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立証  文:蛍火

立証・目次

まえがき

第二章  証拠

第四章  協力

第六章  危機

第一章  呼び出し

第三章  山の民

第五章  罠

 



◆まえがき◆

殆どの国の警察は、人権を尊重するあまり、犯罪が発生しなければ動かない。

つまり、物証がなければ、動けないのだ。

交通事故などについては、予防措置が取られているのに、犯罪についてだけは、予防の手段はないのである。

いくら疑わしくても、物証のない事件は、放置されてしまう。

人々は、降りかかった犯罪の火の粉を、自らの力でのみ、振り払わなければならない。

これは、そんな物語である。

 
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◆第一章  呼び出し◆



「あのぉー、ちょっとすみませんが、・・・」

「はぁ?・・・なんでしょうか?」

ここは県の出張所で、十人足らずの小さな事務所だった。

若い女の人が入ってきて、木村に声をかけた。

木村省三は、ウダツの上がらない中年職員だった。見るからに、だらしない風采で、これでは、この島流し同然の境遇から、抜け出す事が出来ないのも当然と思われた。

彼は、もう十年以上もここに勤務しているのに、彼の言動に注意を払う者は居なかった。それほど疎外されていても、むしろ、彼自身がそれを望んでいるらしく、目立たず、邪魔にならず、最低限の仕事をしているだけであった。

「これを見て下さい」 女は一枚の紙を差し出した。 それは、役所に出す書類のように見えたが、書いてある事は、省三にとってまったく予想外の事であった。

「内密で、私と会って下さい。断ると、大声で、『木村さんの奥さんは不倫してます!』って、叫びますよ。貴方にとっても悪い話ではありませんので、是非、会って下さい。ご承知なら、頷いて下さい。」

読み終わった省三が、女の顔を見つめたが、女はにやりと笑っただけで平然と見返していた。

役所でのゴタゴタは、彼の一番困る事であった。 出世の望みは、もうとっくになくなっていたが、定年まで、大過なく勤め上げるのには、役所でのトラブルは、厳禁なのである。それでなくても、役立たずの無駄な人間に見られているのだ。何かあれば、すぐに退職勧告をされてしまう立場にあった。 彼は仕方なく、頷いた。

女は、もう一枚紙を出した。それには、地図と日時が書いてあった。 それを、省三の手に押し付けると、「じゃぁ、よろしく」と、頭を下げて、にっこり微笑んで、出て行った。

翌日は、第二土曜で、省三は休日であった。 彼は、職場だけではなく、家庭でも疎外されていた。 「亭主元気で留守がいい」という言葉があるが、彼はその先の状態で、単なるサラリー運搬人で、朝夕の食事はさせるが、大部分の時間は居ない方がいいのである。まるで家畜並の扱いをされていたと言えよう。

子供は、男二人と、女一人の三人いたが、子供達も妻と同じく、今では父親との会話など何時あったのか、すっかり忘れてしまっていた。

こんな状態のそもそもの原因は、省三自身にあった。 その事は、彼も重々承知していたので、そんな待遇にも文句一つ言わず(また言える立場でもなかった)、日々を過ごしていた。

珍しく休日の午前中、家に居る夫に不思議そうな顔つきは見せても、妻は何も言わなかった。彼が居ても居なくても、する事に変わりはないからだ。 子供達に食事をさせ、掃除洗濯と忙しく働いて、やっと終わって一段落した時、ふと気がついてみると、夫の姿はなかった。 毎度の事なので、気にもしなかったが、それが、事件の発端であったとは、神ならぬ身の知る由もなかったのであった。

その頃、省三はパチンコ店に居た。指定された場所と時間を守るためだった。 彼は、昔からパチンコは好きではなかった。 没頭すれば、自分だけの世界になれるという事は、いかにも省三向きのようだが、その喧騒な雰囲気に、耐えられなかったので、年に一度やるかどうかというくらいだった。

すぐに呼び出したあの女が近づいて来て、合図して先に立って店を出た。 「何できたの?」

省三には、その言葉の意味が分からなかったので、怪訝な顔つきをした。

「ああ、ごめんね。歩いてきたのか、車で来たのかを知りたかったのよ。それによって帰りが違うからね。

そう車なの。どこに置いたぁ?ああ、あそこね。あそこなら大丈夫だわ。貴方のは置いたままで、私の車で行きましょう。 まさか、こんな所で話す訳にも行かないでしょう?・・・さあ、こっちに来て。」

女の言動は、かなり強引だったが、省三の性格からしても、それに逆らう事は出来なかった。 彼が、女の車の後部座席に座ると、もう一人の女が、助手席に乗り込んできた。 奇妙なドライブが始まった。

運転している役所に来た女が、喋り始めた。

「自己紹介して置くわ。私は清水久美、この人は石川志津子。よろしくね。 ああ、いいのよ。貴方が木村省三さんだって事は、私達は承知しているから。」

省三は黙っていた。 何故、何のために、この女達はこんな事をするのか、まるっきり見当がつかなかったからだ。

「省三さん、怖い?・・・
そうでしょうね。こんな若い女の子達にモテるなんて事、なかったでしょうからね。 もっと怖くなるわよ。私達、これからモーテルに行くんだからね。フッフッフッフフ・・・・・・」

「久美さん、そんなに脅かさなくてもいいんじゃないぃ? あのね、モーテルへ行くってのは本当だけど、それも私達の話を、ゆっくり聞いて貰うためで、そのために行くのよ。誰にも邪魔されない所だからね。ああいう所は、・・・・・・
誰にも見られない、誰にも聞かれないで、私達が話せる場所は、あそこしかないの。 分かるでしょう?」

「駄目駄目、この人はモーテルなんてとこ行った事ないのよ。こう見えても、この人は、真面目一方なんだから。 奥さん以外に、女を知らないんじゃないかしら?・・・ねっ、そうでしょう?」

しばらくして、モーテルに着いた時、初めて見るその内部に、省三は興味を持って見回していた。 その姿が、女達の苦笑を誘った。

「どうするぅ?私を抱いてみるぅ?・・・・・・抱いてもいいわよ。ただし、高いわよ。 お金あるぅ?あっても、貴方はそんな事に払うのは嫌でしょうね。

不思議そうな顔をしているわね。 私達、貴方の事なら、何でも知ってるの。それだけの準備をしてお呼びしたのよ。 そのうち、分かってくると思うけど、これは遊びじゃないの。かと言って、脅迫でもないわ。それだけは、分かって頂戴。 これから話す事は、みんな本当の事なの。証拠があっても、なくても、貴方が信じてくれなければ、どうしようもないわ。 だから、お願いするしか方法がないの。

こんな突飛な事をしていて、虫のいい話だけど、信じてください!お願いします!・・・・・・」

二人の女が、深々と頭を下げた。そして、上げた顔には、真剣な思いが溢れていた。 突然の変わりように、省三の頭の中は、混乱してきた。 妻の不倫などと脅迫めいた事を言って、こんな所に誘い出して、その上、何かこの女達の身の上に、振りかかった重大な出来事を、話そうとしている。その内容にも興味はあるが、それよりも何よりも、それがどう自分に関わってくるのか、その方が心配だった。

しばらくの沈黙のあと、省三が口を開いた。

「今までの君達のして来た事は、あまり褒められた事ではないが、僕にさせたい事がどんな事であろうと、真剣に考えてみるとだけは、約束しよう。 今は、それしか言えない。話を聞かないうちは、このくらいの事しか言いようがないからね。」

「ありがとうございます。そういうお約束を頂けただけで、安心してお話出来ます。 先ず、このような強行手段を取った事を、お詫び致します。しかし、こうしなければならなかった私達の事情も、お察し下さい。」

「堅苦しい挨拶はそのくらいにして、ずばり言って貰おう。特に、こんな場所では、もっと寛いで、話し合おうじゃないか。」

覚悟を決めた省三が、平素に似あわぬ言葉を口にしたのも、この場の雰囲気が、かなり切実なものである事が伝わって来たからだった。

「そうね。これから同じ仲間に入って貰おうとしているんだから、歳の上下に関係なく、ざっくばらんに話し合わなくちゃぁね。 木村さん、じゃなくて、省三さん。でもなくて、省ちゃん。これからは、そう呼ぶけど、いいわね。

じゃぁ省ちゃん。あんた、奥さんが浮気しているのを、知ってるぅ?」

「ああ、知ってるよ。相手が清水正博という男である事もね。

だが、君達も知っていると思うが、不倫は、法律的には、犯罪にはならない。離婚の条件にはなるけどね。 それに、この際だから打ち明けて言えば、僕は、セックスはあまり好きではない。だから、あの男が妻のストレスを解消してくれているんだから、それはそれでいいとさえ思っている。それどころか、妻から離婚を申し出るなら、喜んでそうしてやろうとも思っているんだ。だから、この事については、何を言っても駄目だよ。」

「なるほどね。私達も、あんたの事を調べてみて、こんなひどい夫婦ってあるのかしらって、呆れたわ。 良く言われるけど、十年一緒に居ても、分かり合えない人達もいれば、たった一分でも、すべてが分かり合える人達も居るっていう事の実例ね。

ま、それはどうでもいい事だわ。この際、そんな事はこっちに置いといて、私達にとって、今、問題なのは、あんたがた夫婦の仲の事ではなくて、不倫相手の男の方なのよ。 省ちゃん、気がつかないぃ?私と問題の男と、同じ清水の姓だって事。

そうよ。私は、あいつの、正博の、子供なのよ。ただし、血のつながりは、全然ない親子。 分かりやすく言えば、母が再婚した相手が、あいつなの。 そして、私の絶対許せない敵!殺してやりたい男!」

久美の眼には、怒りの炎が燃えていた。 そして、良く見ると、志津子の眼も、ぎらぎら光っていた。 理由(わけ)は分からなくとも、この二人の女の恨みが、とても深いものである事だけは、省三にも、ひしひしと感じられたが、だからと言って、同情するほどの根拠もなかった。

それは、長い長い話の後で、ようやく理解出来た事であった。




第一章  呼び出し  ---了---
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◆第二章  証拠◆



「結論から先に言うわ。 あの男は、私の母を殺し、私の恋人を殺した憎い犯人なのよ。その上、あいつは、私をレイプしたのよ。

いいのよ、シイちゃん。この際、何もかもはっきり話した方がいいのよ。洗いざらい本当の事をね。そうする方が、省ちゃんにも分かって貰えるし、私達のして来た事の反省にもなると思うの。 このシイちゃんは、私の殺された恋人、源一郎さんの妹。 分かるでしょう?私達の恨みが、どんなものか、・・・

えっ?警察? 勿論、行ったわ。殺人事件は警察が扱うものだからね。 でもね。証拠のない話は、まるっきり受け付けてはくれないの。 最初から、相手にされないのよ。 源一郎さんは、行方不明という事になってるの。私達は、殺されたと思ってるのにね。 証拠、証拠って言われたって、何処をどうやって捜したらいいのか、それすらも、教えてくれないのよ。 どうあがいても、どうしても、駄目なのよ。・・・・・・

ああ、ごめん。ちゃんと筋道立てて話さなきゃぁ、分かりっこないわね。何から話していいのか、・・・
先ず、私の身の上話をしましょう。

私、こう見えても、ちゃんと大学を出ているのよ。現在は、しがないホステス稼業。夜の女。 だって、昼間の時間が自由に使えて、お金が沢山貰える職業なんて、ホステスしかないもん。逆に、女だから出来る職業とも言えるわね。

シイちゃんも、私と一緒に働くって言うけど、それだけはやめてって言ってるの。 そりゃぁ、あんたの気持ちも分かるけどさぁ、この商売だって大変なのよ。外見(そとみ)じゃ分からないけど、夜の世界、裏の世界を支配しているボスとか法則とかがあって、苛めや、リンチなんかもあるのよ。 それに良く言われるでしょう?一度踏み込んだら、抜けられない泥沼だって。 そういう世界なのよ、夜の商売ってのは。奇麗事じゃ済まされない職業なのよ。

シイちゃんには、OLって立派な職業があるんだから、よしなさいって言うのに、聞かないのよ、この子は。 そうしたいと思う気持ちも、分からなくはないけど、こんな苦労は、私一人で沢山。シイちゃんがそんな事したって、あいつに喜ばれるだけだよ。 この世界ではねぇ、例えば、挨拶一つにしても、夕方、店に行って顔を合わせた時、必ず、「お早うございます」って言うのよ。 何故だか分かるぅ?

「こんばんは」にも「こんにちは」にも、敬語がないでしょう?敬語で言われる方が、一段と高い気分になれるじゃないぃ? そういう世界なの。馬鹿馬鹿しいって言えば、それまでだけど、そういう体裁とか、規律とか、所謂、ヤクザ社会の独特の掟があってね。 正式な表の法律では、取り締まれない、裏の不文律ってものがあるのよ。

白状すると、わたしも、幾人かの男と寝たわ。 金持ちの助平爺だけど、店の上得意でね。そいつの機嫌を損ねると、大変な事になるの。 だけど、一度そいつと寝ると、それだけで、店の人達は、丁重に扱ってくれるのよ。 そういうボスの機嫌を取るって事も、この世界で生きて行くためには、必要な処世術なのよ。

だからね。ただ、お酒を飲んで、わいわい騒いでいれば、お金が貰えるなんて考えるのは、大変な間違いなのよ。分かるぅ?

えぇーっ!・・・あら!そうね。大分脱線しちゃったわね。私って駄目ね。すぐ、話があっちこっちに飛ぶんだから、・・・ シイちゃん、大筋だけでも話して頂戴。後で、私が補足するから、・・・・・・」

志津子が話した事と、久美が付け加えた話を総合すると、彼女達の遭遇している事件(特に、久美が追求している事)とは、次のような出来事であった。

久美が小学生の頃に、父親が亡くなったが、割合裕福な家庭だったので、母一人子一人の母子家庭でも、久美は、何不自由なく明るく育った。 だが、久美が、高校を卒業して親元を離れて大学の寮に入ると、母親の貴代美は、淋しさからか、ふと知り合った正博に夢中になり、遂には、結婚までしてしまった。

勿論、その時には、久美も、あまり深くも考えずに、賛成したのだが、その後、相手の男が、婿入りして一緒に住むと聞いた時に、多少の疑念は感じたが、そういう事のすべてが、母親の強い要望だと知ると、黙ってそれに従った。 ただ一つ、「お父さんとは呼ばない」という条件はつけたが、・・・

第一の事件は、久美が、大学を卒業する年の夏、起きた。

夏休みで、家に帰っていた久美が、母親の留守中に、睡眠薬をコーヒーに入れられて、正博にレイプされたのである。 その時以来、二度と家には帰らなかった久美は、母親にも、その理由は言わなかったが、後で考えてみると、それが良くなかったのだ。

しかし、その頃の久美には、そんな周りを見回す余裕などなかった。レイプされたショックから立ち直ろうとして、日夜、もがき苦しんでいた。 その苦悩している久美を、優しく励ましてくれたのが、大学で一年先輩だった志津子の兄、源一郎であった。 志津子兄妹は、早くから両親を交通事故で失っていたが、人情味豊かな叔母夫妻の支援もあって、奨学金を貰いながら、二人とも大学に入っていた。

久美が大学を卒業した時には、すでに、二人は同棲していたが、それでも正式な結婚式を挙げようと、源一郎が言い出して、久美は猛反対したのだが、彼は、「お母さんだけには、認めて貰いたい」と、出かけて行った。

久美の故郷で、彼が会ったのは、病院のベッドに横たわっていた母親の貴代美であった。 正博の居ない留守を見計らって、面会した源一郎は、久美が義父から受けた仕打ちを正直に話し(今までの無沙汰の理由として)、それを承知で結婚する事を告げた。

その時、母親は涙ながらに喜んで、しっかりと彼の手を握り、「久美を、お願いします」と言った。 そして、それに続けて、重大な話をした。それは、あまりにも突飛な話だったので、彼も自分の耳を疑ったほどであった。

貴代美は、「夫に殺される」と言ったのである。「先妻さんも、殺されたのではないかと思う」とも言った。 何の証拠も、何の根拠もないが、今、病床で、一人静かに考えてみると、そう思い当たる言動が、確かに、あったと言うのだ。 ただ、どうして殺されるのか、その理由(わけ)が分からないとも言った。

誰の眼にも、余命いくばくもないと見える病人の、朦朧とした夢想と見るか、又は、研ぎ澄まされた鋭い直感と見るかは、根拠の全くない話だけに、むずかしい所であった。 だが、源一郎は、その直感を信じた。 帰宅して、久美に話すと、久美もまた、母親の直感を信じた。そして二人は、正博についてのすべてを、調べようと、決心したのであった。

警察は勿論、証拠のない話には耳をかさない。私立探偵を使って調べる以外に、方法はなかった。 だが、知り合いを辿って尋ねた探偵は、引き受ける事は約束してくれたが、かなりの金額のかかる事と、或る程度の着手金が必要だと言ったのである。 当然、大学を卒業したばかりの二人に、そんな金がある筈はなかった。

思案しているうちに、母親の死が知らされた。 葬儀に出席する久美に、密かに同行した源一郎は、自分一人で貴代美の死についての聞き込み調査を行なった。 後から考えると、その時の、探偵の真似事が正博の耳に入り、源一郎に対する疑念を呼んだのであった。

しばらくして、第二の出来事が起きた。

或る日、裁判所から、久美に通知が来た。 母親の死をきっかけに、正式な婚姻届を役所に提出したので、正式な公文書は、すべて久美の手元に届くようになったからである。 それまでは、住民票すらも、実家に残したままだったので、公式な文書のすべてが正博の手に入り、どのようにでも工作出来た。それは、白紙委任状を手にしているようなもので、正博の思うがままに何でも出来る事を意味していた。

届けられた通知は、大変な事態を、久美に教えた。 母親の貴代美が、生前に相続した遺産についての、最後の確認のための書類であった。 後で分かった事だが、貴代美自身さえ知らなかった祖母名義の土地が、開発のため、とんでもない値段がついていたのであった。 貴代美が生きていれば、その承諾書だけで良かったのだが、死亡したため法定相続人全員の承諾書が必要となり、久美にも、その書類が回って来たという訳であった。

勿論、生前に、その一切の手続きがなされていたので、貴代美の相続は有効で、従って、夫の正博にも、相続の権利は、ある事になっていた。

蛇足ながら付言すれば、もし、貴代美の死後、発生した相続であれば、それは血縁者たる久美のみに与えられ、夫には、何の権利もないのである。

最初は、そんな事はまるで分からなかったが、金さえ払えば、何でもやってくれると約束してくれた私立探偵に、相談したのが良かった。 さすがに探偵はプロだった。きな臭い匂いを嗅ぎわけ、これは、正博のやっている事が怪しいと見た。 そして、とりあえずの知恵を授けた。

それは、同じ遺産を相続する全然別の人に、異議の申し立てをするよう内密で頼む方法であった。 これなら、久美が動いている事は、知られないで済むし、正博の出方を探るという意味もあった。 それで時間稼ぎをしている間に、色々と調べてみると言うのである。

しかし絶対に、まともに相手をしてはならないと、釘を刺された。もし家に来たとか、電話での連絡があった時は、曖昧な態度で、曖昧な返事をするように、固く念を押されていた。

だが、事件は又起きてしまった。 あれほど注意をしたのにと、後でさんざん叱られたが、若いという事は、時折、無茶な行動をするものだ。

久美が、遠方の別の相続人の所に出かけていた留守に、源一郎が貴代美の死亡した時の病院に、もう一度行ってみると、志津子に言い残したまま、行方不明になってしまった。 久美が、二日がかりで、裁判費用は久美が持つという条件で、やっと承諾して貰って、家に戻ってみると、今度は、頼りにしていた源一郎が居なくなってしまった。 もともと、証拠のない話を調べているのだから、当然、警察では受け付けてさえ貰えない。

たまたま飛び込んだ探偵社の社長が、「たとえ無料サービスになったとしても、一旦引き受けた仕事は、最後までやるから、・・・」と、好意的に言ってくれてはいたが、久美には、その善意にだけ縋っているつもりはなかった。

「これは、私の事件なのだ。母と恋人を殺されたのは私なんだから、どんな苦労をしてでも、私自身が解決しなければならない。私が努力しなければ、お母さんも源一郎さんも浮かばれないだろう。

よーし!水商売の女になって、うんとお金を稼いで、その金で、探偵さんに動いて貰おう!そうすれば、私がやってるんだという気持ちになれる。 そうしよう!それがいい!・・・」




第二章  証拠  ---了---
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◆第三章  山の民◆



長い長い話が終わって、喋った方も、聞いていた方も、互いに、疲れ切って、しばらくは無言のままの時間が流れた。

冷えたお茶を飲んでいた省三が、思い出したように話し始めた。

「君達が大変な苦労をしている事は良く分かったが、それで、この僕に何をしろと言うのだね?まさか、金を出してくれと言う訳ではないだろうし、・・・・・・」

「それが私達にも分からないのよ。変な話だけど、・・・
探偵さんの、私が雇った探偵、小山幸光さんの指示に従っているだけなの。 省ちゃんが、小山さんに会ってくれれば、分かると思う。」

「どうも良く分からんな?・・・・・・
こんな僕みたいな何の役にも立ちそうもない男に、一体、何をさせようって言うんだろう? 君達は、本当に何も聞いていないのか?・・・・・・」

「そうよ。私達は何も聞かされていないの。そのためにも、直接会って聞いて頂戴。 私達は、小山さんに会ってくれるように、省ちゃんに頼む事だけが仕事なの。 お願い!会って下さい!・・・・・・」

翌日、省三は又、指定された時間に、指定された場所に出かけた。 午前十時、とある畑の中での面会である。誠に、奇妙な会談であった。

「迷ったかね?」

「いいえ。地図が分かりやすく書いてありましたから、・・・」

「ふーむ、やはりな。・・・」

幸光は、にやりと笑った。 もう六十を越えているのであろうか。風貌は、何処にでも居そうな、ごく平凡な、年老いた顔であったが、その目つきだけは鋭かった。 だが、じろりと省三を眺めたその眼には、何故か親しみが込められていた。

「君は百姓をした事があるか?・・・ない?・・・それは残念。結構面白いものだよ。・・・ああ、この畑は借り物だ。 こんな物買うほどの金は持っとらん。わしは金の持てぬ男じゃ。欲しいとも思わんがな。 どうやら、きみもそうらしいと見たが、どうじゃな?」

鍬を動かす手を休めず、足も身体全体も動かしたままで、一方的に喋るこの男を、省三は、ただ黙って眺めていた。

「農業をしていると、頭の中が空っぽになっていい、なんて言う奴がいるけれど、そいつは嘘だ。こうして、身体を動かしていても、絶えず、色々な事が頭の中に浮かぶものだ。 ただ、それが非常にゆっくりしたリズムなので、普段考えるよりも、ずぅーっといい事を思いつくのだ。

だから、わしは百姓をやっとる。もっとも、食える物が取れるから、一石二鳥ってとこかな。 わしは欲張りでのぉ。いつも一石二鳥も三鳥も狙っとる。今度の事件も、その通り。 依頼人の久美さんには悪いが、わしの狙いは、正博という男の悪事を暴くだけではない。 勿論、金を貰ってやるのだから、それだけの仕事はするが、極端な事を言えば、それが成功しようがしまいが、副産物だけは確保して置きたい。 分かるかな。この気持ち、・・・

大体、探偵なんて商売は、人の隠し事を調べるのが仕事だ。 人の秘密を探るのが好きという好奇心、言い換えれば、邪念とでも言うべき気持ちが強い奴でなくては勤まらん。

今の君には、そんな気持ちは毛頭ないと思うが、ずばり言えば、君はわしと同じで、探偵という職業に向いているんだよ。 君のバイオリズムは、わしに良く似ているからだ。わしには分かる。 君の身体全体から発散する匂いと言うか、感じと言うか、所謂、バイオリズムだよ。それが、わしとぴったり一致するんだ。

ま、ここに来て、腰を下ろしなさい。 一緒に山でも眺めながら、のんびりと話そうじゃないか。もし良かったら、オニギリもあるよ。食べるかい?・・・

この前、役所に行って、君を初めて見た時、わしは驚いたよ。昔のわしを見たような気分だった。 君もわしに気づいたようだったが、ま、それが当然じゃわな。あそこは、あの付近の人達にしか用のない所じゃからな。見慣れないよそ者が来れば、すぐに分かるわな。 ましてや、君はもう何年も、あそこに居るんだからな。分かって当然、分からなきゃ阿呆だ。

まあ、そんな事より、何故君がわしに似ているかという話をしよう。 このずぅーっと南の方に、川辺村(かわべむら)という所がある。今では、中川町になっとるがな。 その村の片隅に、長沢という部落があるんだ。 そこが、わしの故郷(ふるさと)なんだが、その部落全体の先祖が特殊な人種なんだよ。・・・・・・」

奇妙な老人の、奇妙な話に、省三は、あっけに取られた。 淡々と、気負いも衒いもなく話すこの人と、自分がどのようなかかわりがあるのか、或いは、そのために、どのように、自分の人生が変わって行くのか、まったく想像も出来ない展開になって行こうとしているのだ。 省三は、ただ黙って聞いているしかなかった。

「特殊な人種と言っても、日本人である事には、間違いない。 ただ、何時の頃からか、定住しない人種、「山の民」と呼ばれた人達の一団があった。

君は、小説家の「三角寛」という人を知ってるか? ま、昔の人だから、知らなくて当然だが、その人は、「山の民」の事ばっかり書いて居った。「サンカ」という呼び名をつけたのも、その人だ。 山の民とも、流浪の民とも言われていたそういう人種が、実際に居たんだよ。日本にもね。 西洋に、ジプシーって言われている人達がいるだろう、あれだよ。ジプシーの日本版が、「サンカ」という訳。

わしが思うに、甲賀忍者とか、伊賀忍者とか言われた人達が居たろう?あれがそうなんだ。「山の民」の一団だったんだ。 戦国時代、その「山の民」を上手く使いこなした大将が、成功したって事だ。わしはそう思う。

ともかく、「山の民」の事は、あまり知られては居ない。彼らは、常に山中を一家単位で放浪し、主に、狩猟によって生計を立て、竹細工や藤蔓細工の物を作っていた。 何しろ、文字を知らない、いや要らないと言った方がいいかな。そういう原始人みたいな人達だから、記録という物は、一切ない。 それに、歴史の表面に出て来た時が、忍者というような職業じゃぁ、記録に残しようがないわな。 そんな訳で、「山の民」の子孫である我々でさえ、何も分かっては居らん。ただ分かっているのは、親父達の代までは、竹細工などを専門に作って居た事ぐらいだ。

しかしな。忍者になるくらいだから、身のこなしは軽く、素早しっこくて、それに、何よりも眼がいいんだ。部落中の者が皆そうなんだ。 ほら、眼の検査で、1・0とか、1・2とか言うだろう。アフリカの土人なんか、6・0にもなる奴が、ざらに居るそうだよ。 つまり、普通の人の五倍以上も良く見えるという事だ。望遠鏡で言えば、百倍のものを持ってる奴と、五百倍以上のものを持ってる奴との違いだな。 そういう特殊な肉体を、我々の部落の者達は、受け継いでいるのだ。先祖代々からな。

ただ残念な事に、この遺伝子は劣勢なのだ。 部落の人が普通の人と結婚した場合、その子供達には、十人に一人、いや二十人に一人の割合でしか、この遺伝子は受け継がれない。 我々のご先祖様は、その事を良く知っていて、同じ仲間同士の結婚しか認めない掟を作って、その遺伝子の存続を計っていたのだ。

だが、明治以降、その伝統は破られた。 第一、そんな資質は、必要ないばかりではなく、かえって、邪魔にさえなって来た。 早く走るためには、自動車やオートバイがある。良く見るためには、望遠鏡や顕微鏡が普及して来た。人間自身の特別な能力などは、必要なくなったのだ。

それに、国家としては、流浪の民などがいては、近代国家としての形体がなされない。 それで、定住を奨励した。そのための援助もした。で、今では、「山の民」は消滅したという訳だ。

わしら部落の者達全員が、先祖の事など忘れちまった今になって、わしは気づいたんだ。この遺伝子は、消滅させてはならぬとな。 それが何の役に立つのかは分からんが、ただ、将来の日本民族のために残して置きたいと考えた。せっかく、ご先祖様が、何百年もかけて作った遺伝子なのだ。途絶えさせてはならんのだ。

ここまでは、分かったな。

前置きが、ちと長くなったが、今までの話を踏まえて、これからが君に関する事なんだ。 わしは今まで、何でも自分の眼で見て、判断するという風にやって来た。それで、君を見にわざわざ行ったという訳だ。

だが、わしはあの時、まるで電気に打たれたような衝撃を受けた。 そして、君の事を徹底的に調べてみようと思った。依頼人の金の一部を使ってな。

表向きの理由はあるさ。 君の事が分からんと、久美さんの件の協力は、迂闊には依頼出来んからな。 あの件は、よほど慎重にやらんと、成功はせん。それほど相手が利口なのと、事件そのものが古すぎる。 ま、この事については、後でゆっくり説明しよう。

とにかく、君に関する一切は、可能な限り調査した。そして、驚くべき事実が判明した。 君は、君自身の出生の秘密について、どの程度知ってるのかね?

ふぅーん、そう。両親が本当の親達ではなくて、祖父母だったというくらいか。そこまでしか、話してはくれなかったんだな。 でも、眼が良くて、他人の見えない所まで見えてしまうって事は、自覚しているだろうな?

ふぅーん、そう。小学校の頃の眼の検査の時、あんまり見えすぎるので、先生に、ふざけていると叱られたのか。 じゃぁそれ以来、眼の事は隠すようにしていたろう。わしもそうだったから、良く分かるよ。

君の本当の親父、つまり戸籍上の君の両親の息子は、一人っ子だったが、中々元気のいい人だったらしい。その人が、どういう経緯(いきさつ)かは知らんが、わしらの部落の娘と恋に落ちた。 だが、それを知った親達は、猛反対した。 無理はないやな。家柄が違い過ぎた。昔から田舎では、家柄については、とってもうるさかった。ましてや戦時中の事だ。親達の拒絶反応は当然だわな。

そうこうしている内に、君の親父さんに、召集令状が来てしまった。 男が出征してしまった後で、娘が妊娠している事が分かったが、親達は頑固に、娘の嫁入りを認めなかった。

そりゃそうだわな。 君の家は、代々続いた庄屋の家柄、娘は「山の民」の、所謂、賎民(せんみん)と呼ばれていた部落の家の生まれだからな。その当時としては、皇室と一般庶民との差ぐらいには、考えられていたもんだ。

しかし、たった一人の息子が戦死してしまったので、血筋を絶やさないためにも、君の存在を認めざるを得なくなった。 その上、その娘も、君を産んですぐに亡くなってしまったので、親達は、君を自分達の子供として戸籍に入れて、引き取って育てたという訳だ。 そういう経緯(いきさつ)のために、君の身体の中には、わしと同じ「山の民」の血が流れているという事だ。特に君は、その血の色合いが濃いため、性格に、もろに現れている。

例えば、君の放浪癖だ。一つの仕事を、腰を落ち着けて、じっくりやるという事が出来ない。 それに、君の趣味だ。山歩きが好きだという事だが、何故好きになったか、分かるかい?考えた事もないだろう?

こういう事のすべてが、「山の民」の血のせいなのだよ。それが分かるのは、わしも同じようなものだからさ。血がそうさせているのだよ。 どうだね?役所なんか辞めて、わしの所に来んかね? 急に言われても、困るか。ま、考えてみてくれ。いつでも相談に乗るよ。無料でな。

無駄口はこのくらいにして、そろそろ本論に入ろうか。

君に「山の民」の血が流れている事が分かったのは、付録の方で、君とわしだけの秘密じゃが、その血と趣味を生かして欲しいのだ。久美さんの件にな。

わしの事務所の連中が調べて、ある程度の事までは、分かった。 それによると、清水正博という男が、久美さんの夫、源一郎君が行方不明になった頃、不審な動きをしているのだ。 ガソリンスタンドの店員が、彼の車の洗車と掃除をした時、トランクルームで、土の着いたスコップと、人間の髪の毛らしき物を見ている。 それやこれやを総合して、わしはこう結論を出した。・・・」




第三章  山の民  ---了---
 
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◆第四章  協力◆



探偵、小山幸光の話は、なおも続いていた。

省三は、自分の出生の秘密を聞かされた事には、不服はなかった。むしろ、長年、もやもやしていたものが、すっきりした気分だった。ただ、山歩きの趣味までもが、「山の民」の血のせいだと言われたのには少し抵抗があった。

それには、もっと深い所に原因があったからである。しかし、それをここで口にする気にはなれなかった。たとえ、それを言ったとしても、相手は、話す事に夢中で、とても、分かってくれそうにもなかった。

「気の毒だが、源一郎君は、もうとっくに殺されている。 たった一人で、久美さんの母親の死を調べるために、その時の病院を再度訪れたが、以前、貴代美さんの葬儀の際に、少し聞き込みをしていたのが正博に知れていて、利口なあいつは、その病院の中に、スパイを作って置いた。

そのスパイからの連絡を聞いて、あいつは、源一郎君の殺害を計画したのだ。

用意周到なあいつにかかっては、どうしようもない。 だが、殺害された場所は分からなくても、死体を埋めた(と思う)場所ぐらいは、推定出来る。山の中で、それも、半径二十キロ以内の、車で行ける所だ。 そこまでは、推測出来たが、さて、それからが難しい。

わしらには、山の中の事は分からん。いくらわしが「山の民」の出身であっても、この歳まで、山に馴染んでいないんでは、見当のつけようもない。 勿論、わしも、事務所の連中と一緒に、探してはみた。 わしは、こう見えても刑事あがりだからね。経験から来る感もある。犯人のやりそうな事も、ある程度は分かる。 しかし、これだけはどうしようもない。この畑の中に隠された宝石を探すようなものだ。

死体を車で運んだのだから、車で行き着いた場所からは、そう遠くない所の筈と見当をつけて探したのだが、そういう場所は意外と沢山あって、とても駄目だと分かった。 それに、そう度々、山の中をかき回す訳にも行かん。あの男に気づかれてしまう。 犯人に悟られずに、山の中を自由に歩き回れる人、それは君以外には居ないと思った。 君は、いつも山の中を歩いている。それも、あまり高くない山ばかりを、無差別に歩いている。君ほど、この条件に、ぴったり合う人は、居ないんだ。分かるな。

それから、もう一つ、あの男の辿って来た人生を、話して置こう。 そうしないと、君の奥さんや君自身も、殺される危険があるという事が理解出来ないだろうからな。正博という男は、不幸な星を背負って生まれてきたような男でな。

生まれてすぐに、他人の家に養子に出された。養父母が、かなり厳格な頑固者で、随分とひどくやられたらしい。それやこれやで、彼の人間不信は、かなり幼い頃から、あったようだ。 しかし頭の良かった彼は、その冷たい心を上手く隠して、表面上は、優しい男として振る舞って生きて来た。

そのまま平凡に過ぎて行けば、何事もない普通の人生だった筈だが、結婚した相手が悪かった。 会社の上司の娘だったが、これがとんでもない悪女で、結婚する前からの不倫相手が、結婚後も続いていて、子供も持たず、したい放題の生活を送っていた。

彼が、そんな妻に殺意を抱いたのも、無理からぬ所もあったのだ。 だが、その妻が、交通事故で死亡すると、予想外の金が手に入った。 その死亡原因に、彼の工作があった筈と睨んではいるが、まだそこまでは、手が回らん。

とにかく、やり方によっては、妻の死亡が金になる事を一度知ってしまった彼が、その方に、全知全能を注ぎ込んだのだから、たまらんわな。 利口な人間が、その事ばかり考えて、実行したんだから、これを突き崩すのは、容易ではない。 それに、いかんせん、彼の前の妻の事や、貴代美さんの事は、時間が経ち過ぎていて、調べるのが、とても難しいのだ。

だから、この方は、しばらくほっといて、源一郎君の件だけに絞って、突っ込んでみる事にした。 警察には内々で、今まで分かった事を打ち明けて、協力を要請してみたが、それだけでは動けんと言うのだ。 「せめて死体でも発見してくれれば、・・・」などと、虫のいい事を言い居る。

正直な所、わしは、もう手詰まりなのじゃ。これ以上やるべき方法が、何もない。 君の協力を当てにするのは、こういう経緯があるからだ。しかもだ。もしこのまま、彼の犯罪が立証出来なければ、今度は、君の一家が狙われるに違いない。 奥さんや子供達に対して、君には、愛情がないのは良く分かっているが、だからと言って、このまま放置すれば、君自身にも、危険が迫ると思っている。

それに、わしには、それほどの正義感がある訳でもないが、色々な事を知りすぎた。やはり、何とかしなければという気持ちが強いよ。 どうだな?協力してくれる気になったかな?・・・」

長い長い小山の話は、やっと終わった。 省三にとって、こんな衝撃的な話は、そんなに簡単には、受け入れられない事であった。将来の希望もなく、ただひたすら無事を願って、だらだらと生きて来た彼には、あまりにも、刺激が強すぎた。 呆然としているうちに、ふと、閃くものがあった。

「あのぉー、・・・一つ、聞いてもいいですか。 もし、もしもですよ。もし僕が、そのお望みの死体を発見したとしてですね。・・・」

「うっ!・・・それから!・・・それから先を、早く言いたまえ!この際、何でも、君の言う通りにしよう!」

「もし万一、僕がそれを見つけたとして、僕の名前が新聞に出たり、警察に連れて行かれたりするんですか?」

「なんだ、そんな事を心配しているのか。君の事は、誰にも知られたくないんだろう? 分かっているよ。そんなに心配しなくてもいいよ。わしの所の若い者の名前を出すよ。あいつらは、喜んで身代わりになるよ。有名になるのが好きだからな。

まてよぉ・・・・・・おい!きみ!・・・ひょっとして、・・・君には、心当たりがあるぅ?・・・そうだろう?そうに違いない!」

幸光の剣幕に、たじろぐ様子もなく、省三は、にやりと笑った。




後から思えば、それは丁度、源一郎が行方不明になった頃の事であった。 省三は、正博の車と、彼が何かを埋める所を見たのだ。 反対側の、かなり遠い山の中から見たのだが、普通の人には、見えない距離であった。「山の民」の血と、いつも山ばかり歩いているために、自然に鍛錬された視力が、それを可能にしたのである。

だが、その時は、ただ単に見たというだけで、そのまま終わっていた。 実際、或る日、彼が帰宅した時、そこに正博がいて、紹介されて、そのにこやかな笑顔を見たが、それが、あの山中で、遠くに見た顔と同じであったとは、とても考えられなかった。 かすかに、どこかで見たような顔という印象はあったが、第一、そんな怪しげな事をしていたとは、知らなかっただけに、記憶に残るような出来事ではなかった。

それが突然、まるで「神様の啓示」のように、閃いた。 正に、獲物を狙うハンターが、動物的感覚で、獲物を探し当てたのだ。 「山の民」の血が同士を呼び、事件解決の糸口を発見したのであった。




翌日、省三は役所を早退した。 小山探偵事務所の全員(と言っても、所長を含めて三人)と、合流して山に向かった。死体の埋められた場所の確認のためだった。

ただ、幸光は慎重だった。 死体を発見しても、それが正博の犯罪と結びつく直接の証拠にはならない事を、良く知っていたからである。掘り出すのは警察の仕事だが、まだ早いと言うのだ。 その日は、場所の確認だけにした。久美達には、もうしばらくの間、言わないで置く事にした。

正博が、源一郎を殺したという証拠が、なんとしても薄かった。殺人現場どころか、二人が出会ったという事すらも、確認出来ないのだ。 しかも、正博には、気づかれてはならない。 少しでも不審に思われると、又、源一郎の二の舞になる犠牲者が出る恐れが、多分にあった。 しかし、獲物への照準は、定まった。

幸光は、戦時中、軍隊で狙撃兵として活躍した経験があり、その折、受けた訓練などの教育が、今の職業に生かされていた。 だが、そうそう良い事ばかりはない。 探偵事務所の三人の男達が、いくら頑張ってみても、なんらの進展も見られなかった。

ここに至って、幸光は、重大な決心をした。ぐずぐずしては居られないのだ。 久美が懇願して、やっと実施して貰った異議の申し立てが却下されてしまったのである。それは、状況が、正博に有利になってしまう事を、意味していた。




第四章  協力   ---了---
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◆第五章  罠◆

幸光の考えたのは、正博に、罠を仕掛ける事だった。 それも、久美を囮にすると言うのだ。それは、定例の集まりの席上での発言であった。 幸光の提案で、省三も入れた定例の集まりを、毎週金曜日の夜、幸光の秘密のアジトで開催していた。

省三は、初めは嫌々ながらだったが、その内、次第に久美達にも打ち解けてきた。 何よりも、幸光と同じ血の流れを、肌に感ずる事が出来た。 怠惰な日々と、ただ漫然と山歩きする事だけの繰り返しに、飽き飽きして、自殺すら考え始めていた時に、自分を必要とし、尊敬さえしてくれる人々に出会った事が、徐々に彼を変えて行ったのであった。 一方では、この事件の早期解決を願い、もう一方では、これがいつまでも続く事を望んでいた。 それほど、彼にとって、久美との会合は楽しかった。

省三が、生きる張り合いを失い、役所でも家庭でも、疎外されるようになったのは、何時頃からなのだろうか。

かなり昔の事だった。 大学を卒業して県庁に入った頃は、人並みの野望も気負いもあった。 同期の人達の中に、特別仲のいい友達も出来た。普通の若者と変わらない、活気ある楽しい日々が続いた。

四年目に、親の勧めるままに、結婚もし子供も出来た。平凡な、それなりに幸福な生活があったのだが、野心家の上司の部下になった事が、躓きの元であった。 親友と一緒に、その上司の言うがままに選挙運動をして、違反すれすれの行動をしたため、危うく検挙されそうになった。

その時救ってくれたのは、野心家の直接の上司ではなく、他の部署の上司だった。 だがその際、親友だった男に讒言され、殆どの罪を背負わされてしまったため、彼は、島流し同然の処遇を受けて、出世はおろか、何かあれば、すぐさま退職勧告を受ける、まったく疎外された立場に置かれてしまった。 その上、妻は、虚栄心の強い女であった。すでに、彼の両親は死亡して居り、家の中の実権は、彼女の手に握られていた。その妻が、さんざん彼を罵った後、彼を無視する態度に変わったのである。

身から出た錆とは言え、身に覚えのない罪まで問われた省三は、この憤懣の持って行き所がなく、ただただ澱のような物が内面に沈んで行き、次第に、投げやりのその日暮らしの人間になってしまったのである。

山歩きは、その頃始めた趣味であった。 何故それをしようと思ったのか、理由(わけ)が分からないままに、長年続けてきたのだが、それが「山の民」の血だと言われた時、妙に納得するものがあったのも、事実であった。



囮の話を幸光が言い出した時、真っ先に反対したのは省三であった。

「危険すぎるよ。それでなくても、久美さんは狙われているんだから。 よし、僕がその身代わりになろう。あいつの身辺を嗅ぎまわって、殺す気を起こさせよう。」

「それは駄目よ。 省ちゃんが、奥さんの浮気の相手をどうにかしようとする人間には、誰が見たって見えないし、第一、それほど奥さんを愛しているとは、誰も思わないでしょうからね。 頭の良いあいつが、そんな子供騙しみたいな手に、乗ってくる筈はないわ。

それに、これは一度失敗したら、二度とは出来ないのよ。しかも時間がない。・・・そうだわね、探偵さん。」

「そうだよ、その通りだ。だから、仕掛ける罠は、二重三重に作る。 それも、あまり時間はないが、慎重に、ゆっくりやるんだ。それには、ここに居る全員の協力が必要だ。

これから、その説明をする。 それぞれの役割を、しっかりやって貰いたい。話の途中でも、疑問があれば、その都度言ってくれ。 わしも、絶対の自信がある訳でもないんだ。いいな。・・・」

幸光の計画は、さすがはプロと言えるものだった。 誰も異議を申し立てる者はいなかった。そして、翌日から、早速実行に移された。

先ず、省三が、妻に、正博とモーテルから出てくる写真を突きつけて、離婚を宣言した。ただし、彼の方から家を出ると言ったのである。 親達が残してくれたアパートや、多少ある土地は譲らないが、家だけは、妻に譲るという条件であった。 その上、子供達の養育費として、今まで渡していたサラリーの半分に相当する金額を、月々支払うという約束もした。

幸光は、そこまでしなくてもと止めたが、元々、妻や子供に愛情のなかった省三は、徹底的にやらないと気がすまなかったのだ。

それは直ちに、正博に影響が出た。省三の妻が、彼との結婚を迫ったからである。 怪しげな会社の社長ではあったが、すっかり怠け癖のついてしまった彼には、浮気の相手としての女は、人妻が、誠に都合が良かった。 生活の責任とか、将来の保障とかは、考えなくても良かったからだ。それが突然、責任を取らざるを得なくなったのである。 しかも、三人もの子連れのわがまま勝手な女なのだ。そんな女に、自分の自由を奪われるのは、真っ平だった。

彼は最初の妻の死によって、大金を得た。 それによって自由気ままに遊び暮らしていたが、金がなくなり始めると今度は貴代美を誑かし、突然転がり込んで来た遺産相続の話に、彼の全知能はフルに回転した。 計画的に、徐々に殺す手段を考えついたのである。

ただ、久美を犯した事を知った貴代美が、自分への疑惑を感じ始め、その事を他人に漏らしたようだったので、貴代美の殺害時期を少し早めたため、予定が狂って、遺産の半分は久美に渡るが、それでも、自分にも半分は入ってくる見込みはあった。 だが、ここへ来て、計画は崩れそうになった。しかも、厄介なお荷物を抱え込むような状況になって来た。 彼が焦る理由が、沢山出て来てしまったのだ。

その上、最近、久美が、彼の身辺を探っているような形跡が見えて来た。 久美が、貴代美から源一郎を通じて、何らかの確証を掴んでいるのではないかと、前々から不安に思っていたのが、どうやら、現実になりそうだという予感が強くなって来た。 彼は次第に、久美の殺害を考えざるを得ない状況に、追い込まれて行ったのである。

罠は、仕掛けられた。後は、それに、何時何処で、食いつくかであった。

利口な正博が、先ず始めたのは、久美の行動の詳しい調査であった。彼は、細心の注意を払って、久美の尾行を開始した。 だが、役所を退職した省三が、尾行の尾行をしていた。ここでも、省三の普通の人の五倍も良く見える眼が、役に立った。 正博がいくら見回しても見えないほど遠くに居ても、省三には、何もかもはっきり見えていた。

かくして、正博の行動は、一々分かってはいたが、それでも、危険の予知は出来なかった。 獰猛な獣は、突然襲いかかる。

夜の商売の久美は、いつも午前中は、自分の部屋で眠っていた。 五階建てマンションの三階だったので、充分用心はしていたつもりだったが、そこには盲点があったのである。

鉄筋コンクリートの建物は、外部からは入りにくいが、内部は、かなり、雑に出来ている。電気や電話の配線の都合上、天井裏は、殆ど、仕切りがない。同じ平面になっているものである。 だから、同じ階であれば、天井伝いに部屋から部屋に行ける。ただ、素人には、その出入り口が分からないだけなのだ。

正博の作戦は、巧妙を極めた。 後で分かった事だが、久美と同じ階に、一つの空き部屋があった。それを借りるための下見と称して、管理人からキーを借り、素早くコピーを取ってしまった。 それでスペアキーを作って、その日の夜には、もう、その部屋に忍び込み天井裏に潜んでしまった。 周囲が騒々しくなって来た朝になって、天井裏を動いて久美の部屋に降り、睡眠ガスを彼女に吸わせて、大きなスーツケースに詰めて運び出した。 それが誰の眼にも止まらなかったのは、偶然ではあったが、それほど周到に計算された行動でもあったと言えよう。

一方、省三は、早朝から、正博の家を見張っていた。 正博に密着している事、それが彼の受けた指令ではあったが、昨夜はやむを得ない所用があって、正博の行動を監視していられなかった。

その朝、正博は、何処からかタクシーで帰って来て、その車を待たせたまま自宅に入り、しばらくは、出て来なかった。多分カーテン越しに、あたりの様子を窺がっていたのだろう。 ようやく出て来て、タクシーのトランクから、大きなスーツケースを取り出した。 その重そうな仕草から、省三は、その中に久美が居ると直感し、すぐに幸光に電話連絡をしたが、生憎と話中で、繋がらなかった。

走り書きのメモを、顔見知りの人に頼んで、元の場所に戻ってみると正博が、あの大きなケースを自分のトランクに積んでいる所であった。




第五章  罠   ---了---
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◆第六章  危機◆

「久美が、殺されている」と思い込んでいた省三は、必死の思いで自分の車で、正博の後を追いかけた。 これほどの熱意を持って物事をしたのは、いつ以来だったか思い出す余裕すらなく、細心の注意を払いながら、ただひたすら、正博の後を追った。

山の方に向かう道に入った時、省三には、何処に行くのか、見当がついた。 「源一郎が埋められている場所に違いない。あの谷間だ!」と。

省三は、確信の持てる所まで来ると、車から降りて、山中を走った。 まるで獣のように、崖を駆け登り、木々の間を抜け、あの谷間が見下ろせるすぐ近くの茂みの中に、身を潜めた。 待っていた時間は、ほんの二・三分であったが、省三には、ものすごく長い時間のように感じられた。

まもなく正博の車が見え、谷間の奥に止まった。 しばらくそのままで、正博が車の中で、タバコを吸っているのが見えた。あたりの様子を探るためと、自分自身の気持ちを落ち着かせるためと、省三にも分かった。

相手が、まったく気づいていない今は、こちらの方が有利だが、だからと言って、油断は出来ない。 正博は、消音つきの拳銃を持っているらしいと、所長の幸光が何処からか聞き込んで来て、みんなに注意していた事を、省三は、思い出していた。

久美の生死がはっきりしない今は、一人で立ち向かう気にはなれなかったが、この場合、どうすればいいのか、まるで見当もつかなかった。よもや、こんな場合に遭遇するとは、夢にも思わなかった幸光が、的確な指示を与えていなかったのも、当然だったのである。 省三が、いくら思い出そうとしても、何も頭に浮かばなかったのは、仕方のない事だった。

省三は、必死になって考え、今は、相手の出方を待つ以外にないと決心した。久美の事が、とても気がかりだったが、軽率には動けないと、じっと辛抱したのである。

十分以上も経ってから、やっと正博が、車から出て来た。 車のトランクからスーツケースとスコップを取り出し、登山用の背負い具も出して、スーツケースをそれに縛り付けた。 それから苦労してスーツケースを背負い、スコップを片手に、谷間の崖を登り始めた。 省三は、とっさに、腹ばいのまま、正博の行く方向に近づいた。

正博は、木々の間のくぼ地に着くと、荷物を下ろして、スコップで穴を掘り始めた。 省三の記憶では、そこは、以前、源一郎が埋められた場所であった。もう、ぐずぐずしては居られなかった。

省三は、小石を掴んで、正博の車の方へ、投げた。少しの間、正博を、スーツケースから遠ざけようとしたのである。

案の定、彼は、びくっとして耳をすませ、車の方を見た。 しばらく、じっとしていたが、他に何の物音もしなかったので、再び、穴掘りを始めた。

省三は、今度は、もう少し大きい石を探して、力一杯投げた。 正博は、その音に驚き、又、しばらく身動きしなかったが、遂に、一度車の周りを点検しようと思ったのか、スコップもスーツケースもそのままで、崖を降りて行った。

省三は、正博の姿が見えなくなると、急いで荷物のそばに行き、スーツケースを手早く背負って、尾根伝いの獣道を登り始めた。 下って行けば、早くは歩けるが、それでは、すぐに捕まってしまうと考えたからである。 それに、この辺の山なら何度も歩いているので、良く知っているという自信もあった。

正博は、すぐに戻って来て、状況を悟った。 見回すと、スーツケースを背負ったまま登って行く男の後姿が見えた。 後を追いかけたが、相手は、重い荷物を背負っていても、山ばかり歩いていた男である。日頃、怠惰な生活を送っている者との差は、歴然としていた。

中々追いつけない内に、背丈ほどもある熊笹の群生している場所に来た。 獣道も、ここでは消えていた。 笹は復元力が強く、獣達の足跡も、ここには残らない。しかも、山に慣れていない者には、方向すら分からなくなる。 正博は、完全に、相手の行方を見失った。 その上、霧雨が降り出した。

車に戻って、麓の村の出口で待ち伏せしようと、方針を変えて山を下ろうとしたが、一旦方向を見失うと、降りる事すら難しいのだ。 さんざん迷って、苦労してやっと降りてみたら、そこには、警察官と探偵事務所の人達が、待っていた。




一方、省三は、洞窟の中に居た。 この洞窟は、以前、この付近に来た時見つけて、何度も利用していた。一夜を過ごした事もあり、彼にとっては、隠し別荘のような所でもあった。

スーツケースの蓋をこじ開けると、予想通り、裸の久美が入っていた。 身体はまだ温かく、かすかに息もしていた。 頬を叩いたり、身体をさすったりしたが、薬で眠らされているため、ぐったりしたままだった。

霧雨が降ってきた。 洞窟の奥なので、濡れる心配はなかったが、山の冷たい空気は、より一層、冷え冷えと、洞窟の中まで流れ込んで来た。 省三は、自分の着ていた物を全部脱いで久美に着せ、肌をこすって温めようとした。 本当は、焚き火をすればいいのだが、生憎とタバコを吸わない彼はライターなどの持ち合わせはなく、それに、煙が出れば、正博に見つかる恐れがあった。

万策尽きた省三は、この上は、自らの裸身を久美の肌に直接くっつけて温める以外に、方法はないと思った。 だが、相手が子供ならともかく、気を失ってはいても、久美は美しい女性で、しかも、省三が、無意識のうちに、密かな思慕を抱き始めていた人である。

彼は、躊躇(ためら)っていた。 突然、久美が「さむい」と呟き、ガタガタ震え出した。 もはや、躊躇っては居られなかった。 彼は、思い切って、自分の素肌で、震えている久美の素肌を、しっかり抱きしめた。

どれほどの時間が経ったのだろうか。

腕の中で、しがみついて震えていた久美の身体が、今度は、熱くなり始めた。 久美は、睡眠ガスの続きで、夢を見ていた。 まぶしい太陽の輝く草原で、裸の自分が、誰かと遊び戯れていた。

手を繋いでいた男の顔が、源一郎だったと思ったら、突然、正博に変わった。 驚いている久美に、正博が襲いかかって来た。 「助けてぇ!」と叫ぶと、正博を跳ね飛ばして、手を取って、抱き上げてくれたのは、省三であった。 「省ちゃん!」と叫びながら、抱きつき、唇を求めた。

急に、腕を伸ばして首に巻きつき、力をこめて唇を求める久美に、省三は戸惑ったが、押し返すほどの冷静さはなかった。




ふと、気がつくと、雨はやんでいた。

省三は、優しく久美を抱き起こした。 久美は、夢の中の出来事のような、それでいて、何もかも承知していた先ほどの行為に、少しばかりの甘えを見せて、彼に縋りつきながら、立った。

「さ、帰ろう。」 ぽつんと、省三が言った。久美の肩をそっと叩きながら、・・・

男の衣服を身にまとった久美を、背負い具に乗せて背負った省三は、殆ど裸に近い格好で、一歩一歩確かな足取りで、山を降りて行った。

「ほら!見て!・・・きれい!・・・」 突然、久美が背中で叫んだ。

足を止めて、見上げると、夕陽に映えた山々が、青空に聳え、その上に、白い小さな雲が、ぽっかりと、浮かんでいた。 その青い空と、白い雲と、緑の山との配色が、油絵のように、鮮やかであった。




第六章  危機   ---了---   立証  <完>



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