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紀文花火  文:林 克之




◆第十一話◆




「なんだい、この人盛りは?何か始まるのかい?」
 ほろ酔い顔で歩いてきた男が問い掛けた。

「なんだおめえ。知らねえのか?紀文が現れるんだとよ。何かやらかすらしいぜ。吉原中で噂になってる」
「紀文?」
「紀伊国屋だよ。あの胡蝶太夫がぞっこんの色男だ。どんな奴なのか見てやろうと、みんなこうして待ってるんだ」
 吉原には何本かの用水路が掘られていた。その一つに架かる小さな橋。その橋をギッシリと男達が埋め尽くしていた。

「へえ、そんなに有名なやつなのかい?」
「ばか野郎!紀文も知らねえんじゃ吉原を歩けねえぞお。寛永寺増設の入札で、奈良茂と勝負するんだとよ。こんな面白れえ話はめったにあるもんじゃねえ。どんな顔した奴なのか、見ない事に始まらねえ」
「そ、そうなのかあ。よし、俺も拝ませてもらおうじゃないの。その紀文って奴を」
 ほろ酔い男は慌てて橋の欄干にしがみついている男達の中に割り込んでいく。

「おっ、鐘が鳴ったぞ!いよいよだ」
 正午を告げる寺の鐘が遠くから聞こえてきた。男達は一層身を乗り出すように流れる水を覗き込む。

「な、なんだありゃあ!」
 誰かが声をあげた。

「な、なんだ?どうした?何か出たか?」
「あれだよ、あれ。ほらほら」
 ゆっくりとした流れに乗って、何か白い小さな物が橋に向かって流れてくるのが見えた。

「な、なんだなんだ」
 口々に言い合いながら、男達は指を差しては騒ぐ。

「…盃?」
 プカプカと流れて来る白い物体。それはどうやら大ぶりの盃のようだった。

「お!み、見ろ!船がやって来るぞ!」
 大声で男が指差した。
 水の上を滑るようにして、一艘の小船がものすごい速度で近づいて来る。

「おおお!」
「あれか!あいつが紀伊国屋か!」
 船には女が乗っていた。三十絡みの艶っぽい女だ。そしてもう一人。着流しを粋に着こなした男が見事に櫓を操っている。
 船はグングン近づいて来る。そして橋の手前あたりで女が何かを水に撒いた。

「おおおお!」
 歓声ともどよめきともつかない声が上がった。
 アッと言う間に船は橋をくぐり抜け、どんどんと下に向かって流れ去っていく。見る間に船は見えなくなってしまった。
 唖然として男達はその場に立ち尽くした。暫くは誰も動かない。声も上がらない。
 一人が水に飛び込んだ。水に浮かぶ無数の物体。その一つを手で掬い上げる。
 やはり盃だった。白い盃。大きさは様々のようだ。男は気がついた。盃の裏に何か書いている事を。

「紀伊国屋」
 小さくそう書かれていた。
 次々と男達が水に飛び込む。大声でわめきながら盃を奪い合う。

「紀文だ。紀文を見たぞお!」
「俺も見た!すっげえいい男だった。あれじゃ太夫が惚れるはずだ」
「盃をよこせえ。これを持って行きゃあどこの茶店でも大もて間違いなしだあ」
 バシャバシャと水しぶきを立てながら男達が盃を奪い合う。



「旦那さま、木曾から連絡が入りまして…」
 一番番頭が浮かぬ顔でオズオズと言った。

「なんですか。どんな話ですか」
 奈良屋茂左衛門は不機嫌そうな白い顔を向ける。

「山の者達が…」
 番頭は言い澱んでいる。

「何ですか。サッサとおっしゃい!」
「は、はい…。山の者達が、今回のような大量の木材は用意出来かねると…」
「何ですって!」
 奈良茂の目が吊り上がった。

「山が荒れてしまう。死んでしまうと言うのです」
「フン」
 鼻を鳴らす。

「駆け引きです。値を吊り上げようと、駆け引きをしているのです。山の者たちも最近はずるくなりました。二番番頭を行かせなさい。目の前に小判を積んでやりなさい」
「か、かしこまりました」
 一番番頭は恐れ入って頭を下げた。

「よそはどう動いていますか。情報は入っていますか」
「抜かりなく手は打ってございます。冬木屋さんは昨日飛騨に人を走らせました。飛騨屋さんとぶつかる覚悟のようです」
「喧嘩なら勝手にやらせておきなさい。とにかく情報だけは掴んでおくのです。何があってもすぐに手を打てるように。商いの大事はそこにあるのですよ」
「仰せのとおりです」
「紀伊国屋はどうですか?」
「紀伊国屋?」
 番頭はキョトンとした顔になる。

「あなた知らないのですか!紀伊国屋と言う若い材木商がこの私と勝負するんだと息巻いているそうです。吉原ではもっぱらの評判です。すぐに調べなさい。どんな男なのか。そして潰しなさい。火種は小さいうちに踏み消しておかなければいけません」
「か、かしこまりました」
 番頭は慌てて部屋を飛び出して行った。
 天井裏でネズミが動いた。

「こりゃあヤバイ事になるかも。評判になったのはいいが…」
 黒ずくめの松蔵が呟いた。

 源兵衛はユラユラと歩いていた。店を閉め、馴染みの店で一杯引っ掛けた帰りだった。
「全くもう。二人とも行ったっきりで帰って来やがらねえ。もうすぐ年が明けちまうってのに。どうすんだよ。俺一人留守番で、つまんねえじゃねえかよお」
 さっきから同じ事を何度も口の中で繰り返している。

「あれ?」
 後ろから誰かがついて来ている事に気が付き、源兵衛は振り返った。少し離れて五人の男が見えた。男達は足を速めると源兵衛を追い越し、行く手を塞ぐようにした。

「な、なんだいあんたら?」
「紀伊国屋さんのお人ですね」
「そ、そうだけど…」
「あんたとこの旦那は今どこにいるんです?」
「旦那?文さんの事か?文さんは旦那なんかじゃねえ。友達だあ」
「何をわけの判らねえ事を言ってやがんでえ。サッサと応えねえか!痛い目に遭いてえのか!」
 いかにもガラの悪そうな男がズイっと前に出て来て、源兵衛の胸座を掴んだ。

「な、何しやがるんだ!」
 源兵衛はカッと頭に血が昇って、男の手首を掴むと、力一杯捻り上げた。

「イテテテ!。この野郎」
 男がもう片方の手で殴り掛かって来た。ガンと鼻の頭を殴り付けられた。

「ウウ」
 思わず両手で鼻を押さえてうずくまる。バッと鼻血が出た。

「ほら、サッサと吐けよ!紀文は今どこにいるんだ!どこの山を狙ってやがるんだ!」
 五人の男がグルリと周りを取り囲む。

「く、クソオ!」
 源兵衛は大声で吠えると。拳を固めて一人に殴りかかった。

「グワ!」
 凄まじい一撃を喰らって、男が吹っ飛んだ。

「源兵衛さまを舐めるんじゃねえ。有田じゃちっとは名の知れた男なんだ、これでも!」
 タラタラと鼻血をこぼしながら、源兵衛は男達を睨み付ける。

「くそう、このガキ、舐めやがって!」
 男達が懐に手を入れた。

「ウッ」
 源兵衛はひるんだ。男達の手には光るものが握られている。

「こうなりゃ構うこたあねえ。一人一人潰しゃあいいんだ」
 ジワジワと囲みを縮めて来る。

「く、クソウ」
 源兵衛の額に脂汗が滲んだ。

「そこまでだ!」
 突然、鋭い声が飛んで来た。
 男達はギョッとして声の方を振り向いた。
 薄暗い中に、一人の男が立っていた。どうやら侍のようだ。腰に刀をぶら下げている。

「旦那。これはチンピラ同士のイザコザなんで。口挟まないでいただけませんか」
「そうはいかない。その男は私の知り合いなんだ」
「何い!」
「クソオ!やっちまえ!」
 ドスを構えて、男達が突進していく。

「グワア」
「グエエ」
「クワア」
 悲鳴もろともアッと言う間に全員が崩れ落ちた。

「大丈夫ですか、源兵衛さん」
 パチンと音を立てて刀を鞘に収めると、侍はゆっくりと近づいてきた。

「あっ、山際の旦那」
 山際弥三郎が頭を掻きながら言った。

「ごめんなさい。少し出て来るのが遅れました」



 鮮やかに琴の調べが流れる。鈴は今日も練習に余念がない。

「いいねえ。いつ聞いても鈴のお琴はいいねえ」
 藤兵衛は目を細めて孫娘の奏でる音色に聞き入っている。

「お正月には新しい曲を三曲披露するつもりなのよ」
 鈴が楽しそうにそう言った。

「そうかいそうかい。でも、残念だが今度の正月は祝宴は開けないかもしれないねえ」
「え?どうして?どうしてなの?」
 鈴はさも残念そうに藤兵衛に問い掛ける。

「文左衛門さん達が山へ行ったまま、まだ帰って来ないんだよ。このまま年を越して、冬を山で過ごすつもりなのかもしれない。山にはもう雪が積もっているはずだから…。降りて来られなくなってるのかもしれないねえ」
「…」
 鈴はぷっと頬をふくらませる。文左衛門の名前を聞くと機嫌が悪くなる。

「文さんが吉原に行った事を怒ってるのかい?」
「なんの事?どうして私が怒らなくっちゃいけないのよ。変な事言わないで、お爺ちゃん」
 鈴は口を尖らせて抗議する。

「ハハハ、これは悪かった。文さんが何をしようと鈴には関係ない事だよねえ」
「そうよ。私、あんな人、大嫌い!汚らわしいったらありゃしない!」
「まあまあ、そんなに酷く言うもんじゃないよ、鈴」
 藤兵衛は笑いを噛み殺しながら言った。

「ああいう所はねえ、初めての人にはお酒しか出さないもんなんだよ。三度四度通わないと『なじみ』にはなれないんだ。分さんは吉原に行ったのはたったの一度きりだそうだから…」
「そ、そうなの…」
 鈴は少し考えてから言った。

「でもやっぱり大嫌い。鈴は男の人なんて大嫌いです」



紀文花火  第十一話  ---了---

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◆第十二話◆




「真之介さん、そろそろ出かけようと思うのですが…」
 文左衛門は山際宅の玄関木戸を軽く叩いた。

「ちょっと待ってください、文さん。すぐ出ます」
 バタバタと物音がして、暫くすると木戸が開いた。真之介が顔を出す。

「よろしくお願い致します。偉そうな事を言ってもまだまだ子供ですので。迷惑を掛けるようなら叱ってやってくださいね」
 佳代が後ろからついて来る。その後ろに弥三郎が心配そうな顔で立っている。

「いえいえ、こちらこそ。私なんか、もう朝からドキドキです。真之介さんだけが頼りなんですよ。」
 文左衛門が恐縮して頭を下げる。

「真之介、忘れ物はありませんか?」 「大丈夫ですよ、母上。ほら、筆記用具はすべてここに揃えてあります」
 真之介はさもうるさそうに大きな風呂敷堤を指し示した。

「さあ文左衛門さん、行きましょう」
「はい。よろしくお願いします」
 山際夫婦が心配そうな顔で二人を見送る。

「暖かくなりましたねえ」
「そうですねえ。もう三月も半ばですからねえ。あっ、それ、私が持ちましょうか?」
「いいえ、これは私が持っています。弥蔵さんからは連絡がありましたか?」
「はい、雪が解け次第、いかだを流す実験をすると言ってます」
「そうですか。それが一番の難問ですね。まだ解決策が見えません」
 二人はどんどんと歩いて行く。

「今日はどちらですか?南ですか北ですか?」
「南町奉行所です。今月は南の当番です」
「それならゆっくり間に合いますね」
「ええ、少し早めに出てきました」

 今日はいよいよ寛永寺増設に関する絵図面、すなわち設計図の公開の日だった。
 南町奉行所にはすでに大勢の人が集まって来ていた。組合組織がないとはいえ、同業者ばかりである。あちこちで挨拶をかわしている。 文左衛門には顔見知りなどほとんどいなかった。むこうもこちらの事を知らないらしい。ただ、まだ幼い少年を引き連れてやってきた男を不審そうに見る者は多かった。

「これより絵図面の公開を致します。入札に参加する者は前へ。あとの者は後ろに下がりなさい。」
 役人が大声で告げた。ザワザワと人が動き始めた。文左衛門達は人をかき分ける様にして前へ前へと進んだ。どうやら入札に参加するのは10ほどの材木屋らしかった。ほとんどの者がただの見学らしかった。大小さまざまな白木の板が運び込まれて来た。それぞれに絵図面が墨で描かれている。

「おおお」
 どよめきが上がった。みな関係する仕事の者たちである。図面を見ただけで、どれほどの規模のものなのかが判るらしい。

「届け出した者達だけに、写し書きを許す!」
 真之介が立ち上がった。風呂敷包みを持って前に進み出る。文左衛門もその後に続いた。
 それぞれの材木屋から、専門の者が来ているらしい。ゾロゾロと前に出て来ると、設計図を写し取り始める。
 真之介はまず一番大きな白木板の前に正座した。じいっとそれを見ている。

「すごいですよこれは。文さん」
「そ、そうですか…」
「すごいです。想像していた以上です」
 風呂敷を解くと、紙と筆を取り出す。写し取りの作業を始める。もう何も言わなくなった。一心に作業を続ける。文左衛門は息を止めてその作業を見守るばかりだった。
 たっぷり5時間はかかっただろうか。

「さあ、終わりました。行きましょうか文さん」
 風呂敷をしっかりと結び直すと、真之介が立ち上がった。サッサと歩き始める。

「お、終わりましたか…。ご苦労さまでした」
 慌てて後を追う。

「文左衛門さん、お腹が空きました。何かご馳走してください」
「それはもう…。でもその写しを何とかしないと…。落としでもしたら大変です」
「大丈夫ですよ。私たちは用材を調達するだけです。建物を建てるわけではありません。ヒノキがどれくらい要るのか。どれほどの材木が必要なのか。それさえ判ればいいのです。私の頭の中にちゃんと入りました。もうこれは必要ないとも言える。他の材木屋さんたちは、案外早く帰ってしまったでしょう。私のように全部書き写した人など一人もいないはずです。要点だけ抑えて。サッサと帰ってしまったのです」
「そ、そうなんですか」
「あそこのうなぎ屋に入りましょう」
 真之介はサッサと歩き、サッサと暖簾をくぐってしまう。

「文左衛門さん、これはものすごい事になりますよ」
 向かいあって座ると、真之介は小声でそう言った。顔が興奮で赤く上気している。

「そ、そんなにすごいんですか…」
 いつも冷静な天才少年が目をギラギラとさせている。これはただ事ではない。

「すごいです。すご過ぎます」
「ど、どんなふうに…」
 文左衛門は思わず生ツバをゴクンと飲み込んだ。

「そうですね…ざっと七十万両。あなたの儲けは二十万両は下らないでしょう。もちろんこれは用材調達の費用のみの話です。全体でどれくらいかかるものなのか、それは私には判りません」
「…」
 文左衛門は声を失った。背筋がゾクっと冷たくなるのを感じた。



「旦那さま、これが入札に参加する者の名前です」
 番頭の差し出す紙を奈良屋左衛門は食い入るように見た。予想通りの顔がズラリと並んでいた。一人だけ納得出来ない名前が書かれている。

「…紀伊国屋は来ていましたか?」
「はい、来ておりました。十二、三の子供を連れて…」
「…どう言う事ですか?」
「その子供が絵図面を写し取っていたようです」
「どう言う事です。私には理解出来ません」
 奈良茂はすっかり困惑してしまう。

「紀伊国屋はどこから材木を調達しようとしているのです?」
「それが…。サッパリ判りません」
「河村瑞賢の所に出入りしていたと言う話を耳にしました。瑞賢がついているとなると、これは手強いかもしれません。素人です。素人が怖いのです。何をするか判らない。瑞賢は今どうしています?」
「ご公儀の命を受けて銀を探しに出ているようです。どうやら飛騨の山奥のようです」
「となると、紀伊国屋は飛騨から材木を運ぶつもりなのかもしれませんね」
「そうかもしれません…」
「見張らせなさい。何か気になります」
「かしこまりました」



「おや、文左衛門さん、よく来てくれましたねえ。さあさあ、お上がりなさい」
「ご無沙汰してしまいました。ちょっと上がらせていただきます」
「おおい鈴。文左衛門さんがおみえだよ」
 藤兵衛は奥に向かって声を掛けたが何の反応も返ってこなかった。

「おかしいなあ。いないわけはないんだが…。どうぞどうぞ、お上がりなさい」
 藤兵衛は嬉しそうに文左衛門を座敷に案内する。

「旅支度のようだが、また出かけるのですか?」
 向かい合って座って初めて藤兵衛は文左衛門の出で立ちに気がついたらしい。

「はい。弥蔵から連絡がありまして。いかだ流しに失敗したようです」
「…そうですか」
「想像はしていたのですが…。真之介さんがどうしても現場に行きたいと言います。私もぜひ行ってもらいたい」
「そうですか。いよいよ山場なのかもしれませんね」
「はい、どうしても乗り越えなければならない大きな山です」
「そうですか。お気をつけて。くれぐれも気をつけて行ってらっしゃい」
「ありがとうございます。実は…」
 文左衛門は一瞬口ごもったが、まっすぐ顔を上げて言った。

「旅に出る前にぜひ聞いていただきたい事があります」
「ほう、どう言うお話かな」
「今回の入札で見事私が勝つ事が出来たら」
文左衛門はキュッと唇を噛んで、まっすぐに言った。

「お鈴さんを私にいただけないでしょうか!」
 藤兵衛は一瞬怒ったような顔になった。しかしすぐにニッコリと笑った。

「鈴を嫁にもらいたいと言うのですか。それはとても嬉しい申し出です。でも、こればかりは私が決めるわけにも行きません」
 藤兵衛は奥の襖に向かって言った。

「おおい鈴。文左衛門さんがお前を嫁にもらいたいそうだ。どうする?」
 襖がサッと開いた。怒ったような顔で鈴が座っていた。

「嫌です!」
 文左衛門はガックリとうなだれた。やはり駄目だった。
 鈴は見えない目でシッカリと文左衛門を見据えて言った。

「入札の結果など私には関係ありません。私は今夜から文左衛門さんのお部屋で旅から帰って来るのを待ちます」



紀文花火  第十二話  ---了---

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◆第十三話◆




「これは…すごい…」
 山際真之介は眼前に展開する眺望に息を飲んだ。
 大井川は雪解け水を飲み込み、水量を増して音を立てて流れている。

「河口あたりはもっとすごいですよ。海の潮とぶつかって川底でうねっている」
 松木新左衛門が説明を加える。

「何とかなりそうですか?真之介さん」
 文左衛門が問う。

「判りません…。正直…難しいと思います…」
 真之介はそう言ったなり大井川を見つめ続ける。

「弥蔵さんはどこですか?いかだ流しの話をもう一度聞きたいのですが…」
 突然振り返ると真之介がそう言った。

「弥蔵…ですか?あれ?どこへ行ったのかな?」
「まだあそこでケンカしてますよ」
 新左衛門が指差す。言い争う二人の声が聞こえて来る。

「なんでお前までノコノコついて来やがった!」
「シツコイ野郎だな!なんで俺だけ留守番しなきゃあならねえんだよ!」
「店はどうすんだよ、店は!」
「だから言ってんだろ!松蔵さんに頼んで来たって!」
「なんでそんな事すんだよ!俺達の店だろうが!」
「やかましい!お前だけいい目しやがって!」
「なにがいい目だ!冬山がどんなに厳しいか、お前なんかに判るめえ!」
「ああ、判んねえなあ!俺はズーッと江戸でブラブラしておりましたからあ」
「な、なんだその言い草はあ!!」
 今にもつかみ合いそうな勢いだ。

「おおい!弥蔵!真之介さんがもう一度いかだ流しの事を聞きたいんだとさあ!」
 文左衛門の声に二人はこちらを振り向く。

「覚えてろよ。話はキッチリつけるからな!」
 そう言い捨てると弥蔵が走り寄って来る。源兵衛がベエっと舌を出している。

「この辺までは何の問題もなかったんですね」
 真之介が弥蔵を見上げながら尋ねる。

「そうなんだ。このもう少し上の方で一旦丸太を止めていかだを組んだんだ。そこまでは丸太一本づつ流してきたんだ」
「どれくらいのいかだでしたっけ?」
「丸太八本を組み合わせて、綱でしっかりまとめたんだよ。かなり頑丈にな。それに船頭が二人乗って…」
「水量はどうでしたか?」
「川の水ねえ?そうだなあ。今日と同じくらい…いや、もう少し少なかったかな…」
「判りました。話を続けてください」
「最初はすっごく順調だったんだよなあ。二人の船頭は舌を巻くくらいに上手にいかだを操って…」
 弥蔵が説明を続ける。

「でも…河口に近づくにつれて、なかなか思うように行かない様子で…。いかだがクルクル廻っちまったりして…。それで…」
「それで?」
「とうとう岸にぶつかっちゃったんだよなあ。ものすごい勢いで。二人の船頭は川に投げ出されて…。いかだはアッと言う間にバラバラになっちまった」
「丸太は?丸太はどうなりました?」
「そのまま流れて行っちまったよ。アッと言う間に…。海まで一気だ…」
 真之介は大きくコクリと頷いた。そしてジッと考え込んだ。
 文左衛門達は黙って真之介を見ているしかなかった。

「もう一度…」
 真之介が口を開いた。

「もう一度いかだを流してみたいのですが…」
「そ、そりゃあもう…。船頭達はすごく悔しがってて…。もう一度やらせてほしいと、ずっと言ってるんだ」
「判りました。明日にでも山の者に伝えましょう。もう一度河に丸太を流せと」
 新左衛門がコクリと頷く。

「河口を…。河口を見ておきたいのですが…」
「判りました。では、行きましょう。足場の悪い所を歩いていただくことになりますが…」
「オオイ!源兵衛!行くぞおお!サッサとしねえと置いてくぞお!」
 弥蔵が大声で呼んだ。
 ふてくされて座り込んでいた源兵衛が慌ててこちらに走ってきた。

「駿府?駿府ですか?」
 奈良屋茂左衛門がもう一度番頭に問い直す。

「はい、紀伊国屋は駿府の松木と言う男の所に入りました。絹商いの男です」
「…」
 奈良茂は黙って考え込んだ。

「一体何をするつもりなのでしょう。あなた、どう思います?」
「さあ…わたくしどもにはさっぱり…。でも、駿府となると…」
「大井川上流の山ですか…。そんなバカな…」
 奈良茂は苦笑して見せる。

「あそこは駄目です。私も何とか出来ないものかと随分調べたものです。学者連中にも金をバラ撒いて調査させました。でも、あの川はなんともなりません。あなたもよく知っているでしょう」
「はい、よく判っております。でも、相手は素人です。何とかなるように思い込んでいるのかもしれません」
「なるほど、それはありえますね…」
奈良茂が小さく頷く。

「引き続き見張らせなさい。この商い、何としても奈良屋が押さえます。先代を凌ぐ大商いになるかもしれません。どんな穴も許されません。他のところはどうです?気になるところはありますか?」
「やはり冬木屋でしょうか」
「飛騨ですか。そうですね。やはり最後は冬木屋さんとの一騎打ちになるのでしょうね。大丈夫ですか」
「お任せください。私の命に換えましても…」
「やはり最後に頼りになるのはあなたです。木曾の詰めはあなたがやりなさい。他の者ではどうにも心もとない」
「ありがとうございます。必ずや…」
 一番番頭は深々と頭を下げた。

「荻原さま!」
 入札予定業者の名前を見つめながら、むずかしい顔で黙り込んでいた荻原茂秀は、部下の声に顔を上げた。

「河村瑞賢から報告が届きました」
「何!瑞賢から!どんな報告だ!」
「銀が!銀が出たそうです!」
「出たか!ついにやりおったか!やってくれたか!」
 重秀は思わず立ち上がった。

「そうか、出たか。何とか…何とか凌げるかもしれん…」
 重秀はギュッと拳を握り締めた。

「後は…。後はヤツがどう動くかだ。何を変えてくれるかだ」
 紀伊国屋文左衛門。今どこで何をしている。お前は何をするんだ。何かしてくれ。何か新しい事を…。

「河村さま、少し休まれてはいかがです。銀も出た事ですし…」
 随行の役人が心配そうに言った。

「大丈夫。私は大丈夫です。採掘は進んでいますか?」
「心配いりません。夜も休まず掘り続けております」
「そうですか。掘ってください。どんどん江戸へ送ってください。待っている人がいます」
「判りました。人足達に発破を掛け直しましょう」
「そうしてください。江戸では銀を待っています」
 瑞賢は流れ出る汗を手拭いで拭いながら、江戸の方向を見た。

「文左衛門。私は勝ったぞ!次はお前の番だ。今何をしている。戦っているか!勝つために戦っているか!」



「真さん、大丈夫かなあ…」
 源兵衛が心配そうに言った。
 二度目のいかだ流しは失敗した。一度目と全く同じ結果だった。
 真之介はもう5日も部屋に籠もったきりだ。持参した地図を睨み続けている。食事もロクに取ってはいなかった。

「このままじゃあ体壊しちまうよ…」
「そうだな…。少し休んでもらわないと…」
 文左衛門も心配そうに頷く。

「しかし…大した少年ですねえ。あの真之介と言う人は…」
 松木新左衛門がしきりに感心する。

「当たり前だあ。真さんは天才なんだよ。正真正銘の大天才なんだ!」
「チッ、また始まった。源兵衛の真之介自慢がよお。でも確かに…。なんとかしてくれそうな気になっちまうんだよなあ」
「そうなんだよなあ。でも、このままではほんとに体を壊してしまう。何とか休んでもらわないと…」
 文左衛門が深刻な顔で言った。

「こうしましょう」
 新左衛門がポンと膝を打った。文左衛門達が注目する。

「もう少し行った所に小岩と言う港があります。ここはあの河村瑞賢が設計した港です。この港が出来たお陰で、江戸に船で米が運べるようになった。ここを見に行きましょう。気分転換になるはずです」
「それはいい。真之介さんもきっと興味を持つはずです。弁当でも持ってのんびり見学してきましょう。うん、これはいい」
「よし、そうとなったら、俺が真さんを口説き落としてくらあ」
 源兵衛が嬉しそうに真之介の部屋に向かった。
 翌朝、気乗りしないと言う顔の真之介を無理矢理外に連れ出した。

「判りました。でも、私はもう一度大井川の河口を見に行きたい。それからその何とかと言う港に廻れますか」
 落ち窪んだ目をしながら、真之介が言った。

「判りました。それだと中州を横断する事になりますが。まあのんびり一日かけて…。夜は小岩に留まればいい」
 真之介の体力が心配だったが、そうでも言わないと納得しそうになかった。
 大井川近くの宿を5人は出発した。川に沿って下り、河口を目ざす。
 一行は大井川河口の岸に立つ。相変わらず川は満々の水を湛えて流れていた。

「さあ、真さん、もういいだろ。行こうぜ行こうぜ」
深刻な顔で川を見つめ続ける真之介の袖を源兵衛が引っ張る。

「いい天気だなあ。すっかり春だなあ」
 文左衛門がわざと陽気な声を上げる。

「それにしても大した中州だなあ。川がでけえと中州もでけえや」
 弥蔵がぐるりと周囲を見渡す。広々とした荒地が続いている。

「用水路を掘ろうと言う話はなかったのですか…」
 だんまりを続けていた真之介がポツリとそう言った。

「用水路ですか」
 一行を先導して歩いていた新左衛門が振り向いて問い返す。

「そうです。用水路です。これだけの土地を荒地のままにしておくのは、いかにももったいない。大井川から水を引けば、田畑に耕す事が出来るのではありませんか」
「そのとおりです」
 新左衛門は真之介の脇について、歩きながら応える。

「さすが真之介さんだ。確かに用水路の話はこれまでに何度も出ました、でも、結局掘ると言う事にはなりませんでした」
「どうしてですか?」
「お金と時間がかかりすぎるからです。多い川の水を引くには土地の測量が必要です。水は高い所から低い所にしか流れませんからね。こうやって見ている限りは、まっ平のように見えますが、けっこう起伏があるんですよ。そして、掘るとなると人手が要ります。それだけの金と時間をかけてまで、ここを開拓する気は藩にはないんです。みんなが喜ぶならお金を出してもいいと言う方もいたのですが、私はやめるようにいいました。そんな価値はこの土地にはないと思ったからです」
「…なるほど」
 真之介は少しやつれた顔で頷く。

「そんな難しい話なんてしてないでさあ。ほらほら、あそこに花が咲いてるよ。きれいだなあ。ほらほらあそこにも。真さん、あれは何ていう名前の花?」
「さあ?私は花の名前は知りません」
 5人は歩き続けた。真之介の体調を気遣って、のんびりゆっくりと。 やがて前方にキラリと光るものが見えた。

「川?…ですか?」
 真之介が足を止める。

「そうです。でも心配いりません。小さな川ですから。ちゃんと橋も架かってます」
新左衛門がそう言っても、真之介は歩き出そうとしない。じっと前方を見つめている。

「どうしたんです。真之介さん」
 ただ事ではない様子に、文左衛門が真之介の顔を覗き込むようにして様子をうかがう。

「ないのです…川がないのです」
「えっ?」
 真之介は肌身離さずと言うふうにいつも持ち歩いている、丸めた紙を両手で広げる。

「ないのです。私の地図には、あの川がありません」
「えっ?どれどれ」
 新左衛門が横から地図を覗き込む。

「なるほど…。確かにありませんね。小さな川だから書き忘れたんでしょうね。多い川が大き過ぎますからね」
 真之介はその場にしゃがみこむと地図を地面に広げた。

「松木さま、この川はどのように流れていますか?」
「えっ?ああ、それはですねえ」
 新左衛門も腰を落として、指で地図の上をなぞって見せる。

「おおよそですが、こんな風に流れてます。このあたりで海に…」
 真之介は新左衛門の描いた架空の線を頭に染み込ませるように見つめる。

「港は…。小岩港はどのあたりですか?」
「えっ?ああ、港はこのあたりです」
 人差し指でその場所を指し示す。

「…」
 真之介は黙って地図を見つめ続ける。
 文左衛門たちは心配そうにただ立ち尽くすばかり。
 突然真之介が立ち上がった。ものすごい勢いで川に向かって走り始める。

「あっ、真之介さん」
「どうしたんだ真さん!何があったんだ」
 慌てて後を追いかける。
 ハアハアと息を切らせながら、真之介が岸に立って、ジッと川面を見つめている。穏やかな水の流れ。
 4人は心配顔でその後ろにつっ立ったままだ。
 我慢出来ずに文左衛門が声をかけようとした時、クルリと真之介が振り返った。

「文左衛門さん。見つけました」
 さわやかな顔だった。

「えっ」
「見つけたんですよ。江戸に続く道を!勝利に続く道を!」



紀文花火  第十三話  ---了---

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◆第十四話◆




 畳の上に地図が広げられていた。墨で忘れられた川がクッキリと書き込まれていた。

「ここに用水路を掘ります。いや、用水路と言うより運河ですね」
 真之介が指で二つの川をつないで見せる。

「な、なるほど…」
 文左衛門が地図を覗き込みながら大きく頷く。

「山から切り出された材木は川に流されます」
 真之介が大井川の上流を指し示す。

「材木はこう流れて…」
 指が川を下っていく。

「このあたりで一旦貯められます。これは可能ですよね、松木さま」
「大丈夫。そのあたりは流れは緩やかです」
 新左衛門が大きく頷く。

「このあたりから運河に入ります。材木はゆっくりとこう流れます」
 指が中洲を横断していく。書き加えられた川に到達する。

「川を下って海に入ります。このあたりで貯められますか」
「大丈夫」
 新左衛門が頷く。

「小船で一本づつ小岩に引っ張ります」
 指が河口から港に向かう。

「そして…」
 真之介は地図から指を離すと背筋を伸ばし、皆の顔を見回しながら言った。

「港から船に積み込まれ、江戸に運ばれます」
 暫く誰も言葉を出さなかった。黙ってただ座っていた。

「真之介さん、完璧です」
 文左衛門が身を乗り出すようにしてそう言った。

「すげえや真さん。やっぱり真さんは天才だ」
「悔しいけど俺もそう思うぜ」
 真之介はニッコリと笑って見せた。

「私も素晴らしいとは思う。だが、今の話は地図の上での事…」
 新左衛門が慎重に言葉を吐いた。

「そうです。松木さまの言うとおりです。やってみなければ判りません。まず、運河を掘る必要があります。これが出来ない事には話しになりません。松木さま、これは可能ですか」
 真之介はまっすぐに新左衛門を見る。

「結論から言いましょう。可能です」
 新左衛門の言葉に全員の顔がパッと明るくなった。

「藩に申請を出しましょう。江戸の材木屋が出したのではなかなか通らないでしょう」
「では松木さまが…」
 文左衛門が問う。

「私でもいいのですが、もっと適任がいるのです。高橋さまと言うお方です。以前から中洲の開拓を強く主張されてきました。高橋さまからの申請の方が藩の許可も早い。藩の中枢とも強い繋がりを持っていらっしゃいます」
「それはありがたい。来年早々には入札と聞きます。早ければ早いほどいい。もしこの方法がうまくいかなかったら、他の方法を考えなければなりません。許可はすぐ下りそうですか」
 真之介が問う。

「それはすぐに出るでしょう。藩としても損な話ではない。来月初めには測量が始められると思います」
「そうですか。問題は測量ですね。これは案外難しい作業になるかもしれません。出来るだけ短い期間で、最良の水路を探さなければなりません」
「そんな難しい作業なんですか?」
 文左衛門が真之介に問い掛ける。

「難しいと言うのは少し当たらないかもしれません。高い所から低い所へ。その順路を探る作業なのです。実際には単純な作業の繰り返しです。具体的に言うと」
 真之介は腕を一杯に広げて見せた。

「長い竹を用意します。節は全部くり貫いて。長い竹の筒を使うんです」
 文左衛門たちは小さく頷きながら説明を聞いた。

「地面に竹を横たえて、水を流します。進む方向が低いなら、水は流れます。判りますか?」
「うん、わかるよ真さん。それくらいなら俺にも出来そうだ」
 源兵衛が大きく頷く。

「進む方向を決めたら杭を打ち込みます。この作業をくりかえしていくわけです。中洲をうまく横断出来るまで」
「なるほどお。そんなに難しくなさそうじゃねえか。俺達だけでも出来そうだ」
 弥蔵が言った。

「実際やってみると、そう簡単な事ではないはずです。途中まで進んでも、そこから先に低い所が見つからなければ、またやり直しです。
長い材木を流すのですから、あまり曲がりくねった水路では役に立ちません」
「なるほど…。これは大変な根比べになるかもしれませんね…」
 文左衛門が神妙な顔で頷く。

「熊吾郎さんに頼もうぜ」
 源兵衛が大きな声で言った。

「何か役に立ちそうな事があったら言ってくれって。江戸を出る時そう言われたんだ」
「それはいい。時間が惜しいのです。人海戦術で乗り切る以外にないかもしれません」
 真之介がポンと膝を叩いた。

「よし!これで行きましょう。でも、人に動いてもらってもいまの私にはお金がありません。すべては出世払いと言う事になります」
 文左衛門の言葉に、新左衛門が笑いながら言った。

「そんな事は初めからみんな判ってるさ。よし、今夜は前祝いと言うことで、大いに騒ごう。代金は全部紀伊国屋の出世払いだ!」



「文のヤツから何か連絡あったかい?」
 お春が心配そうに尋ねる。

「いいえ何にも。それよりお春さん、今からアジを焼こうと思うんですけど、ちょっと見ててくれません?」
 七輪に火を熾しながら、鈴はニコニコと応えた。

「そりゃいいけどさあ。文の野郎、一体どこで何してるんだろうねえ。こんな可愛いお嫁さんを一人でほっといてさあ」
「私たち、まだ式も挙げてないんですよ。文さん、すぐに旅に出ちゃったし」
「式なんて関係ないよ。お鈴ちゃんはれっきとした紀伊国屋の女将さんだよ」
「キャア、恥ずかしい」
「ほらほら、そんなにしちゃあ火傷するよお」
「熱う」
「こりゃ まだまだ修行が足りないねえ。よし、このお春さんがミッチリ仕込んでやるからねえ」
「よろしくお願いしまあす」
 長屋前の路上で煙をモクモク立てながら、二人の女がコロコロと笑っている。

「おや?」
 お春が怪訝そうに通りの向こうを見る。

「どうしたの?お春さん」
「いえね。駕籠がこっちにやって来るんだよ」
「駕籠ですか?」
「そう。すっごく立派な駕籠」
 そう言っている間にも駕籠はどんどんと近づいて来て、やがて長屋前に止まった。

「ここは『九軒長屋』と言うところですか」
 立派な斑点を着た駕籠かきがお春に問い掛けてきた。

「そうだけど…」
「それはありがたい。旦那さま、やっと見つかりました。ここです。ここに間違いございません」
「そうですか。ご苦労さまでした」
 駕籠から一人の男が姿を現した。

「す、杉山和一い!」
 お春が大声で男を指差した。

「これはこれは、小料理屋のお春さん。どうやら間違いないようですね」
 和一がニコニコと近づいて来る。

「あっ、旦那様!危のうございます」
 駕籠かき二人が慌てて走り寄る。

「文さんは?文左衛門さんはいらっしゃいますか?尋ねて来てくれるものとずっと楽しみに待っていたのですが、いつまでたっても来てくれない。人に頼んで八方さがしたのですが、なかなか見つかりませんでした」
「文左衛門は、ただいま旅に出ております」
「旅に?それは残念。いつお帰りですか?」
「…判りません」
「そうですか。それはそれは…。ところで、今のお声の方はどなたでしょう」
 和一の言葉に鈴は顔を染めながら応えた。

「文左衛門の…家内でございます。主人は留守にしておりますが、もしよかったら、どうぞお茶でも…」
「ほう…」
 和一はさも嬉しそうに鈴に顔を向ける。

「どうやら文さん、まっすぐに生きているようですねえ」



「よお文さん。元気そうじゃねえかあ」
「熊吾郎さん、遠い所ありがとうございます」
「いいって事よ。話はだいたい聞いてる。さっそく俺達も作業に加わるぜ」
 20人ほどの男達を引き連れて、江戸から熊吾郎がやって来た。

「それより、寝泊り出来るように小屋を造ってよ。いつまでも宿に泊まってるわけにもいかねえしよう」
「おっ源兵衛。そこにいたのかあ。ちゃんと働いてるかあ。足引っ張ってんじゃねえのかあ」
「もう八日もやってんだぜえ。いくら俺でも段取り覚えちまったよ」
 源兵衛が3メートルもある長い竹を両手で抱えながら言った。

「着いたばかりなんでしょ。今日は宿でゆっくりしてください」
「そうそう、酒でも飲んで、風呂にでも入って。明日から辛気くせえ仕事が待ってんだからよお」
 文左衛門の言葉に弥蔵が付け加える。

「そ、そうかい。じゃあ遠慮なくそうさせてもらいますよ。やいてめえら!この方があの有名な紀伊国屋文左衛門さまだ!挨拶しねえか」
「よろしくお願い致します」
 若い男達が一斉に頭を下げる。

「熊吾郎さん、やめてくださいよお。いじめないでくださいよお」
 広い中洲に男達の笑い声がこだました。



「なんですって?紀伊国屋の姿を見失った!」
 奈良屋繁左衛門の真っ白な顔が歪んだ。

「申し訳ございません。てっきり駿府の松木の家に腰を据えたものと…」
「いないのですか?」
「はい…。松木と言う男は戻って来ているようですが…」
「宿場はどうです。東海道のどこかの宿場に泊り込んではいませんか」
「それが…どこにも…。ずいぶん範囲を広げて探させたのですが…」
 奈良茂は腕組みして考え込んだ。

「山はどうでした。誰か行かせたのでしょう」
「はい。でも…」
「金は積んで見せたんでしょうね」
「はい。でも…。いくらお金を積まれようと、江戸の材木屋には一本の木も売るつもりはないと…。その一点張りなのだそうで…」
 奈良茂はまた考え込んだ。

「なにか変わった動きはないのですか。大井川のあたりに」
「特にこれと言って…。強いて上げるとしたら…」
「何かあるのですか?」
「大井川の中州に用水路を造るのだそうです。近くの百姓達が作業に出ておるようです」
「用水路?」
「はい、荒地を新田にするのだと、ずいぶん張り切っているそうです」
 また考え込む。
 いくら考えてもどうにも判らない。

「判りました。」
 何も判らないまま、奈良茂は言った。

「いつまでもこんな事に振り回されているわけにも行きません。入札までいよいよ四ヶ月を切りました。奈良屋としての取り組みを仕上げなければなりません。やらなければならない事はいくらでもあります。紀伊国屋は放っておきなさい。やはり冬木屋が相手です。ここに絞りましょう。あなたは明日にでも木曾に向かいなさい。大量の木材を江戸に運ばなければなりません。人手が必要です。木ばかりではなく、人も抑えておく必要があります。やりましょう。奈良屋のすべてをかけて、この大商いを勝ち取りましょう」
「ハハア」



「真之介さあん!こっちです!こっちこっち」
「文左衛門さん、ごめんなさい。遅くなってしまいました」
 真之介が人込みを掻き分けるようにしてこちらに向かっている。その後ろには山際夫婦が続いていた。

「真さん、遅いじゃないかよお」
「源兵衛さん、ごめんごめん。母上の支度に手間どって、宿を出るのが遅くなっちゃったんですよ」
「これ、真之介!余計な事を言うんじゃありません」
 佳代が後ろから真之介の襟首を引っ張る。

「文さん、おめでとう。よく頑張ったねえ」
 弥三郎がさも嬉しそうに文左衛門に握手を求める。

「ありがとうございます、山際さま。真之介さんのお陰なんですよ。本当にすごい人です。真之介さんは。ありがとうございます」
 文左衛門は弥三郎の手を力一杯握り返しながら丁寧にお辞儀した。

「父上。まだ喜ぶのは早過ぎます。運河に水が流れて。そして材木が見事に通るのを見届けるまでは…」
 天才少年はどこまでも冷静だった。
「ついさっき完成を祝う式典が終わったばかりです。みんな正午の鐘が鳴るのを待っているところなんですよ」
「そうですか。それにしてもすごい顔になっちゃいましたねえ」
 弥三郎はニコニコしながら文左衛門の顔を見る。

「そ、そんなにひどいですか?」
「真っ黒ですよ。とても江戸の材木屋の顔には見えません」
「そうなんですよ。土方仕事など人足達に任せて、宿でゆっくり待つようにとずいぶん言ったんですよ、私は。あっ、はじめまして。松木新左衛門と申します」
「山際弥三郎です。息子がずいぶんお世話になったようで」
「真之介さんのお父上ですよね。すごいですね、息子さんは」
「あんまり褒めないでやってください。すぐ天狗になってしまいます」
 中洲にはたくさんの人が詰め掛けていた。
 大井川運河の入り口付近に。そして運河の出口付近。そしてその中間点。三か所に大きな人の塊が出来ていた。ここは中間地点の式典会場だった。

「おっ、鐘が鳴ったぞ!」
 誰かが大声でそう言った。

 遠くから正午を告げる寺の鐘が聞こえてきた。
運河の入り口と出口で同時に人が動いた。
 数十人の人足が堀に飛び込んだ。残り1メートルほどの土の壁を一気に掘り除いて行く。アッと言う間に板一枚で水が遮られる状態となった。

「よおし!板を外せえ!」
 人足頭の熊五郎が大声で号令する。
 仕切り板が外された。待ち切れないようにして、大井川の水が運河に流れ込んだ。

「水が行くぞおお!」
 誰かが叫びながら水と並んで走り始めた。後から後から人が続く。

「来たぞお!水が来たぞお!」
悲鳴のような声が上がった。
 文左衛門たちは一斉にその方向に目をこらした。

「き、来た来た。真さん!来たよ!水が来たよ!」
 源兵衛があらん限りの声で叫んだ。
 アッと言う間に流れは目の前を通り過ぎていく。

「行けえ!ドンドン行けえ!」
 叫びながら源兵衛が水を追いかけて走り出した。
 真之介が走った。文左衛門が、弥蔵が走った。

「行け行けえ。江戸まで流れろお!」
 腕をグルグル振り回し、大声で叫びながら力一杯走った。

「あっ!」
 真之介が石につまずいて前のめりに倒れた。

「し、真之介さん!大丈夫ですか!」
 文左衛門が駆け寄った。

「大丈夫か。ケガはねえか」
 弥蔵が心配そうに覗き込む。
真之介は立ち上がらない。両手をペタンとついて、四つん這いのままだ。
 やがてうつむいたままの顔からポタポタと水がしたたり落ちる。地面についたままの両手の甲を濡らす。

「涙?…う、嘘だろ…」
弥蔵がうろたえた目で立ち尽くす。

「真さん、大丈夫かあ」
 前を走っていた源兵衛が慌てて真之介の所に駆け戻ってきた。

「大丈夫かい真さん。そんなに痛いのかい。どこか強くぶつけたのかい?」
 真之介は何も応えない。ただポタポタと手の甲を濡らし続けるだけだ。

「…文さん…文左衛門さん…」
「何ですか真之介さん」
 真之介がゆっくりと顔を上げる。

「やりましたね。勝ちましたね。勝てます。これで奈良茂に勝てます。おめでとう。本当におめでとうございます」
 両の目から大粒の涙が絶え間なくこぼれ続けていた。

「…ありがとう…ありがとうございます」
 文左衛門の目からどっと涙が溢れた。

「勝った!俺達は勝ったんだ!そうだよなあ弥蔵!」
「ああ、勝ったぞ。俺達は勝ったぞ。源兵衛、もっと泣いたっていいんだぞお!」
弥蔵が泣きながら源兵衛の肩をバンバンと叩いた。
 傍らを水が涛々と流れ続けていた。



紀文花火  第十四話  ---了---

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◆第十五話◆




「かんぱあい!」
「いやあ、久しぶりい」
「かんぱあい!」
 料亭「春」の二階大広間に歓声が上がる。

「ほんと、こうやって全員が顔揃えるの、すっげえ久しぶりじゃねえの」
 大工頭の八兵衛が上機嫌で杯を空ける。

「申し訳ない。いつも私がバタバタしてるもんで…」
「そりゃしょうがないよ。天下の紀文だもの。紀文が休んじゃ江戸が動かないよ。さあ、一杯飲みな」
「あ、どうも…。すまなかったねえ、お春さん。忙しいだろうに、貸切にしちまって」
「なに言ってんの。そんな事言ってると怒るよ」
 お春はニコニコしながら文左衛門の頭をポンと叩いた。

「天下の紀文の頭叩けるのはお春さんくらいのもんだあ」
 熊吾郎がケラケラと笑う。

「私だって叩けますよ」
 鈴の言葉にどっと笑いが起こる。

「それにしても佳代さまはいつまでもお綺麗ですねえ」
「まあ源兵衛さん。こんなお婆さん掴まえて」
「源兵衛は昔から佳代さんに憧れてたんですよ」
「コラ弥蔵!余計な事言うんじゃねえ!」
 また大笑いが上がる。

「いやあ、ほんと。嬉しい嬉しい」
「でもよお。藤兵衛さんがいないのが寂しいよなあ」
「バカ!つまんない事言うんじゃないよ」
 お春が源兵衛を睨み付ける。

「いいんですよ、お春さん。お爺ちゃんが死んで、もう3年になります。もう泣いたりしませんから」
 鈴がニコニコと言う。

「そういやあ、瑞賢さまはまだまだ元気なんだってねえ」
 英二が真之介に向かっていう。

「はい、お元気ですよ。実は明日からまた上方なんです。今度は私もお供します」
「へえ、もう九十近いんじゃねえのお?化けもんだね、あの人は。それにしても、頑張ってるんだ、天才少年も」
「少年はそろそろ勘弁してくださいよ、弥蔵さん。もう三十を超えてるんですから」
「へ?もうそんなになってんの?」
「そうよ。お子さんだって二人もいるんだからね。ほら、一杯」
 お春が徳利を持って弥蔵の横に座る。

「こりゃどうも。そうかなあ。もうそんなになってるんだあ。こりゃ、年くっちまってるわけだ、俺達も」
「そうですよ。私もそろそろトンボが切れなくなりました」
 松蔵が苦笑いしながらいう。

「山際の旦那はまだ剣術教えてるんですかい」
「ええ、子供相手ですがね」
「この人には剣術しかありませんから」
 ワイワイと賑やかに話が弾む。

「おかみさん」
 仲居頭がお春にボソボソと何かを耳打ちする。

「え?」
 お春が驚いた顔をする。

「どうしたの?お春さん」
 文左衛門が怪訝な顔で問う。

「奈良茂から差し入れなんだとさ」
 お春の言葉に全員が顔を見合わせる。

「ほお、奈良茂がねえ」
「おもしれえじゃねえか。何持って来やがったんだ。見せてもらおうじゃねえか」
「毒饅頭でも食わされたらどうするう」
 口々に勝手な事を言い合っている。

「いただきましょう。お春さん、いただいてください」
「あいよ」
 お春が立ち上がり、仲居頭と階下におりていく。
 暫くすると、奈良屋の斑点を着た四人の男が大きな籠を抱えて広間に入って来た。

「蜜柑…」
 広間の真中に大籠をおろす。籠には山盛りに蜜柑が載せられていた。

「この度は、誠におめでとうございます」
 四人の男が正座して、その一人が口上を述べた。

「本日は鈴さまのお誕生日とうかがっております」
「そ、そうなのお?」
 源兵衛が思わず声をあげる。お春がギュッと後ろからつねり上げる。

「奈良屋茂左衛門からささやかですが、お祝いをさせていただきたく」
「有田の蜜柑…ですか」
 文左衛門が問う。

「今朝入りました一番船を奈良屋が押さえました」
「そうですか。ありがとうございます。奈良屋さまにくれぐれもお伝えください。紀伊国屋が大そう喜んでいたと」
 男達は深々とお辞儀をすると、広間から消えた。

「さすが奈良茂だねえ。粋な事するじゃねえの」
 八兵衛が仕切りに感心する。

「早速いただこうじゃありませんか」
 お春が仲居たちに指示して蜜柑をみなに配った。

「おっ、こりゃうめえや。さすが有田蜜柑だ」
 熊吾郎が言う。

「うん、マアマアってとこだな」
 弥蔵が言う。

「おいしい事はおいしいけど」
 鈴が懐かしく思い出すような顔で言う。

「私はやっぱり弥蔵さん達が運んで来た蜜柑の方がおいしかったような気がするなあ」
「嬉しいねえ。嬉しい事言ってくれるねえ。やっぱりお鈴ちゃんはいつまでもかわいいやあ」
「バカだねえ。いつまでもお鈴ちゃんなんて言ってるんじゃないよ。もうけっこうな年なんだから。ねえお鈴ちゃん」
「お春さんのほうがひどおい。私、そんなに年寄りじゃありません。今でもお鈴ちゃんですよおだ」
「ねえねえ、今日は誕生日だったの?いくつになったの?」
「だまってろ!源兵衛!」
「い、いてええ。杯なんか投げちゃだめだよお、お鈴ちゃん」
 またどっと笑う。

「それにしても、あれからもう二十年も経ったんだなあ」
 蜜柑を食べながら文左衛門がしみじみと言った。

「ほんとだなあ。なんだか夢のようだなあ」
 弥蔵もしみじみ言った。二人の顔を見て、源兵衛までしみじみした顔になった。

「さあさあ、そんな顔してるんじゃないよ。つまんないじゃないか。お芳。三味線持って来ておくれ」
「はい」
 仲居頭が大急ぎで三味線を持って来た。

「さあさあ、賑やかにまいりましょう。一番手は誰だい」
「よおし、俺が踊る」
「また腹踊りかい」
 広間がワアッと賑やかになった。熊吾郎が歌う。松蔵がとんぼを切る。真之介が照れながら詩吟を唸る。

 宴がたけなわになった頃、階段をけたたましく駆け上がって来る音が響いた。

「旦那!紀文の旦那!てえへんだあ!」
 紀伊国屋の若い者たち五、六人が血相を変えて広間に転がり込んできた。

「どうしました。何かあったんですか」
 その様子にただ事でない事を直感した文左衛門がさっと立ち上がって男達を見た。

「か、火事です!深川のあたりが大火事です」
 松蔵が立ち上がって、深川方向の窓を開けた。
 真っ暗な空に赤々と火柱が映えて見えた。

「…こりゃでけえ…。こんな離れた所から…」
 全員が杯を投げ出し、窓からそれを見た。サアッと酔いが醒めて行くのが判った。

「とにかく行きましょう。お春さん、鈴の事をお願い出来ますか」
「あいよ」
「私は先に走ります」
 松蔵がだっと広間を飛び出した。アッと言う間に階段を駆け下りて行ってしまった。



「旦那!駄目です!これ以上先は危なくて近づけません」
 文左衛門達の前を木場の職人達が塞いだ。

「みなさん、怪我はありませんか。大丈夫ですか」
「ありがとうございます。でも…木場は恐らく全滅です。お屋敷も…」
「そんな事はいいんです。しかたのない事です。けが人はいませんか。みんな無事ですか」
「そ、それが…木場頭が…」
「え?安吉さんが?」
「ひどい火傷を負っちまって…」
「どこです。今どこにいるんですか」
 男達に案内されて、文左衛門は近くの大工の家に入った。部屋には布団が敷かれ、安吉がそこに横たわっていた。

「安さん…」
「おお…紀文の旦那…」
 安吉は弱々しく笑った。

「医者は?医者は呼んだんですか!」
「はい、もうすぐ来ると思います」
 文左衛門は布団の横に静かに正座した。

「…旦那…すまねえ…」
「…何を言ってるんです…」
「木場を守れなかった…旦那の木場を守れなかった…」
 安吉の目から涙がこぼれた。

「木場なんてどうでもいいんだ。安さん、もうすぐお医者がきます。もう少しの辛抱です」
「…医者かあ…嫌だなあ…俺は子供のころから医者が大っ嫌いなんですよ…」
 口元だけで小さく笑ってみせる。

「…旦那…」 「な、なんですか、安さん」
 声が小さいので文左衛門は顔をぐっと近づける。

「嬉しかったなあ…」
「なにがですか。なにが嬉しかったんですか」
「旦那と仕事が出来て…俺、嬉しかった…ほんとに嬉しかった…」
「やりましょう。また一緒にやりましょう」
 安吉はまたニッコリと笑う。そして振り絞るように言った。

「旦那…紀文の旦那…ありがと…」
ガクリと横を向くと、もう何も言わなくなった。

「…」
 文左衛門は膝においた両の拳を力の限り握り緊めた。だが、流れ落ちる涙を止める事は出来なかった。



 火事は深川一帯を嘗め尽くし、夜明け前に鋒を収めた。
 文左衛門たちは一晩中走り回った。焼け出された人たち、怪我をした人達を励まして回った。
 一段落すると、紀伊国屋の者達が自然と寺の前に集まって来ていた。

「文さあん!」
 お春が大声を張り上げながらやって来る。

「ほらあ、差し入れだよお。握り飯をありったけ握ってきたよお」
「ありがたい。腹がペコペコだ。あれ?お鈴も来たのかい」
「当たり前でしょ。私が来なきゃ、始まらないでしょ」
 仲居の肩を借りながら、鈴が大風呂敷をぶら下げて走って来る。

「さあさあ、どんどん食べな。まだまだ後から届くからね」
 男達は地面にしゃがみこんで握り飯にむしゃぶりついた。

「こんな時にすまないんだが…みんなに聞いてもらいたい事がある…」
 文左衛門が口を開いた。
 口をモグモグ動かしながら、男達が注目する。

「紀伊国屋を閉めようと思う」
「えっ!」
 驚きの声が上がる。
 だが、誰も何も聞こうとはしなかった。暫くの間沈黙が続いた。

「判ったよ文。お前がそう決めたならそれが一番いい」
 弥蔵が静かにそう言った。

「俺もそろそろ飽きて来てたんだよなあ。うどん屋でもやりてえと思ってたんだ。ほんとだぜ」
 源兵衛も静かにそう言う。

「すまない、二人とも。他の者も本当にすまない。先行きの事はちゃんと考える。借金してでも…。路頭に迷わすような事は絶対にしない。それは約束する。紀文の最後の仕事だ」
「けっ、水くせえ事言うんじゃねえよ、旦那!俺達は紀伊国屋の名前背中に背負って生きて来たんだぜえ。見くびってもらっちゃ困るぜえ」
「そうだそうだ」
「ほっぽっといてくんな」
 口々に男達が言う。

「す、すまないみんな。…ありがとう」
 文左衛門がまたポロポロと泣いた。

「天下の紀文がメソメソしてるんじゃないよ。ドオンと胸をはんな!」
 鈴が文左衛門の頭を力一杯引っぱ叩いた。

「なあ鈴」
 文左衛門が呟くように言った。

「なあに?」
 文左衛門の左腕にからみつくようにして歩く鈴がニッコリと笑う。

「夢みたいだったなあ」
 二人は夜明け前の町を歩いていた。あの九軒長屋に向かって。

「先に行って掃除しといてやるから、後からゆっくりおいで。今日からまたあの長屋に逆戻りだよ」
 お春がそう言ってくれた。

「そうねえ。ほんとに夢みたいな毎日だったわねえ」
「楽しかったか?幸せだったか?」
「ええ。あなたはどうだったの?」
「そりゃあ楽しかったさ。いろんな人達と出会えた。みんないい人ばかりだった」
「ふふ」
 鈴が小さく笑った。

「どうした?何かおかしい事言ったかな、俺」
「ごめんごめん。そうじゃないのよ」
 鈴がこみ上げて来る笑いを噛み殺しながら応える。

「とってもくだらない事考えちゃった」
「くだらない事?」
 鈴がこっくりと頷く。

「私達が死んで…百年くらいたって…。そのころの人達ってきっとあなたの事をこう呼ぶでしょうね。元禄の夜空に咲いた花火。パッと咲いてパッと散ったとてつもない成金野郎」
「成金野郎はひでえなあ」
 文左衛門は思わず苦笑する。

「いいじゃないの。誰がどんなふうに言ったって。あなたの事は私が一番よく知ってる。これからもちゃんと見ててあげるから」
「よろしくお願い致します」
 二人はクスクスと声を殺して笑う。

「おっ、鈴。東の空が明るくなって来たぞ」
「へえ、もう朝なんだあ」
「江戸の夜明けをこんな風にちゃんと見たのは初めてかもしれないなあ。けっこう綺麗なもんだなあ」
「そう。得しちゃったね」
 二人はのんびりゆっくりと歩き続ける。まるで何かをかみ締めるようにして。
 やがてやわらかな朝の光が二人を包み込んでいく。
 江戸の町にまた今日も朝がやってきた。



紀文花火  --- 完 ---

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