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長編小説のページ5(第十八話から第二十二話)

◆第十八話  怨霊たちの怨唄! ◆

 何処までも続く闇の中、キラはナナとゴールズを引きずったと思われる痕を白羽の発する七色の光を頼りに追った。幼竜エリオスは最初、懸命に引き留めようとしていたが、キラの決意が固いと判ると、渋々後ろからついてきていた。闇は何処までも重く、果てしがないように思えた。時折照らし出された妖魔が光に驚いて逃げ出す他、本当に何も無い世界である。

もしも母の羽の発する光がなければ、精神が闇に飲み込まれて発狂してしまったかも知れない。進めば進むほど、闇は濃度を増し、羽の発する光を押し包んでくる。初めは周囲を明るく照らしていた七色の光も、今は足下をやっと確かめられる程度にしか輝きを持たない。

 「ミューッ!」 不意に幼竜が甲高い悲鳴を上げた。驚いて振り返ると、何物かがエリオスの上にのしかかっている。長い手足には真っ黒な剛毛が生えていた。妖魔か?思わず羽を持っている手に力がこもる。途端、羽は姿を七光剣へと変じた。

 「妖魔め、エリオスから離れろ!」
 「キキキーッ!」

 怒声に振り向いた妖魔が、金属を擦り合わせるような鳴き声を上げた。キラは剣を振り上げ突っ込もうとした手を止める。醜く崩れてはいたが、妖魔の顔は明らかに人間のものであったのだ。恨みと憎しみで歪んだ面相。しかし、首から下は恐るべき剛毛に覆われている。一見蜘蛛のように見える人間?これは一体何……?

 「ガルルルルーッ!」 一瞬の戸惑いの隙をついて、蜘蛛人間が長く鋭い爪を少年の首筋に叩き込んできた。

 「うわーっ!」 爪が首に食い込むと思われた瞬間、横っ飛びに避ける。だが、直撃は避けられたものの、爪は少年の肩口を切り裂いた。

 「うわーっ!」 肉が抉り取られ、鮮血が飛び散る。小さな身体が赤い軌跡を残して地面に転がった。妖魔は残忍な笑みを浮かべもぎ取った肉片を口に放り込むと、モグモグと食らう。赤い舌で手に付着した血をペロペロと嘗めた。

 「ミューッ!」 エリオスが倒れたままのキラに駆け寄る。しかし、ピクリとも動かない。まさか死んでしまったのか?不安にかられ、グイグイと少年の身体を揺すった。

 「うーん……」 苦痛に顔を歪め、少年が呻く。まだ生きている。幼竜はペロペロと顔を嘗め回した。やがて、うっすらと目を開く少年。

 「ミューッ!」
 「……エリオス……」

 肩に走る激痛に顔を顰め、キラは起きあがろうとした。が、その目に襲いかかってくる妖魔の姿が写った。シューッと延びてくる鋭い爪。その切っ先は幼竜の頭!エリオスが危ない!キラは痛みを忘れ、右手の剣を突き出した。

 「ギャアアアアアーッ!」

 恐ろしい絶叫が闇を引き裂く。ドロリとした液体が四方に飛び散り、暗黒の花を咲かせた。クワッと見開かれる目に憎悪が浮かぶ。呪わしい想念が奔流のように流れ込んできた。虐げられ、操られ、騙された気憶が痛恨の思いと共に吐き出されてくる。憎い!恨めしい!怨恨の思念は暗黒の世界を更に重く冷たいものに変えて行った。

 「殺してやる……」 爛々と光る目でにらみつけると、呪いの言葉を絞り出す。果てしなき怨念だけが蜘蛛男を動かしていた。剣により穴の開いた胸からはドクドクと体液が流れ出しているのだが、一向に弱る気配はない。

 「化け物め!」 再び剣を妖魔の首に叩きつけた。ザクッと食い込んだ剣が骨を断ち切る。支えを失い首がブラリと胸元に垂れ下がった。倒したか?剣を構えたまま敵をにらむ。

 「死ね!死ね!死ね!」

 逆しまになった首の口が呪詛の言葉を紡ぎ出す。まだ死んではいない。ユラユラと胴の動きにつられ、首が振り子のように揺れる。思わず後ずさる少年。黒い手が伸び、首に食い込んできた。逃れなくては!必死に手足をバタつかせ、爪から脱出を試みる。しかし、爪は更に強く締め上げてくる。逃れられない。目がかすみ、意識が遠ざかって行った。

 「ミューッ!」
 「ガアーッ!」

 エリオスの鳴き声に、失いかけていたキラの意識が戻る。諦めたらだめだ!今諦めたら、ママを助けられない。子供たちを助けるために自らの風切り羽を抜いてしまった母、フレア。命をかけた母の愛……。でも、そのために、死の縁にいる母。助けるためには、彼女を最も愛する三人の血が必要なのだ。キラとナナ、そして彼らの父アモンの血を一刻でも早く母に届けなくては、母は……

 「ママ!」 薄れかけていた意識が急速に戻ってきた。そうだ、今ここで死ぬわけには行かない!瞼を押し開き、相手をにらみつけた。首のない胴体からは無数の白い虫が這い出ている。蛆虫?それはゾロゾロと群れをなして這い出てくる蛆虫であった。ピョンピョンと跳ねながら飛び出してくる白い虫たち。宿主を見捨て、目の前の少年に乗り換えようとでも言うのか、次々に這い寄ってくる。

 「うわーっ!」 思わず腕を払いのけ、後ろへ飛び下がった。途端、人間蜘蛛は崩れるように地面に落ちて行った。蛆虫の群れはザワザワと這い出し続けている。一体何が?後一歩で殺されてしまうところだったのに、この変化は如何にしたものなのか?

 「ミューッ!」 不意に聞こえる幼竜の鳴き声に、キラは我に返った。頭を巡らせ、主を捜す。と、得意そうに彼を見上げるエリオスの姿が目に入った。口には何か赤い物を咥えている。何だろう?用心深く覗き込むと、それは血を滴らせた心臓であった。どういうことだろうか?戸惑いながら倒れている蜘蛛人間の躯を見た。ほとんどもげそうになった首が恨めしげに見つめている。そして、その胸には、ポッカリと大きい空虚な穴が開いていた。

そこからも蛆虫たちはぞくぞくと這い出している。しかし、それ以外には何もない空ろな空洞があるだけである。まさかエリオスの咥えている心臓は、あの胸の中にあったものなのか?そう言えば、地獄の住人たちは、心臓を貫かれない限り死なないという。それを知って幼竜は蜘蛛人間の心臓を抉り出したのか……?

 「エリオス……」 再び視線を幼竜に戻して、キラは絶句した。血の滴る心臓をうまそうに食っているのだ。

 「お前……さっきのドルといい、蜘蛛人間の心臓といい……下手物食いだなあ……。でも、助かったよ。ありがとう、エリオス」
 「ミュー?」

 心臓を貪り食う幼竜がキョトンと見上げる。その表情はなんとも愛らしいものがあった。

 「うっ……」 が、ホッとした途端、激痛が襲う。先ほど蜘蛛人間に抉られた肩だ。思わず剣を落とし、ガックリと膝をついた。

 「ミューッ!」 一心不乱に蜘蛛人間の心臓を食らっていた幼竜が顔を上げた。

 「だっ……だいじょう……ぶ……だ……」 痛みをこらえ、微笑もうとする。だが、大量の出血と痛みのため、意識が遠のいて行く。しっかりしなくては。手足に力をこめ、立ち上がろうとした。しかし、もう手にも、足にも指一本動かす力は残されてはいない。

 「ミューッ!」 慌てて駆けてくる幼竜。何か言ってやらなくては。大丈夫、心配しないでと笑って見せなくては……。その時、ふっと思考が暗転した。誰かが心配げに呼ぶ声がしたように思える。あれは誰の声だったのか……


 誰かが傷を癒してくれている。誰だろう?朦朧とした意識の中で、キラは優しく抱かれているような暖かさを感じていた。フワリと香る懐かしい匂い。この匂いは誰のものだっただろう?たしかに昔嗅いだ甘やかで、懐かしい香り……。これは何処で嗅いだ香りだろう……。思い出せない。でも、何故だか涙が出るほど懐かしい匂い……

 「ママ……」 ああ、そうだ。ママの匂いだ。ママに抱かれていた時に嗅いだ、甘やかなママの匂いだ。閉じていた瞼をユックリと押し上げる。柔らかな光に満ちた世界が、そこにはあった。確か、竜王の座の下に開いた穴をくぐり、真暗闇の世界に入ったはずなのに……?戸惑いながら、視線を上げると、黄金に輝く光の滝が目に入った。ドキリとして目を瞬かせる。

 「黄金の髪……?」 光の滝に見えたのは、美しく輝く黄金の髪の毛であった。それは自分を抱いている人物の黄金の髪なのだと気づく。柔らかな胸が頬に触れていた。この胸、まるでママのようだ。恐る恐る顔を上げ、相手の顔を確かめる。ほっそりとした顎。微笑を湛えたうす紅の唇。彫像のような整った鼻梁。そして、優しく見つめるエメラルド色の瞳。

 「キラ、目が覚めた?」 涼やかな声が耳をくすぐる。間違いない。この女性は間違いなく

 「ママ?ママだよね?風の要請、シルフィーじゃないよね?!」

 身体を起こし、真剣に見つめる。信じられない。何故、ママがここにいるの?どうして、地獄の、こんな闇の世界にママがいるの?尋ねたい。でも、それを尋ねたら、ママが消えてしまうかも知れない。聞きたいけれども、聞くのが怖かった。だから、見つめるだけしかできなかった。

 「キラ、どうしたの?ママよ、判らないの?」
 「……でも、どうしてママが地獄にいるの?どうして、闇牢獄にいるの?」
 「うふふ、キラ、ここは地獄じゃないわよ。まして、闇牢獄でもないのよ」
 「えっ?」

 驚いて母の顔を見つめる。ここは地獄ではない?そんな……?さっきまではたしかに地獄の最下層の闇牢獄にいたはずなのに……。蜘蛛人間を倒しはしたが、自らも傷つき倒れて……?

 「キラ、あたいたちが、あんたを助けたんだよ」 不意に背後から声がする。驚いて振り向くと、黒髪の少女と双角の戦士が立っていた。そして、その背後には……

 「パパ?!それに、ナナ、おじちゃんも……無事だったの?」
 「あたいたちは、闇牢獄に入った途端、蜘蛛人間たちに襲われて、奥へ連れて行かれちまったんだ。でも、すぐに逃げ出し、パパを助け出したんだよ。そして、戻ってみたら、あんたが倒れていて……。見ると、大怪我をしているじゃあない。治癒魔法で出血を止めたけれど、あんたは気を失ったままだった。だから、あたいたちは、あんたを抱いて天国へ向かったんだよ。そして、ママに三人の血を飲ませて命を助けたのさ。後はあんたが気づくまでママは、あんたを抱いていてくれたんだよ」
 「ママが……ぼくを……」

 大きく目を見開いて母を見上げる。フレアはニッコリと微笑んだ。

 「ママ、ママ、ママなんだね。やっと、やっと、やっと……」
 「私の可愛い坊や……。もう離さない。絶対に離さない……」

 キラはギュッと抱きしめられるままに抱かれていた。なんという長い苦難の日々だっただろう。母に会いたくて、一緒に暮らしたくて頑張った日々。人間を本当に幸せにすれば、ママと一緒に暮らせる。それだけを夢見て、乗り越えてきた茨の道。やっと、天使と認められ、天国のままに会えると思ったのに……。彼らを助けるため、母は天使の命の源とも言える風切り羽を抜いてしまい、死の縁に陥ってしまっていた。

助けるためには、地獄にいる父を助け、キラとナナ、そして、父の血が必要だと教えられ、はるばる地獄へ落ちてきたのであった。地獄でも色々あった。醜い戦いだけの世界に嫌悪を感じ、自らの心と身体を傷つけたりもした。しかし、そんな辛い冒険も終わったのだ。今、目の前には母がいる。優しく抱いてくれる母の腕。何度夢見たことだろう、母の胸。

 「ママ!ママ!ママ!」 歓喜の涙が少年の頬を濡らす。辛くて流した涙ではない。本当の喜びに満ちた涙なのだ。嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。

 「可愛い坊や、私の大切な坊や。あなたは私だけの物。誰にも渡さない、大切な宝物……」

 細く白い指が優しく髪を撫でる。穏やかで、暖かな声が痺れるような喜びを呼び起こした。

 「ミューッ!」
 「あっ、エリオス?!」 不意に幼竜の鳴き声がして、キラが顔を上げた。すると、柱の陰から小さな頭が現れる。

 「エリオス無事だったんだね!よかった!こっちへおいでよ。ぼくのままを紹介するよ」
 「ミュー!ミューッ!」

 しかし、首を横に振るだけで、近寄ろうとはしない。どうして?不信げに幼竜を見つめる。

 「ミューッ!」 触れようと手を伸ばすが、後ずさって行く。

 「エリオス、ふざけているの?おいでよ、ママに紹介するから」 母の手を離れ、追いかけようとした。だが、白い手が腕を掴んで離さない。驚いて振り返ると、微笑むフレアの顔があった。

 「私の可愛い坊や、ママは絶対に離さないわ。もう、一人ぼっちはいや。坊やはママと一緒にいるのよ。いつだって、いつまでだって、ずーっと一緒」
 「ママ……?」 フレアは、歌うように、夢見るようにキラを見つめていた。一体どうしたと言うのだろう?ポカンと口を開いて母を見つめた。だが、フレアはただ微笑み、少年の身体を己の胸に引き寄せ、抱きしめるだけであった。

 「ママ、どうしたの?ぼくは何処へも行かないよ。ただ、エリオスが……」
 「エリオス?あんな竜の子など放っておきなさい!あんな意地汚い竜など、邪魔なだけ。私には坊やだけがいればいいのよ。可愛い坊やだけが私の宝物……。おお、なんて柔らかな頬。そして、小さな肩。ちっちゃくて愛らしい指。全て、私の物。私の宝物」
 「ママ?」 

うっとりと頬擦りしてくる女の顔。強く抱きしめてくる白い腕。甘やかな芳香が精神を痺れさせてくる。ねっとりと貼りついてくる肌の感触が堪らない快感を目覚めさせてくるようであった。周囲を包んでいた白い光は徐々に光度を減少し、辺りは再び闇に閉ざされてしまっていた。傍にいたナナとゴールズの姿も見えなくなっている。そして、治ったはずの妖魔に食い千切られた肩の痛みが戻ってきた。これは一体どうなっているのだろうか?驚愕のため、キラは呆然となる。

 「ママ、変だよ?周りが暗くなってきたし、おかしな妖気を感じる。それに、そんなに強く抱かれたら肩が痛いよ……」
 「どうもしてないわ。ママは坊やが大好きなだけ。可愛い私の坊や……。可愛くて、可愛くて、可愛くて……食べてしまいたい!」
 カッと大きく開かれる真っ赤な口。口中にはゾロリと鋭い牙が並んでいる。尖った二枚の舌がチョロチョロと覗いていた。

 「マッ、ママ?!」 思わず母の身体を突き離し、腕の中から飛び出していた。一体何が起こったのだろう疑念を抱いた途端、今まで平気だった肩に激痛が走った。驚いて触れてみると、ザックリと抉られたような傷跡が生々しく残っている。これは、蜘蛛人間にやられた傷……。今まで治っていたと思っていたのは幻術のせい??目を大きく見開き、母を見る。

が、そこにいたのは母ではなかった。かつて母であった物は、姿を返じていた。白く細かった手足は醜い鱗に覆われている。黄金の髪は、オゾマシイ血の色の蛇へと変貌していた。美しいエメラルド色の瞳も、爛々と輝く紅に染まっている。胴体はスルスルと長く伸び、クネクネとのた打ち回り始めていた。

 「へっ、蛇女……?」

 それはまさに、人面の蛇であった。キラは思わず懐の白羽を取り出そうとする。だが、見つからない。まさか失ったのか?大切な母の風切り羽だったのに……。蜘蛛人間と戦った時にはたしかにあったのに、まさか、あのまま……?

 「坊や、私の可愛い坊や。どうしたの?ママよ?こっちへいらっしゃい」
 蛇女はヒラヒラと青い鱗に覆われた手を振る。

 「どうしたの坊や、ママの腕の中へお帰り。私の可愛い坊や。ママはあなただけを愛しているのよ」
 ゾッとするような猫なで声で女が呼ぶ。そして、スルスルと胴体をくねらせながら近づいてくる。血色の蛇の髪がウネウネとざわめいき、紅の瞳が狂おしげに少年を見つめていた。如何な女の妄念か、我が子を求めて近づいてくる。

 「止めろ!お前はママじゃない!ママはそんな化け物なんかじゃない!近づくな!」

 キラはジリジリと後退しながら怒鳴った。やっと会えたと思ったのに……。長い間夢見た母だと思ったのに……。正体はおぞましき蛇女であったのだ。喜びが大きかっただけに、失望の反動は凄まじかった。愛しい母に化けるなんて絶対に許せない。優しくて美しい天使のママのふりをして騙すなんて……。堅く握りしめた拳に激しい怒りが集中する。こんな化け物、バラバラに引き裂いてやる!拳が青い光を発し始めた。

怒りの想念が拳に集束し、光が光量を増す。眩しいほどの光が溢れ、闇を照らし出した。無数の妖魔が光に怯え逃げ出して行く。いつの間にそんなに集まっていたのか、人面の犬猫、人身馬頭の妖怪共が、強烈な光にたじろぎながらも周囲を取り巻いていた。こやつらは、キラの拳の発する光にも臆することなく嘲笑を浮かべている。逃げ出した小物とは違うということか?そう思った途端、蜘蛛人間に抉られた肩に激痛が走る。唇を噛み、痛みに堪えた。だが、拳の光は急速に衰えて行く。

 「フエッフエッフエッ、どうした蛇女よ。そんなガキ、一口で呑み込んでしまえよ」
 「そうだ、食っちまえ!」
 「お前が食わねえのなら、オイラが食ってやろうか?なんたって子供の肉は柔らかくて美味いからなあ!」
 「そうだ、オレたちにも食わせろ!」

 取り囲んでいる妖怪の中でも一際大きな人面を背負ったガマガエルが耳障りな声で嘲笑した。他の妖怪たちも、ガマ妖の言葉に呼応して、やんやと下卑な野次をとばす。蛇女はギョロリと紅の瞳で妖怪共をねめつけ、シューシューと荒い息を吐いた。

 「寄るんじゃない!この子は私の大切な坊やよ!あんたたちに手出しはさせないよ!」
 「ケッ、欲張り女め!ご馳走を独り占めする気かよう!」
 「ふん!オレにも味見させろってんだ!」

 妖怪たちは口々に勝手なことを言い、ジリジリと輪を縮めてくる。背後には妖怪の群、前方には毒々しい血色の蛇を纏った蛇女が迫っている。絶対絶命の危機であった。どうするキラ?!

 
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◆第十九話  怨念の業火! ◆

 周囲を妖魔に囲まれたキラは、ジリジリと追い詰められていた。その中でも、母に化けていた妖巳は、執拗な妄念で迫ってきていた。毛髪代わりの無数の蛇が次々に絡みつこうと襲撃してくる。それを懸命に避けた。だが、蛇たちは疲れることを知らぬのか、休む暇なく鎌首を擡げ、矢のように飛んでくるのだ。

 「おうっ、だらしねえぞ蛇女!オイラが手伝ってやる!」 ニタニタ笑いを浮かべて見物していたカエル妖が長い舌をビューッと吐き出す。それは狙い違わず少年の細い足に絡みついた。

 「ああーっ!」 思わずよろけ、地面に倒れる。慌てて起き上がろうとするが、すぐに人面犬が背に飛び掛り、押さえつけられてしまった。もう逃げられない。このまま妖怪たちの餌食にされてしまうのか?天国で待っている、重態の母を助けることもできず、地獄で討ち果ててしまうのか……?

 「いやだ!負けるものか!」 唇をギュッと噛み、目の前の蛇女をにらみつけた。

 「ひっひっひっひ!こいつはオレ様がひっ捕まえたんだ。最初の一口はオレが頂くぜ!」 人面犬がカッと大口を開き少年の首筋を狙う。ゾロリと並んだ鋭い牙が光り、振り下ろされてくる。

 「ええいーっ!」 あわや噛み砕かれると思われた刹那、身体をひねり、両の拳を必死で突き上げる。

 「ギャーッ」 拳は顎に命中し、犬は地面の上を転がった。だが、ホッと安心したのも束の間、化け猫の爪が襲ってくる。ギリギリのところで避けるが、猫はシナヤカナ動きで地面に降り、背を丸め、再び跳躍してきた。今度は避けきれない!普通の猫の数十倍の大きさの妖猫の銀色の爪だ。少年の柔らかな皮膚など、軽く引き裂き、骨までも砕いてしまうに違いない。咄嗟に身を屈める。しかし、鋼鉄の爪は少年の背に!

 「ギャアアアアアアーッ!」 鋭い悲鳴が空気を震撼させた。飛び散る鮮血が闇に真っ赤な花を咲かせる。妖魔たちの顔に一瞬の悦楽が浮かぶ。ゴロゴロと転がる生首。恨めしげに宙をにらむ金色の眼。だらりと伸びた舌は紅に染まっていた。

 「なっ、何故だ?」 闇に驚愕が沈黙を誘う。誰もが信じられぬという表情で立ち尽くしていた。
 「蛇女、何を血迷って?! 人面犬が牙を立てて吼える。転がったのは化け猫の首。獲物はまだ地面に蹲ったままだ。爪が少年を引き裂く一瞬前、蛇女の放った気が化け猫の首を襲ったのだ。何故、少年でなく、仲間の化け猫を殺したのだ?問いたげな視線が蛇女に集中した。

 「貴様、獲物を独り占めする気か?!」
 「許せねえ!仲間を裏切りやがって!」
 「そうだ、許せねえ!殺せ!殺せ!蛇女も、子供も殺してくってやれ!」
 妖魔の間に怒号が巻き起こる。ようやく捕らえた獲物を喰らえると思ったのに、邪魔をするとは!仲間を裏切り、独り占めにするのは絶対に許せない所業であった。

 「おだまり!その子はあたしの可愛い坊やだよ。あんたたち醜い化け物の餌なんかにして堪るもんか!」
 爛々と光る目で妖怪共をねめつけた蛇女は、スルスルとキラとの間にとぐろを巻く。
 「けっ、血迷いやがったか?!そのガキはお前の失った子供ではないぞ!ただの餌だ!」
 「黙れーっ!この子は私の可愛い子供。悪党共に騙され、連れ去られた挙句に殺された私の坊やよ。あんたたちになんかに喰われて堪るもんか!」

 カッと口を大きく裂けると、紅の炎を吐いた。炎の舌は目の前にいた馬頭妖をと人コウモリを一瞬にして灰に帰した。パッと飛び下がる妖怪たち。だが、女は容赦なく炎を吐く。次々と燃え上がって行く化け物が火炎のダンスを舞い踊っている。大きな炎、小さな炎、様様に勝手な踊りをまい踊り、やがてはポッと消滅した。

 「このイカレアマ!己の子供と見も知らぬガキを混同しやがったか!?」
 人面犬がグワッと牙を剥き、襲い掛かってきた。蛇女はすかさず炎を吐こうと口を開いた。が、その首筋に蛙妖の舌が長く伸び、巻きつく。ボキボキと首の骨が折れる音が響き、女が白目を剥いた。だらりと伸びる尖った蛇の舌。口からはゴボゴボと血の泡が溢れ出ていた。

 「馬鹿な蛇妖怪が!」 グッタリとなった蛇の首から巻きついた舌を外すと、蛙妖が唾を吐いた。
 「へっへっへっ!これで餌にありつけるってもんだぜ」
 人面犬がゾロリと舌なめずりをする。残った妖怪たちもヒクヒクと鼻を鳴らしていた。何故だか判らないが、キラを守ろうとした蛇女はもう戦う元気もなく横たわっている。逃げなくては!何処か逃げ道はないのか?迫りくる化け物の群れを絶望的な眼で少年は見つめていた。

 「ガーッ!」 牛頭人身の化け物が角を立てて突っ込んでくる。それを危うく避けると、次は蜥蜴妖が毒を吐きかけてきた。間一髪で避けるが飛沫がうでをこがした。激痛が少年を痺れさせる。それをすかさず、人面犬の牙が襲う。咄嗟に地面に伏せ、牙から逃れた。だが、ホッとしている暇などない。転がった少年の上にドサリと巨大なナメクジが振ってきたのだ。ナメクジはピッタリと皮膚に張り付き、消化液を分泌させて獲物をとかそうとした。いや、それ以上にひだを伸ばし、顔を覆って息を止めてしまおうとする。懸命にもがいて逃れようとするが、ジワジワと侵食してくる。

 「わ……私の……坊やを……」 グッタリと横たわっていた蛇女の目がカッと開かれる。眼には怒りの炎が燃えていた。彼女の目にはナメクジに襲われているキラが、悪者に騙され殺されてしまった己の息子に見えていた。なんとしても助けなくては!逆鱗が逆立ち、髪の毛を構成している無数の蛇が一斉に鎌首を擡げる。

 「殺させてなるものかーっ!」
 鱗に覆われた腕を伸ばし、少年に張り付いているナメクジを引き剥がそうとする。だが、ナメクジは逆に蛇女の腕に張り付き、喰らおうとした。蛇にとってはナメクジは天敵だ。ピッタリと貼りつくと、消化液を逡巡させて溶かし始めた。

 「ナメクジめーっ!喰らうなら、私を喰らいな。しかし、坊やだけは殺させはしない……」
 怒りに充血した眼から炎が吹き出す。湿ったナメクジの皮膚がジリジリと焦がされ異様な臭気が辺りに充満した。
 「キュィィィィィィーッ!」 悲鳴とも、鳴き声とも知れぬ奇声を発してナメクジの身体が脈打つ。そして、仰け反り、逃れようともがいた。だが、蛇女は容赦なく炎を浴びせかける。やがて、炎に包まれたまま炭化し、消滅してしまった。

 「だっ、誰にも私の坊やを殺させは……しない……」
 荒い息を吐きながらも、周囲を取り囲んでいる妖魔をねめつける蛇女。だが、彼女を恐れる者は誰もいない。すでに生命を尽きかけている妖怪など恐れるに足りない存在なのだ。ただ放っておけばじきに息絶えてしまうに違いない。妖魔の中には薄笑いを浮かべている者さえ存在していた。

 「フエッフエッフエッフエッ!そんな死に損ないなど無視して、そっちの甘そうな子供をいただこうぜ」
 蛙妖がペロペロと舌なめずりをする。他の妖魔たちも、蛇女など歯牙にもかけぬと言う体で、餌食の少年を涎を垂らしながら注目していた。

 「ガーッ!」 好物の子供の肉を目の前にして、我慢できなくなった人面犬が飛びかかる。もはや保護者たろうとした蛇女は瀕死の状態であった。邪魔する者は誰もいない。思う存分いたぶりながら喰らうことができるのだ。恍惚たる歓喜が犬の牙を多量の涎で湿らせていた。獲物は呆然自失で立ち尽くしている。銀色の牙が少年の柔らかな肉に食い込もうとした。

 シューッ!
 「ギャアアアアーッ!」
 鮮血が紅の花火と、飛び散る。ゴクリと唾を呑み込む妖魔たち。青ざめ、膝をつくキラ。ドクドクと溢れる血潮が小さな水たまりを作って行った。

 「キラ、大丈夫か?!」 野太い男の怒声が闇を切り裂いた。
 「おじちゃん?!」 闇の中から現れたのは、双角の戦士、ゴールズであった。戦士は黒金の矢を次々に放ち、妖魔どもを射抜く。

 「キラ、無事だったかい?!」 続いて現れたナナが掌から火炎を発しながら叫ぶ。押し寄せる洋間の群れを火炎で焼き尽くし、短剣で切り裂いて行く。
 「ナナ?でも、どうして?」 唖然と、突然現れた救世主を見つめる。二人は一体何処から現れたのか?

 「あたいたちはずっと傍にいたんだよ。でも、こいつら妖魔の幻術で幻を見せられていたんだ。先ずはゴールズが、そして、ゴールズに助けられてあたいが幻術から覚めたんだ。そうしたら、目の前であんたが妖魔たちに襲われているじゅあないの。ったく、まんまとしてやられるとは、あたいも修行が足りないねえ」

 ナナとゴールズはキラを庇うように互いに背を向けて立ち、妖魔を蹴散らす。双角の戦士は強弓を投げ捨て、大剣を振るう。ナナも短剣に念を集中して妖魔を切り伏せた。
 「コシャクナ悪魔どもめ!お前たちも食い殺してやる!」
 蛙妖が大口を開き、泡を飛ばす。すぐに弾けた泡から無数の小蛙がゾロゾロと出現し、襲ってきた。大男が振るう大剣も、少女が煌かせる短剣も蟻の大群のように群がる小蛙には手の施しようがない。

 「くっ、こんなちっこい奴らを相手にしていたのでは切りがない!ナナ、燃やしちまえ!」
 「判ってるよ。でも、こう次から次だと、印も結べないんだよ!」
 懸命に印を結ぼうと努力しているのだが、間髪を入れずにたかってくる小蛙のため、ナナも苦戦を強いられていた。
 「なんとかしなくちゃ……」 二人の窮地にキラも妖魔に傷つけられた肩の痛みも忘れ、懐に手を突っ込む。しかし、何処へ消えたのか、求める白羽は、やはり見つからない。蜘蛛人間との激しい闘いの最中に落としてしまったのだろう。

 「……坊や……」 絶え絶えのうめきが少年の耳に届く。ハッと見下ろすと、瀕死の蛇女が震える手を小さく持ち上げようとしていた。一体何を?と、見る間に握られていた拳が開き、白羽が現れた。
 「ママの羽……?」
 「……坊やが倒れていた傍に落ちていたんだよ……。これが必要なんだろう?」
 弱弱しい笑みを浮かべ、蛇女がキラを見つめる。先ほどまでの怨念に満ちた瞳は消え、優しい光が溢れていた。  「ありがとう」 キラは蛇女の手から白羽を受け取り、天にかざす。途端、七色の光が周囲を圧倒した。それは闇を切り裂く光の剣と化す。

 「妖魔め、退散しろ!」 七光り剣を一閃させると同時に稲光が起こり、妖魔を貫く。二振りすると、竜巻が起こり、小蛙の群れを吹き飛ばした。
 「なんと凄まじい威力だ?」 やっと蛙の群れから開放された戦士の口から驚愕が漏れる。少しの間だけだったが、一緒に旅をしていて、キラが闘うところを何度か見てきたが、七光り剣がこれほどの威力を見せたのは初めてのことだった。素晴らしい切れ味の剣だとは思っていた。だが今、剣が見せているのは、あまりにも爆発的な魔力。いや、魔力とは異なる力。もしかして、これが天使の力?天使とはそれほどまでに、凄まじい存在なのか?

 「フエッフエッ!なんて小僧だ。一瞬にして、我が子らを……。殺してやるーっ!」
 背負った人面が憎しみに醜く歪んだ蛙妖が、大口を開き、長い舌を矢のように飛ばす。それは狙い違わず、キラの腰に絡みつく。グイと引き寄せられる小さな身体。
 「フエッフエッ!小僧、このまま引き寄せ食ってやる」 舌はクルクルと巻きながら蛙妖の口元へと戻って行く。

 「キラ!」 ナナが慌てて引き戻そうとする。だが、そうはさせじと、白毛猿が襲いかかってきた。咄嗟に短剣を振るって鋭い爪を避ける。
 「おのれーっ!」 代わりにゴールズが助けようと大剣を振りかざす。が、そこへ牛頭人身の化け物が突進してきた。
 ガキッ! 牛角と大剣が空中で交差する。力はほぼ互角。双方の額に汗がにじむ。筋肉が山のように盛り上がり、ミシミシと骨がきしむ。

 「フエッフエッ!」 蛙妖の長い舌に絡まれ、キラの小さな身体はガバッと開かれたがま口に飲み込まれる。
 「ええーい!」 刹那、七光り剣が閃く。逆手に構え、思いっきり蛙の眉間に突き立てる。
 「グエーッ!」 ドロリとした緑色の体液が脳漿と共に噴出してくる。同時に巻きついていた舌から力が抜け、少年の小さな身体が地面に転がる。蛙妖はギョロリと巨大な眼球を回転させ、にらむ。

 「よくも……」 憎悪のこもった呪詛が背負った人面から発せられた。同時に、両眼から青白い光線が放たれる。咄嗟に避けるキラ。と、たった今まで転がっていた地面が炎と燃え上がった。
 「許さぬぞ、小僧!わしの額を傷つけたな!」 背負った人面の真っ赤な口が開き、毒気を撒き散らす。
 「者ども、わしに力を貸せ!こやつらを倒すのは一人一人かかっていてはだめだ。わしと一体化するのだ」
 「おう!」 それぞれがバラバラになって闘っていた妖魔が蛙妖に呼応して集まってくる。

 「奴め、どうする気だ?!」
 突如、集合し始めた妖魔に戸惑い、三人は顔を見合わせる。がすぐに、戸惑いは驚愕へと変化した。大きく広げた蛙妖の口に妖魔どもが次々と飛び込んで行くのだ。人面犬、牛刀人身の化け物、巨大ナメクジ、猫魔、九頭白尾狐と飛び込んで行く度にバキバキと骨の折れる音がし、喰われて行く。ドロリとした妖魔どもの流す体液が口から漏れ、足元へ血溜りを作った。なんともおぞましき光景である。

 「ゴールズ、あいつら共食いを……」
 「いや、蛙の奴、ああして他の妖魔の力を獲得しているのだ。危険だ、早く止めさせなくては!」
 ゴールズは黒金の矢をつがえ、狙いを背の人面に定める。十分に引きつけたところで、ピョーッと放つ。
 バチッ!
 だが、大蛙の眼から発せられた光線によって跳ね返されてしまった。魔戦士は舌打ちをすると、第二矢をつがえる。ギリギリと弓を絞り込んで行き、狙いを背の人面に向けた。筋肉が盛り上がり、気迫のため全身から湯気が立ち上がる。その間にも、妖魔は大口の中へと消えて行く。そして、喰らった妖魔の力を得て、蛙妖はより力強く、より巨大で醜い化け物へと変貌している。

 ビーン!
 満月ように引き絞られた弓から放たれた矢は風を切り裂き、一直線に今や五倍もの大きさに膨らんだ化け蛙の眉間へと飛翔した。そのスピードは雷光にも似た閃光の素早さであった。
 「グッ!」 鋼鉄の筋肉を持つ魔戦士の放った矢は、グサリと矢羽まで妖魔の背負った人面の眉間へと突き立った。人面の唇が苦悶に歪む。そして、真っ赤に充血した眼が更に憎悪に燃え上がった。

 「許さぬぞーっ!」 熱気が全身から吹き上がり、空気を燃え上がらせる。
 「ひえええーっ!蛙妖、止めろーっ!わしらまで焼き尽くす気かーっ?!」
 まだ残っている妖魔たちが、化け蛙の放つ火炎に巻き込まれ、燃え上がって行った。だが、そんな仲間の悲鳴など無視して、更に灼熱の炎は力を増して行く。ついに、ゴールズの突き立てた黒金の矢もドロリと熔けてしまう。
 「なんて化け物だ……」 さすがの魔戦士も灼熱の炎に後ずさりを始める。ナナとキラも、炎に炙られ後退を余儀なくさせられていた。

 
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◆第二十話  鬼子母神! ◆

 仲間の妖魔の力を得た蛙妖は妖力を増大させ、姿も巨大で醜く変貌している。そして、怒りの想念が具象化したように全身から炎を吹き上げていた。赤い炎の舌がペロリと一舐めしただけで堅い岩盤もドロリと溶け出す。もうもうと立ち上がる瘴気のため、卑小な妖魔たちが次々と燃え上がって行った。

 「なんて化け物だ!」 さすがの魔戦士も額に脂汗をにじませている。燃え盛る妖怪の灼熱の炎が、結界を張っていてさえも皮膚を焦がし、体毛もチリチリと 炎を上げ始めていた。もし彼らの魔力が脆弱なものであったのなら、燃え上がって行く卑小な妖魔同様に炭化してしまっていたに違いなかった。

 「死ね!」 蛙妖の口から火炎の渦が三人を襲う。慌てて避けるが多少のダメージは受けてしまった。ゴールズは腕に、ナナは足に、キラは背に火傷を負ってしまっている。しかし、魔力で傷を癒している暇はない。次々と襲ってくる火炎の触手が三人を追い詰めて行く。

 「ゴールズ、なんとかならないの?」 懸命に氷の結界を強化させながら、ナナが叫ぶ。
 「奴とて地獄に棲む物、急所の心臓に矢を突き立てることができれば、倒せるはずだが……。この熱では並みの矢では奴に到達する前に燃え尽きてしまうに違いない」
 「あんたの黒金の矢でもだめなのかい?」
 「ああ、無理だ。さっきも見ただろう、奴の発する熱のため、黒金の矢ですら、あっと言う間に溶けてしまった。もはや打つ手立ては尽きた。口惜しいが逃げるしかない」
 「そんな……」

 絶望がナナを襲う。その間にも、火炎の長い舌は舐めるように地面を焦がし、大気を沸騰させていた。逃げると言っても、蛙妖の動きは以外にも素早い。とても逃げ切れるものではないように思える。
 「ぼ……坊や……」
 「えっ?」 不意に名を呼ばれ、キラが振り向く。だが、何者の姿も見えない。一体誰が?用心深く眼をこらすと、血まみれの上、熱気に焦がされた蛇女の骸が視野を捕らえた。まだ生きているのか?あれほどのダメージを受け、おまけに蛙妖の瘴気に焼かれたと言うのに……。

 「坊や……私の可愛い坊や……」
 「……」 ピクリとも動かない蛇女の身体。しかし、それは彼女のものであった。恐らくは激しいダメージで口もきけないため、思念波で話し掛けているのであろうか?キラは沈黙したまま、見つめる。だが、全く生気は感じられない。やはり死んでいるのだ。

 「坊やは、ママが守ってあげる。あたしの身体を矢にして、あいつを射るんだよ。あたいの心は、坊やが死んだ時、凍り付いてしまった。どんな炎でも溶かすことはできない。例え、蛙妖の奴の瘴気でさえも……」
 気のせいか、僅かに女の口元に笑みが浮かんだように見える。すでに死んでいるはずなのに、我が子を守ろうとする執念だけが、そこには渦巻いているようだ。
 「どうしたキラ?」 ナナがジッと骸を見つめる弟を怪訝そうに見つめる。

 「この人が……ママに化けていた蛇女が……自分の身体を矢に変えて討てって……」
 「なっ?」 ナナは絶句して無残な焼け焦げ死体を見つめる。とても正視はできないほどの惨たらしい姿であった。そんな死骸を矢に変えてどうなるというのだろう?訝しむように弟と交互に見つめた。
 「凍てついた心はどんな高熱にも熔けることはないからって……」
 「……?」 ナナが唖然と弟を見つめる。凍てついた心はどんな炎にも溶かされることはない?意味がまるで理解できなかった。

 「とにかくやってみるよ」 キラが印を結び、骸に念を集中させた。見る間に蛇女の無残な姿が凍りの矢と変化する。それは驚くほどの冷気を発する矢であった。青白く透き通り、周囲の空気さえも凍結してしまうような氷の輝きがある。
 「なんという冷たい光を発する矢だ……」 魔戦士さえもが感嘆のため息をつく。だが、のんびりと眺めている暇はない。巨大化した蛙妖の火炎の触手は容赦なく獲物を求めて伸びてきた。

 「おじちゃん、早く!」
 「おっ、おう!」 キラに渡された矢をつがえ、魔戦士は弓をギリギリと引き絞った。これを外せば後がない。熱気と焦燥で全身から発汗し、光の玉が落ちて行く。筋肉が限界まで盛り上がり、漆黒の鎧が音を立てて弾き飛ばされた。ゴールズは更に強く弓を引き絞り、化け蛙の心臓に狙いを定める。
 「化け蛙め、思い知れ!」 満月に引き絞った弓から氷の矢が放たれた。電工が走るがごとき瞬速で、一直線に炎の中心へと駆け上って行く。

 「当たれ!」 キラが眼を閉じて、グッと念じる。
 「そのようなヘナチョコ矢などに倒されるものかーっ!」
 蛙妖の口がガバと開き、火炎が矢メガケテ放たれた。燃え上がる大気、矢は一瞬の間に炎に包まれてしまった。ボゥッと燃え上がる氷の矢羽。やはりだめなのか……。失望が魔戦士の心に去来する。

 「冗談じゃないわよ!」 ナナがキッと唇を噛み、印を結んだ指先から凍結魔法を繰り出した。凍りついた水蒸気がキラキラと輝きながら燃え盛る矢の周囲を取り囲む。ダイヤモンドダストは渦を巻き、矢と共に炎の壁を突き破り蛙妖の胸へと突き進んだ。火炎の塵が舞い、赤色の花を咲かせる。同時に超新星を思わせる爆発が全てのものを吹き飛ばした。

闇はまばゆい金色の光にその存在を失い、静寂は凄まじい轟音によって破られる。四散する蛙妖の身体は無数の彗星を弾き飛ばして行く。ウネリ、渦を巻いてのたうつ大蛇であった。灼熱の炎の嵐は永遠に続くかと思われたが、やがて力尽きたかのようにガックリと大地に崩れ落ちた。しかし、炎は消えてもなお、溶解した岩石はブスブスと音を立てて、近づく者を拒み続けている。周囲には何物も存在せず、一面の溶岩だけが惨劇の証人のように水蒸気を吹き上げていた。

もう、妖魔も魔戦士もキラたち魔天使の姿も何処にも見えない。ただ溶解した地面が永遠と続くばかりであった。そんなもうもうと立ち上がる水蒸気の中、ふと黒い小山のような影が現れる。黒く焦げた巨大な妖魔の骨だ。どす黒く変色した胸の中央には、冷たい氷の光を放つ矢が、深々と突き立っている。やがて矢の放つ冷機が大気を冷却し、ドロドロに溶解した大地を瞬時に凍結させた。もはやグツグツという溶岩の立てる音も、水蒸気の立ち上がるシューシューという音も聞こえてはこない。ただ絶対の静寂が辺りを支配していた。

 「ミューッ!」 不意に悲しげな幼竜の声が静けさを破った。そして深遠の闇空から舞い降りてくる小さな姿が現れる。エリオスは炎の竜と呼ばれる、赤竜だ。蛙妖の放った灼熱の炎にも堪え、爆発の瞬間、空の高みへと弾き飛ばされてしまったのだが、無傷で舞い戻ることができたのである。

しかし、キラたちは……?懸命に固まった地面を探し回る。だが、何処にも姿は見えない。ただ花崗岩の作った奇岩の群れが延々と続くばかりであった。幼竜はクンクンと鼻を鳴らし、臭いを嗅ぐ。だが、懐かしい少年の臭いは、強烈な硫黄のためにかき消されている。
 「ミューッ!」 絶望的な幼竜の泣き声が闇に溶ける。しかし、それに応える者の姿は何処にも見えなかった。

 ボロッ!
 「ミュー?」 突如、脇にそそり立っていた、一際大きい花崗岩が音を立てて崩れる。ボロッ、ボロッと内側から弾き飛ばされるように欠片が落ちて行く。エリオスは呆然とそれを見つめていた。そして、現れる手、手、手、手……?
 「あーっ、驚いた!」 中から現れた少年が、巨躯の戦士の肩で感嘆の声を上げる。脇には少女の姿もあった。大爆発の寸前、三人は力を結集して結界を張り、灼熱の爆風から身体を守ったのである。しかし、溶けだした溶岩に囲まれ、そのまま凝結した花崗岩に閉じこめられていたのであった。

 「ミューッ!」
 「うわっ!エリオス……?」 飛びついてくる幼竜を胸で受け、思わずキラは転げ落ちてしまう。あわや地面に激突というところで、逞しい腕が襟首を掴んだ。
 「あっ、ありがとう、おじちゃん」 エリオスを胸に抱いた少年がニッコリと微笑んだ。そして、愛おしげに竜の頭を撫でてやった。
 「どうやら命拾いしたようだな」

 周囲の惨状を見渡した魔戦士がつぶやく。動く物は彼ら以外全く見当たらない。本物の死の世界であった。キラが一人、黒こげの骨になった蛙妖に近づいて行く。胸の部分には矢によって凍結した心臓だけが残されていた。あの恐るべき力を示した妖魔の首領の妖力を封じ、滅ぼした氷の矢は、今も凛然と冷たい光を発している。何物にも溶かされることのない氷結した蛇女の心そのままに……。

 「キラ、何をする気だ?!」 ゴールズは、何物をも凍りつかせるような冷気を発している矢に触れようとする少年を見て、凝然となった。あの超高熱を発していた蛙妖の心臓すら凍結してしまう矢に触れようとは、正気の沙汰とは思えない。小さな少年など瞬時にして氷化してしまうに違いないのだ。
 「蛇女のママ、ありがとう。お蔭で、ぼく生きてるよ」

 ニッコリと微笑むと、ソッと矢に触れてみる。ナナとゴールズは思わず息を呑んだ。だが、恐れていた惨事は起こらない。それどころか、冷然と光を放っていた矢から禍々しさが薄れ、次第に暖かさを持ち始めているようにさえ見えた。いや、それは気のせいだけではない。たしかに凍結していた大気が精気を復活させ、穏やかさを取り戻し始めていた。

 「坊や……私の可愛い坊や……。今度こそ守ることができたのね……」
 穏やかな思念が矢から伝わってくる。優しげな母の思い。己が子を守り抜いた喜びに凍結した心が溶けるがごとく暖かさが芽吹いていた。
 「あの日、人買いにさらわれた坊やを助けることができなかった……」
 蛇女の思念が矢を通して流れ込んでくる。それは悲しいはは子の物語りであった。

 吹きすさぶ風が、村外れに佇む荒れ家の板戸をガタガタと揺らす。あちこち敗れた壁からは隙間風と呼ぶには激しすぎる寒風が吹き込んで、中で震える母子を容赦なく凍えさせた。母と子は抱きあい、互いの暖かさをたよりに、紙のような薄っぺらい布団にくるまっている。
 「坊や、寒くないかい?」 いまだ五才の息子の冷たい頬に手をやり、母が尋ねる。だが、小さな少年はニッコリと微笑むと、母の胸に顔を埋めた。

 「母ちゃん、おいら寒くなんかないよ。だって、母ちゃん、とっても暖かいんだもん」
 「そうかい……すまないねえ……」 健気な息子を思わず強く抱きしめていた。ろくに働きもしない亭主のため、赤貧の親子であった。しかし、可愛い子供さえいれば……。
 ドンドンドン! 不意に板戸の叩かれる音。母親はハッと身を起す。こんな夜更けに誰が?訝りながらも板戸に近づく。  「どなた?こんな夜更けに……」
 「オレだ!早く開けろ!」

 怒鳴り声であった。慌てて板戸を開くと、すっかり酒に酔った亭主がそこにいた。
 「あんた、また飲んできたのかい?止めとくれよ。そんな飲む金があるのなら、少しは……」
 「るせーっ!」 言葉が終わらない間に平手が頬を打つ。女は思わず土間に倒れ込んだ。
 「母ちゃん!」 母親の受けた災難に驚いた息子が寝間を飛び出し、父の前に飛び出す。
 「なんだあこのクソガキ!なんか文句があんのか?!」

 母を抱きしめ、鬼のように赤い顔をした父をにらみつける。いつも酒を飲んでは暴れる男。父である男であるが、母子に苦しみしか与えない男。彼らが細々とした生活を続けられるのは、猫の額ほどの畑を母が耕し、僅かに獲れる粟や稗をたよりに食を得ているからであり、父の働きによるものではなかった。

男が与えるのは理不尽な暴力による痛みと恐怖だけだ。それに、わずかな食料ですら、男が帰ってくれば、全て奪われてしまう。それに、帰ってくる度、何かを持ち去って行く。畑を耕す鍬も鋤もすでに男の酒に化けていたため、母は竹でこしらえた箆で畑を耕している有様であった。もはや荒家に残っているのは、紙のように薄っぺらい布団のみである。このような男、いなくなればいい。もしも、自分がもっと大人で、もっと強ければ、こんな奴追い出してやるのに。少年の眼は雄弁に語っていた。

 「クソガキ!生意気な!」 挑戦的ににらみつける息子に腹が立ち、男の拳が少年を襲う。ガツンという衝撃、たちまち起こる女の悲鳴。忌々しい憤怒で、男の暴力に対する衝動が止まらなくなった。憎たらしい子供。全く父親に懐かない可愛げのない息子。こんなガキ、邪魔なだけで、何の役にも立たない奴。残忍な快感に支配された男の拳が、踵が止めどもなく降り注いだ。こんな奴、死んでしまえばいい。男は本気でそう思っていた。

 「止めろ、父ちゃん!母ちゃんが死んでしまう!」
  「なっ?」 驚いて己が殴っている者を見た。いつの間に入れ替わったのか、妻であった。女は己が子供を庇って抱きかかえ、男の暴力にたえていたのであった。
 「あんた、子供を許してやって。この子はまだ五才なんだよ。あんたに本気で殴られたら死んじまう」
 女は、血の滲んだ唇から哀願の言葉を搾り出す。腫れ上がった頬、鼻血を滴らせた表情は凄まじいものがあった。男は思わずたじろぐ。このような姿になってさえも子供を庇おうとする妻に恐怖すら感じていた。だが、すぐに恐怖を感じたことを恥ずかしく思い、それが新たなる憎しみへと変化する。

 「このくそあま、そんなに子供が可愛いかーっ!」
 男の踵が女の背中に何度も叩きつけられた。だが、悲鳴すらも上げない。ただ、恨めしげに男をにらむだけである。
 「けっ、くそ面白くねえ!」 いくら蹴っ飛ばしても音を上げない妻に業を煮やした男は、不意に気を変える。そして、ジロリと家の中を見回した。本当に何もない家である。もちろん、目ぼしい物は全て男が持ち去ってしまったのであるが、男は理不尽にも何もないことに対して猛烈に腹が立った。

 「ちっ、ったく貧乏ったらしい家だ。何もありゃしねえ」 舌打ちすると、男はつかつかと母子が唯一暖を求めていた紙のような薄っぺらい布団に近づいた。
 「あんたーっ、それだけは正しとくれよ!それを持って行かれたら、あたいたちは……」
 「るせーっ!」 取りすがってくる妻を足蹴にすると、布団を抱えて男は出て行ってしまった。もはや母子に眠るための布団はない。一体この男は何処まで自分たちを苦しめたら気が済むのだろう。女は息子の小さな身体を抱きしめ、涙も枯れ果てた頬を擦りつけた。

 
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◆第二十一話  父子再会! ◆

 家から布団を持ち出した男は、何の躊躇いもなく質屋に持ち込んだ。そのような粗悪な品、いくらにもなるはずもなく、雀の涙ほどの金を手にした男は、舌打ちしながら懐へと押し込む。何かうまい金儲けはないものか……?真面目に働き、地道な人生を歩むなど毛ほども考えない人間であった。何の苦労もなく、好きな酒を飲む金が欲しい。汗水流して働くなど真っ平ごめんであった。

 「困ったなあ……」
 「ったくだ。明日からどうしたもんかねえ……」
 ふと立ち止まると、夫婦者らしい旅芸人がなにやら話しているのが目に入った。
 「あんたら、どうしたってんだ?」
 「えっ?」 不意に声をかけられ、夫婦は驚いて振り返る。そして、相手が遊び人風の男だと判ると、安心したように肩の力を抜いた。

 「何か困ってんじゃあねえのか?」
 「ああっ、困ってんだよ。角兵衛獅子のガキが死んじまってよう。こいつがあんまりきつく責めるもんだから、逃げ出しやがって……。それで、とっ捕まえて、折檻していたら……死んじまったんだ。ったく、この馬鹿あまは手加減ってもんを知らねえから……」
 「あに言ってんだ。あんたの方がきつかったんじゃねえか。あたいは、手でぶん殴っただけだったのに、あんたときたら足で蹴るは、棒で殴るわ……しまいにゃあ川ん中へ投げ込んだりすっから、肺炎になっちまって……死んじまったんじゃねえか。ったく、高い金を出して買った子供だったのに……もったいないったらありゃしないよ」

 夫婦は口々に相手を罵る。だが、一言も子供を亡くしたという悲しみの言葉は出てはこなかった。
 「あんたら、子供が要るのかい?」
 「ああっ、要るんだよ。角兵衛獅子にはおひねりが多いからねえ。あたいら夫婦だけじゃあ実入りが少ないんだよ」
 妻の方が口惜しそうに唇を歪める。夫も、腕組みをして渋い顔であった。だが、男の顔にはニンマリとした笑みが浮かんでいた。
 「あんたら、子供が必要なんだろう?」 男は卑屈な笑みを浮かべて、揉み手をしている。夫婦は何が言いたいのかと、唖然と顔を上げた。

 翌朝、女はいつものように、猫の額ほどの畑に出て働いていた。息子も、幼いながら懸命に手伝おうとする。小さな手を泥だらけにして、雑草を抜いていた。
 「母ちゃん、見て。芋だ!」
 「おやまあ、秋にすっかり穫り入れたと思っていたのに、まだ残っていたんだねえ」
 「うん!きっと神様がおいらたちにめぐんでくれたんだ」
 「じゃあ後で粥に入れて食べようね」

 母子は、ささやかな幸福を心から喜んだ。こんなことが嬉しいのも、相手がいるから。小さな発見も、母子が一緒だから、大きな喜びに変わるのであった。
 「ふん、なんてミミッチイ奴らだ。たかが痩せた芋を見つけたぐらいで大喜びしやがって!」
 「はっ!」 母子の表情が強張る。そして、サッと身体を硬くさせて振り返った。そこには疫病神がいた。腕組みをし、嫌らしい笑みを浮かべ、彼らを見下ろしている。背後には見たこともない男女が、やはり冷たい視線で少年を見ている。

 「どうでえ、このガキなら五両は安いもんだぜ。元気だし、働き者だし」
 呆気に取られている母子を無視し、男は芸人夫婦に話し掛ける。
 「けっ、冗談は正しねえ。こんなちっせえガキ、すぐには役立たねえ。一両がせいぜいだぜ」
 「あに言ってんだ。こいつの顔をよく見てみろ!きれいな顔をしてやがるだろうがーっ!すぐに人気者にならあ!絶対に五両はゆずれねえ!」

 「二両」
 「けっ、欲張り芸人め!そんじゃあ、四両!」
 「三両、これ以上は出せねえ。いやなら、話はなかったことにしてくれ」
 「ちっ、業突く張りめ!しかたがねえ、三両だ」 男は渋々金を受け取る。
 「あっ、あんた何を話してんだよーっ?!まさか、この子を……?」
 「るせーっ、このあま!手前は黙っていやがれーっ!」

 取りすがってくる女を足蹴にすると、芸人夫婦に目配せする。途端、夫の方が子供の腕を掴んだ。
 「嫌だ、離せ!母ちゃん!母ちゃん!」 芸人に引きずられるように連れて行かれる少年が悲鳴を上げる。母は驚いて追いすがろうとした。だが、男の腕がそれを阻止する。
 「諦めろ。ガキは、あの旅芸人に売った。もうオレたちのガキじゃねえ」
 「あっ……あんたって男は……」
 「るせーっ!何か文句があるのかーっ!?」

 怒鳴り声と共に拳が顔面に炸裂した。女の痩せた身体は、紙のように吹っ飛ぶ。地面に転がったまま、母は悲嘆の涙を流した。彼女のただ一つの宝の息子。それなのに、夫は、非情にも芸人に売ってしまったという。なんて男なのだろうか。毎日のように暴力を振るい、家中の物を持ち出して行く。暴力と苦しみしか与えない男だった……。それでも、いつかは心を入れ替えてくれると信じていたのに……。愛する息子まで売り飛ばすとは……。

 「へっへっへっ、三両か……。当分は酒に困ることはねえな……」
 息子を売り飛ばした、金の感触を男は頬擦りしながら楽しんだ。ひやりとした冷たい感触、黄金に輝く小判は、男を悦楽に引き込んだ。
 「……この……人でなし……」 女は血走った目で己が夫をにらみつける。口惜しさのため、指が地面の土を握りしめていた。 と、何か固い物が手に触れる。石だ。偶然に手に触れた物は、握りこぶし大の石であった。
 「許せない!命よりも大切な坊やを売り飛ばすなんて……」 ウメキのような呪詛が女の口から漏れる。だが、久々に大金を手にした男の耳には届いてはいなかった。後ろを向き、歩き出そうとする男。女は石を握り締め、静かに立ち上がる。

 「死ね!死ね!死ね!この疫病神!よくも、あたしの坊やを!」
 「手前ーっ!何を……?」 何かを察した男が振り返る。が、眼に飛び込んできたのは、女の拳に握られた石。しかし、それも一瞬であった。ガツンという強烈な衝撃で、視界が真っ赤に染まる。続いて走る、激烈な痛み。
 「この鬼!悪魔!死んじまえ!死んじまえ!坊やを返せ!坊やを返せ!」

 女は血まみれになった石を何度も夫の顔面に叩きつける。今まで虐げられてきた憎しみを込めて。売られてしまった我が子の恨みを込めて。すでに顔だか、何だか判らなくなっても、女は石を振り下ろし続けた。返り血を浴び、悪鬼のようになった女は、憎悪の全てを肉塊になった男に叩きつけた。血が飛沫き、飛び出した眼球をも叩き潰す。頭骸が砕け、脳漿が飛び散る。

それでも、女の怒りは収まらなかった。石を何度も何度も振り下ろし続ける。だが最後には、頑丈な石さえも砕けてしまった。ハッと我に返る女。血みどろになった夫に哀れみの心は浮かんではこない。だが、連れ去られた息子は?今さらのように周囲を見回す。しかし、旅芸人の姿も、愛しい我が子の姿も何処にも見えなかった。

 「坊やーっ!坊やーっ!坊やーっ!」
 絶叫が空気を震撼させる。しかし、返ってくる返事は何処からも聞こえてはこなかった。追いかけなくては。今ならまだ間に合うかも知れない。立ち上がった女の目に、三両の小判が飛び込む。これは坊やのお金。これがなくては坊やを取り返すことはできない。小判を拾い上げ、女は走り出した。坊やを取り戻さなくては。なんとしても、小判を叩き帰し、子供を取り返す。髪を振り乱し、着物の裾も乱れたまま、女はひたすら走り続けた。

 「坊やーっ!坊やーっ!坊やーっ!」
 走る!走る!走る!女は走る。愛しい我が子は何処にいる?子の名を叫び、女は走った。着物ははだけ、髪を振り乱して母は走る。裸足の足は裂け、爪が割れても女は走り続けた。だが、愛しい我が子の姿は何処にも見つからなかった。
 「坊やーっ!坊やーっ!坊やーっ!」 喉も裂けよと絶叫する。眼は血走り、握りしめた拳には、黄金に輝く三枚の小判が虚しく輝いているだけであった。

 「ほんに可哀想だったなあ、あの子供」
 狂走していた母親の耳に、ふと村人の言葉が耳に入る。可哀想な子供?
 「ああっ、あの子、まだ五才ぐらいの男の子だったが、暴走してきた馬に蹴っ殺されてしまってよう……。連れていた旅芸人の夫婦は三両がどうのって叫んでいたっけなあ……」
 旅芸人の連れていた男の子?三両がどうの……?馬に蹴り殺された……?まさか……。
 「いっ、今の話しは……?」

 村人たちは血相を変えて尋ねる女に一瞬たじろいだが、思い直してうなずいた。
 「ああっ、死ぬ間際に『母ちゃん』って母親の名前を呼んでいたって言ってたらしいぜ。全く、惨いことだぜ……」
 「ああーっ、坊や……」
 絶望で、女はその場に崩れ落ちた。何よりも大切な宝だったのに……。我が命よりも大事な子供だったのに……。フラフラと立ち上がり、彷徨い歩く。

今ここが何処でいつなのかまるで判らなくなっていた。ただ何物かに引きずられるがごとく、幽鬼のように彷徨った。突然、着物も、心もズタズタの女の足が滑った。あっと言う間に空中へ投げ出され、水飛沫が上がる。冷たい冬の水に包み込まれるように身体が川の中に消えた。子供を失い、全ての希望を失った女は水に抗おうとはせず、川底へと沈んで行くに身を任せた。たった一つの宝物を奪った亭主が憎い。愛おしい息子が目の前で連れ去られたというのに、助けられなかった己が許せない。

耳に残っているのは、絶叫にも似た、我が子の叫び。許して!許して!許して!助けられなかった無力な母を許して!何度も何度も心の中で許しを乞う。だが、応えてくれる愛し子はもういない。悲しみと絶望の中で息絶えたのだ。悲しい。狂おしいほどに悲しかった。心を凍てつかせ、憎しみの炎を瞳に輝かせる。長い間、長い間、母親は冷たい川底で我が子を待ち続けていた。気づくと、女の姿は人にあらざる物へと変化していた。憎しみに瞳を真っ赤に燃え立たせ、心を凍結した巨大な蛇へと。

 不意に思念が途切れた。驚いて見つめるキラの手にあった矢が青白い光に包まれる。同時に揺らめいて人型を結ぶ。それは優しげな女性の姿。母なる者の姿であった。
 「ありがとう、坊や。あなたがママに会えますように、祈ってます」 女の姿は光の球に変化すると、フワリと上昇して行く。と、不意に小さな光の球が降りてくるのが目に入った。二つの光球は互いに引かれ合うように近づき、合わさる。そして、じゃれ合うように上昇して行った。

 「あれはどういうこと?」 はるか上空へ消えて行こうとする二つの光玉を見つめていたナナが、魔戦士を振り返る。
 「呪縛が消えたのだ。蛇女は、子供を失った悲しみと、奪った人買いに対する憎しみのため、地獄の闇に囚われて、妖魔と化していた。それが、身を捨ててキラを助けようとしたことによって、自らを縛っていた呪縛から開放され、浄化されたのだ。この闇に棲まう妖魔は全てが人間の怨念が作り出したもの。憎しみ、悲しみ、嫉み、怒りの残留思念が妄執となり、妖魔へと変化(へんげ)したものだったのだろう。だから、子供を救えなかったというどうしようもない苦しみがキラを助けることによって満たされ、凍りつかせていた心が開放されて自らの呪縛を断ち切ることができたのだと思う」

 「ふーん……」 理解したのかどうか、ナナは魔戦士の腕にしがみついたまま、空を見上げている。もはや光玉は闇に溶け込んでいた。
 「ねえきっと、あの小さな光の玉は蛇女の子供の魂だったんだよ。ママが浄化されて天国へ昇ってくるのをズッと待っていたんだ。だから、ママが天国へ向かっているのを知って迎えにきたんだよ」
 「そうかも知れんな」
 「きっと、そうだよ!これからは母子ずっと一緒に暮らせるんだよ!よかったねえ、ナナ!」
 「そうだね……」 ナナは嬉しそうに笑う弟の頭を優しく撫でてやる。母に会いたくても会えない姉弟だから、彼らの喜びが判る。本当に辛かったに違いない母と子。でも、巡り会えた。嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて……

 「今度はお前たちの番だな」
 「えっ?」 不意に聞こえた声。姉弟は驚いて視線を魔戦士に向ける。そして、互いの顔を見合わせ、強くうなずく。今度は自分たちが父を見つけ出す番だ。そして、天国で彼らの血を待っている母を助けるのだ。
「ミュー!」
「どうかしたの、エリオス?」 不意に幼竜の泣き声。驚いて振り返ると、目の前の溶岩群が燐光を発し始めているのが目に入った。一体何事?

「蛇女が浄化されて昇って行ったぞ!」
「あの氷の心を持った女が浄化されるとは、信じられぬ」
「だが、浄化され昇って行った……」
何故だ……?」
「あの子供のせいだ。あの子が救われぬ母親の氷の心を溶かしてしまったからだ」
「おおっ、我らも救われたいぞーっ!」
「子供よ、我も救うてくれ」
「我もじゃ」

 次々に現れた燐光が漂いながらキラに近づいて行く。驚いたゴールズとナナが振り払おうとするが、実態のない物のように虚しく通り抜けてしまった。
「子供よ、我を浄化してくれーっ!」
「我も救うてくれーっ!」
 燐光に包まれたキラは為す術もなく立ちすくんでいた。一体何がどうなっているのか?
「こいつらは、蛇女と同じ、妄執のために妖魔と化した亡者共の亡霊だ。何百年も心を凍らせ、地獄の最下層に呪縛されていた蛇女が浄化されたのを見て、自分たちも救われたいとすがってくるのであろう」

 群がってくる燐光を排除しようと虚しく腕を振り回しながら、ゴールズが叫んだ。青白い光に包まれたキラは、どうしたものかと両手を胸で組、懸命に耐えている。救いを求める亡者の魂の叫びはどんどん大きく迫ってきていた。すがってくるものを無下に追い払えない。なんとかしてやりたいのだが、どうしたら良いのか幼い少年には何も判らなかった。
「ママ、ママ、ぼくはどうしたらいいの?どうしたら、この彷徨える魂を救うことができるの?」 無意識の間に、手が懐を探っていた。彼らを救えるもの。それは一体何だろう?判らない。焦るキラの手に、何かが触れた。
フワリとした柔らかな感触。握りしめているだけで、優しい暖かさが伝わってくる。

「ママ、力を貸して」 懐から取り出した純白の羽を空にかざし、強く念じた。途端、流れ出す七色の光が辺りを照らす。
「おおっ、なんと神々しい光だ……」
「心が洗われるようじゃ……」
 燐光の中から感嘆の声が巻き起こった。
「汚れた魂を浄化するのは自分自身だけ。真に己を捨て、執着を離れた時、魂は浄化されるのです」
 静かな思念が七光と共に聞こえてくる。それは、優しげな天使の声。

「ママ……?ママの声だ……」
 キラの顔がパッと明るく輝く。ナナも顔を上げ、光る羽を見つめた。
「おおっ、捨てようぞ。己を縛っていた怨念も執着も捨ててやる!」
「そうじゃ、浄化されるのならば、わしを殺した敵への恨みも捨てよう」
「わらわを騙して、殺した男への恨み、忘れられぬ憎しみであったが、救われたい。わらわも憎しみを忘れようぞ」
 燐光たちが発する光が光度を増し、おどろしかった輝きから、美しいものへと変化して言った。そして、フワリフワリと上昇して行く。やがて全ての燐光が空高く消えてしまった。

「全く、信じられぬことをする小僧だな……」
 ゴールズが呆れ顔でキラを見る。だが、異変はそれだけではなかった。一つずつ燐光が天空に消えて行く度、光条が差込、闇を切り裂いたのである。一条、二条、三条と光の束が増えて行き、闇が破られて行った。
「あれらは何十年も……いや、何百年、何千年もの間、この地獄の最下層に呪縛されていた怨霊であったはずだ。この闇牢獄の闇は奴らの心の闇が造り出したものだ。だから、奴らの心の闇が払われると同時に、闇も消失してしまったのか……。

まさに、『光と闇を纏いし者、現れし時、天と地の境は崩壊し、天は闇に閉ざされ、地は光に溢るる』の予言の顕現だな」
 魔戦士が感慨深げにつぶやく。全ての燐光が天空に消え去った後には、輝かしい光の溢れる荒野が広がるばかりであった。あの重苦しかった重圧も消え去り、息苦しさも感じなくなっていた。

「あっ、あれは……」 不意に、呆然と闇牢獄の変化に見とれていたナナの視線が何かを捕らえた。遥か前方に鎮座した悪魔の像がある。逞しい体躯、背に閉じられた黒いコウモリの翼、そして漆黒の髪に、閉じられた瞼。
「パパ!あれはパパの像よ!でも、どうして……?」 それは彼らの父、アモンの姿を模した石像であった。懐かしい父。親子が離れ離れにされて以来、初めて見る父の姿であった。

 
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◆第二十二話  眠れる獅子! ◆

 闇が祓われた後に現れた原野の中心に、粛然と鎮座する悪魔の姿。それはキラたち、魔天使の父、アモンそっくりの石像であった。しかし何故、このようなところに父の石像が存在するのであろうか?三人は呆然と石像を見上げた。
「それにしても、まるで生きているようだな」 魔戦士ゴールズがつぶやく。
「パパ……」 懐かしい父の姿を目の当たりにして、ナナが深いため息をつく。
「ナナ、これはパパだよ」 キラが目を大きく見開いて石像を見つめている。
「そうね、これはパパだね。でも、誰が何のためにこんな像を造ったのかしら?」

 幼い弟の心中を思うと、熱いものがこみ上げてくる。優しく頭を撫でてやりながら、ナナの思いはこの原野の何処かにいる父に飛んでいた。
「違うよ、ナナ」 小さな少年は激しく頭を振った。
「これはパパだよ。どうしてか判らないけれど、パパなんだよ。だってほら、わずかだけれど、心臓の音が聞こえる」
 キラは石像の胸に耳を当てると、懸命に訴えた。ナナとゴールズは顔を見合わせ、交互に心臓の音を確かめる。そして、無言でうなずいた。心臓は動いている。一分間に三度という極少の鼓動ではあったけれど、確かに脈打っていた。
「どういうこと?」 信じられなくて、ナナが魔戦士を見上げた。

「信じられぬことだが、アモンだ……。しかし、何故だ?彼ほどの悪魔が、何故石化しておるのだ。彼をこのようにできる悪魔など、この地獄界に存在するとは思えぬ。あるとすれば……自らの意志で石化したとしか考えられぬ」
「えっ?パパが自分で?」 驚く姉弟を見つめて、魔戦士はうなずいた。
「オレは、この闇牢獄に一歩足を踏み入れた途端、様々な悪意に満ちた怨霊の念波の攻撃を受けて、気も狂いそうになった。心の隙をついて、精神を浸食しようとしてくるのだ。美しい女に化け、ふと心を許した途端、悪鬼に変貌して爪を立ててきた。それを危うく避けると、次はお前たちに化けた妖魔だ。危うく騙されてしまうところを、本物のナナに助けられ、危機を脱することができたが、あのままこの牢獄に置き去りにされていたら……。恐らくは狂死していたに違いない」

「まさか、地獄で一、二の魔戦士と呼ばれるあんたがかい?」
 ナナが驚いてゴールズを見た。そして、黙ってうなずく彼を見て、静かにうなずき返す。彼女とて同じ思いだったのだ。闇に足を踏み入れた途端、父の幻影が現れたのである。まさかとは思いつつ、近づいて行った。懐かしい父に抱かれ、束の間の幸せを感じたのだ。だが、油断した刹那、姿が化け物に変化したのだ。ドロドロの粘液を滴らせる巨大なナメクジ。少女の全身を包み込むようにかぶさり、生き血を吸い取ろうとした。必死の抵抗で逃れた。

だが、次の瞬間には、おびただしい数の蛭に襲われ、気も狂わんばかりに炎を浴びせた。次から次へと襲いかかってくる妖魔と魔獣たち。懸命に戦っている最中、魔戦士と再会できた。あの恐怖を一人で耐え続けていたら……。
「きっとパパは自分自身を守るために、自らの意志を封じ、肉体をも石と代えたんだ」
「パパ、起きて!ぼくたち迎えにきたんだよ!一緒にママを助けに行こうよ!」
 キラが必死にアモンに呼びかける。しかし、石像と化した男の耳には届かないのか、何の変化も見られなかった。


 地獄の最下層に、光の全く届かない暗黒の牢獄がある。目に見える物はなにもない。悪魔の卓越した瞳にさえ、何も写さない真の闇。物音すら闇に吸い込まれたのか、風のそよぐ音すら聞こえてはこない。ただ聞こえるのは、己自身の鼓動と呼吸音のみであった。己自身の踏みしめている地面ですら不安定に感じられ、上下の感覚すら怪しくなってくる。普通の者ならば、半日と経たぬ間に精神に異常をきたし、錯乱状態のまま絶命してしまう、最悪の牢獄であった。

「……」 だが、最悪の牢獄と呼ばれる闇牢獄に、正気も失わず、長期に渡り座り続ける悪魔が存在していた。地獄一の戦士と呼ばれた彼は、天と地の狭間と呼ばれる、天界と地獄界の境界で美しき天使に出会った。そして、あろうことか、愛し合ったのである。地獄の掟では、決して悪魔は天使と交わってはならない。しかし、狭間に伝わる呪いか、若い二人は互いに惹かれて行った。そして、
「光と闇を纏う子供」
 を誕生させてしまったのである。

「光と闇を纏いし者、現れし時、天と地の境は崩壊し、天は闇に閉ざされ、地は光に溢るる。」

 天と地に伝わる秘文の一説が彼らの運命を決定した。地獄の崩壊を恐れた者たちによって、彼は捕らえられ、子供たちは人間界へと追放されてしまったのだ。
「天界を滅ぼす力を子供たちは持っている。子供たちに命じて、天界を滅ぼさせよ。さすれば、罪を許してやろう。」
 彼の叔父である魔王ブラスが、条件を提示した。だが、断固として断った。子供たちには、力があるかも知れない。しかし、天使を心より愛してしまった彼には、天使を敵に、子供たちに戦えとは言えない。いや、彼自身ですら天使を敵とは思えないのであった。

「ならば、闇牢獄で頭を冷やすがよい。」 激怒したブラスは、彼を地獄でも最悪の牢獄、闇牢獄へと封じたのであった。右も左も、上も下も、完全なる闇の牢獄。音も闇に吸い込まれるのか、物音一つ聞こえない。匂いも、肌に触れる物さえなにもない、虚無の世界。それが闇牢獄であった。何も五感に感じない世界。ジッと座っているだけで、気が変になりそうな無の世界。目を閉じているのか、開いているのかさえ判らなくなってくる。しかし、何も感じないと言うのではない。闇の中に潜む、様々な悪意に満ちた思念が重苦しく圧迫してくるのだ。

憎しみ、怒り、恨み、殺意、それらが始終、精神を蝕もうとのしかかってくる。吐き気をもよおすような悪意に精神が侵食され、どうしようもない絶望感に苛まれる。僅かでも、心に隙を見せると、触手をのばし、内部から精神を破壊しようとするのである。逃げ出したい程の恐怖に全身の皮膚が総毛立つ。だが、例え逃げ出したとしても、ソレは彼を逃しはしない。精神に食らいつき、バリバリと音を立てて、心を食いちぎろうとする。

「うぐぐぐぐ……。」 へし折れる程歯を食いしばり、恐怖を押し退けようとするが、ドロドロした暗黒の思念は、執拗に触手をのばしてくる。僅かに潜む、弱点を見抜き、攻撃してくるのである。
「パパ。」 不意に男の子の顔が目の前に浮かぶ。少し長めの黒髪、丸い顔に、黒い大きな瞳が可愛らしい男の子である。にっこりと微笑みながら近づいてくる。
「キラ。」 僅かに心の緊張が緩む。が次の瞬間、少年の顔が醜く歪む。見る間に、悪魔へと変貌した少年の爪がアモンの目をえぐり出そうと迫ってきた。

「おのれ、幻影か。消えろ!」 カッと口を開き、火炎を吐く。火だるまになった少年が悶え苦しむ。
「パパ、どうして……?」 悲しげなキラの顔が、アモンを見つめる。動揺がアモンの心を過ぎる。だが、直ぐに心を持ち直す。
「幻影よ、消え去れ!」 掌から稲妻が迸り、少年の姿を四散させる。後には一片の肉片も残ってはいない。やはり、邪悪な思念の見せた幻影であった。
「あなた、どうして息子を殺したのです。」 背後から、恨めしげな女の声がする。振り返ると、美しい天使の姿があった。
「フレア……」 思わずその名をつぶやく。かつて彼が愛した女天使だ。
「キラの仇!」 不意に女の顔が恐ろしい形相に変化し、白い翼が炎と化して襲いかかってきた。
「くっ、貴様も幻影か!」 顔を歪め、怒りに任せて、女の首を締め上げる。
「あなた……」 苦しげな呻きが漏れる。締め上げる手から僅かに力が緩んだ。幻影とは判っていても、愛した女を殺すことは躊躇いがある。その心の隙をつき、女の髪がアモンの両手にからみつき、逆に締め上げてくる。

「小賢しい真似を!」 幻影とはいえ、敵の攻撃は苦痛を伴う。切られれば、皮膚と筋肉を切り裂き、血が流れる。首を絞められれば、呼吸が苦しくなる。もし、幻影に負け精神が死すれば、肉体も死してしまうに違いなかった。
「おのれーっ、幻影め、消え失せろ!」 盛り上がる筋肉で絡みつく髪を断ち切り、手刀を女の首に叩き込む。
「ぱぱ、止めて!ママを殺さないで!」 突如現れた少女が絶叫する。長い黒髪に黄金の瞳の少女であった。
「ナナ……」 それは愛しい娘。今は人間界に追放されたはずの娘であった。
「パパ、お願い。ママを殺さないで。」 縋ってくる娘。愛らしい唇が必死に懇願する。ふと、この娘は本物ではないかと疑念が沸く。警戒を解き、娘に向き直った。

「死ね!」 突如変貌する娘の姿。牙を剥き、襲いかかる大蛇へ。アモンの身体に長い胴が巻きつき、締め上げてきた。メキメキと骨が軋むおとが聞こえてくる。大蛇は容赦なく力を増してくる。
「やはり、お前も幻影であったか。」 唇を噛みしめ、強く瞼を閉じた。だが、娘の姿は消えることなく、目の前に浮かぶ。いや、娘だけでなく、女天使も、息子の姿もより鮮明に浮かんでくるのである。幻影は視覚に写るのではなく、精神に直接投影されるのである。心を開いている限り、幻影は止むことなき攻撃を繰り返してくるのであった。
「偽りの亡者共め、消え去れ!」 思念を集中し、妄念を追い払おうとする。心を閉じ、外界からの干渉を絶つ。徐々に大蛇に締め付けられていた力が和らいで行く。完全に精神を閉ざしてしまうと、彼を苦しめていた力が、ふっと軽くなった。

 アモンは更に精神の壁を強固にする。外界からの干渉の一切を断ち切り、己の殻の中へ閉じこもった。
「フレアよ、ナナ、キラ…よ……」 深く沈み込んだ意識の中で、愛おしい者たちの姿を強く念ずる。すると、不思議に外界の圧迫が何も気にならなくなってきた。それどころか、、心の中が軽く暖かくなってくるようである。やがて、浮かんでくるのは
「天と地の狭間」
 での優しかった日々であった。アモンの身体は石化し、精神も氷の世界に閉じこもってしまっていた。

 一体、どうやったら父を元にもどすことができるのだろうか?母を助けるには、直ぐにでも三人で天国へ向かわなくてはならない。彼らに残された時間はわずか。ジッと目を閉じ、石化して動かないアモンを見つめる姉弟たちに、明日はあるのだろうか?

 

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