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紀文花火  文:林 克之




◆第六話◆




 八丁堀に朝がきた。
 ズラリと並んだ店それぞれが、朝の準備に動き出している。
 「紀伊国屋」と書かれた看板の小さな店の戸が開いた。中の掃除を終えて、三人の若者が竹箒で店先を掃き始めた。

「さあて、今日も一日が始まったなあ」
「今日の休みは文さんだったかな?」
 源兵衛が眠そうな目をこすりながらそう言った。昨夜も遅くまで真之介塾だった。

「悪いな。後はよろしくな」
「ああ、任せときな。ビックリするほど売っといてやらあ。それより文。今日もまた深川か?」
「ああ、八兵衛さんからのキツイ言い付けだからなあ。ちょいと行ってくらあ」
「なんかうまいもんでも買って来てくれえ」
 源兵衛が竹箒でバイバイをする。

 八丁堀に「紀伊国屋」が店開きしたのは、あの宴会から三ヶ月以上経っての事だった。実際に始めると、役所への届け出から始まって、けっこう手間と時間がかかった。

「大商いをしようと言うからには、読み書き算盤はもちろんの事ですが、あらゆる知識が必要です。世間の仕組みもようく知っておく必要があります。人足仕事が終わってから、私の所にお出でなさい。タダで教えて差し上げます」
 真之介にそう言われた三人は、正月三が日が明けると、夜遅くまで真之介塾でしごかれる事になった。

「くそう、あのガキい。だから俺は初めから苦手だったんだあ」
 弥蔵が忌々しそうに言う。

「しかし…とんでもない子供だぞ、真さんて子は…」
「だろう。文さんもそう思うだろう。真さんは天才だよ。すげえよ。何でも知ってるんだから」
 源兵衛がさも得意げに胸を張る。

「お前、あのガキの何なんだよ」
「決まってるじゃねえか。一番弟子だあ」
 文吉改め文左衛門と弥蔵は思わず笑い出してしまった。

「な、何がおかしい!」
「ごめんごめん。でも、確かに源兵衛の言うとおり、真さんはとてつもない天才かも知れねえ」
「とてつもない化け物だよ、あのガキは。末恐ろしい」
「弥蔵!いくらお前でも真さんの悪口は許さねえぞお!」
 真之介塾は毎晩遅くまで続いた。
 狭い部屋で佳代が針仕事をしている。弥三郎は提灯貼りをしていた。

「道場の安月給だけじゃあ、木戸先生の所の授業料が払えなくてねえ」
 弥三郎は恥ずかしそうにそう言った。

「武士の時代は終わったのです。これからは商人の時代です。米経済から貨幣経済に大きく変わろうとしている。太平の世の中が続いたお陰です。だが、武士たちはその事に気づいていない。いえ、気づいていても認めようとしない。侍が金勘定をするなど、恥じだと思っている。私は経済学こそこれからの世の中に最も必要な学問だと思っています」
 小さな机の向こうで、まだ12、3の少年が大演説を続けている。

「真さん、あまり大そうな事を言うものではありませんよ。それに、みなさん昼間のお仕事で疲れているのですから…」
「母上。これは真剣勝負なのです。剣術の修行のようなものです。智恵がないと、食うか食われるかの商いの世界では生き残れません。太平の世の中で、まだ戦が続いているとしたら、それは商いの世界なのですよ」
 日頃は口答えなどした事もない真之介が、塾の方針には一切口を挟ませなかった。

 この塾は紀伊国屋が店を始めてからも続けられていた。
 材木商いと言っても、紀伊国屋には丸太や竹や板切れが売られているばかりだった。人通りの多い八丁堀なので、そんな店にも毎日人が出入りした。それでも、三人が一日中詰めていなければならないほどの忙しさではない。交代で一人が休む事になった。
 文左衛門は休みごとに深川の木場に出かけて行った。

「大きな材木商いをしたいのなら、木場にしょっちゅう足を運ぶ事だ。いろんな人と顔見知りになっておく事だ」
 大工の八兵衛にそう言われた。
 文左衛門にとっては、深川詣では少しも苦にはならなかった。苦になるどころか、活気のある木場を一日中眺めても、ぜんぜん飽きる事はなかった。
 水に浮かんだ無数の材木の上を木場職人達がヒョイヒョイと渡り歩く。手鉤(てかぎ)一つで器用に材木を動かしていく、見事なものだ。惚れ惚れするほどの職人芸だった。

「おや、紀伊国屋さん、今日もお出ましですか。精が出ますなあ」
 すっかり顔見知りになった大工頭が背中から声をかけて来る。

「ああ、親方。まだまだ駆け出しですから。勉強させていただいてます」
「お店のほうはいかがですか」
「何とかやってます」
「そうですか。早く奈良屋さんや冬木屋さんのような立派な材木商になれるといいですねえ」
「いつの事になるやら」
 文左衛門はポリポリと頭を掻いて見せた。

「もしそうなっても、あっしらの事、忘れないでくださいよお」
「忘れるわけないじゃないですかあ」
「そう願いたいもんです。奈良茂の旦那さんなんて、あっしなんか顔も見た事ありませんからねえ」
 奈良茂、奈良屋茂左衛門。江戸一二を争う大豪商。江戸の人たちは彼を「奈良茂」と読んでいた。その豪勢なカネの使い振りはすでに伝説にさへなっていた。

「アハハ、奈良茂さんとは生まれ育ちが違いますよ。私は紀州の蜜柑畑で働いていた作男。親も早くに亡くして、地を這うようにして生きてきました。今もそう変わりはないかもしれません。奈良茂さんは確か二代目でしたよねえ。生まれた時から大金持ちなんだから、比べようったって無理な話です」
「忘れないでくださいよ。人間、カネを握っちまうと別人に変わっちまう。そんな奴等をあっしはたくさん見てきました」
「文さん。俺からもくれぐれも頼んどかあ!」
 二人の話を聞いていたらしい、これも顔見知りの木場職人が横から割り込んで来た。

「俺は奈良屋さんとこの仕事をさせてもらってるんだが、今の今まで奈良茂の旦那の声だって聞いた事もねえ。やだぜ文さん。偉くなっちまって、雲の上の人になっちまっちゃあ」
「アハハ、肝に命じます」
 文左衛門は木場に働く人達が大好きだった。

 ある日の午後、休みで朝から出かけていた弥蔵が息せき切って店に飛び込んできた。

「文!見つけたぞ!き、聞いて驚くなあ!」
「なんだ?どうしたんだ弥蔵。何を見つけたんだ?」
 帳場で仕入れの計算をしていた文左衛門は弥蔵のただならぬ様子に思わず立ち上がった。

「瑞賢 河村瑞賢」
「え?」
「ヤツだよ。俺達の蜜柑を買い取ってくれた河村瑞賢が、ついこの近くに住んでるんだよ!どうだ、驚いたか」
 弥蔵はハアハアと息を弾ませる。源兵衛がどんぶりに水をくんで持って来た。
それをガブガブと飲み干し、フウっと大きな息を吐いた。

「ここから15分ばかり歩いた所に、どでかいお屋敷があるの知ってるだろう」
「あ、ああ。とてつもないお屋敷だ。どこのお大尽の屋敷なのかなあと、前を通るたびにそう思ってた」
「そこだよ。あのお屋敷が河村瑞賢の屋敷なんだとさ」
「え?」
「間違いねえ。屋敷の前に立ってた門番に、思い切って聞いてみたんだ。『ここはどちらさまのお屋敷ですか』ってな。前からずうっと気になってたもんでな」
「…」
 文左衛門は言葉を失って立ち尽くした。江戸に着いてからずっと探していたような気がする。河村瑞賢と言う人を。それがこんな目と鼻の先に住んでいたなんて。
 やがて文左衛門は帳場から出て下駄を履くと、ダッと表に飛び出した。

「おい文!どうするつもりだ!」
 背中から弥蔵の声が追い駆けて来る。

「行ってみる。どうしても会ってみたかった」
「あんな大きなお屋敷に住んでる人だぞ。いきなり行ったって会ってくれやしねえ」
「判ってる。だが…とにかく行ってみる」
 アッと言う間に文左衛門の姿は人ごみに消えた。

「旦那さま。おかしな男が表に来ております」
「おかしな男?どんな男ですか」
 碁盤の前で碁石を睨んでいた瑞賢は、襖の向こうの男に問い返した。

「紀伊国屋文左衛門と名乗っております。若い男です」
「紀伊国屋文左衛門?さて、聞いた事のない名ですねえ」
「旦那様に蜜柑を買っていただいた。紀州から来た男だと伝えてくれと…」
「蜜柑?紀州の…。おお」
 瑞賢の記憶に、薄暗い牢で叫び続ける塩だらけの男の姿が浮かんだ。

「ほほう。これは面白い。会いに来るとは思いませんでした。いいでしょう。ここに通しなさい」
 やがて一人の男が座敷に通された。

「初めてお目に掛かります。紀伊国屋文左衛門と申します」
 文左衛門は瑞賢の前に端座し、深々と頭を下げた。

「どうやら江戸で生き残っていたようですね。今、どこにいるのですか」
 瑞賢は柔らかい微笑みを浮かべながら、文左衛門を繁々と見つめる。

「八丁堀に…、この目と鼻の先で、小さな店を開いています」
「ほう。商売を始めましたか。それは大したものだ。何の商いですか」
「材木商です。と言っても、今は丸太や竹っきりしか売っておりません」
「ほう。材木商ですかあ。これはこれは」
 瑞賢は今にも笑い出しそうになるのをグッと堪えているような顔をする。

「その節は、私どもの蜜柑を買っていただき、本当に有難うございました。一言お礼を申し上げたいと、ずっと思っておりました」
 文左衛門は更に頭を畳に擦り付けるように下げた。

「いやいや。あれは私も助かりました。あなたから譲っていただいた蜜柑、ずいぶん大勢の方から喜ばれました。お陰でいい顔が出来ました」
 女中がお茶を運んで来た。文左衛門の前に置く。

「さあ、もう頭はいいでしょう。お茶でもお飲みください」
「いただきます」
 文左衛門は湯飲みを持ち上げ、口に運んだ。

「それにしても、よくあの荒海を越えて江戸まで来ましたねえ」
「お恥ずかしい…」
「蜜柑はどうやって売るつもりだったのですか?」
「全く考えてもいませんでした…」
「フフフ。おいくつでしたか、あの時」
「19でした」
「お若い。今も大して変わってはいませんね。あれから二年も経っていない。羨ましい。私のような年寄りには若さが羨ましい」
 瑞賢は文左衛門の顔をニコニコと眺めながら話を続ける。

「私が伊勢から江戸に出てきたのも、19の時でした。もう、馬車馬のように働きました。何とかのし上がってやろうと、そればかり考えていました」
「羨ましいです。今、このように立派に成功なさっておられます。私など、これからどうなるものやら、さっぱり判りません」
「成功したいですか」
「はい」
「どうしてです?何のために?」
「え?」
 思いも寄らない瑞賢の言葉に、文左衛門は何も言えなくなってしまった。

「まあいいでしょう。それで?今はそのお店で寝泊りしているのですか?」
「い、いいえ。九軒長屋と言う所に住んでいます」
「九軒長屋?もしかすると藤兵衛さんの所ですか?」
「そうです。やはり、河村さまと大家さんはお知り合いでしたか」
「古い友人です。そうですか。藤兵衛さんの所にねえ。誰か私にもお茶を持って来ておくれ」
 女中が慌てて瑞賢に湯飲みを手渡す。瑞賢はゆっくりとお茶をすすった。

「大した商人だったんですよ。藤兵衛さんは。絹織物を扱っておいででした」
「そ、そうなんですか」
「もう10年以上も前になりますかねえ。江戸にハシカが流行りましてね。気の毒に。跡取りご夫婦を亡くされました。かわいい盛りの孫娘も、光を失ってしまって…」
「…」
「藤兵衛さんはサッサとお店を人手に売り払い、孫娘とひっそり暮らすようになりました。まだ若いのに。と言ってももう65、6になるんですかねえ。私より四つ五つ下でしたから、確か」
「…」
「若い頃、二人でよく酒を飲みました。お互いの夢を語り合いました。あのころは二人とも、何も持っていなかった。ただ馬鹿デカイ夢だけしか…。寂しかったなあ。サッサと戦場から身を引いちまって…。たった一人取り残された気がしました。寂しかった。とても寂しかった」
 懐かしそうに話し続ける瑞賢の言葉を文左衛門はただ黙って聞いていた。
どう言葉を返していいか、全く判らなかった。

「文左衛門さん」
「は、はい」
「やはり大きな商いがしてみたいですか」
「…はい。なぜかと聞かれると、答える事が出来ませんが…。大きな仕事がしてみたいです。そのために江戸に出てきました」
「そうですか」
 瑞賢はお茶をグッと飲み干して、真剣な目で射抜くように文左衛門を見た。

「一つ教えてさしあげましょう」
「は、はい」
 文左衛門は背筋を伸ばして真っ直ぐに瑞賢の目を見返した。

「材木を扱う仕事の中で、一番の大仕事はご公儀からの仕事、つまりは公共事業です。判りますか」
「…はい」
「私は今、河川の整備などの土木を仰せつかっています。ハッキリ言って儲かりますよ。ただし…」
「ただし?」
「公共事業を受けると言う事は、権力に限りなく近づくと言う事です。これは恐ろしい事です。一つ間違うと、命を失うだけでは済まないほどに…」
「…」
「判らないでしょうね。私が何を言っているのか」
 瑞賢は口元に笑みさへ浮かべる。

「権力には魔物が取りついているのです。誰もが権力の魔性の虜になってしまう。権力に近づくと言う事は、わが身を魔物の目の前に晒すと言う事に他なりません。地獄に引きずり込まれるかもしれない。生きながらにして地獄を見る事になるかもしれない。その覚悟が必要だと言う事です。判りますか」
「…よく…判りません」
 文左衛門は神妙な顔つきでそう応えた。そう応えるしかなかった。

「ハッハッハ。やはり若い人はいい。羨ましい」
 瑞賢は突然さも楽しげに笑い始めた。そして、キョトンとしている文左衛門にこう言った。

「またお出でなさい。若いんだもの。怖がっていては何も出来ません。どんな時代でも、新しい世の中を開くのは若者の直向な情熱と何ものをも恐れない挑戦の心です。思うとおりにやってご覧なさい。元禄と言うこの時代、私には明るいものが見出せません。絶望しか見えてこない。それを何とか変える力など、この年寄りにはもう残っていません。思う存分暴れてごらんなさい。私はあなたが気に入りました。何かお手伝い出来る事があるなら、この瑞賢が力を貸して差し上げましょう。あの蜜柑、とてもおいしかったですよ。一生忘れません」



紀文花火  第六話  ---了---

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◆第七話◆




 荻原重秀は怒りに震えながら江戸城の渡り廊下をドカドカと歩いていた。

「全く話にならん」
 ブツブツと口の中で毒づきながら、唯一の居場所となった「勘定方」の部屋に戻った。

「どうでした。柳沢さまのお話は何だったんですか」
 もう7時をとっくに廻っていると言うのに、薄暗い行灯の光の中で数人のかわいい部下達が山積みの書類の整理を続けていた。不機嫌そのものの重秀の顔を見て、みな手を止めて暗い顔になった。

「やあ、みんな。ご苦労さま。今日はもうそれくらいにしよう。わしも今日は家に帰る」
 重秀はこの10日ばかり、ずっとここで寝泊りしていた。

「また金銀改鋳の話ですか」
「その話なら、この数年反吐が出るほど聞かされてきた。今度のはもっとひどい話だ」
 金銀改鋳。逼迫した幕府財政を立て直すため、今流通している貨幣に混ぜ物をして水増ししようと言う話だった。そんな事をすれば、経済は滅茶苦茶に壊れる事は目に見えていた。勘定方は必死になってこれに抵抗してきた。だが、それもいつまでも続かない事は判っていた。諸大名を始め老中連中にはそんな判り切った経済のいろはさえ判らないのだ。新井白石と言うインチキ学者がその連中に向かってしたり顔で改鋳のいかに効果的かを撒き散らしていた。学者に何が判る。この国の経済を必死に支えているのは、われわれ勘定方ではないか。

 部下たちは神妙な顔つきで重秀の周りに集まってきた。

「すまないが、誰か水を一杯くれないか」
「あっ、これは気がつきませんで…」
 慌てて水瓶から水を汲んで来た。重秀は大きな湯飲みを受け取るとガブガブと一息に飲み干した。

「上さまが寛永寺を比叡山延暦寺のようにしたいと申されているんだとさ」
 吐き捨てるようにそう言った。

「また寺院の増設ですか…」
「今度の話はデカイぞお。緒方。昨年幕府に入った年貢は総額いくらだ」
「ざっと七十万両です」
「もしかしたら、それを超える事になるかもしれん。今度の計画」
「…」
 みなが顔をこわばらせた。声を失った。

「お奉行さまは何と…」
「あの人は何も言わないさ。ただのお飾りだからな。何も言わないと言うより、何も判らないんだ」
 上司の悪口など口にした事のない重秀があからさまにその無能ぶりを批難する。それほど今度の話は彼を絶望させていた。

「そうですか…では今度もやはり重秀さまお一人で…」
「わしに何が出来る。これ以上わしに何をしろと言うんだ。えっ?小松!」
「…」
 思わず出してしまった自分の大声に、重秀は恥じるように首のあたりをポリポリと掻いた。

「…すまなかった。つい大きな声を出してしまった…」
「…いえ…」
「小松。子供は大きくなったか」
「…はい。もう四つになりました」
「可愛い盛りだな。いつも残業ばかりで済まないな。休みもほとんど取っていないんだろう。たまには早く帰って子供と遊んでやれ」
「ありがとうございます。…でも、重秀さまこそ少しお休みになりませんと…お体を壊してしまいます…」
「わしか?わしは大丈夫だ。こんな生活をずっと続けてきた。わしが壊れる前に、この国が壊れるかもしれない。ハハハ」
 重秀は冗談のつもりでそう言ったが、誰一人笑わなかった。
 冗談ではない。本当にこの国が壊れてしまうかもしれない。何とかしなければ。どうしたらいいんだ。
 勘定吟味役、荻原重秀は叩き上げの本物の官僚だった。



 ある日の午後の事だった。
 文左衛門はいつもの木場見学の後、ふらりと茶店に入った。どこかで縁日なのだろうか、いつもと比べものにならないほど人通りが多かった。お茶を飲みながらボンヤリ通りを眺めていると、向こうから三人連れが歩いて来るのが見えた。

「あの方、目が不自由なんだなあ…」
 両脇から抱えられるようにして歩いて来る、身なりの立派な坊主頭の男。どうやら目が見えないらしい。
 三人連れは文左衛門のいる茶屋に入って来た。

「旦那さま、どこも一杯です。ここしか空いてございません。申し訳ありませんが、ここにお座りくださいませ」
 付き添いの男が文左衛門の隣にその人を座らせる。

「どうもすみません」
 その人は文左衛門に向かって頭を下げた。

「いえいえ、全然構いませんよ」
「おや?お若いお方のようで…。お参りですか?」
「いえ、私は違うんですけど…」
 文左衛門はなんだかとても親しみを感じた。初めて出会う人なのに。

「旦那さま、お茶でございます」
「ありがとう。あなたたちは座れたのですか?」
「いえ、私どもは構いません」
「それは気が引けてしまいます。どうぞ私の事は放っておいて、空いた席にお座りください」
「いえいえ、お気遣いなく。私どもは旦那様の傍を離れるわけにはまいりません」
「私は大丈夫ですから…」
 付き添いの二人は頑としてそこを動かない。立ったままその人がお茶を飲むのをジッと見ていた。

「こりゃなんだか気の毒だ…」
 文左衛門は思わずその人に同情してしまった。

「どこか地方から出ておいでですか?」 「わ、判りますか。紀州です。もう二年になろうとしてるんですが、なかなか馴染めません」
「ほお、紀州ですかあ。紀州といえば、蜜柑がおいしいですねえ」
「そ、そうですか。私は蜜柑を作っていました。有田です。有田の蜜柑です」
「それはそれは。有田の蜜柑は江戸ではとても評判がいいですよ。私も大好きです。で、今は江戸で何を…」
「小さな店をやっております」
「ほお、お若いのに大したものですねえ」
「そんな事はありません。みなさんに助けていただいて、何とか始める事が出来ました」
「あなたはどうやらいい人のようですねえ」
 その人はニコニコしながら文左衛門の顔を見た。その目はしっかりと閉じられてはいたが…。

「アッ!」
 突然大きな声を上げる。

「どうなさいました、旦那さま」
「数珠を…数珠をどこかに落として来たようです。あれはさる方から戴いた大切な物なんです。弱りました…」
「わ、判りました。私が探してまいります。暫くここでお待ちください」
 付き添いの一人が慌てて店を飛び出して行った。

「全く目が見えないと不自由なものです。探し物一つ人に頼まなければなりません。アッ!」
「ど、どうなさいました」
「小銭入れも落としたようです。あれには大事なお札が入っているのですが…」
「…」
 残った付き添いが思案に立ち尽くす。

「どうしたらいいものやら…。大事なお札なのです…。ああ、困った…」
「わ、判りました。私が必ず探してまいります。どのようなものですか?」
「これくらいの西陣織です」
「判りました。ここを動かないでくださいね。すぐに戻ってまいります。若いお方、私どもが戻って来るまで、この方を見ていてくださいませんか。お礼は致します」
「お礼なんてとんでもない。どうぞご心配なく。私がそばにいます」
「では、行ってまいります。くれぐれもここを動かないでくださいませね」
 男は急いで店を飛び出して行った。

「…行きましたか?」
「え?」
「私の連れの者達は、見えなくなりましたか?」
「え?は、はい…」
「そうですか。…実は折り入ってお願いがあるのですが…」
「え?」
 文左衛門は怪訝そうにその人の顔を見た。

「あなたは『小料理屋』と言う所をご存知ですか?」
「え?まあ…知ってはいますが…」
「それは助かった。申し訳ありませんが、私を『小料理屋』に連れて行ってくださいませんか」
「え?え?」
「私はまだ行った事がないのです。可哀想だと思って…。一度行ってみたいのです。お願い致します」
 手探りで文左衛門の手を捕まえ、ギュッと握り緊める。

「申し遅れましたが、私は杉山…杉山和一と申します」


「おや?文さん。こんな時間に来るなんて珍しいじゃないか」
 お春が入って来た文左衛門を見てそう言った。

「連れがいるんだ」
「こんにちは」
 文左衛門の肩に掴まり、上品そうな顔が笑いかける。

「あ、いらっしゃいませ」
 お春は慌ててぺこりと頭を下げる。

「奥の座敷、空いてるかなあ」
「ああ、まだこんな時間だから客はだあれもいないよ。貸切だよ」
 お春は二人を奥の小さな座敷に案内する。

「お酒飲むんだろ?」
「どうします。杉山さん」
「少しいただきましょう。私はあんまり強くはないのですが」
 和一はニコニコとそう応える。

「じゃあお春さん、徳利二つ。あと、適当に何か持って来て」
「あいよ」
 威勢よくお春が応じる。

「いいもんですねえ。これが小料理屋ですかあ。素敵な所ですねえ。あの方、ここのおかみさんですか?」
「いえ、雇われです。私と同じ長屋に住んでるんです」
「そうなんですか。なんだか気持ちのいい人ですねえ。楽しくなってしまう」
「そうですね」
 文左衛門がちょっと苦笑いしながら頷く。
 やがて酒と肴が運ばれて来る。

「杉山さん、酒がまいりました。どのようにしたらいいですか…」
「ああ、私は勝手にやります。文左衛門さんもどうぞ手酌で。料理のほうも適当にいただきます」
「大丈夫ですか…」
「大丈夫ですよ、。大丈夫なんですがねえ。誰もそうさせてはくれないんです…」
 和一はちょっと苦しそうな顔をした。

「さあ、乾杯と行きましょう。二人の出会いを祝って」
 和一が杯を上げる。文左衛門も慌てて自分の杯に酒を注いだ。

「乾杯!」
「乾杯!」
「いやあ、今日は楽しい。夢のような日です。こんなに楽しい気持ちになったのはほんとに久しぶりです。うん、うまい。文左衛門さん、これはなんと言うものですか?」
「おからです…。文左衛門は止めにしませんか。文と呼んでいただけると…」
「へえ、おからと言うんですか。初めて食べました。おいしいものですねえ、文さん」
「そ、そうですか…」
「文さんはどんな商いをなさっているんですか」
「材木を扱っています」
「ほう、材木商ですか。それは豪勢な」
「いえいえ、丸太や板切れを売っているんです。まだ駆け出しです」
「そうですか。でも、これからううんと儲けるといい。江戸一番の豪商を目指しますか」
「なかなかそうは行かないようです…」
「大丈夫大丈夫。文さんは若いんだもの。あれ?もうお酒が空だ」
「あっ、お春さあん、徳利もう二つ」
「あいよお!」
 少しだけと言っていたのに、和一はよく飲み、よくしゃべった。文左衛門もついついつられて酔いが廻ってきた。

「杉山さん。一つ聞いていいですか?」
「はいはい、なんですか、文さん」
「目の見えない女の人を口説くにはどうしたらいいですか?」
「へ?」
 和一は一瞬動きを止めた。だがすぐに楽しそうに笑い出した。

「そうですかそうですか。いいですねえ、若い人は。でも、それは私にはさっぱり判りません」
「そ、そうですか…」
 文左衛門は顔を真っ赤にしてうなだれた。

「でも、一つだけ。正直に生きる事です。見えていようといまいと、その誠実さがきっと通じるはずです。私はそう思いますよ」
「ありがとうございます」
「ワッハッハ。今日は楽しい。ほんとに楽しい」
 アッと言う間に時間が過ぎて行った。

「杉山さん、私はちょっと用を足してきます。杉山さんは大丈夫ですか?」
「私は大丈夫です。どうぞ行って来てください」
 文左衛門はフラフラと立ち上がり、便所に向かった。
 用を足して席に戻ろうとすると、お春が文左衛門の着物の裾を引っ張った。

「ちょっと文さん。あの人一体何者だい?ずいぶん立派な着物を着てるじゃないの」
「さあ…よく判らねえんだ、俺にも…」
「判らないって、あんた…」
「名前は杉山和一っておっしゃるそうだ」
「す、杉山和一!!」
「お春は素っ頓狂な声をあげた。腰が抜けそうなほどにビックリしたらしい。
「お春さん、知ってるの?」
「し、知ってるも何も…」
 あまりビックリしたので、うまく話す事が出来ない。

「文さあん、どうかしましたかあ」
 奥の座敷から和一の声がする。

「いえいえ、なんでもありません。すぐ戻りまあす」
 文左衛門は慌てて席に戻った。
 和一が姿勢を正して文左衛門を待っていた。

「文さん、今日は本当に楽しかった。私はそろそろ帰らなければなりません」
「そ、そうですか。では、お送りしましょう」
「それには及びません。お店の方に駕籠を呼んでもらってください。私はそれで帰ります」
「でも…」
 和一は文左衛門の方を真っ直ぐに向いて言った。

「今日のお礼に、一ついい事を教えて差し上げましょう」
「え?」
「もうすぐ大商いが始まります。とてつもない商いになるでしょう」
「え?」
「上野寛永寺が大規模に増設される事になりました。その用材として沢山の材木が必要となります。誰がこれを扱うかは、入札で決まります。年が明けて…そう、来年の春には絵図面が公開される事になるでしょう」
「…」
「文左衛門さん。またお会い出来るのを、杉山和一は楽しみにしております」



紀文花火  第七話  ---了---

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◆第八話◆




「なるほど、寛永寺の増設ですか。犬公方さまの言い出しそうな事だ」
 その夜も真之介塾は開かれていた。酒臭い息を吐きながら遅れて来た文左衛門の話を、まだ13になったばかりの少年は興味深そうに聞き入った。

「これ真之介。将軍さまをそのように呼んではなりません」
「すみません母上、つい…」
 佳代にたしなめられ、真之介は頭を掻いた。やはりまだ子供の仕草だ。

「でもよお、そんなでけえ話、信じていいのかなあ…」
 源兵衛が言う。

「杉山和一の話なら、十分信用出来ますね」
「真さんはその杉山って人、知ってるの?」
「もちろんです。とは言っても一度も会った事はありませんが…」
 真之介は源兵衛に向かってコックリと頷く。

「江戸一番の鍼の名医です」
「鍼って、あの鍼や糸の鍼かい?」
 弥蔵が痛そうな顔をして見せる。

「そうです。綱吉さまが原因不明の頭痛に悩んでおられた時、杉山和一が鍼治療をして即座に治しました。それ以来、杉山和一は将軍お抱えの鍼医者となりました。今は『一つ目』と言う所に住んでいるはずです」
「一つ目?」
「頭痛が治って大喜びした将軍様は、和一に何でも望みを叶えてやるから言ってみろと言いました。和一は『私に目をください』と応えました」
「こりゃあいいや。その杉山ってヤツ、なかなかやるじゃねえか。困っただろうなあ、犬公方のヤツ」
 弥蔵はさも楽しそうに手をポンと叩いた。

「いえいえ、将軍様は大したものです。よし判ったと言って、本所一つ目に大きなお屋敷を建ててやったんだそうです」
「だめだこりゃ。ぜんぜんこたえねえってか」
 真之介は文左衛門の顔をまっすぐ見詰めて言った。

「どうするつもりです。文左衛門さん」
「ど、どうするって言われても…」
 話があまりにも大きすぎて、文左衛門には何が何だか判らない。

「私は面白いと思いますよ」
 少年は涼しい顔でそう言った。

「お、面白いって、おめえ…」
 弥蔵は背筋が寒くなるのを感じた。やっぱりこいつはとてつもないガキだ。改めてそう思った。

「真さん、俺達に出来るのかい、そんな馬鹿デカイ仕事が」
 源兵衛が真之介を上目使いに見ながら言う。

「判りませんね。でも、可能性はゼロではないと思います。どうします、文左衛門さん。あなたの心次第です」
 まだ幼さの残るその目が、文左衛門の心の底を探るようにジッと見つめている。

「やりたい。やってみたい。とても出来そうにないとは思う。でも、やってみたい。挑戦してみたい」
 文左衛門はその目をしっかりと受け止めながら、キッパリとそう言い放った。

「判りました。やりましょう」
 真之介は嬉しそうに両膝をパンと叩いた。

「絵図面の公開は来年の春でしたね。それを見ない事にはどれほどの規模なのかも判りません。でも、それまでにやれる事は全部やっておきましょう。まずは届け出ですね」
「届け出?店を開く時に済ませたじゃないか。町奉行所にちゃんと出してる」
 弥蔵が首をかしげる。

「公儀の仕事に参加するためには、勘定奉行所に届けをださなければなりません。それほど難しい手続きではありません。でも、これをしておかないと、入札には加われません」
「フエエエ、やっぱりおめえはたいしたガキだ」
 真之介はチラッと弥蔵を睨んだが、すぐにまた文左衛門のほうに向き直った。

「文左衛門さん、やるからには勝ちましょう。最高の作戦を立て、最大限の努力をする。でも…」
「でも?」
「最後は運です。あなたの器です。判りますか」
「…はい。判るような気がします」
 真之介はニッコリと笑った。

「では、今夜はこれで終わりましょう。文左衛門さんはまだ酔っているようです。もし明日になって心変わりがあるようなら、遠慮なく言ってください。それと、塾は暫く休みにしましょう。いろいろと調べたい事があります」
「よろしくお願い致します」
 三人の塾生は深々と頭を下げた。



「荻原さま、材木商から新しい届け出が上がっております」
 荻原重秀は相変わらず不機嫌な顔で、部下が持って来た書類に目を通した。

「紀伊国屋…文左衛門…。聞いた事のない名だな」
 入札参画の申し込みを見るのはずい分久しぶりだった。届け出さへすれば誰でも名前を連ねる事が出来るとは言え、公儀の仕事を受けると言う事はそんな生易しい事ではない。仕事を受けたは材木が用意出来ないとなれば、首が飛ぶ事になる。少なくともその覚悟が必要なのだ。

「知っているか、小松」
「い、いえ。届け出の内容を見ると、八丁堀で店を開いているようですが。大きな材木屋が八丁堀に出来たなどと言う話は聞いた事がありません」
 必要な書類はちゃんと整えられていた。何の問題もない。だが…重秀はどうしても気になってならない。

「小松、すまないがこの紀伊国屋と言う店をちょっと覗いてみてくれないか。いや、慌てた話ではない。何かのついででいいんだ」
「何か問題がありそうですか」
「いや、そう言うわけではないんだ。どうも…」
 小松は重治の言葉を待っている。

「いや、何でもない。忘れてくれ…」
 重秀は書類に確認の判を押すと、それを突き返した。
 ちょっと小首を傾げながら小松は自分の机に戻って行った。

「どうしたと言うんだろう。どうしてあんななんの変哲もない書類が気になるんだろう。聞いた事もない、恐らくちっぽけな材木屋が…。争い勝手をいい事に、冷やかし半分で届けてきたに違いないんだ。。疲れているのか。わしは疲れすぎているのかもしれない…」
 だがどうしても今見たばかりの名前が気になって仕方がない。紀伊国屋文左衛門。なにか新しい臭いがする。何かやってくれそうな…。
「おや、荻原さま、何かいい事でもありましたか」
 確認の判をもらおうとやってきた別の部下が不思議そうにそう言った。

「何もないが…どうしてだ?」
「なんだか楽しそうなお顔をされています」
「そんなはずはあるまい」
 重秀は慌てて厳しい顔を作って部下から書類を奪い取った。



「ほう。その話があなたの耳に入りましたか。それは大したものだ。ずい分秘密度の高い話のはずなんですがねえ」
 河村瑞賢はキセルを咥え、フウっと煙を吐きながら文左衛門の顔を見た。
いつものようにニコニコしてはいるが、目は笑っていなかった。

「では、河村さまはすでにこの話をご存知でしたか…」
「蛇の道は蛇…です。あなたがどこからこの話を聞いたのか。そんな無粋なことを聞くのはやめておきましょう。でも、どうしてわざわざ私の所に知らせに来たのですか?」
 瑞賢はポンとキセルの灰を落としながら聞いた。

「大きな商いのようです。河村さまも入札に参加されるのではないかと…」
「競争相手の腹を探りに来たと言う訳ですか」
「い、いいえ。とんでもございません」
 文左衛門は慌てて両手を大きく振った。

「アッハッハ。冗談ですよ。でも心配は要りません。私はもう長い間材木には手を出していません。ご公儀から仰せつかった土木工事をこなすのが精一杯です。必要な材木はどこからか買う方が余程楽です」
「そ、そうなんですか…」
 瑞賢はもう一度キセルに煙草を詰めると、火種から火を点けた。フウっと吸い込み、さも上手そうに薄紫の煙を吐き出した。

「文左衛門さん」
「はい」
「それでは商いの世界で生き残れませんよ」
「え?」
 文左衛門は驚いて瑞賢の顔をマジマジと見る。口元がうっすらと笑っている。

「情報は命です。大切な情報は例え親子と言えども漏らしてはなりません」
「ははあ」
 文左衛門は恐れ入って深々と頭を下げた。

「で、どうするんです?入札に参加する事にしたんですか」
「正直、まだ判りません。そんな事が出来るかどうか…。勘定奉行所には届けだけは出しました」
「そうですか」
 瑞賢はポンとキセルの灰を落とす。

「どうです。お酒でも飲みますか」
「え?」
「私はもうすぐ遠くに旅に出ます。今日はゆっくり二人で飲みませんか。何か用でもありますか?」
「…いいえ」
「それは嬉しい。これ、お酒の用意をしなさい」
 いくらも経たない内に、膳が二つ運ばれて来た。見事な庭の見える座敷に瑞賢と文左衛門は向かい合って杯を交わした。

「奈良茂。奈良屋茂左衛門の事を知っていますか?」
「はい、名前だけは。江戸一二を争う材木商とか…」
「あれは二代目です。初代奈良茂は日光東照宮の増設で巨万の富を掴みました」
「そうなんですか」
「ずい分とひどい手を使って勝ち抜いたようです。最も商いの世界に綺麗汚いはないと私は思っています。食うか食われるか。所詮あさましい畜生道です」
「…」
 文左衛門は苦い顔で酒を口に含んだ。

「勝てますか、奈良茂に」
 瑞賢はニヤリと笑った。目が鋭く光った。

「判りません。でも勝ちたいです。私らしく」
 瑞賢はマジマジと文左衛門の目を覗き込んだ。

「クックック」
 堪え切れないように小さく笑い始める。

「おかしいですか」
「ワアハッハ」
 ついに瑞賢は大声で笑い出した。文左衛門は憮然とした顔になる。

「これは失礼。でもおかしい。いや楽しい。八丁堀に小さな店を構えたばかりの男が天下の奈良茂と勝負しようと言う。実に愉快だ」
 瑞賢はひとしきり大笑いすると厳しい目で文左衛門を見据えた。

「戦いを挑んだからには必ず勝つんです。それが男です」
「はい。勝ちます。勝手見せます」
 文左衛門はシャンと背筋を伸ばしてキッパリと応えた。
 瑞賢は満足そうにコックリと頷くと、杯をくいと飲み干した。

「私は江戸を離れます。今度は長くなるかもしれません。ご公儀の仕事です。銀を掘りに行くのです」
「銀…ですか」
「有力な山を見つけたんだそうです。掘ってみなければ判りません。なんとしても掘り当ててほしいと勘定吟味役の荻原さまに泣きつかれました」
「荻原さま?」
「この国の事を真剣に考えているお方です。私はこの方のために銀を掘りに行きます。もう歳です。正直体が持つかどうか…。でも、なんとしても銀は掘り当てます。そして…」
「そして?」
「あなたのために銀を掘りましょう。銀が出なければ寛永寺の増設はかないません。いくら将軍さまがだだをこねても、カネがなくては始まりません。私は山で戦います。あなたは江戸で戦いなさい」
「ははあ」
 文左衛門は深々と平伏した。胸の奥からフツフツと何かが湧きあがって来るのを感じた。



紀文花火  第八話  ---了---

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◆第九話◆




 大家藤兵衛の家の座敷に店子全員が顔を揃えていた。だが、今回は酒の用意がなかった。丸く円陣を組むように座っている。

「お集まりくださいまして、ありがとうございます」
 山際真之介がペコリと頭を下げた。

「さて、早速ですが…。今回の事について、この一ヶ月、私はあれこれと考えてまいりました。何とか秘策を思いつきました。それをみなさんに聞いていただこうと思います」
「秘策…ですか?」
 文左衛門がちょっと首を傾げる。

「そうです。秘策です。まともに組み合っても、奈良茂どころか今の紀伊国屋ではどこの材木商にも勝てはしません」
「チッ、はっきり言いやがらあ」
 弥蔵が顔を歪める。

「真さんの言うとおりだ。聞かせてくれよ。その秘策ってやつを。どうすれば勝てるんだい」
 源兵衛の言葉に真之介はコックリと頷いた。

「どうやって安く材木を手に入れるか。すべてはこれにかかっています」
 全員がうんと頷いた。

「江戸の材木商たちはそれぞれに山を押さえています。例えば奈良茂は木曽、冬木屋は飛騨、土佐屋は土佐と言う具合です。そこに後から潜り込もうとしても、まず無理ですね」
「…となると…。紀伊国屋は…紀州…熊野って事になるか…」
 弥蔵が口を挟む。

「熊野から江戸に木材を運ぶのは困難です。荒れ狂う熊野灘を乗り越えて来なければなりません」
「俺達は越えてて来たぞ」
「運搬に費用が掛かり過ぎます。安く手に入れなければ、勝負には勝てません」
「…となると…」
 みなが顔を歪めて考え込んだ。

「父上、お願いします」
 息子にそう言われて、父弥三郎が車座の真中に大きな紙を広げた。全員がそれを覗き込んだ。

「なんですか、これは」
「どこかの地図…のようですね」
 丸めて持って来たので端の方が浮き上がってしまう。それを手で伸ばしながら真之介が話し始めた。

「木戸先生の所にあった地図を私が写し取ってきました。ここが大井川です。
 小さな指が地図の中央を指し示す。

「大井川?」
「ご存知ですか八兵衛さん」
「ああ、まだ行ったこたあねえがな。名前くらいはな。越すに越されぬ大井川だろ」
「そうです。水量の豊富な大きな川です。私たちの山は」
 真之介は指で大きく範囲をしめした。

「大井川の上流に広がるこの山々です」
「なるほどお…あれ?でもよお…」
 弥蔵が首を傾げる。

「その通りです。こんな江戸の近くに宝の山があるのに、なぜこれまで誰も手を付けていないのか」
「…だよなあ。おかしいよなあ」
 真之介は地図から指を離すと、姿勢を正してみんなを見回した。

「この山々は。見捨てられた山。忘れられた山なのです」
 全員が地図と真之介の顔を交互に見ながら首を傾げる。

「どう言う事ですか?真之介さん」
 文左衛門が身を乗り出す。
「山が険しすぎて材木が運べないのです」
「でもよお。川があるじゃねえか。筏でも組んで川に流しゃ済むんじゃねえの」
 八兵衛が大井川の流れを人差し指で辿ってみせる。

「だめなんです。流れが速すぎるんです」
「どう言う事だい?」
「この山々は昔一度だけ脚光を浴びた事があります。家康さまが駿府城を造る際に、この山の木を使いました。八兵衛さんのおっしゃるとおり、筏を組んで大井川に流しました。でも、あまりに流れが激し過ぎて、材木を川口で止める事が出来ないのです。勢い付いて太平洋に飛び出してしまうのです。それでも家康さまは最後までこの方法を押し通しました。半分以上の材木が海に消えてしまいました」
「…となると」
 文左衛門が指を地図に伸ばした。

「この辺で食い止めて…東海道で運ぶ」
「その手は確かにあります。でも大量の材木を東海道で運ぶのは難しい。やはり船。海です」
「…じゃあ…」
 文左衛門は指を地図の上でウロウロさせてあれこれ考えてみたが、いい方法など浮かばない。

「そうなんです。いい方法が浮かばないんです。私にも…。秘策などと偉そうな事を言いましたが、山から大井川、海、そして江戸。この運搬の方法を確立しなければ何の意味もありません」
 真之介の言葉に、みながため息をついた。

「でも…勝てるとしたらこの山を押さえるしかない。それは間違いありません」
 真之介は力強く言い切った。

「判りました」
 文左衛門は姿勢を正して真之介に向かった。

「紀伊国屋の山を見つけていただきました。確かにここに木はあるんです。ここに決めましょう。この山をなんとしても押さえましょう。運ぶ方法はきっと見つかるはずです」
「ありがとう。文左衛門さん」
 真之介はニッコリ笑うとペコッと頭を下げた。

「さっそく買い付けにいかなきゃな」
 弥蔵が言った。

「そうだな。とにかく行ってみよう。手付しか払えそうもないが、まず木を押さえない事には勝負にもならない」
 文左衛門が応える。

「それなら駿府の松木新左衛門と言う男を訪ねてみるといい。力になってくれるはずだ。私が手紙を書きましょう」
 ジッと聞いていた藤兵衛が申し出た。

「ありがとうございます。材木は何とか手に入りそうですね。これで勝負が出来ますね」
 文左衛門の言葉にお春が異を唱えた。

「そうかなあ。それだけで勝負出来るかなあ」
「え?どう言う事ですか、お春さん?」
「ただ安いだけで勝てるかって事だよ。ねえ、英二さん、どう思う」
 お春は隣に座っている英二の顔を覗き込むようにする。

「私も…お春さんと同じ考えです…恐らく」
「ど、どう言う事ですか?」
 文左衛門がグッと身を乗り出す。

「入札の時…だあれも知らない紀伊国屋と言う材木屋が一番安い値を付けたとして…。それでお上が飛び付くでしょうか?いや、お上より…世間がそれを許すでしょうか…」
「そうなのよ、あたしの言いたいのも。世間を味方にしなきゃあ、この勝負、勝てないと思う。でかい商いとなると、世間は奈良茂か冬木屋かってな話になっちまう。そこに紀伊国屋の名前が食い込まないと」
「なるほど…。でも一体どうやったら…」
「世間の評判を得ようと思ったら、やっぱり吉原で勝たなきゃ」
「吉原…ですか…」
 お春の言葉に文左衛門は困惑の表情を浮かべる。

「任しときな文さん。このお春さんがいい作戦を考えてやるからサア」
 お春はニヤッと笑うと着物の胸をバンと叩いた。
 人足頭の熊吾郎が口を開いた。

「寛永寺増設の話はそろそろ人足仲間でも噂になって来てるぜ」
「大工の間でも噂になってる。仕事にありつけそうだ。大儲け出来そうだって」
 八兵衛が付け加える。

「これは出来るだけ早く動き出さないといけませんね。せっかく早く手に入れた情報が生かせなくなってしまう。いや、もう遅いのかもしれない。他の材木屋がすでに動いているかもしれません」
 真之介が早口でそう言った。

「奈良茂はまだ動いていませんね。冬樹屋も目立った動きはない。飛騨屋が二番番頭を山に送りました、三日前に。でも、今回の事と直接関係があるかどうかは、ちょっと判りませんね」
 松蔵がはじめて口を開いた。みな驚いて彼を見た。

「ねえねえお春さん。松蔵さんってほんとに薬の行商なのかい」
 源兵衛が小声でお春に尋ねる。

「さあねえ。あたしは前からなんだか怪しいと…」
 お春も小声で応えた。

「とにかく、今出来る事をやりましょう。みなさんには色々ご迷惑を掛けるかも知れませんが、どうぞよろしくお願い致します」
 文左衛門は大きな声でそう言うと、深々と頭を下げた。



 吉原の大門をくぐって文左衛門は心細げに歩いている。はじめて足を踏み入れる未知の世界。心臓が飛び跳ねるように踊っている。
 暫く歩くとお春に教えられたとおり「松田屋」と言う大きな御茶屋があった。

「こ、ここだ…」
 文左衛門は足を止めると、大きな深呼吸を一つした。
 向かって左側に大きな飾り窓があった。誰もいない。誰も座っていなかった。

「待つしかないな」
 文左衛門は口の中で小さく呟くと、その窓をジッと見つめたままその場に立ち尽くした。
 行き交う男達が道の真中で立ったまま動かない若い男を怪訝そうに見て通る。

「なんだかいい天気だなあ、今日も…」
 ぼんやりとそんな事を考えていると、うとうとと眠くなってしまう。一時間も待っただろうか。窓に人影が動いた。

「来た!」
 文左衛門は思わず大声を出しそうになった。
 荒い格子越しに美しい女の姿が見えた。胡蝶太夫だ。今吉原で一番人気の太夫だと言う。

「おっ、胡蝶太夫の顔見世か。やっぱりいい女だなあ」
 文左衛門の後ろで誰かがそう言った。暫く眺めていたが、その男はすぐどこかに行ってしまった。次々と男達がやって来て、眺めてはどこかへ行ってしまう。ジッと立ち尽くしているのは文左衛門一人だった。
 やがて店から男が出てきた。文左衛門に向かって歩いて来る。難しい顔をしながら。

「ちょっとあんた、さっきから店の前で立ちっ放しだけど、何してんの」
「見に来ました。評判の胡蝶太夫を見せていただきにきました」
「そうかいそうかい。だったらもういいだろう。サッサとどっかへ行っちまってくんな」
「いけませんか。ここで見ていては」
「太夫が気持ち悪がってるんだよ。そりゃそうだ。こんな長い時間ずっと立ち見してるやつなんて、俺も初めてだ。さあ行った行った。邪魔なんだよ、そんなとこに立ってられちゃあ」
「でしたら中に入れていただいていいですか」
「はあ?」
 男はさも大袈裟に首を捻って見せた。

「お金は用意してきました」
「用意してきましただあ?あのなあお前、うちの店はお偉い方しかお見えにならねえ、超高級店なんだよ。吉原は初めてか?俺が安い所を教えてやろうか?ああ?」
 どう見ても高級店で働く者には見えないその男は、舌を巻き、顎を突き上げるようにしてそう言った。タチの悪い客を追い払う用心棒と言うところだろうか。

「胡蝶太夫とお酒を飲むにはいくら出せばいいのですか」
 シツコイ野郎だと言う風に文左衛門を睨み付ける。

「三両だよ。三両!」
 右手の指をピンと三本突き立てて文左衛門の目の前で振り回す。

「三両だとさ…」
「三両…」
 道の真中での男二人のやりとりに、これは喧嘩かと集まってきた野次馬達が、いつの間にか文左衛門の後ろに大勢。その男達からため息ともどよめきともつかぬ声が上がる。

「判ったか。判ったらサッサとどっかへ行っちまいな!」
 文左衛門はゴソゴソと懐をかき回し、5枚の小判を取り出した。
「五両あります。これで気持ちよく遊べますかね」
「…」
 小判を見つめたまま、男は声も出ない。

「し、暫くお待ちください」
 慌てて店の中へ駆け戻った。入れ替わる様にして、上品そうな身なりの男が走りよって来る。

「失礼致しました。さあどうぞ。中へ、中へお入りくださいませ」
 揉み手をしながら文左衛門を店の中へと誘う。

 文左衛門はクルリと後ろを振り返ると、大勢の野次馬たちに向かって言った。

「どうもお騒がせ致しました。私は八丁堀で小さな材木屋を営んでおります紀伊国屋文左衛門と申します。今日はみなさまのお仲間に入れていただこうとこちらに参りましたが、何分初めての事でどうも要領が判りません。往来で金を出すなどと言う無粋な真似をしてしまいました。どうぞお笑いくださいませ。笑うついでと言ってはなんですが、今後何かの事でみなさまのお耳に入る事もあるかもしれません。紀伊国屋文左衛門と言う名を覚えておいていただきますよう。みなさま、今後ともどうぞよろしくお願い致します」



紀文花火  第九話  ---了---

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◆第十話◆




「私は江戸の材木商が大嫌いです!」
 それが松木新左衛門の第一声だった。弥蔵と文左衛門は思わず顔を見合わせた。

「山の事がまるで判っていない。めくら滅法に木を切り倒す。後がどうなるか、全く判っていない」
 新左衛門はいかにも腹立たしそうに言う。

「私は木曾にも行きました。飛騨にも。ひどいものでした。あちこちに禿山が出来てしまっている。大雨が降ると、山崩れが起きる。川に水が溢れる。あちこちで山が死んでいるのです。」
「ほ、本当ですか…」
 文左衛門は神妙な顔でそう言った。

「嘘など言ってなんになる!江戸の奴等は欲しいだけ木を切り倒す。山が死のうとどうなろうと知った事ではない。腐れ外道どもだ!」
「…」
 二人は黙り込んでしまった。大量の木材を買い込もうと、ここにやって来たのだ。

「…江戸はそれでも材木が不足しています」
 文左衛門はそれでもやっとそう言った。

「火事が起こると沢山の家が灰になります。大風が吹くと沢山の家が倒されます。大雨で川が氾濫すると、橋が流されます。木が足りないために家が足りません。木が高いために、貸家の家賃が高くなります。木が足りないために、橋を造り直せずにいる。船で渡すしかありません。江戸の人達は材木不足で難儀しております」
「寺や神社ばかり建てるからではないか!」
「そのとおりです。でも私たち庶民はそれを止める事など出来ません」
「あんた達はここに木を買いに来たのだろう」
「はい」
「聞くところによると、上野寛永寺の大規模な増設が近々行われると言う。あんた達はそれで大儲けしたいがために、ここに木を切りに来たのだろう。違うか!」
 新左衛門は怒りに燃えた目で二人を睨み付けた。

「そのとおりです」
 文左衛門はあっさりと認めた。そして新左衛門の目をしっかりと見つめ返しながら話しを続けた。

「私は紀州の山に育てられました。両親を早く亡くした私は有田の蜜柑山に育ててもらいました。誰よりも山に恩を感じているつもりです。山を殺したりなど、私は決してしません。たしかに私たちは金儲けの為に木を買いにまいりました。でも、それだけではありません。少なくとも私はそう思っています。忘れられ、見捨てられたこの山を、この宝の山を生かしにまいりました。木が江戸に届けば江戸の人達が助かります。山の人達が潤います。私だけでなく、沢山の人が豊かになります。私はそんな商いがしたいと思っています」
「…」
 新左衛門はマジマジと文左衛門の顔を見つめた。
 手を伸ばし湯飲みを持つと、ゴクリと一口飲んだ。

「よかろう…」
 きちんと座り直してから新左衛門が言った。

「と言っても、今の話を鵜呑みにしたわけではない。江戸の材木屋は信用ならん。だが、お世話になった藤兵衛さまの口添えとなれば、手を貸さぬわけにはいくまい。良かろう。明日早速山に連れて行ってやろう」



 翌朝、三人は大井川に沿って上流へと登って行った。
 どんどんと歩いて行く。やがて道は険しさを増す。目の前には堂々たる山々が広がる。

「すごいですねえ。素晴らしい山ですねえ」
 文左衛門は感嘆の声をあげる。

「そうだろう。こんな見事な山は、日本広しと言えども、そうどこにでもあるものではないぞ」
 新左衛門はちょっと得意げに胸を張り、どんどんと先を歩いて行く。文左衛門と弥蔵は遅れまいと後を追う。
「なかなかついて来るではないか」
「ずっと山で育ちましたから、私達二人は。でも…もう何年も江戸の暮らしです。正直きついです」
「ワッハッハ。まだまだこれからだぞ」
 新左衛門は上機嫌で笑った。

 もうずい分と奥に入って来たはずだった。

「ま、松木さま、まだですかあ」
 とうとう弥蔵が悲鳴をあげた。顔じゅう大汗をかいている。

「もうすぐだ。もう暫く歩けば山の者たちの小屋に着く」
「そ、そうですかあ。で、でも、そろそろお昼ですよお。ちょっと一休みして昼飯食べてからにしませんかあ」
「それもそうだな。よし、そこの岩にでも座って、昼メシと言う事にしよう」
「ふえええ、助かったあ」
 三人は山道の脇の大岩に腰をおろし、持って来た握り飯を食べた。

「ふあああ、生き返ったあ。こんなに歩いたのは久しぶりだあ。足腰弱くなってるなあ」
 弥蔵は腰に吊るした竹筒から水をグイッと飲んで、気持ち良さそうに空を見上げた。立ち上がると周囲を見回す。

「これ、ヒノキですよねえ。立派な木だなあ」
 堂々たるヒノキに歩み寄ると、木肌を掌で撫ぜ廻した。

「紀伊国屋さん」
 新左衛門が眼前に広がる山々を見つめたままで口を開く。

「私はね、この山で育ったんです。山肌にへばりついたような貧しい集落でした」
「そうなんですか」
「今は駿府で絹を商っています。運がよかったのです、私は。でも、山の人達は今も貧しいままです」
 その通りなのだろう。登ってきた途中で見た小さな集落は、どこも貧しい姿だった。

「私は今でもこの山が好きです。山の人達が大好きなのです。素朴で暖かい人ばかりです。江戸の狡賢い奴らにいいようにさせてたまるか!私が守らなければ…」
「松木さま」
 文左衛門は思いつめたような新左衛門の目を覗き込むようにして言った。

「私は決して裏切りません。この命を賭けて、私は約束を守ります」



 小料理屋の奥の座敷に4人の男が陣取っていた。

「お待ちい、熱燗が入ったよお」
 お春が徳利を4本運んで来る。

「おお、ありがてえ。最近夜はめっきり寒くなったからなあ。熱燗が一番だあ」
 大工の八兵衛がアチチと言いながら徳利を受け取る。

「それにしても、お春さんは大したもんですねえ。作戦は大成功だ」
 小間物売りの英二が杯を口に運びながら、上目使いでお春を見る。

「あたしは何にもしてませんよ」
 お春は顔を赤らめて手を振る。

「胡蝶太夫を五両で買った紀伊国屋文左衛門。江戸の人はみいんな知ってますよ」
「あたしが文さんに言ったのは、松田屋の胡蝶太夫をとにかく見ておいでって…。それだけなんですよ」
「そうなんですか。それにしても文さんて人は不思議な人だ。胡蝶太夫がぞっこんなんですよ」
「え?ほんとなのお」
「ほんとです。この間私がかんざしを届けに行った時に、チラッと文さんの話になりましてね。『その方なら私の知り合いですよ』って言ったら、もう大騒ぎ。『どこに住んでるの』『奥さんはいるの』『なぜあれっきり来てくれないの』って質問攻めです」
「そうなのかい。おかしいなあ。文さんにどうだったって根掘り葉掘り聞いたんだけどね、あの後。二人で酒を飲んで、子供の頃の話をしてただけなんだとさ。胡蝶太夫って、東北の生まれらしいぜ」
 熊吾郎がしきりに首を傾げる。

「ねえねえ、私にも一杯ちょうだいよ」
「え?いいのかい?まだ仕事なんじゃないの?」
「いいのよ。どうせ今夜は暇なんだから。ハイ、注いで」
 お春が空いた湯飲みを突き出す。松蔵が徳利で酒をなみなみと注いだ。

「ありがと、松蔵さん。ああおいしい」
 クイっと一息に飲み干す。

「それにしても、五両で太夫を買ったなんてのは、あんまりイキとは言えないんじゃないですか」
「そうなんだよ松さん。私もそれが気になってる」
 英二が松蔵に向かって頷く。

「とにかく名前だけは知れ渡ったわけだ。それはそれで良かった。ここらでもう一発仕掛けておく必要があるな」
「何かいい考えでもあるの?英二さん」
「ちょっとね。今度は私がやりましょう。胡蝶太夫にも手伝ってもらわないと…」
 英二の言葉に松蔵が言葉を添える。

「やっぱり文さんは不思議な人だ。面白半分で始めたはずなのに、みんな本気になってる」
「ちげえねえや」
 八兵衛がカラカラと笑った。



「荻原さま、ちょっとよろしいですか」
 山積みの書類に目を通していると、部下の小松が声をかけてきた。荻原重秀は不審顔で小松を見た。

「なんだ。何かあったのか」
「いえ、何かあったと言うわけではないのですが…。例の店、見てまいりました」
「例の店?」
「お忘れですか。八丁堀の紀伊国屋です」
 即座に重秀の胸が躍った。だが決して顔には出さなかった。

「そうか。どうだった」
「小さな店です。丸太やら竹やら。ほんの小さな商いです」
「そうか。文左衛門と言う男はどんな男だった」
「それが…。店にはおりませんでした」
「いなかった?」
「はい、ボヤッとした顔付きの男が一人、店番をしておりました。なんでも文左衛門は旅に出ているとか。私同様、文左衛門を見に来た者達が、ガッカリして帰って行きました」
「文左衛門を見にきた?」
「はい。重秀さまはご存知ないと思いますが、文左衛門と言う男、吉原で名を売りまして、今ではちょっとした有名人なのです」
「…」
 動き出した。紀伊国屋文左衛門が動き出している。どんな事になるのか。なにが起こると言うのか。いや、何も起こらないかもしれない。何もかわらないだろう、恐らく。
 だが、重治の胸はまだときめき続けている。

「河村瑞賢から何か連絡はあったか」
「いえ、何も…」
「そうか。まだ銀は見つからんか」
 急がなければ。金銀改鋳の圧力は日増しに強くなっている。寛永寺増設の計画は速度をあげて進んでいる。
「この国を壊してなるものか。何としても食い止めなければ」
 重秀は思わず唇をぎゅっとかみ締めていた。



紀文花火  第十話  ---了---

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