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 長編小説 ホローアップ 2 (第七話〜)




◆第七話 理想の盲導犬◆



「ビリー、カーム」
 稲盛みゆきの声がフリーラン場に踊る。ビリーが嬉しそうに全速力で走ってくる。6頭の訓練中の犬たちが思い思いに走り回っている広いフリーラン場。毎朝繰り返される訓練所の風景だ。

「どうよ。ビリーの調子は」
 中島所長が柵の外からみゆきに声をかけてくる。

「あ、おはようございまあす。もうバッチリですよお。カリキュラムも半分はクリアしちゃいましたし。B隊の子たちってみんなとっても優秀。この分だと全員盲導犬になれるんじゃないかなあ」
「ほう、それは頼もしいね」
 中島はポケットからタバコを取り出すと一本口にくわえた。

「所長、まだタバコ止められないんですかあ。訓練所でタバコ吸うの、もう所長一人になっちゃいましたよお」
「なかなか思うようにはいかないもんさ。田村くんのお酒といい。人間なんて弱あいもんだからねえ。ご心配なく。ちゃあんと携帯用の灰皿持ってますので」
 中島は柵にもたれながらさもおいしそうに、さも幸せそうに煙を吐き出している。

「たくもう。ここの訓練士ってみいんな一癖あるんだからあ」
「みゆきちゃんだってあるだろ。一つや二つくらい。治したいけど治せない癖ってもんがさ」
「わたしですかあ。ううん、なんだろ?…特にないです。わたし、理想の女性演じきってますから。えへ」
 みゆきは中島に向かってペロッと舌を出した。足元でビリーがブンブンとシッポを振っている。

「なるほどお。じゃ、理想の女性さん、朝のコーヒーにお誘いしてよろしいでしょうか」
「インスタントですかあ?それとも」
「喫茶店のおいしいやつ。いまからちょっと出掛けるんだよ。一緒にどう」
「どこに行くんですか?」
「柴田さんって言うユーザーさんの所。代替の希望が出てるんだ。犬の様子も見たいし、次の子の希望なんかも聞いておきたいし。もしかするとビリーと一緒に歩くことになるかもしれないよ」

「行きます行きます!所長のお言い付けとあればどこへでも!」
「アハハ。じゃ、10分後に駐車場で。僕の車で行くからね」
 中島は左手に持った灰皿でタバコを揉み消すと、あごのあたりをポリポリ掻きながら事務所に向かって歩き出した。

「みゆきちゃん。中島所長とどこかに出掛けるの?」
 少し離れた所で二頭の犬と戯れていた鶴田光一がみゆきに声をかけてきた。

「はい。柴田さんって言うユーザーさんのところ」
「ああ、柴田さんね。チャイムもそろそろ引退なんだね。早いなあ」
「チャイムって言うんですか、かわいい名前」
「そう、とってもかわいい子だよ。僕が担当したんだ。僕が初めて担当したのがチャイム」
「へえ、そうなんだあ。なんだかますます興味わいてきちゃう。どんな子なんだろ」
 足元で二人のやりとりに耳を傾けていたビリーが我慢できないと言う風にまた走り出した。他の犬たちとフリーラン場を思い切り走り回る。

「じゃ、ビリーのこと、ちょっとお願いしますね。戻って来たら、また街に歩きに出ますから」
「了解」
 鶴田が持っていたボールを投げると、犬たちは競い合ってそれを追いかけた。

「アハハ。それビリー、がんばれえ。負けるなあ。」
 ビリーがボールをくわえて得意げにみゆきのところに走ってくる。

「よおし、よくやった。グッドグッド」
 みゆきがボールを受け取ってビリーの頭を撫でる。ビリーは嬉しそうにシッポを音を立てて振り回す。他の犬たちが悔しそうにみゆきの持っているボールを見つめている。もう一度投げろと催促する。

「よおし、行くよお。それえ」
 みゆきの投げたボールを6頭の犬が懸命に追いかける。ビリーは少し出遅れた。

「それビリー!がんばれえ。おっと急がなきゃ。所長に置いて行かれちゃう。じゃ、行ってきまあす」
 みゆきはフリーラン場を出ると駐車場に向かって走り出した。まるでボールを追いかける犬たちのように楽しそうに。
 駐車場に止まったセダンはもうエンジン音をたててスタンバっていた。

「柴田さんの所って遠いんですか」
 助手席に乗り込みながらみゆきが聞いた。

「一時間くらいかな。途中においしいコーヒー専門店があるのよ」
「ラッキー。わたしね、所長とゆっくりお話したいと思ってたところなんです」
「ほんとかよお。さ、行きますよお」




 店内には香ばしい香りがたちこめていた。落ち着いた雰囲気のコーヒーショップには幾人かの客がおしゃべりを楽しんでいた。
 中島とみゆきは窓際の席に座るとホットコーヒーを二つ注文した。

「ねえねえ所長。わたし、お聞きしたいことがあるんですけど」
「何?むずかしい話はやだよ。頭痛くなるから」
 中島は早速ポケットからタバコを取り出すと口に咥えてライターで火を点けようとしている。

「ざんねええん。ここ、禁煙ですからあ」
「え?そ、そうなの。ここって喫茶店…だよね」
「いいえ!純粋にコーヒーを楽しむお店です!」
「そ、そう。で、何?聞きたいことって」
 所長はさも残念そうに咥えたタバコを箱に戻しながら、あごのあたりをポリポリと掻く。

「理想の盲導犬ってどんな盲導犬なんでしょ」
 みゆきは中島の顔をまっすぐに見据えて、直球勝負で質問をぶつけてきた。

「理想の盲導犬ねえ。これはまた難問だ」
「所長はこれまでたくさんの盲導犬を育ててこられたんでしょ」
「まあね。最近は訓練所の運営面の雑用の方が多くなっちゃって、現場には思うように出られなくなっちゃってるけどね」
 手持ち無沙汰なのか、コップの水をガブガブ飲みながら答える。

「どんな盲導犬がいい盲導犬なんでしょ。わたし、ビリーを『いい盲導犬』にしたいんです」
「そうだなあ」
 中島は腕を組んで暫く考えていたが、ゆっくりと口を開いた。

「まず、安全な歩行。これが一番。ユーザーの歩行を移動を安全にサポート出来る犬がいい盲導犬と言えるだろうね」
「はい」
 みゆきは神妙な顔でこっくりとうなずく。

「後はユーザーのニーズにどれだけ答えられるか。生活パターンや好みによって、これはもう千差万別」
「…はい」
 みゆきはまたうなずいてみせる。

「結論。理想の盲導犬はこれですってのはありません。理想の旦那さん、理想の奥さんの定義が曖昧なように。おしまい」
 みゆきはあまりにもあっけない中島の回答にしばらく唖然とした表情で座っていたが、ひるむことなく二球目を投げた。

「じゃ、いい訓練士ってどんな訓練士なんでしょ。わたし、いい訓練士になりたいんです」
「赤山君みたいな?」
 中島はニヤニヤしながらそう返してきた。

「そうです。はっきり言って赤山先輩はわたしの目標。いつか越えたいって思ってます」
「赤山くんのどこがいいの?どこが『いい訓練士』に見えるの?」
「え?」
 中島の問い返しはみゆきにとってはまったくの想定外だった。

「だって…。誰よりも一生懸命にユーザーさんに関わってるし…」
「そうだね」
 中島はコックリうなずいてみせる。

「みゆきちゃん。僕たちはね『犬屋さん』になっちゃいけないと思うのよ。もちろん犬を訓練するのが僕たちの仕事。でもね、盲導犬は視覚障害者の単なる『歩行の手助け』にとどまらない。視覚障害者の人生そのものによりそう存在なんだ。だからさ。僕たちも犬にばっかり目が行ってちゃダメだと思う。『とてもいい盲導犬が出来あがりました。さあ、後はあなたが上手く使えるかどうかです。頑張って練習してください』って言うのはそろそろ終わりにしたいって思ってるんだ」
「終わりにしたい…って?」
 みゆきは中島の言葉に首をかしげてしまった。

「そう。僕たちの若い頃は。嫌、僕の若い頃はまさにそうだったと思う。いい盲導犬、理想の盲導犬を目指して一生懸命だった。でも、どこか足りなかったと思ってる。ううん。上手く言えないけど。…そう。訓練士の満足のために頑張っちゃってたのかな。自分が納得したくって」
 中島は鼻の頭をポリポリかきながら言った。

「マッチングって知ってる?」
「はい。犬と人間の相性を合わせるって事ですよね。ユーザーさんに一番合った犬を探す。相性を見極める」
「そう」
 ポケットからタバコを取り出し、思い出したようにまた戻した。みゆきは思わずクスッと笑ってしまった。

「その見極めが的確に出来るかどうか。いい訓練士の条件の一つだと思う。犬を見る目、そして人間を見る目。赤山君の偉いのはさ、人間を一生懸命に見ようとしてるところだと思うんだな。もう本当に一生懸命。自分の全人格をかけて…」
 みゆきは大きく二度うなずいてみせた。

「お待たせ致しました」
 二人の前にコーヒーカップが運ばれてきた。

「さ、おいしいコーヒーを飲んで。行きますか。柴田さんとチャイムの所へ」
「はい。いただきまあす。あ、所長、サンドイッチ頼んじゃっていいですかあ。私、朝ご飯食べてないんです。お腹空いてちゃ全人格かける自信ないし」
「はいはい。おねえさん、ミックスサンドひとつ」




「けっこういけてるでしょ、チャイム」
 柴田陽介は振り返りながら中島にちょっと自慢げに言った。

「そうですね。チャイム、何歳でしたっけ」
「来月11歳になります。ほんと、早いもんですね」
「…やっぱりちょっと歩くのが遅くなりましたかね」
「アハハ。これは最初からですよ。チャイム、慎重と言うか臆病と言うか。初めっからかなりゆっくりだったんですよ。あ、もう少し行くと喫茶店がありますから、そこに入りませんか。僕もついでにお昼ご飯すませちゃおうと思ってるんです。ここのスパゲティーがけっこういけるんですよ。稲盛さんはスパゲッティー好きですか」

「はい。大好きです」
「そりゃよかった。じゃ、行きましょう、行きましょう」
 陽介はニコニコしながら歩道をどんどん歩いて行く。黄色いラブラドールが小さな喫茶店のドアに陽介を誘導して行く。カランと鈴の音をさせてドアを開けるとおいしそうな匂いが店内から溢れ出て来た。

「いらっしゃあい、柴田さん。カウンターでいい?」
 若い娘の声が迎えた。

「テーブル席は一杯?3人なんだけど」
「はいはい。じゃ、一番奥のテーブルにどうぞ。チャイムちゃん、わかるかなあ」
「大丈夫。チャイム!ツー ザ チェア」
 チャイムは陽介を誘導して、奥のテーブルに向かう。店内はけっこう込んでいて、空いたテーブル席はそこだけだった。

「稲盛さん。何にします?」
 陽介が向かいの椅子に座ったみゆきににこやかに問いかける。

「ええっとお。あら、ここってスパゲティーの種類、けっこう充実してるんだあ。ううん、迷うなあ。ううん。じゃ、わたし、タラコスパにします」
「中島さんは?」
「僕はミートでいいかな。ね、ここ、タバコ吸える?」
「アハハ。大丈夫ですよ。安ちゃん、タラコスパとミート。それとカルボナーラ。それから灰皿ね」
 安ちゃんと呼ばれたウエイトレスがおしぼりと水をテーブルの上に置いた。。中島の前には小さな灰皿も。

「今日けっこうこんでるから、少し時間かかっちゃいますけど。いいですかあ」
「ぜんぜんいいよ。ゆっくり話出来るし」
「柴田さんのお知り合い?」
「訓練所の人」
「あ、そっかあ。チャイムちゃんのお話ね。じゃ、ごゆっくり」
 安ちゃんはテーブルの下で丸くなっているチャイムをチラッと見てから、中島たちにペコリと頭を下げた。

「で、いつ頃になりそうですか?」
 陽介はおしぼりで両手を拭きながら中島に尋ねた。

「そうですね。いま訓練中の犬で柴田さんに合う子がいれば、後3ヶ月くらいで…」
 中島はタバコに火を点けながらそう答えた。

「柴田さん、何か希望はありますか?」
「希望って?」
「次の子はこんな子がいいとか」
「ううん。そうですねえ」
 陽介は暫く考えていたが、顔を突き出すようにして答えた。

「もう少し早く歩く子がいいですね」
「なるほど」
「柴田さんはチャイムの歩きが遅いこと、不満に思ってるんですね」
 みゆきが横から口を挟む。

「不満かあ。そうだなあ。不満といえば不満なのかなあ。でもね、僕って杖ではまったく歩けない人なんですよ。失明してすぐに盲導犬を希望したんです。歩行能力と言う点で言うと、かなり低かったと思います。チャイムと歩き出したころ、かなりへっぴり腰だったんじゃないかな。だからね。だから鶴田さんは僕にチャイムを…。慎重で臆病なチャイムを合わせたんじゃないのかな。ねえ、中島さん」
「ま、そんなところですかね」
 中島は幸せそうな顔で煙を吹かしている。

「僕ね。ずうっと思ってたんですよ。悩んでたと言ってもいいかな。自分は盲導犬使用者として失格なんじゃないかって。歩くのヘタッピなくせに、気持ちだけは前へ前へ行っちゃうタイプなんです。もう、いろんな失敗しちゃいました」
「失敗って?どんな失敗ですか?」
 みゆきは興味深々で陽介に尋ねる。

「どんなって言われるとお…。ううん」
 陽介は腕を組んでちょっと考え込んだ。いろいろと思い出しているのか、知らず知らずのうちに口元に苦笑いが浮かぶ。そして照れ臭そうに、でもちょっと自慢げな顔で話だした。

「チャイムと歩き出して一ヶ月もたたないころ、山下くんと一緒に食事しようってことになったんです。中島さん、覚えてます?ほら、僕と一緒に訓練をうけた山下くん。チェリーですよチェリー」
「ああ、大学生だった山下君だろ」
「そうですそうです。で、二人でね、S駅で待ち合わせして、駅前のビルにある中華料理屋さんに行ったんですよ。あの時も思ったなあ。山下君はチェリーとびっくりするほどうまく歩くんですよね。もうスイスイ。それに比べて僕とチャイムは、もうモタモタもいいとこ。ついて行くのがやっとだったんですよね。山下君は杖でもスイスイ歩ける子だったでしょ。かなりの差を痛感しちゃいました」
「山下君は中学生の頃から杖で歩いてたみたいだからね。それはしょうがないでしょう」
 中島はくわえていたタバコを灰皿に押し付け、次のタバコを吸おうかどうか迷っているようだ。

「でね。二人で中華屋さんに入ったんです。初めてのお店。犬は困りますなんて言われたらどうしようかなんて、ちょっとドキドキだったんですけど。とってもいい感じでホッとした…のもつかの間。チャイムとチェリーがじゃれあっちゃいましてね。すぐにチョークかけたんですけど。リードがからまっちゃって。二頭で嬉しそうにじゃれるもんだから、チェーンが首に絞まっちゃって」
「ありますあります、そう言うこと。で、どうしたんですか」
「このままだとチャイム、息が出来なくなっちゃうんじゃないかって…。で、離しちゃったんです、リード」
「あらあ」
「チャイムのやつ、もう全速力で店内を一回りしちゃいました。もう、早かったこと早かったこと。ま、すぐに戻って来たんですけどね。もう、冷や汗がドッ。入店を拒否されてもしょうがないなって思いました。ま、追い出されたりはしなかったんですけどね。盲導犬の評判、落としちゃったなあって…」
「アハハ。そっかあ。チャイム、走っちゃいましたか。お店の人、びっくりしたでしょうね」
 みゆきは思わず笑ってしまった。

「あ、ごめんなさい。使用者にとっては深刻なお話ですよね」
「アハハ。今となっては笑い話ですけどね。もう、そんなこんなの失敗は一杯あります。けっこう悩みました。僕って盲導犬使用者として不適格なんじゃないかってね。せっかく先輩たちが作り上げてきた盲導犬に対する『信用』を僕が崩しちゃってるんじゃないかって。実際、テレビなんかで出て来る盲導犬ってみんな美しいじゃないですか。自分とのギャップみたいなものを感じちゃって」
「そうですね。テレビや本の盲導犬は美化されすぎてるところありますからね。実際はいろいろあるんだけど…」
 中島は二本目のタバコを咥えながら苦笑する。

「チャイムと歩いてきて、それなりに上手く歩けるようになったとは思ってます。考えてた以上に行動範囲も広がりました。だから、次の子はもう少し早い子がいいなって…」
「他には?他にはどんな希望があります?どんな犬がいいですか。どんな盲導犬が柴田さんにとっての『いい盲導犬』なんでしょ」
 みゆきの質問に陽介は微笑みながら答える。

「そうだなあ。思いつくままいわせてもらえば。トイレの世話のかからない子。待てる子。それからそれから」
「お待たせしましたあ」
 安ちゃんがスパゲティーを運んで来た。テーブルに大きな皿が三つ並べられる。おいしそうな匂いに話は中断。

「あれえ、けっこう早かったね。じゃ、まずはスパゲティー食べましょう」
「わあ、おいしそ。いただきまあす」
 三人は競い合うようにフォークをとると、目の前の大盛りスパゲティーにたちむかう。

「ねえねえ柴田さん。チャイムと別れるの、寂しくないですか?」
 一番にタラコスパを平らげたみゆきがコップの水を飲みながら陽介に問いかける。陽介はフォークで残ったスパゲティーをかき集めながら言った。

「寂しいですよ、もちろん。でも、いつか別れが来る事は歩き出した時から覚悟してましたしね。どうやったら笑って別れられるか。そのことばかり考えてたかな」
「笑って別れられそうですか?」
「アハハ。まあね。人生って出会いと別れの繰り返しじゃないですか。チャイムは僕に新しい出会いをたくさんくれましたしね。ありがとうの気持ちで別れられると思います」
 安ちゃんがまたテーブルにやってきた。

「みなさん、コーヒーはいかがですか」
「そうだね。中島さん、コーヒー飲みますよね。稲盛さんも。じゃ、コーヒー三つね」
「マスター!コーヒー四つお願いしまあす!!」
「え?四つ?」
 陽介の横の椅子にウエイトレスがちょこんと座る。

「一段落ついたから、わたしもちょっと休憩。ねえねえ、わたしのこと紹介してくれた?」
「あ、忘れてた。岩永安子さんです。僕たち、来年結婚するんです」
「え?ええええ!」
 中島とみゆきは思わず大きな声をあげてしまった。

「陽介さんがいつもお世話になってます。今後ともよろしくお願いします。チャイム、やっぱり引退なんですね。さみしいなあ」
 安子はテーブルの下でジッと丸くなっているチャイムの頭を伸ばした右手で軽く撫でた。

「チャイムはわたしたち二人の愛のキューピットだもんね」
 黄色いシッポがユラユラと優しく揺れた。




 訓練所に戻ると鶴田光一が犬たちのトイレ出しをしているところだった。

「すみませえん。遅くなっちゃいましたあ。あと、わたしやりますからあ」
「よ、おかえり。どうだったチャイムのやつ」
「かわいかったです。それに『いい仕事』してましたよ。ウフフ」
 みゆきは楽しそうに犬のウンチの始末をはじめる。

「ねえ鶴田さん。チャイムってすっごい盲導犬ですね」
「そ、そっかなあ。ちょっと臆病なところがあって、僕としては心配だったんだけどね」
「そんなのたいした問題じゃないですよ。いい盲導犬です、チャイム。柴田さんがそう言うんだから間違いありませんよ」
 ベリーがみゆきを見つけて勢いよく飛ん出来た。右の太股めがけて二度三度体当たりしてくる。

「よおビリー。いい子にしてたあ。じゃ、ハーネスつけて街にくりだそうかあ」
 ビリーは嬉しそうにシッポをブンブンふりまわした。

「がんばろうぜえ。いい盲導犬、理想の盲導犬めざしてまっしぐらあ!」


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◆第八話 ビリーの旅立ち◆



「おはようございまあす」
 元気な声とともに事務室のドアが勢い良く開けられた。パピーウォーカーの菅原佳子だった。足元にはリードに繋がれた子犬を引き連れている。今日は日本アイフレンド協会のパピーウォーカー研修日。

「やあ、菅原さん。お久しぶりです」
 事務所の奥に座っていた田村総一郎がコーヒーカップを持ったまま軽く会釈する。

「赤山さんの代わりに今日は田村さんが先生ですかあ。お手柔らかにねえ」
「アハハ。こちらこそ。菅原さんはベテランだからもうお話すること、ないんですけどね。どうですか。ジップの調子は」
「もう、すっごくやんちゃ。盲導犬にはなれないかも。あ、こら!ノー!」
 ジップはリードを思い切り引っ張って田村に向かって走り出そうとする。イエローのシッポがビュンビュン音をたてる。

「おお、ジップ。久しぶりい。おっきくなったなあ」
 田村はニコニコしながら両手を広げると、ジップの頭をゴリゴリ撫でた。

「菅原さん、コーヒー飲みます?」
 鶴田光一が佳子に声をかける。

「わあ、いただいちゃお。すっごくいい臭いなんだもん」
「アハハ。コーヒーくらい、お安い御用ですよ。いつもお世話になってる菅原さんのことだもの。インスタントですけどね。その辺に適当に座ってください」
「すみませえん。遠慮なくう。ほらジップ、おいで」
 佳子はパイプ椅子に腰を下ろすと、リードを軽く引いてジップを引き寄せる。

「ねえねえ、今日は何人くらい集まるんですか?」
「菅原さんを入れて11人です」
 田村はコーヒーカップを持ち直しながら佳子に向かい合った。

「初めての人が多いのかな?」
「そうですね。7人の人が初めてのパピーですね」

「わあ、気合はいってるんだろうなあ、きっと。なんだか緊張するなあ」
「アハハ。そんなことはないでしょ。菅原さん、もう慣れっこでしょ。ジップで7頭目でしたっけ」
「そう。7頭目。こんなに長く続けられるなんて思っても見なかったなあ。自分でも不思議。でもさ。最近の人たちってすっごく真面目って言うか、真剣っていうか。わたしなんかけっこうお気楽じゃない。なんだか浮いちゃってるような気がしたりもして」
「そんなことないですよお。菅原さんとこの子はみんな素直でいい子です。はい、コーヒー」
 光一が佳子の前にコーヒーカップを置く。

「どうもありがと。いただきまあす。アチチ」
 佳子はコーヒーを一口飲んでから光一に問いかける。

「ねえねえ鶴田さん。ビリーはどう?盲導犬になれそう?」
「ビリーですか。いいですよお。稲盛くんも一生懸命だし」
 光一も自分のコーヒーカップを持ったまま田村の隣の椅子に座る。ジップが立ち上がって光一に向かってシッポを振った。

「だめ!シッツ。おとなしく待ってなさい!そうそう。稲盛さん、いろいろうわさ聞いてますよ。わたし、まだゆっくりお話したことないのよね。赤山さんとはタイプがぜんぜん違うみたいだけど、ボランティアの間ではすっごく評判いいのよね。今日、会えるかな」
「さあ、どうかな。稲盛くん、ビリーと訓練に出てるから。夕方まで戻ってこないかもしれないな」
「そっかあ。ビリー、ビシバシしごかれてるんだあ。この分だと4勝目は確実かもね」
「4勝目って?」
 光一が小首をかしげる。

「菅原家を卒業した子はね。これまで3頭が盲導犬になってるの。1頭目のジャッキー、3頭目のカーリー、4頭目のココミ。2頭目のエスタと5頭目のアルフはダメだったのよね」
「はいはい。そうでしたね」
「それがね。盲導犬になれたのはみんな黒の子なのよね。だから、ビリーも絶対なれるんじゃないかって」
「アハハ。菅原家のジンクスですか。でも、ビリーが盲導犬になれるのはかなり確率高いですよ。もうほんとに最後の仕上げってところですからね」
「わあ嬉しい。実はね、ちょっと気になってたことがあったんですよね。ほら、。ビリーってほかの犬にかなり反応しちゃうところあるじゃないですか。盲導犬としてどうなんだろって。大丈夫なんですかね」
「そうですね。確かに少し反応が強いところありますね。でも、充分コントロール効くレベルです。基本、フレンドリーですからね」 「ほんとですかあ。よかったあ。4勝目4勝目!黒のジンクス!あ、でも…と言うことはあ」
 佳子はチラリと足元のジップを見た。黄色い子犬が嬉しそうにシッポを振っている。

「アハハ。大丈夫、大丈夫。ジップちゃんもなかなかいい感じですよ。さあ、そろそろいきましょうか。みなさん、もう集まってきてるみたいです」
 総一郎が笑いながら椅子から立ち上がった。




「ビリー!ツー ザ カーブ!」
 ハーネスをつけた黒いラブラドールが美少女を誘導して軽快に歩道を歩く。やがて交差点に差し掛かるとピタリと止まる。

「グッドグッド。ほらほら、信号変わるよお。ストレート ゴー」
 目の前の信号が青に変わった。稲盛みゆきはさも楽しそうにビリーに命令する。ビリーはゆっくりと横断歩道を渡り始める。

「そうそう。いい感じいい感じ。来週あたりからアイマスクして歩こっか。大丈夫だよねビリー」
 ビリーは任せとけと言う風にシッポを大きく振って見せた。

「まあ、盲導犬の訓練なのねえ。えらいわねえ」
 前から歩いてきた中年女性が声をかけてきた。

「なんて言うお名前?」
「ビリーって言うんです」
「そうなのお。ビリーちゃん、がんばってね」
「ありがとうございます」
 みゆきとビリーはどんどん歩道を歩く。すれ違う人たちがみんな優しそうな眼差しを送ってくれた。二人の周囲だけが柔らかい空気に包まれているようだった。

「さあ、ビリー。今日はバスに乗るよお。ほら、バス停が見えてきたでしょ」
 数人の男女がバスを待っていた。みゆきとビリーは列の一番後ろに並んだ。

「へえ。盲導犬の訓練中なんだ」
 学生風の男性がビリーに装着されたハーネスを見ながら言う。

「そうなんですよ。今日はバスに乗る練習」
「へえ、そんなこともするんですね」
「いろんなことを経験させておかないと。電車やタクシーにも乗ったりしますよ」
「盲導犬はそう言うの大丈夫なんだよね。乗せてもらえるんだよね」
「そうなんですけど、この子、まだ盲導犬じゃないから。訓練所からお願いして特別に乗せてもらうんです」
「ふうん。あ、バスが来たみたいだよ」
 エンジン音をさせながらバスがゆっくりと目の前に止まった。

「お先にどうぞ」
「ありがと。ビリー!アップ ツー ステップ」
 ビリーがゆっくりと乗降口に向かって歩き出す。中年男性の後に続いてステップをゆっくりと登っていく。後ろから学生がしきりに感心しながら見ていた。

「すみませえん。日本アイフレンドの職員でえす!」
 バスに乗り込むと、みゆきは運転席に向かって大きな声でそう言った。

「はいはい、連絡ありました。空いてる席に座ってください」
 マイクを通して運転手の声が返ってきた。

「ありがとうございまあす。
 バスは半分ほどが空席だった。みゆきは後ろのほうの席に腰をかける。ビリーを座席と座席の間に入れてダウンさせる。

「ええ、本日、このバスには盲導犬の訓練中の犬と訓練士さんが乗っています。ご理解、ご協力、よろしくお願いします」
「へえ、そうなんだあ。すごいねえ」
「まあ、お利口そうな」
「すっごくきれい」
 社内が柔らかな空気で満たされていく。

「そうそうビリー。ちょっと狭いけど我慢我慢。30分ほどだからね。これから池之上公園に行くんだよお。一時間くらいのんびりお散歩して、それから訓練所に戻ろうか」
 バスは「池之上公園前」目指して走り始める。停留所ごとに何人かの客が降り、何人かの客が乗ってきた。

「ワンちゃん、がんばってね」
 みゆきたちの席を通り過ぎる乗客はみんなやさしく声をかけていく。みゆきはその都度にこやかに会釈を返した。
 やがてバスが公園前の停車場に止まる。

「どうもありがとうございました」
 みゆきは運転手にペコリと頭を下げてステップを下りる。

「がんばってね。いい盲導犬になりなよ」
「はあい!がんばりまあす」
 みゆきが小さく手をふって、ビリーが足元で大きくシッポを振ってバスを見送る。

「さあってとビリー。公園のお散歩だからハーネス外しちゃおっか。のんびりノンキにお散歩タイムってことでえ」
 みゆきはしゃがみこむとビリーに装着されたハーネスを外した。リードを左手でシッカリ持ち直してから、外したハーネスを右肩に引っ掛ける。

「さあ行くよビリー。ついておいでえ。ヒール!」
 ビリーは嬉しそうにシッポを振りながら、みゆきの横について歩き出す。
 池之上公園は大きな池を中心に遊歩道がぐるりと囲んでいる。のんびり歩いて3、40分と言うところだろうか。平日と言うこともあって、日とはまばらだった。

「きっもちいいねえビリー。お天気もいいし。もう最高だね。お弁当持って来ればよかったね」
 みゆきとビリーはきれいに整備された遊歩道をどんどんと歩いた。どこからか甘い花の臭いが風邪に運ばれてくる。日差しがやわらかに空からふりそそぐ。散歩にはうってつけの場所だ。

「ねえビリー。どうよあんた。自信のほどは。あと一ヶ月くらいでユーザーさんとの訓練になるかもしれないよ。大丈夫?自信ある?」  ビリーがはねるようにしてシッポで円を描いてみせる。もうバッチリさと言う声が聞こえたような気がした。

「ほんとかなあ。ほんとに大丈夫かなあ。おいしそうな臭いに誘惑されたりしない?他のワンちゃんに気をとられたりしない?あ、見てみてビリー。アヒル、アヒル」
 三羽のアヒルが池のほとりで気持ちよさそうに遊んでいるのが見えた。ビリーは足を止めて暫く眺めていたが、我慢できないと言うようにリードを引っ張ってアヒルの方に向かおうとする。

「ブー。だめえ。しっかり歩いてくださあい。ハーネス外してるといっても、あなたは盲導犬になるんですからあ」
 リードを軽くひっぱると、ビリーは決まり悪そうにみゆきの足元に戻って来た。

「アハハ。さあさあ行きますよお。もうすぐ盲導犬になるビリーくん!」
 遊歩道はどこまでも続いている。そしてその向こうには暖かい未来が待ってくれているようにみゆきには感じられる。あともう少し。あとひとがんばり。ビリーはきっときっといい盲導犬になれる。がんばろうねビリー。
 15分ほど歩いただろうか。左手に竹やぶが見える、少し寂しそうに感じられる場所に差し掛かった時だった。

「ワンワンワンワン!」
 突然けたたましい犬の吼える声。

「え?」
 ギョッとして足を止めたみゆきの目の前に一頭の大きな犬が飛び出してきた。威嚇の体制に身構えながら、火のついたような激しさで吠え立ててくる。

「う、うっそお」
 薄汚れた体、血走った目。ビリーよりも二周りも大きなその犬は、今にも飛びかかってきそうな勢いだ。首輪はしていなかった。

「…ビリー。なんかやばそうかも」
 みゆきの足元でビリーが小さくシッポを振っている。

「…だめみたいよ。話し合える相手じゃなさそうな雰囲気」
 ビリーのシッポがピタリと止まった。

「ビリー。逃げるよ。慌てないで。ゆっくり、ゆっくり。あっ!」
 犬の目を睨みながらゆっくりと後ずさりを始めたみゆきが、歩道のくぼみに足を取られてグラリとバランスを崩す。

「ワンワンワン!」  それを待っていたかのように、目の前の犬がダッと飛びかかってきた。

「あっ!だめ!ビリー!!」
 左手に握ったリードが凄まじい勢いで引かれた。




「ピンポーンピンポーンピンポーン」
 ドアチャイムが何度も鳴る。

「え?誰だろ、こんな時間に」
 ウイスキーを飲みながら借りてきたDVDをぼんやり見ていた澤田達也が面倒くさそうに腰をあげる。

「はいはい。どなたですかあ」
 ドア越しに声をかける。返事は返ってこなかった。
 怪訝に思いながらも達也はドアを開けた。

「あれ?みゆきちゃん。どうしたの」
 薄暗い廊下の明かりの中に稲盛みゆきがひっそりと立っていた。

「こんばんは。また来ちゃいました。突然ごめんなさい」
「あ、いや。それは別にいいんだけどさ。…何かあったの」
 みゆきの様子は明らかにいつもとは違っている。達也はどう対応していいのか判らなくなっている。

「達也さん」
「は、はい」
 みゆきの目がいつもよりうるんでいるように思えた。廊下に立ったまま、部屋に入ってこようともしない。

「キャリアチェンジって知ってます?」
「え?」
 予想外のみゆきの言葉に達也はますますオドオドしてしまう。

「あ、ああ。紀子から聞いたことあるよ。盲導犬になれなかった犬のこと、最近はそう呼んでるんだろ」
「そうです。盲導犬になれなかったのはたまたま向いてなかっただけ。だめな犬なんかじゃないんです」
 みゆきは達也の目を見つめながらニッコリと笑ってみせた。

「…だめだったのか。…ビリーのやつ」
 みゆきがいつまでも部屋に入ろうとしないので、達也は靴をはいて廊下に出た。みゆきは達也と向かい合ったままただジッとしている。

「あ、あのね、みゆきちゃん…」
 思い沈黙に耐えられなくなって、達也はとにかく何か言わなければと口を開いた。

「強いんですよビリーって」
「え?」
 みゆきがまた笑った。さみしそうに笑った。

「自分よりおっきなノラ犬をあっと言う間にやっつけちゃいました。ほんと、もうあっと言う間」
「…そ、そう」
 達也は必死で言葉を捜した。

「な、何があったのかよくわかんねえけど…。で、でもさ。そう言うのって。訓練すればさ。…よくわかんねえけど。とにかく…。なんとかなるんじゃねえの」
「だめです」
 きっぱりとしたみゆきの声に達也の言葉が止まる。

「まだ決まったわけじゃないんです。でも…。ダメだと思う。盲導犬ってね。盲導犬って、どんな事があっても戦っちゃダメなんです」
「そう…なんだ…」
 みゆきはうつむいたまま黙り込んでしまった。達也は何か言わなければと必死に考えたが、どうしても言葉が見つからない。二人は狭い廊下で向かい合ったままただ立ち尽くすだけだった。

「達也さん」
 うつむいたままみゆきが口を開いた。

「は、はい」
 達也の返事はカラカラに乾いた喉にひっかかって、間抜けな音になってしまった。

「泣きませんよね」
「え?」
「赤山先輩なら泣きませんよね。達也さんに涙なんて見せたりしませんよね」
「え?あ、ああ…」
 達也は廊下の天井を見つめながら暫く考えてから言った。

「そんなことねえよ。何度か泣かれたことあったなあ。もう、このあたりが涙と鼻水でグチャグチャにされちまったこともあったな。いっつも犬がらみでだったけど。アハハ」
 達也は右手で胸のあたりをグルグル撫で回して見せた。だめだろうな。こんなことで笑っちゃくれないだろうな…。

「よかった」
 明るいみゆきの声に驚いて達也は思わずその顔を見てしまった。みゆきは満面の笑みを達也に向けていた。だが…キラキラと輝く大きな両目からは大粒の涙がとめどなく流れ落ちていた。達也はあわてて目を逸らせた。

「お借りしていいですか?」
「え?」
「ここ」
 みゆきは右の人差し指で達也の胸をチョコンとつついた。

「あ…ど、どうぞ」
 みゆきが無言のまま体ごと達也にぶつかってきた。達也の背中がドアに押し付けられる。
 やがて胸のあたりが熱く濡れていくのを感じた。
 達也はそっとみゆきの両肩に触れてみた。震えている。頼りない子うさぎのように…。いとおしいと思った。
 薄暗い廊下に静かに時間だけが流れた。
 突然、達也のズボンのポケットで携帯電話が鳴った。そっと右手で電話を取り出す。

「もしもし」
「もしもし達也!いま何してんのお」
 赤山紀子の元気な声が聞こえてきた。

「な、何してるって…。ちょっと取り込んでます…かな」
「あ、ごめんごめん。なんだか嬉しくて達也に電話したくなっちゃって」
「何かいいことでも?」
「そうなのよ。カヌのね。わたしがいま訓練してる犬なんだけど。ユーザーさんが決まったの。もちろん一緒に歩行訓練してからのことなんだけどさ。サイさんって言う35歳の女の人。今日訓練所に来て体験歩行したんだけどさ。これがもうバッチリなのよ。もう嬉しくってえ」
「そうか。そりゃよかったな」
「あ、ごめんごめん。お取り込み中だったんだよね。じゃ、おやすみ。あ、そうそう。浮気すんなよお。アハハ」
 電話は切れた。達也はそっと携帯をポケットに戻した。

「浮気じゃありません。これは浮気じゃありませんから」
 口の中で小さく何度もつぶやいた。




「稲盛さん、おはよう」
「あ、菅原さん、おはようございまあす」
 訓練所の玄関で二人の元気な声が交差する。

「ねえねえ。ビリーの新しい家族ってどんな人たち。もう会ったんでしょ」
「いえ、わたしもまだなんですよお」
「そうなのお。いい人だといいのにね」
「大丈夫ですよ。犬好きの人って、みんないい人ですから」
 菅原佳子と稲盛みゆきは並んで事務室に入って行った。

「おはようございまあす。まだちょっと早かったですかねえ」
「おはようございます。もう来てますよ。野々村さんご家族。会議室で待ってますよ。さあ、そろそろ行きますか」
 中島のぼる所長が空になったコーヒーカップを机の上に置いて立ち上がる。

「じゃ、わたし、ビリーを連れてきましょうか」
「ビリーならさっき鶴田くんが連れに行ったよ」
 三人は並んで訓練所の廊下を歩く。

「でもよかった。稲盛さんが案外元気なので」
「ウフフ。わたしめげない子なんですよ、菅原さん。これで我が家も3勝3敗かあ。黒のジンクスも崩れちゃったし。そうだ。ジップのこと、稲盛さんにお願いしようかしら。ねえ中島所長」
「わあ、ぜひわたしにやらせてください。今度こそ立派な盲導犬に育てますからあ」
「アハハ。あんたら二人はやっぱ大したもんだわ」
 会議室のドアを開けると野々村一家が少し緊張した面持ちで待っていた。

「野々村正志です。妻の清美。長男の大輔。小5です。長女のさやか。小2です」
「こちら、ビリーのパピーウォーカーの菅原さん。そしてビリーを担当してた職員の稲盛です」
「こんにちは」
「こんにちはあ」
 自己紹介をして少し雑談している間に野々村家族の緊張は解けたようだった。

「お待たせしましたあ。ビリーです」
 鶴田光一がビリーを連れて会議室に入って来た。

「わあ、かっこいい」
「かっわいい」
 大輔とさやかが争ってビリーに駆け寄った。

「ビリーです。仲良くしてやってね」
「はあい。わたし、めちゃくちゃかわいがります」
「ビリー。こっち向いて。わあ、顔舐められたあ」
 ビリーはとびきりの笑顔で子供たちに挨拶している。

「野々村さん。先日もお話しましたが、ビリーはデモ犬として活躍してもらおうと思ってます。イベントのある時には訓練所からビリーを借りにいくことになります。その点、ご了承ください」
 中嶋が野々村夫妻に念を押す。
「わかりました。僕たちも出来る限りのご協力はさせていただくつもりにしてます」
「ねえねえ、お父さん。デモ犬ってなあに」
 大輔の質問にみゆきが代わって答える。

「盲導犬のことを判ってもらう為に、いろんなところに出かけてアピールするの。目の見えない人と一緒に歩いたりもするのよ」
「へえ、かっこいい」
「そうよお。ビリーはとってもお利口でとってもかっこいいんだからねえ。二人ともビリーのこと、よろしくね」
「うん、わかった」
「わたしも」
 大輔とさやかとみゆき。三人に囲まれて、ビリーはもう大はしゃぎ。シッポをビュンビュン振り回している。

「じゃ、わたしたちはそろそろ…」
「そうですね。じゃあ、ビリーの出発をみんなで見送らせてください。さあさあみんな、駐車場に移動するよお」
 中島が先頭にたって会議室を出て行く。

「野々村さん!ビリー、お願いします」
 みゆきがリードを正志に渡す。

「みんなで大事にします。新しい家族として」
「よろしくお願いします」
 みゆきは深々と頭を下げた。

「さあいくよビリー!」
 ビリーは正志の後について会議室を出る。大輔とさやかが飛び跳ねながらついて行く。一番後に妻の清美がニコニコしながら続いた。

「よかったね。いい人たちみたいで」
 菅原佳子が小さな声でみゆきにそう言った。

「ほんと。さあ、ビリーの出発を手をふって見送りましょう。駐車場へゴー!」
「ウフフ。了解」
 駐車場には白い乗用車がエンジン音をたてていた。二人の子供たちが後部座席に乗り込む。

「ビリー、おいで」
 大輔の呼ぶ声にビリーが少し躊躇して、みゆきの方をチラリと見た。

「いってらっしゃい」
 みゆきはうるんだ目でそうビリーに合図した。

「了解」
 ふっきるような勢いでビリーが後部座席に飛び込んで行った。やがて車はゆっくりと動き始める。

「ビリー!元気でねえ!また会おうねえ!!わたし、もっともっとがんばって、日本一の訓練士になるからねえ!」
 みゆきは車が見えなくなっても両手をちぎれるくらいに振り続けた。ビリーのシッポに負けないほどの勢いで。




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