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美咲[みさき]は、洗濯物を干しに外に出た。一月の風は暖かい香川とはいえ、さすがに頬に突き刺すように冷たい。美咲は手にしたタオルを干しながら、ふと手を止めた。
(おや、これは蝋梅の香りだわ)
喜びに心が躍った。急いで洗濯物を置いたまま、治療室の前に植えられた蝋梅の方へと足を進めた。自分の身長より、やや大きくなった蝋梅の枝に両手の指で触れてみた。いつ咲いたのか、枝にはいくつかの花が優しい香りを放って咲いている。
「何だか、懐かしい匂いがすると思ったら、やっぱりあなただったのね。今年もあなたに出会えて嬉しいわ」
美咲は花に語りかけながらゆっくりと顔を近づけた。
「あなたも寒気に耐えて生きているのよね。これまで、あなたにどれだけ励まされたことやら…」
美咲の言葉に、触れている指の下で花が頷いたような気がした。
蝋梅は中国の原産で、日本の梅とは異なるそうだ。十二月の末から、二月にかけて二・三センチほどの小さな花を咲かせる。外側の花弁は黄色、内側のは暗紫色で、蝋細工のような光沢があると庭師が言っていた。確かに花びらに触れると、肌理が細かくて艶やかな感触がある。
あまり派手な花ではないとのことだが、目の見えない美咲は寒気の中でも甘やかな香りを放って咲く蝋梅が子供の頃から好きであった。そのため正則[まさのり]と結婚をして[かほり治療院]を開業したときにも、記念に庭に蝋梅を植えてもらったのだった。
(ああ、やっぱりとても甘やかで素敵な香りだわ)
美咲は大きく深呼吸をして、花からそっと顔を離した。蝋梅が咲くと、毎日、一度は花に触れて蝋梅から元気をもらうのが日課である。
美咲は花に触れながら、そっと呟いた。
「もし私の目が角膜が悪いだけで、あの時あの方の目をいただいて見えるようになっていたら、今頃どんな人生を歩んでいたかしら。あなたに心を引かれることも、正則さんとも出会えなかったかもしれないわよね。そう思えば、人の運命なんて分からないものね」
美咲は子供のときの経験を思い出して、出会いの不思議とありがたさを思った。
美咲は母親に手を引かれて、電車に乗っていた。まだ単独歩行ができない美咲が出かけるときには、いつも母が側にいた。
「夏休みなのに今日は空いているのか、あまりお客さんの声がしないね」
「そうやねぇ。この車両には二十人くらい乗っているかしらね」
一宮に住んでいる美咲は母親に連れられて、高松琴平電気鉄道の電車に乗って、瓦町へ母と美咲の洋服を買いに行く途中である。まだ小学六年生の美咲は、目が見えないこともあってそれ程はファッションに興味が無い。それでも、昼食に何か食べさせてもらえるのではとついて来たのだった。
車掌が仏生山駅が近づいていることをアナウンスしている。
「琴電の電車は走る博物館と言われているんだ。だから、父さんのようにマニアにはとても魅力的なんだよ」
嬉しそうに銀行員の父が言っていた。都会で使わなくなった電車を購入して走らせているだけに、駅近くになると大きく一揺れしたかと思ったら、歴史を感じさせるように、キーキー、ゴットンと音を立てて止まった。
時間が午前十時近くになっていてラッシュ時は過ぎていることもあり、仏生山駅からも乗り込む人は少ないようだ。足音が間をおいて中へと進んで行く。まだ全ての車両にクーラーが設置されていない頃だ。開け放された窓から、スピードに合わせるように八月の暑さを含んだ風が美咲の三つ編みの髪をなびかせながら流れ込んでくる。
発車してから数分してのことである。窓に沿って長椅子がある向かいの席に腰掛けていたと思われる人の足が、美咲の前へと進み出てきた。六十過ぎと思われる女性が、ためらっているような声で話しかけてきた。
「あのう、大変失礼ですが、もしかしてお嬢さんは目がご不自由なのでは…」
母親が訝かし気な声で答えた。
「はい、そうですが。それが何か?」
「ごめんなさい。突然に変なことをお訊きして。私は三つ向こうの栗林駅で降りますので、急いで話をさせてくださいね」
そう言ってから、女性は早口で話し出した。
「もし、よろしかったら私の目をお嬢さんに差し上げたいのですが」
美咲は、女性の言葉に驚いた。
(えっ、私に目をくれるって。目をくれるって言うことはこの人の目をくり抜いて、私の目に入れるっていうことなの!)
美咲は自分の目をのけて人の目を入れるなどということは、想像さえしたことが無い。それだけに、女性の申し出が嬉しいというよりは、恐怖さえ感じて母親の腕を握り締めた。
母親も、見知らぬ人からの唐突な申し出に驚いた様子である。母親は一呼吸おいてから答えた。
「ありがとうございます。眼球の移植で治るものでしたら、早くに私の目をこの子にやっています。今、移植ができるのは角膜だけなのです。それに、この子の疾病は角膜では無いのです」
周囲の人たちも、女性の奇異な申し出が気になるのか、話し込んでいた人の声も止んで、こちらの様子を窺っているようだ。女性は母親の言葉に、声を落として言った。
「そうですか。私はもう六十五年も生きてきて、十分いろんな物を見させてもらいましたし。平均寿命からみても、残された人生はそんなに長くはないと思いますしねぇ。これからの余生は、見えなくても生きていけると思うのです。それよりも、もし私の目をお嬢さんに差し上げることができたら、まだまだ長い人生に光を注いであげることができるのではと思ったのですが……残念です」
女性は力なくそう言ってから、美咲の手を握り締めた。
「元気でがんばって生きていってね」
優しい声で励ましてくれてから、気を落としたように重い足音でまた前の席に戻って行った。美咲も母親同様に、知らない人からの突然の言葉に、呆気にとられたまま何も言えずにただ頷くだけであった。しばらくは、今の女性の言葉が心の中で波紋となって広がったが、直ぐに昼食のことが気になってきた。
「ねえ、お母さん、何を食べさせてくれるのよう」
「またお昼ご飯のことが気になってきたの」
美咲は胸をときめかせて、母親の返事を待っていると、先ほどの女性が声をかけてきた。
「では、私はここで降りますから。これで、失礼をいたします」
栗林駅で電車が止まると、女性は乗降口へと向かったのか足音が消えていった。母親が、慌てて背中に声をかけた。
「あのう、お名前を」
返事は無く、すでにホームへと降りた様子である。結局、どこの誰か名前も分からないままであった。
美咲は、女性が降りてから母親に小声で言った。
「すごい人やねぇ。知らない人に自分の目をあげるって言うのだから。もし私が目を頂戴って言ったら、あの人どうしたのかしら。ほんとうにくれたと思う」
「さあどうかなぁ。なかなか言えないことよね。でも、あの人どうしてあんな事を言ったのかしら。何か余程深い事情でもあるのか、かなり思い詰めたような顔をしてたわねぇ」
母親はそう言ったまま、何やら考え込んでいるのか黙ってしまった。まだ小学生の美咲には、女性の心情までは想像することができない。
美咲は生まれながらに光の世界を知らずに、闇の世界ばかりでずっと暮らしていて、これが普通だと思っている。これまであまり視力が出ることなど、想像したことも無い。
(もしも、私の目が角膜だけが悪くって、あの人の角膜をもらって目が見えるようになったら…)
想像をするにも、見たことが無い世界だけに思い浮かべようが無い。
(目が見えたらいろんな物が見えて便利だと思うけれど、漢字も覚えなくっちゃいけないしなぁ。見えたら見えたで不便なこともたくさんあるような気がするよなぁ)
闇の世界しか知らない美咲には、今が一番良いような気がした。
瓦町駅近くになって、母親が溜息混じりにポツリと言った。
「ほんとうに、角膜の移植だけで美咲の目がみえるようになったら、どんなに良いかしらねぇ」
母親の心の中には、娘の諦めていた光の世界への願いが再び思い起こされて、余計に悲しみを深くしたのかもしれない。
車掌が瓦町駅に着いたことをアナウンスしている。電車がまたガタンと大きく一揺れして止まった。母親が美咲を誘導して乗降口へと足を進めた。
(そうかぁあ。目が見えたらお母さんの手を借りなくても、自由に一人で歩けるんだ)
美咲は、やはり光の世界にいる方が便利なのだと思った。そう思えば、何だか自分だけが不便な世界に住んでいて、毎日とても損をしているような気がしてきた。駅を抜けて商店街に行くと、夏祭りが近いこともあって、盆踊りのテーマ曲が賑やかに流れている。
(やはり見えるようになりたいなぁ)
と思っていた心もどこかへ飛んで、商店街の賑やかな雰囲気に心を奪われていった。
母親の話では、以後、何度電車に乗ってもあの時の女性には一度も出会うことは無かったそうだ。今、思い起こしてみても、まるで狐に化かされたような話である。そのくらい、奇異な申し出であった。
あれから、三十年以上の歳月が流れた。美咲の心の中には、あのときの女性が何を思ってあのように声をかけてくれたのか、今でも時折、疑問を持つことがある。
(もし目をくださいと言えば、命の次に大切だとも言える目を、あの女性はほんとうにくださったのだろうか? それにしても、どうしてあのような申し出をされたのか。どんな人生を歩んで来られた人なのだろうか)
美咲の脳裏に様々な想像がよぎった。手仕事に従事する人なのか、握手をしたときの少しかさついた女性の手のひらの感触が、今も美咲の心に温かさを残している。
小雪を乗せた一月の風がそよいで、蝋梅の甘い香りが美咲の顔を包み込んだ。
(ああ、今年も元気でこの香りに出会えて幸せだわ。一生の内に出会う人は多いけれど、あそこまで言ってくださる人と出会えたことは幸せよね。きっと余程苦労をして、人生の終焉までに人のために尽くしたいと思って言ってくださったのかもしれない。人間、それぞれにいろんな苦労を抱えているもんね)
そう考えて、言ってくださった言葉を時折思い出しては、これまでも心の励みにしてきた。
蝋梅に触れながら当時のことを思い出していると、家の中から正則が声をかけてきた。
「おおい。外にいるんかぁ」
「はあい。ねぇ知っていた。蝋梅が咲いたのよ」
「えっ、そうかぁ。それは気がつかんかったなぁ。じゃあ、また美咲の蝋梅へのお百度参りが始まるんやのぅ」
正則が大きな声でカラカラと笑った。
「そうよ。だから、また蝋梅に元気をもらっているのよ」
「蝋梅も良いけど、いつまでもそんな所におおると風邪を引くで」
正則の変らない優しい声を聞きながら、あらためて正則と出会えた幸せを実感した。美咲は蝋梅に心を残しながらも、物干し台の側に置いたままにしていた洗濯籠を持って家に入った。
「ほんとうに、美咲は蝋梅が好きやなぁ。よくまあ、毎年飽きずに花に触れているもんや」
正則が呆れた声で言った。
「自分でもそう思うわ。でもねぇ、蝋梅に語りかけていると、願い事まで聞いてくれるような気がするの。それに、『私のように強く生きるのですよ』と励ましてくれているように思うのですもの」
美咲は正則に話をしていると、ここに到るまでの様々な出来事が、その時々の思いを絡ませながら脳裏に蘇ってきた。
三歳年上の正則と結婚をしたのは、美咲が二十三歳のときだ。互いに全盲のために相手の顔が見えないこともあり、顔の好みは選択できないが、正則とは合唱の趣味が合うことや、穏やかで優しい性格に引かれたのだった。正則とは盲学校で小学部から高等部までずっと一緒に過ごして、兄弟のように接していた。その上、同じ治療院に勤めていたので、結婚をしたとはいえときめくような感動は無かった。
それでもウェディングドレスを着たときには、これで正則の妻になれたと思うと、女としての平凡な喜びが全身を包み込んだ。美咲はサラリーマン家庭に育ったが、正則は兼業農家の次男である。土地に余裕があることから、結婚の話が決まると舅が言い聞かせるように言った。
「家を建てられるだけの土地はやるけん、二人で力を合わしてローンを返していけよ」
住居を兼ねた治療院が建てられるだけの宅地を提供してくれた。
その上、庭造りが好きな舅が美咲のために、それぞれの四季に花が咲く四本の樹を植えてくれた。
美咲は舅が植えてくれた樹の幹を手で触れてみた。沈丁花、梔、金木犀、蝋梅と撫でていくと、どの樹に触れても今にも甘やかな香りがそよいでくるような気がして、思わず美咲の顔に笑みが浮かんだ。
側にいた正則もにこやかな声をかけてきた。
「美咲、よかったなぁ。親父は口数は少ないけど、ああ見えても案外優しいところがあるんやで」
「ほんとうに、嬉しいわ。春夏秋冬に香りを楽しめる樹を植えてくれるなんて」
美咲の胸に熱いものが込み上げてきた。
「ねえ、お父さんが折角香りを楽しめる樹を植えてくれたのだから、治療院の名前を[かほり治療院]にしない」
「それはええ思い付きやなぁ。きっと親父も喜ぶぞ」
美咲は数日経って訪れて来た舅にも[かほり治療院]と名付けたことを伝えた。
「それは、ええ名やなぁ」
満足気な声で喜んでくれた。美咲は舅の声を聞きながら、側にいた正則に声をかけた。
「まだどの樹も一メートル少々の小さな樹だけれど、あれらの樹々が生長するのと共にかほり治療院も皆さんに愛されるようになるといいわよねぇ」
「そうやなぁ」
正則もしみじみと答えた。
「来てくださる患者さんたちが、心身共に癒されてくれればいいのだけれど」
「まあ、そんな治療院になるように二人で精々がんばろうなぁ」
美咲は祈る思いで、「はい」と言いながら大きく頷いた。
かほり治療院に二度目の沈丁花の花が咲いた四月のことだ。美咲は男の子を出産した。(庭の樹のように素直で健やかに育つように) 直樹[なおき]と名付けた。美咲は直樹ができて半年くらいは子育てに専念した。その後は家のローンの返済のこともあるので、近くに住む姑に面倒をみてもらって、仕事に復帰した。
見えなくて仕事をしながら子育てをするのは、美咲の想像を超えて大変であった。幸い姑が家に来て直樹の面倒をみてくれたので助かった。患者の空きをみては、奥に行って直樹にお乳を飲ませた。母乳を飲ませている間はよかったのだが、離乳食を食べさせるようになるとうまく子供の口に物を入れたスプーンを運ぶことができなくて、親子で格闘をした。それでも何度か繰り返す内に、直樹の方からスプーンに口を運んでくるようになった。
正則も子供好きなのか、直樹の少しの成長の変化にも喜びの声をあげた。美咲はそんな正則の声を聞く度に、女としても母親としても幸せを実感するのだった。
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