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手のひらに掴んだ日差し 文:うらら
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優香〔ゆうか〕は、義母の声から逃げ出すように駆けて行った。暫く走ると、闇ばかりの深い穴の中へ一直線に落ちていった。 「きゃー、誰か助けてえ」 そう言う自分の声で目が覚めた。雨をのせた北風が、窓を叩き付けている。雪になるのか、頬をかすめていく隙間風が冷たい。 (ああ、夢か。二十歳になっても、まだあの頃の事が心の傷になってるのかしら) 枕元に置いた音声時計で時間を確かめると、夜中の二時であった。遠い記憶の中で、少女の優香が怯えながら泣いている。 優香は広島生まれであった。優香の母は、優香を生んで直ぐにお産で死んだ。そのため、優香の祖母が不憫な孫のことを思って名前を付けるのに随分と考えたそうだ。 「優しい人たちの香に包まれて、少しでも幸せな人生が送れるように」 優香〔ゆうか〕と、付けてくれたのだった。祖母は母親代わりに孫娘を大切に育ててくれていたと、大きくなってから親戚の人から聞かされた。父親も、その頃は優香に優しかったとのことであった。 だが実母が死んで五年目に、父が親戚の者の勧めで後妻を迎えた。実子であれば可愛いはずの年頃だが、義母は優香を疎ましがった。義母は優香のことになると、どんな小さなことにでも声を荒げて注意をした。 まだ五歳の優香は、母の優しい手や温かな膝が欲しかった。優香が、母の膝を求めて上がっていくと、ゴキブリでも見た時のような声を上げた。 「何するのよ。嫌な子ね。さっさとあっちへ行って、一人で遊びなさいよ」 おとなしい父親は、そんな場面を見ても黙っていた。優香は、せめて父の大きな手に抱き締められたかった。義母がいない時には膝の上にも座らせてくれたが、義母がいると途端に人が変わったように優香を寄せ付けなかった。まだ幼い頃の事であったが、それらのことは大きな心の傷になって、今も昨日の事のように思い出されてくる。 いつもそのように育てられていた。しかし、なぜ母親が自分に冷たく当たるのか分からなかった。まだ幼い優香には、母とは義理の関係であることは理解ができなかったのだ。 愛情無く育てられながらも、優香は小学二年生になっていた。その頃、自分でも目の見え方がおかしいと思っていた。祖母が優香が遠くを見る時に視線が定まっていないことに気が付いて、病院へ連れて行ってくれた。病院へ行った時には、優香の視力はすでにかなり落ちていた。医者の話では、緑内障とのことであった。その上、近い将来には必ず失明をすると言われた。医者のすすめで手術を受けたが、手術前より視力は低下した。優香が九歳の時には、一点の光も見えなくなってしまったのだった。 義母はそんな全盲になった優香を、ますます疎ましがった。その上、優香には利恵〔りえ〕という義妹ができていた。義母は血を引いた我が子ができたこともあり、一層優香には冷たく当たった。愛情の全ては、義妹へと向けられた。 初秋に入り、全盲になった優香は盲学校の寄宿舎に入れられて、小学校三年生の教室に通うことになった。いくら義母が虐めるとはいえ、まだ九歳で家族と離れて暮らすのは辛かった。 失明をして間もないこともあり、闇の恐怖と不安が重なった。見た事が無い部屋で過ごすには、慣れるまでに時間がかかった。初めの頃には、自分の部屋の中なのに位置が分らなくなったことがある。暫く畳の上に座り込んで、耳をそばだてた。 (こっちから車の音がしてるということは、右手の方に窓があるんだ) 夜になると、涙で枕を濡らして眠った。外で誰かを呼んでいるかのように、リーンリーンと鳴く虫の声が余計に寂しさを募った。 「お母さん、怖いよう。何で、こんなに真っ暗なの。優香もお母さんの所へいきたいよう」 死にたいと思っても、まだ小さい優香にはどのようにすれば死ねるのかが分らなかった。布団を頭からかぶって、毎夜、同じ事を口にしているうちに眠りについていた。眠っている時だけは、闇の恐怖からも解放されて幸せであった。夢の中では、これまでに見た記憶の中の風景が出てきた。自然の中を走る優香は、目が見えて健康な少女のままであった。目が覚めると、再び闇の世界が押し寄せてきた。 慣れない環境もあり、一歩足を踏み出すのにも恐怖があった。そこで、寄宿舎に入ってからは寮母さんや歩行訓練の山口健太先生から、壁に手を当てて伝い歩きをするようにと言われた。寄宿舎や学校生活をしていく上で、できるだけ自分で移動ができるようにするためだ。初めは、寄宿舎の部屋の中を壁を伝って歩いた。次に、トイレに繋がった廊下へ出た。左手をそっと壁に触れて確かめつつ進んだ。時折、柱が壁より突き出している所がある。 「いいわね。その柱の数を覚えておくのよ。六本目の柱があったら、次にドアがあるから、それを開けるとそこがトイレよ」 寮母さんが言うように、たしかに六本目の柱の次にはドアがあった。 「ドアを開けると、仕切の下にスリッパが置いてあるから、それを履いて真っ直ぐ前に三メートルくらい歩くとトイレのドアがあるのよ。そこには、トイレは横に三つ並んであるからね」 言われるように歩いてみたら、ドアのノブに手が触れた。 「そのドアを開けて、優香ちゃんの足を縦にして二つ分くらい前にやると、便座があるからその蓋を開けて腰かけてするのよ。そして、右手を真横にした所にトイレットペーパーがあるからね。お水を流す所は、後ろへ向いてから真っ直ぐ手を伸ばすと、タンクの右側にコックが付いているからね」 教えられるままに、一応便座に座って確かめた。
「そしてね、今入ったドアに背中を向けて、真っ直ぐ歩くと、この入り口のドアの所へ帰ってくるのよ。手を洗う所は、入り口のドアの右横にあるからね。そして、今度お部屋に帰る時には、手を逆にして右手で壁を伝って歩くのよ。お部屋までの柱の数は幾つあったかしら」 そう言われて、優香は気を落ち着けて考えてみた。
(そう言えば、六本目にトイレの入り口のドアがあったのだから、六本か) 小学部で、寄宿舎生活をしているのは十三人である。みんな、寝起きも学校も一緒で、一日中生活を共にしているので、まるで兄弟姉妹のように絆〔きづな〕が深まった。 寄宿舎の部屋では、真美〔まみ〕ちゃんという一つ年下の女の子と同室であった。真美ちゃんは、先天性の視覚障害者である。優香は真美ちゃんと出会って、初めて生まれながらに目が見えない人がいることを知った。真美ちゃんの声は、やわらかく耳に心地よく流れてくる。優香が闇の恐怖と不安で泣いていると、真美ちゃんが声をかけてきた。
「どうしたん」 真美ちゃんの言葉に不思議に思いながらも、だんだんと闇の世界にも慣れていくのかと、少しは安心をした。それに、真美ちゃんは先天性の全盲のためか、とても感が良かった。寄宿舎や校内の中では、まるで見えているかのように早足で歩いている。でも、いつも元気が良い真美ちゃんも、夜になると時折、布団の上で手足をバタバタさせながら家に帰りたいと泣くことがある。真美ちゃんの泣き声を聞くと、一つ年上の優香は泣けなくなり、真美ちゃんを慰めていた。
「真美ちゃんには、会いたいと思う優しいお母さんがいていいよね。私なんて、お母さんに抱き締めてもらった思い出さえ無いんだもんね」 互いに境遇を話しては慰め合った。窓の外で、枯れ葉がカラカラと風に舞う音がした。親の幹から離れるのを嫌がっているように聞こえてくる。 優香は勉強をするためには絶対に必要だからと、男性の宮田先生から点字を習った。まだ若い宮田先生は、やや高音の声で言った。 「いいかい、これが点字だよ。三つの点が縦に二列並んでいるだろう」 そう言われて、一枚の点字用紙を渡された。指で先生が書いた五十音を触ってみたが、一つ一つの盛り上がった点の区切りが分からない。それで、手のひらで紙全体を撫でてみたが、ザラザラとした感触だけが伝わってきた。 「こんな粒々なんて、文字じゃないよ。目で見ることができないと覚えられない」 泣きながら点字用紙を先生の方へ突き返した。 「初めて触るから分からないと思うけれど、心配ないよ。みんな覚えているし。先生が負けるくらいすごい速さで読む子もいるんだよ。これからは、この点字を覚えて全ての教科の勉強をするので、がんばって覚えるんだ。どれだけの速さで読めるかによって、将来優香ちゃんの手のひらに掴める幸せの数が決まるんだよ」 先生は、「がんばれよ」と言って大きな手で頭を優しく撫でてくれた。どうして点字を覚えることで、将来の幸せの数が決まるのか分からないまま「うん」と頷いて、母音から習った。優香はとても好奇心が強かった。興味を持つと、それに向かって突進する性格だ。それに、諦めていた本が再び読めるということで、眠る前まで頭の中でも点字を図形にして覚えた。光を必要としないので、時には布団の中に潜って上向きになり、お腹の上に点字本をのせて指でなぞっているうちに眠ることもある。 優香は土日だけは祖母が迎えに来てくれて、家で過ごしていた。いつものように、祖母に手引きをされて家に向かっていた。 「ええか、優香がこのようになったのも運命や。人を恨んだらいかんよ。母さんも、ほんとうはいい人なんや。ただ、自分の子供ができたものやから、ちょっとそちらへ気持ちがいってるだけなんやからね。ええな、母さんのことを嫌ったらいかんよ。 何でもはいはいと言って、できるだけ可愛がってもらうんやで」 祖母は、優香に言い聞かせるように話す。まだ十歳の優香だったが、祖母が義母との仲に立って気を遣っていることは分かっていた。 「大丈夫よ。優香にはお祖母ちゃんがいるもの。お祖母ちゃんがいる限り、優香はいい子でいれるもん」 そのような会話を交わしてから、半年後のことだ。祖母は横断歩道を渡っていて、信号無視の車に撥ねられて死んだのだった。間もなく四月になろうとしていたのに、冷たい雪が舞っていた日であった。 優香は優しい祖母を失って、孤独であった。闇の中で、せめて愛の温もりが欲しかった。だが、義母は祖母が亡くなってますます優香に厳しく当たった。 「何もたもたしてるのよ。ちゃんと歩きなさいよ。さっさと付いて来ないと、ほっといて行くわよ」 義母は利恵の手を引いて先を行き、後から足を踏み出せずにいる優香にヒステリックな声で叱りつけた。 「おねえちゃあん、こっちだよう」 無頓着に言う三歳の利恵の声を頼りに付いていく優香の足は、恐怖で震えて前に出ない。歩き慣れた所では一人歩きができたが、まだ外では人の手を借りずに歩くことはできなかった。恐怖からか、いつもは心地よく聞いているヒバリの声に腹立ちさを感じた。家の中でも、優香がどんなに困っていても、義母は手を貸そうとしなかった。優香は家にいる時には、夕食の手伝いをさせられていた。今夜は優香の好きなカレーとのことで、張り切って手伝った。ジャガイモの皮が剥けずにいると、義母は冷たく言った。 「ほんとうに、鈍な子ね。ジャガイモの皮もきちんと剥けないなんて」 そう言われて、仕方なく皮を剥こうとした。しかし、剥いたところとまだのところの区別がよく分からない。そのため、つい同じとこ ろを二度剥きしたり、厚く剥いてしまう。すると、義母がまた声を荒げた。
「そんなに厚く剥いちゃだめでしょう。また同じところを剥いて。ああ、ジャガイモが小さくなってしまうじゃないの」 優香は包丁とジャガイモを俎板に叩きつけて、泣きながら自分の部屋へ駆け上がった。階段を上がっていく優香の背中に、義母の声が突き刺さった。 「このお馬鹿が、何するのよ。危ないじゃないの」 その日は、休日で父が側にいた。 「まだ子供なんだから、そんなに厳しく言わなくても」 父は弱々しい声で言った。駆け上がっていく優香の後を追って階段を上がって来ているのか、父の足音が聞こえてくる。その後ろから直ぐに、義母の苛立った大きな声が聞こえてきた。 「あんな気ままな子、ほっときなさいよ。折角、私が料理を教えてやっているのに、あの態度は何よ。ほんとうに、目が見えなくて手がかかるばかりで、役に立たない子なんだから」 義母の声を聞いて、父の足音が迷っているかのように、階段の途中で止まった。暫くして、ゆっくりと下に降りていった。そんな足音を聞いて、元々口数が少なくおとなしい父とはいえ、何も反論しない父の態度にますます悲しくなった。布団の中で身体を丸めて泣きながら、 (二度と手伝いなんかしてやるもんか)
と、義母への腹立ちを拳に握り締めて枕に叩き付けた。だが、元々負けん気が強い優香は、義母に言われるとそれからも炊事をしていた。悔しさから工夫をするようになり、だんだんと自分で何でもする癖がついていった。それがよかったのか、優香は全盲生の中でも勘が鋭く育っていった。
歩行訓練は、盲学校に入ると直ぐに歩行訓練師の山口先生から受けていた。まず初めは、白杖の持ち方や突き方を教えられた。 「杖は真下に突くのではなくて、こうやってお腹の中心から前方に真っ直ぐに手を伸ばして、身体の幅よりやや広めに振りながら、そこに危険が無いか確かめて歩いていくんだよ。いいかい、これからはこの白杖が優香ちゃんの命を支えてくれるのだから、大切に扱うんだよ」 先生は手に白杖を持たせて、低音だが秋風のように爽やかな声で言った。最初は危険が無い廊下でされた。先生が三メートルくらい先に立ち、手を叩いてくれている。 「ほら、こっちだよ。何も危ない物は無いから、恐がらずに歩いてごらん」 何も危険は無いと分かっていても、初めはなかなか足が前に進まない。一番仲が良い、二つ年上の友達の希代〔きよ〕ちゃんも側に付いてくれていた。希代ちゃんは弱視でいつも手引きをしてくれていたので、心配で見てくれていたのだ。希代ちゃんが、ヒマワリのように明るく元気な激励の声を上げた。 「優香ちゃん、がんばってえ」 希代ちゃんの声に背中を押されて、恐る恐る足を二歩三歩と前に進めた。すると、先生も後ろへ足を同じように二歩三歩と下げていく。だんだんと距離を延ばして、廊下の端まで歩くことができた。 「よくがんばったなあ」 先生と希代ちゃんが、代わる代わるに手を取って喜んでくれた。優香も一人で歩けた嬉しさに、心の奥から喜びが湧き上がって笑みがこぼれた。 (ああ、初めて一人で廊下を歩けたあの時は嬉しかったなあ) 何回か校舎の中での訓練を繰り返して、ふら付いたり斜めに歩くことが無くなってくると、少しずつ距離を延ばしていった。一応、校内を歩けるようになったので、学校の外の道を歩く訓練に入った。門を出れば、限りなく自由が広がっているはずだが、一人歩きを許された全盲の優香には、心を覆う闇と恐怖の世界でしかなかった。それでも、何度か道を歩く練習を重ねるうちに、少しずつだが空気の流れが肌に感じられるようになってきた。そんな様子を見て、中学生になったこともあり、歩行訓練の山口先生に家まで歩く練習をすることを勧められた。先生が後から付いてきてくれるとのことであったが、初めて杖を頼りに帰る前夜は不安と恐怖でなかなか眠れなかった。 「いいかい。頭の中に地図をしっかりと描くんだよ。そして、神経を耳や鼻、皮膚や足底などに集中させるんだよ」 先生の言葉が、頭の奥で繰り返された。右手で一メートル十センチくらい先をついている白杖に神経をやりながら、歩道の横を走る車のエンジン音を聞いた。靴底を通して感じられる道の様子を確かめて、足を前に進めていく。時折、店舗からそよいでくる匂いにも注意を注いだ。 (ここのコロッケ屋さんとパン屋さんを越した所の、初めての十字路を右に曲がって、百歩歩くとバス停があるのよね) コロッケ屋さんとパン屋さんとの間には、空き地があった。コロッケ屋の美味しそうな匂いを鼻にしながら、肌に神経を集中させた。空き地に来ると、微かだが家がある所とは空気の流れが違う。壁が無いので、空気が閉ざされることなく空間に流れている。それを感じながら、パン屋さんを通過した。バスに乗る時には、先生がチケットの取り方を教えてくれた。幸い、優香の家は終点まで乗ればよかった。家は、バスを降りて五分程歩く距離にあった。家までは、一直線だった。だが田舎であったために、目的にするような店からの音や匂いが無い。空気も遮る物が無く、周囲へ果てしなく流れていた。その上、道の横に幅二メートルくらいの小川があった。直線の道だが、優香はますます神経を靴底や耳、鼻、肌などに集中させた。 右手に持った白杖を左手に持ち替えて、リュックから折りたたみの杖を出した。その杖を小川の岸にそって滑らせた。左手に持った杖は、前方に危険がないように確認をとりながら歩いた。普通は、白杖を二本持って歩くことはあまり無いそうだ。だが優香の川への恐怖感が強いので、先生が折りたたみの杖を持つようにと言われたのだった。耳にも神経を配った。右側から、微かに聞こえる水の音。その流れの音からあまり距離をおかないように足を進めた。春の風は、田に植えられた蓮華草の甘やかな匂いを運んでいる。優香はふと、足を止めた。足の下に、やわらかな感触が靴を通して伝わってくる。 (おや、ここはコンクリートが敷き詰められているはずなのに) 腰を屈めて、足に触れたやわらかな物を触ってみた。それは、コンクリートの割れ目から雑草が生えていたのだった。そういえば、私の目が見えていた頃には、この道にもまだアスファルトが敷かれていなかった。足底にはいつもやわらかな草の感触があった。周りの田にも蓮華草が咲いて、絨毯が敷き詰められたようにピンクに染まっていた。土手には、黄色いタンポポや白いクロッカスが蝶々を招いていた。青い空には、白い雲がゆったりと流れていた。優香の遠い記憶の中で、春の風景が蘇ってくる。そんな事を思いながら、コンクリートを突き抜いて命を燃やしている雑草に元気をもらって腰を上げた。後ろから付いて来ている先生は、 「誰も見てくれていなくて、一人で歩いていると思って歩きなさい」 と言われただけ、優香が立ち止まって思い出に慕っていても、何も言わず黙って見守ってくれているようであった。優香はまた歩き出した。背中を伸ばして、全身の神経を研ぎ澄ました。だが暫く腰を下ろしていたためか、足が少しふらついた。そんな様子を見ていたのか、左側の畑で仕事をしていたと思われる近所の女性から声がかけられた。 「あっ、危ないよ。右へ寄ったら川に落ちるよ」 誰もいないと思っていたのに、突然に声をかけられたことでますます身体がふらついた。優香はちょっとした空気の流れや周囲の音を頼りに歩いているので、声をかけられると感が狂ってしまうのだ。声に驚いていると、駆け寄って来る足音がしたかと思ったら、今度は手を握られた。優香は驚いて、もう少しで「キャー」と声を出すところであった。
「よかったら、おばちゃんが送って行こうか」 どうやら、後ろから付いて来てくれている先生の事は気付いていないようだ。優香は、一人で白杖を突いて歩いているところを見られたことが恥ずかしかった。近所の女性の視線から、少しでも早く逃れたいと足を速めた。暫く歩くと、流れていた空気が左側の家の壁に閉ざされて動きが無くなった。 (やったあ。やっとお家に着いたのだ) 玄関まで辿り着いた時には一気に緊張がほぐれて、ホッと溜息が出た。先生が、優香の手をとって弾んだ声で誉めてくれた。 「よくがんばったなあ。後、何回か家に帰る練習をすると一人でも大丈夫になるよ。これからは、だんだんと優香ちゃんの自由な世界が広がっていくよ」 そう言われて嬉しかった。誉められたこともあり、明るく「ただいまあ」と玄関の奥に声をかけると、義母の声がした。 「あら、帰ったの」 祖母が死んでからは、文句を言いながらも義母が迎えに来てくれていた。 「今日は一人で帰るから、迎えはいい」と告げていた。そう言った時にも、「そう」と言っただけであった。義母の性格を知らない先生は、喜びが溢れたような声でにこやかに義母に声をかけた。 「お母さん、優香ちゃんを誉めてあげてください。今日はがんばって一人で帰ってきたんですよ」 義母は、その言葉を聞いて声が躍った。 「じゃあ、これからはもう優香を迎えに行かなくてもいいのですね。ほんとうに、この子にどれだけ手間がかかることやら」 先生もどう返事をしていいのか分からない様子で、暫くは声が出なかったようだ。優香はそんな義母の言葉が恥ずかしくて、先生を上に上がるようにと勧める事なく、 礼を言って自分の部屋に駆け上がっていった。優香は、部屋に入るなりベットに横たわった。布団を頭からかぶって、声をあげて泣いた。 (何で、私だけ辛い思いをせんといかんのや。いくら義理の仲とはいえ、もっと優しくしてくれてもいいと思うのに。早く大人になって、 こんな愛情の無い家なんて出ていきたい) 最近、辛抱強い優香がこのように泣くのは珍しいことであった。それは、家族の前でいくら義母に言われてもいい。だが、今日は先生の前で自分が生きていることさえ邪魔扱いにされたのだ。優香は、悔しさにいつまでも涙が止まらなかった。その夜のことだ。久しぶりに祖母の夢を見た。夢の中で、祖母が心配そうな顔をして、手をとって優しい声で語りかけてきた。 「ええか、お祖母ちゃんとの約束を忘れたらいかんよ。お母さんとは、仲良くするんだよ。優香が目が見えんようになったのは、神様が優香であれば闇の中でも生きていけると思ってのことや。そして、その残された機能を使って、可能性を見つけることができると思われたんだよ。見えないのは辛いやろうけれど、それが優香の使命だと思ってがんばるんだよ。お祖母ちゃんは、いつでも優香の側で見守っているからね」 優香は、「お祖母ちゃん」と呼ぶ自分の声で目が覚めた。頬には、こぼれ立ての温かい涙の感触があった。信仰に熱心だった祖母らしい言葉だった。
(お祖母ちゃん、心配をかけさせてごめんなさい。優香は、心の中にいるお祖母ちゃんと一緒にこれからもがんばって生きていくから、きっと見守っていてね)
ある日のことだ。ラジオを聞いていると、アメリカでは全盲の精神科の医師や、カウンセラーの仕事に就いている人がいるという。それは、視線を感じないことで患者が安心をして、本音を言うのだとのことであった。優香はその話を聞いて、胸の奥から光が湧いてくるような感動がこみ上げてきた。 (そうや、カウンセラーだといろいろな相談にあたる職業で、あまり目を必要としないのではないか。闇の中で暮らしている体験を生かして、福祉関係のカウンセラーになることができればいいのだけれど)
そう思ってから、カウンセラーのことが頭から離れなかった。 「生きていく上で、夢を抱くことは大切だよ。でも、優香ちゃんは全盲だし。一般社会の中で生きていこうと思えば、大変な努力がいるし、苦労もすると思うよ。それよりは、どこかの治療院にでも勤めた方が安定した生活が送れると思うんだがなあ」
そう言われて、優香は自分に自信が持てないこともあって、それ以上、思いを告げることができなかった。 「それは、素晴らしい夢だね。これからの盲人は、これまでのように囚われた職業だけにしがみ付いていてはいけない。だんだんと、保険がきく治療院も増えているし。全盲でそのような治療院に対抗していくのには難しい環境になってきている。それよりは、一般社会の中で、少しでも可能性を見つけて、自分を活かせる場を見つけることは大切だと思うよ」 優香は、そう言ってくれた先生の言葉に希望の光が胸に押し寄せてきた。
「じゃあ、私のような者でも努力をすれば、カウンセラーになれるでしょうか」 先生はそこまで言うと、優香の背中を叩いて、神妙な声になった。 「でも、目が見える人でも大学へ行くのは難しいのだから、人の何倍も努力をしなくてはいけないよ。その覚悟があるなら、先生が入試に向けて教えてあげるから。大丈夫だよ。優香ちゃんは勉強が良くできるから、きっと受かるよ」
そう言われて、優香は受験に向けて勉強に励んだ。 (どこでもいいから、あの嫌な母さんの声が聞こえない所へ行きたい) そこで、先生に教えてもらったいくつかの心理学科がある大学の中で、神奈川県の川崎市にある、専修大学を目指すことにした。先生の話では、その大学では多くの奨学金での援助もあるとのことだ。 それから、先生が特別に放課後、毎日二時間ほど普通科の勉強を教えてくれた。寄宿舎に帰ってからも、必死で勉強をした。幸い、闇の中で暮らす優香は、消灯の時間がきても電気が消えた部屋で、指で点字の本を読むことができた。 いよいよ、受験の日になった。優香は盲人ということで、点字入試が許された。だが、極度に緊張して揚がってしまった。時間だけが、焦りとは逆に問題を埋めつくさないうちに過ぎていった。
優香が不安に思っていたように、やはり夢は叶わなかった。大学受験に失敗をしたのだ。 義母は、入試に落ちたことを知って罵声を浴びせた。 「だから、止めときなさいって言ったじゃないの。目が見えなくて、大学なんて無理に決まってるじゃないの。それよりも、早く地元の治療院に就職をして、少しでも生活費を入れなさいよ。それが、これまで大きくしてもらった恩返しというものよ」 義母の言葉に、ますます反抗的になり家を出て行きたいと思った。そこで、高等部の先生の紹介で、専修大学がある神奈川県の治療院に一旦就職をして、もう一度受験に向けて勉強をすることにした。義母は、優香の決意を聞いて、声を荒らげた。 「この家を出ていくと言うなら、それもいいけれど、もう二度と親を頼るんじゃないわよ。この家の財産は、あんたには与えるものは何も無いと思っておきなさいよ」
優香は、義母の言葉に意地でも夢を叶えてやると決意して家を出た。 「ほんとうは、目が見えない優香をこんな所で一人暮らしをさせたくないんだが。でも、母さんとの折り合いも悪いし、これも仕方がないことだなあ。母さんは、あのように言っているけれど、いつでも帰りたくなったら帰ってきてもいいんだよ」
父親の大きな手が、優香の背中に温かい心を伝えていた。ホッとした安らいだ気持ちが込み上げてきた。久しぶりに父の手を背中に感じて、
「大丈夫だよ。優香にはいつもお祖母ちゃんが付いていてくれるもん。それに、暫くはこの辺りの地形に慣れるまでは、ヘルパーさんに来てもらおうと思ってるから」 父親が、珍しく優しい口調でしみじみと言った。もう一度、優香の背中を叩いて「がんばれよ」と言って帰っていった。
優香は、新しい住まいにも慣れてきたので勤めている治療院の先生に、受験のために家庭教師を紹介してもらうことにした。それから間もなくして、大学二年生の正紀〔まさき〕が訪ねてきた。
「どうぞお入りください」 正紀の方は、優香が目が見えないのを治療院の先生から聞いていなかったのか、視線が定まらない顔を見て驚いたようである。玄関に立ったまま、暫く沈黙が流れた。奥を見渡している様子である。
「治療院の先生から聞いたのですが、こちらに勉強を教えてほしい人がいると言われたのですが、それはどなたでしょうか」 正紀が驚くのも無理はない。全盲で大学入試を目指しているのだから。優香も不安に思いながらも、正紀を部屋に通した。優香の勉強机の上には、視覚障害者用のソフトを入れて音声が出るようにしているノートパソコンが置かれていた。正紀がそれを見て、不思議そうな声を出した。
「このノートパソコンは、誰が使うのかな」 パソコンは、盲学校へ行っていた時に習ったのだった。その時に、父がリサイクルショップで買ってくれたのだ。 「すごいなあ。パソコンができるのか。でも、どうやって入力をするんだい」 優香が、パソコンを立ち上げてキーを押してみた。すると、押したキーを音声が知らせた。
「なるほど、声が出るんだなあ。それも、男性音で僕の声よりすてきだなあ。じゃあ、普段はこのパソコンを使って勉強をしてるのかい」 正紀は優香の説明を聞いて、少し安心をしたような声になった。
「それで、優香ちゃんはここに一人で暮らしているのかい」
正紀の話では、出身は東京だが、家賃も学費も両親に出してもらって、アルバイトをするのも今回が初めてのことだそうだ。 「お声が、秋の青空のようにとっても爽やかで優しいですね」 正紀は、照れたような声をあげた。 「そうかなあ。そう言われたのは初めてだけれど…それにしても、秋の青空のような声だなんて、詩人のようにうまいこと言うなあ」 そう言いながら、照れ隠しのように話を変えて訊いてきた。 「では、今度はいつ来ればいいかな」
それから、正紀は両方にとって都合が良い、土日に家に通って来てくれることになった。それも、優香の生き方に感動をしたからと言って、講師代も格安で引き受けてくれたのだった。
「優香ちゃん、これ読んでみてくれるかい」 優香は、渡された紙に驚いた。 「えっ、これって点字用紙じゃないの」 正紀はやや声を落として、不安そうに言った。 「とにかく読んでみてよ」 優香は、紙にゆっくりと指を滑らせた。そこには、点字が用紙一杯に書かれている。
「優香ちゃん、先日、東京の実家へ帰ったときに日本点字図書館へ行って、点字用紙と点字板を買ってきました。まだマニュアルを見ながら書いているので、これだけの手紙を書くのに三時間もかかってしまいました。点字で文章を書くには、随分と力もいって疲れるんだね・・・」 正紀は照れたような声で言った。それを聞いて、優香の目から一気に涙が溢れた。これまで、家族でさえ点字を覚えてくれた者はいない。それどころか、義母などはいくら言っても、油断をすると点字本の上に物を置いて、点字が潰されるのではと優香を冷や冷やさせる。 まだ出会って間もない正紀が、自分のためにここまでしてくれたことに、これまでに無い感動が込み上げてきた。 「ありがとうございます。とっても嬉しいです」
優香は、涙声でそれだけを言うのがやっとであった。
点字を読む優香の指先から、正紀の優しさが心の奥へと伝わってくる。その温かい思いは、これまで優香が体験したことが無い甘い花の匂いをのせた春風にも似ていた。 (今日は先生が来る日やから、そうや、クッキーを焼いてコーヒーに添えて出して上げよう)
正紀は、午後三時過ぎにやってきた。優香は、二時間ほど勉強を教えてもらって台所へと立った。準備をしていたコーヒーを沸かせてカップに注いだ。手に空のカップの重さが残っているので、それでコーヒーの入り具合を確かめた。部屋に戻った時、優香の手にはお盆がさげられていた。 「これ、私の手作りのクッキーなのですよ。美味しいかどうか分からないけれど、どうぞ食べてみてくださいね」 百円ショップで買った菓子皿の上には、花や星、ハート型のクッキーが盛られている。それを見て、正紀の声がひっくり返った。 「えっ、これ優香ちゃんが焼いたの。すごいなあ。何でも自分でできるんだなあ」 そう言われて、顔がほてった。暫く雑談をしてから、今度はリンゴを勧めた。正紀が食べると言うので、冷蔵庫からリンゴを取り出してきて、正紀の前で剥いた。指先に視線を感じながら、それでも戸惑い無くナイフを滑らすように剥いていった。優香の手の下には、切れることなく繋がったままの皮が長く垂れている。
「何度も言うようだけれど、ほんとうにすごいなあ。僕より剥くのが上手だよ。皮も薄く剥いているし、まるで見えているようだ。どうやって剥いたところと、そうでないところが分かるんだい」 そう答えながら、子供の頃に義母にジャガイモの皮がきちんとむけないと叱られたことを思い出して、思わず苦笑した。義母に虐められて指先に神経を集中させているうちに、きれいに剥けるようになっていったのだ。今では、目が見える人よりも速く剥けると言われるほどになった。
正紀は、男性としてはよく気が付いて、優しい性格をしている。優香が読めない専門書で、必要なものは朗読をしてテープに入れて持って来てくれていた。それを次に来るまでに聞いて、分からないところをチェックして教えてもらった。 (先生とずっと一緒に過ごせたら、どんなに楽しく幸せなことかしら。もしかして、これって恋なのかしら) 優香は、自分でそう想って恥ずかしさに思わず胸を押さえた。正紀のことを想っただけで、鼓動が速くなっている。 (でも、先生はこんな目が見えない私のことなんて、好いてくれるわけがないし。まして結婚なんてしてくれるわけがないもんね)
優香は子供心に、自分が全盲であると知った時から、なぜか(結婚はできないのではないか)と思って諦めていた。そして、高校生になってからも女としての夢は描かないようにして、仕事への夢を燃やすようにしていたのだ。 「こんな事を訊いて失礼だが、どうやってお天気と曇りの日の区別がつくんだい」 優香は、顔を正紀に向けてにこやかに言った。 「晴れている時は、顔や手のひらに降り注ぐ日差しでみるのよ。暖かな陽光が、私を包んでくれた時は晴れでしょう。そして、曇りの日は、肌を包む空気が冷たくしっとりとしているのよね」 そう答えながら、ベランダの手摺りから手を伸ばして手のひらを上に向けた。春の日差しが手のひらに暖かく降り注いでくる。どこからか青葉の香りをのせたそよ風が頬をかすめた。優香は、明るい声を上げた。
「ああ、今日はほんとうにいいお天気ね。お洗濯物がよく乾きそうだわ」 正紀はそう言いながら、優香の真似をして手のひらを上に向けて日差しを感じ取ろうとしているようだ。
「僕にはよく分からないよ。分かるまでは少し訓練がいるかなあ」 二人で笑いながら部屋へと戻っていった。後ろから、いろいろと訊いてくる正紀の声が、頭よりはかなり上から流れてくる。優香が、好奇心に満ちた声で言った。
「先生は背が高いのですね。もしかして、百八十センチ近くあるんですか」
正紀は、優香がすること全てに感動の声を上げた。正紀に誉められる度に、人間として認められたような喜びがこみ上げてきた。
優香が自分で何でもできると言っても、信じてくれる人は少ない。だが、正紀は優香の周りを囲む障壁を打ち消すように、一人の人間として認めてくれる。これまで、義母に生きていることさえ否認されるような扱いを受けてきた。それだけに、正紀が一人の人間として見てくれることが嬉しかった。
「それ、入力ミスだよ」
「どうしたんだい。このキーだよ」 (正紀さんて、やや太り気味なのかしら) ふっくらとした指から、正紀の体型に思いを巡らせた。まだ、正紀とは手も触れたことが無かったのだ。その夜は、なかなか寝付けなかった。正紀の指の感触が、今も手に残っている。 (正紀さんて、どんな顔をしてるのかしら。私も、八歳の頃から鏡を見たことがないし、今はどんな顔になっているのかしら。正紀さんに、可愛いと言ってもらえるかしら)
そのように想いを巡らせていると、胸が息苦しくなってくる。 (こんなに苦しいのであれば、思い切って好きだと言ってみようかしら)
声を聞けば恥ずかしさもあって、どう言えばいいのか言葉が口に出ない。正紀は落ち着かない様子を見て声をかけてきた。
「僕は、優香ちゃんが好きだ。ずっと前から僕に想いを寄せてくれているのではないかと気付いていたんだ。でも自分の心の中で、どうしても優香ちゃんを受け入れる気持ちの整理ができなかったんだ。僕の気持ちを伝える以上、これからは悲しい思いはさせられないしね」
「それって、ほんとう?」
「ずっと前から好きだった。自分では気付いてないかもしれないが、最近の若い女の子よりは純粋だし。盲人である自分を受け入れて、前向きに生きているところに心を引かれたんだよ。それに、人間としても尊敬しているんだ」
「でも今は僕は学生だし、これ以上の想いを伝えることはできない。僕が社会人になったら、その時あらためてプロポーズをしたい」 (そうだ、正紀さんも一人で暮らしているのだから、家でご飯を食べてもらおう) 今日は、日曜日で十時過ぎに来るとのことであった。 (正紀さんは、何が好きなのかしら) そう思いながら、冷蔵庫を開けてみた。今日、買い物に行く予定だったので、大した材料が無かった。切り残しの野菜やミンチがあったので、ハンバーグと野菜スープを作ることにした。包丁を右手に握って、玉葱を左手に持った。まず縦に切ってから、それを横に寝かせて細切りにした。左手の指は、包丁の刃が当たらないように、玉葱の端より二センチくらい左側に置いた。そして、それを微塵切りにした。ガスコンロのコックを押して火を点けた。手のひらで、火の強さを確かめてからフライパンを置いて炒めた。 フライ反しの先に触れる玉葱の感触がだんだんと柔らかくなってきた。火を止めてから、暫くおいて熱を冷まして、ミンチ肉やパン粉、卵などと一緒に玉葱を混ぜ込んで形を整えた。それを炒めてから、残った野菜と若布を入れてスープを作った。部屋の中に、出来上がった料理が食欲をそそる匂いを上げている。そんな匂いを嗅ぎながら、ふと不安に思った。 (目が見えない私が作った物でも、おいしいと言って食べてくれるかしら)
勉強を終えて、食事をすすめた。正紀は嬉しそうな声を上げた。 そう言われて、優香は声を転がして笑った。先ほど作った物を温めてテーブルの上に並べた。正紀は、出した料理を音を立てておいしそうに食べてくれている。
「なかなかやるじゃないか。結構料理が上手なんだなあ。ほんとうのことを言うと、料理はできないのじゃないかと思っていたんだよ」
「そうだったのか。随分と苦労をして育ったのだなあ。でも、そういうふうに義理のお母さんの事を恨まないで感謝してるだなんて、ほんとうにえらいなあ。でも、その頃の苦労があるから優しいし、よく気が付くんだなあ」
午後七時頃に、正紀が来るなり大きな声を上げた。
「ごめんなさい。点けるのを忘れていたみたい」
「それは頼もしいなあ。そうなった時には頼りにしてるから」 (いやだあ。どれとどれがペアなのか分らなくなっちゃった) いつもだとヘルパーと買い物に行った時に、必ず色を訊いて家に帰ってからも、それらのペアの靴下が離れないように重ねていた。 洗濯も一足ずつしていた。それが、うっかりと三足を一度に洗ってしまったのだった。色だけは、いくら触覚が発達しているとはいえ、指で触っても全く分らない。 (確か、ピンクと赤と白だったよなあ) 情けなく思いながらも、正紀が来るのを待つことにした。暫くして正紀が来て、肩を落としている優香に声をかけた。
「何しているんだい。靴下を盛り上げて」 そう言いながら、あれだけ優香が苦心していた靴下をアッと言う間に合わせてくれた。
「優香ちゃんは何でもするから不便な事って無いのかと思ったら、案外普通の事で不便を感じて暮らしているんだなあ。確かに、色だけは分らないよなあ」
「お祖母ちゃんの実家の香川からおうどんを送ってきてくれているので、冷やしうどんにして食べる」
「えっ、さぬきうどんを食べさせてくれるのかい。僕はうどんが大好きなんだよ」
器用な優香だが、長いうどんを箸で掴んで、付け出しの器に入れるのは難しかった。時によると、つい左手が出てしまう。 うどんを湯がいてから器に注いだ。付け出しも器に入れようかどうしようかと迷ったが、正紀の視線を感じて止めた。平衡感覚の無い優香は、器に汁を掬い上げて入れるというのは難しかった。時には溢すこともある。正紀にそんなところは見られたくないので、正紀に付け出しを入れてもらって食べた。 「随分と太いうどんだなあ」 さすがにうどん好きと言うだけ、絶え間なく音を立てて口に運んでいる。優香も躊躇しながらも、丼に入れられているうどんを箸で持ち上げた。うどんが優香の目のように着地地点が分らなくてフラフラしている。
「あっ、うどんが付け出しの器の外に落ちそうだよ」 (ああ、やはり冷やしうどんは人前では食べるものじゃないわ)
優香は汗が出る思いがした。正紀が見かねて、残りのうどんは全て付け出しに入れてくれた。
「おうどんとケーキは、人前では食べたくないわねえ」
「やはり、うどんはさぬきうどんが一番だなあ。こしがあってとっても美味しかったよ」
「優香、この鏡を見てごらん」
「大丈夫だよ。ゆっくりと見てごらん。そこに映っているのは優香だよ」 (そろそろ正紀さんが来る時間になるのじゃないかしら) 立ち止まって、左の手首に入れた触読式時計の蓋を開けて、右手の人指し指で少し盛り上がった時計の針をみた。 (七時十分か。急がなくては)
そう思いつつ、帰り道にあるスーパーに寄って夕食の材料を買って家へと向かっていた。治療院から家までは、四百メートルくらいしか離れていない。
パチンコ屋の前には、無造作に自転車が置かれているので、いつもであれば気を付けて歩道の端の方を歩いていた。今日は帰りを急ぐばかりに、注意が足らなかった。 優香は、情けなさに涙がこぼれてきた。買い物袋や杖もどこまで転がっていったのか、周囲を手でなぞってみたが無い。歩道には、人の気配があった。優香の姿が見えないかのように、みんな急いで遠周りに足音が消えていく。
「すみません。どなたか、手を貸していただけませんか」
「どうしたんだ。大丈夫か。顔から血が出てるじゃないか」
「それは、怖かっただろう。もう大丈夫だから」
「どうしたんだ。帰ってからも何も言わないで。優香にとってショックだったのは分かるけれど」
「いつもの優香らしくないぞ。僕は、前にも言ったけれど、盲人としての優香に心を引かれたんだ。いつも、少しでも支えになってあげられればと思っている」
「優香が好きだ」 「おまえか。家の息子を騙して同棲している女は」 突然の言葉に返事ができない。一緒に暮らしていることは、どちらの両親にも伝えていなかった。しかし、正紀の母親が最近正紀から電話がかからないので病気でもしているのではと案じて、借りていた家主に問い合わせの電話をして分かったとのことであった。優香の怯えた様子に、正紀が受話器を取った。父親の怒りは治まらず、別れないのであればこれからは送金をしないと言って電話を切ったとのことだ。それは、優香が受験を一ヵ月後に控えた時のことであった。優香は正紀の父親から電話がかかってから、このまま受験をするかどうか悩んだ。 (正紀さんとは別れたくない。やっと見つけた愛だもの、失いたくない。このまま今の生活を続けるのであれば、正紀さんが大学を辞めないですむようにしなくてはいけない。そのためには、私がもっと働いて学費を出してあげなくては) 優香は大学へ行くことを諦めた。その事を正紀に伝えた。正紀は、優香の話を遮った。
「大学に行って、臨床心理士になるのが優香の夢じゃないか。僕の学費のことなら心配しなくてもいいよ。これからバイト先を捜して働くから」
「それに、私は生みの母は私を生んで直ぐに死んでしまったの。その後は、祖母が生きている時は大切にしてもらったけれど、義母に虐められて愛の無い生活をしてきたの。そんな中で、いつも孤独で寂しかった。だから、私にとってこの世で一番大切なのは正紀さんの愛なの。私は、今の幸せを失いたくない」
「そんなに、僕の事を想っていてくれて嬉しいよ。だが、優香には臨床心理士への夢を叶えさせてやりたい」
「ほんとうに、それでもいいのか」 優香は大学へ行くことを諦めてから、仕事の時間を二時間延ばしてもらった。正紀も、アルバイトを始めていた。なかなか二人で出かける時間も取れなくなっている。久しぶりに、正紀が友達から車を借りてドライブに連れていってくれる事になった。行き先は、川崎マリエンだった。優香は、こちらに来てから観光ではまだどこへも行ったことがない。正紀が嬉しそうな優香の顔を見て、誘い甲斐があったと喜んだ。
「それはよかった。川崎マリエンは川崎港を見下ろす展望タワーで、市民と港の交流を深めるために生まれたコミュニティー施設なんだよ。タワー棟に隣接してテニスコートもあるんだけれど、優香はテニスはできないよなあ。せめてバーベキュー広場でバーベキューでもお腹いっぱい食べて帰るか」
「優香も、治療院がある所までは道の両側にどんな店舗があるか知ってるだろう」
「優香と乗っていると着くのが早いような気がするなあ。話をしているうちに川崎マリエンに着いたよ」 バーベキュー広場に着くと、家から持ってきたバーベキューセットや肉や野菜などを正紀が準備してくれた。家では何でもできる優香だが、一歩外に出ると勝手が違うので全て正紀にやってもらった。潮風を頬に受けながらの食事は、家とはまた雰囲気が違う。どのくらいの距離があるのか、ボーっという船の汽笛が聞こえてくる。正紀が、皿に次々と肉を入れてくれた。優香は、口に運んだ肉を食べながら思わず言った。
「ああ、おいしい。正紀さんも食べてよ。私の皿の中ばかりに入れて、あまり食べてないのじゃないの」
食事を終えて、展望室への入場券を買って十階へ上がった。展望室からは、川崎港が一望できるとのことである。
「この夜景を優香にも見せてやれたらなあ」 (ほんとうに、 目が見えて正紀さんと全てのことで感動を共にすることができたら、どんなに嬉しいかしら) 優香は見えないことを受け入れて生きていたが、視線の向こうに何も見えないのはやはり寂しかった。展望台の手摺りの上に置かれた優香の手の上には、正紀の手のひらが重なっている。優香の沈んだ様子を見て、正紀が手を強く握り締めた。 (そうだ。私には正紀さんがいるんだわ)
重なった手を通して、温かな愛が心の中を包み込んでくれる。あらためて、正紀の愛の深さを思って胸が熱くなった。
「えっ、花も活けられるのか」
「きちんと花の顔が向かい合っているけれど、どうやって分かるんだい」
「家の中に花があるというのは安らいでいいもんだなあ」
「今日までほんとうにありがとう。お陰で無事に卒業を迎えることができたよ」
「私はこのままでいいの。もしご両親にそんなことを言えば、きっとまた怒られて、今の生活もできなくなるかもしれない」
「まだ、一緒に暮らしているのか」
「確かに、また反対をされるかもしれない。でも、このままでは優香に申し訳ないし。一人の女性として、きちんと籍に入れてやりたいんだ。両親も優しい雰囲気の優香に会えば、きっと許してくれるよ」 晴れた日曜日に、嫌がる優香の手を引いて正紀の家に出向いた。玄関を入って、正紀が奥に声をかけた。母親が、正紀の声を聞いて出てきた。だが、優香が側にいることが分かって怪訝〔けげん〕な声を出した。
「まあ、とうとう連れて来たの。丁度よかったわ。今日はお父さんがいるから、しっかりと言い聞かせてもらいましょう」
優香は、恐怖で身体が震えた。顔が青ざめていくのが自分でも分った。父親は、ドアを開けるなり、
「父さん、そんなに怒鳴らずに僕の話を聞いてくれよ」
「父さんは、無事に卒業ができたのは誰のお陰やと思っているんですか」
「おまえは馬鹿か。こんな目が見えん女となんか結婚をしてどうするんや。正紀の将来に、何の役にもたたん。それどころか、足手まといになるだけやないか。絶対に、結婚には反対やからなあ」
「父さんの言うことは分からないでもない。でも、優香は普通の全盲の女性とは違うんや。料理や洗濯はもちろんのこと、ミシンまで使えるのやから。父さんが心配してるような、日常生活に不便はないんや」
「そんな事どうでもええ。とにかく正紀はこれから高校の教師になれば、どこからでも良家のお嬢さんを嫁にできるのやから。もうごちゃごちゃ言わんと、さっさとこの女を連れて出ていけ」
「ええか、もう二度とその女を連れて来るんじゃないぞ」
「ごめんなあ。やはり、優香を連れて来るんじゃ無かった。優香に辛い思いをさせただけやったなあ」
「父さんはああ言うけれど、僕は別れない。今日の僕があるのは、優香のお陰なんやから」 その夜は、様々な想いで興奮をして眠れなかった。次の日あまりもの悔しさに、長い間ずっと連絡をしていなかった実家に電話を入れた。受話器の向こうで、義母の声がした。電話を切ろうかどうしようかと迷ったが、今の気持ちを誰でもいいから聞いてもらいたくて話をした。
「実は、結婚しようと思うの」
「それ、ほんとうなの。ほんとうに、健常者なの。障害者じゃないのね」 (なんだ、珍しく賛成してくれると思ったら、自分の娘が可愛いだけなのか。厄介払いができると、清々しているんだわ)
義母の言葉に苦笑した。だが、今さら話を止めるわけにもいかずに続けた。
「そう言えば、優香のご両親にも挨拶に行かなくてはなあ。丁度、明日から連休になるので一緒に行って来るか」
「優香の話では、この辺りは田園が広がっていると言っていたけれど、結構マンションが建ち並んでいるじゃないか」
「この辺でも、相続税対策のためのマンションが増えているんだよ。家もマンションを建てようかと思っているんだ」 「この家を出ると言うなら、あんたに家の財産はあげないからね」 (もしかして、義母が結婚に賛成をしてくれるのも、妹の縁談のことだけではなくて、財産を守るためやろか)
玄関を入って、奥に声をかけた。帰るからと電話を入れていたこともあって、両親ともに家にいた。
「優香は目が見えんくせに、えらい男前をひっかけたもんやなあ。鼻は高いし、目も切れ長で、ほんまに素敵な顔をしてるじゃないの」
「そんなあ、男前なんかじゃありませんよ。お母さんも、なかなか口がお上手ですね」 「よかったなあ。幸せになるんだよ」 と言ってくれた。その夜は、久しぶりに実家で寝た。義母が、これまでの性格からは想像もつかないような、きめ細やかな扱いをしてくれる。そして、次の日曜日に正紀の家に挨拶に行くからと言って、玄関まで見送ってくれた。優香は、義母の言葉が信じられなかった。あれ程、子供の頃に自分を虐めた同じ人とは思えない。義母が結婚に賛成をしてくれるのは、妹の利恵の事を思ってのことだと分かっていても嬉しかった。ただ、正紀にまでその事は話してほしくなかった。
「優香が正紀さんのような人と結婚をしてくれると、この子の妹も結婚話がし易くなりますわ」 日曜日になり、両親が出向いて来てくれた。着くなり義母が正紀の家に案内をするようにと急き立てた。おとなしい父親が、ぼそりと言った。
「そんなに急がなくても、お茶でも飲んでからでいいではないか」
「今日はどういったご用件でしょうか」
「ご両親もご存じのように、家の優香とお宅様の正紀さんはすでに同棲をしておりますでしょう。正紀さんも高校の教師という職に就かれて世間体もあることですし、ここらで二人の結婚を認めてやっていただけませんでしょうか」 「それはどういう事でしょう。確かに、優香は目が見えませんよ。でもこう言っては何ですが、この子が小さい頃から、私が躾けて一応なんでもできるようにしているんですよ」 (うまい事言って、苛めて育てただけじゃないか) 優香は、俯いたまま内心で義母の言葉に反論した。正紀の父親も、だんだんと声が荒くなってきた。
「それはどうか知りませんが、とにかく正紀には普通のお嬢さんを貰ってやりたいんですよ」
「こう言っちゃ悪いけれど、正紀さんのお父さんは、ほんとうに頑固ね。私があそこまで頭を下げてお願いをしてるのに」
「こうなれば、あんな親なんかほっといて籍だけでも入れときなさいよ」 両親が帰ってから、正紀が徐に言った。
「明日、二人で婚姻届けを出しに行こう」 優香はその夜、久しぶりに祖母の夢を見た。祖母は、にこやかに優香の背中を叩いて言った。 「よかったね。正紀さんを大切にして幸せになるんだよ」 (そうか、正紀さんとの出会いも、お祖母ちゃんが導いてくれたのかもしれない)
それから、正紀の両親の承諾を得ることはできなかったが、戸籍上でも正紀の妻として生活をした。
「もしかして、妊娠をしたんじゃないか」
「おめでとうございます。妊娠、四ヵ月ですよ」 (こんな私でも、子供を育てられるかしら。もし子供に、親であることを拒否されたらどうしようか) 正紀が帰ってから、不安な気持ちを伝えた。
「何を落ち込んでいるのかと思ったら、そんな事を心配していたのか。優香は、これまでも闇の中でしっかりと生きてこられているじゃないか。心配をするような事はないよ。頼むから、僕の分身を生んでくれよ」
「おめでとう。子供さえできたら、もうこっちのものよ。あの頑固親父も許してくれるかもしれないよ」
「優香も、いよいよお母さんね。初めての出産だから何かと不安だと思うけれど、何か困ったことがあれば言いなさいよ」 「いいね。正紀さんに嫌われないようにするのよ。いくら目が見えないからといっても、少しはお化粧やおしゃれにも気をつかうのよ。でないと、正紀さんだって男だからそのうちに飽きてきて、捨てられるかもしれないわよ。理恵にも縁談話が持ち上がっているのだから、くれぐれもあんたに捨てられないようにしてもらわなくては困るんだよ」 (やっぱり、私が邪魔なだけなんだわ。この人の頭の中には、理恵の幸せのことしか考えて無いんだわ。そのために、私を正紀さんに括り付けておきたいだけなんだわ)
それでも、義母は何かと言っては心配そうに電話をかけてきた。そのお陰で、初めての出産への不安も少しは和らいだ。 優香は生まれたての赤ん坊を触らせてもらった時に、正紀との愛が新たな命を生み出したのだと思うと、喜びに身体が震えた。小さな手の温みが、母親としての意識を身体の奥から引き出させてくるようだ。 (何て、小さくて柔らかな指でしょう) 折れそうな指に触れてから、そっと顔を指でなぞってみた。正紀に似ているのか、やや面長な顔で、鼻が高い。だが、それ以上のことは想像もつかない (せめて顔を見ることができたら、どんなに嬉しいことか) そう思えば、涙が頬に落ちていった。だが、そんな弱気な心は直ぐに消えた。 (これからはこの子のために、どんな事があっても強く生きていかなくてわ) 出産をして、三日目のことだ。看護師に不審そうに話しかけられた。
「先ほど、ご主人のご両親だという人がお子さまを見に来られましたよ」
「でも、部屋には来なかったわよ」 (前から嫁は憎いが孫は可愛いって言うけれど、ほんとうにそうなのね)
優香は思わず苦笑した。それでも、正紀の両親が内緒ででも子供を見に来てくれた事は嬉しかった。
病院の玄関を出ると、秋の風がさわやかに頬を撫でていく。どこからか、金木犀の甘やかな香が流れてくる。右の手のひらを上に向けると、まだ温もりを残した夕暮れの日差しが暖かい。
手のひらに掴んだ日差し ---おわり---
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