紀文花火 文:林 克之
紀文花火・目次
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風はまだ続いていた。 三日前から降り始めた雨はどうやら止んだようだ。しかし、風はまだ吹き続けている。時折ゴオっと音を立てて小屋全体を震わせる。 「そんな事があってたまるか!」 大声が小屋から発せられた。風の音にも負けないほどの声だった。 川原に建てられた作業用の粗末な小屋の中に十人ほどの若い男達がたむろしていた。まだ昼前だというのに、どうやら酒を飲んでいるらしい。 「まあ落ち着けよ文吉」 興奮に立ち上がった男の腕を傍らの男が引っ張って座らせる。 「ほら、そんなに興奮しないで。一杯飲め飲め。あっ、もうおしまいかあ」 薄汚れた器に濁り酒を注ぐ。酒は器を三分の一ほど充たして空になった。 「お前は腹が立たねえのか、弥蔵!」 「そりゃあ、腹は立つさ。でも、そんな事は今に始まった事じゃねえ。これまでだって俺達は踏み付けられてきたんだ。なあ」 弥蔵はそう言いながら、他の男達の賛同を求めるように見廻した。床に座りこんで酒を飲み続けている若者達は揃って頷いた。 「そんなこたあ判ってらあ。俺達作男がどんなに惨めに暮らして来たか。だが…。今度の話は許せねえ」 「許せねえって、どうしようって言うんだ。えっ?文吉さん」 弥蔵は安酒に顔を赤らめながらからかうように文吉に尋ねる。 「江戸へ行こう!俺達の手で江戸に蜜柑を運ぼう!」 文吉は両の拳を握り緊めながら大声でそう応えた。 「な、なんだあ?江戸へ行くだとお?」 「蜜柑を運ぶってかあ?」 「俺達が?俺達作男がかあ」 へらへらと笑い声が小屋に満ちた。 だが文吉は唇を震わせ、拳を握り緊めたままだ。 「なあ文吉。船が出せねえんだよ。この雨と風で海が荒れ続けなんだ」 「蜜柑船が出ないのは、それだけじゃ、それだけの理由じゃねえんだろ。お前、今そう言ったじゃねえか」 文吉は弥蔵を睨み付ける。 「そのとおり。一番船を出すのをどこの荷主にするかで今年は大揉めしてる。豊作で蜜柑がだぶつきそうだから、慌てて船を出す事もねえって腹だ、荷主の奴等は。それは間違いねえ話だ」 「そのお陰で、俺達は仕事待ちってわけだ。蜜柑を運んで来ても、積み上げて、腐るのを待つしかねえんだからな。やってらんねえよなあ」 源兵衛が横から口を挟んだ。文吉は二人を睨み付けながら言った。 「だから俺達が江戸に蜜柑を運んでやろうぜ!荷主の奴等をアッと言わせてやろうぜ!江戸では蜜柑を待ってる。蜜柑を作り、蜜柑を運ぶのは俺達だ。本当はそうでなきゃならねえ。そうだろう」 文吉の勢いに、弥蔵が胡座を組み直して問い返した。 「そうかもしれねえ。だが文吉。蜜柑はどうする。肝心の蜜柑はどうするんだ。俺達に運ぶ蜜柑なんてねえだろう」 文吉は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに切り返した。 「蜜柑ならあるじゃねえか。腐るのを待ってるだけの蜜柑が山ほど積んである。どうせ腐らせるんだ。頼み込めばタダでくれるかもしれねえ」 「船は?船はどうするんだ。こんな荒れた海に、命懸けで船を出してくれるやつがどこにいる。しかも俺達には船を雇う金なんてねえ」 今度は本当に言葉に詰まった。唇を噛み締め、ただ弥蔵を睨み付けるだけだった。 暫く小屋に気まずい沈黙が続いた。 「な、無理なんだよ。ジタバタしたって、俺達は最低の作男なんだ。一生な。それが世の中ってもんなんだ」 弥蔵は黙り込んでしまった文吉の肩をポンポンと叩いた。 「判ったふうな口叩くんじゃねえ!」 そう叫ぶなり文吉は立ち上がった。そしてドカドカと大きな音を立てながら出入り口へと歩いて行く。壊れかけた木戸を開けると、強い風が吹き込んできた。 「お、おい文吉。どこへ行く気だ」 「蜜柑をもらってくる」 短くそう言うと、文吉は外に飛び出して行った。 「おい、待てよ。待てったら」 だが文吉は振り向きもせず、風の中に駆け出して行ってしまった。 「やれやれ」 弥蔵は大きなため息をついた。 「どうするう?」 「どうするって。ほっとけほっとけ。頭冷やしたらまた戻ってくるさ。それより誰か、酒を何とかして来いよ。もうカラッポだ」 「よし、親方の所でくすねて来てやらあ」 源兵衛がカラッポの大徳利を抱えて小屋を出て行った。 「蜜柑を江戸へってか。そんな事出来るわけねえじゃねえか…」 弥蔵は吐き捨てるようにそう呟くと、皿に残ったシラス干しを摘んで口に運んだ。 30分ほど経って、空の徳利を満タンにして、源兵衛が戻ってきた。 「雨は上がったみたいだなあ。風も少し弱くなってきたし…。そろそろ船が出るかもしれねえな」 「そんなわけねえだろ。俺が言った話は嘘じゃねえ。荷主達が集まって話してるのを確かに聞いたんだ。一籠一両に値が上がるまで、じっくり根競べだとよ」 弥蔵は苦い顔をしながら空のどんぶりを突き出した。 「文吉はまだ戻らねえのか」 「そのへん走り回ってるんだろうよ。気が済んだら戻ってくるさ。さあ、飲もう飲もう。酒でもくらってなきゃあやってらんねえや」 「まったくだ。俺にも注いでくれえ」 「俺にもくれえ」 小屋の中がまた賑やかになった。愚にも付かない話に花が咲いた。 ガタガタと木戸が大きく揺れた。また風かと思ったが、それは慌てて戸を開けようとする音だった。 「船が、船が見つかったぞ!」 文吉だった。ハアハアと荒い息を吐きながら、喘ぐようにそう叫んでいる。 「なんだあ?船だあ?」 「そうだ。江戸へ向かう船だ。奥州から難波に米を運んで来て、帰る途中で帆柱が風でやられた。修理のために、今有田川に入って来てる。乗せてくれるとさ。蜜柑を積んでくれるとさ。江戸へ乗せてってくれるとさ」 一気にそう言った。小屋の中が静まり返った。 「なあ、行こうぜ。江戸へ行こう。蜜柑だ。蜜柑を集めなきゃ。頼む。手伝ってくれ。一緒に行ってくれとは言わねえ。手を貸してくれ。俺は江戸へ行きたい。どうしても行きたい。こんな所で一生終わるのはごめんだ。こんな生活をづっと続けるのはごめんだ。江戸へ行きたいんだ。江戸へ行きさへすればなんとかなる。なあ、手を貸してくれ」 険しい顔をして、弥蔵が立ち上がった。 「よし、蜜柑を集めてやらあ。こんな事してたって、面白くもなんともねえ。なあみんな、文吉を江戸へ行かせてやろうぜ。荷主の奴等をアッと言わせてやろうぜ。おもしれえ。こりゃおもしれえや。ヌクヌクと炬燵で酒喰らってる奴等に、一泡吹かせてやろうぜ!」 若者達が活気づいた。小屋の中の温度が上がった。 「よし、やろうじゃねえか」 「こりゃおもしれえや。ワクワクしてきたぜえ」 「おい、遊んでる奴等をかき集めろ」 「バカ。いつまでも酒喰らってるんじゃねえ。戦が始まったんだよ。サッサとしねえか」 どんぶりや皿が床に放り出された。 「文吉!なに、ボケっとつったってんだ!ぐずぐずしてると、江戸がにげちまうぞ!」 「なんだあ?蜜柑をくれだとお?」 弥蔵の顔を覗き込むようにして、親方が言った。 「へえ、蜜柑を江戸へ運びます。儲かったら、代金は払えます。蜜柑を譲ってください」 庭先に土下座したまま、弥蔵は真剣な顔で訴えた。 「なにい?蜜柑を江戸へ運ぶだあ?お前がかあ?」 「いえ、文吉が…文の野郎が…」 「文吉?ああ、あの親なしのガキか。けっ、馬鹿馬鹿しい。お前ら、どこで酒くすねやがった。サッサと寝ちまえ!」 「お願いします。蜜柑を!蜜柑をください!お願いします!」 弥蔵はなおも訴え続ける。 「シツコイ野郎だなあ。蜜柑なら川原に腐るほど積んであるだろう。腐るのを待ってるだけの蜜柑がよお!いっくらでもくれてやらあ!蜜柑食い過ぎて、腹でもぶっ壊しやがれ!」 親方は腹立たしげにそう吐き捨てた。 「あ、ありがとうございます」 弥蔵は頭を下げると、ダッと立ち上がって川原に向かって駆け出した。そこには仲間達が待っているはずだ。 「文吉。蜜柑が手に入ったぞ。ぜえんぶお前にくれてやらあ!」 そう叫びながら、弥蔵は風の中を走り続けた。息が上がって苦しかったが、休まなかった。文吉が仲間が待っている。きっと喜んでくれる。 「おおい。蜜柑をくれるとよお!」 積み上げられた大量の蜜柑籠の前で30人ほどの若者達が集まっている。 弥蔵は大声で叫びながら、喘ぐように走り寄った。 「弥蔵!遅い遅い!蜜柑はいくらでももらえるとよ。亀吉も、作蔵も、源兵衛も…。ちゃあんと蜜柑をもらってきたぞお!」 「クソオ!俺だけじゃねえのかあ」 弥蔵はいかにも悔しそうな顔をする。 「さあ、蜜柑を船へ運ぶぞ!ここから2キロばかり離れた所に、船が留まってる。さあ、急げ急げ。働け働け」 「オオオ!」 若者達が雄叫びを上げる。 籠を背負う者。どこから持ってきたのか、大八車に積み込む者。風の中を若者達が動き出す。 「ほんとに来やがったか」 顔中髭だらけの船頭が苦笑いしながらそう言った。 「行ってくれますよね。江戸へ連れてってくれますよね」 真剣そのものの文吉の目に、船頭は笑いを消した。 「ああ、判ってるよ。船乗りに二言はねえ。サッサと積み込みな。積めるだけ積みゃあいい。明日の朝には船を出す。もう二週間もここで足止めだ。これ以上は待てねえ。明日どんなに風が強かろうと、海が荒れようと。俺達は船を出す。サッサとしねえと間に合わねえぞ」 「で、でも頭。抜け荷なんて運んだら…」 「うるせえ!ガタガタ言うんじゃねえ!」 心配顔で口を挟んだ男を、船頭は一喝した。 「あ、ありがとうございます。急いで積み込みます。儲かったら必ずお礼はさせていただきます」 文吉は何度も頭を下げた。 「そんなことしてる暇があんのか、クソガキがあ。サッサと仕事しねえかあ」 「は、はい。みんな、急げえ。蜜柑を積み込めえ」 蜜柑籠が次々と船に積み込まれていった。 運んできた蜜柑籠を積み込むと、若者達は急いで駆け戻った。みんな黙々と働き続けた。誰も何も言わなくなった。ただ黙々と蜜柑を運び続けた。 「俺達が作った蜜柑を俺達が江戸へ運ぶんだ」 「俺達の仲間が江戸へ行くんだ。夢じゃないんだ」 「文吉ならきっと、何かやってくれる。とてつもないことをやってくれる」 あたりはすでに薄暗くなっていた。川原の石に躓きながら、若者達は蜜柑を運び続けた。 「さあ行くぞ。船に乗りな」 夜が明けた。船乗り達が忙しく出航の準備を続けていた。 「なんだ。三人だけか?」 文吉と弥蔵と源兵衛。 「文吉!これ、持ってけ!」 亀吉が大きな袋を手渡した。米が入っていた。 「これも持ってけ」 安治が小銭の入ったふくろを差し出す。 「こ、これは…」 「餞別だ。これっぽっちしか集まらねえ。すまねえな」 「み、みんな…ありがと…」 「そんな顔すんじゃねえ。今日も海が荒れそうだ。江戸まで命が持つかどうかも判んねえ。気合入れ直せや!」 誰かが文吉の腰を後ろからバンと叩いた。 「わ、判った!きっとやってやる!蜜柑を江戸まで運んで見せる」 文吉はギュッと唇を噛んだ。 「蜜柑なんて、もうどうでもいいよ。文吉!江戸で大きくなって来い!俺達の分まで大暴れして来いや。きのう蜜柑を運びながら、俺はそう思った!」 「俺もだ!」 「俺も!」 「俺も!」 若者達が口々にそう叫んだ。 「よ、ようし、判った!!きっとデッカイ事をして見せる。約束だ!男の約束だ!」 文吉は拳を高々と差し上げた。 「弥蔵。頼んだぞ。文吉は暴走しちまいやすい。お前がちゃんと見ててやれ」 「ああ、判ってるよ」 「源兵衛、江戸でおかしなもの食べるんじゃねえぞ」 「余計な心配すんじゃねえ」 別れを惜しむ若者達に、船頭が怒鳴り付けた。 「いい加減にしねえか!ガキの遊びで船が動くと思ってるのか!船乗りはいつだって命懸けなんだ!サッサと乗りやがれ!」 「は、はい」 文吉達三人は慌てて縄梯子をよじ登った。後から船頭が追い立てるように上る。 「さあ、野郎ども。船を出すぞお。帆を張れえ!!」 三本の帆柱に張られた帆に風を受け。ゆっくりと船が動き始めた。 「ヨオソロオオ!」 船頭の声が風の中で轟いた。 岸に残った若者達は、懸命に船を追って走る。 「がんばれよお!」 「死ぬんじゃねえぞお!」 「また会えるよなあ!」 甲板の上に立つ三人は、涙を堪えながら、千切れるほどに手を振り続けた。
紀文花火 第一話 ---了---
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熊野灘は荒れ狂っていた。一隻の船も通すまいと、海は怒り狂っていた。この秋、三隻の千石船が海底深く飲み込まれた。 海が荒れているから蜜柑が運べない。それはまんざら嘘ではなかった。 「綱を緩めろお。帆を降ろせえ。帆柱が持って行かれるぞお!!」 船頭の声が波に飲み込まれた。 船員たちは死に物狂いで海に立ち向かっていた。少しでも気を緩めれば、底深くに引きずり込まれる。いや、すでに運に身を任せるしかないほどに、彼らにはなす術さへ残されてはいなかった。 「ウロウロしてるんじゃねえ。下に潜ってろお!!」 「で、でも…何か手伝わないと…」 「てめえらに何が出来る!サッサと失せろお!波に持ってかれても、だあれも泣いちゃくれねえぞお!」 大波がまた船を襲った。文吉は船べりに必至にしがみついた。息が出来ない。口の中に海水が容赦なく入ってくる。 「ゲホゲホゲホ」 肺が焼け付きそうだ。目の前が真っ暗になった。 「早くしねえかあ!何、グズグズしてやがるう!」 舵にしがみついたまま、船頭が怒鳴った。 「は、はい!」 文吉は甲板を這うようにして、船室に向かう戸ににじり寄った。 しがみつくようにして階段を下りる。船は大きく揺れ続けている。揺れているなどと言うものではない。モミクチャになっているのだ。 「弥蔵!源兵衛!大丈夫かあ!」 薄暗い船室で、文吉は仲間の名を呼んだ。 「おお!文吉かあ!何とかなあ!」 弥蔵の声が返って来た。 「源兵衛!源兵衛はどこだあ!」 「こ、こっちだあ…」 弱弱しい声がどこからか聞こえた。 「大丈夫かあ」 「そうでもねえ。何とか生きてるってとこだあ」 三人は床を這うようにして寄り集まった。 「この嵐、いつまで続くんだ」 「そんな事、判るわけねえだろ」 心細げに問う源兵衛に、弥蔵は忌々しそうに答える。 「蜜柑は。蜜柑は大丈夫か」 文吉の声に、弥蔵も源兵衛もハッと顔を見合わせた。薄暗いので、お互いの顔がやっとボンヤリ見えるばかりだ。 三人はまた床を這いながら、蜜柑籠を積んだ場所に向かった。船はなお大きく揺れ、跳ね上がるようにもがき続ける。 「大丈夫だ。何とか崩れずに済んでるぞ」 手探りで籠を探る。積み重ねられた籠は、船の揺れに翻弄されながらも、何とか無事のようだ。 「こんな所でおシャカになってたまるかよお。蜜柑は一粒だって無駄にはしねえ。みいんな江戸へ持って行くんだあ!」 文吉は蜜柑籠を抱えるようにして大声で叫んだ。風と波と船のきしむ音に、その声は飲み込まれた。 「うわああああ!」 船が大きく宙に撥ね飛ばされ、一気に奈落に沈んだ。 どこからか海水が流れ込んできた。 「クソ!クソ!クソオ!」 「舐めんじゃねえ!クソッタレエ!!」 「お助けくださいいい!」 三人は蜜柑籠と共に船の中で泣き叫ぶばかりだった。 どうやら正念場は脱したらしい。船の揺れが心持ち小さくなったようだ。 どれくらいの時間が経ったのかは判らない。三人とも気を失っていたようだ。 「おおい!生きてるかあ!」 頭上から船員の声が聞こえて来た。 「はいい。何とか生きてるようです」 「そりゃよかった。荷主に死なれたんじゃ、こっちも大弱りだからな。お前ら、運がいいぞ。俺もこんな荒海を乗り越えたのは初めてだ。命があっただけ有難いと思え。俺もつくづくそう思ってる」 「わ、判りましたあ。ありがとうございましたあ」 「もう少しそこで寝てろ。あと二時間もすりゃあ、港に逃げ込める。着いたら腹いっぱいメシでも食おおぜ。酒もいいなあ」 「ありがとうございます!!」 そう応えてから、三人はまた意識を失った。 船は進み続けた。江戸に向かって。 何度か荒海にもまれはしたが、その都度ギリギリで乗り越える事が出来た。 「お前ら、つくづく運がいい」 甲板の上で握り飯を鷲掴みにしながら、船頭がそう言った。 「あとどれくらいで着きますか」 文吉が聞いた。 「二日もあれば着く。だが、もう一箇所、大きな難所が待ってる」 「難所?どこですかそれは?」 「下田だ」 「下田?そんなに荒れる海なんですか」 「海は大して荒れねえかもしれねえ。関所があるんだよ。海の関所がな」 「関所?」 「ああそうだ。江戸に入る船はみんな下田の港でお役人の調べを受けなきゃならねえ」 「…」 三人が揃って神妙な顔になった。 「ワッハッハ。心配するな。俺が何とかしてやらあ。抜け荷は初めっから承知の事だ。お前らは何としてでも江戸へ届けてやらあ。俺はおまえ達が気に入った。よく頑張った。よく働いた。もう俺達の仲間同然だ。見殺しにするような真似はしねえ。安心して食え、食え」 「ありがとうございます」 三人は弾むような顔で大きな握り飯に齧り付いた。 船は進み続けた。順風満帆だった。 「よおし、いい荒れ具合だ。これくらい荒れてりゃあ、お役人も船を出さねえだろう。夜の間にうまく下田の関所をやり過ごせそうだ」 船頭はそう言っていたが、船が下田に差し掛かると、向こうから小船が近づいてくるのが見えた。 「ちっ!」 船頭は舌打ちした。 「船改めだ。船頭はいるかあ」 提灯をかざしながら、役人が叫んだ。 「俺がこの船の船頭だあ!」 船べりから見下ろすように、船頭が怒鳴り返す。 「どこの船かあ!」 「奥州の船だあ!」 「藩の証明はあるかあ」 「ここにあるぞお!」 船頭は木札のような物を差しかざした。 「よかろう。積荷は何かあ!」 「有田の蜜柑だあ!!」 役人の問いに応えたのは、船頭の横に突然現れた若い男だった。 「お前は何者だあ」 「蜜柑の荷主だあ!」 文吉が怒鳴り返す。 「荷主だとお。船に荷主が乗って来るなんて、聞いた事がないぞ!」 「俺は乗って来た!文句があるかあ!」 その言葉に、役人はムッとした顔になった。 「有田?紀州の蜜柑か!藩の許可証はあるかあ!」 「ない!!」 「何いい!!」 役人が目を吊り上げた。 「俺達の作った蜜柑を俺達が江戸に売りに行く。どこが悪い!!」 「き、きさまあ。なにをわけの判らん事をほざいとるかあ!港へ入れ!船を港に着けろ。うわあ!!」 役人の乗った船が大きく波に揺れた。 「わ、判ったか。港で待っているぞ。逃げても無駄だぞ。ふ、船を戻せ」 役人は顔を青ざめながら、櫓こぎに命じた。アタフタと港に向かって逃げ帰って行く。 「構うこたあねえ。江戸へこのまま乗り込むぞお!」 船頭が大声でそう命じた。 「なにい!紀州蜜柑の抜け荷だとお!」 夜更けだというのに、下田奉行所はにわかにどよめき立った。 「は、はい。いえ、船は奥州のようです」 「何をわけの判らん事を!」 寝入りを起こされた下田奉行は機嫌が悪い。 「船はどうした?港か?」 「い、いえ。どうやら江戸に向かったようで…」 「何いい!」 歯軋りを噛みながら小役人を睨み付ける。 「早馬を出せ!紀州藩邸に早馬を出せ。江戸町奉行にもだ!」 「はい、か、かしこまりました」 小役人は慌ててその場を逃げ出した。 「クソオ、紀州の田舎猿どもめえ。思い知らせてくれる。御三家をいい事に、大きな顔しやがってえ。許さんぞお。今度という今度は絶対に許さんぞお。腹を切らせてやる。誰かの腹を切らせぬ事には、ワシの腹の虫が納まらん」 「なんだ、こんな時間に。今何時だと思っている」 「申し訳ございません。下田奉行所から急な使いが参りまして…」 「何事だ。何の用だ。つまらん事だったら許さんぞ」 「有田の蜜柑の抜け荷だそうで…」 「何いい!」 いっぺんに眠気が飛んだ。 「ど、どう言う事だ」 「判りません。奥州の船で、紀州の百姓を名乗る男が、有田の蜜柑を江戸に運んで来たのだと…」 「ワナだ。これはワナだ。下田の奴等は我が藩を煙たがっている。それは判っていた。こんな卑怯な手を使ってくるとは。後半年で紀州に帰れると言うのに。こんな所でつまづいてたまるか!」 「何だとお。紀州は何も知らんだとお」 「は、はい。紀州藩にはまったく関係ない話だと…」 「それで通ると思うかあ!」 「向こうが言うにはですね…。蜜柑に紀州とか有田とか書いてあるのかと…。紀州の百姓だと言うが、そんな男は見た事もないと…。奥州の船なら、奥州の荷だろうと…」 「ふざけるなあ!」 蜜柑を積んだ船は夜明けとともに江戸に到着した。
紀文花火 第二話 ---了---
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元禄元年の朝が明けた。 江戸の町はソワソワと新年の支度を始めていた。 九軒長屋の一番右端の木戸が開いた。羽織袴姿の若い男がサッパリとした顔で出てきた。 「こりゃあいい天気だあ。雲一つないぞお。いい年になるぞお。きっといい年になるぞお」 文吉は空を見上げて、思わず大声を出した。 「こらあ、文。朝っぱらから大きな声出すんじゃねえ」 弥蔵が隣から苦い顔をしながら出てきた。 「なんだよ、弥蔵。正月早々不機嫌そうな顔しやがって。嫌な夢でも見たのか」 「そうじゃねえけどよお。なあ文吉。どうしてもこんな格好して行かなきゃならねえのか」 「そりゃそうだろう。今日のためにわざわざ大家さんが用意してくださったんだ。着ていかないわけにはいかないだろう」 「だよなあ…」 弥蔵は生まれて初めて着る羽織袴がどうにも着心地が悪いらしい。モゾモゾとぎこちなく歩いて来る。 「けっこう似合ってると思うよ」 「からかうなら、俺は行かねえぞ」 「判った判った。悪かったよ。今日は正月元旦だ。めでたい日なんだから怒るなって。それより源兵衛はどうした。まだ支度出来ねえのかな」 文吉はそう言いながら、三番目の木戸を軽く叩いた。 「おおい源兵衛。早くしろお。もう出かけるぞお」 「ま、待ってくれえ。羽織の紐がうまく結べねえんだあ」 情けない声が返ってきた。 「紐が結べねえ?どれ、出て来てみろ。俺が結んでやるから」 木戸が開いて、源兵衛が顔を出した。 「プッ」 弥蔵と文吉が同時に噴出した。 「おかしいか?俺も何だかおかしいような気がするんだけど…」 「いや、おかしかねえ。似合ってるよどれ、紐を結んでやるから、こっち向け」 文吉は顔を真っ赤にして笑いをこらえながら、源兵衛の羽織の紐を結んでやった。 「おかしいか?おかしいよなあ」 「おかしかないって。さあ行こう。他のみなさんはもう出かけてるみたいだ」 三人はぎこちなく歩き始めた。 「早いもんだなあ。江戸へ来てもう二度目の正月だ」 「ほんとだなあ。アッという間だったなあ」 「俺達、すっかり江戸っ子になってるかなあ」 「さあなあ。大して変わってないみたいだけどなあ」 三人とも、借り物の足袋と草履がどうにもしっくりいかないらしい。いかにも歩き難そうに、それでも足を進めた。 「大家さんの家って遠いのか?」 「ここから歩いて20分くらいの所だ。源兵衛は見に行った事もないのか」 「ないんだなあ、それが」 「すっげえ家だぞお。これぞお屋敷って感じだ。なあ弥蔵」 「ああ」 「あれえ、二人とも行った事があるのかあ」 「見に行っただけだよ」 「そ、それでも…。なんで俺も誘ってくれなかったんだよお」 源兵衛は泣き出しそうな顔をして、二人に抗議する。 「わ、悪かったよ。そんな顔するなって。今日はめでたい日なんだからさ」 「納得出来ねえ。あの荒海を一緒に越えてきた仲間じゃねえか。何でも一緒だって約束したじゃねえか。そうじゃねえのかあ」 「だから悪かったって言ってるだろ。もう勘弁してくれ」 少し広い通りに出た。着飾った人達が賑やかに往来している。 「初詣の帰りかな」 「俺達もどこかへお参りにでも行くか」 「俺はいい。あんまり好きじゃねえ」 角を左に曲がって、どんどんと歩いて行く。 「なあ文吉。藤兵衛さんって、一体何者なんだろうな」 「さあ…。俺にもさっぱり判らねえ。貧乏長屋の大家にしては、金持ち過ぎるよなあ」 弥蔵の問いかけに、文吉は小首を傾げて見せる。 「だよなあ。こんな立派な着物まで用意してくれて。店子をみいんな家に招いて、祝いの席を持ってくれる大家なんて、聞いた事もねえよなあ」 「すごいらしいぞお。すごいご馳走らしいぞお。真さんに聞いたんだ」 すっかり機嫌が直ったらしく、源兵衛がさも嬉しそうにそう言った。 「真さんって、あの生意気そうなガキか?」 弥蔵がさも苦手だと言うような顔をする。 「いい子だよ、真さんは。頭もいいし。さすがお侍さんの子だよなあ。俺達とは出来が違う」 「えらく気に入ったもんだな、源兵衛」 文吉がニヤニヤしながら源兵衛の顔を見る。 「ああ、俺、真さんにいろはを教えてもらったんだ。ちゃんと読み書き出来るようになったんだぜ」 「そりゃすげえや。田舎じゃ寺にも一度も顔出さなかったのになあ」 弥蔵はさも驚いたという顔をする。 「弥蔵、ちがうんだよ」 「え?」 「源兵衛は真さんのおっかさん、佳代さまが目当てなんだよ」 「あ!なるほどお」 弥蔵は思わず手をパチンと打ち合わせる。 「文の字!いい加減な事言うんじゃねえ!」 源兵衛は顔を真っ赤にさせて文吉に掴み掛かろうとした。 「ワッハッハ。ごめんごめん。冗談冗談」 「冗談で済むかあ!待て、この野郎」 「ほら、見ろ見ろ、源兵衛。大家さんの家が見えてきたぞ」 文吉は源兵衛の攻撃をかわしながら、前方を指差した。 「え?」 「ホラ、あれだ。あの大きな門構えの家」 立ち並ぶ家々の中で、ひときわ立派な屋敷が見える。 「すごい家だよなあ。旗本屋敷とまではいかねえが…。一体何者なんだろうなあ」 弥蔵がまた考え込んでいる。 「判らねえが、いい人に違いねえ。俺達をあんな家賃で入れてくれた」 「そうそう。今日もこうして呼んでくれたし。どんなご馳走が出るんだろうなあ」 やがて三人は屋敷の前に立った。 使用人らしき男が出迎えに出た。 「九軒長屋のものです」 「これはこれは。もうみなさんお集まりですよ。さあ、どうぞどうぞ」 門をくぐり、綺麗に整えられた庭を眺めながら、三人は玄関に向かう。 「やあ、よく来てくださった。さあ、お上がりなさい。遠慮など要りませんよ」 白髪頭の老人がニコニコしながら出てきた。大家の藤兵衛だった。 「新年明けましておめでとうございます」 「本年もどうぞよろしくお願い致します」 三人は丁寧にお辞儀をする。 「堅苦しい挨拶など後でいいですよ。みなさん座敷でお待ちです。さあ上がって上がって」 草履を脱ぎ、廊下に足を乗せる。 「ワア、滑るぞ、ツルツルだあ」 源兵衛が素っ頓狂なな声を上げる。 「バカ。騒ぐんじゃねえ。恥ずかしいじゃねえか」 弥蔵が睨み付ける。 「ワッハッハ。若い人は賑やかがいい。さあ、こちらですよ」 藤兵衛に案内され、座敷へ入る。顔なじみの長屋の人達はもう座って待っていた。 「みなさんの席はあちらです。 膳が三つ、用意されていた。三人はカチカチに緊張しながらフカフカの座布団に座った。 隣に座っている大工の八兵衛がクスッと笑った。 「さあ、これでみなさん揃いました。改めまして。新年明けましておめでとうございます」 「明けましておめでとうございます」 一同が声を合わせる。 「まずは一杯。乾杯と行きましょう」 三人の女中が次々と注いで廻る。 「みなさん、入りましたかな。では、乾杯!」 「乾杯!」 三人もみなに合わせて杯を空けた。 「うめえ。こんなうめえ酒はじめてだあ」 源兵衛が思わず大声を上げる。隣の弥蔵が後ろからつねり上げた。 「さて、申し訳ありませんが。毎年の事ですが、祝宴を始める前にお耳汚しを」 藤兵衛がニコニコと合図すると、女中が奥の襖を開ける。 艶やかな着物を着た娘が琴の前に座っていた。 「文吉さん達は初めてでしたな。孫娘の鈴です。すみませんが、下手なお琴を聞いてやってください」 「鈴でございます。みなさま、明けましておめでとうございます」 「おめでとうございます」 娘の美しさに呆気に取られていた三人は、慌てて頭を下げた。 琴の演奏が始まった。 下手どころではない。見事な音色だった。座敷一杯に爽やかで華やかな空気が満ちていく。 琴の音など生まれて初めて聞いた三人も、うっとりと聞き惚れてしまった。 何曲か引き終わると、娘は静々とお辞儀をした。 「お粗末でございました」 「いやあ、お見事お見事」 「またいいお正月を迎えさせていただけた」 大きな拍手が沸き起こった。 「ありがとうございました。年寄りの唯一の楽しみでして。さあどうぞ。箸をお付けください。さあどうぞどうぞ」 藤兵衛が上機嫌で料理を勧める。 「すっげえご馳走!」 膳に並べられた料理に、源兵衛はすっかり有頂天だ。 だが、その源兵衛でさへ、娘の琴にすっかり心を奪われていたのだ。今の今まで。 「ねえお爺ちゃん。紀州からいらっしゃったみなさんはおみえなの」 「ああ、来てくださったよ。鈴の真正面だ」 「わあ、嬉しい。私、すごく会ってみたかったんだ。お酌させていただいていいかしら」 まだ15、6なのだろうか。まるで子供のようなはしゃぎようで、娘は立ち上がった。 「お嬢様、危のうございます」 「大丈夫よ、お玉。家の中ならどこだって歩けるわ」 慌てて駆け寄ろうとする女中よりも早く、娘は舞うように座敷を進んだ。 「文吉さんってどなた?」 「は、はい!私です!」 文吉は背筋をピンと伸ばして、かすれた声で応えた。 「みいつけた」 娘は声に誘われるように、チョコンと文吉の前に座る。 「はい。お酌してあげる。貸して」 真っ白なかわいらしい手が差し出された。 「あ、はい」 文吉は慌てて徳利を手渡す。 「さあ、お一つどうぞ」 「い、いただきます」 文吉は慌てて杯を空にする。 「文吉さん。鈴は目が見えんのです」 「余計な事言わなくったっていいわよ、お爺ちゃん。こぼしたりなんてしないから。はい、どうぞ」 文吉はハッとなった。 愛らしい娘のふくよかな白い顔。だがその両目は静かに閉じられていた。
紀文花火 第三話 ---了---
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「さあさあ、それではそろそろ余興とまいりましょう。事しはどなたが一番手を務めていただけますかな」 藤兵衛がにこやかにそう言った。 「はあい、あたしあたし。大家さん、三味線貸してえ」 30がらみの女が眼の縁を赤くして、賑やかに手をあげた。 「おお、お春さんの小唄が聞けるんですか。これはありがたい。誰か三味線を持って来なさい」 女中が急いで三味線を持って来た。 襖が取り払われ、30畳の広間となった。 「さあ、無礼講、無礼講」 藤兵衛は手を叩きながら子供のようにはしゃぐ。 「さあさあ、お春ねえさんの小唄だよお。他では絶対聞けないよお」 小料理屋で働いているというお春が三味線を爪弾き始める。見事なバチ捌きだ。艶やかな声で歌い始める。 「お見事お見事」 「ヤンヤヤンヤ」 手拍子と掛け声が湧き上がる。 「さあさあ、お次の番だよ。八兵衛、何かやんな」 お春に氏名された 八兵衛は杯をくいっと飲み干して立ち上がった。 「ねえさんの後はやり難いなあ」 「つべこべ言ってんじゃないよ。サッサとやんな」 お春は八兵衛の背中をバンと叩いた。 「よおおっし」 八兵衛はバッと諸肌脱いで、上半身裸になった。 「アッハッハ」 ドッと笑いが起こる。 ポッコリと突き出たお腹に、墨で顔が描いてあった。 「大工の八兵衛さまの、腹踊りとござあい」 お春が三味線で伴奏をつける。八兵衛は腹を突き出し、体を揺すりながら踊り始めた。ダブついた肉が揺れるたびに、お腹の顔が表情を変える。 「ワアッハッハア」 「ホッホッホ」 みんなお腹を抱えて笑い転げる。女中達まで苦しそうに笑っている。 「つぎは山際の旦那だよお」 「え?わ、わしか?」 侍風の男が自分の顔を指差して、困ったような顔をする。 「そうそう、何にも出来ませんなんて無粋な事言わないでくださいよ」 お春が空かさず釘を刺す。 「わ、判った。よし、真之介、やるか」 「はい、父上」 侍の親子は顔をこわばらせて立ち上がった。 「さあ、こっちが舞台だよお。こっちこっち」 お春に促され、二人は広く開けられた畳に立った。 「ゴホン。で、では。この日のために練習してまいりました曲芸をご覧いただきます」 「オオオ」 歓声が上がる。 二人は懐から4つのお手玉を取り出した。 「では!」 父、弥三郎が気合を入れる。佳代が離れた所から心配顔で二人を見つめている。 八つのお手玉が宙に舞った。 「オオオ」 お手玉はまるで生き物のように親子の間を躍り舞う。 「お見事お」 お春が三味線を賑やかに弾いた。 「真さん、すげええ」 源兵衛が大喜びで手を叩いた。 「お、お粗末でございました」 顔中に汗を光らせながら、親子が頭を下げる。 「旦那、次は誰え」 「そ、そうですねえ。英二さん。お願い出来ますか」 部屋の隅で静かに座っていた男が顔を上げた。 「かしこまりました」 小間物の行商をしていると言う英二と言う男。まるで歌舞伎役者のような惚れ惚れするほどの二枚目だった。 「英二さん、かっこいい!」 お春が甲高い声を上げる。 「私も山際の旦那に負けねえように、コマの曲芸をご覧いただきます」 静かにそう言うと、懐からコマと紐を取り出す。 「アラヨ」 コマが宙に舞う。紐の上で自由自在に動き始める。 「すげえ」 「いいぞお、色男」 空かさず三味線が入る。いつの間に用意したのか、八兵衛が太鼓を叩きだした。 「そおれ、仕上げでえ」 英二がピュッと紐を振った。コマはピョンと跳ねて、太鼓を叩いている八兵衛の頭の上に止まった。 「いててててえ」 「ワアッハッハア」 英二の次に、薬の行商をしていると言う松蔵が、軽業を披露した。そして、その後に人足頭の熊吾郎が東北民謡をいい声で唄った。 「さあて。トリは紀州のお三人ですかな」 大喜びでみなの芸を見ていた文吉達は、藤兵衛の声に固まってしまった。 「お、俺達もやるんですかあ?」 「あったりまえじゃないの。サッサと前に出ておいで」 お春にそう言われて、三人はオズオズと前に出る。 「お、おい。どうするう」 「ど、どうするったって…」 顔をこわばらせて突っ立ったままになる。酔いが一遍に醒めて行くのが判る。 「お国の歌を聞かせて」 鈴の声がした。藤兵衛の横で、ほんのりと頬を赤らめ、こちらを見ている。 「さあ、歌った歌った。男だろ。景気付けにグッと一杯やんな」 熊吾郎が湯飲みに酒を注いで持って来た。三人はやけになって一気に飲み干す。 「よおし。唄いまあす」 文吉が怒鳴るようにそう言った。 「ヨオオ」 「待ってましたあ」 どっと歓声が上がる。 「俺達三人は紀州、有田の蜜柑畑で働いてました。農作業の合い間に竹で蜜柑籠を編むんですが、その時にみんなで歌う歌を唄います。弥蔵!源兵衛!行くぞお」 「お、おお」 調子外れの歌が始まった。みんなが手拍子を打った。汗をかきながら三人は懸命に歌った。 「源兵衛!何泣いてやがるんだ。笑わんかい」 熊吾郎が冷やかす。 「な、泣いてなんかいません」 源兵衛は顔を真っ赤にしている。確かに泣いている。ポロポロと大粒の涙が零れ落ちていた。 文吉も泣きそうになった。 「江戸なんだ。ここは江戸なんだ。去年の正月は安宿で汗臭い人足達とにごり酒を飲んで過ごした。あれから一年。今こうしている。夢を見てるのかな。これは夢なのかな」 いや、違う。夢なんかじゃない。いや、夢なのかもしれない。もっととてつもない夢がこれから始まるような予感がしてならなかった。 「よおし、よくやったあ。さあ、飲め飲め」 唄い終わると、八兵衛、松蔵、熊吾郎の三人がどんぶりに酒を満たして駆け寄ってきた。 「さあ、見事に飲み干しなあ」 お春が三味線で囃し立てる。 三人はカラカラになった喉に一気に酒を流し込んだ。 「よお!お見事お!」 拍手と歓声が上がる。 「文吉さん、いかがです。少しは江戸に慣れましたか?」 席に戻った文吉の前に、藤兵衛が腰を下ろした。 「あ、はい。少しは慣れました。でも…」 「でも?」 「やりたい事が見つかりません…」 「ほう、やりたい事がねえ」 藤兵衛は微笑しながら徳利で酒を勧める。 「文吉さんは何がやりたいんです?」 「…判りません。でも、何かデッカイ事をやりたい。仲間と約束しました」 「デッカイ事ねえ。大きな商いですか?」 「そう…。そうだと思うんです。でも…」 「でも?」 文吉は杯をクイっと空けると、藤兵衛の顔を見た。藤兵衛は優しげに微笑んでいる。 「この一年、人足仕事をしながら、江戸の町を歩き回りました。いろいろな人に話しを聞いて回りました。どんな商売があるのかさえ、俺達は知りませんでした。でも、歩き回って、探し回って判った事は…」 「何が判ったんです」 「江戸には俺達の出来る商いはないと言う事です。どの商いも組み仲間と言うものがあります。がんじがらめの仕組みが出来上がっていて、紀州から出てきた作男の入り込む隙間などありません。」 「なるほどねえ」 藤兵衛はゆっくりと腕を組んだ。 「そうかもしれませんねえ。私が江戸に出てきた頃とは、また全然違っているんでしょうねえ。力をつけてきたとは言え、商人と言うのは危ういものです。いつ奈落に落ちるかもしれない。そうならないために、それぞれが守り合うと言う秩序のようなものが出来上がって来てるんですね。新しい敵を入れないように、頑なな仕組みが…」 文吉は首をうな垂れる。 「うどん屋なんてのはどうだい。上方で流行ってるらしいよ。けっこう儲かりそうだよ」 お春が二人の話に割って入る。 「ばか野郎!そんな事したくて江戸に出て来たんじゃないとさ!」 熊吾郎がお春を睨む。 「そ、そんな事ないですよ。うどん屋もいいかもしれない。なあ文吉」 弥蔵が二人をとりなすようにそう言った。 「ううん、これは難問ですねえ」 藤兵衛が首をひねってうなる。 「あるじゃねえか。届さえすりゃあ誰でも出来るでっけえ商いがよお」 その言葉に文吉は驚いて顔を上げた。大工の八兵衛だった。 「材木商いだよ。組仲間もねえ『争い勝手』だ」 「ほ、ほんとですか」 「本当ですね」 後ろから真之介の声がした。利発そうな少年がすぐ後ろに座っていた。 「私は木戸先生の所で経済学を学んでいます。商いの話のようなので、つい興味が湧きまして、聞かせていただきました」 「真さん、ほんとなのかい。材木商いってのが誰でも出来るってのは」 源兵衛が真之介にすがるように聞く。 「本当ですよ、源兵衛さん。ただし…」 「ただし?」 真之介は座り直すと姿勢を正して、話し始めた。 「危険の多過ぎる商いなんです。木の売り買いというのは」 「危険が多い?」 「そうです。江戸の町は火事が多いのです。いったん火が点くと、木と紙で出来た家はアッという間に灰になります。火事が起こるたびに材木商いは大儲けします」 「おいしい商売じゃないの」 源兵衛は首を傾げる。 「でもそれは、自分の身にも降りかかる事なのです。材木置き場に火が廻れば、アッという間に一文なしです」 「そのとおり。『木場に三代なし』ってな。二代は続いても三代は続かねえ。博打みたいな商いなんだよ。だから他の商いと違って、くそむずかしい規制なんてねえんだ。誰も手を出さなくなるとたちまち困るからな。江戸にはとてつもない量の木が必要なんだからな」 八兵衛は手酌でクイっと酒をあおった。 「なるほど。ありましたか。でかい商いが…」 藤兵衛が呟くようにそう言った。 「いや…私も気がつかなかったわけでもないのですが…。地獄に落ちた者達もたくさん見てきました…」 文吉は身を乗り出して藤兵衛に言った。 「出来ますか。俺達にも出来ますか。材木の商いが!」 「出来ない事はないでしょうね。今言ったように、届さえ出せば明日からでも始められます」 「お願いします。教えてください。どう言うふうにすればいいのか。やります。どんなに危険な商いでも、俺達にはそれしかないように思う。お願いします。力を貸してください」 「ううん」 藤兵衛は腕組みしたまま黙って考え込んだ。部屋の中がシンと静まり返った。 「判りました。力を貸しましょう。めでたい席で出た話だ。面白い事になるかもしれません。どうですか、みなさん。一つみんなで後押ししてあげませんか」 「おもしれえや。いっちょ、やってやろうぜえ」 熊吾郎が空かさず応える。 「なんだかいけそうな気がするのよねえ、あたし」 お春が嬉しそうにはしゃぎ始める。 「となると、まずは店を構えないと…」 英二がポツリとそう言った。 「どこか当てがありますか。栄治さん」 藤兵衛が問い返す。 「ない事もありません…」 「どこですか」 「八丁堀に丁度良さそうな貸家が出ています」 「八丁堀ですか。それはいいかもしれない。明日にでも見に行きますか。どうです。文吉さん」 「は、はい、お願いします。お金なら少しはあります」 文吉は藤兵衛に掴み掛からんばかりの勢いでそう言った。 「蜜柑で儲けたお金…ですか」 藤兵衛はニヤリと笑った。 「エッ?」 文吉は息が止まりそうになった。抜け荷で儲けた事をどうして藤兵衛が知っているのか。 「あの蜜柑、私もいただきました」 藤兵衛は涼やかにそう言った。 「私もいただきました。とってもおいしかったわ」 「エッ?」 いつの間にか文吉の背中にへばりつくようにして、鈴が微笑んでいる。 「店を出すからには屋号を決めましょう」 真之介がそう言った。 「屋号ねえ。何がいいかなあ」 「元禄屋ってのはどうだ」 「ダメダメ。もうとっくについちまってるよ。 口々に意見が飛び交う。 「紀伊国屋…」 誰かがポツリとそう言った。皆が振り返った。部屋の隅に静かに座っている佳代が恥ずかしそうにしている。 「なるほどお。紀州紀の国で紀伊国屋かあ。こりゃあいいや。なんだかでかくなりそうだ」 八兵衛がパンと手を叩いた。 「お店の頭はやはり文吉さんですか?」 真之介が三人に問い掛ける。 「そうです。文が頭です」 弥蔵が大きく頷く。 「紀伊国屋文吉。ううん、少し弱いですね」 「文左衛門と言うのはどうだ、真之介」 「…紀伊国屋文左衛門。いいじゃないですか。さすが父上」 息子に褒められて、父は顔を赤らめた。 「よし、紀伊国屋文左衛門。今日からそうお名乗りなさい。」 藤兵衛が文吉にそう告げた。 「はい、判りました」 文吉は、文左衛門はギュッと唇を噛み締めた。 「さあさあ、もう一度乾杯と行きましょう。若い三人のめでたい門出です」 部屋がまたどっと賑やかになった。
紀文花火 第四話 ---了---
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「どうかなさいましたかな」 河村瑞賢は、苦い顔をして腕組みしている町奉行の役人に声を掛けた。 「え?ああ、これはこれは河村さま。いつお出でになりました」 役人は慌てて座り直して、作り笑いを向ける。小柄な老人が静かに立っていた。 「声を掛けたのですが、みなさんお忙しいようで…」 「申し訳ございません。いろいろと取り込んでおりまして」 「そのようですな」 「申し訳ございません。どうぞこちらにお座りください。すぐにお茶を入れさせます」 「構わんで結構です。では、ちょっと失礼を」 進められた座布団に瑞賢は静かに座った。白髪交じりの老人なのに、どごとなく威風堂々とした雰囲気と、力強い若々しさが遭った。 「いつ上方からお戻りで」 「昨日戻りました。淀川の整備もほぼ目処が付きまして。お奉行に色々とご報告申し上げたいと、今日は伺ったのですが…」 「お奉行は今、ちょっと出ておりまして。考えがまとまらないので、少し歩いて来ると言われて…。どうぞ、お茶が入りました」 小役人がお茶を運んで来た。 「これはどうも。そうですか、何か難しい事でも起こりましたか」 差し出されたお茶を口に運びながら、瑞賢は微笑むような表情で役人に問い掛ける。 「実はそうなんです。もう、大弱りで…」 「良かったらお聞かせくださいませんか。長く生きてまいりました。何かいい智恵を出せるかもしれません」 「それはありがたい。河村さま、あの声が聞こえますか」 「声?」 そう言われて、瑞賢は耳を澄ませた。誰かが大声で叫び続けている。今まで気が付かなかった。 「あれは?」 「今朝捕らえて、牢に入れている者が、大声で叫ぶのです」 「ほう、何をしたんです、そいつは」 「抜け荷です」 「抜け荷?何を運んできましたか」 「蜜柑です。紀州有田から蜜柑を船で運んで来たんです」 「ほおお」 瑞賢はまた一口お茶をすすった。 「実際、困ってるんです。紀州藩に問い合わせると、全く無関係だと言い張るし…。いつまでもこんな事に係わっていられるほど、奉行所は暇ではないんです。河村さまもご存知でしょうが、例の法律が…」 「生類憐れみの令…ですか」 「そのとおりです。あれのお陰で奉行所はもうてんてこ舞いです」 世紀の大悪法、生類憐れみの令。その年の初めに発令されたこの法律を当初は江戸の誰もが単なるスローガンだと思っていた。生きとし生けるものを大切にしましょう。信心深い将軍さまの言い出しそうな事だと。だが、この年の4月、大事件が起こった。夜中に家の前で吠え立てる犬を旗本屋敷の手代が切り捨てたのだ。 主人の眠りを妨げる不届き者と言うわけである。誰かがこの事を奉行所に訴え出た。手代は直ちに島流し。旗本は切腹。そしてお家は取り潰しとなった。もう洒落では済まなくなった。江戸は大パニックとなった。誰かを陥れてやろうと、奉行所には訴えが絶えなくなった。その度に役人たちは調査に駆けずり回る事となった。 「何かいいお知恵はありませんか。大事にはしたくないのです。こんなくだらん事にいつまでも係わりたくないのです」 「ううん」 瑞賢は小さく唸ると、目を閉じて考え込んだ。 「こう言うのはいかがでしょう」 「何かいい智恵が浮かびましたか?」 役人は思わず前のめりになって、瑞賢の顔を覗いた。 「蜜柑はなかったのです」 「ハア?」 「蜜柑など初めから積んではいなかった」 役人は暫くポカンとしていたが、やがてパンと大きく両手を打ち合わせた。 「なるほど。蜜柑はなかった。つまり、抜け荷など初めからなかった。紀州の百姓が奥州の船に潜り込んで江戸に来ただけ」 「これで落ち着けますかな」 「行けます行けます。船はちゃんと許可証を持っています。他の整備にも問題はありませんでした。うんうん、これはいい」 役人は何度も頷き続けた。 「蜜柑はどうなされます?」 「海にでも捨てるしかありませんな。無かった積荷ですから」 「それはもったいない」 瑞賢はグイっとお茶を飲み干した。 「いかがでしょう。その蜜柑、わたくしに売ってはいただけませんか」 「え?河村さまが?蜜柑を?」 役人は不思議そうに瑞賢の顔を見る。 「明日は「ふいご祭り」です。ご存知ですか」 「ふいご祭り?」 「ふいごを使う職人達の祭りです。そのお祭りには、子供達に蜜柑を振舞う事になっている。今年は人気の高い有田蜜柑が全く入って来ないので、鍛冶屋連中から何とかならないかと泣き付かれていたところなんです」 「判りました。それなら判りました。お奉行に話してみましょう。これは名案だと思いますよ。おかしな報告を上にあげると、二進も三進も行かなくなるんです。お役所と言う所はそう言う所なんですよ」 「判ります。よおく判ります。面倒な事はないに超した事はない。おや?まだ叫んでますね。なんと言っているんですか?」 「ご覧になりますか?なかなか生きのいい男ですよ」 「ぜひ。話のタネになりそうです」 役人は立ち上がると、瑞賢を牢へと案内した。 「ほら、あの男です。最初は他の者も騒いでいたのですが、今はもうあの男一人です」 離れた場所から牢の様子を見る。 若い男が牢屋の木枠にしがみ付く様にして、大声で叫んでいた。 「これは正義の商いだ!俺達が作った蜜柑を俺達が江戸に運んだ。江戸の人は蜜柑を待っている。これのどこが悪い!これこそがまっとうな商いだ。お奉行に逢わせろ!俺は直接話しがしたい!正義は俺達にあるんだ!」 髪と言わず、着ているものと言わず、タップリと浴びた海水が乾いて塩となり、真っ白になっていた。塩まみれの男が正義を叫んでいる。 「なるほど、これは面白い。いいものを見せて頂きました」 瑞賢は口元に笑みを称えて、静かに男を見ていた。 文吉たち三人は一晩を牢屋で過ごした。船員達は違う所に閉じ込められているらしかった。 三人は眠れない夜を過ごした。一体どうなるのか。抜け荷は重罪だ。もしかしたら島流し、いやいや打ち首になるかもしれない。 冷たい江戸の空気が身に沁みた。 「よおし、出ろお」 牢番が牢屋の戸を開けた。ウトウトとしかかっていた三人は慌てて飛び起きた。 牢屋の小窓から、朝の日差しが差し込んでいた。 「どうするつもりだ。俺達はどうなるんだ」 「黙って出ろ!」 促されるままに、三人は牢屋を出た。 同心だか与力だかの役人が三人を迎えた。 「ほれ」 大きな袋を突き出す。 何がなんだか判らず、三人は突っ立ったままだ。 「何をしている。受け取れ。蜜柑の代金だ。」 「え?」 三人は意外な言葉に耳を疑った。 「お前達は運がいい。あの蜜柑はそっくりあるお方が買ってくださった。値踏みはこちらでした。あわせて八十両。その内、十両は船乗り達にくれてやったぞ。残りの七十両。使いやすいように小銭も入れておいた。これを持ってサッサと紀州に帰れ」 「俺達は釈放されるんですか?抜け荷の罪人ですよ」 文吉が役人に問う。役人はさも面倒そうな苦い顔をする。 「つまらん事を聞くな。サッサとどこかへ行ってしまえ!」 「わ、判りました。で、でも…一つだけ教えてください」 「なんだ!」 「俺達の蜜柑を買ってくれた人はどなたですか?」 役人は暫く考え込んでいたが、面倒そうにこう言った。 「よかろう。どうせ会う事もあるまい。他言は無用だぞ。しゃべったらたちまち首が飛ぶと思え」 「は、はい」 「河村瑞賢さまだ」 「河村…瑞賢…」 大きな袋を抱えて三人は江戸の町を歩いていた。 「やっぱり重てえなあ。七十両のカネって」 「バカ、大きな声で言うんじゃねえ」 弥蔵が源兵衛の頭を小突く。 「さて文吉、これからどうする」 「そうだなあ…。まずそのカネを何とかしねえとなあ。そんなもの抱えたままいつまでもウロウロしてるわけには行かないだろう」 「そうしてくれえ。重くてしょうがねえんだあ」 暫く歩くうちに小さな神社が目に入った。 「とりあえず、あそこに隠そう」 鬱蒼とした草むらに穴を掘り、袋を埋めた。少しばかりの小銭をそれぞれが懐に入れた。 「よし、まずはこれで一安心」 「なあ、メシ食いに行こうぜえ。腹減って死にそうだあ」 源兵衛ばかりではなかった。文吉も弥蔵もクラクラするほど空腹だった。 「よし、まずは腹一杯食おう。それから考えよう」 どこに何があるのか、さっぱり判らない。宛ても無く歩いた。と言っても、神社の場所を見失うわけにはいかないので、慎重に歩いた。 「あったぞ。あれは間違いなくメシ屋だ」 源兵衛が目を輝かせて指さす。誰ともなく。その店に向かって走り出していた。 いらっしゃいませえ。きゃあ!」 店の女が三人の姿に飛び上がった。 「メシ食わせてください。お金ならあります」 「そ、そりゃいいんだけど…。ここはそう言うお店なんだから。でもあんたたち…」 女は顔をしかめて三人を見つめる。 「海から上がったばっかりなんだね、あんたたち」 「え?どうして判るんですか?」 「誰だって判るさ。その格好見りゃあ。塩だらけじゃないか。それにひどい臭い」 女にそう言われて、三人は初めて自分たちの有様に気がついた。 「まずは風呂屋に行ってきな。そこの角を曲がった所にあるからさ。それに、着物も何とかしておいでよ。もう少し行くと、古着屋があるからさ。お金は大丈夫かい」 「は、はい。すぐに行ってまいります」 三人は慌てて店を飛び出した。 風呂屋で汗を流し、古着屋で着物を全部着替えた。 「はいはい、それなら上等上等。何にする?」 先ほどの店で三人はメシを腹一杯食べた。酒も少し飲んだ。 「さあて、これからどうする」 「そうだなあ。まずは住む所だなあ。それと、当面の仕事。稼がなきゃあ、今のカネが目減りしていくばっかりだ。あのカネは大きな事をするための大事な軍資金だからなあ」 仕事はすぐに見つかった。大きな人足置き場に飛び込み、働かせて欲しいと頼み込んだ。 「そうかあ。お前ら、紀州から流れて来たのかあ。よし判った。明日からでも働かせてやらあ。仕事はきついがなあ」 人の良さそうな人足頭の熊五郎がそう言ってくれた。 「あのお、俺達、住む所もないんですけど…」 「まあ、当面は安宿に寝泊りする事だな。大部屋に雑魚寝だが、雨露、寒さは凌げる。俺が紹介してやるよ」 こうして三人の江戸での生活が始まった。 仕事は俗に言う土方仕事だった。きついにはきついが、作男の文吉達には強いて苦にもならなかった。 年が明け、一冬がアッと言う間に過ぎ去った。 日差しに春の気配を感じるようになった頃、熊吾郎が三人を呼んだ。 「お前達、よく働くなあ。どうだ。そろそろ住む場所を定めねえか。腰を入れて江戸で暮らしてみねえか」 「そ、それは願ってもない事で…」 「俺の住んでる長屋に空きが出たんだ。いっぺんに三つもな」 「三つって…一つで十分ですけど…」 「まあ、そこんところはお前らが決めりゃいい。明日にでも大家さんに会わせてやろう。俺ん所へ来い」 「お、お願いします」 三人は深々と頭を下げた。 「但し言っとくぞ。うちの大家はえらく変わった人なんだ。気に入らねえヤツは絶対に入れねえ。空きになった三つも、ついこの前、大家の怒りをかって追い出されたんだ。一月もいなかったから、あんまり詳しく知らねえが、俺も好きにはなれなかったな、アイツらは」 「そ、そうなんですかあ…」 三人は揃って不安そうな顔になった。 「ワッハッハ。心配すんな。実は昨日大家さんにお前達の事を話してみたんだ。どうやら気に入られたみたいだぞ」 「そ、そうなんですかあ。ありがとうございます」 次の日、熊吾郎の所で、大家藤兵衛の面接試験が行われた。 「なるほどねえ。紀州から船でねえ。それは大変でしたでしょう。昨年は特に海がよく荒れました」 藤兵衛はニコニコしながら三人の顔を見た。 「さて、どうします。部屋は三つ空いていますが」 「あのお…一つで十分です」 文吉がおずおずと答える。 「いくつでしたっけ?」 「え?」 「お年ですよ。三人はおいくつになられました?」 「19です」 「なるほど。羨ましい」 藤兵衛はニコニコと続けた。 「これから江戸で何かしようと言う若いあなた達が、男ばかりで寄り集まって暮らすのはあまりきれいな暮らし方ではありません。こうしましょう。一部屋分の家賃で三つお貸ししましょう」 「え?で、でも…そんな…」 「アッハッハ。いいんですよ。どうせ空いているんですから。その代わり、ちゃんと掃除してくださいよ」 「あ、ありがとうございます」 三人は畳に鼻をこすりつけるようにお辞儀をした。 こうして九軒長屋での生活が始まった。
紀文花火 第五話 ---了---
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