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ジッと石化して動かない父、アモン。なんとかして元に戻さなくてはならない。せっかく地獄の最下層まで訪ねてきたというのに、父は何も語らない石像になっていたとは……。愛する父に応えて欲しい。そして、よくきたと誉めて欲しい。辛い旅を続けてきた姉弟の望みはただ一つ。地獄の最下層にある闇牢獄に囚われている父に会いたい。そして、共に天国にいる母を助けに行きたい。それだけであった。しかし、求める父は、自らの意思で石像と化してしまっていたのだった。どうしたら父は応えてくれるのだろう?キラとナナは必至に応えぬ父に向かって叫び続けていた。
「パパ、パパ、パパ、応えてよ!ぼくたち、地獄までパパに会いにきたんだよ!パパ、目を覚まして、ままを助けて、お願い!」 懸命に父に訴える弟。ナナはたまらない表情で魔戦士ゴールズを見た。何か手立てはないのだろうか?もしかして、何か方法が?
「それは、愛する者が懸命に呼びかけ、全身を念でマッサージしてやる他ないのだ。深層意識の底に封じられてしまった悪魔の意識は並大抵のことでは蘇ることはできない。ただ時間をかけて解きほぐしてやるしかないのだ」 「念でマッサージしてやればいいんだね?パパ、パパ、待ってて!僕、一生懸命やるよ。だから眼を覚まして!お願い、早く目覚めて!」 懸命に念を掌に集中し、キラは父の身体をマッサージして行く。しかし、石と化した身体に、念は素通りして行くだけであった。注いでも注いでも抜けてしまう。まるで底の抜けた桶に水を汲もうとしているように無益な作業であるように思える。だが、少年は諦めない。必至で手を当て、自らのエネルギーを与え続けている。額からは汗が滲み、身体は燃えるように熱い。 「キラ、そんなに急激に念エネルギーを放出したら、あんた自身がくたばってしまうよ」 弟の身体を危惧したナナが思わず止めさせようとする。だが、決して止めようとはしない。むしろ、もっともっともっと強くエネルギーを放出するように見えた。このままでは、キラは倒れてしまう。放っておくわけにはいかない。しかし、このままでは弟は止めようとはしないであろう。ナナのできることはただ一つしかなかった。 「あたいもやるよ」 キラの隣に座り、ナナもまた両手に念を集中して、父の身体をマッサージし始めた。まるで南極の氷を小さなライターで溶かそうとするかのような虚しい努力であった。エネルギーを注いでも、注いでも、まるで変化は見えない。だが、幼い姉弟にできることはそれしかないのである。例え、それが無限の時間を必要とする作業であろうと、やるしかないのだ。それも、限られた時間内に。瀕死の状態で母は彼らを待っている。助けるための時間はわずか。焦る気持ちはジリジリと二人の心を焦がして行く。 「パパ、パパ、起きてよ!パパ、起きてママを助けて!」 虚しい作業を続けながら、キラは懸命に呼びかける。しかし、父は応えてはくれない。涙が自然にこぼれ、石化した膝の上に落ちて行った。それは静かに染みとおって行く。ふと石像の顔が緩んだように感じたのは気のせいだろうか?ゴールズは眉間にしわを寄せ、ジッと石化した悪魔を見つめた。しかし、やはり何の変化も見られない。気のせいだったのか。魔戦士はホーッと深いため息をついた。
何か異変が起きている。漠然とした危惧が胸中を騒がせていた。これは一体何なのだろうか?ブラスは臆病者ではない。むしろ、自ら剣を取り、敵と戦うことを喜びとする戦士であった。力と力、念と念、技と技を競い合い、命のやりとりをするのが快楽でさえあった。だが、この言い知れぬ不安は何なのだろうか?地獄が変わる。何もかも変わってしまう。そんな予感めいた恐怖が地獄の支配者を戦かせていた。 「魔王様!魔王ブラス様!」 不意に何物かの声が玉座を貫いた。キッと眉をつり上げ、地獄の支配者は視線を一点に集中する。途端、空中に黒い靄のような物が現れ、やがてそれは悪魔の姿へと実体化した。若い戦士、親衛隊長のルークであった。彼はブラスの勅命を受け、魔天使姉弟を密かに見張っていたはずなのだが、一体何が起こったというのであろうか?不愉快な予感に魔王の表情は一層険しいものへと変化した。
「何事であるか?まさか、魔天使姉弟に何かあったのか?もしや、サーザの手の者に?」
ルークは端正な表情を曇らせ、低く頭を下げる。魔王の表情は更に難しいものになっていた。 「光と闇を纏いし者、現れ師時、天と地の境は崩壊し、天は闇に閉ざされ、地は光に溢るる。」 それは、古より密かに伝えられし闇の伝承。地獄の破滅を予言した秘文と信じられている。だが……魔天使姉弟を知れば知るほど、それが信じられなくなってしまう。地獄の支配者としては、直ちに殺してしまうべきだった。しかし、できなかった。アモンに王位を継がせたい気持ちが躊躇わせたのも事実であったが……。キラとナナ、あの二人の子供を殺すことがどうしてもできなかったのだ。 「わしともあろう者が……」 何度も後悔した。地獄の支配者としては、後々の憂いを断つには魔天使姉弟を即刻殺すべきだったと。しかし、彼が下した決断は”人間界への追放”であった。”最も悪魔に近い人間を見つけたならば、地獄へ戻ることを許す”との条件をつけて。そのような者は存在しないことを知りつつ。何故なら、人間とは……
「魔王ブラス様、準備が整いました。私共々、精鋭一万騎、闇牢獄へ出陣いたします」 不意に思索が破られ、ブラスはギョロリと両眼を見開く。すっかり武装した親衛隊長ルークが各騎士たちを従え、礼をとる。魔王は無言で一度瞑目した。 一刻も早く天国のママのところに行かなくてはならない。そして、彼女を愛する三人の血を与えなくては、死んでしまう。そのためにも、早くパパを蘇らせたい。キラとナナは必死で生体マッサージを試みた。だが、彼らのエネルギーは吸い取られて行くばかりで、何の変化も見ることができなかった。もしかしたら、もう二度と蘇ることはできないのかも知れない。そんな不安が沸き上がってくるのを止められなかった。 「パパ、パパ、目を覚まして!」 懸命に呼びかけるキラ。自分の持っている生命エネルギーの全てを石化した父に向かって放射する。だが、やはり何も起こらなかった。もしかしたら、もう二度と父は蘇らないのかも知れない。ふと、そんな不安が心を侵食する。いや、そんなことを考えてはいけない。もっと、真剣に生体マッサージを行わなくてはいけない。頭を振り、再び作業に熱中した。
「キラ、少し休みな!あんた、顔色が悪いよ。生命エネルギーを使いすぎているんじゃないのかい?」
「少し休むがいい」 ゴールズは静かに少年の身体を横たえた。顔色は蒼ざめ、憔悴は激しい。幼竜のエリオスがキラの脇にすり寄り、心配げに顔を舐めていた。 「ったく、なんて姉弟だ……」 呆れたというように肩をすくめると、腰の水筒に手をかけようとした。が、不意にその手が止まる。瞼がスッとすぼまり、全身の筋肉が張り詰めた。 シュッ!
黒羽の矢が空気を切り、魔戦士の足元に突き刺さる。続く第二、第三の矢が漆黒の鎧を襲ってきた。それを大剣で薙ぎ払うと、ゴールズがカッと第三の目を見開いた。灼熱の赤い瞳が現れ、周囲の大気を切り裂く。
しかし、何処にも避けようのない荒野の真っ只中。どうすることもできない。ただ、石化したアモンの蔭に身を隠すだけであった。ハシパシと矢が石化した悪魔に当たっては弾き返される。 「おおっほっほっほっほっほーっ!裏切り者ゴールズ、今度こそ最後だよ!」 勝ち誇った高笑いが荒野に響く。ハッと身体を強張らせ、視線を泳がす。と、目の前に黒い霧のような闇が沸き出で、やがてそれは悪魔の姿へと具現した。白銀の長い髪、薄紫色の瞳の美しき姿をしてはいるが、酷薄な唇には残忍な笑みが浮かんでいた。
「シュール、貴様、生きていたのか?!」
「さあ、皆の者、裏切り者ゴールズをやっつけておしまい!」
「おーっほっほっほほっほっほーっ!なんとでも言うがいいわ!とにかくお前たちを殺すことがサーザ様のお望みなのだ。さあ、者ども、裏切り者と魔天使姉弟を殺しておしまい!」
大剣がゴーッと風を切り裂き、長剣を叩き折る。ハッと怯んだ双頭の悪魔の首が左右に分かれて飛ぶ。だが、胴体は構わず、折れた長剣を魔戦士に向けて振り回す。そこへ大剣が心臓を貫き、ドーッと倒れた。鮮やかなゴールズの剣さばきに、周囲の兵士が思わず息を呑む。
シュールが白銀の髪を逆立て喚き立てる。一瞬、怯んでいた兵士たちの顔にも、威勢が蘇った。言われてみればその通りである。一対二百、どう見積もっても、ゴールズに勝ち目はない。一時に襲い掛かれば、倒せるに違いないのだ。
勢いを受けた兵士が四人、四方から躍りかかった。前方から竜頭の兵士が大剣を兜割りに振り下ろす。左右からは鬼面の兵士が長槍を真っ直ぐに突っ込んでくる。背後には、半人半羊の兵士が三叉の矛で狙っていた。
「グッ!」
「なんと……」 シュールが絶句する。明らかにゴールズの最後だと確信していただけに、驚愕は凄まじかった。
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突如、消えた魔戦士ゴールズ。一体何処へ?兵士たちは恐慌に陥っていた。誰しもが、戦士としてのゴールズの豪名を聞き及んでいる。たった一人で何十人もの敵を倒したという伝説にも似た恐るべき魔戦士なのだ。よもや二百人もの兵士相手に倒されぬはずはないと思っていたのだが、あっと言う間に五人もの兵士が殺られたことによって、抑えられていた恐怖が再燃してきたのである。
「ええーい!何をしておる!さっさと裏切り者ゴールズを見つけぬか!」 シュールがヒステリックに叫ぶ。しかし、そのようなことを命令されても、姿が見えないのではどうしようもなかった。
「どうした?!」 問うまでもなく魔戦士ゴールズの仕業であることは明白である。だが、如何にして?動揺が兵団を襲った。姿も見せず、敵を倒す。これが魔戦士と呼ばれる所以であった。
数においては絶対の優位にありながら、恐慌を起した兵団は、ただの群集と化していた。右へ左へと逃げ惑う兵士たち。次々と上がる悲鳴と血飛沫が恐慌に油を更に注ぐ。もはや、誰もシュールの命令など耳に入らなかった。 喉も枯れよと怒鳴る。だが、混乱を極めた集団はもはや収集がつかないほど思考力を失っていた。己の隣にいる者がゴールズではないかと、恐れ、近づく者に大剣を振るう。その相手も、奴めこそはゴールズかと槍を突き出していた。壮絶な相討ちが始まる。そのような相討ちを裂けようと、集団から抜け出した兵士もいた。だが、ホッと安堵した途端、不意に現れた魔戦士に両断される。ゴールズは巧みに、兵士たちの中を駆け抜け、大剣を振るって混乱を加速させていた。
「ええーい!情けない奴らだ!敵はたった一人だというのに!」 突如、一団の頭上から雷鳴のような大声が轟いた。一瞬の沈黙。ハッと上空を振り仰いだシュールの表情が凍りついた。上空には不吉な闇色のドラゴンの大群が浮かんでいる。中心にいるのは一際巨大なドラゴン、アアギラオ。黒曜石の鱗を輝かせ威風堂々と宙に浮かんでいた。その背には輝く黄金の髪をなびかせた痩身の悪魔が鎮座している。かっと見開かれた瞳は酷薄な銀色であった。
「サッ、サーザ様……」 「シュール、役に立たぬ奴」 冷徹な声音が大気を凍りつかせる。シュールは弾かれたように平伏した。だが、サーザの銀の瞳は何の感情も示してはいない。まるで不要になった玩具でも見る子供のような視線を送るだけであった。
「裏切り者など放っておればよいものを!」
「しまった!」
「出てこい、ゴールズ!ガキ共の命はないぞ!」
姉弟たちは口々に叫んだ。しかし、そう言われておめおめと逃げる魔戦士ゴールズではない。口惜しいが観念するしかないのだ。
「あっ!」 強烈な衝撃が少年の手を痺れさす。同時に宙を舞う剣。それはクルクルと円を描き石化した悪魔の腕の中へと落ちた。もはや絶体絶命か。
「……何故だ……?」 深々と自分の胸に突き刺さった大剣を不思議そうに見つめるゲノン。ザワと兵士の群れが割れ、双角の戦士が姿を現わした。
「随分と卑怯な真似をするじゃねえか。それでも、オレと並び評された騎士バーモンか?」 だが、剣先が頑丈な鎧を貫こうとする瞬間、鋼鉄の膝当てに護られた膝が跳ね上がり、魔戦士の腹を襲撃した。紙一重の差で、バーモンの心臓から大剣の切っ先が逸れる。隙を見逃さず、横一文字に長剣が戻ってくる。カシンと二つの剛剣が火花を散らした。次の瞬間、二人の戦士はパッと左右に跳び離れた。全くの互角。凄まじい闘気が二人の間で激しく激突しているのが、幼い魔天使姉弟にもありありと判る。
「ええーい!皆の者!何をボンヤリと見とれておる?!弓隊、さっさとゴールズを射なぬかーっ!」
「申し上げます、サーザ様。今、矢を射ては、見方の騎士バーモンに当たってしまいまする」
「弓士隊、一斉攻撃!」
「サーザ!」 ハッと二人が空を仰ぐ。ゴールズの目は怒りに燃え、バーモンの瞳は驚愕に見開かれていた。味方もろとも殺そうとするとは!
「翼よ!」
「王甥サーザ、貴様のような悪魔に使えていたとは、騎士バーモン、一生の恥。汚名をそそぐには、貴様の心臓をえぐり出し、魔神ルシファーに捧げる他ないわ!」 「サーザ、殺してやる……」 かっと見開いた両眼に憎しみの炎を燃え立たせ、騎士バーモンが長剣を振り上げる。サーザは凍りついたように動けなかった。次の瞬間には、その長剣によって両断するであろうことは、誰の目にも明らかであった。 「……」 殺される。恐怖に心臓をつかまれ、サーザは銀色の瞳を閉じた。トクトクと脈撃つ音が大きく聞こえる。もはやこれまでか?覚悟した王甥は呼吸を止めた。だが、予想していた長剣は振り下ろされる様子がない。どうしたことだ?恐る恐る瞼を押し上げると、真っ赤に凝視した瞳が己を見下ろしていた。唇はめくれ上がり、両端からは鋭い牙が剥き出しになっている。世にも恐ろしげな形相であった。しかし、長剣は振り上げられたまま、微動もせず固まっている。一体、何が……?
「サッ、サーザ様、死んでおります」
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騎士バーモンの壮絶な死、一千人にも及ぶ悪魔たちは凝然と無数の矢に貫かれてもなお立ち続ける偉大なる騎士を見つめていた。そして、そのような騎士を見殺しにし、敵もろとも射よと命じた主を侮蔑を込めて見下ろしていた。なんという情けない者に使えていたのであろう?誇り貴き騎士たちの心中にぽっかりと空虚な風穴がひらいてしまっていた。
「もっ、ものども、何をぼんやりとしているのよ!そのような血迷った愚か者などどうでもよいわ!ゴールズを伐つのよ!奴も矢を受けて負傷しているはずよ。殺るなら今だわ!」
「いないぞ!」 ザワと悪魔兵士に動揺が走る。またも魔戦士を見失ってしまった。おまけに、今度は魔天使姉弟の姿も見えない。 「ええいーっ!何をもたもたしておる!」 竜に騎乗したサーザの叱咤が悪魔たちを焦らせる。シュールも度重なる失態を今、取り戻そうと懸命に周囲を眺め回す。と、何かが石化したアモンの足下で動いたような気がした。何だろうと、用心深く近づいて行く。
「シャーッ!」 サーザが軍竜の背から叫ぶ。弓士が慌てて弓に矢をつがえた。だが、猫とカラスは別々の方向へジグザグに逃げるため、なかなか狙いを定めることができない。右往左往する兵士たちのただ中へと駆け込み、混乱させた。重い鎧に包まれた巨体の悪魔兵士たちは、ちょこまかと逃げ回る猫とカラスに翻弄され、混乱は収拾がつかないほどだ。おまけに、先ほど、主が仲間の騎士もろとも矢を射かけるようにと命令を下したことが脳裏を過ぎり、自分たちも矢の標的にされるのではないかという恐怖のため、益々平常心を失ってしまっていた。
「なんという愚かさだ」 サーザが苛立つように吐き捨てる。 「なっ……?」 シュールの薄紫色の瞳がカッと見開かれる。そして、信じられないとでも言うように自分の左胸を見つめた。大剣が深々と柄の部分まで突き刺さっている。ジワッと滲み出る鮮血が胸を赤く染め、ポタポタと滴り落ちて、地面に血だまりをを作って行った。シーンと静まり返る大気を切り裂いて、ザッと大剣が引き抜かれた。勢いよく迸る鮮血、そしてたった今、シュールが蹴り飛ばした骸がむっくりと起きあがってくる。手には血染めの大剣が握られていた。
「ゴールズ……」 血の気を失った唇が相手の名前をつむぐ。魔戦士ゴールズと。矢を射かけられ、傷ついた身体を休めるため、骸に化けていたのだ。
「弓士隊、三人を射よ!」
「子供たち、オレはお前たちと旅をして楽しかったぞ。人生最後を充実させてくれてありがとうよ」
「おじちゃん……」
「やっ、奴を射落とせ!」 恐慌に陥ったサーザが狂乱して叫ぶ。弓士隊は、バーモンの時と同じように、矢をつがえ、射ようとした。
「嫌だ!おじちゃんを見殺しになんかできない!」 唇を噛みしめ、涙をためた瞳で姉をにらむキラ。その気持ちはナナとて同じである。だが、彼らは今ここで死ぬわけには行かない。父と共に天国の母を助けなくてはならないのだ。
「ふっふっふっふっふ、逃がしはしないよ、魔天使姉弟」 ユラリと起きあがった銀髪のシュール。鮮血に染まった胸には、そのまま空洞ができあがっていた。弱点である心臓を何処か他に隠していたのである。卑怯者の男にふさわしい、用心深さであった。
「キラ、危ない!」 ナナの短剣がかろうじて痩身の刃を弾き飛ばした。しかし、弾力性に富む痩剣は反発した勢いのまま、ナナへと襲いかかる。ああっと声と共に、短剣がたたき落とされてしまった。
「なぶっていないで、殺しなよ」 怒りの瞳で銀髪の悪魔をにらみつけるナナ。だが、シュールは捕らえた鼠をいたぶる猫のように、切っ先で少女の白い肌に赤い筋をつけて行くだけであった。痛みに唇を噛むナナを見て、シュールは楽しげに笑い声を立てた。
「おじちゃん!」
「サーザ様!」 親衛騎士団長が咄嗟に主人の上にかぶさる。
「そっ、それで私を倒したつもりか?」 親衛騎士団長の骸の下から声がする。ハッとなるゴールズ。まさか……?
「死ねーっ、ゴールズ!」 騎士隊の一人が、団長の仇と、長剣をゴールズの背中へと突き立てた。
「おじちゃん!」
「ナナ!」 キラは七光剣を持ち直し、身構える。しかし、細身の剣の刃先は姉の喉元にある。少しでも動けば、ナナの命はない。 ここまで一緒に旅してきた魔戦士ゴールズを失い。ナナもまた失うことはできない。なんとしてもナナを助ける。決意は少年の身体に微妙な変化を加え初めていた。額の環に取り付けられた、紺碧にも、ルビー色にも、エメラルド色にも見える宝玉がサーチライトのように輝いている。それは輝きを増しつづけ、ついには太陽のように強烈な眩しさで周囲を圧倒した。銀髪のシュールも思わずたじろぎ、一歩後退する。 「あれはキラの力を封印した……」 ナナは思わず息を呑んで弟を見つめていた。額の環に納められた宝玉は、彼らが地獄へ降りてきた当初、地獄を嫌ったキラが自身をも嫌い、己自身を己の魔力で傷つけてしまうことを防ぐため、アモンの乳母であったゾーラがキラの力を封印したものである。ゴールズを殺された怒りと、姉を助けようとする力強い思念が宝玉に変化を加えているのかも知れない。
「だめ!キラ、それ以上魔力を使ったら、キラ自身も傷ついてしまう!」 ナナが絶叫した。あの時の恐怖は忘れられない。地獄を嫌い、己自身を嫌って死にそうになった弟。もし、ゾーラの呪を破ってしまったら、またキラの魔力は自分自身を傷つけてしまうかも知れないのだ。 「ええいっ!臆病者めら!たかが子供一人、何を恐れるかーっ!倒せ!弓士隊、矢を射よ!」 サーザが怒気をはらんだ声で叱咤する。しかし、太陽のように光輝くキラに畏れをなして、弓士も怯えてしまっていた。 ”闇を纏いし者、現れし時、天と地の境は崩壊し、天は闇に閉ざされ、地は光に溢るる。” 今こそ闇の伝承が権限するのかも知れない。恐怖が全員の脳裏に響いた。それは、地獄に伝わる終末の予言。それこそが、アモンたち親子に災難をもたらした呪いの秘文であった。
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闇牢獄から少し離れた風の妖精の村では、シルフィーが集めてきた薬草の束を念入りに分けていた。毒消しの草、猛毒の殺人茸、吸引するだけで痺れさせてしまう黒すみれの種、等。 「母ちゃん!大変だ!」 いきなり小さな妖精が慌てふためいて飛び込んでくる。シルフィーは眉をひそめ、そちらへ顔を向けた。
「ユーリー、なんですか騒々しい。私は今、大切な薬草を仕分けしているところなんですよ。少しはおとなしくできないの?ユーリーと同い年のキラくんは、お母さんを助けるため、お父さんを捜して恐ろしい闇牢獄まで行ったというのに……」
「さっき、旅人が噂していたのを耳にしたんだ。王甥サーザが軍竜に乗って闇牢獄の方へ向かっているのを見たって」
「こうしてはいられないわ。みんなを集めて!」
「おうっ、シルフィー、やっときたか」 村長が、顔を見るなり、難しい表情でうなずく。すでに集まっている村人たちも、シルフィーと同じく武装した出で立ちであった。皆、心は同じというわけだ。
「では、すぐに闇牢獄に向かって出陣だ」 村長の号令に全員がうなずいた。
「でも、キラはオレよりも子供なんだぜ。それなのに、戦っている」
「なっ、なんなのよ?この光は?!」 あまりの力強い光の渦に、たじろいだシュールが主人のサーザを仰ぎ見た。だが、サーザとてこのような圧倒的な力を見せ付けられたことはなかったのだ。
「よくも、おじちゃんを!許せない!」 キラは七光剣をシュールに向けた。途端、強烈な光の刃が伸び、銀罰の悪魔の身体を微塵に吹き飛ばしてしまった。 だが、キラの発する力は、かつて見たこともない異質な力であったのだ。それは、地獄の住人が自然に恐怖する神の力を感じさせるものであった。光に満ちた天界の住人が発する力。光を疎い、闇の世界に生きる悪魔にとっては災厄そのものともいえた。 「光と闇を纏いし者、現れし時、天と地の境は崩壊し、天は闇に閉ざされ、地は光に溢るる」
誰かが叫ぶ。それはかつて地獄で密かに伝えられた予言の一説であった。誰しもが、今、自分たちが見ている光景こそ、その予言の顕現であると信じた。 「くそっ、役立たずの竜めが!」 忌々しげに吐き捨てると、サーザは竜の背から飛び降りた。光の塊そのものと化したキラから無数の光の矢が四方に向けて飛び出して行く。ヒュンヒュンと黄金の矢は兵士、騎士に分け隔てなく襲いかかり、相手を消滅させた。恐慌に陥った兵士、騎士は逃げ惑い、先を争って遁走し始める。もはや千を越す圧倒的数の有利も、彼らには関係のない事実であった。
「ええーい!この臆病者めら!逃げるでない!相手はたった一人、それも年端の行かない子供なのだぞ。それでも、栄えあるサーザ兵団の兵士か?地獄を震え上がらせた竜騎士団か?!」
「サーザ、お前だけは許さない!」
「今まで犠牲になった人たちの悲しみと恨みを思い知るがいい!」 重々しい口調でキラが言い放つ。だが、剣を振り下ろそうとはしなかった。ジッとにらんでいるだけなのだ。あまりにも長い間の沈黙に、サーザが不信げに視線を上げた。何故かは理解できないが、少年の顔には苦悶が表れていた。 「……」 サーザを殺さなくてはならないのは、判っていた。殺さなくては、殺される。父母を陥れ、自分たち姉弟を人間界に追放するように仕組んだ悪魔。大切な親友、ゴールズを殺した憎き敵だ。母が天国で生死の境を彷徨うはめに陥ったのも、サーザの陰謀によって、姉弟が危険にさらされているのを見かねた母が自らの風切り羽を引き抜いたためなのだ。彼らの全ての不幸は、この男のせいだと言っても過言ではなかった。 しかし、キラの身体に流れる天使の血が怒りに任せた殺戮を許さない。敵を傷つければ傷つけるだけ、キラの心身も傷つく。魔女ゾーラの呪によって封印されていた天使の力が発動してきた今、サーザに向けられた怒りと憎しみは、合わせ鏡のように自らにも降り注いでくる。
「そっ、そうか、判ったぞ!貴様の力、悪魔と天使の力が体内でぶっつかり合っているのだな?!だから、思うように動けなくなってしまったのだ!」 今まで恐怖に引き攣っていたサーザの顔に冷笑が浮かぶ。正確とはいえないが、鋭い読みだ。相手の弱点は決して見逃さない、サーザらしい読みであった。 「キラーッ!早くサーザに止めを!」 ナナが絶叫する。だが、キラは動けなかった。宿敵サーザを殺さなくてはならないと思う気持ちは逸るのだが、身体が動かないのだ。怒りと憎しみは、天使と悪魔の混血であるキラの天使の心を痛めつけ、身体をも破壊させる。心も身体もバラバラになりそうだった。そんな葛藤が爆発的だった光の力を弱めたのか、太陽のように光り輝いていたキラの周囲から輝きが消えて行った。
「ふん、たたのコケオドシだったようだな」 すっかり輝きを失ってしまい、ガックリと膝をついた少年を、サーザは嘲笑った。 「おいっ、このガキを始末しろ!」 危機を脱したと判断して、戻ってきた兵士に命じると、サーザは大空高く舞っている軍竜に降りてくるようにと合図を送った。竜はフワリと巨大な影を地上に映す。一瞬、暗くなった地表で、兵士のかざす剣が光る。次の瞬間にはキラの首が地面に転がっているに違いなかった。
「キラーッ!」 ナナが絶叫する。
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地獄の大気を震わせて、断末魔の悲鳴がナナの鼓膜を直撃した。同時にエリオスの悲愴な鳴き声も聞こえる。ずっと苦難の旅を共に歩んだ弟。まだ幼くて、母親を恋しがり涙していた可愛い少年だった。そのキラが今、悪魔兵士の剣の犠牲に。
「キラーッ!」 歯を食いしばり、弟の名前を絶叫する。
「パパ……?」 ナナの眼が、信じられないものを見て、飛び出さんばかりに見開かれていた。大剣を引抜く逞しい腕。分厚い筋肉の盛り上がった胸、キリッと吊り上がった黒曜石の瞳。闇牢獄に囚われ、精神を破壊しようと襲い掛かる幻想から己を護るため、石化してしまったはずの父、アモンであった。 「パパ……どうして……?」 キラは、信じられないものを見たように、眼を大きく見開いた。本当に父、アモンなのだろうか?あんなに一生懸命に呼びかけても、変じもしてくれなかった石化した父。生命エネルギーを使ってマッサージをしたにも関わらず、石化したまま動かなかった父。それが今、目の前にいて、強い力で抱いてくれていた。
「ゴールズが死んだお蔭で、オレは復活することができたのだ」 「闇牢獄に囚われたオレは、次々と襲ってくる妄想と幻影からみを護るため、石化した。だが、完全に石化する前、幽体の一部を飛ばしたのだ。そして、サーザの部下、ゴールズが眠っている間に、乗り移った。だが、ゴールズの精神は強靭で、逆に飲み込まれてしまい、意識下に押しやられてしまった。それで奴を自由に動かすことはおろか、逃げ出すこともできなくなってしまった。無理矢理にでも動かそうとすればできたかも知れぬ。だが、あえてそうはしなかった。オレは地獄では罪人であったし、サーザの悪企みも知る必要があったからだ。お蔭で、お前たちを助けることができた。ゴールズはサーザの部下とはいえ、本当の戦士だった。だから、まだ幼いお前たちを殺すことには躊躇いがあり、サーザも主人であるというだけで、決して従いたい悪魔ではないという思いを持っていたから、サーザを裏切らせることは簡単だった。実に惜しい男だった。生きてまみえることがあれば、互いに高めあえる相手になったに違いない男だったのだが……」
よくは理解できなかったが、父がゴールズの中で自分たちを護っていてくれたことだけは判った。始めは殺そうとしていたゴールズが、何故か急に自分たちを助けてくれたのも、父が後ろにいたからなのだろう。
「ママが……ママが天国で待ってる。あたいたち三人の血が必要なの。死にそうなの……」 「へっ、兵士共、何をしておる!早く反逆者アモンを討ち取れ!奴こそは地獄を破滅に追いやろうとしている反逆者だ!」 遠巻きに取り囲んでいた兵士、騎士が互いの顔を見合わせる。反逆者アモン?だが、アモンといえばかつての第一王位継承者。そして、地獄一と謳われた勇者である。その勇者に剣を向けることに動揺したのであった。
「早く討て!アモンを殺せ!」 金髪を逆立て、サーザが怒鳴る。
指差す方向に視線が集中する。それは武装した要請の群れであった。中心にいるのは黄金の風の妖精シルフィーである。彼女の弓弦は、いまだ振動を止めてはいなかった。
「シルフィー!きてくれたんだね」 アモンの腕に抱かれていたキラが飛び出し、風の妖精に抱きつく。つい数日前に別れたばかりなのに、なんと懐かしいのだろう。妖精たちは、次々と地上に降り立ち、アモンと子供たちを守るように取り囲んだ。 「騎士団、奴らを蹴散らせ!」 恫喝だけでは妖精を退かせることはできないと判断した王甥は、ヒステリックに騎士団に命じた。だが、いくら武装しているとはいえ、妖精は儚い種族、栄誉ある騎士が殺したとして、決して誉れとはいえない。むしろ、恥じとさえいえるのである。戸惑いが、騎士の戦意を挫いてしまった。 「ええいーっ!何を躊躇っておる!早く、妖精共を殺してしまえ!」 しかし、騎士も、兵士も命令に応じようとはしなかった。恥を知る者であれば、無力な赤子のような妖精を討つことなどできはしない。できるとすれば、サーザやシュールのような卑劣な悪魔だけである。その一人、シュールはすでにキラの怒りの前に消滅してしまっていた。 「くっ、腰抜け共が!それならば、軍竜よ、奴らを皆殺しにしろ!」 業を煮やしたサーザが竜たちに命令した。サーザ騎士団の騎乗するドラゴンは、竜族でも最も苛烈な黒竜である。彼らが本気で怒れば、火炎を吐き、雷鳴を呼ぶ。ひ弱な風の妖精など一溜まりもないであろう。しかし、竜たちは命令に従わず、ボンヤリと視線を空に彷徨わせていた。中には、うずくまったまま眠り込んでいる者さえいた。
「なっ、何事だ?!栄えあるサーザ騎士団のドラゴンともあろうものが、戦場で眠るとは!」 銀の瞳が怒りにカッと燃え上がった。掌から電光を発し、ドラゴンを叱咤する。しかし、どの竜も反応は鈍い。
「うふふ、キラくん、大丈夫よ。エリオスは私たちが撒いた竜眠草の花粉で眠っているだけだから、時間が経ったら目覚めるわ」
「どうやら、騎士も兵士も、竜ですらお前を見捨てたらしいな」 相手は地獄一の勇者、アモンである。力だけでは到底敵わないことは、彼自身がよく判っている。なんとか防ぐ術はないものか。アモンを牽制しながら、思案をめぐらせる。騎士も兵士も、アモンの勇名と、かつての第一王位継承者であるという事実に、臆してしまっていた。もはや、部下は役に立たない。とすれば、自分自身の力でなんとかするしかない。 「アモン、私が悪かった!ゆっ、許してくれーっ!」 突如、サーザが地面に這いつくばり、哀願した。呆気に取られる一同を尻目に、懸命に命乞いを始めたのである。王甥であるという誇りも、王位継承者であることもかなぐり捨て、ひたすら命を惜しむ姿は醜悪でさえあった。
「ちっ、このような男が宿敵であったとは、情けなくなるわ!キラ、ナナ、行くぞ!こんな奴の血で、吾が大剣を汚す必要もなかろう」
「油断したなアモン!死ね!」
その矢のお蔭で、サーザの短剣の切っ先が狂い、アモンの心臓から逸れ、腕をわずかに傷つけただけで済んだのである。しかし、一体誰が矢を放ったのだろう。風の一族はサーザの前方にいたのだし、アモンと子供たちは背を向けていたのだ。
「ユーリー!」
「えへへ、これで貸し借りなしだぜ!」
「さあ、キラ、ナナ、天界へ行くぞ!ママが待っている!」
何気なく空を見上げたシルフィーが叫び声を上げた。驚いて指差す方向を見る一同。天空の雲の割れ目から虹いろの光の柱が降りてきていた。あれは一体……?
姉弟ははっと互いの顔を見合わせる。しかし、こんな地獄の最下層に天使の声が聞こえるはずがない。だとすれば空耳か?
不意に大天使の声が途絶えてしまった。天界から地獄界へ遠話を送ることは、そうとうの力を必要とする。百人の天使の力をもってしても、たったあれだけの遠話を送るのが精一杯だったのだろう。
「行くぞ!」 アモンが背のコウモリの翼を広げ、柱を目指して飛翔した。キラとナナも続く。急がなくては、柱が消えてしまう。三人は力の限り翼をはためかせる。地獄の大気が重い重油のようにまとわりつくようだ。恐らく、地獄と天界を繋いでいる空間を越えているため、普通以上の抵抗を感じるのであろう。
「ああっ、虹が消える!」 絶望の叫びが、見ていた妖精の口から漏れた。その時、三人の姿が虹の端に届く。とたん、彼らの姿が虹とともに消失した。 魔王宮の玉座で、ブラスはジッと瞑目したまま、親衛隊長ルークの報告を聞いていた。王甥サーザに狙われ、利用されようとしている魔天使姉弟を捕らえよとの命令を受けて、闇牢獄に向かったルークであったが、到着した時はすでに遅く、復活したアモンと共に魔天使姉弟は天国へと旅立った後であったと言うのである。
「……」
「サーザはアモンと共に魔天使姉弟を殺そうとしたのか?」
魔王は組んでいた腕を外すと、ニヤリと笑った。 ”光と闇を纏いし者、現れし時、天と地の境は崩壊し、天は闇に閉ざされ、地は光に溢るる。”
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