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長編小説 因習の果て
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近年、農村の疲弊は、目に余るものがある。 特に、山村においては、もはや、手の施しようがない。 僅か、四十数年前までは、 子供達の歓声に、満ち溢れていた谷間の山村に、 現在(いま)は、大人の声すら聞こえない。 静寂と言うよりは、 むしろ、死の沈黙である。 |
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小池忠は、火葬場に来ていた。 そこは、近隣四ヵ町村の共同で設立された、火葬場であった。 僧侶の読経の中で、妻の多美江に、最後の別れの焼香を済ませ、お棺が窯の中に入るのを見届けてから、参列者と共に、控え室に入った。 これから一時間ほどは、亡き妻が骨だけになるのを、ここで待っていなければならない。 忠は、人々に挨拶を済ませてから、トイレに行き、そのまま建物の外に出た。 ほんの少しの間でも、妻の事を、一人で偲んで居たかったからであった。 初冬とは言え、柔らかい日差しが樫の梢にきらめき、陽光を浴びて立つ背に、ぽかぽかとした温もりが感じられた。 見上げると、高い煙突から、細い黒い煙が、青空に吸い込まれるように、すぅーっと、真っ直ぐに昇っていた。 忠は、多美江の若い頃の、にこやかな笑顔を思い浮かべ、「俺もすぐ行くからな」と、心の中で呟きながら、じわっとこみ上げてくる涙を、拳で拭った。 そこへ三女の澄江がやって来て、同じように空を見上げながら、独り言のように言った。 「あれが、お母さんの、この世に生きていた、最後の証なのね。」 「・・・・・・・・・・」 「苦労ばっかりしていた、可哀相なお母さん。・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 忠は、この澄江には、頭が上がらなかった。 六人もいる子供達の中で、最後まで母親の面倒を見てくれたのは、この娘だった。 多美江は、澄江の住んでいる町の病院に入院していたのだが、その臨終を看取ったのは、忠と澄江だけだったのだ。 澄江は、親に一番反抗した娘だった。 五番目に生まれたためか、親達もあまり眼をかけず、そのくせ、上の兄弟達には苛められ、独立心の強い女の子に育っていた。 中学を卒業すると、小さな病院の住み込みの働き口を、自分で見つけて来てさっさと家を出て行った。かなり苦労もしたろうに、何一つ愚痴もこぼさず、准看護婦の資格を取ってしまった。 結婚適齢期になると、親のすすめる話には見向きもせず、自分で好きになった人と一緒になると言い張って、遂には、勘当同然の扱いを受けながら、盲目の男と世帯を持ってしまった。 子供達が、全員親元から離れて行ってしまうと、やはり、普通以下の扱いをした澄江が、不憫に思えた。 しかも、澄江達が暮らしている町が、忠達の住んでいる菅平部落に、一番近かった。 それやこれやで、何時の間にか、妻の多美江が頼りにし始め、澄江の方も孫達を連れて、頻繁に遊びに来るようになり、親子の絆は、見る見るうちに深まって行った。 障害者を夫に持った澄江は、そのせいか、母親が、不治の病に取り付かれた時、病人の苦痛が良く分かり、励ましたり、慰めたりしながら、献身的な看護をしてくれたのである。 他の兄弟の誰よりも貧しかったが、誰よりも人情味があった。 「人間の豊かさは、金銭に関係なく、心の持ち方一つで決まる」という事を、身をもって教えてくれたと、忠はしみじみ思ったものだった。 長男も次男も、忠がいつも「他人に負けるな、少しでも上になるように努力しろ」と教えていた事を、忠実に実践した挙句が、自分本位の人間になってしまったのだ。 たまに帰ってきた時にも、自分の自慢話や、ゴルフの話、子供達の話などをするだけで、親達の行く末など、まったく考えても見ないような様子だった。 澄江を除いた他の娘達も、口にするのは自分達の子供の事だけで、少し余裕があっても、それはそれで使い道があり、親達の事に使う気持ちなど、どこにもないという風であった。 確かに、忠は子供達の世話などにならなくても、充分生活して行けるほどの収入はあった。妻を入院させても、困るような事はなかった。 だが、だからと言って、病院に顔を出さなくてもいいという事にはならない。約半年の間に、一度や二度の見舞いでは、他人と同じなのだ。 それもこれも「みんな自分の育て方が悪かったのだ」と言って、泣いていた妻が哀れで、忠も思わず、貰い泣きをした。 しかし彼は、それを口にして、子供達を責める気には、なれなかった。 親を思う気持ちは、責められたからと言って、出てくるものではない事を良く知っていたからである。 子供の心の奥底にある温かさだけが、親という老人の、最も欲しいものなのだ。 「でも、お父さん。立派な葬式だったわね。大変だったでしょう?」 「うん。・・・まあな。・・・」 忠は思っていた。「こんな豪華な葬式は、もう二度と、誰にも出せないだろう」と。 だが、それも虚しいのだ。 これほどの事をしても、それを、尊敬の念を持って語り継いでくれる村人達が居ないのだ。 「現在はいいよな。どんな葬式をしようと、誰からも、文句は言われないからな。」 何時の間にか、澄江の後ろに立っていた、親友の毅(たけし)が言った。 「そうだなぁ、・・・」 と、忠は感慨深く頷いたが、澄江には、その意味が分からず、訝しげに、毅の方に振り向いた。 「スミちゃんには、分からないか。分かるように、説明して上げよう。昔々の、俺達がまだ若かった頃の話だ。 俺達は、その頃流行ってた生活簡素化運動ってのに共鳴しててね。 何でもかんでも簡略に、お金をかけずに済まそうっていう事を、広めようってしていたんだ。 つまり、結婚式や、お葬式に、無駄な金をかけるなって事さ。 そんな時、俺んちの婆さんが死んで、葬式を出す事になった。 俺が親父を説得して、俺んちの家の格からすれば、本来なら十人以上の坊さんを呼ばなきゃいけない所を、六人で済ますっていう事にしたんだ。簡素化運動だからね。 だが、部落中の人達から、猛反対された。 「どうしても、そんな簡素化ってのをやるって言うんなら、誰も手伝わねえ。一人で、好きにやれ」って、言われてしまった。 当時は、みんな土葬でね。 墓穴堀りから始まって、お棺(かん)を山の上の墓場まで担ぎ上げる事や、食事の準備や後片付けなど、すべてが部落の人たちの手を借りなければ、出来ない事だったんだ。 その部落の人達に、そっぽを向かれたら、どうする事も出来ない。泣く泣く、言いなりになって、慣習(しきたり)通りにやったよ。 それから少し経って、今度は、忠の家のじい様が亡くなった。 こいつは、当時、金を沢山持っていたから、坊さんを十人呼びたいって言ったんだ。そのくらい派手な葬式をしたいっていう訳。 だが、これも反対された。「家の格に合わない事は、やってはならない」ってね。 俺の時は、「家の格に見合った葬式をやれ」と言われ、こいつの時は、「家の格に相応(ふさわ)しくない事は、するな」と言われて、反対された。 現在では、葬儀屋がすべてやってくれるから、誰の手伝いも要らない。お墓だって、骨箱一つ、納めるだけですんじまう。 だから、どんな葬式をしたって、誰からも文句を言われない。いい世の中になったもんさ。 俺達の頃は、部落は違っても、同じ因習に縛られていたんだ。・・・」
第一章 黒い煙 ---了---
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それは、昭和二十二年の夏の、或る夜の事であった。 ホタルが乱舞し、カジカガエルが騒々しいほど鳴き競う小川の、岸辺の水車小屋で、忠は多美江を抱いていた。 若い二人のセックスは、あっけなく終わる。それでも気分は晴れる筈だった。 だが、二人とも、心の底に、何か深く淀んでいるものを感じていたから、そこには、華やいだ普通の恋人同士のような、雰囲気は、なかった。 しかも、その原因が、何であるかを、良く知ってもいたのである。 特に、多美江は、追い詰められていた。 忠 二十四才、多美江二十三才、好き合っていて、普通なら、結婚に何の支障もない年齢の筈なのに、この二人には、大きな壁が立ち塞がっていた。 それは、村の掟とでも言うべき、慣習であった。 長男の忠が継ぐ家の格が、多美江の家の格と、あまりにも、かけ離れすぎていたのである。 「家の格の違い」 それは、古い因習に縛られた村々の間では、大変なものだった。 親類縁者の付き合いから始まって、祝い事などの正式な座席の順序、祭りの寄付金の多寡など、数え上げれば、きりのないほど、すべてが、それによって決められていた。 それが、村人を律する規範だったのだ。 その規範に従えば、嫁は、同じランクの家か、或いは、少し下のランクの家から貰うというのが常識で、よほどの事のない限りは、その逆(上から下へ嫁入りする事)は、あり得なかった。 ましてや、忠の家は、所謂、「来たり者」の家柄であった。 忠の先祖は、親子代々、炭焼きを職業として、諸所方々を転々として暮らしていたが、祖父の代になって、菅平部落の片隅にあった、木炭の貯蔵小屋で寝起きするようになり、やがて、いつしか、その傍らに、小さい家を建てて、本格的に住み着いてしまったのである。 つまり、流れ歩いていた素性の知れない者が、部落に住み着いた訳で、従って、その身分としては、最下層の扱いを受けていた。 それに引き換え、多美江の家は、分家とは言え、代々村長(むらおさ)をしていた家系だった。 いくら、民主主義の世の中になったからと言っても、山間部の農村なのだ。当然、昔ながらの慣習は、根強く残っていた。 多美江の父親が、家柄の違いを強く言い張って、二人の結婚を、絶対、許さなかったのも、そういう大きな背景があったのである。 一年中、ゴットンゴットンと、単調な響きを立てているこの水車小屋の、今、搗いている籾は、仕上がるのに、明朝までかかるので、それまでは、誰も来ない事を、二人は知っていた。 (ここで、蛇足ながら、水車小屋について、説明して置く。) 籾を水車小屋の石臼に入れて、水の力を利用した杵で約半日ほど搗くと、玄米(げんまい)と籾殻(もみがら)に分かれる。 一度、取り出して、玄米のみに選別して、再び、その玄米を石臼に入れて、約一時間ほど搗くと、米になる。 長い間、電気がなく、従って、機械による精米所がなかった時代、水車小屋は各部落に必ず一つはあった生活必需品であった。 だが、それを所有し、管理していたのは、部落の長老だった。 賃借料は僅かなものであっても、それを使用する順番を決めたりするのは、長老の権限だったのである。 従って、食料の重要な部分を押さえられていた部落の人達が、長老に頭が上がらなかったのも、当然の成り行きだったのである。 多美江は、まだ乳房をまさぐっている忠の指に、自分の指をからませながら言った。 「今日ね、田んぼへ行く道で、ばったり義男さんに会っちゃったの。 あの人ったら、ニヤニヤしながら、「明日が楽しみだね」って言うのよ。 嫌な奴!嫌い!私、あの人、大嫌い!・・・ ねえぇ、私、もう、我慢出来ない。今夜、このまま、あっちに行っちゃだめぇ?」 「駄目だよ。何度も言ったろう。俺達は、ただ単に、恋の逃避行をするんじゃないんだって。 足入れだの、何だのっていう古い習慣を打破するために、闘っているんだって。 だから、多美ちゃんが、自分の意志で、自分の力だけで、やらなくちゃならないんだ。 小鳥が、巣から飛び立つように、親から離れて独立するんだ。それが出来なくちゃ、俺達の理想は、実現出来ないんだよ。 ねっ!分かってくれ!しっかりしてくれよ。」 「ええ、分かってはいるけど、・・・ 「勿論さ。俺達は、もう何があろうと、結婚するんだ。一生涯、一緒に居るんだ。そのために、頑張るんだ。 いいね。・・・」 多美江は、明日の夜、父親が勝手に決めた「足入れ」を、義男の家にする事に決まっていたが、それに反抗した多美江を家出させる計画が、すでに出来上がっていて、その最後の確認を、二人は、していたのだった。 そもそも「足入れ」とは、如何なる行事であろうか? それが、古くから農村に伝わる慣習である事ぐらいは、殆どの人が知っているだろうが、さて、その方法とか、意義については、あまり知られては居ない。 人々の、出生から婚姻、出産、死亡まで、記録するようになったのは、明治以降の事で、それ以前は、周囲の人々が認めさえすれば、それで良かったのである。 婚姻も、「あの女は、誰それの嫁、どこそこの家の嫁」と、認めて貰えれば、それで良かった。(婚礼は、認めて貰うためのお披露目だった。) しかし、そういう正式な手続きには(婚礼を行うという)、村人が暇な時期という制限があった。(料理やら何やら、大勢の人手が必要だったから、) それでも、急に、病人が出たり、死者が出たりして、働き手が不足した家では、その補充は、最大の急務であった。 幸い、その家には、適齢期の長男が居た。それに嫁を迎えさせよう。だが、婚礼は、農閑期まで延ばそう。 そういう思惑があって、事実上は、結婚したと同様に、「同居してその家の一員として働く事」を条件に、娘を迎え入れる事を、「足入れ」と言ったのである。 だが、こうした元々の趣旨を拡大して、その家の嫁として相応しいかどうか、試験的に同居させるために、「足入れ」をさせるという事も、あったらしい。 それはともかくとして、「婚礼を、後日に回した嫁取り」というのが、本来の「足入れ」なのだから、「足入れ」をした娘が、離縁になるなどという事は、めったにない。 でも、つい先頃、どこかの部落で、「足入れ」をさせられた娘が、夫となる男とのセックスを拒み続け、とうとう破談にして貰い、親達も説き伏せて、結局は、好きな男と一緒になったという豪傑娘の話が、その付近一帯の評判になったが、それでも、「足入れ」という慣習そのものに、疑念を抱く人はいなかった。 それほどまでに、この慣習は、村人達の間では、ごく当たり前の事だったのである。 多美江の場合、忠との結婚に猛反対した父親が、悪い虫のついた娘を、急いで片付けてしまおうと、少し格下ではあったが、丁度、年齢的には釣り合う義男に眼をつけ、その父親に、半ば強引に頼み込み、明日の夜、「足入れ」をさせる事に、決めてしまったのである。 青年団長になっていた忠が、如何に優秀な若者であっても、その父親が「来たり者」の小作人の家柄では、到底、釣り合う筈はないと、多美江の父親は、頑固に、思い込んでしまっていた。 一方、忠自身は、戦前、戦中の強い因習の中で育ち、その「暗黙の掟」なるものが、どのようなものであるか、骨身にしみて分かっていた。 子供の頃、村一番のガキ大将であっても、祭りの日には、太鼓は叩かせて貰えなかった。そういう正式な行事の時は、決まって、疎外されるのである。 地主の子と小作人の子とは、普段は仲良く遊んでいても、いざという時には歴然たる区別があった。それが忠には口惜しく、何度も、人知れず泣いたものだ。 だが、昭和二十一年の春、忠が戦地から奇跡的に生還してみると、世の中は一変していた。 それまで、地主の土地を耕作して、作物の半分以上を取り上げられていた小作人が、田畑を実際に耕作していた者に、格安で譲り渡す法律が出来て自分のものにする事が出来、作物のすべてを手にする事が出来た。 その上、デモクラシーとやらいう思想が、うんざりするほど声高に叫ばれ、平等の権利、人権の尊重、言論の自由、などが、盛んに主張された。 又、一方では、木炭が大変なお金になった。作っても作っても、高値で売れた。炭焼きの技術は、そう簡単には、習得出来ないものだったからである。 地所持ちにはなる、お金はどんどん入って来る、たちまちのうちに、忠の家は部落一番の裕福な家になってしまった。 家屋も新築し、さあ今度は「嫁取り」だと、心当たりに口をかけてみたが、世の中は、そうそう甘くはなかった。「部落の掟は、まだ生きている」と、思い知らされたのである。 最下層の家の跡取りだった忠には、それ相応の娘しか、縁談話が持ち込まれなかった。 青年団長になったり、共産党のシンパになったりして、積極的に行動する忠を誰もが称賛したが、それは、同じような旧最下層グループの間での話で、部落の上層階級は、如何に落ちぶれたとは言え、彼の力の及ぶ所ではなかった。 部落内での行事は、昔からの慣習通り、掟通りに行われていた。 そんな時、親友の毅が知恵をつけた。「多美江を口説け」と、けしかけた。 となり部落ではあったが、同じ年齢の二人は、気の合った幼馴染だった。特に、戦後は、同じ思想に共鳴し、常に、行動を共にしていた。 知能派の毅と、行動派の忠とは、とてもいいコンビになっていた。 多美江は、毅の隣の娘で、長老の家の分家の生まれだった。長老の家は、親分とも呼ばれ、部落の縁組の大半は、仲人をしていた。 仲人をして貰った家は、子分衆と呼ばれ、何事にも、先ず親分の意向を聞いてからでなければ、始まらなかった。 例えば、田植えである。 人の力のみで行われていた時代には、部落中の人手が必要だった。 「しろかき」(稲を植える前の、田を整える作業)「あぜ作り」などの男衆の仕事も、稲の苗を一本一本植えて行く女衆の仕事も、大勢の人手が要るのだ。 しかも、部落中の田植えを、短期間で終わらせるためには、水の配分から始まって、順序良く実施して、各々の家の田が、過不足なく仕上がらなければならない。 それを指図するのが、親分の役目であった。 稲作が、共同作業によってのみ可能な時代には、集団の長(おさ)が必要であり、その命令によって、すべてが遂行されて行くのは、当然の事であった。 こうして始まった村々の慣習は、時代を経ると共に因習となり、人々を縛り付けるものになって行く。 しかし、その反面、そういう慣習こそが、細々と、肩寄せ合って生きて行く山村の人々の、「結束する固い絆(きずな)」となっている事も、忘れてはなるまい。 「因習は打破せねばならぬ。そして、みんなが平等な社会を作るのだ」と、デモクラシーの熱に浮かされた忠が、多美江と共謀して、一つの事件を起こそうとしていたのには、こんな複雑な背景があったのである。
第二章 足入れ ---了---
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翌朝、多美江は、「峠の畑に行く」と言って、家を出た。 お弁当と鎌を入れた籠背負った野良着姿の娘に、母親は、「早目に帰っておいで」と、声を掛けた。 父親は相変わらず、囲炉裏端で気難しい顔をしていたが、その頑固な父親の決めた事に、逆う事も出来ずに、ただ黙って泣いるばかりだった娘を、母親は、慰める術も知らず、ただ、おろおろと見守っているだけだった。 それでも、時が経てば、どんなに深い悲しみでも忘れる事が出来ると、長年、夫に従順に仕えてきた母親は、軽く考えていた。 それに、父親も気が咎めるのか、「今日一日は、好きなようにさせてやれ」と言っていたので、その朝は、笑顔で多美江を送り出した。 まさかそれが、事件の発端だったとは、知る由もなかったのである。 峠の畑は、地味が肥えていて、大根もサツマイモも、良く育った。ただ、そこまでの道のりが遠く、誰でも必ず、弁当持参で行くのだった。 こうして、親達は無論の事、誰にも気付かれずに、峠の畑に登りついた多美江は、イモヅルの中に隠してあった風呂敷包みを、籠に入れた。 それには、ブラウスとスカートと靴と財布が、入っていた。彼女の唯一の協力者だった弟が、前日の夕方、こっそり、置いておいてくれた品々だった。 すべてを入れた籠を背負って、多美江は、再び歩き始めた。 今度は、山の尾根伝いに続く細い道を、登って行った。 少し行くと、向うへ下る道と交差する場所に来た。 それは、多美江の部落とは反対側の、山すそにある部落に通ずる道だったが、そちらの方の部落の人達の耕作地は、この山にはないので、滅多に登っては来ない、獣道のような道だった。 子供の頃、ガキ大将に連れられた部落中の子供達(多美江もその中にいた)が、冒険のつもりで、この道を下って、ふもとの部落まで行った事があった。 その時の、かすかな記憶を頼りに、多美江は、その道を下り始めた。 だが、知らない道を辿る心細さに、何度も足を止め、引き返そうかと思ったが、その都度、忠との約束を思い浮かべ、又、思い直して、一歩二歩と狭い道を下り始めた。 しばらく行くと、道は次第に広くなり、とうとう木立の間に、家並みが見えて来た。 ホッとしながら、誰もいない(皆、野良仕事に出かけていて)部落を通り抜けると、電車の線路が見えた。 その線路沿いに少し行くと、無人駅があった。 駅の近くの木陰で、野良着を脱ぎ、洋服に着替え、地下足袋を靴に履きかえた。 野良着などすべてを風呂敷に包んで小脇に抱え、鎌と籠は棄てた。 待つ間もなく、電車が来た。 見知らぬ人達が、二・三人降りて、乗ったのは、多美江ただ一人だったが、誰一人として、彼女に注意を払う者はいなかった。 行き先は、毅の叔母が嫁いでいる、隣県のF市だった。 こうして、多美江が、一大決心をして実行した「家出」は、あっけなく成功してしまった。 一方、忠は、毅達青年団役員と、朝から、K市に出かけていた。 祭りの飾り物や、演し物に必要な品物の購入という名目だったが、実は、映画を観るのが本当の目的だった。 夜遅くなって帰宅してみると、部落中が大騒ぎになっていた。 「多美江が居なくなった」と、言うのである。 忠にも、毅にも、完全なアリバイがあった。 二人とも真相は知っていたが、いや、本当は、「家出」を計画した張本人達だったが、知らぬ存ぜぬで押し通してしまった。 警察へ届けようと、言い出した者がいたが、それを留めたのは、母親だった。弟が、多美江の「書置き」を手渡したからである。 それには、「忠さんとの結婚を、どうしても許してくれないのなら、自殺する」と書いてあった。 親達は仰天した。 特に父親は、大変な衝撃を受けた。いくら頑迷な男でも、娘は可愛かった。死なせたくはなかった。 しかし、家の体面も守らなければならなかった。それに、いくら口約束であっても、こちらから無理に頼んだ「足入れ」なのだ。そうそう簡単に破談にする訳には行かなかった。 慣習を重んずる人々には、一旦約束した事は、万斤の重みがあったのである。 思い余って、相談に行った妻の実家の義弟の前で、彼は男泣きに泣いた。進退窮まったのである。 これを見た義弟は、こう言った。 「まあ、義兄(にい)さん、落ち着いて下さい。 大丈夫ですよ。この私が、一肌脱ごうじゃありませんか。任せて下さい。悪いようにはしませんから。 でもねえ、義兄さん。これからは、もう少し考えを変えて下さいよ。世の中が変わったんです。戦争に負けて以来ね。 いつまでも、昔の慣習にこだわっていては、今の若い者達は、ついて来ませんよ。家の格がどうのこうのって言ってる時代では、なくなったんです。 今の若い者には、彼等なりの幸せの感じ方ってものがあるんです。何事も、若い者の思うとおりにしてやらなくちゃぁ。 それが、今のご時世ってもんです。これからは、たとえ嫌でも、若い者の言う事を聞いてやって下さいよ。それで、万事が上手く収まるんですから。 分かりましたね。 まあ、今度の事は、私が乗り出す以上は、みんなの顔が立って、その上に、多美江も幸せになれるという方法を、何とか考えてみましょう。 ええ、大丈夫です。一世一代の知恵を絞って、考え出します。まあ、見ていて下さい。 これからの事は、すべて私に任せて、大船に乗ったつもりで居ていいですよ。 但し、これだけは、明日の朝早く、義兄さんにやって貰わなくちゃなりません。それは、義男の家に、謝りに行く事です。 とにかく先方に行って、平謝りに謝って置いて下さい。そして、「必ず、そちら様の顔の立つように、致しますから」と言うんです。私に一任した事も、忘れずに言うのですよ。 この役だけは、誰にも代われないのですから、しっかりやって下さい。その後は、家の中でじっとしている事。 何もしちゃあいけませんし、誰にも何も喋っちゃいけません。私が必ず上手く収めてみせます。 いいですね、義兄さん。しっかりするんですよ。・・・」 翌朝、多美江の父は、義男の家に行き、今まで、誰にも下げた事のない頭を一段格下の義男の父親の前で、深々と下げた。 その時、彼は、眼に涙さえ浮かべていた。 それは、一つの権威の、失墜の象徴であった。 そしてまた、一つの時代の終わりを告げる行為でもあったと言えよう。
第三章 下げた頭 ---了---
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部落中を驚愕させた、多美江の失踪事件は、その後始末も又、特異なものであった。 それは、多美江の父親の依頼を受けた義弟が、隣りの忠の家のある部落の長老と相談の結果、考え出した方法であったが、古いしきたりの枠の内での、やり方であった。 掟は、あくまでも、守ったのである。 忠が迎えに行って、一緒に帰って来た多美江は、「結婚出来る事になった」と言った忠の言葉に、胸を弾ませながら、自分の家ではなく、忠の部落の長老磯部弘一氏の家で、忠と共に、かしこまっていた。 二人は、この家の主人と、多美江の叔父・太一郎の前に座らされ、緊張で、コチコチに固くなっていた。 挨拶が済んで、二人の結婚の意志が変わっていない事を、改めて念を押された後、太一郎叔父が、二人を結婚させる方法について、説明し始めた。 「これはな。昔からある「子棄(こす)て、子拾(こひろ)い」という風習を応用したものだ。 お前達は無論の事、今では、この風習を知っとる者は、あんまり居らん筈じゃ。 だが、この際、お前達を一緒にするために、わし等が考え出した方法の、基本(もと)となっている話だから、良く聞いていて貰いたい。 昔の娘達の嫁入りは、早い年齢だった。殆どが、十四・五才で嫁に行った。 だから、子供も早くから産み始め、三十才前には、終わっていて、三十代で子供を産むのは、稀だった。 ましてや、四十過ぎで子供を産めば、それは、「恥かきっ子」と言われて、みんなに軽蔑された。 そのために、そういう子は棄てられたのだ。 無論、形式的な事で、予め、拾ってくれる人を決めて、お願いしてから、神社の前なんかに棄てるのだ。 そして拾った人が、その子が二・三才になるまで育てて、それから改めて、実の親達が、養子として引き取る。 こんなややこしい事をわざわざするのは、一つには、世間体を繕うためという意味もあるが、根本は、もっと深い親心にあるのだ。 考えても見ろ。妻が四十過ぎで子を産む時には、その子の父親は、五十を過ぎている。その子が一人前になるまで、生きていられると思うか? 昔の人は、あんまり長生きじゃあなかった。いや、たとえ生きていたとしても、家長として、その子の面倒を見続けられるほどの力を持っていられるとは、考えられない。 とすれば、その子が泣きを見るのは、火を見るよりも明らかだ。 それを防ぐために、その子の将来のために、親代わりの後見人になってくれる人を、最初から作って置くというのが、この風習の本当の意味だ。 そういう気持ちがあるのだから、拾ってくれる人には、必ず、実力者で、親代わりの責任を、充分果たしてくれる人を選ぶのだ。 誰でも良いという訳ではない。 お前達には、この風習が、子の将来を見越した、温かい親心から出ている事を、よくよく分かって欲しい。この風習を利用するわし等は、特に、多美江の父親の恩を、お前達の肝に銘じてもらいたいと思っている。 あの頑固一徹の親父(おやじ)が、誰にも下げた事のない頭を、義男の家で、泣きながら下げたのだ。 その気持ちが分かるか? そりゃあ「自分で蒔いた種だ」と言えばそれまでだが、それもこれも、みんな娘が可愛いと思えばこそやった事だ。それだけは、忘れるな。 お前達も、子供を持ってみれば分かるだろうが、どんな親でも、いつでも子供の幸せを願っているものだ。時代がどんな風に変わろうと、これだけは永遠に変わらないと思う。 ま、前置きが少し長くなったが、これから婚礼の方法を教える。 先ず第一に、多美江は家から勘当されて、棄てられる。 親の言う事を聞かなかった娘は、親子の縁を切る事によって、世間への見せしめとし、義男の家に対する義理を立てる。 つまり「子棄て」だ。 そして、多美江は、ここの家、磯部さんの家に拾われて、この家の娘になる。 「子拾い」という訳だ。 そうする事により、この家の娘になった多美江を、この家のご主人・磯部さんが何処へ嫁にやろうと、磯部さんの勝手であるという理屈が成り立つ。 分かったか? ま、こじつけに近い屁理屈だが、屁理屈であろうと何であろうと、相手の顔が立つような筋道さえついていれば、それでいいのだ。 義男の家だって、いまさら、どうしようもない事は分かって居るのだから、筋道さえ通っていれば、何も言わないのだ。 婚礼は、一週間後に行う。 嬉しいか?良かったな。忘れるなよ、親の恩を。 それから、これは当たり前の事だが、多美江は、今夜からこの家に厄介になる。当分の間、自分の家に帰ってはならん。 又、これも当然の事だが、婚礼には、多美江の親達は、出席出来ない。正式には、という但し書きつきだが、・・・ しかし、たまたま婚礼の日に、義兄さん達が磯部さんの家に遊びに来て、多美江の花嫁姿を見るという事までは、誰も咎められない。 分かるな?・・・そういう裏道まで用意がしてあるという事だ。安心しろ。 そこでだ。今度は忠の方だ。 お前は、本当の両親と、磯部さんという仮親の両親を持った多美江を妻にする事になる。四人の親を持った娘と結婚するのだという事を、しっかりと、心に刻んで置け。その責任をいつも忘れるな。 それに、このわしも、こういう仕組みを考え出した責任がある。だからいつも、お前達の事は見ているぞ。 まあ、多美江を幸せにしてやってくれ。頼んだぞ。・・・」 長い長い話は、ようやく終わった。 忠は、多美江と結婚出来る嬉しさよりも、この長老達が考えた事の重大さの方が、遥かにずしりと重く、心に響いた。 ただただ頭を下げ、ありがたく思うより他に、言葉の出しようがなかった。 念願かなって多美江と結婚出来た忠は、人が変わったように、猛烈に働き出した。朝早くから夜遅くまで、それこそ、寝る間も惜しんで働いた。 さらに又、多美江の実家(さと)帰りとか、盆や暮れの挨拶とか、種々雑多な付き合いの折には、必ず、実家と仮親との、二通りの手土産を用意した。 あらゆる気配りをして、二重、三重の出費を惜しまなかった。 恩義に報いるためという大義名分はあったが、本当は、彼は、少しでも早く長老達に認められ、その末席に加えられる事を願って、あえて、一生懸命に尽くしたのであった。
第四章 親の心 ---了---
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部落中を騒がせた忠達の事件から三年が過ぎ、人々が落ち着いた平凡な日々に明け暮れていた時、菅平部落には、またしても大事件が持ち上がった。 村人達の言葉を借りれば、「幽霊が墓場から戻って来た」のである。 部落の長老であり、多美江の「拾い親」にもなってくれた磯辺家には、忠より一つ年上の長男・茂春と、三つ違いの次男・茂明が居た。 茂春は、旧制中学に進学し(その頃は、中学に行ける者は、部落中で一人あるかないかだった。)、茂明は、高等小学校を卒業後、家に残って、病弱だった父親の代わりに、田畑を耕していた。 三年後、兄の茂春が中学を卒業して、農家の長男として本格的に働き始めると、茂明は、志願して海軍に入り、家を出た。 過酷な戦争が長引くにつれて、健康な若者はすべて、兵隊に招集されるようになった。茂春も、その一人だった。 昭和十九年の春、茂春に召集令状が来た時、磯部家では、家の血筋を絶やさぬためと、労働力の確保のために、急遽、「嫁取り」を行った。 僅か十日ほどの新婚生活で、茂春は戦地に赴いたのである。昭和二十年二月、茂春の「名誉の戦死」という公報が、磯部家に届いた。 その頃、茂春の妻・美登里のお腹には、赤子が育っていた。村人達の涙を誘った盛大な葬式を済ませ、立派なお墓まで建てたが、その年の八月十五日、戦争は終わったのである。 その当時、赤子を抱えた戦争未亡人は、何処にでも居て珍しい事ではなかった。むしろ、暮らしに困らないだけの田畑と、将来、赤子の手に渡される財産のある美登里は、「幸せと思うべきだ」と言われるくらいだった。 だが、磯部家の当主は、病弱だった。昭和二十一年夏、たった一人の孫の成長を見る事もなく、この世を去った。 美登里は、赤子を抱えて、姑と二人、力を合わせて、懸命に働いた。そうこうしている内に、その年の十二月、次男の茂明が無事戻って来た。 親戚一同は、男手のない磯辺家にとっての「もっけの幸い」とばかりに、無理やり、茂明と義姉(あね)の美登里を結婚させた。 「部落の長老の家を守るため」という金科玉条を唱えて、年上の、こぶつきの女を、茂明に押し付けたのである。 最初は、不承不承だった茂明も、引け目のある姉さん女房の美登里が、それこそ、傍目にもいじらしいほど、真心込めて尽くしたので、三ヶ月も経たないうちに、村で一番仲のいい夫婦と言われるようになった。 こうして、夫婦仲睦ましく暮らしていれば、当然の事ながら、二人の間に次々と子供が生まれ、先夫・茂春の子も、良く茂明に懐いて、一家団欒の日々が四年も続いた時、突然、とんでもない事が起こった。 もうとっくに戦死したと、誰もが思っていた茂春が、或る日、ひょっこり姿を見せたのである。 それは正に、「幽霊が墓場から戻って来た」と言えるほどの衝撃を、村人達に与えた。 本来なら、死んだと思っていた人が生きていた事が分かったのだから、もろ手を上げて喜ぶべき事だったが、五年も経ってから出て来られたって、浦島太郎じゃないが、周囲の状況は大きく変わっていて、そのまま素直に受け入る訳には行かなかった。 戦争が終わったのも知らずに、長い間、南方のジャングルの中で、孤独な生活を強いられていた事には同情はするが、だからと言って、「ご苦労様でした」と温かく迎えてやる場所がないのだ。 第一、美登里が、茂明と別れて、再び茂春と一緒に暮らす事を、承知する筈がなかった。茂春と暮らした十日間と、茂明と暮らした四年間と、較べてみれば、誰の眼にも明らかであった。 それに子供達が居た。子供達が茂明から離れて、茂春の元に行くという事は、絶対に、あり得なかった。茂春の実の子ですらも、・・・・・・ それに、茂春本人がすっかり変わってしまっていて、村人達は誰も、近づこうとさえしなかった。同情すべき点はあるにしても、ジャングルでの年月が、彼の神経を異常にしてしまった以上は、生半可な事は出来なかったのである。 だからと言って、追い出す訳にも行かなかった。彼もまた、戦争犠牲者の一人だったのだ。 急遽、親戚一同が集まり、色々と協議した結果、次のように決定した。 茂春は、生きている以上は、磯辺家の跡取りなのだから、彼の住むべき家は、磯部家の屋敷である。 従って、茂明は、現在住んでいる磯部家の家屋敷を明渡すものとする。但し、今まで、磯部家を守ってきた功績を考慮して、磯部家の財産を二つに分割し、片方を茂明に与え、もう片方を茂春が相続するものとする。 分家した茂明は、部落の外れの適当な場所に家を建て、菅平部落の一員として、ここにとどまるものとする。 現在茂明の嫁として暮らしている美登里は、本来なら、もともとの夫であった茂春のもとに戻るべきではあるが、子供達などの事を考慮して、そのまま、茂明の妻として、子供達と共に暮らして良い。 茂春・茂明兄弟の母親は、磯部家の嫁なのだから、当然、磯部家に残り、茂春と暮らす事。・・・・・ この決定の席には、忠も加わっていた。多美江の仮親が磯部家だったのだから、子分の一人として、末席に居た。 そして、このような結論がまとまりかけた時、発言を求めた。 「俺のような若輩者が、口を出す事ではないかも知れませんが、茂春さんと、同じような軍隊経験をした者として、少し言わせて下さい。 昔の軍隊がどうだったかは知りませんが、俺達の頃は、そりゃぁひどいもんでした。いきなり戦争の最前線に投げ込まれ、そこで、実地訓練を受けたんです。 一番嫌だったのは、木に縛り付けた敵の捕虜を、銃剣で刺して殺す事でした。今考えてみると、それが本当に捕虜だったかどうか、怪しいものです。 民間人だったとしか思えないような人も居たんですよ。 第一、捕虜をやたら殺しちまうなんて事ぁ国際法違反です。 でも、上官に命令されたら、その通りにやらなきゃぁ自分がひどい目に合わされるもんだから、目をつぶってでも、命令通りにやるんです。 敵陣に突撃する時だって、本当は、勇敢でもなんでもない。ただ、命令した上官や古参兵が怖いから、やたら突っ込むんですよ。 恐ろしいのは、後ろに居る味方なんですよ。その恐ろしさだけを考えて、他の事は、一切考えない。 つまり、人間っていう動物になりきってしまうんです。ま、早く言えば、一種の狂人、キチガイですよ。 だいたい、戦争なんてもんは、キチガイにならなくちゃ出来っこないんです。原子爆弾なんてでっかいもんから、ピストルの弾のような小さいものまで、みんな人殺しの道具です。敵をやっつけるって事は、人殺しをするって事なんです。 言葉も通じない、見ず知らずの人間同士が殺し合う。それが戦争ってもんです。誰だって普通の人なら、普通の精神状態なら、人殺しなんて出来っこない。 だから、身を守る本能しかない状態に、兵隊を訓練してしまうのです。そんな動物的状態になってしまった者が、人間としての知性や、人間らしさを取り戻すのには、かなりの時間が必要なんです。 正直言って、俺だって一年以上はかかりました。軍隊での俺は、全然別の人間だったんだって考え、忘れてしまおうと努力したんです。そうしたから、俺は立ち直れたんです。 実は、この間、茂春さんと、少し話してみました。その時の話では、茂春さんは、僕達には、とても想像出来ないような体験をしたのだそうです。 ジャングルの中で、食べる物がなくなり、死んだ戦友の肉を食べたり、しまいには、生きている仲間同士で殺し合いを始めて、相手の肉を食ってしまったという人が居たという話でした。 嘘か本当か分かりませんが、少なくても、それに近い経験はして来たのだと思います。そんな悲惨な経験をして来た人が、普通の人間に戻るのには、一年や二年は掛かると思うのです。 茂春さんの身の回りの世話をするのは、おふくろさんが最適なのですから、皆さんのご意見には大賛成なのですが、ただ一つ気がかりなのは、茂明さんの一家の事です。 この菅平部落に分家を建てて、ここで暮らすようにするという事ですが、美登里さんや子供達の姿を、毎日、眼の前で見る茂春さんの心境は、どうでしょうか? 本来なら、自分がそうなるべき筈だった幸せそうな家庭を、毎日見せ付けられて平気でいられるでしょうか? 普通の人でさえも、食べられないご馳走が眼の前にあるって事は、いらいらするものです。ましてや茂春さんは、精神的な病人です。これは、どう考えても、まずいと思うんです。 ですから、せめて、茂春さんの精神状態が落ち着くまで、茂明さん一家を何処か別の場所に移したらどうでしょうか?・・・・・・・・」 「ふーむ、そう言われりゃぁその通りだが、だからと言って、よその場所って言ったって、そんなに遠くには行けめえぇ?ここに耕す田畑がある以上は、ここからは離れられんのだ。 どうせ離れられんのなら、この部落の外れであろうと、別の場所であろうと、同じこっちゃ。 それに、磯部家の分家となる以上は、この部落の一員だ。この地区に住んで貰わんと困る。許されるべきこっちゃねえ。 ま、少し荒療治にはなるが、茂春に早く慣れて貰うためにも、こうするのがいいんだ。でもな、茂明一家を、この部落から追い出すなんて事ぁ、どんな事があっても、たとえ茂春が言い募っても、絶対にさせねぇ。 そんな世の中の道理に外れた事ぁ、通るもんじゃねぇ。 ま、言い出せば、色々あってきりがねぇんだ。 この案で納得して貰うべえ。茂春には気の毒だけんど、・・・」 忠の熱弁も、一蹴されてしまった。 しかし、だからと言って、不満が残った訳でもなかった。 この降って湧いた難問の解決方法は、あちらが立てば、こちらが立たずという風に、いくら知恵を絞っても、当事者全員が満足するような案はない事が、初めから分かっていたからだった。 時間(とき)を、さかさまに戻す事の出来ない現実には、人の考えなど、無力に近い。 こうして、さすがの大事件も、一応の決着を見たので、このまま収まってくれれば、部落には、又、平穏な日々が流れる筈だったが、・・・
第五章 家族 ---了---
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一ヶ月も経たないうちに、茂春が、酒に溺れるようになった。初めの内は、ただ一日中酔っ払っているだけだったが、次第に酒乱の様相を見せ始め、酒の勢いを借りて、暴れ出した。
忠が心配していた通り、彼の精神的な病気の症状は、予想よりも遥かに重かったのだ。 抱えている心の傷が、深ければ深いほど、人は何処かに、そのはけ口を求める。それが暴力であり、その暴力の対象が、弟の茂明と、美登里であった。 昼夜を問わず、茂明一家の前で、わめき暴れる茂春に、茂明達は耐え切れず、とうとう親子全員が、隣部落の美登里の実家に避難した。 だが茂春は、その実家の前にも押しかけて、大声でわめき、暴れ狂った。 こうなっては、茂明一家は、誰も知らない遠くに移住するしかなかった。茂明は、K市の近郊にある工場に就職し、狭いアパートの一室で暮らし始めた。 「狭いながらも、楽しい我が家」という歌の通りに、やっと、安住の地を見つけたのである。茂明が、曲がりなりにもこうする事が出来たのは、忠の陰の援助が大きかった。 忠は、「自分達夫婦の恩人の息子さんの事だから」と言って、金銭的な援助は無論の事、日頃培っていた政治家とのコネを利用して、就職の世話から、何から何まで、親身になって面倒を見たのであった。 一方、後に残った茂春は、暴れる対象が居なくなってしまったせいか、急に、おとなしくなり、目立たなくはなったが、相変わらず、酒ビンは手から離さなかった。 当然、田畑の耕作も、年老いた母親一人ではどうしようもなく、誰かの助けが必要であった。親戚一同が協議した結果、すべてを忠に任せる事になった。 忠は、その頃すでに、長老達の許可を得て、居なくなった茂明の田畑を、臨時の代理として耕作していたから、その「ついで」という意味もあった。 田畑を小作人に任せるという制度がなくなり、実際の耕作を他人に任せて、その収穫物だけを手にするという事を禁じられている現在では、忠の行為は違法ではあったが、そうでもしなければ、磯部家の田畑は荒れてしまい、それに隣接する田畑の持ち主が迷惑するのだから、やむを得ない処置ではあった。 こうして、理由は何であれ、ともかくも忠は、磯部家のすべての田畑を手にしたのである。それは、別の見方をすれば、長老の一人になった事を意味していた。 それから約一年後、茂春の母親が、心労のため死亡すると、後を追うように、茂春も自殺してしまった。 こうなってみると、菅平部落一番の長老だった磯部家は、自然消滅する。それは困ると、又、親戚一同が協議した結果、茂明に戻って来るように説得する事にした。 だが、茂明も美登里も、「部落(むら)に戻る気持ちにはなれない」と、はっきり断った。 彼等には、ここから追い出されるように逃げ出さなければならなくなった時、忠以外の親戚一同は、誰一人として助けてはくれなかったという恨みがあった。 「たとえそれが、やむを得ない事情であったにしても、もともと、こうなるような状況を拵えたのは貴方達じゃねえか。 『家を明渡せ』と言って追い出しといて、今度は『戻って来て家を継げ』なんて、勝手な事ばかり言われたって、そうそう言いなりにばっかりなってる訳にゃ行かねえ。俺も、それほどのお人好しじゃあねえんだ。 あの時、『先祖代々、家を継ぐ者は、長男と決まっている』って、あんた等は言ったんだ。それを聞いた時、俺は決心した。磯部家という『家』には、決して未練は残すまいってね。 だから、いまさら、ここに戻るなんて事ぁ、これっぽっちも考えられない。いいじゃねえか。磯部の家がなくなったって。それはそれで、仕方のねえこった。未練はねえ。 第一、俺は町に住んでみて初めて分かったんだが、ここは不便な上に、百姓は、割りに合わない仕事だ。いくら苦労したって、先行きに希望の持てないここでの生活に、誰が戻りたいもんか。 おらぁ絶対に戻らねぇ。・・・」 こう茂明に言い切られてみると、誰も反論出来なかった。こうして、部落きっての長老の家・磯部家は、断絶し、残された田畑は、全部忠が買い取った。 忠は、名実共に部落一番の「物持ち」になり、彼が密かに望んでいた通り、長老の仲間入り(それも上位の)を果たした。そして彼のたゆまぬ努力が認められ、とうとう忠の父親が菅平地区の区長に任命される日がやって来た。 区長と言えば、部落の長である。たとえそれが名目上のものであっても、なんと言っても、区長は、ムラオサなのだ。 そして、ムラオサは最上級の長老なのである。忠は、口にこそ出さなかったが、得意満面だった。 最下層の「来たり者」の家が、部落の頂点に立ったのだ。忠にとっては、太閤秀吉の天下取りに匹敵するほどの出世だった。 だが、この頃から、部落の凋落が始まっていようとは、忠本人は無論の事、誰一人として気付いていなかったのは、致し方のない事だったのかも知れない。 いみじくも、磯部茂明が何気なく言った言葉が、それを象徴していたのだ。彼は、磯部家の後を継がない理由の一つに、こう言ったのである。 「一度、都会での暮らしをしてみると、誰でも、二度と、ここでの生活に戻る気にはなれないだろう」と。 本当は、磯部家の消滅は、ただ単に、「一軒の家が空家になった」という事だけで済まされる問題ではなかったのだ。 長い間続いてきた家族制度が崩壊し、親子代々受け継がれてきた「家」という観念がなくなり、それと共に、「家族の絆」と「ムラの協同意識」が失われて、やがては、部落全体すらも消滅して行くという、冷酷な運命の象徴でもあったのだ。 忠の足元の砂は、もう崩れ始めていたのだ。 しかし、如何なる場合でも、時間は緩やかに流れる。 部落の崩壊は、少しずつ、ゆっくりと、目立たないうちに進んで行く。時代の変遷とは、そういうものなのである。 忠の父親が区長になったその年、またまた忠にとって、大飛躍するチャンスが訪れて来た。 吉岡町の町長が急死して、町会議員の議長をしていた小林太一郎が、町長選挙に立候補したのである。 多美江との結婚に尽力してくれた、恩人の、多美江の叔父の選挙なのだ。当然の事ながら、忠は、誰よりも奮闘努力して見せた。 しかしそこには、「太一郎叔父が町長になれば、彼の町会議員としての地盤を譲り受ける事が出来れば、自分も、町会議員になれるかも知れない」という密かな狙いもあったのである。 忠の思惑は、的中した。太一郎は町長になり、翌年行われた町会議員選挙で、忠は当選したのであった。 こうして、忠の「太一郎の腰巾着」と陰口を叩かれるほど、町長に密着した議員生活が、華々しくスタートしたのである。 吉岡という町そのものは、富士川に注ぐ大代川の、合流地点あたりに発展した町であった。 その大代川の支流の一つ、小縄川に沿って、十ほどの部落が点在していた。菅平部落もその一つであった。 忠が町会議員になったばかりの冬、小縄川の一番奥の部落から火が出て、たちまち山に燃え移り、大きな山火事になってしまった。 大勢の人々が駆けつけて消火に努めたが、火はいっこうにおさまらず、まるまる一昼夜燃え続けて、かなりの面積の町有林と国有林とが、焼失してしまった。 その時の消火作業の遅れは、道路の不備が原因であると、忠は、議会で力説した。 当時、国の過疎地対策というブームがあって、それに乗った町当局は、多額の補助金を当て込んで、小縄川の奥深くまで、自動車道路を建設した。 確かに、自動車の通れる道路は、物資の交流や、人々の往来には便利だった。車は、現代社会にとっては、欠かせないものであった。 道路が完成した時には、誰もが両手を挙げて喜んだ。だがそれが、山間の村々にとって、致命的な打撃を作るもとになろうとは、誰一人として予測し得なかったのである。 道路が出来た当時は、そのお陰で、部落から出て行った若者達が、頻繁に帰省し、親達を喜ばせた。 だが、短時間で帰省する事が可能になれば、都会に働き口を求めて、長男すらも家を出て、都会に住むようになる。その頃は、すでに農業は、老人達だけのものになってしまっていたからである。 こうして、結果的には、車道は、貯水池から流れ出る水を、より多くする役目を果たし、人も物資も出て行くばかりで、終いには、村に残っていた純朴な心さえも、何処かに、出て行ってしまったと言えよう。 最後まで世話を焼いていた澄江が、帰って行き、完全に独りぼっちになると、忠は、言いようもない虚脱感に襲われた。 広い座敷の大きなテーブルに、真新しい多美江の位牌を置き、その前で、冷酒を飲み始めた。独り言を言いながら飲む酒は、ただただ苦いばっかりだった。 「母さん、あの頃が一番良かったなあぁ。・・・ 俺が町会議員に当選した時、誰よりも一番喜んだのは、お前のお袋さんだった。 『これで、世間の人を見返す事が出来た』って、涙をぼろぼろ流して、喜んでいたっけ。 俺達は、昔っから一生懸命働いた。誰にも負けないくらい働いたから、こんな立派な家も建てられた。 でも、ケチじゃなかった。村のためになる事なら、進んで金も出した。 町会議員になったのも、村のために尽くそうと思ってなったようなもんだ。村のため、この村の人達のために、一生懸命つくした。そうだよなあ、母さん。 俺、今でもはっきり覚えている。ほら!あの時、俺達が結婚出来るようにしてくれた礒部さんの家で、言われた言葉! 『親を大切にしろ!他人には親切にしろ!この世は、人の情けで成り立っているのだ。それを忘れるな!』って。 俺達は、その言葉通りの事をして来た。それも、古い因習を打破して、新しい模範的な家庭を築いて、俺達のそういう家庭を、村人達に見せ付けてやるつもりだった。 それが、俺にとっても、母さんにとっても、生き甲斐だったんだ。 それなのに、・・・それなのにだ!・・・見ろ!この村を!・・・・・・ 周囲の景色は、ちっとも変わちゃいないのに、村がない!村がなくなっちゃってるんだ!・・・・・・ 家ばかりあったって、人が居ないんだ!村として成り立つほどに、人がいないんだ! もう半分死にかけている村。やがては消滅して行く村。俺達は、こんな風になるような村のために、努力して来たんじゃないんだ! そりゃあ、俺の親父もお袋も、満足して、感謝して、死んでったさ。何しろ、村一番の貧乏人が、区長さんになれたんだからな。 『倅達のお陰で、村人に尊敬されて、昔の事を思えば、まるで夢のようだ』って、いつも言ってた。 だが、俺達はどうだ? 母さんは、あの世に行く時、『ありがとう』って言った。俺だって、母さんに『ありがとう』って言えるさ。 でもな、古い慣習や掟をなくして、平等で住み良い村にしようって、努力した俺達の一生は、一体、なんだったんだ?・・・・・・ 『お山の大将、俺一人』になりたくて、一生懸命努力して、やっと登りつめてみたら、いつの間にか、誰も居なくなっちまった。 誰も居ない、砂漠のような、心も枯れ果ててしまうような、寒々とした光景にしか見えないこの村は、一体、何なんだ! やがては、廃墟になるこの村には、もう、打ち破るべき因習もなければ、残すべき名誉もなくなっちまったんだ! 俺達の事を、語り継いでくれる村人達が、全部居なくなっちまうなんて、・・・こんな馬鹿な話があるか! どうすりゃあいいんだ?・・・俺達が間違っていたんだろうか? なあぁ母さん、どうすりゃぁ、・・・・・・」 忠は、泣いていた。酒の酔いもあったが、情けなくて情けなくて、どうしようもなかった。 自分達の生涯を込めた結果が、まったくの無駄になり、この村一番の豪邸も、最下層の「来たり者」が、長老の最高位にまで登り詰めた今太閤的物語も、そのすべてが、時代の趨勢に押し流されて、やがては、跡形もなく消えてしまう冷酷な現実を、忠は、否応なく悟らされたのだ。 その口惜しさが、妻を亡くした寂しさと重なって、とめどなく、涙を流させていた。 ふと気がつくと、周辺には、夕闇が濃く立ち込めていた。 ぼんやりしている脳裏に、多美江が良く口ずさんでいた歌が、何処からともなく聞こえて来た。 いつもと同じように、語りかけるように、・・・ 暮れりゃ 砂山 海鳴りばかり スズメ ちりぢり また風荒れる みんな ちりぢり もう誰も見えぬ
第六章 砂山 ---了--- 因習の果て ---完---
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