トップページみんなの広場長編小説の目次ホローアップ 2目次>ホローアップ 2



 長編小説 ホローアップ 2 (第四話〜第六話)




◆第四話 僕のせいじゃないよね◆



「お待たせお待たせ。行こうかシェル」
 大西和彦はハーネスのハンドルを握りなおしてからもう一度腕時計のボタンを押した。

「午前7時3分です」
 音声時計の合成音が現在時間を告げる。

「あらら、もうこんな時間になってるんだ。今日の散歩は短めになっちゃうぞ。ごめんなシェル」
 黄色いラブラドールがうれしそうにシッポをふる。和彦とシェルの朝の散歩タイム。いつもは6時頃に家をスタートするのだが、今朝は一時間も遅れてしまった。

「シェル!コーヒー、コーヒー。まずはコーヒー飲まなきゃ。それから20分くらいのんびり歩いてこようか」
 川沿いの道を快調に歩く。いつも出会う「朝の散歩仲間」はもう家に戻ってしまったらしい。顔見知りとは誰とも出会わない。

「おはようございまあす」
 自転車がゆきすぎる。高校生だろうか。若い女の子が声をかけてくれた。

「おはようございます」
 和彦は慌てて声の方に会釈を返した。
 シェルの足取りは今日も軽い。一頭目のパートナー、クイロンとは比べ物にならないほど速い。同じ散歩コースをクイロンが30分かかるとしたら、シェルは15分で歩く。はじめはその速さに少し戸惑ったものだった。中途失明の和彦の歩行能力はそれほど高いレベルではなかった。シェルと歩き始めてもう半年。やっとその速さにも慣れた。慣れてしまえば快適な歩行だ。まさに「風を切って歩く」爽快感。

「よおしシェル。グッドグッド」
 あっと言う間に自動販売機の前に到着。和彦はポケットから小銭を取り出し、投入口を探る。
 一番上の左から二番目が「無糖アイス」だ。ガチャンと音をたてて缶コーヒーが出てきた。

「ちょっと待っててな。すぐ飲んじゃうから」
 カシュッと軽快な音を立ててプルトップを開ける。喉をそらせて一気にコーヒーを飲んだ。冷たい苦味がカラッポの胃に心地よい。

「さあってと。グルッと大橋を渡って、軽く一回りして来ますか、シェル君」
 空き缶を自販機横に置いてあるボックスに放り込むと、和彦はシェルの頭をちょこんとつつく。イエローラブがシッポをブンブンふりまわす。「さあいこういこう」催促するように和彦の右手を鼻でつつきかえす。

「よおし、行ってみよう!」
 大通りを軽快に歩き始める。自動車はほとんど走っていなかった。時々通学途中の自転車が走りすぎていく。

「さてっと。そろそろ向こうに渡っておこうかシェル」
もうすぐ大橋に向かう道にさしかかる。T字路だ。大通りの左側を歩いていた和彦とシェルは車の来ないのを確かめて道路を横断する。歩道などない。あと10メートルほどいけば右に折れる道。

「よしよし、ライト」
 シェルが曲がり角で立ち止まった。和彦は右に曲がるように指示した。このまま大橋まで道路の右側を歩いていくわけにもいかない。適当なところで道路を横断しなければ。
「シェル。むこうに渡るよ」
 大橋に続くこの道は大通りほど広くはない。ほんの5、6歩ほどで向こうに渡れる。
 …はずだった。

ドン!!

 突然の衝撃。

「あれ?」
 次の瞬間、和彦はアスファルトの上に仰向けで倒れていた。

「何?あれえ?」
 何が起こったのか全く判らなかった。ただ体のアチコチが熱い。

「大丈夫ですか。大丈夫ですかあ」
  狼狽しきった女性の声が聞こえた。まるで悲鳴のようだった。

「だ、大丈夫です。大丈夫ですから」
 どこかにぶつかって転んだのかな?電信柱?何にしても早くここを立ち去らないと。カッコ悪いし。

「あ、だめです。動かないで。動かないでください!」
 女性がまた叫んでいる。起き上がろうとした和彦の肩先が押さえられる。

「大丈夫です。なんともありませんから。ありがとうございます」
 あれ?左足が痛いぞ。膝の下あたり。どこかに思いっきりぶつけたらしい。

「お願いします。動かないでください。お願いしますから。すぐに救急車を呼びますから。お願いします」
 女性の声はもう涙声だった。
 救急車?そんな大袈裟な。ただ転んだだけなのに。
 あ、まずい。なんだか人が集まってきてるみたいだ。早くここを立ち去らないと。シェルは?シェルはどこだ。
 左手を伸ばすとシェルの冷たい鼻先がふれた。ちゃんと傍にいてくれた。

「大西さん、大丈夫かい?」
 知った人の声が聞こえた。近所に住んでいる島田さんのおじいちゃん?

「あ、島田さん。なんだか転んじゃったみたいで」
「転んだって、あんた。顔、血だらけだよ」
「え?」
 血だらけ?そう言えば顔の左半分が濡れている。やけに熱いし…。

「すみません。わたしが。わたしの車とぶつかって。太陽と重なって全然見えなくて。すぐ来ます。すぐ来ますから、救急車。いま電話しましたから。ごめんなさい。ほんとにごめんなさい」
 女性の言葉に和彦は愕然とする。交通事故?僕、車にはねられたの?

「お姉さんところに連絡しておこうか」
「あ、すみません。そうしてください。それと…」
 和彦は島田老人の声の方に顔をむけて言った。

「シェルを。シェルをお願い出来ませんか。姉のところに。姉のところに連れて行ってください。お願いします」
「よし、わかった」
 遠くから救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。




「よ、みゆきちゃん。いまお昼かい?」
 事務室に突然中島所長が入って来た。稲盛みゆきはコンビニで買ってきた弁当を半分食べ終わったところだった。

「どう?ビリーの調子」
 中島はみゆきの向かいの椅子に座りながら聞いた。

「バッチリです。もう、順調。田村さんにも褒められました」
 みゆきは缶入りのウーロン茶で口の中のものを流し込むと、得意げに答える。

「そう。それはなによりだ。ところでさ。これからちょっと付き合ってくんない」
「え?」
 みゆきは箸を弁当の上に置いてマジマジと中島の顔を見つめる。

「了解しました。お茶くらいならいいですよ。それにしても所長、だいたあん。大丈夫です、わたし。セクハラとか騒ぎ立てるほど子供じゃありませんから」
「あ、あのねえ」
 中島はやれやれと言う顔で両手を頭の後ろに組んでみせる。

「病院にね。一緒に行って欲しいのよ。お見舞い」
「え?病院ですか?だれか入院したんですか」
「そう。大西さん。大西和彦さん。知ってる?」
「大西さんって半年ほど前に二頭目の代替にきてた…。シェルでしたよね」
「ピンポーン。よく覚えてるじゃん」
「大西さん、どこか悪いんですか?」
「交通事故」
「えええ!」
 みゆきは思わず椅子から立ち上がってしまった。

「さっきね。大西さんのお姉さんって人から電話があってね。今朝7時ごろ、車にはねられたんだってさ」
「シェルと歩いてて…ですよね」
「そう」
「で、どうなんですか、怪我は。大丈夫だったんですか?」
 中島は座りなおすと両腕を胸の前で組みなおした。

「大西さんは左足の骨折と顔の傷。一ヶ月は入院が必要らしい。シェルのほうは無傷だそうだ」
「そうですか。よかった」
 みゆきは中島の目を見てちょっとだけ笑った。

「と言うことでえ。これから大西さんの様子を見に病院に行きます。稲盛さん、ついて行っていただけますか」
「わかりました、中島所長。あ、でもその前にこれ、食べちゃっていいですかあ」
「はい、ごゆっくり。慌てませんので。食べ終わったら所長室まで来てください。よろしく」
 15分後、二人は訓練所のワゴン車で大西和彦の入院している病院に向かっていた。

「シェルちゃんはどうしてるんですかあ?」
「お姉さんのところで預かってるんだって。大西さん、一人暮らしなんだよ。35歳独身。マッサージ自営。マンションでシェルと暮らしてた。近くに嫁入りしたお姉さんが住んでるらしい」
「ふうん。独り暮らしだと入院も大変でしょうね」
「そうだろうね」

 ワゴンは高速道路をひた走る。大西和彦の住むF市は訓練所からかなり離れた、どちらかと言うと田舎の部類にはいる。かなり飛ばしても2時間はかかりそうだ。F市民病院についたのは午後3時を廻った頃だった。受付で病室を聞くと305号室との事。エレベーターで3階にあがる。
 ナースセンター近くの6人部屋が305号室だった。

「こんにちは、大西さん。アイフレンズの中島です」
 窓際のベッドに寝ていた和彦が慌てて身を起こそうとする。

「ああ、所長さん。わざわざ来てくださったんですか。どうもすみません」
「そのままそのまま。寝ててください。稲盛も一緒に来ました」
「稲盛さん。稲盛みゆきさんですよね。光栄だなあ。訓練所のマドンナにお見舞いしてもらえるなんて」
「こんにちはあ。大西さん、大変でしたねえ」
「どうぞ。そこらに椅子があると思います。どうぞ座ってください」
 中島とみゆきはベッドの脇に並んで座る。
 6人部屋のベッドはすべてふさがっている。突然やって来た見舞い客に興味深深の視線を感じる。当然視線はみゆきにだけ集まっていた。

「いかがですか。怪我の具合は」
「あはは。見たとおりです。左の脛骨がきれいに折れてるんだそうで。たいして痛くはないんですけどねえ。左の眉毛の下を18針縫ったそうです。バンパーにぶつかって、その勢いで前に飛んで。フロントガラスに顔面キッス。そのまんま道路にひっくり返ったみたいです。まいっちゃいました。幸い頭は打ってないみたいです。」
 和彦の左足はしっかりとギプスで固定されていた。顔の左半分はガーゼで覆い隠されている。右手には点滴の針が刺さったままだった。

「まさか交通事故に遭うなんて考えてもいませんでした。見えない者が歩くんだから、危険はいっぱいなんでしょうけど。ほんと、考えたことなかったなあ」
「大変でしたねえ」
「あ、シェルはね。シェルは全然悪くないんですよ。シェルには何の問題もなかったんです。ほんとです。もし何か問題があったとしたら、きっと僕の歩き方が悪かったんだ」
「なるほどねえ」
 中島は和彦の話をただうなずきながら聞いている。

「わたしです。わたしが悪かったんです。わたしの責任です」
 突然病室のドアが開いて、40代の女性が姿を現した。

「車を運転していた川村と申します。申し訳ありませんでした。本当に申し訳ありませんでした。盲導犬と歩いていた方をはねるなんて。わたし、どうしていいのか…」
 中島とみゆきは椅子から立ち上がって彼女に向かって一礼した。

「どうぞお入りください。そんなところからだとお話も出来ません。わたくし、盲導犬の訓練所の中島と申します」
「ワンちゃんには怪我はなかったそうですね。でも、とてもショックだったと思います。ほんと、わたし、なんてことしちゃったんだろ。いいわけなんですけど、朝日と重なって、もう全然見えなかったんです。本当に申し訳ありませんでした」
 事故の加害者、川村朋子は大きな果物籠をかかえてオズオズと病室に入ってきた。

「大丈夫ですよ。ほんと、うそみたいに全然痛くないんですから。そんなに何度も来ていただかなくても」
「いえいえ。夜には主人ともう一度伺わせていただきます。それと、保険会社の人が明日には来ると言うことです。出来る限りの事はさせていただくつもりです。本当にすみません」
 みゆきが椅子をもう一つ探して来て朋子に勧めた。

「あのう…。ワンちゃんは。ワンちゃんはいまどうしてるんですか。わたし、とっても気になって…」
「姉のところに預かってもらってるんです。元気みたいですからご心配なく」
 和彦が愛想笑いしながら答える。

「それなんですけどね大西さん。大西さんが退院するまで、シェルくん、訓練所で預かろうと思います。その方がシェルにとってもいいと思うんです」
「え?」
 中島の提案に和彦は驚いたようだった。暫く考えていたが大きく頷きながら言った。

「そうですね。その方が僕も安心です」
「病院の帰りにお姉さんの所によって、シェルを連れて行こうと思います。それでよろしいですか」
「よろしくお願いします。で…もしよかったら…」
 和彦が何か言おうとして言葉をのみこんでしまった。

「何ですか大西さん。何か欲しいものがあったら買ってきましょうか。ケーキとかプリントか。何でも言ってください。この際サービスしちゃいますよお」
 みゆきが和彦をうながす。

「シェルに会えませんかね。事故の時別れたっきりで。アイツも心配してるんじゃないかなって…」
 中島はちょっと考えてからポンと膝を両手で打った。

「わかりました。シェルくん、連れてきましょう。待っててください」
 持ってきたビニール袋をベッド横のテーブルの上に置く。

「大西さん。お見舞いのカステラ、ここに置いておきますね。と言うことで、早速シェルを迎えに行ってきます。じゃあ、私たちは一先ずこれで」
 朋子に軽く会釈をすると、中島は椅子から立ち上がった。




「そうですか。シェルちゃん、訓練所で預かってくださるんですか。それは助かります。正直、わたしはとても助かります。やっぱりかなりショックだったんでしょうね。シェルちゃん、すっかりしょげちゃってて。どうしたらいいのかって思ってました」
 和彦の姉、渡辺紀美子はそういって中島たちを迎えた。

「シェル、今どうしてるんですか?」
「リビングのソファーで不貞寝してます。呼んで来ましょうね。シェル、シェルちゃあん。訓練所の先生が来たわよう。あなた、訓練所に戻るんだって。おとうさんが帰ってくるまで」
 リビングからノソノソとシェルが顔を出した。中島たちを見ると、面倒くさそうに尻尾を振ってみせた。なんとも冴えない表情だった。

「おいで、シェル。大変だったねえ。さ、おとうさんのお見舞いにいこ」
 みゆきが両手を差し出すと、シェルはスイッチがはいったかのようにダダッと突進してきた。グリグリと頭を美由紀の太ももあたりにこすりつけてくる。

「お世話かけますけど、よろしくお願いします」
 紀美子は深々と中島に頭をさげた。

「グッドグッド。いい子だねえ。あんたのせいじゃないってさ。おとうさん、すぐ元気になって帰って来るからねえ」
 シッポがブンブン音を立てるほどに振り回される。何かを我慢していた幼子のように、シェルはみゆきに体当たりで甘えた。

「さすがに訓練士さんですねえ。こんな姿、シェルちゃん、わたしには絶対見せないもの」
 紀美子は関心しきりでみゆきとシェルのじゃれ遊ぶ様子を見ている。

「さあシェル。おとうさんの所に行こう。病院に行くよ」
「え?病院に?病院に行くんですか?」
「ええ、お見舞いに。朝別れたっきりだって、大西さん、とっても気にしてますので。訓練所に連れて行く前に病院に寄っていきます」
「…大丈夫でしょうか」
「大丈夫って?」
「私立病院、シェルを入れてくれるでしょうか」
「大丈夫ですよ。だって今は法律でどこにでも入れてもらえるようになってるし。ねえ、所長」
「…まあ」
「ほらね。じゃ、いってまいりまあす。シェル、行くよ。おとうさんの所に行くよ」
 みゆきの後をシェルが追いかける。小走りで車にむかう。ワゴン車の後部ドアをあけると嬉しそうにダッと飛び込んで行った。

「じゃ、いってまいります」
「よろしくお願いします」
 運転席に乗り込んだ中島はエンジンをかけながら、後部座席でシェルの頭を撫で続けているみゆきに向かって言った。

「さて稲盛くん。病院との交渉は君にお願いするかな」
「え?交渉?なんのですか」
「もちろんシェルを大西さんの所に連れて行っていいかどうか」
「だってシェルは盲導犬だし…」
「そう。『身体障害者補助犬法』で病院をはじめ、不特定多数の人の利用する施設は盲導犬同伴を拒んではならないことになってる。でも現実は同伴拒否はまだまだある。特に病院はむずかしいところが多い」
「そうなん…ですか」
「それに、盲導犬は使用者と一緒でこそ盲導犬。訓練士が連れている犬は盲導犬としては扱ってはもらえない。いくらハーネスをつけていようとね」
「なるほどね。じゃ、大西さんのお見舞いはむずかしいってことですか」
「さあな」
 中島は後ろをふりかえるとちょっと笑って言った。

「君の交渉次第」
「…なるほど」
 やがてワゴン車は市民病院の駐車場に止まった。

「では。いってまいります」
「よろしく」
みゆきは独りで病院の玄関ドアをくぐる。

「さて、どうする。誰とやりとりするのがいいか。婦長さん。事務長さん。ううん」
 あれこれ考えながら廊下を歩いていくと、白衣を着た恰幅のいい中年男性とぶつかりそうになった。

「あ、すみません」
「どうも」
 軽く会釈を交わす。どうやらお医者さんらしい。みゆきの顔を恥ずかしそうにジッと見ている。

「ども」
 もう一度笑顔を送ってから、みゆきは階段へと足を進めた。

「院長先生。さっき事務長が探してましたよ」
「え?あ、そう。ありがと」
 階段を上りかけたみゆきの耳にそんな短い会話が聞こえた。美由紀はパッと目を輝かせて、たった今ぶつかりそうになった白衣の背中を追いかけた。

「院長先生!院長先生ですよね!」
 白衣の男性が驚いて振り返る。その胸に飛び込むようにしてみゆきが走り寄る。

「よかったあ。わたし、先生に聞いていただきたいことがあるんです。お願いします。わたしの話、聞いてください。聞いてくださいますよね」
 さっき見かけたばかりのハッとするような超美女にいきなり潤んだ瞳で見つめられ、病院長は少年のように顔を赤らめてしまう。もはや「蛇ににらまれたカエル」だった。
 10分後、みゆきが病院の玄関から出てきた。ニコニコ顔でワゴン車にむかって歩いてくる。

「中島所長、交渉成立です」
「え?あ、あ、そう。は、早かったね」
 運転席で居眠りをしていた中島は驚いて体を起こす。

「で、どうなった。シェルのこと、入れてくれるって?」
「もちろん」
「病室まではダメっていわれたろ。外来待合とか談話室とか」
「病室までオッケー。だってお見舞いですからあ」
「そ、そう」
 中島はドアを開けて車を降りると、みゆきの顔をマジマジと見つめる。

「…どんな魔法使ったの」
「誠実に。ただ誠実にお願いしただけですよ。さあいこうシェル。おとうさんが待ってるよ」
 シェルがシッポをふりながら後部ドアから飛び出してくる。みゆきがシェルの首輪にリードを取り付ける。

「さあ、行きますよお所長。シェル、ヒール。ちゃんとついておいで」
 颯爽と玄関に向かうみゆきとシェルの後を小首をかしげながら中島所長が続いた。




「よおシェル。心配したろ。おとうさんは元気だからな」
 和彦の伸ばした右手をシェルが嬉しそうにペロペロとなめまわす。

「へええ。これが盲導犬かい。さすがに利口そうだねえ。わし、初めて見た」
「わしも初めて。大したもんじゃねえ」
 遠慮がちに和彦たちの様子をうかがっていた同室の入院患者たちが、我慢出来ないと言ったように声をかけてくる。和彦以外の5人は全員70前後の老人だった。

「こちらのかわいい子は訓練士さんかい?」
「いえ、まだ見習いなんです」
「へえ。こんなかわいい子に教えてもらえるんなら、わしも盲導犬になりたいもんじゃ」
「やだあ、おじいちゃんたらあ」
「わあっはっはあ」
 老人たちの興味はすぐにシェルからみゆきに移ったようだった。病室がいきなり賑やかになる。

「と言うことで。シェルは訓練所で預かりますから、安心して治療に専念してください」
「ありがとうございます。よろしくお願いします、中島所長。シェル、いい子で待ってろよ。おとうさん、すぐに迎えにいくからな」
 シェルのシッポがいっそう大きく振り回される。和彦はシェルの頭を力いっぱい撫でまわした。

「あのう…」
 病室のドアが開いて、若い看護師が遠慮がちに声をかけてきた。

「あ、すみません。賑やか過ぎますね。それに、犬を連れてきたもんだから、さぞ驚かれたでしょ。わたし達はすぐに帰りますので。どうも申し訳ない」
「いいえ、違うんです。犬のことについては院長先生から直々の指示連絡がありましたし。実はあ」
「はい?」
「写真。写真撮っていいですか。ワンちゃんの」
「えっ?、ああ。はいはい。いいですよ」
「ええ、ほんとですか。聞いた?いいってさ」
「わあ、うっれしい」
「きゃあきゃあ」
 若い看護師5人が病室にドッとなだれ込んできた。中島は想定外の乱入にただ唖然とするばかり。

「お名前なんて言うんですか」
「シェ、シェルです」
「わあ、シェルちゃん。こっち向いてえ」
「きゃあ、かっわいい」
 病室がさっきまでの何倍も賑やかになった。看護したちは次々と携帯電話のカメラでシェルを写し始める。
「大西さん、すっごい人気者じゃないですかあ。若い看護師さんたちにモテモテで、楽しい入院生活になるかもよお」
 みゆきがからかうように和彦にいった。

「い、稲盛さん。人気なのはシェルだけだと思うんですけど…」
 和彦が苦笑いを返す。
 ベッド脇では看護師5人に囲まれたシェルが一生懸命に尻尾を振って和彦に訴えていた。
「ねえねえ、おとうさん。僕が悪いんじゃないよねえ。僕のせいじゃないよねえ」




ページトップへ

◆第五話 女の敵は女?◆



 澤田達也は冷蔵庫の前でもう10分も腕を組んで考え込んでいた。

「ううん、何にしようかな。ううん」
 食材はけっこう揃っている。何でも作れそうに思える。…と言っても達也の料理のバリエーションは限りなく狭い。

「ま、どうせ大したもの作れるわけないんだし。適当に『寄せ鍋風』と言うことにしますかな」
 今日は金曜日。独身男としてはパアッと夜の街に繰り出したいところだが、残念ながらお金がない。とりあえず会社の帰りにビールだけは買ってきた。まだ見ていないDVDも3枚ほどあったし。

「情けね。なんか情けね」
 まずは携帯コンロを座卓の上に置いて、無理やり口笛を吹きながら「わびしい夕食」の準備にかかった。

「ピンポーン」
 玄関でチャイムの鳴る音がした。いや「チャイムの鳴る声」が。

「こんばんはあ。達也さあん。みゆきでえす」
「わお」
 達也は白菜を切っていた包丁で指を切り落としてしまいそうなほど動揺した。

「こんばんはあ。達也さあん。愛人のみゆきが通ってまいりましたあ!!」
 な、なんてことをなんて大きな声で。オレにだって一応「世間体」ってものがあるわけで…。

「ちょっと待って。すぐあけるから」
達也は慌てて玄関に走る。

「わあ、いたいた。突然来ちゃったから、留守だったらどうしようって思ってたんです。なんせ今日は金曜日の夜だし」
「よう。…久しぶり…だよね」
 稲盛みゆきがニコニコしながらドアの向こうに立っていた。相変わらずの潤んだ瞳がキラキラと輝いている。

「ごめんなさあい。お仕事が忙しくって。わたしね、いまビリーって子を任されてるんですよ。初めての担当。もう力一杯、精一杯。だからなかなか達也さんの所に来られなくて。寂しかったでしょ」
「いや、あのね。みゆきちゃんね。オレと君とはね…」
「あれ?夕ご飯の準備してたんですかあ」
「…あ、ああ。…そう」
「グットタイミイング。わたし、まだ食べてないんです。よし!みゆきちゃんの料理の腕をご披露しちゃいましょう。お邪魔しまあす」  みゆきがあっという間にエプロン姿の達也の脇をすりぬけていく。まるで自分の部屋のように、何の遠慮も何の躊躇もなく台所に入っていってしまう。

「きょうは寄せ鍋ですかあ。了解!『特性みゆき鍋』をご馳走しますからね。冷蔵庫の中、適当に使っていいですよね」
「あ、べ、別にいいけど。あの…」
「テレビでも見ててください。すぐおつまみ作りますから。ビールでも飲みながら待っててください。それともお風呂にでも入ります?」
「お、お風呂って、あの」
 台所からトントントンと小気味よい音が聞こえてくる。

「なんでこうなるの。なんでいっつもあの子のペースに巻き込まれちゃうの。オレって…」
 しばらく呆然と玄関で立ち尽くしていたが、そんな自分があまりにもバカ男に思えた。

「よし。ご馳走になろうじゃないの。ハラを決めてご馳走になりましょう。これって浮気にはならねえよな。うん、ならないと思います」
 達也はドカドカドカとわざと音を立てて歩いた。居間の座卓の前に男らしくドッカと音を立てて座る。ポケットからタバコを取り出し、ライターで火を点ける。

「はい、灰皿」
 みゆきが風邪のように飛んできて、達也の前に灰皿を置く。

「あ、ど、どうも」
「それとお。はい、ビールとおつまみ。とりあえず」
 缶ビールとコップ。そしてかわいらしい小鉢。…こんな食器、うちにあったっけ。

「間に合わせでちょこちょこっと作ったから。でもおいしいはず」
「い、いただきます」
 箸で小鉢のおつまみをつまむ。…うまい。どこか高級なバーで食べたことのある味だ。…こんな食材、うちにあったっけ?

「どう?おいしい?」
「うまい。うま過ぎます」
「わあ、よかった。じゃ、お鍋が出来るまでこれで飲んでてくださいね。すぐに出来ますから。期待しててください。すっごくおいしいですよお」
「す、すみません」
「ウフ」
 みゆきはまた風のように台所に消えた。

「まずい。完全にあの子のペースに巻き込まれてる。オレ、かなり動揺してるし。自分を見失いかけてるかも。このままじゃ…」
 達也はビールをグイッと一息に飲んだ。

「紀子、助けてくれ。ピンチです。…いや。チャンス?」
 頭の中がなんだかグチャグチャになりそうだった。

「はあい。お ま た せ」
 みゆきが鍋を運んできた。携帯コンロの上にのせるとカチッと火をつける。なんという手際のよさ。

「これであとは出来あがるのを待つだけ。わたしもビールいただいていいですかあ」
「あ、も、もちろん」
「ついでくださあい」
「あ、はいはい」
 達也は慌ててみゆきの差し出すコップにビールを注いだ。

「いっただきまあす」
 みゆきはさもおいしそうにビールを飲んだ。あらためて見ると…何てかわいい子なんだ。

「きょうは朝まで飲んじゃいましょうか。わたし、達也さんに聞いてもらいたい話、一杯あるんだ。ビリーってね、とおってもいい子なんですよお」
 鍋がグツグツと音を立て始める。おいしそうな匂いと暖かな湯気が部屋を満たしていく。うらさびしい独身男の部屋が華やかな雰囲気に包まれていく。まるで魔法にかかったように。

「やっほお達也。いるう?あら、なんだかいい匂いがするじゃない」
 夢見心地の達也の耳に「なつかしい」声が飛び込んできた。あれ?あれええ?
 ガチャリと玄関ドアの開く音がする。

「勝手に入るわよう。ご免ねえ。電話しようと思ったんだけどさ。突然行って驚かせてやろうかって。どう?驚いたでしょ。あら?」
「こんばんはあ。赤山先輩、韓国から帰って来たんですかあ」
 居間に入って来たのは赤山紀子だった。両手に大きなビニール袋とバッグをぶら下げている。

「あらあ、みゆきちゃんがきてたんだあ。お邪魔だったかな」
「はい、正直ちょっと。でも、ちょうどいいタイミングかも。お鍋が出来たところなんですよ。一緒に食べましょうよ。お鍋は人数が多いほど楽しいし」
「ありがと。空港からそのまま来ちゃったから、もうお腹ペコペコ。いただいちゃおうかな。いい?達也」
 達也を見る紀子の目がキラリと鋭く光った…ような気がした。

「あ、ああ。もちろんもちろん。なんだあ。帰ってくるなら連絡してくれればよかったのに」
「だからさ。ビックリさせてやろうと思ってさ。こっちがビックリしちゃったけどね」
 持っていた荷物を下に置くと、達也の隣りに座る。

「先輩、ビール飲みますよね」
「もちろん」
 紀子はみゆきからビールを受け取ると、グイッと大きく喉をそらせて一息に飲んだ。

「ねえねえ先輩。わたし、いまビリーって子担当してるんですよお」
「あら、がんばってるのね」
「ちょうどよかった。先輩にいろいろ聞きたいことあったんです。きょうはゆっくり出来るんでしょ。朝まで飲みながらお話したいなあ。韓国のこともいろいろ聞きたいし」
「いいわよ。望むところ。韓国のお酒も買ってきてるし。朝まで飲みましょう。そうだ。キムチもいろいろ買ってきてるよ。おいしいんだなあ、これが」
「わあキムチ。わたし大好きです。ねえねえ先輩。韓国の訓練所ってどんなですか。イケメン訓練士なんていましたあ」
「それがさあ。それがさあ」
 座卓の上で鍋がグツグツグツと大きな音を立て始めていた。

「…ここってオレの部屋だよなあ…」
 つぶやいた達也の声は二人の娘にはもう届かなかった。




「そう。明日戻るんだ。一週間くらいゆっくりすればいいのに」
 所長の中島のぼるはコーヒーを飲みながら紀子の話を頷きながら聞いている。
会議室には田村や鶴田も揃っていた。もちろんみゆきもニコニコと座っている。月曜日、訓練所の朝のミーティング。

「ありがとうございます。お寿司もおソバも食べたし。もう充分ゆっくり出来ました。まだまだ若いですから。ご心配なく」
「ねえねえ紀ちゃん。韓国の訓練所ってどうよ?」
 鶴田光一が興味深深の顔で紀子に尋ねる。

「すっごく充実してるよ。なんてったって大企業トムソンが全面バックアップだもん。うちとはもう比べものになんないくらい」
「へええ。きっと給料もいいんだろうなあ」
「トムソンではね、いまクリッカーを使った訓練が始まってるの」
「へえ。クリッカーのことはよく耳にするようになったけど。日本ではまだ盲導犬の訓練に導入してる所はないな。どうよ、それって」
「けっこうおもしろいよ」
「クリッカーのお話、わたしもう興味深深です。なんだかわたしにピッタリな気がして。赤山先輩に何度も何度も聞いちゃいました」
 みゆきが横から口を挟む。

「あれえ。みゆきちゃんはもう紀ちゃんの話聞いたんだ」
「はい。たあっぷり聞かせていただきました。金曜日の夜も土曜日も」
「そうなのお。なんだか意外。二人ってそんなに仲よかったとは知らなかったなあ」
「なに言ってるんですか鶴田さん。赤山先輩はわたしにとって師匠ですよ。師弟の絆って親子よりも夫婦よりも強いんです。ねえ先輩」
「フフ、まあ…ね」
 紀子は思わせぶりに笑うと、冷めかけたコーヒーを飲んだ。

「さてっと、紀ちゃんの話の続きは今夜の懇親会の時に飲みながらゆっくり聞くとして。みなさんには日常業務、お願いしようかな、そろそろ」
 中島がポンと膝を叩く。

「ねえねえ先輩。ビリーのこと見てください。お願いしまあす」
「もちろん。そのためにわざわざ訓練所に出てきたんだもん」
 紀子とみゆきはいそいそと犬舎に向かう。

「ビリー、おっはよ」
 ゲイジの中で黒いラブラドールが元気一杯にシッポを振っている。みゆきが扉を開けると勢いよく飛び出して来た。

「ビリー!シッツ!」
 ビリーははしゃぎ廻りたい気持ちをグッと押さえて、二人の前にちょこんと座る。

「大きくなったわねえ、ビリー」  紀子が嬉しそうにビリーの頭を撫でる。太いシッポがブンブンと揺れる。

「先輩、ビリーのこと知ってるんですか?」
「もちろん。だってビリーを取り上げたの、わたしだもん。ココミの三度目のお産では6頭の子が生まれたの。ビリーは菅原さんに預けられたんだよね、確か」
「そうです。菅原さんの、たしか6頭目のパピー。へえ、そうなんだあ。ビリーは赤山先輩に取り上げてもらったんだあ」
「でね、兄弟の一頭は韓国に行ったのよ。。実はね、その子いま、わたしが訓練してるんだ。しなかったっけ?この話」
「そうなんですかあ。聞いてませんよお。その話、初耳です」
「あれえ?そうだったかなあ?あんなに一杯話ししたのにねえ。」

「どんな子なんですかあ、韓国にいったビリーの兄弟」
「イエローの男の子。カヌっていうのよ。ビリーに似て元気一杯な子よ」 「カヌちゃんかあ。ビリー、がんばろうねえ。韓国の兄弟に負けないように。素敵な盲導犬になろうねえ」
「よし。じゃ、街に出て少し歩いてみようか」
「はい。よろしくお願いしまあす。ビシバシしごいてください。ビリーもわたしも」
「了解。遠慮なくやらせていただきますよお。もう、鬼のように」
「お姑さんみたいにですかあ」
「ウフフ。さあ、行きますよお」
 ビリーがサッと立ち上がって二人の顔を交互に見た。そしてシッポでグルグルと円を描いて見せた。




「どうだった、ビリー」
 紀子が独り、事務室で書類を整理していると、中島所長が背中から声をかけてきた。

「あ、所長。けっこういい感じですよ。みゆきちゃん、かなり張り切ってるし」
「だろ。けっこう頑張ってるだろ、あの子。いい訓練士になれるよ、きっと」
 中島は紀子の向かいの椅子に座ると足を組んでウンウンと頷く。

「わたしもそう思います。ただ…」
「ただ?」
 紀子は少し迷ってから言葉を続けた。

「みゆきちゃん、評判はどうなんですか。職員とかユーザーとかボランティアの人とか」
「いいよお。訓練所のマドンナなんて呼ばれてるし。みゆきちゃんにメロメロのユーザーさんもけっこういるらしいし。アハハ」
「それって…」
 紀子は真顔で中島に向かい合う。

「それって男サイドの評判ですよね。女の人からはどうなんでしょう」 「え?…ううん。言われてみると、女の人の評判はあんまりよくわからんなあ。そんなに悪くはないんじゃないの?」
「だったらいいんですけど。あの子、可愛過ぎるじゃないですかあ。男の人たちからはアイドル並みの人気だし。それって同性からは嫌われちゃうこと多いんですよね。ほら『女の敵は女』ってよく言うじゃないですかあ。わたし、ずっと気になってるんです」
「ううん。なるほど…ねえ」
 中島は腕を組んで考え込む。

「紀ちゃんはどうなの。あの子のこと、嫌いなの?」
「わたしですかあ。好きですよ」
「ほんとに?だってほら。澤田達也くんだっけ」
「あはは。そんなこと、所長の耳にまで入ってるんだ」
「だって有名よ。訓練所じゃ、もういろんな噂が飛び交ってたり。どうよ、ほんとのとこ。みゆきちゃん、かなり本気で狙ってるみたいだしさ」
「そうみたいですね」
 紀子はさも楽しそうに笑って見せる。机の上に置いた湯のみのお茶を一口飲んで、唇を湿らせてから呑気そうに答える。

「達也がみゆきちゃんを選ぶなら、わたし、それはそれでいいかなって。もしかすると…きっと強がりかもしれないんですけど。あの子になら取られちゃってもいいって。みゆきちゃん、ほんとに素敵な子です。ただ、ちょっとだけ可愛過ぎ。きっと同姓から嫉妬されちゃう。あんまり可愛過ぎるのも考えものです。わたしぐらいの美人がちょうどいいんですよ。そう思いません?」
「なるほどねええ」
 中島は感じ入ったように何度も大きく頷いてみせる。

「そうだ。みゆきちゃんの評判さあ、藤田さんに聞いてみたら」
「藤田さん、来てるんですか?」
「うん。ボランティアデーの打ち合わせで。さっき犬舎の方に行ったよ」
「行ってみます。藤田さんと会うの、久しぶりだし」
 紀子は立ち上がると事務室を飛び出していった。中島がその後姿をぼんやりした顔で見送る。

「なるほどねえ。『女の敵は女』…ですか。なるほどお」
 紀子は犬舎に続く廊下を小走りで急いだ。

「あ、藤田さん」
 向こうから藤田真紀子が歩いてくるのが見えた。小さく手を振って合図を送る。

「あらあ、赤山さん。韓国から戻って来てたのお」
「はい、金曜日に。明日には戻るんですけどね」
「そうなのお。また行っちゃうんだあ。早く戻って来てね。赤山さんがいないと、やっぱり寂しいし。ボランティアの仲間、みんなそう言ってるよお」
「ありがとうございます。でも、早くてもあと一年くらいは向こうにいるつもりにしてるんです」
「そうなんだあ。ねえねえ、せっかくだしさ。お茶でも飲みに行こうよ。韓国の話、いろいろ聞きたいしさ。いいんでしょ。訓練所抜け出しても」

「大丈夫ですよ。仕事で来てるわけじゃないんです、今日は。一応お休みなんですよ、わたし。藤田さんのほうこそ大丈夫なんですかあ」
「大丈夫。打ち合わせはバッチリ。どこかでお昼でも食べて帰ろうかって思ってたところ。そうだ。おいしい天丼のお店、見つけたんだ。車で30分くらい走るんだけど。行ってみない。かなりお勧め」
「天丼ですかあ。いいなあ。いきましょうか。わたしも藤田さんにお聞きしたいことがあるんですよ、実は。」
「わあ、なあにい。怖いなあ。ま、とにかく行きましょ」
 真紀子の車で早速天丼屋に向かう。お昼の時間は過ぎていたので、店は思っていたほど混んではいなかった。カウンターに並んで座って上天丼を注文する。

「ねえねえ。さっきわたしに聞きたいことあるって言ってたわよね。なに、なに。気になって気になって」
 真紀子は大きな湯のみのお茶を一口飲むと、紀子の目を覗き込むようにして聞いて来た。

「え、ああ。大したことじゃないんですけどね」
 紀子もお茶を飲んでから真紀子に向かい合う。

「稲盛みゆき、ボランティアのみなさんにどんな風に見られてるのかって。評判って言うかなんて言うか…」
「みゆきちゃん?評判いいわよ、とっても」
「そうですか。それならいいんですけど」
 紀子はホッとしたようにもう一口お茶を飲んだ。

「なるほどね」
 真紀子は紀子の顔を見ながらニヤニヤ笑って頷いている。

「あ。別にわたし、特に深い意味があって…」
「わかるわかる。わたしもね、みゆきちゃんが入って来たころ、ちょっと心配だったのよ。だってさ、あの子、可愛過ぎるじゃない。嫉妬とかネタミとか、とにかく同性には嫌われるタイプかなって。そう言う虐めに遭うんじゃないかって」
「そうですよね。そうなんです。みゆきちゃん、可愛過ぎるんです」
「でね。やっぱり最初のころボランティアの間ではいろいろと悪意の噂が流れたのよ。あの顔は整形しまくってるだとか。ぜったい豊胸手術してるだとか。風俗で働いてたらしいとか。もう、いろいろ」
「…そうなんですか…」
 紀子が顔を曇らせる。真紀子はニヤニヤ顔をそのままに話を続ける。

「でもね。気がついたらそんな噂、どこかに飛んでっちゃってた。あの子って。みゆきちゃんって不思議な子なのよね。いつの間にかどんどん味方を増やしちゃうの。ううん、『味方』って言うのはちょっと違うな。『ファン』って言った方がいいのかな。ううん。うまく説明出来ないなあ。とにかくとにかく。あの子、今はとおっても評判いいわよ。赤山さんほどじゃないけどね」
「そうですか。安心しました。評判なんてとってもつまらないことかもしれませんけど、周りの人たちの協力って、盲導犬の訓練士にはとっても大事なことだと思うんですね。だからわたし、ちょっと心配だったんです」
「いい先輩ねえ、赤山さんって。やっぱりとってもいい人だわ。でも。いいの?」
「え?」
 紀子はさっきからの真紀子のニヤニヤの意味がどうしても理解出来ない。

「ほらあ。澤田さんのこと」
「え?あ、ああ。藤田さんの耳にも入ってるんだ」
「もちろんよ。これって根も葉もない噂じゃないんでしょ。みゆきちゃん、かなり本気で澤田さんのこと、あなたのボーイフレンド。狙ってるみたいじゃない」
「まあ。…そう…みたいですね。アハハ」
「あれえ?それって余裕?よっぽど自信あるんだあ」

「そんなことないですよ」
「わたしはね、赤山さんの味方だからね。これだけは。このことだけはみゆきちゃんには遠慮してもらわないとねえ。頑張ってよお赤山さん。わたし、応援してるからね」
「アハハ。ありがとうございます」
 紀子はただ笑って誤魔化すしかなかった。

「おまちどうさまあ。上天丼ですう」
 二人の前に大きな丼がおかれた。見事な海老天がこぼれおちそうになっている。
「ほら、きたきた。ね、すっごくおいしそうでしょ。話の続きは食べてからと言うことで。いっただきまあす」
「ほんとだあ。すっごくおいしそ。いただきまあす」




「さあって、どこかで一杯飲んで帰るとするか」
 澤田達也は一人ブラブラと駅に続く通路を歩いていた。紀子を乗せた飛行機をたったいま見送ってきたばかり。腕時計を見るともうすぐ8時だ。アパートの近くの居酒屋で飲むか。それともここらで適当な店を探すか。

「お、串カツかあ。久しぶりに串カツもいいな」
 通路の両側には小さな飲食店が並んでいる。右側前方に串カツ屋の暖簾が見えた。達也はおいしそうな匂いに誘われるように暖簾をくぐる。

「いらっしゃいませ」
 元気な店員の声が彼を迎える。カウンター席だけの店は半分ほどが埋まっていた。達也は一番端っこの席に座る。

「ここ、タバコ吸っていいの?」
「大丈夫ですよ。はい、灰皿」
「ありがと。とりあえずビールもらおうかな。生。それと…。串、適当に5、6本」
 達也はカウンター越しに店員から灰皿を受け取るとポケットからタバコを取り出した。

「はい、生一丁ね。お連れの方、お飲み物はどうします。ウーロン茶でいいですか」
「え?」
 達也は驚いて隣を見る。

「わたしも生!」
 いつの間にか稲盛みゆきがそこに座っていた。

「赤山先輩、行っちゃいましたね」
 みゆきはいつも通りの潤んだ瞳で達也をジッと見つめていた。

「み、みゆきちゃん。いつ来たの…」
「ついさっきです。先輩を見送るつもりだったんですけど、間に合いませんでした。あ、おじさん。わたし、海老とホタテ。それとタマネギも」
 二人の前に生ビールが届く。

「とりあえず乾杯します?」
「え?あ、ああ」
「何に乾杯しよっかな。ううん」
 みゆきはジョッキを持ったままちょっとだけ考えてから

「きょうのところは赤山先輩と達也さんの久しぶりのデートに乾杯」
「アハハ」
 カチンとジョッキを合わせる。

「楽しかったですか。今日は朝からズッと一緒だったんでしょ。どこに行って来たんですかあ。デパートにお買い物?それともそれとも」
「気になるユーザーさんがいるからって、朝から三か所も付き合わされちまったよ」
「まったくもう。先輩ったら仕事人間なんだからあ。ひさしぶりに恋人に会ったって言うのにねえ」
「相変わらずってやつさ。紀子はトコトン盲導犬訓練士だからな」
「そんなところも好きなんでしょ」
「え。いや、あの」
「うふ。やっぱり達也さんってかっわい。ほら、串カツがきましたよお。わあ、おいしそ。一本もらっちゃっていいですかあ」
「ああ、どうぞどうぞ」
 みゆきは達也の前に届いた串カツを一本取ると、アチチと言いながら一齧りする。

「わ、おいし。ここの串カツすっごくおいしいですよお。達也さんも食べて食べて」
「うん。これはなかなか。久しぶりに当たりだな、こりゃ」
 ビールが思わずすすんでしまう。

「あのね達也さん」
 三杯目の生が届いた時、みゆきはちょっと神妙な顔つきで達也に向き直った。達也はドキリとして思わず背筋を伸ばす。

「先輩がまた韓国に行っちゃって、わたしとしてはすっごいチャンスなわけなんですけどね。残念ながらしばらくは達也さんのところには来れません」
「え?そう。そうなんだ」
「赤山先輩ね、いま韓国でビリーの兄弟の訓練してるんですよ、カヌって言う名前の。女として、これって引くに引けないじゃないですかあ。わたし、ぜえったいビリーを立派な盲導犬に育てたいって。カヌに負けないような。赤山先輩はわたしの先生、師匠ではあるんですけど。負けたくない。負けられないライバルでもあるんです。そう、いつか倒したい強敵、宿敵でもあるんですよね」
「そう。そうなんだ…」
 みゆきは届いたばかりの生ビールを一気に飲み干す。空になったジョッキをカウンターにトンと置くとすっくと立ち上がった。

「と言うわけでえ。ビリーの訓練に見通しがつくまで、わたし禁酒することにしました。達也さんのこともしばらくは我慢。『禁欲』って言うのかな、こう言うのって。ウフ」
「そ、それって、ちと違うように思うんですけど」
「ごちそうさまでした。わたし、帰りますね。これ以上一緒にいると、わたし達也さんのこと襲っちゃうかもしれないし。ウフフ。」
 みゆきはペコリと頭を下げると、また風のように去って行ってしまった。
 一人残った達也はいろいろなことを頭の中で整理整頓しようとしたが、どうにもうまくまとまらない。
 紀子とオレの関係。そしてみゆきちゃんのこと。ビリーとカヌ。オレって一体…。うううん。

「すみませえん。ビール、お代わりい」




ページトップへ

◆第六話 ずっと一緒にいたいんだ◆



「それじゃ。よろしくね」
 中島のぼる所長が窓越しに運転席の田村総一郎に声をかける。

「一応3日の予定ですけど、場合によっては1日2日長くなるかもしれません」
「了解。飲み過ぎには注意ね」
「大丈夫ですよ。わたしがちゃあんと見張ってますから。それよりそれより、ビリーのことちゃあんと見ててくださいって鶴田さんに伝えて置いてください。くれぐれも手抜きなしでって」
 助手席に座った稲盛みゆきが横からシッカリ口を挟む。

「アハハ、了解了解。」
「お土産は何がいいですかあ。やっぱりウイロかな」
「そうだなあ。おいしい地酒でもお願いしようかな」
「了解いたしましたあ。じゃあいってまいりまあす」
 ワゴン車は訓練所を出発。今日から三日間の予定で愛知県のユーザーへのホローアップの旅。

「みゆきちゃんは名古屋、はじめて?」
「そうなんです。もう、楽しみで楽しみで。おいしい味噌カツ、ガッツリ食べてこなくっちゃ」
「ユーザーへのホローアップは赤山さんとちょこちょこ出掛けてたよね」
「ええ、時々ついていってました。でも、こんなに遠出するのははじめてです。三日間よろしくお願いしまあす」
「こちらこそ。それにしてもすっごい荷物だね。何が入ってるのあれ」
 総一郎はチラッと後ろを見る。後部座席にはとんでもなく大きなバッグが今にもはちきれそうになっている。

「着替えとかいろいろです。女の子って出掛けるとなると、もういろいろ大変なんですよお。田村さんの娘さんだってそうじゃないですか?」
「アハハ、まあね」
「そうそう。美奈子さんでしたっけ。結婚式の日取りはもうきまったんですかあ」
「まあなんとかね。来年5月ってことで」
「そうなんですかあ。おめでとうございまあす。やれやれですね、花嫁の父としては。でも、さみしくなっちゃいますね。美奈子ちゃんが出ていっちゃうと、田村さん、一人になっちゃうんでしょ」

「いまでも独りみたいなもんだよ。娘とはたいして話しもしないしね。ていうか、相手してくれないし」
「再婚なんて考えたことないんですかあ。」
「アハハ。みゆきちゃん、いい人探しておいてよ」
「了解。ところで、今回はどんな予定になってるんですか」
「名古屋を中心に5人のユーザーのところにいくんだけどね。特に問題のある人はいないし。ま、楽勝かな。しいていえば。そう、徳島さんところのミーシャくらいかな」

「何か問題ありなんですか?」
「問題ってことでもないんだけどね。そろそろ引退を考えなきゃならないかなって感じなんだよ。まだ10歳になったばかりなんだけど、いろいろきてるみたいでね。ま、見てみないとわからないんだけどさ」
「そうなんですかあ。ということはあ、ビリーが徳島さんのところにいくって可能性もありってことかな。これはしっかり観察しとかなきゃ」
「アハハ。今回はあくまで『ホローアップ』だからねえ」

「ところでところで、お昼ご飯はどこで食べるんですかあ」
「え?と、特に考えてないけど。名古屋につくのはお昼すぎになりそうだし。着いたらすぐに田所さんの所に行こうと思ってるし。適当に途中で食べることになるかな」
「じゃあじゃあ、わたし、決めていいですかア。ネットで調べたんです。途中にメッチャおいしいカレーのお店があるんですよお。12時前には着けると思います」
「アハハ。任せるよ。なんだか楽しい旅になりそうだ、こりゃ」
 二人を乗せたワゴン車は名古屋目指して高速道路をひた走った。




「田村先生。うまく歩けてます、わたしたち」
 田所みどりは後ろを振り返って総一郎に問いかける。軽快な足取りで誘導していたブランシェも立ち止まって、ちょっと不安げに振り返った。

「大丈夫ですよお。もうバッチリです」
 5メートルほど後ろをついてきている総一郎がニコニコと返事をする。

「そうですか。よかった。ブランシェ。ゴー」
 かなりの早足で歩道をどんどん歩く。やがて交差点にさしかかり、ブランシェが足を止める。

「田村先生。ここを渡ると商店街なんです。何か欲しい物あります?」
「あ、いいえ、特に。小学校はどうなりますか?」
「商店街を抜けたところを左に曲がって。大きな交差点を二つ越えて。右に曲がった所を真っ直ぐ200メートルほど行くと左側に正門なんですけど」
「じゃ、行ってみましょう。あ、信号、青に変わりましたよ」
「はい。ここ、車の音で信号変わったのわかりやすいんですよ。ブランシェ!ストレート ゴー!」
 いつも来る道らしく、ブランシェは自信満々にみどりを誘導している。横断歩道を渡ると、アーケードのある賑やかな商店街だった。お昼を過ぎているので、人通りはさほどでもなかったが、音楽が流れ活気に溢れている。

「ブランシェ、うまく人をよけながら誘導しますね。なかなかグッドじゃないですか」
 みゆきは田村と並んでみどりたちの歩きを観察している。

「田所さん、今日はゆっくりだね。特製コロッケ、まだ残ってるよお」
 左にあるお肉やさんから声が掛かる。

「今日はお買い物じゃないのよ。ブランシェの歩きのチェック。ほら、こわあい先生が二人も後ろについてきてるでしょ。ウフフ」
「あらあ、そうなんだあ。どうりでブランシェ、いつもの何倍も真面目な顔して歩いてるもんね。あ、でもさ。後ろの先生、一人はめちゃめちゃ可愛い子だよお。ほんとに訓練士さんなのお」
「そうよお。稲盛さんって言ううちの訓練所のマドンナ。可愛いでしょ」
「へえ。よおし。先生方にうちのコロッケ、食べていただこうじゃないのお。ちょっと待ってて。今揚げるからさ」
「ありがと、おじさん」
 白衣を着た肉屋のおやじさんが紙袋に入ったコロッケを持っていそいそとみゆき目がけてやってくる。

「揚げたて作り立てのアツアツですよお。一つつまんでください」
「ありがとうございまあす。遠慮なくいただきまあす。わ、おいしそ。田所さんはどうします。わたし、食べながら歩くつもりなんだけど」
「わたしはちょっと無理。だって地元だもんね。アハハ。どうぞ二人で食べちゃってください」
「じゃ、いただいちゃいますねえ。田村さん、どうぞ」
「ありがと。アチチチ。こりゃおいしそうだ」

「ウフフ。じゃあ、行きますよお」
「あっ、田所さん!ブランシェが臭いとってる。チョークかけて!アチチ」
「ノー!お行儀よくしなきゃだめでしょ。先生たちが見てるのよお。さあ行くよ、ブランシェ」
「アハハ、こりゃブランシェも大変だあ。頑張れよお」
 商店街を抜ける間、果物やさん、八百屋さん、魚屋さんとアチコチから声が掛かった。

「田所さんってすっごい人気者じゃないですかあ」
 コロッケを食べながらみゆきが後ろからみどりに声を掛けてくる。

「ウフフ。わたしだって商店街のマドンナですからね。いろんなものおまけしてくれたりするのよお」
 みどりは自慢げに応えると胸をはってドンドン歩く。ブランシェもシッポをふりながら得意げに歩いている。呼吸はもうバッチリだ。

「はい。商店街はここまでです。ブランシェ、レフト」
 大通りに出た。みどりとブランシェのユニットは歩道を左に進む。
 大きな交差点を二つ越えて、いよいよ小学校に続く右の道へ。ここはさほど広くない道だった。歩道もない。

「田所さん、もう少しブランシェを左に寄せてください。歩道のない道は少し右に出ちゃう傾向ありですよお」
「はあい。ブランシェ!レフトサイド!そうそう」
 みどりたちの横を自動車が通り過ぎていく。ブランシェはみどりを道の左端にしっかりと誘導している。グッドグッド。

「もうすぐ小学校の正門が見えてくると思うんです。ここ、これと言った目印がないんですよねえ。どんな風に見つけたらいいですかあ」
「はいはい。見えてきました。ううん、そうだなあ。…もうすぐ左側にジュースの自動販売機が二台ならんでます。モーター音、確認できますかね」
 田村が後ろから指示をする。

「あ、はいはい。ここですね。何度か来たことあるんだけど、気がつかなかったなあ」
「そこから10メートルもしないところに小学校の正門です。適当なところでブランシェに指示をだしてみてください。レフト ゲートでいいですよ」
「はい。わかりました」
 自動販売機を行き過ぎ、小学校を囲む塀に沿って歩いていく。正門の2、3メートル手前あたりで見当をつけてみどりがブランシェに指示を出した。

「ブランシェ!レフト ゲート!」
 ブランシェはほんの一瞬だけ立ち止まったが、迷うことなくみどりを正門のところに力強く誘導した。

「はいはい。無事到着ですね。ご苦労様でした」
「ありがとうございます。やっぱり一緒に歩いてもらってよかった。もう絶対迷いません」
「さて。どうします?まだ歩いておきたいコース、ありますか」
「いいえ。ちょっと自信なかった所、三か所も一緒に歩いていただきましたし。私はもう充分です。ブランシェの歩行チェックのほうはどうなんですか?」
「もう充分見せてもらいましたよ」

「じゃあ、わたしのお家に戻っていただけますか。もうすぐ夫も帰ってきますし。実は6時に予約入れてるんです。おいしい味噌カツのお店。ぜひ夕ご飯をご一緒していただこうって。娘も大喜びしますから。いいでしょ」
「そ、そんなわけには…」
「だめです!田村先生。もう予約しちゃってるんだから!ねえ稲盛さん。『y』っていうお店なんだけど。すっごくおいしいのよお」
「そこってとおっても有名なお店じゃないですかあ!予約取るの大変だったんじゃないんですかあ。行きましょうよ田村さん。せっかくのご好意を無にするわけにはいきませんよ」




「主人の康之です。自動車関係の会社に勤めてるんですよ」
「いつも妻がお世話になってます」
 ネクタイ姿の田所康之が丁寧に頭を下げる。

「娘の春香です。小学一年生」
「こんにちはあ。あ、もうこんばんはだよね」
「こんばんは春香ちゃん。稲盛みゆきです。よろしくね」
 みゆきが春香に向かってにこやかに挨拶する。

「田村と申します。なんだか申し訳ないですねえ。二人してご馳走になっちゃったりして」
「どうぞ遠慮なさらないでください。お二人ともビールでよろしいですかね」
「あ、いや、あの」
「ウフフ。あなた。田村先生はお酒が大好きで有名なのよ。もう、どんどん飲ませてあげて」
「あ、それがですね。中島所長から『飲み過ぎないように』って釘をさされてまして。わたし、見張り番なんですよ」
「あら、そうなんですかあ。ウフフ。田村先生も大変ね。じゃあ、ほどほどにと言うことで。ほらほら、来ましたよう。今日は特製『わらじコース』にしてます。大きいですよお。」
 5人が囲むテーブルに料理が次々と運ばれて来た。康之が店員に生ビールを4つ注文する。春香にはオレンジジュース。

「ま、とりあえず乾杯と言うことで」
「かんぱあい」
「あ、わたしもわたしもお」
「かんぱあい」
 大きなビールジョッキに春香のグラスが勢いよくぶつかる。

「わあ、おいしそう。それにすっごく大きいし。春香ちゃんも大人とおんなじで大丈夫なのお」
 みゆきが目の前の皿の上からこぼれそうな巨大な豚カツと春香の小さな顔を見比べながらいった。

「大丈夫だもん。全部食べられるもん。えへん」
「わ、おっいし。味噌カツって想像してたよりぜんぜんしつこくないんですねえ。これならもういくらでも食べられちゃう。うんうん」
「でしょ、でしょ。ビールにもバッチリ合うのよお。稲盛さん、遠慮しないでどんどん飲んじゃってね」
「はあい。じゃ、さっそくビールお代わり」
「あらあ、はやあい。ウフフ」
 次々とビールのお代わりが続く。春香も負けじとジュースをお代わり。みゆきと春香とみどりの三人を中心に賑やかな夕食が始まった。テーブルから笑い声が店中にひびいた。

「田所さん。ちょっと春香ちゃんに付き合ってもらっちゃっていいですか。お店の前に可愛い小物屋さんがあるんです。わたし、見に行きたいんですよね」
 食事が一段落したころにみゆきがみどりにそう言った。

「え、あらあ。春香が一緒じゃかえって足手まといじゃ」
「そんなことないですよお。わたし、春香ちゃんみたいな子、大好きなんです。ね、春香ちゃん、ちょっと行こうよ」
「うん」
 みゆきと春香は手をつないでテーブルをはなれる。二人の前の料理はすっかりきれいに食べ終わっていた。

「稲盛さんって若いのに気のまわる子ですね。春香がそろそろ退屈しかかってるの、ちゃんと気遣ってくれて。きっといい訓練士さんになりますね。赤山さんに負けないような」
 みどりが嬉しそうに田村に小声で言う。

「田村さん、もう一杯いかがですか、ビール」
「ありがとうございます。じゃ、いただいちゃおうかな。見張り役もいなくなったことだし」
 三人がドッと笑う。康之は店員にビールを二杯追加する。みどりはコーヒーを注文。

「ねえねえ田村先生。徳島さんのところにはもう行かれたんですか。ミーシャちゃんのところ」
 みどりがコーヒーにフレッシュを入れながら田村にそっと尋ねてきた。

「徳島さんのところは明日行くことになってます」
「そうなんですか。ミーシャちゃん、やっぱり引退なんでしょうね」
「見てみないとわからないですね。徳島さんからは電話ではいろいろ聞いてるんですけど。やっぱりかなり大変そうですか」
 田村はジョッキをテーブルの上に戻して真顔でみどりに向き直った。

「わたしなんてまだまだ新米ユーザーだから、ほんとのところ、よく判らないんですけど。いろいろ大変だって話は耳に入ってます」
「…そうですか」
 康之がビールをグイと飲んでから田村に尋ねてきた。

「盲導犬って何歳くらいまで仕事できるんですか」
「そうですねえ。個体差もありますが、11歳前後ってところですかね」
「犬の寿命は?」
「ラブラドールの場合、家庭犬では13歳くらいって言われてますね。盲導犬は一年くらいは長いかな。もちろんあくまで平均寿命ですから、15歳16歳って子もけっこういますよ」
「みどり。ブランシェは何歳だっけ」
「もうすぐ5歳。まだまだ大丈夫ね。でも…。いつかは引退の日がくるのよね」
 みどりはコーヒーカップを口に運びながら寂しそうにそう言った。

「田村さん。引退した子はボランティアさんのところで最後まで面倒みてもらうことになるんですよね」
「そうですね」
「老犬ホームなんてのをテレビで見たことあるんですけど、あれってどうなんですか?」
「そういう施設を作ってる訓練所もありますね。でも、やっぱり基本的にはボランティアさんにお願いすると言うことになります」
「大変なんでしょうね。病気とかいろいろ出てくるでしょうし」

「そうですね。人間も同じですけど、老後にはいろいろと大変なことも多いですね。引退犬ボランティアさんたちには、もう頭が下がります。盲導犬育成事業にはまだまだ課題もいっぱいあるんですけど、引退犬の問題が一番立ち遅れているともいえますね。いま、神奈川の「働く犬を支援する会」とか奈良の「日本サービスドッグ協会」とかが引退犬ボランティアさんへのバックアップを始めてくれています。ありがたいことです。訓練所でもいろいろと考えてはいるんですけどなかなか…。年間100頭を超える引退犬の問題はどうしてもみなさんの善意に、ご協力に頼るしかないというのが実情です」
「なるほどねえ…」
 康之は何度も小さく頷くと残ったビールを一息に飲み干した。

「わたし、徳島さんの気持ち考えると…。特に奥さんがミーシャちゃんのこと離せるかしらって…。わたしだってブランシェとずっと一緒にいたいもの。いつまでも一緒に…」
 みどりはそっと右手を伸ばして、テーブルの下で静かにダウンしているブランシェの頭を撫でた。それに答えるようにイエローのシッポが小さく揺れる。

「おかあさあん」
 店の入り口の方から春香の元気な声が飛んできた。勢いよくこちらに駆けてくる。

「おかあさん、ほらほら。みゆきちゃんにお財布買ってもらっちゃった。オレンジ色。ブランシェの服と同じ色。可愛いんだよお」
「あらあら、よかったわねえ。稲盛さん、どうもすみません」
「いえいえ。あんまり可愛いからわたしもおそろいの買っちゃいました」
 みゆきが上機嫌でみゆきの後を追いかけてきた。

「さあ、そろそろ出ましょうか」
 康之が立ち上がる。田村もみどりも、そしてテーブルの下のブランシェもバッと立ち上がった。




「どうです、田村先生。ミーシャのやつ、案外いけてるでしょ。けっこう元気でしょ」
「…そうですね」
 徳島孝の妙に明るい言葉に、田村総一郎はついうつむいてしまった。

「そろそろ戻りましょうか。ミーシャの様子は充分見せていただきましたから」
「そうですか。そうですね。良子ももうパートから戻ってると思いますし。コーヒーくらい飲んでいってください。ミーシャ、ツー ザ ホーム」
 ミーシャは黒いシッポを小さく振って孝を誘導し始める。その歩みは悲しいほどにゆっくりだった。総一郎と並んで歩くみゆきの顔もついつい暗くなってしまっていた。

「おかえりなさあい」
 徳島家の玄関前には妻の良子が待っていた。ミーシャに向かって小さく手を振っている。ミーシャは嬉しそうにシッポを振ってそれに応える。

「さあどうぞどうぞ。上がってください。汚い所ですが。良子、コーヒー頼むよ」
「はいはい。おいしいケーキも買ってきてるんですよ。どうぞあがってください」
 徳島夫婦に促され、総一郎とみゆきはリビングに通される。小さなテーブルを挟んで孝と向かい合ってソファーに座る。良子がすぐにコーヒーとケーキを運んできた。

「どうでしょう、田村先生。ミーシャは…」
 孝は心配そうに田村に向かって尋ねる。良子はもう下を向いてしまっていた。

「そうですね。…ハッキリ言いますと、やはりそろそろ引退を考えたほうが…。白内障も思っていたより進んでいますし、左の股関節も…」
 総一郎は少しいいよどみながらもそう答えた。

「そうですか。そうでしょうね。獣医さんからも同じことを言われました…」
 孝はコーヒーを一口飲むとうつむきかげんに話を続けた。

「中途失明者の苦労話なんて、田村先生なんか嫌になるほど聞いているんでしょうけど…。私ね、39歳で失明したんですよ。糖尿病です。もう、一年も経たないうちにバタバタと。あっという間でした。それまではね、家電関連の会社の営業やってたんです。毎日車で走り回ってました。突然自分の立ってた地面が消えてなくなっちゃったようなショックでしたね」
「…そうですか」
「息子はまだ小学6年生でした。何をどうしたらいいのかもう判らなくなっちゃいましたね。いろんな人に支えられて、励まされて。一番支えてくれたのはもちろん妻でした。ほんとに…助けられました」
 孝はちょっと照れ笑いを見せる。

「点字の勉強をして。それから盲学校に入ったんです。針やマッサージの資格を取るために。盲学校に通っている時にミーシャをもらいました。盲導犬を薦めてくれたのも良子だったんですよ」
「そうですか」
「あれから。見えなくなってからもう10年以上も経っちゃったんですね。息子は一昨年大学を出ましてね。いま大阪の会社で働いてます。ここまでなんとか歩けてこれたのは妻のおかげ、家族のおかげ。そして…ミーシャのおかげです」
 孝は右手を伸ばして足元にダウンしているミーシャの頭を撫でた。ミーシャが嬉しそうにシッポを振る。

「いつかは別れの日が来るって事は判ってました。盲導犬と歩くことを選んだ時から、それは充分判ってたつもりです。でも…。ずっと一緒にいたいんですよ。…アハハ。バカみたいでしょ。大人げない話ですよね」
 下を向いたままジッと聞いていた良子がたまらないといった様子で口を挟んだ。

「引退と言っても今すぐじゃなくていいんでしょう。たとえば…。あと一年。だってミーシャはまだ10歳になったばかりなんです。まだ早いですよね。まだ引退なんて早すぎますよね。もうしばらく一緒に…」
 語尾は涙で途切れ途切れになってしまった。

「そうですね。結論を急ぐ必要はないと思います。ゆっくり話し合いましょう。ゆっくり時間をかけて。一番いい方法を。徳島さんにとってもミーシャにとっても一番いい方法を」
 総一郎の横でみゆきが何度も何度も頷いてみせた。




「どうでした。きしめん」
「おいしかった。これまで何度も食べたけど、今日のが一番」
「でしょでしょ。ネットで調べまくったんですから。で、わたしこれからカラオケなんです。ユーザーさんたちと約束しちゃったんです。8時に駅前に集合。田村さんも一緒に行きます?」
「カラオケは勘弁してよお。僕はホテルに戻ってゆっくりさせてもらうよ。なんせもうお年ですので。皆さんによろしく」
「了解しました。じゃ、わたし、このまま行きますから。明日の朝までにはちゃあんと戻ってきますから。ウフフ」
 みゆきは両手をヒラヒラさせながら夜の街へと消えていってしまった。

「元気だねえ。若さだねえ」
 右手を小さく振りながらみゆきを見送った総一郎の顔にニンマリと笑みが浮かぶ。いそいそとした足取りでビジネスホテルに向かう。  途中、コンビニに立ち寄りビールとおつまみを買い込む。駅前を少し離れたビジネスホテルが今夜の宿泊場所。部屋に入るとテーブルにコンビニの袋を置き、テレビのスイッチを入れる。

「さあってと。まずはシャワーでも浴びてっと」
 服をベッドの上に脱ぎ捨てて浴室に。熱いシャワーが心地よかった。さすがに少し疲れた。
 バスタオルで濡れた体を拭き、新しい下着に着替える。部屋に用意してある浴衣を羽織る。これでやっと落ち着いた。後はビールでも飲んで…。

「さあてと。さあってとお」
 妙に気合満々でテレビにむかう。フロントの自動販売機で買ったカードを小さな機械に差し込む。

「準備オーケー!」
 リモコンを持っていそいそとベッドへ。あぐら座りで缶ビールを勢いよく開ける。
グイッと一口飲んでから、リモコンを操作。

「出た出た。出ましたよう」
 テレビの画面にいきなり濃厚な「濡れ場シーン」が映し出された。

「これこれ。これですがな。家じゃ娘が気になってオチオチ見れないし。出張の楽しみはこれですよこれ。ううん、ビールが進むなあ。あ、この子、なかなかいいじゃん」
リモコンでボリュームをほんの少しだけあげる。ベテラン訓練士の至福の時間。
 5本目の缶ビールが空になった時、テーブルの上で携帯電話が鳴った。

「だ、誰だろ?みゆきちゃん?」
 時間はもう10時前だ。総一郎は慌ててテレビのボリュームを落として電話に出た。

「申し訳ありません、こんな時間に。徳島です。もうお休みになってたんじゃないんですか」
「ああ、徳島さん。まだまだ起きてましたよお。訓練所に提出する報告書をまとめたりしてました。アハハ」
「明日もお忙しいんでしょうね。何時ごろこちらを出られるんですか?」
「4時くらいには終わらせたいと思っています。明日は三浦さんと金田さんのところですから」
「クックちゃんとフォルテちゃんのところですね。どちらも優秀だから、ホローアップもすぐ終わっちゃえそうですね。あのですね…」
 徳島孝は少し言いにくそうに口ごもった。

「お帰りになる前にちょっとだけうちに寄っていただけませんか。お疲れかとは思うんですけど」
「え?ああ、それはぜんぜんかまいませんよ。」
「お渡ししたいものがあるんです。所長さんへのお土産とか…。ご面倒ですが、どうぞよろしくお願いします」
「了解しました。そちらに向かう前に電話入れるようにします」
「お願いします。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 電話をテーブルの上に戻すと、総一郎はちょっと首をかしげた。

「なんだろ?なんだか…。ううん、よくわからん。よし!」
 ビニール袋の中を確かめるとビールはもう売り切れだった。

「ううん、これはあ。ううん」
 悩みに悩んだあげく、総一郎は再度コンビニに買出しに行くことを決意した。夜はまだ長い。




「すみませえん。お疲れでしょうにねえ」
 玄関前で徳島夫婦が並んで待っていた。昨日とは違って二人ともスッキリとした表情をしていた。ただ二人とも目が真っ赤だった。
「とにかく上がってください。どうぞどうぞ」
 総一郎とみゆきがリビングに入るとミーシャが嬉しそうにシッポを振りながら飛んできた。

「よ、ミーシャ。また会えたね」
 みゆきがミーシャの鼻先をちょこんとつついて挨拶する。

「さっそくなんですけどね。これ、地酒です。中島所長に」
 孝がニコニコしながら一升瓶を田村に手渡す。

「わあ、これはいいなあ。これ、なかなか手に入らないんですよお。判りました。お預かりします。ちゃんと所長に届けますから」
「それと」
 孝はソファーの上に置いていた大きな紙袋を差し出した。

「これも。お願いできますか」
「なんですか、これ?」
 総一郎は孝から受け取った紙袋を覗いてみた。
 ハーネスだった。

「ミーシャの使ってたハーネスです。使用者証も入れてあります」
「…徳島さん…」
 総一郎は驚いて孝の顔を見た。爽やかな笑顔だった。横に座った良子もまたニッコリと笑っている。

「夕べ夫婦でジックリ相談しましてね。決めたんです。ミーシャを引退させようって。歩くのが辛そうなことは、もうずい分前から判ってましたから。どうせ引退させるなら潔くキッパリと。で、田村さんにハーネスを返そうってことになったんです」
「そうですか」
 総一郎はゆっくりと二度頷いてみせる。ミーシャの様子を横目で探ると、嬉しそうにシッポを振り続けていた。胸のあたりがキュンと痛んだ。

「でもね。ミーシャはお返ししませんよ」
「え?」
「夫婦で決めたんです。ミーシャとはずっと一緒にいようって。今日からミーシャは盲導犬じゃありません。我が家の大切なペット。そう言うことにしたいんです。いいですよね田村先生、こう言う選択があっても」
「え?そ、そうですね。それは…。いいとは思いますが。でも徳島さん…。次の子をもらうというのはむずかしくなりますよ」 「判ってます。次の子をもらうかどうかはミーシャと本当にお別れしてからまた考えます。とにかく今はミーシャと一緒にいたいんです。なあ良子」
「もちろんです。わたしにはミーシャを手放すことなんて出来ませんもの。おいで、ミーシャ」
 ミーシャが嬉しそうに良子の膝に鼻をこすりつける。

「今日で盲導犬のお仕事はおしまい。でもミーシャ、。これからもわたしたちと一緒にいてね。ずっとずっと」
 総一郎は何度も何度も大きく頷いた。

「判りました。よおく判りました。中島所長にこれ、確かにお渡しします。アリですよ徳島さん。こう言う選択もあっていいと思います」
 みゆきが立ち上がってミーシャのところに歩み寄る。

「ミーシャ、盲導犬としてのお仕事、ご苦労さまでした。今日からはお父さんたちを見守るお仕事、元気づけるお仕事よ。まだまだ遊んでられないかもよ。頑張ってね。また遊びに来るからね」
 ミーシャは嬉しそうにシッポをブンブン振り回し、そしてみゆきの鼻をペロリと舐めた。






PAGETOPへ      ホローアップ 2目次へ      長編小説目次へ戻る