくるような気がして、思わず美咲の顔に笑みが浮かんだ。
 側にいた正則もにこやかな声をかけてきた。

「美咲、よかったなぁ。親父は口数は少ないけど、ああ見えても案外優しいところがあるんやで」
「ほんとうに、嬉しいわ。春夏秋冬に香りを楽しめる樹を植えてくれるなんて」
 美咲の胸に熱いものが込み上げてきた。

「ねえ、お父さんが折角香りを楽しめる樹を植えてくれたのだから、治療院の名前を[かほり治療院]にしない」
「それはええ思い付きやなぁ。きっと親父も喜ぶぞ」
 美咲は数日経って訪れて来た舅にも[かほり治療院]と名付けたことを伝えた。

 「それは、ええ名やなぁ」
 満足気な声で喜んでくれた。美咲は舅の声を聞きながら、側にいた正則に声をかけた。

「まだどの樹も一メートル少々の小さな樹だけれど、あれらの樹々が生長するのと共にかほり治療院も皆さんに愛されるようになるといいわよねぇ」
「そうやなぁ」
 正則もしみじみと答えた。

「来てくださる患者さんたちが、心身共に癒されてくれればいいのだけれど」
「まあ、そんな治療院になるように二人で精々がんばろうなぁ」
 美咲は祈る思いで、「はい」と言いながら大きく頷いた。

 かほり治療院に二度目の沈丁花の花が咲いた四月のことだ。美咲は男の子を出産した。(庭の樹のように素直で健やかに育つように) 直樹[なおき]と名付けた。美咲は直樹ができて半年くらいは子育てに専念した。その後は家のローンの返済のこともあるので、近くに住む姑に面倒をみてもらって、仕事に復帰した。
 見えなくて仕事をしながら子育てをするのは、美咲の想像を超えて大変であった。幸い姑が家に来て直樹の面倒をみてくれたので助かった。患者の空きをみては、奥に行って直樹にお乳を飲ませた。母乳を飲ませている間はよかったのだが、離乳食を食べさせるようになるとうまく子供の口に物を入れたスプーンを運ぶことができなくて、親子で格闘をした。それでも何度か繰り返す内に、直樹の方からスプーンに口を運んでくるようになった。

 正則も子供好きなのか、直樹の少しの成長の変化にも喜びの声をあげた。美咲はそんな正則の声を聞く度に、女としても母親としても幸せを実感するのだった。

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蝋梅(ろうばい) その1    --- 了 ---




◆その2◆

 美咲は台所の片付けを終えて、インスタントコーヒーを入れるためのお湯を沸かした。夫の正則はリビングに置かれたテレビに耳を傾けている。窓からはかほり治療院を開いて十回目の花を咲かせた沈丁花の甘い香りがゆるやかに注いでくる。

「今日は何人くらい来てくれるかしらね」
「さぁなぁ」
 正則が何度も同じ事を言う美咲の言葉を、疎ましそうに軽く答えた。
 鍼灸とマッサージの治療院を開いていることもあり、毎朝決まったようについこの言葉が出てしまう。正則が体力を要するマッサージを、美咲は鍼灸をしている。
 かほり治療院を開いた当時は、まだこの辺りには保険が利く所は少なかったので、保険が適用されなくても毎日十人近い人たちが来てくれていた。
 中には談笑が楽しいと言って、憩いの場のようにして週に一度は訪れてくれる近所のお年寄りもいる。二人とも目が見えないので、それらの人たちの話が社会の出来事や、近所の噂話などの情報源になっている。そんなときにも話に耳を傾けることはあっても、できるだけ意見は言わないようにしていた。

「あそこの先生が言っていた…」
 接客業だけに、噂を立てられることは商売に大きく影響をすると思ったからだ。
 最近では保険がきく治療院が近辺に三軒もできたことから、安く治療が受けられることもあり患者はそちらへと流れていっているらしく、来ても一日に五・六人も来れば良い方である。

 美咲は、インスタントコーヒーが入ったカップにお湯を注ぎ入れた。手に持ったカップの重さを確かめて、食卓の向かい側に腰掛けている正則の前に置いた。
 美咲は時間が気になり、テーブルの上に置いてある音声時計を押した。

「午前八時四十分です」
 可愛らしい女性音がした。かほり治療院を開く午前九時までには、まだ二十分ほど時間がある。

「ねえ、ウチもそろそろ保険の適用考えた方がいいのじゃないかしらね」
「そうやなぁ。確かに患者の数も減ってきてるけんなぁ。どうにかせんと、家のローンも払わないかんし、このままでは生活をするにもえらいでのぅ」
 正則が溜息混じりに呟いた。

「ただ、保険を適用するには我々だけではどうにもならんし、事務の人も雇わないかんけんなぁ。そうなれば、人件費もかかるけん。しばらくはこのままで様子を見るか」
 正則はコーヒーを一口飲んでから、思い直したような明るい声で言った。

「かほり治療院を閉じないかんようにだけはしたく無いんで、そのためにも今日も元気を出してがんばろうやないか」
 正則は最後のコーヒーをいっきに飲み干し、最近少し太り気味な身体に気合いを入れて、大きな声で「よいしょ」と言いながら立ち上がった。美咲も慌てて飲み干してからカップを洗い、白衣を着て治療室へ向かった。

 美咲は治療室へ入ると直ぐに、ベッドのカバーや枕がずれていないか、上に置かれた毛布がきちんと畳まれているかを手のひらで撫でて確かめた。
 治療室は十畳で、ベッドが二つ置かれている。部屋の隅には点字本が入れられた本箱と、仮名タイプライターと点字器が置かれた机がある。クラッシックが好きな正則が有線放送を設置していて、癒しにもなるからと低く音楽を流していた。
 隣室には四畳半の待合室がある。そこには、治療を待つ人のためにテレビや雑誌なども置いてある。五人以上の人が待つことは無いので、この程度の広さの部屋でも十分なのだ。

 今日は珍しく待合室には三人の人が来ていた。二人共に全盲なので、ほとんどの患者が自分たちが来ていることを知らせるために声をかけてくれる。美咲は、それらの人たちに明るく挨拶を返した。

「おはようございます。何をご要望でしょうか?」
「わしは井上というもんやけどのぅ、初めて来たんやけど、マッサージを頼むで」
 七十過ぎと思われる男性が、低音の声で答えた。少し気怠そうな声が続いて言った。

「美咲ちゃん、田中やけんど、いつもの鍼を頼むなぁ」
 近所の女性だが、交通事故のためにむち打ち症が出て、一ヵ月近く通って来てくれている。

「美咲ちゃん、河田だけど、私もマッサージをお願いね」
 いつも来てくれる転勤族の奥さんが続けて声をかけてきた。

「まあ、誰かと思ったら河田さんだったのですか」
 美咲には、患者が声をかけてくれるまで誰が来ているのか分からない。患者が声を発して初めて相手の存在を知る。二人までが正則のマッサージを望んだので、どちらが先に来たのか訊いてみた。

「井上さんと河田さんはどちらが先に来られたのですか」
「すみませんねぇ。私が五分ばかり先だったんですよ」
 河田さんは、井上さんに申し訳なさそうな声である。
 美咲は待ってもらう井上さんのために、紅茶の葉が入れられたティポットに湯を入れた。少しでも患者に好印象でまた来てもらうために、サービスで紅茶を出している。

(そろそろ、いいかなぁ)
 紅茶の香りが美咲の顔の辺りにも上がってきた。美咲は井上さんの視線を感じながら、ゆっくりとポットを傾けた。
 紅茶を淹れるときには、わざと患者の前で注ぐようにしている。

(嫌だわ。あんな目が見えない人が淹れた物なんて、どのようにしているか分からないし。もしかしたら、カップに指でも入れて確かめているんじゃないかしら)
 陰ですると、そのように思われては困るからだ。

 しかし近所の人が来たときには、遠慮無くポットを渡して淹れてくれるように頼んでいる。井上さんは初めての人だったので自分で淹れたが、やはり何度淹れても人前で注ぐのは、零すのではと不安に思って緊張する。
 美咲はカップを持ち上げて、紅茶の淹れ具合を重さで確かめてから盆の上に置いた。目が見えないので平衡感覚が悪い美咲は、盆が斜めにならないように注意をしながら井上さんの前に足を進めた。
 美咲が歩くのと共に、揺れ動く湯気が芳香を部屋の中に漂わせた。

「どうぞ、紅茶でも飲んでてくださいね」
 井上さんが明るい声で答えた。

「えらい、ここはサービスがええんやのぅ」
「少しでも皆さんに安らいでいただければと思って出しているんですよ」
 にこやかに笑みを返した。美咲は井上さんに紅茶を勧めてから、急いで治療室で自分の治療を待ってくれている田中さんの所へ足を進めた。見えないとはいえ身体が家の間取りを覚えていることや、空気の流れを肌で感じることから自分の家の中では歩くのに戸惑うことはない。

「お待たせしましたねぇ」
 美咲は、田中さんに声をかけてから治療を始めた。西洋医学とは違って、鍼灸やマッサージは時間がかかるので、患者に話しかけながら治療をすることが多い。七十過ぎの女性の田中さんも話し好きなので、美咲はつい、色んな話題を持ち出しては話に花が咲く。
 美咲が治療を終えて治療代を受け取ろうとした時のことだ。田中さんが美咲の耳元に口を近付けて、小声で言った。

「美咲ちゃん、こんなことを言って悪いけんど、靴下の色が違うでぇ。右が白で、左が水色やで。他の患者さんに気付かれん内に、早う履き替えてきた方がええで。よかったら、私が見てあげるけん」
 田中さんの言葉に、美咲は顔がカッと熱くなった。

(しまったぁ。またやってしまった)
「えっ、そうなんですか。ありがとう。じゃあ、すみませんが一緒にあちらへ」
 急いで田中さんと奥の部屋に向かった。その間にも、他の患者さんたちにも見られていないかと、羞恥心が全身を包んだ。

(おかしいなぁ。たしかに同じ色のを重ねていたと思ったのだけれど…あっ、そうだ。昨日は風呂掃除をしていて靴下が濡れたものだから、履き替えて二足分の靴下を洗ったんだ。あの時に、きっと色を間違えたまま一足ずつ安全ピンでとめて洗ってしまったのだわ)
 情け無いと思いつつも、色が分からずに恥をかくことは多い。美咲は履いている靴下を脱いで、昨日洗った靴下と一緒に田中さんの手に渡した。

「あのなぁ、これとこれが一緒やで」
 田中さんは、あっという間に靴下を揃えてくれた。

「美咲ちゃんは家の中でも見えているようにスイスイと歩いて、何でもできるけん不自由なことは無いんかと思ってたんやけど、こんなことで困ることがあるんやなぁ」
「そうなんですよ。色だけはいくら勘が良くても、触っても匂いを嗅いでも分からないのですものねぇ。服なんか、同じ服を十人の人に訊くと、みんな違う色を言うのですもの。折角買ったときに訊いてイメージしていた色が崩れて分からなくなって、苛立つこともあるんですよ。私も女ですもの、やはり洋服だけはおしゃれに着こなしたいのですけれどねえ」
 美咲は、大きく溜息をついた。

「こんなことを言うと失礼やけんどな、たしか、美咲ちゃんは生まれながらに見えんと言うとったよなぁ。ほんなら、何で色が分るんなぁ」
 田中さんは訝しそうな声である。

「そう思うのは無理ないですよねぇ。でもね、私にとって色は周囲の人たちから聞いて言葉のイメージとして頭の中に描いているのですよ」
 田中さんは驚きの声をあげた。

「えっ、言葉だけでイメージできるとなぁ!」
「ええ、例えばですね。赤は火のように熱く、黒は暗くて重い感じでしょう。白は明るくて、すべすべした感じかな。ピンクは可愛らしく、赤い水を白い水で薄めたようなもの。青はさわやかな秋空みたいかな。大体こんなふうに思うのですが、私の想像は違っているかしら」
 田中さんは感心をしたような唸り声を上げた。

「ううん、すごいなぁ」
 一言言ってから、しばらく言葉が出ない様子である。一呼吸おいてから言葉を続けた。

「よくまぁ、そんだけ色を自分のイメージとして想像がつくもんやなぁ」
「でもね、これはあくまでも言葉としての印象なので、やはり実際の色は分らないですよ」
「そうやなぁ。じゃあ、美咲ちゃんに色のイメージを言葉で教えてあげるときには、責任が重いの」
「そうですね。言ってくれた人の色彩感覚がそのまま私の色へのイメージになるのですものねぇ」
「まあどっちにしても、私のようにこの歳になってもまだおしゃれをしたいと思うけんなぁ。美咲ちゃんはまだ若いんやけん、変な色の服だと言われるとショックやろうのぉ。見えないだけに余計に人の言葉が気になるんかもしれんなぁ」

「そうかもしれないですね。見えているとかえって無頓着になるかもねえ」
 美咲はカラカラと笑い声を上げた。田中さんに礼を言って、治療室に向かった。

(ああ、やはり目が見えたらこんな恥をかかずにすんだのに。あの時、あの方の目をいただけて見えるようになっていたならなぁ)  思わず肩が落ちて、大きく溜息が漏れた。窓からは美咲の落ち込んだ心に、沈丁花の優しい香りが宥めるように流れ込んでくる。

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蝋梅(ろうばい) その2    --- 了 ---




◆その3◆

 小学六年生の直樹が、学校へ出かける寸前になってボソリと言った。
「先生に今日はベルマークを持って来いと言われた」
「そんなこと、今頃言っても困るじゃないの。いつもお祖母ちゃんに集めてもらっているのを知っているでしょう。どうしてもっと早くに言わないのよ」

 美咲は文句を言いながら受話器を取った。幸い、姑に訊いたら有るとのことで、何とか直樹が出かけるのに間に合った。
 男の子だけに口数が少ない。美咲としてはもう少し子供との会話を増やしたいのだが、あまり話し相手にはならない。だが、子供とはいえ男の子だけに心強く感じることもある。

 今日は正則が土曜日に東京である鍼灸の全国大会のために、金曜日から出かけて留守である。直樹も学校へ行っている。正則が出かける前に、釘をさすように言った。

「ええな。いろんな人がいるんやけん、くれぐれも予約以外の患者は受け入れたらいかんぞ」
 美咲は明るい笑顔を向けた。

「大丈夫よ。そんな変な人なんてどこにでもいるわけないもの」
「そんなことを言わんと、気をつけとくんやで」
 正則は楽天的な美咲に心配の声を残して出かけた。かほり治療院を開けて二時間少々たってからのことだ。賑やかに鳴いていた蝉の声も少し静かになってきた。
 予約の患者も昼過ぎまでは無い。昼食には少し間があるが、そろそろ午前中の仕事は止めて奥の部屋へ行こうとしていた。すると、その時一人の若い男性が訪ねてきた。

 玄関先で話を訊いてみると、男性はどことなく倦怠感があるので、鍼治療をしてほしいとのことである。出掛ける時に正則に言われた言葉が気になり、引き受けようかどうしようかとためらった。しかし、少しでもローンを返す足しになればという思いもあり、予約をしていない患者だったが受け入れて中へ勧めた。
 開け放された玄関からは、今を盛りとばかりに香りを放っている梔の甘い匂いがそよ風と共に中に流れ込んでくる。花が好きな美咲はむせるような梔の匂いに瞬間、男性の存在を忘れるほど香りに心を引かれた。
 男性は声からすると、まだ二十代の後半と思われる爽やかな感じである。

(きっと、この人であれば大丈夫よね)

 美咲は安心して、先になり治療室へと足を進めながら、軽い口調でどこから来たのかと訊いてみた。
「同じ高松市内なのですよ。仕事で近くまで来て看板が目に留まり、身体が気怠いので治ればと思い寄ってみたのです」
 言葉遣いも丁寧である。

「そうなのですか。鍼は自律神経の乱れにも効果があると言われていますので、効いてくれるといいですね。腹部にも鍼をしますから、上着はお預かりいたします。脱いでくださいますか」
「じゃあ、これをお願いします」
 男性が美咲の手に、背広とワイシャツを渡してきた。美咲は受け取ってハンガーに吊しながら、男性の職種に思いを巡らせた。

(この暑いのに背広を着ているなんて。何の仕事をしているのかしら)

 そう思いながら、ベッドの側へ来たので、上がって上向きに寝るように言った。もう昼前になっていることもあり、待合室には誰もいない。
 美咲はベッドの横の椅子に腰掛けて、身体をやや下向きに折り曲げて男性のシャツの裾を捲り上げた。臍の周辺の壷に鍼をしながら、ラジオで聞いた話題を話した。男性は美咲の話に、明るい声で相槌をうっている。話しを聞くと、建築会社の営業マンで時間に都合がつくことから、日中でも治療に来れたとのことであった。

(そうか。営業の仕事をしていたのね)

 美咲は、建築会社の営業マンと聞いて安心をした。男性はしばらくは相づちを打つだけだったが、少しトーンを下げて話しかけてきた。

「失礼ですが、先生は目は全く見えないのですか」
「そうなのですよ。生まれたときから光も見たことが無いのですよ」
「それは大変ですね」
 男性が気の毒そうに言った。しばらく置いて、また話しかけてきた。

「ここにはベッドが二つ置いてありますが、もしかしてご主人と二人でしているのですか」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、今日はご主人は」
 美咲は男性の質問を訝しく思ったが、隠すことも無いだろうと思って答えた。

「鍼灸の会議があって東京へ出かけているのですよ」
「そうですか。じゃあ、今日はお一人でしているんですね」
 男性は何を思ってか、しみじみとした声である。
 美咲は男性の腹部の辺りの治療を終えて、両腕から首筋にかけて鍼を進めた。美咲の身体は、男性の顔の近くへ俯き加減になっている。
 美咲の右下から、男性がやけに湿った声で話しかけてきた。

「それにしても、先生はプロポーションがいいんですね」
 何となく、男性の視線は美咲の胸にあるような気がした。

「ええなぁ、美咲ちゃんは胸が豊かで」
 時折、同性からも言われることがある。

(嫌だわ。この人、胸を見ているのかしら?)
 美咲は不審に思いながらも、笑顔を保って軽く返事を返した。

「そうかしら」
 その後は、男性も普通の声で返事をしている。
 治療を終えて男性からもらったお金のおつりを取りに机の方へ足を進めた。その時だ。後ろから男性が近づいて来る気配を感じて、美咲が振り向いた。
 その瞬間に、男の手が美咲の夏用の半袖の白衣を着た腕を掴んだ。美咲は驚きのあまりに悲鳴を上げた。

「キャー」

 大声で叫んだつもりだが、恐怖で声が出ない。どうにか掴まれた腕を跳ね除けて逃げ出そうと思うのだが、身体が固まって動きがとれない。美咲は焦って、もう一度

「キャー。誰か助けてぇ!」
 と叫んでみたが、声が喉のところで空回りをして音にならない。

 男の顔が近づいているのか、美咲の顔に暖かい息がかかる感じがした。美咲は恐怖のあまりに、力の限りに足掻いた。その間にも、男の右手は美咲の首に回されて、左手で胸を触られた。そして、ますます抱き寄せようとする。美咲は、その力に精一杯抵抗してはねのけようとしたが、若い腕はなかなか美咲を放さない。
 美咲は必死で近づけている男の顔を離して、腕に噛みついた。

「ううう」
 男は低く唸り声を上げた。痛みのためか、一瞬抱き寄せている腕の力が弱まった。その隙に男を蹴飛ばした。男は反動でその場へ尻餅をついたのか、ドスンという音がした。

「この女、何をしやがるんや」
 床に座り込んだままで怒りの声を上げている。美咲は男の声を背中に短刀で突かれるような恐怖感に襲われて、必死で外へ逃げ出した。何を蹴飛ばしたのか、ガタンガタンという大きな音が部屋に響いた。男は逃げ出す美咲を見て諦めたのか、後を追って来る様子はない。  普段であれば不自由なく歩ける部屋だが、何度も壁にぶつかりながら何とか外へ出ることができた。
 外まで逃げ出すとやっと、喉の奥から声が出た。

「キャー、誰か助けてぇ!」
 美咲は叫びながら隣の家へと向かった。気は焦るが、家の中とは違ってなかなか足が思うように前に進まない。美咲の声に隣の奥さんが気がついて外に飛び出してきた。クーラー嫌いの林さんは、いつも自然の風が好きで窓を開けている。

「どしたんな。大きな声を出して」
 心配そうに駆け寄って来た。林さんの声に重なるように、後ろで逃げ去っていく足音が聞こえた。男が家から離れていくにつけ、美咲の鼓動が高まった。美咲は、今更のように恐怖が全身を覆って、その場へ座り込んでしまった。
 そんな様子に、林さんが美咲の肩に手をあてて早口で訊いてきた。

「どしたんな。今の男は誰な。まさか、泥棒とちゃうな」
 美咲は恐怖と恥ずかしさで、手で顔を包み込んで言った。

「いいえ、痴漢なの。治療を終えてお金をもらったからおつりをあげようとしたら、抱きつかれたの。必死で蹴飛ばしたら男性が怯んで、その隙に逃げたの」
「まあ、なんとな!可哀想にの。そりゃぁ恐ろしかったやろうのぅ」
 林さんがまるで子供でもあやすように頭を撫でている。それでも、まだ震えが止まらずに、目から涙が溢れてくる。
 美咲は蝉の鳴声が静まる時間帯であったことに、救われた思いであった。

(よかった。あの賑やかな鳴声が激しいもう少し早い時間であれば、私の悲鳴も林さんの耳に入らなかったかもしれないわ)

 熊蝉や油蝉は午前十時頃まで鳴いて、その後、鳴き止んで静かになることが多い。数本の樹が植えられているので、時には外で話していると相手の声も聞きにくいほど蝉時雨が賑やかなこともある。

 その日の午後からの予約患者には、体調が悪いからと治療を断った。直樹がいるとはいえ、夏休みまではまだ二週間程ある。昼間は学校へ行って美咲が一人になるので、正則が帰るまでかほり治療院を休業にして、正則の両親の家で過ごさせてもらうことにした。
 正則が帰ってからその事を伝えると、当然のように声を荒げた。

「そやから、僕が誰でも受け入れたらいかんと言うたやろ。でも、まあ、無事に済んだからよかったけど。ええか、今度から絶対に予約以外の人は受け入れたらいかんぞ」
「はい」
 美咲は大きく頷いた。正則に言われなくても、もう懲り懲りである。それからは、突然に訪ねて来た患者には予約が一杯だからと断るようにしている。

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蝋梅(ろうばい) その3    --- 了 ---




◆その4◆

 美咲が窓を開けて沈丁花の香りを楽しんでいると、高校三年生の直樹が声をかけてきた。

「図書館へ行って来るけん」
「じゃあ、お昼ご飯は」
「いらん」

 変声期も終えた低い声がボソリと答えて、さっさと出かけて行った。このところ、大学の受験勉強に励んでいる直樹のために夜食を作っている。睡眠不足から、美咲もいささか疲れ気味である。
 美咲は窓から腕を伸ばしてみた。春の暖かい日差しが手のひらに降り注いでいる。

(直樹も出かけたことだし。お天気も良いので、久しぶりに恵子を誘って街に出かけてストレス解消でもしてこようかなぁ)
 正則に言って、盲学校時代の友達を誘って瓦町で会う約束をして出かけた。

 美咲は歩行訓練を受けているので、幸い一人歩きができる。電車の駅までは歩いて十五分くらいだ。単独歩行に慣れているとはいえ、やはり何度歩いても緊張する。
 美咲は白杖を右手に持って玄関の外に出た。その途端に、全身の神経が緊張するのが分かる。

(今日も無事に帰れますように)
 心の中で呟きながら、足を踏み出した。白杖を前に出して、自分の身体の幅に振り、前方に何か無いかを確かめながら歩く。
 美咲の家の近所には、四軒の家が建ち並んでいる。空気が家の壁に閉ざされて流れが違う。空気の流れを肌に感じながら、足を進めた。  近所の家を抜けると信号が無い十字路がある。途端に流れている空気が横の方へ一筋に流れているのを感じて、車のエンジン音を確かめた。

(今のところは来ていないようだわ)
 美咲はより一層全身の神経をそばだてて、十字路を渡った。十字路を越えると、二百メートルくらい田んぼがある。地主がトラクターで畑でも耕したのか、土の香りを乗せたそよ風が身体を撫でていく。しばらく行くと、遮断機の音が聞こえてきた。

(やれやれ、駅に着いたわ)
 改札口で切符を求めて、電車を待った。田舎の駅なので、ホームも小さく中で迷うことはない。
 南の方から電車が入ってくる音がした。美咲は白杖をしっかりと持ち直した。電車が着くのと同時に、耳に神経を集中させた。

(他に乗る人はいないかしら)
 近くで乗降口に向かう靴音がした。美咲は急いでその足音に続いてドアの前に立った。白杖でホームと電車の境を確かめて、ゆっくりと中へと乗り込んだ。今日は乗っている人が多く腰掛ける場所が無いのか、立っている人も多いようだ。
 電車に乗ったときには、降りるときに迷わないようにいつもドアの近くに立つようにしている。美咲が乗って直ぐのことだ。いきなり美咲の手を掴んで、女性が声をかけてきた。

「ほら、危ないけん、こっちへ来てここへ腰掛けまい」
 断る間もなく、六十過ぎと思われる人に手を引っ張られて腰掛けさせられた。美咲は呆然としながらも、一応、女性にお礼を言わなくてはと声が口まで出かけていた。その時だ。

「私は次の駅で降りるけんなぁ」
 女性は言葉を残して美咲の前から離れてしまった。美咲は腰掛けさせられた位置が分からず、思案した。
 しばらくすると、車掌が瓦町駅に着いたことを知らせた。美咲は急いで乗降口へと向かおうとしたが、今、自分がいた場所がはっきりと分からない。戸惑っている内に電車が走り出した。

(ああ、降りそこなってしまった。親切に言ってくれるのはありがたいのだけれど、こんな事があるからそっとしていて欲しいのよね)
 心の中で悔みながら、肩を落とした。仕方が無いので、先程ドアの開閉の音がしたと思われる方へ、他の人の足を踏まないように手と杖で確かめながら向かった。そして、次の駅で降りてから、瓦町へ引き返すことにした。

 やっとの思いで瓦町に着いた美咲は、ホームに足を降ろすと、思わずホッと溜息がもれた。瓦町駅からしばらく行くと、恵子と約束をしていた喫茶店がある。パチンコ屋の隣なので、賑やかで場所が分りやすいことから、待ち合わせはいつも同じ所でしている。
 ドアを開けると携帯電話を取り出した。奥の方で、恵子の着メロが鳴った。遅れることを知らせていたので、約束の喫茶店で恵子は待っていてくれたのだ。携帯電話をかけたことで、目の見えない恵子は美咲がドアを開けて入ってきたことを確認したようだ。

「美咲、ここよぉ」
 地声が大きい恵子が、ますます声を張り上げて言っている。ママさんがそれを聞いて、美咲を恵子が腰掛けているテーブルへと誘導してくれた。美咲はハンカチで汗を拭きながら、恵子に遅れた理由を言った。

「あるある。そんなこと、よくあるさあ」
 東京から引っ越してきた恵子は、歯切れの良い口調で今あったかのように、興奮を露わにしている。美咲は周囲に腰掛けていると思われる客の耳を気にしながら、声を落として言った。

「まあ、そんなに興奮しないでよ。確かに、親切はありがたいのだけれどねえ。全身を耳にして歩いているときには、そっとしておいてほしいわよねぇ」
 話し込んでいると、ママさんが注文のタイムサービスのサンドイッチセットを運んで来てくれた。

「直ぐ前にサンドイッチのお皿を置きますね。その手前にお手拭きね。九時の場所にコーヒーで、十二時の所にヨーグルトを置いておきますから、ごゆっくりね」
 ママさんは、前に時計の針をイメージした置き方を教えてあげたのを忠実に覚えて言ってくれた。美咲はお手拭きで手を拭いてから、ゆっくりと手で置かれた物を確かめた。前にある大きな皿の中には、サンドイッチが綺麗に並べられている。外食をするときには人の目が気になり、つい食べやすい物を注文してしまう。二時間ほど恵子と雑談をしてから家に帰った。



 大学三年生になった直樹は、このところ車の免許証を取得するために教習所へ通っている。幸い地元の大学に通っているので、時には買い物の手伝いをしてくれることもある。
 六月の下旬に入り、窓を開けていても部屋の中にいると蒸し暑さを感じるようになってきた。治療室には冷暖房の設備があるのだが、クーラーは身体にあまり良くないので、居間では扇風機を使うことにしている。美咲は、開け放った窓から梔子の花の香りと共に流れ込んでくる生暖かい風に、思わず声が出た。

「ああ、暑い」
 雨が降るのか、雨蛙が嬉しそうに鳴き声を上げている。遠くの空からかすかに雷も聞こえてくる。美咲は正則に言って、物置から扇風機を出してもらった。それから雨が降らない内にと、急いで買物に出かけた。
 この辺りは住宅街で、まだ細い路地も残っている。できるだけ道の右の方に寄って、車の往来の邪魔にならないようにした。幸いスーパーまでは一本道で、五百メートルくらいだ。美咲の足でも十五分くらいで着く。
 しばらく歩いていると、田舎道なのに後ろからスピードを出した一台の車がエンジン音を高くして近付いて来た。美咲は身を縮めて、道の端の方で横向きになった。運転をしているのはどんな人なのか、美咲の様子を見ながらもスピードを落とすことも無く通り過ぎて行った。

(直樹が車の免許を取ると、買い物が楽になるわ)
 美咲は一人で歩くことの不安から、つい、弱気になっている自分自身を励ますように、白杖で強く大地を叩いた。
 スーパーに着くと、いつもホッと溜息が出てしまう。買物を済ませて荷物を左手に持ち、右手に白杖を握り締めてスーパーを出た。帰る頃には雷鳴が近くなっていた。

 美咲が家に入るのを待ちかねていたように、雨がポツリと落ちてきた。台所に入り荷物を片付けてから、しばらく寛ぐために居間に入った。
 居間の戸を開けて数歩足を進めたときのことだ。美咲は何か固い物にぶつかってしまった。ガターンという大きな音が部屋に響いた。雷鳴が負けじとばかりに一際大きな音を立てて窓ガラスがビリビリと鳴った。同時に美咲の身体は前にグラリと崩れて倒れた。

「わあ、痛い!」
 思わず声が出た。美咲は一瞬何が起こったのか判断が付かなかった。急いで手のひらを腹の下に滑らせて、右手の指で転がっている物体をなぞった。

「何でこんな所に扇風機があるのよ」
 扇風機が美咲が思っている場所から四十センチくらい部屋の中程に置かれていた。怒りが言葉になって口から飛び出した。美咲も正則も家の中では晴眼者と変わりないような足取りで歩いている。それは、部屋の中に置かれている品物が頭に入っているからであった。そのため、二人とも品物の配置には気を配り、変えないようにしている。またどちらかが変えたときにはお互いに必ず報告をした。

 美咲は先ず、扇風機の上に乗り上げている自分の身体をゆっくりと下にずらした。横になったままで、手のひらで周囲を撫でて自分が転んだ位置の確認をした。指先に坐卓の角が触れた。横に十センチずれていたら坐卓の角で顔を打つところであった。

(もう少しでこの角が顔に当たって、えらい目に遭うところだったわ…)
 美咲は今更ながらに血が引く思いがして、思わず大きく溜息が漏れた。両の手のひらを畳に付けて力を入れ、ゆっくりと自分の身体を起こした。そして、転んだ扇風機を部屋の隅に置いた。
 それから、大きな声で正則を呼んだ。正則の声が、台所の方からスリッパの音を響かせて近付いてきた。

「なんや。大きな声を出して」
「扇風機を変な所へ置くから、当たって転んでしまったじゃないの」
 美咲は腹立たしそうに言った。

「おまえが言うた場所に置いてから、僕は知らんぞ」
 正則も怒ったような声である。正則はそう言ってから、少し考えてから、膝を叩いて言った。

「そうだ。先ほどお袋が来て掃除をしてくれたんや。じゃあ、そのときにお袋が扇風機を動かしたんかもしれんなぁ」
「まあ、ほんとう? お母さんには何度も物の配置を変えないでとお願いしているのにねえ。来てくれるのはありがたいのだけれど、困ったものだわ」
「そんなに怒らんでもぅ。お袋も悪気があってしたんじゃないんやけん。お袋のお陰で家の中がわやにならんですんでるんやけんのぅ」
 正則は美咲を宥めるように穏やかな声である。

(ほんとうに、そうね。お母さんのお陰で、人が来ても恥ずかしくない状態で迎えられるのですものね)
 心で思いながらも、まだ怒りは収まりきれない。
 正則の両親は、百メートルくらい離れた所に住んでいる。姑は息子夫婦が全盲なので気になるのもあってか、直樹に手がかからなくなってからもよく家を訪ねて来てくれる。美咲では汚れが分からない炊事場や風呂場の掃除をしてくれるのだった。

 見える人は視覚をとおしてどこに何があるかを直ぐに理解できる。だが視力が無いと、指や手のひらで物が置かれているのを確かめるので、他の人が十センチくらい置き場所を変えてもその位置を探すのに苦労をする。
 美咲は数日後に訪ねてきた姑に、できるだけ怒りを抑えて文句を言った。

「お母さん、あれだけ物の配置を変えないでとお願いしてるのに、また扇風機の場所を変えて…こないだ扇風機に当たって転んでしまって、もう少しで大けがをするところだったのですよ。目が見えんのやから、置き場所に気をつけてくれないと困りますよ」
「それは、気がつかんですまなんだなぁ。これからは気をつけるけん」
 その時には気にしてくれていたようだが、それからも目が見える姑は、やはり無頓着に配置を換えては美咲を戸惑わせた。

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蝋梅(ろうばい) その4    --- 了 ---





◆その5◆

 いつものように美咲は玄関を掃き清めて、庭に立った。秋の透明な空気にどこか寂しさを募らせるような静寂が流れている。岡山の会社に就職をした直樹が家を出て、もう二年になる。

(どうしているのかしら? 便りが無いのは元気でいる証拠ね)
 直樹のことを思いながら、大きく深呼吸をした。美咲の心を癒すように、今を盛りと芳香を放っている金木犀の甘やかな香りが、美咲の全身を包みながら流れている。美咲はゆっくりと金木犀の方へ足を進めた。幹に触れると、結婚をした頃にはまだ小さかった幹も幾回りか太くなっている。美咲は樹皮を両手の指でそっと上下や左右に撫でながら樹に語りかけた。

「私たちが結婚をして長くなるだけ、あなたも随分と立派になったわねえ」
 小粒な花が細い枝先に群がっている。花を守るようにたくさんの葉っぱが花を覆っている。華奢な花とは対照的に、しっかりとした葉がまさぐる指に当たって痛い。美咲が枝に触れたために、頭の上に花が雪のように落ちてきた。その途端に、匂いがより一層周囲に広がった。

(ああ、正則のお父さんのお陰で、こうして目の見えない私も四季の味わいを楽しむことができるわ)
 父親の優しさで植えられた花が香りを放って咲く度に、感謝の思いが込み上げてくる。

 家に入ると丁度、居間の座卓の上に置いてあった携帯の着メロが鳴った。音声で確認をすると、直樹からの久しぶりのメールであった。親のことを心配してくれているのかどうか分からないが、近いわりには年に数えるくらいしか帰ってこない。
 まだ小さい間は親子の会話もあったのだが、帰ってきても最近はほとんど話すこともない。母親としては、寂しい限りだ。
 久しぶりのメールに喜びの心を押しのけて、ふと不安がよぎった。

(何かあったのかしら)
 緊張した心で、メールを開いた。音声対応の携帯が、女性の声で本文を読み上げてくれている。点字本を読んでいた正則も、差出人が直樹とあったので指を止めたようだ。

「ほぅ、直樹か。珍しいのぅ」
 一緒に携帯に耳を傾けている。

「好きな人がいて結婚したい」
 一行に収まる短い文章で書かれていた。

「何や、そんだけか。それにしても、あいつ、彼女ができたんか。やったのぅ」
 正則は同性らしく、喜びに溢れた声である。美咲は自分のお腹から出た子が、もうそんな事を言う歳になったのかと思えば、いささか複雑な思いがした。

(まだまだ子供だと思っていたけれど、あの子がねぇ。そう言えば、私が結婚をした二十三歳をすでに超していて、今年で二十四歳になるんだわ)
 美咲は急須に湯を注ぎながら、直樹が小さいときのことを思い出して、正則に話しかけた。

「覚えている。直樹ができてから小学校を終える頃までは随分と育てるのに苦労をしたわねえ。あの子が本に興味をもち出してからは、本を見ると『ねぇ、ねぇ、読んで』と本を突き出されて、ほんとうに情け無くって涙が出たわねぇ」
「そうやのぅ。そんなこともあったでのぅ」
「子供ってどうしてあんなに好奇心が旺盛なのかしらねぇ。もっとおとなしい子であればと思ったこともあったけれど、今思えば好奇心は成長の糧になるのですものねぇ」
 美咲は直樹が大きくなるにつれての苦労を思い出しては、昨日のことのように脳裏に浮かばせ溜息をついた。湯飲みにお茶を淹れて正則の前に置いた。美咲も一口お茶を飲んでから、遠い記憶のページをめくりながら話を続けた。

「五歳のときにあの子が火が付いたように泣いていて、原因が分からなくって困ったこともあったわねえ。あのときほど、見えないことを情け無く思ったことは無かったわ」
「そやのぅ。たしかあん時は、転んで足から血を出しとったんやのう」
「そうよ。あんまり泣くので、体中を撫でて『ここが痛いの』と確かめていると、手にヌルリとした感触があったのよ。まさかと思って、指を嘗めてみると、生臭いにおいがして辛かったのよ。それで、やっとあの子が怪我をしているのが分かったのよねぇ」
 正則は少しお茶を飲んでから、一瞬、間をおいて自分に言い聞かせるように言葉を続けた。

「まあのぅ、いろんな事があったけんど、何とか人様に後ろ指を差されんような大人にして社会へ送り出すことができたんやけんなぁ。我々は目は見えんけど、親としては一人前と違うか」
「そうよねぇ。子供を育て上げたんですもの、胸を張っていいことよねぇ。それにしても、直樹が好きな娘って、どんな人なんでしょうねえ。全盲の私たちを受け入れてくれるといいけど…」
 美咲の胸に、ふと不安がよぎった。手に持った湯飲みを、思わず握り締めた。

(ほんとうに、私たちを受け入れてくれるかしら? もし、私たちのことが原因で話が流れるようなことになればどうしようか…)
 開け放たれた窓から、金木犀の匂いが緩やかにそよいできている。

「蝋梅もええけんど、何を招いているんか、金木犀も香りが良くてええもんやのぅ」
 あまり花には興味がない正則だが、感心したように言っている。

(季節が来ると花が咲くように、これまでもいろんなことがあったけれど、まあ何とかなるか)
 元々暢気な美咲は、直樹のことも運命に委ねることにした。
 次の日、美咲が田代さんという女性の肩に鍼をしていると、田代さんがしみじみとした声で語りかけてきた。

「美咲ちゃんたちは目が見えんでも、こなんして夫婦で仕事もして、ちゃんと生活をしてるんやからえらいのぅ」
 美咲は膝を付いて中腰で田代さんの肩に手を当てたまま、照れて思わず左手で頭を掻いた。

「そう言っていただけると何だか恥ずかしいですわ」
「私なんか健康な身体をしとっても、ついつまらない事に不満が湧いてきて、愚痴ばかり言ってしもうて、いかんでのぅ」
 田代さんは何を思ってか、一人で感心をして頷いている。

「こんな事を言うたらいかんけんどのぅ。いろいろと悩みが出ると美咲ちゃんたちのことを思うて、目が見えんでもああやって気強く生きているんやけん、私もがんばらんといかんのぅと、いつも自分に言い聞かっしょるんやで」
「そんな風に私たちの事を見ていただけると嬉しいわ。私たちが普通に暮らしているだけで、健常者の人たちの励みになるなんて。私たちにとってもありがたいことですよ」
 美咲は照れ隠しにアハハと大きな声で笑った。
 田代さんだけではなく、よく同じようなことを言ってくれる人がいる。

(ただ単に毎日生活をしているだけなのに、あんなに感心をされて。あのように言ってもらえると、何だかこちらも元気をもらえるような気がするわ)
 言われる度に、できるだけ笑顔でいなくてはと思うのだった。

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蝋梅(ろうばい) その5    --- 了 ---





◆その6◆

 結婚をした直樹が嫁の清香[さやか]さんと帰ってきて、正月を共に過ごした。見えないとやはり、来客があると患者とは違う気遣いから疲れる。親子とはいえ同居をしていないので、直樹が岡山へ帰ってくれてホッとした。
 美咲は直樹が結婚に至るまでのことを思い出して、お茶を飲みながらテレビに耳を傾けている正則に声をかけた。

「ねえ、あれだけ反対をしていた清香さんのご両親がよく承諾をしてくれたわねぇ」
「ほんまにのぅ」
「清香さんが、あそこまで直樹のことを好いてくれているとは思わなかったわ。『目の見えない両親がいる所へなんか嫁に行くと、苦労を抱えに行くようなものなんやから止めたらどうやの』と言われた両親に、『私は直樹さんも愛しているけれど、それ以上にご両親を人間として尊敬しているから、結婚を決めたのよ』と言ってくれたんですものねぇ。直樹からその話を聞いたときに、胸が熱くなって涙が出るほど嬉しかったのを、今でも忘れないわ」
 正則が一口お茶を飲んで答えた。

「ほんまにのぅ。いくら清香さんは福祉士の仕事をしとっても、直樹もエライええ娘を見初めたもんやなぁ」
「そうですよねぇ」
 同居はして無いとはいえ、いつも心にかけてくれる息子夫婦がいると思っただけでも、心の奥に安心感がある。

(私の側でいつも蝋梅がほほえんでくれているようなものだわ)
 美咲はテーブルの上の一輪挿しに活けてある蝋梅の香りを楽しみながら、一人で頬を緩めた。

 美咲はインターネットで直樹と清香さんの間にできている初孫の正樹[まさき]のために、幼稚園の入園祝いのプレゼントを探した。ネットショッピングは誰の手も借りずにできるので、美咲はよく利用する。ただ、手にとって見ることができないのが欠点ではある。

「ああ、何にしようか迷ってしまうわ。やはり、清香さんにほしい物を訊いてからにした方がいいかしら」
 美咲はけっきょく迷って、治療の時間も近付いていることもありパソコンを閉じて白衣を着た。
 待合室には、少し離れた所に住む四十過ぎの原田さんという女性が来ていた。原田さんは月に二度くらい治療に来ている人で、時折、お菓子など手土産をくれる。

 治療を終えて、原田さんが一枚のお札を美咲の手のひらにのせた。お札にはどれも隅に小さな判別用の点が付けられている。だが、それは勘の良い人でもほとんど指で判断するのは難しい。患者が帰ってからその日の集計をする。二人ともお札を確かめるときには、判別用の紙にお札を当てて大きさを確かめた。

 だが、美咲も正則もお札を手渡されても、患者の目の前ではお札を手で確かめるようなことはしない。それは、患者の心を疑っているのではと思われては困るからだ。美咲はさり気なく明るい声で訊いてみた。

「これは、一万円札ですか。それとも五千円でしょうか」
 原田さんの少し曇った声が返ってきた。

「はい、一万円よ」
 なぜか、小声である。美咲はそんな原田さんの様子に、ふと不信感がよぎった。

(どうしたのかしら。いつもの原田さんとは違い、少し様子がおかしいわ)
 美咲は不安に思いながらも、六千円のおつりをを渡した。原田さんはお金を受け取ると、さっさと帰って行った。
 その日は他にもまだ待っている人がいたので、美咲は先ほどの一万円札を机の引き出しの中へ片付けた。怪しいと思っても、患者にお札を見せて確認をとるようなことはしない。

(自分もあのように疑われているのか…あれだから、盲人は疑い深くて困る)
 他の患者たちにも、そのように思われては困るからだ。

 その夜、原田さんからもらった一万円札を、焦りながらもゆっくりとお札の判別用の紙に当てて見た。判別用の紙は一枚で、一万円、五千円、千円の大きさの順で横の方が少しずつずれている。すると、何度やっても、もらった一万円札は五千円の大きさしかない。
 正則にもやってもらったが、やはり同じである。これまでの原田さんとの付き合いを考えてみても、原田さんを疑うことにはためらわれた。

「ねえ、きっと間違えたのよね」
「そうやのぅ。あの原田さんが我々を騙すはずがないやろ」
「でも念のために、明日、他の人にもう一度お札を確かめてもらってくるわ」
「それがええで。長年使ぅとったら、皺がよって、少し縮んだ感じになって分かりにくいこともあるけんなぁ」
 いつも目を貸してもらっている正則の両親が旅行に行って留守のこともあって、翌朝、美咲は原田さんからもらった一万円札を財布に入れてスーパーへ買物に出かけた。

 美咲は背中にリュックを背負い、右手に白杖を握り締めた。気合いを入れて、左手にショッピングカーを引っ張ってゆっくりと歩き出した。
 どこからか、沈丁花の甘やかな香りがゆるやかにそよいで来る。いつもならば、沿道の家の庭に植えられた花の匂いに季節を感じて楽しむのだが、今日はさすがにそんな心の余裕は無い。原田さんから受け取ったお札のことで頭の中は一杯である。
 美咲はスーパーに着くと、ほっと溜息をついた。いくら単独歩行に慣れているとはいえ、常に恐怖感はある。店の中に入ると、店員に頼んで買いたい品物を籠に入れてもらった。注文を終えて、レジで原田さんからもらった一万円を渡した。買物の合計金額は六千七百円だった。美咲が不安に思っていたように、レジの女性がじっとしている美咲に声をかけてきた。

「まだお金が足りませんよ」
「あのう、そのお札は一万円じゃないのですか」
「いいえ、五千円札ですよ。ですので、あと千七百円足りませんよ」
 愛想の無い声が返ってきた。

(やっぱり、原田さんは分かって私を騙したのだわ)
 美咲の全身に、悔しさが駆け巡っていった。

(あの人は善い人だと思っていたのに)
 家に帰ってから、正則にも原田さんに騙されたことを伝えた。美咲は、もう二度と原田さんには来てほしくない。今度、予約が入ったら断ろうと思っている。

「そうかぁ。あの人がのぅ。善い人だと思っていたのにのぅ」
 正則も溜息混じりにしみじみとした声である。一呼吸おいて、自分に言い聞かせるように言葉を続けた。

「きっと、何か事情があってあんな事をしたんと違うか。人間やけん、魔がさしたんと違うか…まあ、もう二度とせんと思うけん、今度来ても知らん顔をして治療してあげたらええが」
「そんなあ。目が見えない私たちを騙したのよ。それでも、正則さんは許してあげようっていうの」
「そなん言うても、原田さんは家も近いし。ここで騒ぎ立てたら他の患者さんたちが、自分たちも疑われているんではないんかと思われたら困るでぇ」
 そう言われれば、美咲も何も言えない。「はい」
 不満に思いながらも、正則の言葉に、ゆっくりと頷いた。

(まさか、いくらなんでも原田さんも二度と同じ手で私たちを騙したりはしないわよね)
 美咲はそう思い直すと、少しは気分が楽になった。
 だがその後、半年の間に二度も同じ手口で騙されたのだった。美咲は三度までも騙した原田さんへの怒りが、心の奥から込み上がってくるのを押さえきれない。

(ひどいわあ。目が見えないことを利用して騙すなんて)
 悔しさが心を覆ったが、正則以外の人にはそれは言えない。それが、余計に悔しさを深めた。さすがに正則も、暗い声で言った。

「三度も騙されたんじゃなぁ。今度は断るしかないでのぅ」
 正則の方が原田さんを信じていただけに、余計に腹立たしさがあるのではと思う。だが、さすがに男だけに口にしない。

 それからは、原田さんから電話が入っても予約で一杯だからと断っている。
 来ている患者からの噂話で聞いたところによると、原田さんは母子家庭で二人の子供を抱えて苦労をしているとのことであった。

(原田さんもきっと生活が苦しくって、仕方なく私たちを騙したのだわ。あんなに好くしてくれていたのですもの。きっと、ほんとうは善い人かもしれない)
 そう思えば、美咲は原田さんへの恨みも少しは和らぐ思いがした。

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蝋梅(ろうばい) その6    --- 了 ---





◆その7◆

 美咲は家具調炬燵に足を入れて、忙しく編み針を動かした。先程、電話口で聞いた孫の正樹の声がまだ耳に残っている。

(まあちゃんは私が編んだベストを着てくれるかしら)
 姑に選んでもらったブルーの毛糸で、今年、小学校に上がる正樹の喜ぶ声を想像しながら、肩のこるのも忘れて没頭した。
 美咲は日曜日には、市のデイサービスで行われている趣味講座に月に二度くらい参加している。編み物もその中の一つだった。それらのサークルに参加することで、生活に張り合いもでき、友達との親睦も深めることができた。
 美咲は結婚をしてからも、ときおり目を提供してくれると言った女性のことが思い出された。そんな時に、子供のときの電車の中での出来事を患者に口にすることがある。

 池西さんという女性が来たので、女性がなぜあのようなことを申し出てくれたのかを訊いてみた。
 池西さんは美咲の話を聞き終えて、怒りの声を上げた。

「そりゃあ、美咲ちゃん。お母さんと一緒にその女性にからかわれたんやで。きっと、その人は初めから目の移植ができないことは知っとったんやと思うで。ほんまに、世の中には嫌な性格の人もおるもんやのぅ」
 池西さんは、自分が経験をした事のように感情を露わにしている。正則に治療を受けていた男性の鈴木さんも、横合いから口をはさんできた。

「そんなことを言われたら、わしやったらおちょくられたと思って怒るでぇ。よくまぁ、美咲ちゃんのお母さんは黙って聞いて何にも言わなんだもんやのぅ」

 (そんなぁ、あの女性は絶対に悪い人ではないわ。あの声は嘘をついていた声じゃないもの)
 美咲は二人にそう言われて反発心が湧いてきたが、言葉を飲み込んだ。

「そうなのかしら。そんな考え方もあるんですね」
「そらそうやでぇ。自分の目が見えなくなってまで、見知らぬ女の子に目をあげるなんて、そんな善い人がこの世にいるわけが無いんとちゃうなぁ」
 苦労の多い池西さんは、自信に満ちた声である。美咲は、だんだんと二人の考え方に納得をする思いがしたが、やはりそうは思いたくなかった。
 美咲の心にあの女性の存在が、人を信じる心を植え付けてくれた。苦しいときや悲しいときには、女性の言葉が思い出されて励みになった。

(あのときの女性は、自分の目をくれてまで私に光を注いでくれようとしたのだから、私もがんばらなくては)
 そう思うことで、美咲の心は支えられてきたのだった。

 美咲と正則が治療室で患者を迎える準備をしていると、携帯の着メロが鳴った。読み上げボタンを押して確かめると、直樹からであった。以前は滅多に連絡が無かったが、孫の正樹ができたことで少しは親の気持ちが分るようになったのか、最近はよく家族の様子をメールで知らせてくる。

「お袋、このところ寒い日が続いているけど、風邪を引いていませんか。こちらはみんな元気にしています。正樹も四月からは小学生になるのだと言って、お袋が送ってくれたランドセルを背負っては喜んで部屋の中を歩き回っています。写真を添付しているので、お祖母ちゃんに見てもらってください」
 美咲はメールを聞き終えて、思わず頬が緩んだ。テーブルの上に置いた一輪挿しの蝋梅の小枝から、美咲の心の中にまで浸透してくるように優しい香りが放たれている。

(まあちゃんの喜ぶ顔が見てみたい。我が子である直樹が生まれたときに、どれだけ顔が見てみたいと思ったか分らないけれど、孫の顔をこんなに見て見たいと思うのも、私も年を取った証拠かしら)
 美咲は携帯を手にしたまま、添付されている写真に思いを巡らせた。
 正則も、ほのぼのとした声を上げた。

「そうか。まあちゃんがのぅ」
 正則はお祖父ちゃんになって、ますます温厚な性格になったようだ。
 準備を終えた美咲は、治療室の机の前に腰掛けている。時間が気になり、触読時計の蓋を開けて針に右手の人差し指を当てながら、窓の方へ耳を傾けた。今日は外はかなり強い風が吹いている。明日はもう立春だというのに、寒さはまだまだ厳しい。
 そのためか、患者の出足が悪い。午前十時が来て、やっと近所のマンションに住んでいる末元さんという六十前の女性が来た。末元さんは、週に一度は来てくれているお得意さんである。

 今日も末元さんはマッサージを要望した。美咲はまだ用事が無いので、パソコンを立ち上げてヘッドホンを耳に付けた。パソコンは一般用と同じだが、視覚障害者用に開発されたソフトを入れている。そのことで、キー操作をする度に音声が出る。
 中には、領収書を望む人がいるので、パソコンにはプリンターやスキャナも繋いでいた。事務処理は、正則と美咲のどちらかの手があいている方がしている。
 美咲はインターネットで、新聞のニュースを開いて聞いていた。そこには、交通事故で亡くなった人の腎臓を二十歳の男性に移植をしたところ、成功したと書かれていた。
 美咲は椅子を回転させて二人の方へ向いてから、どちらへともなく声をかけた。

「腎臓移植が成功して二十歳の男性の命が助かったそうよ」
「それはよかったわねぇ」
 末元さんが、何気ない様子で相槌をうってくれた。美咲はまたあの時の女性を思い出して、首を傾げた。

「ねえ、末元さん。もしもよ、私が末元さんに目をくださいと言えばいただける」
 末元さんは、美咲の突然の言葉に驚いた様子である。

「どうしてそんなことを訊くの」
 美咲は心の奥から思い出を紐解きながら、子供のときに経験をした女性のことを話した。

「実はねえ……」
 話し終えると、末元さんはなぜか黙り込んでしまった。そんな様子に、美咲は末元さんに話したことを後悔した。

「ごめんなさい。私、何か変なことを言った」
 末元さんは先ほどまでとは違って、重く暗い声である。

「いいえ、そうではないのよ」
 大きく溜息をついた。そして、一呼吸おいてからしみじみと言った。

「世間って、広いようで狭いもんやねぇ。私の母さんの名前は綾乃って言うのだけれど、そのときの女の人は、きっと私の母さんだと思うわ」
 美咲は、驚きのあまりに自分でもびっくりする程の大きな声を上げた。

「えっ、それってほんとうですか!!!」
 末元さんの治療をしていた正則も、共に驚嘆の声を上げた。

「えっ、何やてぇ。それはほんまかいなぁ。結婚をする前から美咲が言いよったあの女性が、末元さんのお母さんやったとか!」
「ええ、多分、間違いないと思うわ。死んだ母さんからそんな話を聞いたことがあるもの」
「お母様は亡くなられたのですか」
 末元さんはまた大きく溜息をついて、ますます沈んだ声になった。

「そうなんよ。もう十七年近く前に、心臓麻痺で死んだのよ」
 あの女性はすでに亡くなってこの世にはいないと聞いて、美咲の声も暗く曇った。

「そうでしたかぁ。もしお会いすることがあれば、あの時どうしてあのようなことを言ってくださったのかお訊きしてみたかったのですが…」
 雪になるのか、気温がかなり下がってきている。寒さも影響してか、美咲は思わず声と共に身震いをした。

「オー、寒い」
 窓を叩く風も、ヒューヒューと激しく音を立てている。
 美咲はずっと、心の中でわだかまっていた謎を解く鍵を失ったような気がした。だが、失望を押しのけて新たな思いが脳裏をよぎった。

(もしかして電車の中でのエピソードだけではなくて、何かお母さんから聞いているのではないかしら。それに、末元さんの表情が変わったことから考えても、何か余程深い事情があったのでは…)
 思い切って訊いてみた。

「お母さんから、あの時どうして私に目を提供してくださると言ってくれたのか聞いてないですか」
 話の展開に驚いた正則が、 しみじみとした声で言った。

「それにしても、人の縁とは不思議なもんやなぁ」
 正則も一旦治療を止めて椅子に腰掛けてから、末元さんの次の言葉を待っているようだ。
 末元さんは、話をしようかどうしようかとかなり戸惑っている様子だ。美咲は悪いことを訊いたのではと反省をした。だが、ずっと謎に思っていた女性の心情を知りたいので、両手を握りしめて言葉を待った。末元さんはしばらく黙っていたが、それから少し間をあけてから、重い口調でゆっくりとお母さんのことを話し出した。

「じつは、母がまだ若い頃に車に乗っていて、十二歳の舞ちゃんという目の見えない女の子を撥ねて死なせてしまったのよ」
「えっ」
 美咲は驚いて言ったまま声が出ない。

「勿論、加害者だから当たり前のことなんやけど、相手の両親がものすごく怒って、お葬式にも参列させていただけなかったそうなの。当時、母さんのお腹の中には初めての子供がいたのだけれど、あまりにものショックで流れてしまったらしいの」
「家族を失った被害者よりは加害者の方が一生苦しむって聞いたことがありますよ」
「そうなんよ。母さんも、十二歳の女の子を自分の不注意から死なせてしまった上に、自分のお腹の子まで失ったショックで、しばらくは鬱状態が続いていたようなのよ」
 末元さんは昨日の出来事のように、言葉を切れ切れに話をしている。美咲も、あの人の若い頃にそんな事があったのかと思えば、人ごととも思えずに頬に涙が落ちていった。
 末元さんは鼻水をすすり上げて、さらに話を続けた。

「その後、母さんもずっと信心をして、気持ちも落ち着いていったようなのよ。でも、ずうっと撥ねた女の子のことは心の傷になって、いつまでも辛そうにしてたのよ」
 美咲は腰掛けている身体を少し前に乗り出すように、顔を前に突き出して言った。

「それで、お母様は電車の中での事をどのように話されていらしたのかしら」
 末元さんは、俯き加減の身体を上げたのか、声の位置がやや上に上がった。

「ええ、聞いたことがありますよ」

(長年疑問に思っていたことが、やっと今から解明されるのだわ)
 と思えば、美咲の動悸が激しくなってきた。
 末元さんは、美咲の顔をじっと見つめながら話しているようだ。遠い記憶を呼び起こすように、ゆっくりと電車の中での出来事を話してくれた。

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蝋梅(ろうばい) その7    --- 了 ---




◆その8◆

 その日は、綾乃は栗林病院へ入院をしている友達の見舞いに出かけて行こうとしていた。琴平電気鉄道の電車に急いで乗り込んだ。綾乃が座席に腰掛けるのと同時に、電車の発車のベルが鳴った。ガタンガタンというリズミカルな音と共に、ゆっくりとスピードが上がっていく。

 前方の開かれた窓から、外の日差しの暑さを含んだ風が綾乃の身体に吹きつけながら、後ろ側の窓へと通り抜けていく。全身から吹き出していた汗も、少しずつ治まっていった。 落ち着いてから周囲を見渡すと、今日は客の乗りが悪くて、空席も目立つ。ふと、目の前の親子に視線が止まった。

(えっ、まさか舞ちゃんじゃないの?)
 綾乃の目の前の席には、小学五・六年生と思われる少女が腰掛けている。それも、母親と話しをしているのに少女の視線が定まっていない。どうやら、少女は目が見えないようだ。その上、髪を三つ編みにして、ピンクのTシャツに薄い水色のスカート姿は、まるであの時の舞ちゃんがそこにいるような錯覚を感じさせた。

(舞ちゃんは亡くなったのだから、やはり他人の空似よね。それにしても、ほんとうによく似た子ね)
 綾乃はとりつかれたように、向かいの席の女の子を見つめた。

「ねえ、お母さん。今は何が見えているの」
「そうだねえ、家もあるし、田んぼも見えているよ。でもね、電車にスピードがあるから景色が飛ぶように流れて行っているんだよ」
「そうなの。ねえ、お昼に何を食べさせてくれるの」
「やっぱり美咲は食いしん坊だねぇ。最後には、いつも話がそこへいくもんねぇ」
 親子はカラカラと明るい笑い声を上げている。その間も、少女の目は見ようとする意識をすでに失っているようで、焦点が定まっていない。じっと見ていると、ふと綾乃の心に一つの考えが浮かんできた。

(もし、あの子に私の目をあげる事で、あの子のこれからの人生に光を注いであげられたら…親子共にどんなにか幸せな人生を送れるのじゃないかしら)
 綾乃は少女から目を離さずに、自分の思いを親子に伝えた。

「もしよろしかったら、私の目をお嬢さんに差し上げたいのですが」
 母親は、行きずりの人の突然の言葉に、やや奇異な顔をしている。そんな母親の様子に、話したことを後悔した。しかし、今更だした言葉は取り消せない。
 母親の話では、今の医学で移植ができるのは角膜だけだとのことである。知識不足から、軽はずみな言葉で親子を傷つけてしまったかもしれないと思うと、綾乃は落ち込んでしまった。

(ああ、知らなかったわ。折角、私の目であの子の人生に光を注いであげられるのではと思ったのに…)
 綾乃は、償いの手段を失ったような衝撃が全身に広がった。話し終えてから一気に脱力感が押し上げてきた。足を引きずりながら元の席に身体を下ろした。座席に戻って、もう一度親子の顔を見たが、親子共にとても安らかな顔をしている。どうやら、あの親子はもうすでに障害を受け入れて生きているようだ。その夜、綾乃はどうして自分が突然にあのようなことを言ったのかを考えた。

(あまりにも少女が舞ちゃんに似ていたからかもしれない。それに、もしかしたら私は少女に目を提供することで、自分自身が罪の意識から救われたかったのかもしれない…)
 綾乃はそんな自分自身の都合から、すでに視覚障害者としての自分を受け入れて生きている少女に、軽々しく目を提供したいと告げたことで、諦めていた心の中に一瞬でも光への望みを持たせてしまったのではないかと反省をした。

 末元さんはお母さんの思い出を絞り出すように、涙ながらにゆっくりとそこまで話し終えてから、ポケットティッシュで鼻水をかんだ。美咲は話を聞き終えて、長年胸の奥につかえていた物が取れた気がした。前に乗り出していた身体を元に戻して、頬の涙を手で拭いた。美咲も、女性がそこまで思い詰めて自分に目を提供してくれようとしたのかと思えば、あの時の光景が昨日のことのように思い出されて胸が痛んだ。正則も、末元さんの話に心を打たれたのか、同じように鼻水をすすり上げている。

「ニュースで毎日のように殺人事件や事故の話題が伝えられているけど、そこまで自分を責めて生きる人は少ないんとちゃうか。たしかにお母さんの責任は重いけど、それだけ自分を責めて生きていたんじゃ、一生苦しみから逃れられんわの」
 正則が、末元さんを励ましているのか、自分に問いかけているのか分からないようにぼそりと言った。

「それで、お母様は鬱病が良くなられてからはお幸せに暮らされたのですか」
「ええ、病気が治まってからは少しでも人様のお役に立ちたいと言って、今はホームヘルパーと言われているけど、当時は家庭奉仕員と言われていた仕事をしていたのよ。利用者の方々が喜んでくださるのが嬉しいと言って、仕事に生き甲斐を感じていきいきと暮らしていたわ。多分、美咲ちゃんに出会ったのは家庭奉仕員の仕事を辞めてからじゃないのかしらね」
「そうですか。お幸せになられてほんとうによかったですね」
 美咲は女性が鬱病を脱して、心の安定期を過ごすことができたと聞いて安心をした。正則が椅子から身体を起こした。

「美咲、末元さんにお母さんの話を訊くのはもうその辺でええやろ。末元さんも辛い思い出をよう話してくれました。私からもお礼を言います」
「いいえ、まだ子供であった美咲ちゃんがそんなに母の事を覚えてくれていたなんて、私も嬉しいわ」
「ほんなら、まだ治療が残っているけん、揉ませてもらうわなぁ」
 正則はいつもにも増して優しい声である。吹きつける一陣の風がまた戸を叩いている。美咲は治療を終えた末元さんを玄関まで見送った。玄関を開けるのと同時に、蝋梅のほのかに甘い香りが、小雪を乗せた風に乗って流れ込んできた。末元さんは、そろそろ花も終わりに近づいている蝋梅の匂いを確かめるように大きく深呼吸をしてから、しみじみと言った。

「母はこの蝋梅が好きだったのよ。栗林公園の蝋梅が咲き始めると、毎年、何度も見に行っていたのよ」
「まあ、ほんとうですか!私も大好きな花なのですよ」
「あら、そうなの。地味な花だけれど、何となく引きつけられるものがあるわよねえ。寒いと思ったら、少しだけれど雪が積んでいるわよ」
「この辺りでは珍しいですね」
 美咲は数歩足を前に出した。靴底に柔らかな雪の感触が伝わってくる。腰を折って、指で地面の雪に触れてみた。

「わぁ、冷たい」
 しっとりと水分を含んだ雪の積もり具合を確かめたら、四・五ミリくらいは積んでいるかと思われた。

「もう庭の樹々もうっすらと雪をかぶっていて、純白でとても綺麗よ。美咲ちゃんにもこの風景を見せてあげられたらねえ…」
 言ってから、末元さんはしまったと言うような声で、慌てて言葉を足した。

「ごめんなさいね。余計なことを言って。私もこの年になると、母さんが美咲ちゃんを見えるようにしてあげたいと思った気持ちがよく分かるのよ」
「ありがとうございます。そう言っていただけるだけで十分嬉しいです。今日は、ほんとうに良いお話をありがとうございました。私はあの時、お母様に出会えてあのように言っていただけたことを、ずっと感謝していたのですよ」
 美咲はそこまで言ってから、背中を伸ばしてにこやかに話を続けた。

「それに、お母様に言葉をかけていただいたことが、どれだけこれまで私の心を支えてくれたか分からないのですよ」
「そう言ってもらえれば、母さんも浮かばれます。『あの親子を傷つけたのでは』とずうっと気にしてたのよ」
「いいえ、傷つくどころか、命の次に大切とも言える目をくださると言ってくれるような人と出会えたことは、私にとっても幸せなことだと母と共に感謝していたのですよ」
「美咲ちゃん、どうかこれからもがんばって生きてね。私でできることがあれば、何でも言ってね」
 末元さんは、美咲の手をギュッと握りしめて帰って行った。美咲は末元さんの帰って行く足音を聞きながら、ふと、心によぎった思いにハッとした。

(もしかして、末元さんは私のことを初めから知っていて、お母様の思いを引き継いで来てくださっていたのではないかしら)
 そう思うと、末元さん親子への感謝の思いと共に、暖かな春の日差しが降り注いだような幸福感に満たされた。
 美咲は足音が聞こえなくなると、引き寄せられるように蝋梅の樹の前に立った。ゆっくりと枝に指を滑らせて少し俯き加減の花に触れると、うっすらと雪を乗せた枝の先にいくつかの花が咲いている。冷たい雪の感触に花びらが震えているように感じられた。幹に触れると、まだ直径五・六センチの華奢な樹だ。

 美咲は、花に顔を近づけて大きく深呼吸をした。雪に少し匂いが吸い込まれているような気がするが、それでも甘やかな香りが、優しく心までをも包み込んでくれるようだ。美咲は花に触れながら、そっと呟いた。

「ああ、やっぱり優しくっていい匂いだわ。あなたの花言葉は、慈愛心と思いやりだそうね」
 物言わぬ蝋梅は、ひたすら寒さに耐えているように感じられる。雪は全ての音を吸い込んで静かに降り続けている。

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蝋梅(ろうばい) その7    --- 了 ---

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