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犬地蔵由来 (いぬじぞうゆらい)  文:蛍火


犬地蔵由来(いぬじぞうゆらい)・目次

まえがき

第二章  隠居

第四章  疑心

第六章  再会 [NEW!]

第一章  出会い

第三章  政変

第五章  立案書

第七章  石 [NEW!]




◆まえがき◆




どんなものでも、
それが古くから伝えられたものなら、
それなりの由来がある。

ましてや、
それが、お地蔵様ともなれば、・・・・・・

この話は、
或る村の、田んぼの片隅に祭られた、
お地蔵様の由来である。



前編 まえがき  ---了---

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◆第一章  出会い◆




乾新左衛門(いぬい・しんざえもん)は、道を急いでいた。冬の陽は遠く小さくなって、山の背に消えようとしていた。この道は、江戸から国許に帰る途中の、言わば近道のような裏街道で、もう少しで、峠の頂上にさしかかろうとする処であった。表街道を行くよりは、半日ほど早いが、険しい坂が多いので、殆どの旅人は、この道を通らない。道幅も狭く、行き交う人もなく、ただひたすら先を急ぐ新左衛門もさすがに、少し心細くなって来ていた。それでも、以前一度だけ歩いた事のある道なので、うろ覚えながらも、確か、この先を曲がりきれば、頂上の筈だと思いながら行くと、チラッと白いものが動くのが見えた。

一瞬、ギクッとして足を止め、ややあって、一歩二歩と用心しながら近づくと、何やら、切羽詰まった声が聞こえて来た。足を速めて近づいて良く見ると、汚れてはいるが、白い巡礼の装いをした二人の女が、うずくまっていた。

「如何なされた?・・・」

声を掛けると、驚いて、とっさに身構えた若い女が、つぶらな大きな眼を見開いて、新左衛門を見上げた。まだ幼さは残っていたが、美しい顔立ちだった。



やがて、新左衛門は、一人の老女を背負い、もう一人を従えて、峠の坂道を下っていた。冬に初めとは言え、山中の日暮れには、寒さは足早にやって来る。狼や野犬が居ると思われるこの付近を、一刻も早く離れなければならない事を手短に話して、恥ずかしさと遠慮で、ためらっている母親の方を、半ば強引に背負って歩きながら、娘に、おおよその事情を聞いた。江戸で、浪人の父親を亡くした母娘は、縁者を頼ってここまで来たのだが、空腹と疲れから、母親が足をくじき、途方にくれていた所に、折りよく、新左衛門が通りかかったという訳であった。



「そのような事は、どうでもよい!」

新左衛門は、少し声を荒げた。やっとたどり着いた親切な農家で、母親の足の応急処置を済ませ、粗末ではあったが、温かい食事をする事が出来た。ホッと一息入れて寛いでいた時、娘がすぐそばに来て、丁寧に頭を下げ礼を言って、自分の名を由貴(ゆき)と名乗り、新左衛門の姓名を尋ねた。助けてくれた恩人として、その名を脳裏に刻んで置こうとするのは、当然の事であったが、何故か、新左衛門は機嫌が悪かった。

「拙者が、どのような名の者であろうと、そんな事はどうでも良い事なのだ。そのわけを、言って聞かせよう。そもそも、あのような難儀をしている人を見た者が、思わず手を差し伸べるのは、至極当たり前の事なのだ。誰でもそうする。そして、それを恩義に思うそなたの気持ちも、又、当然の事だ。だが、その後がいかん。」

「わしは思うのだ。受けた恩は、他の人の同じような難儀を救う事で、返すべきものだとな。人の世は、すべて巡り巡って居る。今宵、わしがそなた達にした事は、わしの祖先が、誰かにして貰った事を、わしが返したまでの事じゃ。困った時は、人の親切を、素直にありがたく頂く。そして又、自分が他の人にして上げられるようになったら、出来るだけの事をして上げる。それで良いのだ。」

「それから、由貴とやら、お前達親子は、少し考え違いをしていると思う。確かに、そなた達の不幸は、父親の死の前から続いていたかも知れぬ。だが、だからと言って、嘆いてばかりいたのでは、何事も始まらぬ。人は、生きて行かねばならぬのだ。先ず生きる事。前を向いて歩く事。明日を信ずる事だ!分かるか?考えても見るがいい。この世には、日の当たる昼間もあれば、真っ暗な夜もあるが、明るい昼ばかりという事もなければ、暗い夜ばかりという事もない。寒い冬もあれば、暑い夏もあるのだ。どんなに大雪が降り積もっても、やがては、すべて溶かしてしまう温かい春がやって来る。」

「この世は、良い事も、悪い事も、必ず、交互にやって来るものなのだ。良い事が続けば、やがて、悪い事が起きる。悪い人が居れば、その数以上に、良い人が居るのだ。それが、この世というものなのだ。『禍福は、あざなえる縄の如し』という諺を知って居るか?縄のように、良い事も悪い事も、上になったり下になったりしているのだ。身の不幸を、徒に嘆くな。やがては、必ず、良い事が訪れる。それを信じて、じっと待つのだ。辛抱するのだ。分かったな。」

「明日は、この家の主人が、医者の所に連れてってくれる。費用は、拙者が払って置いたから、安心して行くが良い。それから、これは、拙者が妹への土産として買い求めた簪(かんざし)だが、万一の時は、これを金に換えて、役立てるが良い。今の拙者には、このくらいのことしか出来ぬ。さ、もう良い。拙者は、明朝早く出立せねばならぬ。寝かせてくれ。」

新左衛門は、喋るだけ喋ると、そのまま囲炉裏端に横になって眼を閉じてしまった。由貴は、ただただ驚くばかりであった。そして、この風変わりな、名乗らぬ恩人の顔を、生涯忘れないために、しばらく、じぃーっと見つめていたが、やがて、深々と一礼して、静かに、その場を去って行った。



第一章  出会い  ---了---

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◆第二章  隠居◆




それから、二十年の歳月が流れた。乾新左衛門の姿が、ウグイスの鳴き競う国許(くにもと)にあった。長年、江戸藩邸で、奥用人(おくようにん)として勤めていたが、昨年、妻を亡くしたのを期に、家督を子息に譲り、お役目も辞退して、隠居の身として、帰国したのであった。しかし、近頃の彼の評判は、あまり良くなかった。毎日のように、釣りに出かけたり、山菜取りに山に入ったりするのはいいが、それが、今日は南の方へ、明日は西の方へと、まるで行き当たりばったりで、足の向くまま気の向くままという風だった。

そんな彼に、常に下僕の嘉平(かへい)がついていて、何くれとなく世話を焼いているので、心配はなかったが、その不可解な行動に、当初は、咎め立てをする者もいた。しかし、別に悪さをする訳でもないし、少しボケが来ていると分かってみれば、誰一人として関心を示さなくなった。だが、当の新左衛門が望んでいたのは、そうなる事だったのである。



或る日、嘉平が、橋本屋という町家(ちょうか)の勝手口を訪れていた。

「ごめんくだせえまし。あのぉー・・・ハツが、こちらに居るでしょうか?居りましたら、ちょっくら呼んでくだせえまし。・・・嘉平が来たと、お取次ぎくだせえまし。・・・おねげえします。」
「ハーイ、どなた?・・・ああ、おハツさんに用なの?・・・こっちにお入りなさい。今、呼んで上げるから、・・・」

出て来た老女中は、そう言いながら、素早く視線を走らせて、嘉平の全身を見定めていた。古参女中の性癖(さが)である。

「あら!嘉平おじさん!・・・いつ帰ってきたの?・・・たっしゃぁ?・・・よく来たわねえぇ。・・・お松さん、この人、私のおじさん。おっかさんのあにさん。長い間、江戸のお屋敷に奉公してたんだけど、今度、旦那さんと一緒に帰ってきたの。そうだったわね、おじさん。・・・」
「うん、まあな。・・・」
「あっ!ちょっと待ってて。・・・今、大奥様のご都合を聞いてくるから。うぅうん、駄目よ。ここではね、私達の身内の人が来ると、必ず、大奥様がお会いになるの。黙って帰しちゃうと、私達が叱られるのよ。奉公人の身内は、大奥様にとっても、身内になるんですって。だからね、ご挨拶を先にして、それからゆっくり話しましょう。ねっ、そうして。・・・」

ハツに案内されて、庭先に回った嘉平は、一瞬ドギマギして、挨拶も口ごもった。そこには、縁先まで出て来た大奥様の、にこやかな美しい顔があったからだった。どっしりとした貫禄と、優雅な気品を漂わせた、どこかで、いつか拝んだ仏様のように、嘉平には見えた。その人の眼の前で、無言のまま、懐中から一通の書面を取り出した嘉平は、それをハツに手渡した。受け取ったハツも又、無言のまま、それを大奥様に手渡した。

「ご苦労様でした。」

と、にっこり微笑まれて、嘉平は、黒い顔をなお黒くして、身をすくめた。嘉平やハツは無論の事、この家の女主人さえも、この書面の内容などは、知る由もなかったが、ただ、この受け渡し方法は、ハツがこの家に奉公するようになった時から決められていた事で、誰にも知られてはならない極秘である事は、三人とも、重々承知していた。嘉平などは、もし万一他人に見つかったら、「付文(つけぶみ)だと言って置け」と、言いつけられていた。

新左衛門が帰国する半年も前に、姪のハツを橋本屋に奉公させるように、密かに言われた嘉平には、その書面が、とても大切な物である事が、薄々分かっていた。新左衛門から嘉平に、嘉平からハツの手を経て、橋本屋の大奥様の手に渡り、それから、橋本屋の江戸支店に、品物と一緒に運ばれ、江戸の奥用人が受け取って、藩主の奥方様に差し出し、奥方様から直接藩主の手に渡るという極秘の伝達方法は、新左衛門が藩主から受けた、極秘の使命を生かす、最適な方法だったのである。

他国者に対しては、非常に警戒心の強いこの藩の気質は、いくらこの国で生まれ育った新左衛門でも、長年、江戸屋敷で暮らしていたから、やはり他国者と同じ眼で見られていた。ある種の警戒心と、よそよそしさの中で、新左衛門が、「妻を亡くし、職を離れて、少しボケの来た老人」という噂を立てられたのは、まことに都合のいい話であった。種々雑多な噂話や、人の動きなどから、必要な事だけを的確に拾い出し、筋道を立てたものにするという特異な才能を、新左衛門は持っていた。

そして、その集めた情報が、極秘の伝達方法によって直接手元に届く事、これが、藩主の真の狙いだったのである。



第二章  隠居  ---了---

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◆第三章  政変◆




或る朝、総登城のふれ太鼓が鳴り響いた。唐突な事だったが、藩主が帰国したのが三日前なので、何か又、訓話でもあるのだろうと、不審の念を抱く者もなく、全藩士が、大広間に参集した。

「皆の者、大儀である。」

出座した藩主・兼光が、厳かに言った。

「ハッ、ハァーッ、・・・」と、家臣一同がひれ伏した。

その時、何を思ったのか、藩主が立ち上がって、つかつかと家臣の中に入って行った。慌てた国家老達が、止めようとすると、

「邪魔するな!そこをどけ!」

と、一喝され、その気迫に恐れをなして、ただ呆然と見守っているばかりであった。近習の若者達に取り囲まれ、用意された床机(しょうぎ)に腰掛けた藩主の眼は、らんらんと輝き、驚いて見上げる家臣達の一人一人の顔を、鋭く見返していた。

「皆の者、よく聞け!そもそも、そち達の家禄は、一体、誰から与えられているのか、承知して居るのか?藩主たる余が、与えているものである!その根本を、よくよく肝に銘じて、これから、余の申す事を心して承れ!先般、西国のさる藩が、お取り潰しになった。禄高、家臣の数など、我が藩に良く似た藩であった。」

「何故そうなったのか。藩主は無論の事、家臣一同が路頭に迷うような事が、何故起こったのか、余は考えてみた。そして、我が藩にも、同じような事が起こらぬとは、言い切れぬと思った。藩内の揉め事は、必ず、幕府の耳に入る。西国の藩は、長い間、揉め事があったがために、取り潰されたのだ!省みて、我が藩に、そのような事はないと、言い切れるだろうか?揉め事は一切ないと、断言出来るか?現に、余が帰国のご挨拶にお伺いした、ご老中のさるお方から、ご注意を受けた。余が、どれほど恥ずかしい思いをしたか、そち達に分かるか?いや、余が恥をかいたくらいで済まされる内は、まだ良いのだ。もし万が一の事にでもなれば、それこそ、取り返しはつかぬ。」

「重ねて言うて置く。そち達の家禄は、藩主たる余が与えて居るものである!藩主が、いや、藩そのものが、なくなってしまえば、そち達は、たちまち路頭に迷うのだ!それを忘れるな!余のため、藩のためにのみ、励め!勤めよ!・・・・・・大目付・尾上兵部(おがみひょうぶ)、これにまいれ。これを読み上げよ!そして、周知徹底させよ!」

藩主は、懐中より一通の書面を取り出して渡した。それを拝受した大目付は、朗々たる声で、力強く読み上げ始めた。

「上意!・・・・・・全藩士に申し渡す!

ひとぉーつ!・・・みだりに太刀を抜いてはならぬ! これは、私怨による私闘を禁ずる措置で、この禁を犯したる者達は、理由の如何を問わず、双方とも、切腹させ、家名は断絶させる。

ひとぉーつ!・・・徒党を組む、或いは、集会を行う事を禁ずる!
婚礼、又は、葬儀たりとも、許可なくして行ってはならぬ!道場、学問所と言えども、すべての門弟の姓名と、その開催する刻限を、新たに届け出て、正式な許可を得るべし!・・・」

大目付の大声は、大広間に居並ぶ家臣達を圧した。それに、何よりも、その内容に、度肝を抜かれたのである。しぃーんとした異様な静けさの中で、又一段と高く、藩主の声が響いた。

「加藤正嘉(まさよし)、能勢半兵衛(のせはんべえ)、両家老とも、隠居を申し付ける!早々に職を辞し、家督を譲り渡せ!市村信正、そちを筆頭家老に任ずる。後の処置は、そちの初仕事じゃ。尾上は、余の部屋にまいれ。他の者達は、散会せよ!」

大事件であった。あまりの衝撃に、身じろぎさえ出来ぬ有様であった。やがて、みな一様に押し黙ったまま、職務に戻る者、家路を辿る者、それぞれが重苦しい気分を胸に抱いて、散って行った。誰もが、まだ何か起こるのではないかと、恐れおののいていた。それが何であれ、現状を変える事への不安が、藩内に充満した。藩主の熱弁があってから、半刻(一時間)が過ぎた頃、大目付は三十名の特別部隊を二隊、編成し終えて、すべての準備が整った事を、藩主に報告した。

「よし!もう、そろそろよかろう。加藤、能勢、両名の屋敷を取り囲め!内に居た者は、一人たりとも逃がすな!許可なくして集合したる者として、捕らえよ!それから、両家とも、即刻、家督を継ぐ者に隠居届を持たせて出頭させよ!遅れたる時は、廃絶するものと覚悟せよと、申し渡せ!よいな!」
「ハッハアーッ!」

平伏した大目付には、殿の意図が分かっていた。両家の取り巻きの者、へつらう者達を、一網打尽にするつもりなのだ。絶対、逃がさんぞと思った。



第三章  政変  ---了---

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◆第四章  疑心◆




未曾有の大激震が、藩内を駆け抜けてから、すでに一ヶ月が経っていた。家臣達にも笑顔が戻り、穏やかな日々が流れ始めていた。 その頃になると、あの大事件の陰に隠れていた、小さな笑い話が、人々の噂に上った。最も軽蔑の笑いを得たのは、旧家老の後継者たる愚息どもであった。彼等は、それぞれの父親の隠居届が受理されて、お目見えを無事済ませれば、何とか、それなりの家督が継げるものと、甘い期待を胸に、登城したのだったが、待ち受けていたのは、御前試合であった。

「父親達の積年の恨みを晴らすべく、双方とも、死力を尽くして闘え!」

と命じられても、日頃の怠惰な生活は、彼等の愚息ぶりを、より一層浮き立たせただけであった。かくして、彼等の運命は決まった。家禄は激減され、職は、山奥の番所という有様だった。続いて行われた人事の異動は、かなり広範囲に渡ったが、誰の眼にも、公平適切なものとして映り、さしたる障害もなく、順調に進んだ。



「父上!本日は、面白い話を聞いてまいりましたぞ!」

若者が、対座するやいなや、喋り始めた。ここは、新たに家老に抜擢された御木本彦介(みきもと・ひこすけ)の居間であった。

「これ!もう少し落ち着かんか!そのような事では、加藤や能勢の子息達と同じではないか!あれほど言うて聞かせて居るのに、まだ分からんのか!」
「いえ、大丈夫でございます。私は、あのような愚か者とは違います。道場も、学問所も、充分励んで居り、友人も、長年付き合ってきた者ばかりで、近頃になって、そばに寄ってくるような者は、相手にしないようにして居ります。ご安心下さい。」

「さようか。先ずはよかろう。で、お前の話というのは?・・・」
「これは、噂として囁かれている話ですが、確かな筋より出たものとも思えますので、・・・」
「もったいぶらずに、早よう要点を話せ。」

「はい。では申し上げます。よくよく考えてみれば、このたびの事は、如何に主君(との)がご聡明であらせられようと、お一人だけの知恵では、到底、これだけの事は出来かねます。誰か、ご助言申し上げた者が居る筈。それは、江戸藩邸に居られる奥方様、もしくは、その縁に繋がる者ではないかという事です。ご存知の通り、奥方様のお実家は、誉れ高きお家柄、そこには、かような事に長た知恵者が居て、あらましの立案をしたのではないかという話なのです。つまり、「黒幕が居たのではないか」という噂です。どう思われます?・・・」

「ふーむ。・・・・・・あり得る話ではあるが、・・・しかしのぉー、辰之介。これは、もっと深い所に眼を配らなくてはならんのだ。わしが家老に任ぜられたその日のうちに、藩士の配置換えについてのご下問があったが、わしの意見をお取り上げになったのは、中級藩士の分で、上級藩士の分は、かなり詳細な所まで、出来上がって居った。それを考えると、今のお前の話とは、少し違うと思う。黒幕は確かに居たであろうが、奥方様のお実家ではなく、むしろ、それは、国許の実態を良く知っている人物の筈じゃ。」

「しかもじゃ、これが肝心な所じゃが、わし等の行動などのすべてが、どこかで見張られて居て、それが筒抜けに殿のお耳に入ると思われる。加藤や能勢は、それを知らなかったために、あのような無様な醜態を招いたと考えねばならん。わしは、その轍を踏みとうはない。わしは、いや、お前達も含めて、わし等は、いつ、いかなる時でも、万全の注意を払って、行動するのじゃ。無論、口も慎まねばならぬ。それ以外に、方法はない。・・・」

「そんな!・・・父上!・・・」

御木本父子は、わが身に降りかかっている事の重大さに、しばし絶句した。隙あらば、噛み付こうとしている悪鬼を、垣間見た気がしていた。若者が、重苦しさに耐えかねて、口を開いた。

「それにしても、誰でしょうか?そんな恐ろしい使命を帯びた人は?・・・」

「実の所、わしにも分からんのだ。思い当たる人物を、あれこれ思い浮かべてみたが、どれも違うようじゃ。考えて考え抜いた結果、わしは、こう決心した。いくら考えても分からぬものは分からぬ。そんな事に無駄な力を使うのはやめよう。すべてを忘れて、ただ一心に殿の御ため、藩のためにのみ、日夜勤めれば良いのではないかとな。お前もそのつもりで、日頃の言動に、細心の注意を払ってくれ。何事も慎重にな。分かったな。・・・」
「・・・・・・・・・・」



第四章  疑心  ---了---

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◆第五章  立案書◆




北国の冬は、駆け足でやって来る。ついこの間、初霜を見たばかりなのに、もう雪がちらつき始め、人々も草木も寒さに身構える日々がやって来た。

ここは、大和屋の茶室である。二人の男が、たぎる茶釜の音を、静かに聞きながら、対座していた。気温の低さが、夜の静けさを一層深くして、この座敷の張り詰めた気配を包んでいた。一人は、この家の主人、大和屋伝兵衛、もう一人は、乾 新左衛門で、初対面の挨拶を済ませ、主客それぞれの座に、落ち着いた所であった。

「いやあ、驚きましたな。正直のところ、このようにして、お会い出来るとは思いませんでした。橋本屋さんから、ごく内密でお会いするように、とのご連絡をお受けしました時には、まさか、と思いましたよ。実は、貴方様の事は、少し前から、調べさせて頂いて居りました。いえなに、私どもが、何をどうするという訳ではなく、ただ、先頃の一件が、どうにも腑に落ちない事ばかりだったものですから、あれこれと調べているうちに、貴方様にたどり着きましたような次第でして。」

「すでにご存知の事と思いますが、私どもは、これまで能勢様には、随分と肩入れをさせられていまして、・・・いえ本音を申せば、近年では、それが煩わしくなって来て居りまして、どうしようかと思案して居りましたところに、あの事件でしょう?先代からのご縁だったものですから、多少の損は覚悟の上で、能勢様からのお申し越し通りに致して居りました。ですから、ああなったからと言って、誰をお恨み申すでもなく、むしろ、ほっとした気分なのでございます。」

「ただ、そのぉー、あまりにも鮮やかなお手並みでしたので、いくらご聡明と評判の高いお殿様でも、お一人では、ああまで、見事に お出来になれる筈はない。これにはきっと裏がある。それを知りたい。という風に思ったものですから、・・・まあ、商人の性(さが)とでも申しましょうか。気になる事は、納得行くまで調べるという気質でしてな。それやこれやで、ほんの数日前、貴方様の江戸藩邸でのお働きを、知ったような訳でして、・・・苦労した甲斐がありました。」

「江戸藩邸での難事件を、見事に解決なされたお腕前を知った時は、本当に驚きましたよ。いえ、正直、半信半疑でした。それに又、橋本屋さんのお話では、直接お目にかかった事もないお方とか。お芝居で言えば、黒子の役に徹して居られた方が、突然、表に出て私のよ うな者と、あえて話がしたいと仰るのには、よほどの理由があるのだろうとは思いましたが、さてそれが、どういうものなのか、さっぱり見当もつかず、昨日から、とても不安でした。ま、命までは取られもすまいと、腹をくくって居りましたが、・・・・・・」

「ふーむ、さすがは大和屋殿。何もかもお見通しでござるな。ならば、率直に申し上げる。拙者が、何もかも棄てて、こうしてまかり出ましたのは、貴殿と直接、腹を割って談合致したく思ったからでござる。これからお話する事は、すべて、拙者のこの胸の内にのみ収めてある事、まだ何人にも打ち明けてはござらん。それを貴殿にのみ、今ここでお話するのは、ひとえに、貴殿のご協力を得たいがためでござる。」

「貴殿を男と見込んで、お願いするのでござる。言わば、『男と男の話』でござる。そのおつもりで、お聞き願いたい。拙者、嘘隠しなくお話するつもりでござれば、貴殿も、是非とも、その胸襟を開いて、お答え願いたい。そのためにこそ、礼儀として、黒子の面をはずして、今宵、まかりこしましたる次第。拙者の、生涯ただ一度の表舞台でござる。どうか、拙者の胸中をお察し下されて、切なる願いをお聞き届け下され!」

新左衛門は、両手をついて、深々と頭を下げた。これを見た伝兵衛は、慌てて、手を差し伸べた。

「めっ、めっそうもない!どうぞ、お手をお上げくださいまし!それでは、話がしにくうございます。・・・・・・分かりました。貴方様のお気持ちは良く分かりました。それにしても、私のような者に、これほどの思い入れをなさったお武家様は、初めてでございます。よろしゅうございます。私も男のはしくれ。これほどまでに見込んで下さった貴方様の言う事なら、何でもお聞き致しましょう。決して、否やは申しません。」

「それは良かった。かたじけない。やはり、大和屋殿は、思った通りのお人であった。これで話が進められる。」

新左衛門の口調には、安堵感が溢(あふ)れていた。大和屋伝兵衛は、口にこそ出さなかったが、もし伝兵衛が彼の言う事を聞き入れなかったら、新左衛門は、必ずこの場で切腹しただろうと思われるほどの切迫感を、ひしひしと感じていた。そこには、或る種の感動的な雰囲気さえあったのだ。

「ずばり言おう。大和屋殿、貴殿の財産を、半分ほど減らして下され!その代わり、貴殿の名が、百年・二百年、いや、五百年・千年の後までも残るのだ!必ずそうなる。そう信じて貰いたい。男、大和屋伝兵衛の名を上げる、絶好の機会なのだ!・・・」

そう言われても、当の本人は、ただ呆気に取られているばかりだった。突拍子もない話だったのだ。伝兵衛は、無言のまま、相手の顔を、まじまじと見つめていた。新左衛門は、委細構わず、話を続けた。

「失脚された能勢様の、明け渡されたお屋敷の処分に、今、お重役方は、頭を痛めて居られる。なかなか良い思案が浮かばないのだ。そこで、拙者が考えた。そもそも、あの立派なお庭と建物は、大部分が大和屋殿・貴殿の懐(ふところ)から出ている事は、周知の事実。であるからして、これを貴殿に下げ渡す。無論、無償で。だが、貴殿も、今さら貰っても困るであろうから、これを或る場所に移すという条件をつける。藩の西方に、法光寺という寺がある。ご存知であろう。そこに、能勢様のお庭と建物を、移して貰いたい。」

「法光寺には、誰か偉いお上人様に来て頂いて、あの付近の村々のまとめ役をして頂くつもりで居る。そのための念仏堂と言うか、寄り合い処と言うか、そういうものを建てて貰いたいのだ。如何かな?・・・」

「ふーむ。・・・・・・思いもよらぬ事を仰る。驚きましたな。・・・どうも、・・・ふーむ、・・・」

伝兵衛は、思わず腕組みをして、考え込んでしまった。度肝を抜く話だった。驚きなどは、もうとっくに通り過ぎ、今はただ、新左衛門の熱意のままに、その意向に沿って、考える以外にはなかった。ややあって、伝兵衛が口を開いた。

「しかし、乾様。この話には、まだ続きがございましょうな。大きな事を言うようですが、この大和屋の身代は、そのくらいの事では、びくとも致しませぬぞ。」

「さすがは、大和屋殿。ようこそ、そこまで気付かれましたな。お察しの通り、これは言わば、幕開けの第一場というやつでして、まあ、幕開けというやつは、出来るだけ派手な方がよろしい。そのおつもりで、盛大にやって貰いたい。それが、近隣六ヶ村の農民の心を引き付け、やがては、一つになる。それが肝要なのだ。村人の心をまとめ、一つにするための方法は、貴殿の才覚なら、いくらでもござろう。祭りの時のように、派手に賑やかにやって、人々の心を浮き立たせれば、何時の間にか、一つにまとまって行動するようになる。それが狙いなのじゃ。」

「何故、そのような事が必要なのか?今、この時に、どうしても、やりたい理由は?・・・という疑問がござろう。それをこれから、お話しよう。このたび、国家老になられた市村様は、生来の律義者、何事にも、慎重になされて、ともすれば、政事が、滞りがちになって居る。確かに、大事件の後の大掃除には、打ってつけの人物ではござるが、さて、この後が問題でしてな。疲弊した藩を、再建するのは、容易な事ではござらぬ。市村様を筆頭とする今のご重役方には、残念ながら、藩を立て直すだけの力は見られず、さりとて、これに換わるべき人物も居ないのが現状でござる。」

「如何に英明な主君の後ろ盾があろうとも、人の心が一つにならなければ、何事も成功しないのは、自明の理でござる。その一番良い方法は、戦じゃ。戦になれば、上も下も領民も、みんな一つになって、力を合わせて闘う。だが、それも、この太平の世には、ないものねだりと申すもの。かと言うて、このまま放置すれば、やがては藩士の心は新体制から離れ、藩の再建どころか、実力のあった加藤、能勢のどちらかが、又、返り咲くという事にもなりかねない。」

「このたびの政変に対する期待が、大きければ大きいほど、失望の度合いも深まり、元の方が良かったなどど言い出す者が増えてくるのは必定。それでは、主君のご英断も、『無に帰す』事になり、我が藩の行く末が、惨めになるのは、目に見えて居る。ごく一部の者達だけが甘い汁を吸い、大部分の藩士や領民達は、困窮するのだ。これを、何としてでも、防がねばならぬ。このたびの改革は、是非とも、成功させねばならぬのだ!分かって下され!大和屋殿!・・・」

新左衛門の熱弁は、なお一層激しくなった。そこには、この国を救いたいという一念が、ありありと見受けられた。その誠意は、伝兵衛にも良く分かった。熱い思いは伝わったのである。これは、言い換えれば、一つの、男と男の戦いでもあったのだ。そして新左衛門は、圧倒的勝利を得たのである。だが彼は、なおも言葉を続けた。

「ご重役方が、如何に凡庸であろうと、何かが起これば、たちまち、藩内は一致団結する。藩士の心を一つにした結束が出来上がる。その何かを起こしたい!藩士を結束させたい!拙者が、そのお膳立てをするつもりなのだ!そこでだ。まことに、唐突ではあるが、貴殿のお手元にある『吉野ヶ原開拓の立案書』の控えを、頂きたい。貴殿が、能勢様に渡された、あの立案書の控えだ。無償で、下されと言うのは、随分と虫のいい話だが、その代わりと申しては、少々筋違いかも知れぬが、貴殿もご存じない話を、お聞かせ申そう。」

「あの開拓案は、能勢様の切り札となる筈であった。そうですな、大和屋殿。だが、相手の加藤様の手元にも、同じような開拓案があった事は、誰にも知られていなかった。加藤様の持っていたものは、能勢様のものよりも、数年も前のものだったが、それでも、実現可能な案だった。それを立案したのは、林部左内という郷廻りの下級藩士なのだから、実際の土地造成には詳しく、しかも耕作する農民の立場に立って、すべてが考えてあった。」

「彼は、その生涯をかけて立案し、これを建白書として、差し出した。だが、その差し出した相手が悪かった。加藤様だったのだ。その頃、すでに野望を抱いていた加藤様は、これを時期早々として、懐深くしまいこみ、林部や、その他のこれを知ってる者達に、固く口止めをした。悪い事に、林部本人が、その後まもなく、不慮の死を遂げ、それと共に、すべてが忘れ去られてしまった。・・・」

大変な話である。伝兵衛は、こんな興味深い真相を、何のてらいもなく、ただ淡々と語る新左衛門の顔を、改めて、まじまじと見つめていた。

「もしあのまま、両家老の抗争が続いて居れば、二つの案は、真正面から、ぶつかり合ったであろうが、どちらも、表に出る事なく、握りつぶされた。両者とも、この血と汗の滲んだ案を、藩再建のためには、大きな足がかりとなるべきこの案を、世に出す気など毛頭もなく、恐らくは、もはや、灰塵に帰してしまったであろう。だがしかし、拙者は、林部が万一を考慮して、誰にも知られぬ所に秘匿して置いた立案書の控えを、手に入れる事が出来た。それは、まったくの僥倖(ぎょうこう)であった。」

「拙者は思った。『これは神のお告げである。そして、もう一方の立案者たる大和屋殿の手元にも、必ずや、控えがあるに違いない。それを頂いて、双方を見比べて、検討するのが、拙者の使命である』と。そして又、この難事業をやり遂げるだけの財力が、藩にない以上は、これをやるのは、大和屋殿、貴殿の他にはござらぬ。この通りでござる。拙者に、その立案書をお渡し下され!そして、この事業を、引き受けて下され!この通り、お願い申す!・・・」

新左衛門は、両手をついて、頭を深く下げた。彼の熱意は、岩をも通すほどであった。伝兵衛は、思わずにじり寄って、眼を潤ませながら、畳についた新左衛門の手を取って、しっかり握り締めていた。



第五章  立案書  ---了---

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◆第六章  再会◆




三日に一度の割合で、新左衛門が良く行く居酒屋があった。下級藩士、土方人足、大工、左官、などの人達がたむろしていて、いつも騒々しい中で、新左衛門は、様々な情報を耳にしていた。それらのすべての噂話や、世間話の中から、必要なものだけを取り出し、整理して、伝達網に乗せる彼の苦労は、才能があるとは言え、大変なものであった。

いつもただニコニコして酒を飲んでいるだけの新左衛門に、格別の注意を払う者は誰も居なかったが、その煙のような存在になりきるためには、変わりない行動をする努力が、必要だったのである。しかし、今夜の新左衛門は違っていた。彼の頭の中は、吉野ヶ原開拓の事で、一杯だった。



大和屋の持っていた案は、さすがに、金を積んで専門家に作らせただけあって、立派なものであった。それに較べれば、林部の案は、稚拙そのものであった。だが、そこには、大和屋のものとは全然違う何かがあった。農民の立場に立った視点とでも言うべきものが、随所に見られたのである。その両方の良い所だけを取るという当初の方針に変わりはないが、新左衛門の苦悩は、そう都合よく、簡単には合体しない所にあった。

林部の案では、吉野ヶ原一帯を水田にするための、水漏れ防止用に入れる最下層の粘土を、鷹取山の中腹から掘り出し、そのために出来た穴を利用して、天水池を作るという、一石二鳥の方法を考えていた。最下層の土から、一番上の土まで、幾層にも土を重ねる事に重点を置き、土に関しては、細かすぎるほどの配慮がなされていた。しかし、最も重要な、原野の周囲を固めるための石積みの方法や、その石の量などについては、大和屋の案の方が、はるかに優っていた。

だが、奇妙な事に、両者とも、その石積みに必要な石の埋蔵量については、ほぼ一致していたのである。(蛇足ながら付言すると、石積み用の石は、山中にある石でなければならない。河原の石は、みず石と言って、石垣には使えない。)その推定された埋蔵量では、原野の周囲を固め、水田を区画するための石はどうにか間に合うが、天水池の分は、まるで不足するのだ。その事は、林部本人も、立案の途中で気付き、水田の分も、天水池の分も、最小限に減らしたのではないかと思われる節が、見えていた。

一方、大和屋の案も又、粘土などの客土の量を最小限にして、石垣の高さを抑え、石の使用量を減らして、水を遠くの谷川から引くための水路の方に回していた。だが、山奥の水は、いつも冷たい。冷水では、稲の育ちは悪い。天水池を考えていた林部は、それを力説していた。新左衛門は、天水池の方法を取る事に決めてはいたが、問題は石にあった。石が豊富になければ、天水池は頑丈には作れない。いい加減な作り方では、池の決壊を呼び、水害で全滅という惨事じに、繋がるのだ。その最後の、最大の難関に、新左衛門は、苦悩していたのであった。



酔えない苦い酒を、いつも通りに口にして、同じような時刻に、いつもの道を辿っていた筈が、考え事をしていたせいで、ふと気がつくと、どこかで道を間違えていた。

「はて?・・・どうするかな?・・・」

と、思案しながらあたりを見回すと、雪明りの向こうの道端に、うずくまっている人影が見えた。近づいてみると、年老いた町家の女のようだった。

「どうした?・・・」

新左衛門は、優しく声を掛けた。

「転んで、足をたがえたようで、・・・痛くて、いたくて、・・・」
「どれどれ、見せてごらん。・・・ああこれはいかん。お前の家はどこだ?この近くか?・・・」
「はい。その角を曲がって、三軒目ですが、・・・あっ!いたたっ!」
「よしよし。わしがそこまで送ってやろう。さっ、わしの背に乗れ。手をかけろ。遠慮するな。さあ早く、・・・」

やがて新左衛門は、一軒の町家の玄関に立っていた。無論、老女を背負って。

「ごめん。誰か居らぬか!怪我人を連れてまいったぞ!上がるぞ!」
「ハァーイ。あらまあ!お松さん!どうしたの?・・・」
「早く布団を敷け!手桶に水を汲んでこい!それから、医者を呼びに行け!」

てきぱきと指示しながら、新左衛門は、老女を背負ったまま奥へ入って行った。一応の手当てが済んで、怪我人も、その家の者達も、ほっと一息ついて落ち着いた頃、女主人が、改めて挨拶をするために、新左衛門の前に来た。

「このたびは、誠に、ありがとうございました。なんとお礼申してよいのやら、・・申し遅れましたが、私、この家の主人、橋本屋の由貴と申します。以後、お見知り置き下さりませ。もしお差し支えなければ、お名前をお聞かせ下さいませ。」
「なにぃ!橋本屋とな!・・・」

新左衛門は、絶句した。あれほど、細心の注意を払って作った、極秘連絡網の要に居る人が、眼の前の、この人であろうとは!・・・・・・由貴も又、その様子に眼を見張った。

「これはこれは、いやはや、誠に、奇遇でござるな。お互い、今、初めてお目にかかった訳でござるが、・・・・・・そのぉー、何と申してよいのやら、・・・・・・お互いに、名前だけは熟知していた間柄で、・・・拙者、乾新左衛門と申す者でござる。」
「えぇーっ!・・・貴方が、あの乾(いぬい)さま!・・・」

今度は、由貴が絶句した。そして、じぃーっと、新左衛門の顔を見つめていた。彼の主君への報告書を、秘密の手段で、江戸藩邸まで、人知れず、長い間送り届けていた由貴にとって、必ず、一度は手にした書面の主が、乾新左衛門という姓名である事だけは知っていても、決して、顔は見知ってはならない事であった。そうする事が、由貴の役目を、人に知られないための、最良の方法であったのに、今、ここで、計らずも出合ってしまったのだ。

それでも、その事は、絶対に口にしてはならないと分かっていたから、その事に触れるつもりはなかったのだが、由貴が考えていたのは、もっと別の、はるか遠い昔の、記憶だったのである。

「あのぉー、・・・誠に失礼かと存じますが、もし間違っていたら、お許し下さいませ。乾様は、今宵、お松を背負われたように、二十一年前、巡礼の老女を、背負われた覚えが、ございませんでしょうか?・・・・・・」

突然の話に、今度は又、新左衛門が驚いた。

「うっ!・・・さあぁて?そのような事は、・・・・・・いや、まてよ?・・・そう言えば、そのような事があったような気がしたぞ!先ほど、この家のお女中を背負って歩いた時、ふと、遠い昔、どこかでこれとそっくり同じような事を、したような気がして居ったが、・・・・・・おお!そうじゃ!・・・巡礼と言われて思い出したぞ!確か、あれは、・・・そうじゃ!見返り峠じゃった!・・・二人の女巡礼!そうか!・・・あの時の若い娘御(むすめご)が、お手前!なるほど、なるほど。・・・・・・ふーむ。まさしく、これも奇遇じゃ。今宵は、まあ何と、奇遇だらけで、・・・何と申したら良いのやら、・・・ふーむ。そうか!そうであったか!・・・」

しきりに感慨深げに頷いている新左衛門の前で、一膝下がった由貴は、深々と頭を下げ、

「お久しゅうございました。・・・・・・その節のご親切は、誠にありがたく、終生忘れがたく、・・・」

と、途中までは言葉になったが、後は、ただただ肩をふるわせ、とめどなく溢れる涙を、拭う事さえ忘れていた。


第六章  再会  ---了---

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◆第七章  石◆




翌日、新左衛門は、一日中ぼんやりと、昨夜の出来事を考えていた。そもそも、このたびの彼のお役目は、藩主の奥方様の発案であった。奥用人としての職務を、遅滞なく、円滑に遂行していた新左衛門を、奥方様は、前々から高く評価していたが、突発した難事件を、見事に手際よく解決して以来、その信頼は、ゆるぎないものになっていた。そして、藩主の苦悩を知ると、その解決策として、隠密としての新左衛門を推薦した。その通信手段として、藩の奥向きの出入り商人、橋本屋に眼をつけた奥方様の指示を受けて、詳しく調べたのは、他ならぬ新左衛門自身だったのだ。その時の調査では、おおよそ、次のような事が分かっていた。

橋本屋の主人が、商用で隣国に行った時、たまたま宿屋で倒れ、それを看病したのが、その宿の女中をしていた由貴だった。由貴の誠意ある看護ぶりに、心引かれた橋本屋正一郎は、熱心に口説いて、死んだ妻の後釜に迎えた。当時の橋本屋は、正一郎が病身だったせいもあって、商いは、あまり上手く行っていなかった。先妻の子、男女二人を抱えて、由貴は懸命に働いた。

由貴に商才があったのか、やがて、次第に橋本屋は繁盛し始め、とうとう、江戸に、出店(でみせ)を持つほどになった。長い間、病床にあった正一郎は、大いに満足して、安らかに、あの世に旅立って行った。こうした経過に、奉公人の多くは、「大奥様のためなら、命さえも棄てる」と言ってはばからないくらい、心酔していた。表向きは、若夫婦が店を任されてはいたが、同業者の間では、堅実な商法と共に、由貴の実力は、相変わらず、高く評価されていた。

これらの来歴を踏まえて、藩主の密命が下り、新左衛門が帰国する半年も前に、忠実な下僕 嘉平の姪のハツを、橋本屋に雇わせ、極秘の伝達網を、完成させて置いたのである。この一連の事項は、新左衛門とは何の関係もなく、ごく秘密裏に決定されたものであって、決して、彼の特別な意図が、働いた訳ではなかった。それは正に、天の配剤としか言いようのない出来事だったのだ。



昨夜、由貴は、眼を輝かせながら、こう言った。

「母は、五年前に亡くなりましたが、亡くなる日まで毎日、貴方様の事を申して居りました。『もう一度お会いして、お礼を申し上げたい』と、うわごとのように。私も、あの日以来、一日たりとも忘れた事はございません。あの折、貴方様に諭されたお話のすべてが、私の生涯の教訓として、心に刻み込まれて居ります。『どんなに長く厳しい冬でも、やがては春が来て、終わる。だから辛抱するのだ。』と、おっしゃいました。それから又、『人を信じ、運命(さだめ)に素直に従って、生きよ』とも、・・・その一つ一つが、今も、この胸にあって、私の生き方を支えてくれているのです。・・・・・・」

その当時、うら若き娘であった由貴に、このような感銘を与える言葉を、喋ったという覚えはなかったが、それにしても、あの時の小娘が、自分の今回のお役目の重要な部分を、担うような人になっていようとは、さすがに新左衛門にも、到底、思いも及ばぬ事であった。その衝撃が、一日中、新左衛門の心に、まつわりついていたのである。



三日後、新左衛門は、再び、由貴の家を訪れていた。表向きは、老女中・松の見舞いである。珍しく良く晴れた、暖かな昼下がりだった。思いのほか軽症だった病人の喜びと共に、由貴やハツの、どこかウキウキしたもてなしぶりに、新左衛門も、心が和んだ。

「乾さま、お松さんが言ってましたよ。貴方様におんぶされただけで、足の痛みがなくなったって。ずぅーっと昔、大奥様のお母様をおんぶした事と言い、貴方様におんぶされると、何かいい事があるようですよ。私もお願いしてみようかしら?・・・」

「いや、それは駄目じゃ。大きな声では言えぬが、あの夜は夢中で背負ったが、翌朝、腰が痛くてのぉー、つくづく老いを知らされたわ。それでな、今後は、足をくじいた人を見かけたら、そっと避けて通る事にした。ましてや、おハツさんは、お松さんより二倍も三倍もありそうじゃ。それを背負っては、わしの腰がもたぬ。ハッハッハッハ・・・・・・」
「まあ!ひどい!・・・そりゃぁ、私はお松さんより軽いとは申しませんよ。でも、二倍も三倍もなんて、いくらなんでもひどすぎます。ねえぇ、大奥さまぁ?・・・」

「さあぁ、どうでしょう?ハツは、この頃良く食べていますから、・・・」
「あらまあぁ!大奥様まで、そのような事を!・・・よろしゅうございます。大奥様がそのように仰るのでしたら、ハツも、あの事を乾さまにお話してしまいます。いえ、だめです。良く食べるハツの口は、良く動くんです。お覚悟あそばせ。それに、これは、とっても良いお話なのですから、是非とも聞いて頂かないと、ねえぇ乾さまぁ、・・・」
「うーん、さあ、なんであろうかのぉー、・・・」

ハツは、新左衛門の方に向き直り、膝を乗り出して、喋り始めた。

「ずぅーっとずぅーっと昔、大奥様は、誰かさんに助けて頂いた時、かんざしを頂いたんですって。何でも、それは、お妹さんのために、江戸から、わざわざ買ってきた品だったそうですが、それを、お金の足しにするようにって、惜し気もなく下さったんですって。ありがたくって、もたなくって、それはそれは大切にしまっていらっして、何か困った事があると、それを取り出して、『お助け下さい!私の心の旦那様!』って、拝むんですって、・・・・・・」
「そっ、そんなぁ!・・・そんな事言ってません!」

由貴が慌てて、手を振った。

「いいえ駄目です。ハツの耳は、地獄耳ですから、何でも聞こえるんです。大奥様の独り言でも、ちゃぁんと聞こえているんですからね。おや?・・・大奥様、お酒でも召し上がられましたぁ?・・・お顔が赤くなりましたよ。それとも、お熱でも出てきましたか?・・・・・・」
「ハツ、もう、かんにんしてぇ、・・・」

由貴は、消え入りそうになりながら、もじもじしていた。このような、武家屋敷にはない、町家特有の明かるい主従のやりとりを、新左衛門は好ましく思い、由貴の小娘のような恥じらいを、微笑みながら眺めていた。しばらくすると、医者が来た。その応対のため、由貴もハツも、そちらに行ってしまい、一人になると、さほど飲んではいない酒が、心地よく全身にまわった新左衛門は、座布団を枕に、横になって眼を瞑った。やがて戻って来た由貴は、そんな新左衛門の寝姿を見て、すぐに、どこからかカイマキを持って来て、そぉーっと掛けながら、傍らにひざまづいた。

と、眠っていた筈の新左衛門の手が、由貴の手を掴んで、手繰り寄せた。胸に抱かれた時、由貴は眼を瞑り、身体の力を抜いた。新左衛門に吸われた唇から、わななきが全身に走って行き、激情の嵐が、二人を包んで行った。



ふと、新左衛門は、眼を開けた。眠ってしまった事に気付き、カイマキをはね、ゆっくりと起き上がると、眼の前に、つつましく座っている由貴の姿があった。黙って出された茶を、黙って飲んだ。何も言わなくても、心は、充分、通い合っていた。

「ご造作を、お掛け致した。」
「いいえ」

手早くカイマキを片付け、まぶしそうに、新左衛門を見上げる由貴の顔には、喜びが溢れていた。

「そなたに言って置かねばならぬ事がある。良く聞いて貰いたい。拙者のこれからの生涯は、もう、それほど長いものではない。だから、一日でも早く、そなたと一緒に暮らしたい。表向きは、拙者が刀を棄てさえすれば、武士の身分から町人になりさえすれば何の支障もなく、すぐにでも出来る事ではあるが、知っての通り、拙者には、お役目がある。それが、最後の段階に来て、つまづいて居る。一歩も前に進まぬ。もし、これが出来なければ、拙者も、主君も、いや、藩全体が危ういのだ。」

「だから、拙者の命を賭けたこの事が、無事完了するまで、待っていて欲しい。そなたと、こうなった事を、悔いる気持ちは毛頭ないが、かと言うて、今、そなたと夫婦(みょうと)になるのは、拙者の心が許さぬ。それ故、今しばらく、待っていて欲しいのだ。」

「はい。いつまでもお待ち致して居ります。私は、待つ事には慣れて居ります。二十年もの間、貴方様と、こうして出会える日を、待って居りました。それに較べれは、どれほどの事がありましょう。貴方様のお心のままになさりませ。私の事など、ご放念下さいませ。」
「かたじけない。お分かり下さるか。だがのぉー、石がのぉー、・・・」
「えっ?石でございますか?・・・お庭にあるような?・・・」
「いやいや、そうではない。ただの石じゃ。石垣に積む石、普通の石。・・・・・・・ま、気にせんでもよろしい。これは、拙者の問題なのじゃから、・・・・・・」

そのまま、新左衛門は、口をつぐんだ。二人の間に、静かな沈黙の時刻(とき)が流れた。やがて、由貴が、何か喋らずには居られない気持ちになって、口を開いた。

「あのぉー、少しお話しても、よろしゅうございましょうか?・・・」
「うん?うん、なんなりと、・・・」
「昨年の春の事でした。私共の店の番頭の中に、長岡村の出の者が居りまして、その番頭の母親の葬儀に列席するため、長岡村まで出向いた事がございました。帰りに、桜を見に行こうという事になりまして、村の後方にある山に登りました所、それはそれは見事な桜が、今を盛りと咲いておりました。しばらくは、その美しい眺めに、見とれて居りましたが、ふと、私は見たのです。貴方様のお姿を、・・・その見事な桜の向うの、古い崩れかかったお城の石垣の処で、桜を見上げていた貴方様のお姿を、はっきりと見たのです。後で、夢、幻だった気がつきましたが、その時の貴方様のお姿は今でも、この眼に、焼きついて居ります。・・・」

「あっ!まて!ちょっとまて!今、そなた、確か、長岡村と申したな?・・・もしや、法光寺というお寺が、近くにあるのではないか?」

今まで、由貴の話を、ただぼんやりと聞き流していた新左衛門が、慌てて聞き直した。

「ええ、そのように聞いて居ります。何でも、今度、偉いお上人様が、お出でになるとかで、評判でした。」
「で、そこの古城は、そなたが見たという古いお城は、どのくらいのものじゃ?・・・」
「さあぁ、どのくらいでしょうか。かなり大きなもののようでした。山のお城ですから、石積みが多くて、それが所々崩れていて、・・・」
「それじゃ!それじゃ!そこにあったのか!・・・・・・よう話してくれた!かたじけない!礼を申す!今度は、そなたが、わしを救ってくれたのじゃ!いやどうも、めぐり合わせとは、このような事を申すのかのおー。ふーむ、なるほど、なるほど!・・・・・・」

新左衛門は、由貴の手を両手でしっかり握ったまま、何度も何度も、うなずいていた。



一ヶ月後、吉野ヶ原の開拓立案書が、藩主の手元に届いた。見事なまでに、細部に渡り注釈がついていて、これなら、間違いなく成功するであろうと、確信の持てるものだった。そして、それとは別に、一通の書状があった。それは、新左衛門からの、「お役目返上願い」であったが、それと共に、由貴との婚姻の許可願いも、添えてあった。



数年後、さしもの難工事も、遂に完成した。今や、吉野ヶ原一帯には、美しい稲穂が、風になびいていた。そして、法光寺の境内の、能勢屋敷から移築された念仏堂の入り口近くに、吉野ヶ原開拓に関する頌徳碑が、建立された。それには、藩主兼光様の功績を賛美した頌徳文と共に、この工事に従事した主だった者達の名が、刻んであった。

無論、大和屋伝兵衛の名は、ひときわ大きく、目立っていた。だが、乾新左衛門の名は、どこにもなかった。藩主は、影の功労者たる新左衛門の名を、何とかして残してやりたいと思い、法光寺の僧正に、内密で相談した。僧正は、村長(むらおさ)の最長老を呼んで、話し合った結果、良い案が浮かんだ。吉野ヶ原の一番奥に、清らかな水が、コンコンと湧き出る小さな泉があった。その水は、どんな日照りの時でも、決して、枯渇する事はなかった。

そこに、祠を建て、地蔵尊を祭り、その台座に、乾新左衛門の名を刻ませた。村人達は、これを、乾(いぬい)の地蔵さん、イヌイジゾウ=イヌジゾウ=犬地蔵と呼んで、吉野ヶ原一帯の美田の、「守り本尊」として崇め、末永く敬愛したと言う。


第七章  石  ---了---


長編小説  犬地蔵由来  ---完---


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