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長編小説 ホローアップ 2


文:林 克之

ホローアップ 2・目次

第一話 稲盛みゆきの悩み

第三話 風の吹く日に

第五話 女の敵は女?

第七話 理想の盲導犬

第二話 楽観主義でいこうよ

第四話 僕のせいじゃないよね

第六話 ずっと一緒にいたいんだ

第八話 ビリーの旅立ち



◆第一話 稲盛みゆきの悩み◆



  澤田達也はふうとため息をついた。
 とりあえず仕事の区切りはついた。ここでタバコでも一本吸いたいところだが、こんな小さな設計事務所にも禁煙の大波は容赦なく押し寄せてきている。

「さあてと。「喫煙スペース』にでもいくとしますか」
 散らかった机の上をそのままに事務所のドアを開け、薄暗い廊下を歩く。同じフロアのどの事務所ももう照明は消えていた。ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、もう10時を廻っている。

「もうこんな時間かあ。…そろそろ帰るとするかな」
 今日は金曜日。月曜朝の会議に必要な書類はとりあえず仕上がった。
 非常口のドアを開けると、すぐ左に「喫煙スペース」がある。大きなスタンド型の灰皿とプラスティックの安っぽい椅子が三つ。そこに先客が一人、煙を吹かして座っていた。

「よお澤田ちゃん。いままで残業かい。ご苦労さまあ」
「吉村さんこそ遅くまで居残りですか」
 同じ階にある広告代理店の社員。確か40代の独身。

「明日も仕事だぜえ。安い給料でこきつかってくれるよ、まったく」
「アハハ。どこも似たようなもんですよ」
 達也は吉村の隣りに座るとポケットからタバコを取り出しライターで火を点けた。

「澤田ちゃんは明日休み?」
「ええ、まあ」
「どうよ。これからちょいと飲みに行かない。僕、まだ晩飯も食ってないのよ。帰ってもだあれもいないしさあ」
「いいですね。オレも晩飯まだなんですよ。中華でもいってみますか」

「中華かあ。から揚げで生をグイッと飲んで、もう一気に寝ちまうか。独り者は寂しいよなあ、まったく。アハハ」
「この近くにおいしいとこがあるんですよ、実は」
「さんせえい!わたし、中華だあい好き!」
 突然割って入った声に男二人はギョッとして振り返った。
 薄暗い照明の中に若い女が立っていた。小柄な娘。美しい娘だった。

「…み、みゆきちゃん…」
「ご無沙汰してまあす」
 稲盛みゆきは相変わらずの潤んだ瞳を達也に向かって輝かせていた。両手を後ろに組んで、達也に愛くるしい微笑を送る。

「ねえねえ、いきましょうよ、中華!わたしも夕ご飯まだなんですう」
小走りに達也に絡みついて来る。グイグイ肩をゆすってダダッ子のようにせがむ。

「さ、澤田ちゃんのガールフレンド?」
 呆気に取られた吉村は、火の点いたタバコを持ったまま娘を見た。美しい。いや、可愛い。いやいや、こういうのを「エロかわいい」というんだきっと。グラビアから飛び出してきたようなまさにアイドルタレント。しかも…胸は…Dカップ?

「はい。稲盛みゆきって言います。達也さんの『女』です。なあんてね。えへ」
「え?あの、いや。ち、違うんですよ。みゆきちゃんねえ…」
達也はただドギマギしながら右手を振って吉村に「言い訳」の視線を送る。

「なるほどねえ。澤田ちゃんも隅に置けないね。どこで引っ掛けたのさ、こんな可愛い子」
 吉村はニヤニヤしながら何度も頷いてみせる。灰皿にタバコをギュッと押し付けると立ち上がり、わざとらしく両手をパンと叩く。

「じゃあ邪魔者はサッサと退散しますかなっと」
「そ、そんな、吉村さん。一緒に…」
「ごめんなさあい。今日はどうしても『二人っきり』でお話したいことがあるんです」
「え?ふ、二人きりって…。だっていま吉村さんとご飯を…」
「澤田ちゃん。いいからいいから。ぼく、そんなヤボな男じゃないって。じゃあ」
「あ、そ、そんな。よ、吉村さん」
 右手を軽く挙げてさっさと立ち去る吉村の後ろ姿に、達也のすがるような声は届かなかった。

「さ、行きましょ、達也さん。まずは中華でお腹を落ち着かせて。それから軽く飲みに行きましょうよ。わたし、明日休みなんだ。達也さんも休みなんでしょ。今夜は朝まで帰さないぞお」
「あ、朝までって…」
 右の指に挟んだタバコが知らぬ間に燃え尽きようとしていた。



「なかなかいいでしょ、ここ」  カウンターに並んで座り達也とみゆきはカクテルグラスを傾けていた。店内には小さくジャズが流れている。ボックス席には数人の客が思い思いに団欒していたが、カウンターには達也たち二人しかいない。ビル地下の突き当たりにあるバーはまさに「大人の隠れ家」の雰囲気が漂っている。
 中華料理店で軽く食事を済ませ、タクシーに乗ってみゆきお勧めのこのバーに座っている。時間は既に11時を廻っていた。

「そんなに時間ばっかり気にしなくていいですよ。ちゃんとタクシーに乗せて帰しますから。ウフ」
 みゆきがいたずらっぽく笑う。

「ほんと、久しぶりですよね。一月ぶり…かな?」
「そ、そうだね。仕事いそがしかったんだ」
 そう。三日にあけず達也のところに来ていたみゆきが一月ほど前からバッタリ姿を見せなくなっっていた。達也としては正直ホッとしていたところだったのだが…。

「赤山先輩に悪いかなあって、私としては諦めようと決めてたんですよ、達也さんの事。だから我慢して会わないようにしてたの。先輩とはちゃんと連絡取れてます?」
「え?ま、まあ、ね」
「先輩、すぐ仕事の事で頭一杯になっちゃうタイプだからなあ。こんな素敵な男性が待っててくれてるのにねえ」
「アハハ…」

「応援します。わたし、お二人のこと応援してますから。がんばってください。韓国なんてお隣の国じゃないですか。いつ戻って来るんでしたっけ、赤山先輩」
「さあ…。2、3年ってとこ…かな」
「2、3年かあ。達也さん、おいくつでしたっけ?」
「え?さ、34だけど」
「34かあ。2、3年かあ ふうん」
 みゆきが意味ありげに口元に小さな微笑を作る。

「何かおかわりします?」
 空になったグラスを見てバーテンが達也に声を掛けてきた。

「え?あ、ああ」
「も少し強いのを二つ」
 みゆきはグラスを空にすると達也には構わずすかさずそう答えた。

「かしこまりました」
 鮮やかなブルーのカクテルが二人の前に置かれる。

「実を言うとね…」
 新しいグラスを手に、みゆきが神妙な表情になって達也をじっと見つめる。

「わたし、悩んでるんです」
「え?」
 悩んでる?「悩み」という言葉とは世界一縁遠く思えるこの娘が?

「達也さんに聞いてもらえないかなって思って…。赤山先輩に悪いかなとは思ったんですけど」
「わ、悪くなんてないさ。悩みくらいいくらでも聞くよ。オレなんかでよけりゃ」
「わあ、うれしい」
 みゆきが達也にしがみついてくる。Dカップの豊かな胸が二の腕に生々しい。達也は思わずグラスをにぎりしめる。

「な、悩みってどんな…。友達関係のもつれとか?」
「仕事のこと」
「仕事の?職場にやな上司がいるとか?」
「わたしね、訓練所辞めようかなって…。盲導犬訓練士に向いてないんじゃないかなっ…て」
「む、…向いてないって…」
 みゆきはグラスに唇をつけるとグイと一口飲んでから達也の目を見つめながら続ける。

「訓練士って言ったって、私、まだそんな立派なもんじゃないんですよ。見習い、ほんの卵。訓練所で働き出してまだ1年にもならないし。お手伝い程度のことしかさせてもらってないんですけどね」
「だったら向いてないもなにも…」
「でもね」
 みゆきはふうっとため息をついてみせる。

「盲導犬にかかわる人ってみんな一生懸命でまじめな人ばっかじゃないですかあ。わたしってどう考えてもそんなタイプじゃないでしょ。きっと向いてないと思う」
「そ、そうかなあ。みゆきちゃんの部屋の本棚、専門書でぎっちりだったし。一生懸命やってると思うよ、オレは」
 みゆきはパッと目を輝かせて達也に顔を近づける。

「そっかあ。達也さん、わたしの部屋に泊まったことあったんですよね。そっかあ。わたしと達也さんってかなり近しい関係だったんだあ、すでに」
「あ、いや、あのね」
 達也はみゆきの言葉に思わず周囲を見回してしまった。他の客に二人の話を聞いている様子はない。カウンター内の若いバーテンが小さく笑ったような気がした。

「と、とにかく一年や二年じゃ向いてる向いてないなんてわかんねえよ。みゆきちゃんはまだまだ若いんだからさ」
「そうですよね。まだ若いですよね。若すぎかもですよね。よかった。思い切って達也さんにお話し聞いてもらって。ね、時々わたしのグチ、聞いてもらえます?…やっぱ先輩に悪いかな…」
「そんなことねえよ。あ、ああ。オレでよかったら…」
「わあ!うれしい!」
 みゆきがまた飛びついてきた。Dカップの胸が…。 達也の顔からドッと汗が吹き出る。

「達也さん、わたしのこと見守っててくださいね。わたし、ほんとはすっごく弱い子なんです。すぐくじけちゃうし。赤山先輩みたいに強くないんです」
 みゆきの大きな両目はいまにも涙がこぼれ落ちそうに潤んでいた。



 みゆきをタクシーで送り、達也が自分のアパートに辿り着いたのはもう午前1時を廻った時間だった。

「ふう。なんか疲れたし」
 敷きっ放しの万年床に座って大きなため息をつく。

「寝る…かな…」
 服を着たままゴロンと横になる。シャワーくらい浴びたいところだが、どうにも面倒くさい。ちょっと飲み過ぎたか…。
 ズボンのポケットで携帯電話が鳴った。

「ん?誰だ?」
 寝転んだまま右手でゴソゴソ電話を取り出し、番号を確認すると…。
 赤山紀子からだった。

「もしもし」
「ごめえん。もう寝てた?」
「いや、いま帰ってきたとこ」
「飲みにでも行ってたの?」
「まあな」
「浮気でもしてたんじゃないのお」

「そんなことあるわけねえだろ。それよりお前こそ珍しいじゃねえか。こんな時間に電話なんて」
「ごめんごめん。レポートがやっと完成したのね。来週からイギリスなのよ。そこで発表するやつ。もう寝ようかなって思ったんだけど、なんだか達也の声が聞きたくなっちゃってさ」
「それはそれは。光栄のいたり」
「元気してた?」
「まあな。それより今度はいつこっちに来れるんだ」

「そうだなあ。イギリスからもどる時、ちょこっと寄れるかな。訓練所にも一度顔出さなきゃならないし」
「相変わらず忙しそうだな」
「まあね」
「…なあ紀子」
「なあに」
「盲導犬の訓練士ってどんな仕事なんだ」
「え?どんなって?」

「楽しい職場なのか、若いやつにとって」
「どうしたの?達也がそんなこと聞くのって始めてかも」
「どうしてってことはねんだけどよ。ちょっと聞いてみたくなって」
 達也は携帯を耳にあてたまま布団の上であぐら座りになる。

「ううん。一般論で言うとおもしろい仕事とは言えないかな。とっても地味な仕事。実際、どこの訓練所でも若い人が続かないの。4、5年で辞めちゃう人がすっごく多いのよ。それが盲導犬育成事業の抱える大きな課題でもあるのよね」
「ふうん」
「盲導犬訓練士になりたいって言う人は多いんだけど、実際の仕事はとっても地味な作業の繰り返しなわけよ。モチベーション保つのがかなりむずかしいかな。犬が好きだけじゃとても続かない」
「ふうん」
 ポケットからタバコを取り出し、ライターで火をつける。

「お前はどうなの。一般論じゃなくてお前にとって訓練士の仕事はどうなのよ」
「わたし?もちろん楽しいに決まってるじゃない。犬のこと大好きだし。訓練所に集まってくる人たち、みんな大好き。犬と人間の織り成す風景はまるで『奇跡の風景』よ。もう毎日がワクワクしちゃう」
「…だろうな」
 達也はタバコを口にくわえたまま左手で灰皿を探す。

「ねえ達也」
「なんだ?」
「そろそろタバコやめたら」
「今度くる時またキムチ買ってきてくれ。ダイコンのやつ。イカとかエビなんかはいってるのがいいかな」
「はいはい。ちゃんと買ってくからいい子で待ってるのよ」
「はあい」
「じゃ、おやすみ。声聞いてなんだか元気になった」

「元気なかったのか?」
「そりゃそうよ。恋人とはなれて異国で一人暮らし。寂しくないわけないじゃない」
「ほんとかよお」
「ほんとに決まってるじゃない。じゃ、お や す み」
「ああ、おやすみ」
 達也は携帯電話をテーブルの上に置くと、服を脱ぎ捨て風呂場に向かった。やっぱりシャワーを浴びてから寝よう。すっきりしてから寝よう。二の腕にへばりついたDカップの感触をシッカリ洗い落とさないと眠れないような気がした。



「おはようございまあす」
「オハヨオ。みゆきちゃん、相変わらず元気だねえ」
「はあい。わたしって元気だけが取り得なんですう。鶴田さん、宿直だったんですかあ」
 みゆきが事務室のドアを開けると先輩訓練士の鶴田幸一が眠そうな顔でコーヒーを飲んでいた。

「そうそう、田村さんが話しあるって言ってたよ」
「わたしにですか?なんだろ」
「さあね。いま犬舎にいるよ」
「なんだろ。ちょっと行ってきますね」
 肩にかけたショルダーバッグを自分の机の上に置くと、バタバタと廊下を駆け出す。

「田村さん、おはようございまあす」
「ようみゆきちゃん。今朝はなんだか特に気分良さそうじゃないか。何かいいことあったかな」
「わかります?うふふ」
「さてはボーイフレンドといい進展があったとか」
「ま、そんなとこです。ちょいくさすぎる手、使っちゃいましたけどね。うふ。それよりわたしにお話って何ですか」

「そうそう。この犬なんだけどね」
 田村総一郎は右手にリードを握り一頭のラブラドールを従えている。真っ黒なその犬はみゆきに向かってしきりにシッポを振っていた。

「ビリーって言うんだ。一歳になったばかりの男の子」
「この間パピーウォーカーさんから戻って来たB隊の子ですよね」
「そう。この子、みゆきちゃんに預けようと思ってね」
「え!ほんとですか」
 みゆきは目を大きく見開いて顔一杯に喜びを溢れさせた。

「しっかりお願いしますよ。りっぱな盲導犬に育ててください」
「はい!がんばります!ビリー、カム!」
 ビリーは田村の手を離れ、みゆきの元に駆け寄ってきた。差し出された両手をペロペロと舐めまわす。

「がんばろうねビリー。いい盲導犬になろうね」
 稲盛みゆき22歳、盲導犬訓練士見習い。
 ただいま青春真っ只中。


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◆第二話 楽観主義でいこうよ◆



「ビリー、カム」
 真っ黒なラブラドールが元気一杯に走り寄って来る。

「シッツ!」
 足元に急ブレーキで止まるとちょこんと座る。

「はいグー。夕ご飯あげようねえ」
 稲盛みゆきは背中に隠していたステンレス製の皿をビリーの目の前に置いた。中にはドッグフードが入っている。ビリーは嬉しそうにシッポを振った。

「ウエイト!まだダメよお。よし!カム!」
 ビリーはさっと立ちあがると、皿に顔を突っ込むようにしながらドッグフードを食べた。ボリボリと噛み砕く音がなんともせわしない。

「パチパチパチイ」
 みゆきの隣りで見ていた新田綾は思わず口と手で拍手を送った。

「はい、もうおしまい。お水あげようねえ」
 名残惜しそうにいつまでも舐め回しているビリーから皿を取り上げると、みゆきは台所の水道で水を入れる。

「ねえねえ、それ、わたしにやらせて」
「いいわよ」
 みゆきから水の入った皿を受け取ると、綾はビリーの前にしゃがみ込んで両手で差し出した。

「はいビリー。ゆっくり飲むのよお」
 ビリーはシッポを振りながらガブガブと水を飲む。

「やっぱかわいいね。いくつだっけこの子」
「一歳になったばっか」
「ふうん。これから盲導犬になる訓練が始まるんだあ。大変だねえ。がんばんなよビリー」
 綾は水を飲み終わって皿の隅々を舐め回しているビリーの頭を人差し指でちょこんと突っついた。

「さあて、ビリーの食事も終わったし。わたしたちも夕ご飯にしますか」
「そうだね。おなかすいちゃったし。言っとくけど今日は私の大奮発のおごりだかんね。その事、くれぐれも忘れないように」
「サンキュ。助かりまあす。なんせ訓練所の給料、安いから」
 6畳の部屋の真ん中に置かれた小さな座卓には弁当とお茶が二つ並べられている。

「お!豚のしょうが焼き!わたし大好き!」
「サービスデーでめっちゃ安かったのよ」
「へえ、いくらだったの」
「ナイショ。ありがたみが薄れるっしょ」
「ま、いいか。いっただきまあす。こらビリー、ダウン!」
 みゆきの横で鼻をヒクヒクさせていたビリーは慌てて伏せの姿勢になる。

「なかなか言うこと聞くじゃない。やっぱお利口ねえ」
 向かい合わせで座った綾がお茶のペットボトルの栓を開けながらまた関心する。

「わたしの躾がいいんです」
「あ、このポテトサラダ、おいしすぎ。でもさあ。みゆきが盲導犬の訓練士になるなんて、なんだか信じらんない」
「そう?けっこうむいてると思うんだけど」
「みゆきってさ、そんなに犬が好きだっけ?」
「普通」
「普通でいいの?」

「いいんじゃないの。綾だって子供が大好きってわけでもないでしょうに」
「わたし?わたしは子供大好きだよ。あの濁りのない瞳。もう大好きで大好きで」
「嘘つけ。この間、後ろから飛び蹴りされて腰痛めた時『あのガキ、いつか絞めてやる』って毒づいてたじゃん」
「ま、現実はいろいろあるわよ。それにさ、わたし、まだ教師になったわけじゃないしさ。ただの児童保育のお手伝いだもんね」

「で、どうよ。採用試験。今年はなんとかなりそうなの?」
「なかなか厳しいかな。なんせ『狭き門』だからね」
「やっぱ先生めざす人、多いんだ」
「そりゃ今でも『あこがれの職業』なんじゃないの。なんてったって公務員だし」
「そうよねえ。なっちゃえば勝ちって感じだもんね。それに比べて訓練士なんて。給料は安いし、仕事はきついし。それにさあ、まだ訓練士になれるかどうかもわかんないしね」

「え?そうなの?だってその子、みゆきが任されたんでしょ?」
「任されたって言っても、まだまだほんの見習いよ。最後の仕上げは先輩の訓練士がしてくれるの。『本物の訓練士』がね。あ!こら!ビリー!静かに待ってなさい!ダウン!ウエイト!」
 二人が食べているのを興味深深で眺めていたビリーが、我慢できないと言った風に立ち上がった。みゆきに叱られてまたウエイトの姿勢にもどる。

「ふふ。この子、盲導犬になれるかな」
「なれるよ。きっといい盲導犬になれる。ねえビリー。とってもいい子だもんね」
 みゆきは片手を伸ばしてやさしくビリーの頭を撫でてやる。ビリーが小さくシッポをふって応える。

「ねえみゆき。食べ終わったら松本先生のところにいってみない?」
「え?」
「ほら。おぼえてない。小学一年生の時の担任だった松本恵子先生」
「もちろん覚えてるけど」

「わたしあの先生が大好きだったの」
「うんうん、やさしくていい先生だったよね。ははあ、綾が先生めざしてるのは…」
「そんなんじゃないんだけどさ。なんとなあく会いたくなっちゃって。ねえねえ、行ってみようよ」
「いいけどさ。どこに住んでるのか知ってる?」
「ここから車で30分くらいのところ。マンションに独り暮らし。実はわたし、ほんの時々顔見に行くことあるんだ。最近はあんまり行ってないけど」

「へえ、先生、まだ独身なんだ。もういくつになったのかな?」
「さあ?そろそろ50に手が届くんじゃないかな」
「そんなになるんだあ。なっつかしい。でもさ、アポなしで大丈夫かな」
「大丈夫だって。留守だったら帰ってくればいいだけの話じゃない」
「よし!行ってみようぜ。そうと決まったら、これ、さっさと食べちゃお」
 みゆきは猛然と箸を動かしはじめる。

「この子、どうする?」
「連れてく。松本先生、動物大好きだったし。わたし、盲導犬のこともいろいろお話したいし」
「そうね。先生びっくりするだろうな。『あのみゆき』が訓練士めざしてるなんて聞いたらさ」
「『あのみゆき』で悪かったわね。『あの綾』のくせに」
 みゆきと綾は思わずプッと噴き出してしまった。ビリーが驚いてヒョイと顔を上げる。不思議そうに二人の顔を交互に見て、そしてバタバタとシッポを振った。



「こんばんはあ」
 ドアホンを押しながら綾が声をかける。
 部屋からは何の反応も返ってこなかった。

「留守…かな?」
 綾の後ろでビリーのリードを引いているみゆきが首をかしげる。

「どこかに飲みにいったんじゃない?カラオケとかさ」
「まさか。松本先生だよお。ごめんくださあい。新田でえす。新田綾でえす。松本先生、お留守ですかあ」
 何度か声をかけてみたが反応はなし。

「やっぱり留守だよ。帰ろ。カラオケでも行こうよ」
 あきらめて帰ろうとした時、ガチャリと、ドアの鍵がはずされる音がした。

「…ごめんなさい。ちょっとウトウトしてたもんで。新田さん?久しぶりね」
 ドアが小さく開いて、松本恵子が顔を出した。照明のせいなのか、すこし蒼ざめた顔に見える。

「あ、いたいた。ね、いつだっているんだから先生は。ご無沙汰してまあす。今日はみゆきも一緒なんですよ。覚えてます、稲盛みゆき」
「こんばんはあ。」
「もちろん。稲盛さんはほんとに久しぶりよね。10年ぶりってとこかしら。全然変わってないわね」
「先生こそ、ぜんぜん変わってませんよ」
「ふふ、ありがと。さ、あがってあがって」
 ドアを大きく開いて恵子は二人を招き入れる。

「あのう。もう独り…ていうか。いるんですけど…」
「え?」
「ビリーって言います。盲導犬の卵なんですよ」
 みゆきがリードを引っ張ってビリーを前に押し出す。ビリーは嬉しそうにシッポを振って挨拶する。

「まあかわいい」
 恵子が顔をほころばせて両手を差し出す。

「あ、むやみに触っちゃダメなのよね」
「大丈夫ですよ。ハーネスつけてないし」
「かわいい子ねえ。えらいわねえ。さあさあ、あがってちょうだい」
 恵子はしゃがみこんでビリーの頭を両手で撫でた。ビリーは挨拶代わりに恵子の鼻をペロリと舐める。

「こらビリー。調子に乗り過ぎ」
「お邪魔しまあっす」
 ビリーを先頭にみゆきと綾は部屋にはいる。
 さほど広くはないが、きれいに整頓されたリビング。テーブルの上には読みかけの本が一冊。

「さあさあ、適当に座って座って。コーヒーでいい?それともアルコールのほうがいいのかな」
「アルコール!…て言いたいところだけど。今日は私の車で来てるんです。コーヒーでいいですよ。ていうか、先生、お酒なんて飲むんですかあ」
「もちろんよ。新田さんはわたしのこと誤解してない?『教育に命かけてる女』くらいなこと思ってるんじゃないのお。男なんかに目もくれず、仕事一筋なんて」
「「そうなんじゃないんですかあ」
「なわけないない。わたしだって人並みに遊ぶし、恋もするし」
「ですよねえ」
 恵子の言葉にみゆきが何度も頷いてみせる。

「へえ、稲盛さんは盲導犬の訓練士になったんだ」
 コーヒーカップにポットからお湯を注ぎながら、恵子がビリーの様子をチラチラと見る。ビリーはみゆきの足元に行儀よくダウンしていた。
「とんでもないです。まだまだ見習いの見習い」
「でも、そう言うことに興味あったんだね」
「て言うか。タイミングがよかったって言うかなんて言うか。短大出てフラフラしてる時、たまたま訓練所の応募を見て。で、なんとなあく行ってみたら、なんとなあく採用されちゃって」
「盲導犬の訓練士ってなりたい人多いって聞いたわよ。なかなかなれないって」

「きっとそうなんでしょうけど。わたしの場合はほんとにたまたま。タイミングだけなんです、ほんとに」
「そうなんだ。でもね、そう言うことって大事かもよ。稲盛さんは昔っから勘がいいって言うか、そう言うところあったもんね。新田さんはどうなの?採用試験は?」
「受かってたら真っ先に先生のところに報告に来てますよお。思いっきりだめでした。今は児童保育の手伝いみたいなことやってます」
「そうなの。今年も受けるの?」
「一応そのつもりで…」
 二人の前にコーヒーとロールケーキが置かれた。

「ごめんなさいね、インスタントで」
「こっちこそ突然押しかけちゃってすみません。お疲れだったんじゃないんですかあ」
「そんなことないない。教え子が訪ねて来てくれるなんて『教師名利に尽きる』ってものよ。とっても嬉しい」
 恵子は向かいの椅子に座ると二人を微笑みながら見つめた。当然の事ながら目の前の二人は魅力一杯の「女性」に成長していた。しかし、恵子の記憶に残っている「当時」の面影はおかしくなるほどに残っていた。変わったけど変わっていない。恵子は心の中で何度もうなずいてしまう。

「ねえねえ先生、わたしいい先生になれますかね?」
「ふふ、どうだろ。新田さんはどんな先生が『いい先生』だと思うの?」
「ううん。やさしくてえ。時々きびしいけど、やっぱりやさしい。松本先生みたいな先生」
「わたし?わたしなんてダメよ」
 恵子は笑いながら右手を振る。

「そんなことないですよ。先生はわたしにとって今も『あこがれの先生』なんです」
「だから綾は悪ガキの攻撃にも耐えれるわけだ」
「こらあ、チャカすんじゃないの」
「うふふふふ」
 恵子は子供のようにじゃれあう二人を楽しそうに見つめる。久しぶりにホッと出来たような気がした。

「ねえねえ先生。わたしは?わたし、いい訓練士になれるかなあ」
「どうなんだろ。それこそわたしにはわかんないな。盲導犬のことなんてほとんど知らないし。「いい盲導犬」を育てられるってことが「いい訓練士」ってことなんでしょうけどどんな犬が『いい盲導犬』なの?」
「ずるうい。またまた質問で返してくるんだあ。それってずるくないですかあ」
「うふふ。こういうのを大人の知恵って言うのよ」
 三人は声を揃えて笑った。みゆきの足元でビリーがシッポをバタバタさせている。
 みゆきと綾は争うようにして恵子に近況報告をした。みゆきは「訓練所の裏話」、綾は自動保育の割るガキ列伝」。リビングに何度も笑い声がひびいた。

「わ、もうこんな時間だ」
 綾が壁の時計を指さして叫んだ。
「あ、ほんと。調子に乗り過ぎちゃったね、わたしたち」
「いいわよいいわよ。わたし一人なんだから。あなたたちさへよければ…」
「いえいえ。きょうのところはこのへんでひきあげまあす。ごちそうさまでした」
 みゆきがコーヒーカップとケーキ皿を持って立ち上がる。綾もそれに続く。

「そのままでいいわよ」
「そんなわけにはいきませんよ。わたしたち一応『大人』ですからあ」
 二人はきれいに整理されたキッチンに向かう。手際よくカップを洗いった。

「今日はありがとうございました。突然おしかけちゃって。今度来る時はおいしいケーキ買ってきますね」
「いいのよ、気なんか使わなくて。また遊びに来てね」
「はい。また来まあす」
 二人は声を揃えて元気に返事をした。まるで入学間近の小学生のように。

「君もしっかりがんばってね」
 恵子はしゃがみこんでビリーの頭をやさしく撫でた。ビリーはペロリと恵子の鼻を舐めあげる。

「ノー!」
「わ、厳しい先生だこと」
「そうですよ。わたし松本先生みたいにやさしい先生じゃないんです。時に厳しく。常に厳しく!」
「わあ、大変だあ。がんばってねビリー」
 恵子はなごりを惜しむようにビリーの体を撫で回す。

「ねえ、稲盛さん。ビリー、わたしのところに一晩預かるなんてダメよね」
「え?」
 思いもかけなかった恵子の言葉に、みゆきは驚きと困惑に顔をこわばらせてしまった。どう答えていいのかわからない。

「あはは、ごめんなさいごめんなさい。冗談冗談。新田さん。車はどこに止めてるの?」
「駅近くの駐車場です」
「まあ、そんなところに?今度来る時は地価の駐車場に止めるといいわ。来客用のスペースがあるのよ。じゃ、気をつけて」
「ありがとうございました。おやすみなさあい」
 エレベーターまで二人を見送ると、恵子は一人部屋に戻った。賑やかだったリビングにまたいつもの静けさが戻っている。
 恵子は椅子に腰掛けると暫くボンヤリと天井を眺めていた。

「…よかった」
 意味もなくそんな言葉が小さく口からもれた。そしてふうっとため息をついた。
 また今日も長い夜が始まる。眠れない長い夜が…。



 昼下がりの街中を犬を連れた娘が歩いている。すれ違う男たち誰もが振り返る。とんでもないものを見てしまったと言う顔で「華麗なる犬の散歩」に見とれてしまう。。真っ黒のラブラドールと美しい娘。振り返らずにはおられない圧倒的な存在感。一体何者なんだろう。何をしてるんだろう。テレビか映画のロケだろうか。本気でカメラを探している者もいた。

「さあって、そろそろ帰ろうか。お昼ご飯、まだ食べてないのよね、わたし。訓練所に戻ってカップラーメンでも食べよっかな」
 稲盛みゆきの言葉に、リードをグイグイ引きながら歩いていたビリーが立ち止まって振り返る。嬉しそうにシッポを振って見せる。

「ビリー!ツウ ザ ホーム!訓練所に戻るよお」
 リードを軽く引いて踵をかえすと、みゆきは訓練所目指して歩き始めた。

「けっこう歩いたね。ここからだとたっぷり30分かかっちゃうかな」
 まだポカンと立ち尽くしている何人かの男たちの間をすり抜けながら、みゆきとビリーは颯爽と歩いていく。

「ほらほらビリー。キョロキョロしちゃダメよお。ドンドン歩くよお。ドンドン、ドンドン」
 ビリーが突然シッポをブンブンと振り始めた。前方から鶴田幸一がやって来るのが見えた。

「ども」
 みゆきは右手を挙げて幸一に合図を送る。

「よ、みゆきちゃん、お疲れえ」
 幸一が持っている「それ」を見て、みゆきがパッと目を輝かせる。

「そろそろつけて歩いてみようか」
 幸一が右手をあげて「それ」を指し示した。

「はいはい。はあい」
 みゆきが嬉しそうに駆け出す。ビリーもつられて走り出す。あっと言う間に鶴田にぶつかりそうになる。

「ビリーって何キロだっけ」
「24キロです」
「たぶんこれでいけると思うんだけどな。つけてごらん」
「はあい」
 みゆきは鶴田から奪い取るように「それ」を受け取った。
 白いハーネス。それはまだま新しい革の臭いがした。

「ほらビリー。ハーネスだよお。かっこいいでしょ」
 ビリーはただ無邪気にシッポを振り続けている。みゆきはしゃがみ込むとゆっくりとハーネスをビリーに装着する。

「うんうん。ピッタリかな」
 鶴田がこっくりと頷く。

「よ!ビリー!!かっこいい!」
 みゆきが頭をちょんとつつくと、ビリーは嬉しそうにシッポで大きな円を描いて見せた。

「みゆきちゃん。ハンドルにぎってごらん。一応みゆきちゃんに合わせてきたんだけど。どうだろ」
「はあい」
 飛び跳ねるようにビリーの右側に立つと、みゆきは左手で背中のハンドルを握る。

「いい感じいい感じ。なんか盲導犬ですって感じ」
「ははは。ハンドルの長さもちょうどいいみたいだね。そのままちょっと歩いてごらんよ」
「はあい。ビリー!ストレート ゴー!」
 ビリーは少し窮屈そうに、ゆっくりと歩き始める。

「いいじゃんいいじゃん。バッチリ盲導犬じゃん」
「ははは。訓練はこれから。まだ始まったばっかり」
「ですよね。じゃ、ちょっと行ってきまあす。ビリー!バック!」
 みゆきは嬉しそうにもと来た道を歩き始めようとした。

「あれ?みゆきちゃん、訓練所に戻るんじゃなかったの?」
「え?あ!そうだった。わたし、まだお昼ご飯食べてなかったんだ」
 振り返るとチロリと舌を出してみせる。

「ねえねえ鶴田さん」
「なに?」
「お昼ご飯、ご馳走してくれません?」
「え?えええ?」
「わたし、今月とってもピンチなんです。カップラーメンですませようかと思ってたんだけど。ビリーに初めてハーネスつけた記念日だし。!ね、お願い。お願いしまあす」
「な、なにそれ。意味わからんし」
「お願いお願い、お願あい。あわれな訓練士見習いに愛の手を!ほらあ、ビリーだってこんなに嬉しそうなんだしい」
 みゆきは鶴田の手をとると、ビリーのシッポに合わせるようにブンブン振り回した。

「わ、わかったわかった。わかりました。これっきり、これっきりよ。僕だって大して給料もらってないんだから。とほほのほ」
「やったあ。だから鶴田さん、大好き。ね、どこ行く?何食べる?」
「みゆきちゃんにはかなわないなあ。じゃ、そこの喫茶店にでも入ろうか」
「はあい。ビリーもいっしょで大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。マスター、訓練所のことよく知ってくれてるから」
 二人と一匹は横断歩道を渡って喫茶「ボレロ」のドアを目指した。

「おや鶴田さん。珍しいじゃない、こんな時間に」
 お昼時を過ぎたこともあってか、店内は空いていた。カウンターの向こうでチョビ髭を生やしたマスターがタオルで手を拭いながら声を掛けて来る。

「訓練中の犬が一緒なんだけどいい?」 「もちろんもちろん。あ、この子だね『評判』の新人訓練士。カウンターでいい?」
「お邪魔しまあす」
 みゆきとビリーが鶴田の横をすり抜けるようにしてカウンターの椅子に向かう。

「ねえねえ、ここのお店のお薦めってなんですかあ」
「名物タンシチュー。いつもは売り切れちゃってるんだけど、今日はまだ一皿残ってるよ」
「じゃ、わたしそれください!ライス大盛で」
「かしこまりましたあ。鶴田さんはどうする?」
「僕はコーヒーだけでいいよ。さっき弁当食べたばっかだから」
 鶴田がみゆきのとなりに座る。視線を落としてビリーの様子を窺う。みゆきの足元でビリーはしっかりとウエイトの姿勢をとっていた。

「ビリー、けっこういい感じでウエイト出来てるでしょ」
「ほんと。パピーの時の躾がよかったんだね。ビリーのパピーウォーカーさんってかなりのベテランだから。菅原さん。知ってる?」
「何度かあったことあります。訓練所でチラッと顔合わせた程度ですけどね。ゆっくりお話したことはないかな」
「ビリーが6頭目。いまも7頭目の子を預かってもらってる」
「へえ、そうなんだあ」
 おしぼりと水が目の前に置かれる。

「ねえねえマスター。わたしって『評判』なんですかあ」
「そりゃもう。盲導犬の訓練所には不似合いなほどの超かわいい見習いさん。ここに来るお客さんの中にも隠れファンが多いみたいよ」
「ふうん」
 みゆきはマスターの言葉にちょっと首をかしげる。

「わたしってやっぱ『不似合い』なのかなあ」
「え?」
 マスターはみゆきの反応に少し戸惑った様子で鶴田のほうに視線を飛ばす。

「ああ、そうじゃなくてさ。みゆきちゃんがかわい過ぎるってこと。ただそれだけの意味」
 鶴田がすかさず横から口を挟む。

「そっかなあ。わたし、ちょっとだけ気にしてるんです。訓練所で働きだしたんだって、ほんと、たまたまって感じなんですよね。こんな中途半端でいいのかなあって…」
「訓練所がみゆきちゃんを採用したのは『たまたま』じゃないよ」
 目の前に届いたコーヒーに砂糖をタップリ入れながら鶴田が言った。

「中島所長、みゆきちゃんのこと、かなり買ってる。実際、訓練所には『訓練士になりたい』って人からひっきりなしに問い合わせ入ってるからね。採用されたのは『たまたま』じゃないことだけは確か」
「そうなんですか…。わたしのどこが良かったんだろ」
「さあ、どうなんだろね。紀ちゃんの後に続く子が欲しかったのかな。これまで来た子達、みんな2、3年で辞めちゃってるし。みゆきちゃんなら続きそうな気がしたんじゃないのかな」
「わたし、根性も根気もないタイプですよお」
「そうなの?」
 鶴田はカップをスプーンでグルグルかき回しながらみゆきの顔をにこやかに見つめた。やっぱり訓練士にはちょっと可愛過ぎるのかなと思った。

「はい、おまちどう。タンシチューとライス大盛」
「わ!おいしそ。いっただきまあす」
 みゆきは小さく手を叩いてもう目の前のご馳走に夢中になっていた。話し掛ける隙は既になかった。

「わ!おいし。これっていままで食べたタンシチューの中でピカイチ!マスター、いい仕事してるねえ」
「お褒めに預かりどうも」
「けっこう高そう。これっていくらするのお?」
「ははは、けっこうな値段するよ」
「だろうなあ。ま、今日は鶴田さんのおごりだし。ほんと、おいしすぎ」
 大食いコンテストに出られるほどの勢いで食べる美女を二人の男はただボンヤリと見ているだけだった。やがて不思議な感覚が湧いてくるのに男たちは気付いた。なんだろう。どう表現していいのか言葉が見つからなかった。

「それにしてもラブって利口な犬だよねえ」
 マスターが鶴田に話しかける。

「だよね。まさに盲導犬にはうってつけって感じ」
「ですよねえ、ですよねえ。耳のたれてるところなんて超かわいいし。マスター、わたしにもコーヒーくださあい」
 アッと言う間にタンシチューを平らげたみゆきが満足そうに水を飲みながら二人の話に加わってくる。

「もう食べたの?」
「はい!おいしくいただきました!ごちそうさまでした」
 みゆきは姿勢を正して鶴田の方に体を向けるとペコリと頭を下げる。

「みゆきちゃん、盲導犬に向いてる犬の特性って知ってる?」
「はい。赤川先輩にもいろいろ教えてもらいましたし、本でもいろいろと」
「そう。ラブが盲導犬に向いてる理由に『楽観主義』があるって話は聞いたことある?」
「いいえ、聞いたことありません」
「では。先輩訓練士として薀蓄をばひとつ。ゴホン」
 鶴田はコーヒーを一口飲むと、足元にダウンしているビリーに視線を落としながら続けた。

「この子たちってさ、叱られても立ち直りが早いのね。大昔はシェパードが盲導犬としては一般的だったんだけど、シェパードってドイツ人じゃない。とっても利口で、仕事は几帳面にこなすんだけど、どこか気難しいところがあって。けっこう扱い難かったりするところもあるわけよ。ラブが盲導犬の主流になったのは『見た目のかわいさ』はもちろんのことなんだけど、この子たちって『カナダ人』なんだよなあ。仕事はけっこうアバウトなとこあるんだけどさ、何があってもめげない。失敗してもくじけない。すぐに立ち直って、また楽しそうに歩き始める。そんな『楽観主義』がこの子たちの最大の魅力。最大の能力。…なんだってさ。これ、田村さんから教えてもらった話」

「ふううん」
「ビリーはきっといい盲導犬になれると思うよ。みゆきちゃんもきっといい訓練士になれる。僕はそう思うな」
「ありがとうございます。そしてそして、ほんとにほんとにどうもご馳走さまでした」
 みゆきはニッコリ笑うとすっくと立ち上がった。

「鶴田さんはこれからどこかに行くんですか?」
「うん、盲導犬希望者の面接にいくんだ。車で1時間くらいのところかな。約束は夕方なんだけどさ。少し早めに行って、周りの様子なんかも見ておこうと思ってる」
「わたしはビリーともう少し歩いてきます。ハーネスもつけてもらったし。戻ったら犬舎の掃除バッチリやっておきますからご心配なく。マスター、またタンシチュー食べにきますね。じゃ、お先です。ビリー、スタンダップ!いくよ」」
 二人に向かって深々と頭をさげると、ビリーとともにドアに向かって歩き始めた。

「おいおい、コーヒーはどうすんの」
 マスターの声はみゆきの耳には届かなかった。



「こんばんはあ。松本せんせえい」
 ドアホンから聞こえてきた元気一杯の声に松本恵子は思わず肩をピクンと痙攣させた。そして小さく笑って頷く。なんとなく予想していた彼女の訪問だった。

「稲盛さんね。。ちょっと待ってて、すぐ開けるから」
 ドアを開けると稲盛みゆきがそこに立っていた。満面の笑みと潤んだような瞳がまぶしい。傍らには黒いラブラドールが一生懸命シッポを振っている。

「よかった、留守じゃなくて。また突然来ちゃいました。はい、お約束のケーキです」
 ニコニコしながら小さな箱を恵子の目の前に突き出す。

「あらあら、ほんとに買ってきてくれたんだ。ありがと。どうぞあがってあがって。ビリーもどうぞ」
「お邪魔しまあす」
「今日は新田さんは一緒じゃないのね」
「そうなんです。突然思いついて先生んとこに来ちゃったもんだから」
「そうなの。ま、適当に座って。紅茶でいいかな。おいしいのをいただいたのよ。ケーキも食べるよね」
 恵子はテーブルの上にケーキの箱を置くと、バタバタとお茶の用意を始める。みゆきと向かい合って座るのがちょっと怖かった。
やがてリビングに紅茶の香りが広がる。みゆきの前にティーカップを置くと、恵子は覚悟を決めたように向かいの椅子に座った。

「やっぱり稲盛さんはごまかせなかったみたいね。けっこうがんばったんだけどな」
「ねえねえ先生、ケーキ食べましょうよ。どれがいいですかあ」
 みゆきは恵子の声が聞こえなかったようにケーキの箱を開ける。中には4種類の可愛いケーキが並んでいた。

「お薦めはこれ。イチゴショート。定番すぎですけどね。ここの、とおってもおいしいんですよお」
「そうだったわね。お皿出さなきゃね。フォークもいるよね」
「わたしはモンブランいただいちゃいますね」
紅茶とケーキをはさんで、恵子とみゆきはまた向かい合う。

「稲盛さんは。みゆきちゃんは昔っから勘の鋭い子だったもんね。怖いほど」
「そうですかあ」
 みゆきはフォークにくっついたクリームをチロリと舐めてみせる。

「わたしのこと、心配で身に来てくれたんでしょ」
「え?そんなことないですよお。ほんの思いつき」
「うそばっかり」
 恵子はイチゴショートをフォークでつっついて一口食べた。

「ほんと。おいしい」
「でしょ、でしょ。わたしのただいまイチオシなんです」
 みゆきは嬉しそうに自分のフォークで恵子のイチゴショートを指差す。

「今日ね、病院に行ってきたの」
「え?」
 みゆきは驚いてフォークの動きを止める。マジマジと恵子の顔を覗き込む。

「やっぱりどこかお悪いんですか」
 恵子はみゆきの目を見つめ返しながら小さく笑った。

「やっぱりわかっちゃった。この前はずいぶんがんばったつもりなんだけどなあ。どこかおかしかった、わたし」
「いいえ…なんとなく…です」
「ほおら、やっぱりみゆきちゃんは怖い怖い。小学生の時から他の子とぜんぜん違ってたもの」
「そうですかあ」

「そうよ。わたし、ずっと見てたんだから。このこはきっと将来は『魔女』か『天使』になるって思ってた。うふふ」
「えええ、魔女ですかあ」
「そうよ。みゆきちゃんって超能力めいた魔法めいた。そんな不思議な力と魅力にあふれてたよ。わたしずうっとそう思ってた」
 恵子はティーカップを口に運びながらみゆきの顔をまぶしそうに見つめる。

「2ヶ月くらい前からね、私、眠れなくなっちゃって。夜全然眠れないのよ。思い切って精神科に行ってきたの」
「そうなんですか。やっぱりいろいろたいへんなんだ、学校。モンスター ペアレントとか」
「そうじゃないの。特に悩みなんてないのよ。大きなストレスも思いつかない。去年くらいから肩こりや頭痛なんかが時々あって。更年期かなってね。そしたらひどい不眠症。おまけに仕事がなんだか嫌になって。学校に行くのが嫌になっちゃったの。あんなに大好きだった子供たちが、とっても面倒臭く見えてきちゃって。がんばってがんばってがんばったんだけど。どんどんそうなっちゃうの」

「で、どうだったんですか?、病院」
「典型的な鬱病だって」
「鬱病…ですか」
 みゆきは思わず紅茶をゴクリと飲み込んだ。

「わたしくらいの年になるとけっこう多いんですって。先生は『心の風邪みたいなもの』だって」
「心の風邪…ですか」
 みゆきはしばらく考えてからにっこりと恵子を見つめ返した。

「風邪なら心配ないですね。薬のんで栄養とって。たっぷり休めば治っちゃう。薬もらってきたんでしょ」
「軽い睡眠薬と攻うつ剤」
「じゃあすぐに治りますよ。よかった」
 みゆきはさも嬉しそうに皿に残ったケーキを一口にほおばった。

「そうね。みゆきちゃんの言うとおりね、きっと」
 恵子は大きく何度も頷いた。自分に言い聞かせるように。

「実を言うとね。鬱病って聞いた時、わたしかなりショックだったの。自分がそんな病気になる弱い人間だったんだって」
「だって『風邪』なんでしょう」
「そうは言うんだけどさ。わたしの心が弱いから。だから病気になっちゃったんじゃないかって。わたし、けっこう自分に自信あったんだけどなあ。もっと強い女だって思ってたのに。なんだかガッカリしちゃって…」

「だめだめ。先生頭良過ぎ。真面目過ぎ。そんなこと考えてちゃ『風邪』なかなか 治んないよ」
 みゆきは恵子の言葉をさえぎるようにさっと立ち上がった。

「はい」
「え?」
 差し出されたみゆきの左手にはリードが握られていた。

「風邪の時は栄養とらなきゃ。『心の栄養』一晩貸し出し」
「え?」
「だって先生、この前言ってたじゃん。ビリーを一晩貸してって。わたし今日、そのつもりで来たんだよ」
「だ、だってこの子は盲導犬の…」
「あしたの朝までビリーはセラピードッグ。じゃ、わたしそろそろ帰ります。明日の朝7時にビリーを迎えに来ますから」
 みゆきは恵子の手にリードを握らせると、ペコリと頭を下げて玄関に向かって歩き始めた。

「みゆきちゃん」
 恵子はしばらく呆然と座っていたが、立ち上がるとみゆきの背中に呼びかけた。

「あなたきっと日本一の訓練士になれると思う」
 みゆきは振り返るとニッコリ笑った。

「ありがとうございます。でもね、すっごい強敵が一人いるんですよね。わたし、がんばっちゃいます」
 恵子の足元でビリーがシッポを振ってみゆきにおやすみの合図を送っていた。


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◆第三話 風の吹く日に◆



「おとうさあん。お買い物行くんだけど、何か欲しいものある」
 玄関の方から妻道子の声が飛んできた。パソコンの前でメールチェックをしていた吉岡保はちょっと考えて、声の方向に向かって答えた。

「ゼリー買ってきて。フルーツ入りの大きい奴。それと、値引きになってたらお寿司」
「了解」
 玄関ドアの開く音がした。保はまたキーボードに右手を置いた。溜まっていたメールの半分がいわゆる「迷惑メール」であることについ舌打ちしてしまう。「今度いつ会えますか」の類の件名を次から次へと削除していく。

「やれやれ」
 思わず声がもれる。

「おとうさあん」
 道子の声が戻ってきた。

「何?なにか忘れたの?」
「そうじゃないのよ。なんだか風が出てきたみたいだからさ。気をつけてね、トレイスのこと」
「風…そうなの?」
耳を澄ますと「ヒュー」と言う音が聞こえるような気がした。左足を動かし、足元に丸くなっている黄色いラブラドールの様子を探る。暖かい感触がつま先に触れた。

「大丈夫。トレイス、よく寝てるよ」
「だったらいいんだけどさ。じゃ、いってきまあす」
「はあい」
 生返事を返すと、保は再びパソコンのスピーカーから流れる合成音声に耳を集中させた。次々とメールを開いて内容を聞いていく。大したメールは届いてはいないようだった。

「ハアハアハア」
 足元から荒い息遣いが聞こえてきた。いつの間にかトレイスが立ち上がっていた。

「ネバーマイン、トレイス。風。ただの風。気にしない気にしない」
 トレイスの相手をしている場合ではない。久しぶりに届いた友人からのメールの内容に、保はすっかり夢中になっていた。なにやら相談事のようだった。トレイスがガサゴソと動き始めているようだったが風の音はまだ聞こえるか聞こえない程度。心配はないだろう。

「ごめんくださあい」
 チャイム音とともに玄関から男の声が聞こえてきた。

「は、はあい」
「すみませえん。新聞の集金なんですけどお」
「はいはい。ちょっとお待ちください」
 新聞代は道子から預かっている。引き出しにしまっていた封筒を取り出し、保はパソコンの前をはなれた。治療室のドアをあけ、居間を通って玄関に向かう。
 玄関ドアを開けると中年男と共に強い風が吹き込んできた。

「風が強くなってきてるんですね」
「そうなんですよ。今晩あたり雨になるんですかね。はい、これ領収書です。ありがとうございました」
 男は保に領収書を手渡すとドアを開けた。

「あっ!」
 保と男が同時に大きな声をあげた。二人の脇をすり抜けるようにして大きな塊が外に飛び出した。

「こら!トレイス!ノー!!」
「あ、あらあ」
 二人の男は突然の出来事に、どう対処していいのかわからず、ただ呆然と風に向かって走り出したトレイスを見送るばかり。

「…いっちゃいました。ワンちゃん、すごい勢いで走ってっちゃいました」
「そ、そうですか。…そうですね」
「わ、私が悪かったんですかね…」
「い、いえいえ。あの子、風の音に興奮しちゃうんです」
「ど、どうしたらいいもんでしょ。私…」

「だ、大丈夫です。すぐに戻ってきます」
「そ、そうですよね。こちらのワンちゃん、お利口だから。なんてったって盲導犬ですもんね。心配ないですよね」
「え、ええ。心配いりません。すぐに戻ります。心配いりません」
「私、このまま帰っちゃってよろしいでしょうか。ほ、他も廻らなきゃならないんですけど…」
「もちろん。気にしないでください。すぐに戻ってきます。ぜんぜん大丈夫なんですよ、ほんとに」

「すいません。申し訳ございません。そ、それでは」
 集金係りは何度も頭を下げながら行ってしまった。玄関に独り残った保はしばらくぼんやり立ち尽くしていたが、思い出したように居間に戻った。部屋の隅においてある「トレイス用ボックス」の一番上においてあるステンレス製のフード皿を手探りで見つけると、急いで外に飛び出す。

「トレイス!カーム!」
 風にむかって大声で呼んでみる。フードの皿を膝にぶつけてカンカンカンと音をさせながら。

「トレイス!カーム。ご飯の時間だぞおお!」
 風の向こうからは何の反応も返ってこなかった。

「く、くそう。トレイスのやつ」
 保はズボンのポケットから携帯電話を取り出すと短縮ダイヤルのボタンを押した。

「もしもし道子。いまどこ」
「スーパーで買い物中」
「そうか。あのな。トレイスがな。脱走した」
「ええ!」
 しばらく沈黙。

「もう。あれほど気をつけてっていったのに」
「気をつけてたんだけどね。新聞の集金がきてね。…すぐ戻ってくる…よね」
「もう…。雄介や順子もそろそろ帰ってくるころだし。みんなで探すしかないでしょ」
「す、すまん。すみません」
 携帯をポケットに押し込むと、保はもう一度フード皿をカンカン叩いた。風がビュービューと口笛を吹き鳴らしている。

「おとうさん、何してるの。あ、トレイスがまた脱走したんだ」
「おお、雄介。そうなんだよ。10分ほど前。まだ遠くには行ってないと思うんだけど」
「ラジャー!自転車で探しに行ってくる」
 小学校から戻ってきた四年生の雄介はランドセルを玄関に放り込むと自転車ですぐに風の中へと探しに走った。入れ違いに道子の車が戻ってきた。

「子供たちは?」
「雄介はたった今。自転車で探しに行ってくれた。順子はまだ戻ってこない」
「わたしも車でその辺を探してみるから、順子が戻ってきたら探しに行ってもらって。お父さんは中に入ってたら。風邪引いちゃうよ」
「あ、いや。でも…」
「ここでぼやっと立ってたってしかたないでしょ」
「トレイスが戻ってくるかもしれないし…」
 二人が玄関前でやりとりしているところに中学一年の娘順子が自転車で戻ってきた。

「どうしたのお」
「トレイスがね、また脱走しちゃったのよ」
「ええ、またあ、これで4回目だよお」
「風が吹き出したから気をつけてって言っといたんだけどね」
「き、気をつけてたんだよお」
「わたし、探しにいくわ。カバン!」
 順子は保に学生カバンを押し付けると、制服のまま風の中を自転車で走り出した。

「ほらほら、お父さんは家で待ってて。どこかから電話があるかもしれないし。はい、これも台所に」
 道子がスーパーの袋を二つ保に持たせると、車に乗り込んだ。風はますます口笛の音を高くしている。
 保は両手いっぱいの荷物とともに玄関に戻る。足取りがなんとも重い。

「まったくもう、トレイスのやつ」
 口の中で何度も繰り返してしまう。
 二時間たってもトレイスは戻ってこなかった。探索部隊も何の成果もなく虚しく家に戻ってきた。

「さ、とりあえず夕ご飯にしましょう。お父さん、ビール飲む?」
「あ、ああ…」
 保の前には3割引のにぎり寿司セットが置かれていた。グラスにビールを注ぎ、グイッと一気に飲み干す。

「トレイス、どこに行っちゃったんだろね」
 ハンバーグをほうばりながら雄介が言う。

「行きそうなところは探したんだけどなあ。雄介、小学校の方は探したよね」
 道子が首をかしげながら雄介に尋ねる。

「うん、友達にも聞いてみたけど、トレイス、見なかったって」
「わたしも公園の方まで見てきたのよお」
 順子が首をかしげてみせる。

「ほんと、どこウロウロしてるんだろ。風は治まってきたみたいだけど、雨が降って来そうだって言うのに」
「おかあさん、警察に連絡しておいた方がいいんじゃないの」
「そうねえ」
「け、警察には俺が電話するよ。明日まで帰って来なかったら役場とか」
 二杯目のビールを飲み干して保が申し訳なさそうに言う。

「訓練所の方にも連絡したほうがいいかもね」
 道子が冷たい声でそう保に言った。



「そうなんですか。トレイスくん、結局一晩帰って来なかったんですか。ご心配ですよねえ」
「今朝もアチコチ探したんですけどね。家内は10時からパートなもんですから。どうしたものかと思案したんですけど、訓練所に連絡させていただきました。申し訳ありません。お忙しいでしょうに」
 吉岡保は何度も頭を下げながら稲盛みゆきにあれこれと事情を説明する。

「いえいえ。わたしなんかが来てもお役に立てるかどうかもわからないんですけどね。で、どうしたらいいですか、わたし。早速家の周辺を探してみましょうか」
「もうすぐ雄介が、息子が学校から帰って来るんです。きょうは小学校、お昼までなんだそうで。雄介と一緒に探してもらえるとありがたいです」
「わかりました」

「お昼ご飯はもうお済みですか?」
「ありがとうございます。訓練所でちょこちょこっと食べてきましたから。それにしてもトレイスくん、こう言うことこれまでもあったんですか」
「ええ、何度か。でもこれまでは2、3時間もすれば、お腹がすいたらちゃんと戻ってきたんですけど。だから余計に心配で。何かあったんじゃないかって。警察にも連絡はしたんですけど、まだどこからも情報はないそうです。役場のほうにも」
「大丈夫ですよ。すぐに見つかりますって。ひょっこり戻ってきたりして」
 みゆきは心配そうにうなだれる保の右肩をポンと軽くたたく。

「ただいまあ」
 玄関で元気な男の子の声がした。

「お、雄介が帰ってきたようです」
 ドタバタと足音がリビングめがけて駆けて来た。

「お父さん。トレイス、F駅の近くで見たってさ。夕べ、塾の帰りに。9時前くらい。クラスの女の子が見たって」
「F駅?そんなに遠くで」
 保が驚いて雄介の方を見る。

「雄介くん、おかえり」
 父親と向かい合って座っているみゆきの姿を見て雄介が固まってしまう。

「日本アイフレンズの訓練士見習い、稲盛みゆきです。よろしくね」
「あ、はい。こ、こんにちは」
「F駅かあ。あんなところまで行ってたんだ…」
 保は思っていた以上に遠い場所でのトレイス目撃の情報にかなりショックを受けたようだった。

「よし!じゃ、まずはF駅周辺から聞き込みね。吉岡さん、トレイスくんの写真あります?」
「あ、はい。これでいいですか」
 保が慌てて一枚の写真をみゆきに手渡す。道子がパートに出る前に用意しておいたものだった。

「お借りします。さ、雄介くん。行こうぜ」
 みゆきは雄介の頭をちょこんとつっついて玄関に向かう。雄介は顔を赤くしながら慌てて後を追った。

「吉岡さん、自転車お借りしていいですかあ」
「あ、はいはい。適当に乗って行って下さい」
「じゃあ、いってきまあす」
 みゆきと雄介は自転車にのってF駅めざして走り出した。

「F駅って遠いの」
「自転車で15分くらいかな」
「お父さんとトレイス、そこまでよく歩くの」
「ほんの時々ね。。歩くと40分はかかるし。バスで行ったり。タクシーとかおかあさんの車とか」
「ふうん。そうなんだ」
「あ、次の交差点、右です」
 二人の自転車は風の街を快調に走る。
 F駅前はかなり交通量の多い通りだった。

「さて、と。とりあえず聞いてみようか、トレイスのこと」
 とりあえず適当な場所に自転車を置いて、写真を見せながら駅前の店で聞いて回ることにした。
「すみませえん。この犬見ませんでしたか。昨日から行方不明になっちゃってまして」
「え?ラブラドールっていうんだよね、これ。さあねえ。見てないなあ」
「ありがとうございます」
 10軒ほど回ってみたが誰もトレイスのことを見ていなかった。

「塾の帰りに見たって言ってたわよね。行ってみようか。場所、知ってる?」
「うん、こっち…だと思うんだけど」
 塾はすぐに見つかった。駅から少し離れた裏通りに建つ小さなビルの二階。

「園子ちゃん、お母さんに車で送り迎えしてもらってるんだけど。帰る時、トレイスを見たんだって。呑気そうに歩いてたって」
「なるほどねえ」
 みゆきはビルの前に立って周囲を見回してみた。向こうから柴犬を連れた年配の女性が歩いてくるのが見えた。

「すみませえん」
 婦人に向かってみゆきが走り出す。雄介も慌てて後を追いかける。

「この犬探してるんですけど。見ませんでしたか」
「あら、ラブちゃんね。迷子なの?」
「そうなんです。きのうから帰ってないんです」
「まあ、それは心配ね」
「トレイスっていうんです。24キロの男の子。盲導犬なんです」

「まあ盲導犬。盲導犬でも迷子になるんだ」
「…ええ、まあ」
「ううん、見なかったわね。ごめんなさい」
「…そうですか」
「わたし、メールで犬仲間に聞いてみてあげる。けっこうネットワークあるのよ」

「ほんとですか、ぜひお願いします。」
 柴犬婦人は携帯電話を取り出すとメールを打ち始める。足元の柴犬がみゆきに向かってシッポを振り回している。みゆきは目で軽く挨拶を返した。

「ねえねえ、何かわかったらどこに連絡すればいい?」
「わたしの携帯にお願いします」
 みゆきと雄介は柴犬婦人に深々と頭をさげると、自転車に戻った。

「さあって、どうする」
「もう少しここらを探してみようよ」
「了解」
 自転車で周辺をグルグルまわってみたが、やはりトレイスは見つからなかった。

「一度家に戻ってみよう。やっぱり家の近くをウロウロしてるような気がする」
 二人が家に戻ると、玄関前に5、6人の小学生が立ってていた。

「雄介くん、トレイス見つかった?」
「あ、園子ちゃん。まだ。まだ見つかんない」
「みんな、手伝いにきてくれたの。ありがと」
 雄介と一緒のみゆきを小学生たちはポカンとした顔で見ている。

「この人、訓練所の人。稲盛さんって…」
「訓練士さんですか?ほんとに?」
 雄介がみゆきを紹介すると、大柄の男の子が少し顔を赤くしながら聞く。

「ううん。まだほんの見習い。よろしくね」
「そうなんですか。ビックリしちゃった」
「あら?どうして」
「だって超美人なんだもん。美人すぎだし」
「うふ。ありがと。じゃ、さっそくだけど、家の周辺をもう一度探してみようか。みんな携帯は持ってるのかな」
「はあい」
 全員が手をあげた。

「じゃ、何かあったらわたしに電話して。4時には全員ここに戻ってきて。いい?」
「ラジャー!」
トレイス捜索隊は元気いっぱいに風の街に飛び出した。

「トレイス」
「おーい、トレイスう」
 あちこちから風邪にのってトレイスを呼ぶ声が聞こえる。

「みゆきさん」
「何?雄介くん」
「あのさ。なんだかぼく楽しい」
「あはは。わたしも」
 みゆきと雄介は並んで自転車を走らせながらうなずきあう。他の子供たちの楽しそうな声がどこからか聞こえてくる。
 午後4時。懸命の捜索にもかかわらずトレイスは見つからなかった。戻ってきた捜索隊の顔にはさすがに疲労の色が浮かんでいた。

「どこに行っちゃったのかなあトレイス」
「ほんとねえ」
 一台の車がやってくる。

「すみませえん。ご迷惑かけちゃって。みんなも探してくれてるのね。ありがとう」
 道子がパート先から戻ってきた。車を駐車場に入れると慌ててみゆきたちのところに駆け寄ってきた。

「すみません。やっぱりまだ見つからないんですね」
「ええ、あちこち探してはみたんですけど」
「ありがとうございます。後は家族で探しますから。順子も帰ってきますし。訓練所のほうもお忙しいでしょうし」
「…でも」
「みんなもありがと。ほんと、ありがとね。お家の方にもよろしく言っておいてね。ありがとう」
 道子はみゆきや子供たちに頭を下げてまわる。
 その時みゆきの携帯電話が鳴った。

「はい、もしもし。あ、先ほどはどうも。え?ほんとですか。はい。はい。わかりました。すぐに伺います」
 みゆきは電話を切るとみんなを見回しながら言った。

「トレイス、見つかった」
「ええ、ほんとお!」
「ほら、塾の近くであった柴犬つれた女の人から。塾の前で待ってるからすぐ来てって」
「やったあ」
 雄介が飛び上がって大喜びする。子供たちから大歓声があがった。

「じゃ、わたしの車で」
 道子の車にみゆきと雄介が乗り込む。

「いってらっしゃあい」
「トレイスによろしくう」
「よかったあ」
 子供たちが口々に声をかける。雄介は窓をあけてみんなに手をふってみせた。

「ありがと。みんなありがと」



 柴犬婦人は塾の前で待っていてくれた。犬は連れていなかった。
「すみませえん。ご連絡ありがとうございましたあ。トレイスは。トレイスはどこですか」
「すぐそこのお宅。車はそこの空き地に止めておけばいいわよ」
 婦人に指示された所に車を止める。

「トレイスは。トレイスはどこにいたんでしょう。あ、わたし吉岡ともうします。見つけていただいて本当にありがとうございました」
「武内さんって言うおじいちゃんのところに上がりこんでたみたいで。『犬仲間』から連絡があったのよ」
「あ、上がりこんでたって…」
「とにかく行きましょうか。すぐそこだから」
 塾から数十メートル離れた古い一戸建て。家の前には70過ぎの老人が待っていた。

「おじいちゃあん。ワンちゃんいる?」
「ああ、いるよお。あの子、盲導犬だったんだってね。どうりで利口なはずだ」
「すみません。吉岡と申します。申し訳ありませんでした。ご迷惑お掛け致しました。犬は、トレイスはどこに?」
「家の中で寝てるよ。さ、どうぞどうぞ」
「お、お邪魔致します」
 玄関を入ると、短い廊下に続いてすぐに6畳の居間がある。

「ワンちゃん、ここにいます。まだ寝てるのかな」
「トレイス!」
 道子が思わず大きな声を出してしまった。
居間に置かれた座椅子で丸くなっていたイエローラブがヒョイと頭を上げる。さも仕方なさそうに尻尾を小さく振ってみせる。

「この子ったらあ!どれだけ心配したと思ってるの。きなさい!こっちにきなさい!!カム!!」
 トレイスはゴソゴソと起き上がると決まり悪そうに道子のほうに歩いてくる。尻尾をダランと垂らして首をうなだれて。

「この子は!もう!!」
 道子が両手でトレイスの体をパンパンパンと叩いた。もうかなりの勢いで。トレイスは無抵抗でシッポをショボンとたれたままだ。

「まあまあ、奥さん。そう叱らんでやってください」
「そうですよ。この子も反省してるみたいだし」
 武内老人と柴犬夫人があわてて道子をなだめる。みゆきと雄介は廊下に立ったまま息をのんでただ見ているばかり。

「夕べ9時過ぎにね、この子がひょっこりうちの庭に入ってきましてね。きれいな犬だし、どこから来たのかなってね。ノド乾いてるみたいだったから水をやったんですよ。そしたらすごい勢いで飲むんですよね。お腹もすいてそうだったので食パンをやってみたら、おいしそうに食べましてね。あんまりかわいいし、時間も時間だし。『上がるかい』って言ってみたらトコトコ入って来ましてね」
「そうなんですよ。武内さん、半年ほど前にかわいがってたワンちゃんが死んじゃって。あんまりかわいいからって、この子、飼うつもりにしてたらしいんですよお。そんなわけにはいきませんよねえ。なんてったってこの子、盲導犬なんですもんねえ」

「ありがとうございました。本当にありがとうございました。また改めてお礼に伺います。とりあえずトレイスを連れて帰ります。本当にありがとうございました。さあトレイス!帰るよ」
 道子は少し涙声で武内老人に何度も何度も頭を下げながら、トレイスの首輪をグイと引っ張って玄関に向かった。
 道子の後をトレイスがコソコソと続く。その後ろをみゆきと雄介が、まるで叱られた子供のように神妙な顔でトボトボと続いた。

「さあトレイス!さっさと乗って!」
 道子の尖った命令にトレイスはテキパキと従う。

「奥さん、あんまり叱らないで。もう充分反省してます、この子」
 武内老人が心配そうにトレイスの様子を見ている。柴犬婦人も心配顔で決まり悪そうに立っていた。
「どうもありがとうございました。本当にありがとうございました」
 道子は何度も頭を下げながら車を出した。



「ほんとにご馳走になっちゃっていいのかなあ。大して役にも立てなかったように思うんですけど」
「トレイスも無事に戻ってきましたし。忙しいのに、ほんとにありがとうございました。大したものありませんけど、どうぞご遠慮なく」
テーブルには何皿もの料理が並べられていた。順子も中学校から戻っており、吉岡家4人とみゆきで夕食をと言うことになった。保の足元にはトレイスも行儀よくダウンしている。

「ねえ稲盛さん、どう思います?トレイスが脱走するのはやっぱりわたしの『愛情不足』なんでしょうかね」
 保がビールを一口飲んでからみゆきに問いかける。

「え?ああ、そんなことないと思いますよお」
 みゆきはフライドチキンを齧りかけて慌てて答える。

「お父さんが甘いからよ。だからトレイスがつけあがるのよ」
 順子がすかさず口をはさむ。

「そうかなあ。甘いかなあ」
「うんうん、甘い甘い。ぜったい!ねえ、おかあさん」
「風が吹くとさ、トレイス、興奮するじゃん。それってどうなの、盲導犬として」
 雄介がみゆきに尋ねる。

「そうそう、わたしも前から少し気になってたんです。どうなんでしょうね稲盛さん。風に興奮する犬って盲導犬としては『不適格』なんでしょうかね」
 保も雄介の言葉に追随するようにみゆきに問いかけた。

「雷とかはどうなんですか?」
「雷はぜんぜん大丈夫なんです」
「車のクラクションとかは?」
「それも。花火なんかも平気なんですよ。風だけ。それも吹き始めだけかな。どこかで風の音がしてるかなってくらいの時が一番盛り上がっちゃうみたいなんですよね」
 保の説明を聞いてみゆきはしばらく考えたが

「いいんじゃないのかなあ。吉岡さんは困ってるんですか」
「いえ、困ってるってわけじゃ。きちんと誘導してくれますし。とても助かってるんですけどね。でも…」
「でも?」
「きっといろいろ言われるだろうなって…。『盲導犬のくせに脱走した』とか…」
「ふうん」
 みゆきはちょっと小首をかしげて考え込んだ。

「ほらほらお父さん、稲盛さんが困ってるじゃない。そういう話は別の機会にゆっくりしたら。それに、トレイスの担当は田村さんなんだし。稲盛さん、ごめんなさいね。どうぞゆっくり召し上がってください。ご飯、おかわりしましょうか?」
「あ、いただきます。できればお茶も」
「はいはい、どんどん食べてくださいねえ。まだまだお若いんだから」
 道子がみゆきから茶碗をうけとり、ごはんをよそう。
 突然トレイスがガバと立ち上がった。

「ハアハアハア」
 いきなり息遣いが荒い。

「風?また風が出てきたのかな?」
 雄介が首をかしげて耳をすます。「ヒュー」という音がかすかに聞こえるような気がした。

「トレイス!ノー!ダウン!ダウン ステイ!」
 みゆきの声にトレイスがビクンと小さく痙攣し、オズオズと床にふせた。

「おお!さっすがあ」
 順子と雄介が思わず手をたたく。
 だが、次の瞬間、トレイスは我慢できないという様子でまた立ち上がっていた。息遣いはさらに荒くなっていた。

「近いうちに田村さんにホローアップにきてもらったらいかがですか。うんうん、それがいい」
 みゆきはちょっと照れ笑いしながらお茶を一口飲んだ。

「とりあえず風の日は要注意ということで。ね、トレイス」
 手をのばしてトレイスの頭をチョコンとつつく。
 トレイスは目をランランと輝かせて、風の音に耳をそばだてている。みゆきの声などもう届いてはいなかった。
 トレイスくん4歳。とっても優秀な盲導犬。でも風の日にはちょっとだけ野生の血が騒ぎます。




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